全7件 (7件中 1-7件目)
1
スコットランドの高地地方のゲールで語り継がれてきた古歌集で、3世紀のフィン王の息子オシァンが高齢で失明した後、息子オスカルの許婚で立琴の名手のマルヴィーナに一族の戦士たちの思い出を語り聞かせて、マルヴィーナがそれを後世に残したものと言い伝えられているらしい。訳者のあとがきによると、シェイマス・マクヴーリッヒ(ジェイムズ・マクファソン)が古代ゲールの文化の中心地のヒブリディーズ諸島で古歌を筆写したり古筆写本を集めて翻訳して、1762年に英文オシァンを出版したら欧米で大反響を呼び、スウェーデンやノルウェーの王室では王子にオシァンの人物名の名前をつけたとか、ナポレオンが戦地でオシァンを愛誦してパリの大学にケルト学部を作ったとか、ゲーテがオシァンに傾倒して『若きウェルテルの悩み』に取り入れたとか、アメリカのトマス・ジェファソン大統領がオシァンを愛誦して原語で読みたくなってゲール語を勉強し始めたとか、欧米でケルト人気がおきてロマン主義に多大な影響を与えたようである。オシァンが有名になるとオシァンが実在の人物か否かという点が論争されて、イギリスはジェイムス6世が高地地方のゲールを弾圧していたのでそこから世界的名著が出ては困るのでオシァンはマクファソンの創作だと主張して、アイルランドはオシァンはアイルランドの古歌の盗作だと主張したようだけれど、双方の主張には政治的意図が絡んでいるので、日本人読者としてはオシァンで歌われた内容が事実か否かということはひとまず置いて、ケルト的な武勇伝の雰囲気を素直に楽しむのがよいかもしれない。戦場で泣いているやつを役立たずだといって鎧を剥ぎ取ったら女だったとか、敵を殺す際にも相手の武勇伝を残すことを約束するとか、漫画のネタみたいなロマン的な面白さがある。個人的にケルトがおっぱい星人だった点が面白かった。女性を描写するときの言葉が白い胸、高い胸、雪の胸乳、柔肌の胸、豊満な胸とかで、やたらと胸を強調している。ケルトはシーラ・ナ・ギグという女性器の彫刻を城や教会に魔よけとして飾っていて女性器が神聖視されているのは知っていたので変な性癖でもあるのかと思ったら、普通に髪、色白、柔肌、胸を女らしさの特徴としてとらえて褒めているようで、その辺は現代人の女性観とあまり変わらない。あとウホルノの軍勢はウホウホ言いながらいろいろなものを掘っていそうな感じがして、腐女子にうけそうだなと思った。どんな名作でも阿呆が読んだら阿呆な感想しかでてこないものだと我が阿呆ぶりに呆れてしまう。★★★☆☆
2017.03.30
コメント(0)
パリのベルムネ・ジュン画廊三代目当主の著者が印象主義者を支援した両親の思い出を語った本。印象派を擁護した劇作家ジョルジュ・フェイドー、劇作家トリスタン・ベルナール、俳優サッシャ・ギトリイ、画商アンブロワーズ・ヴォラールの人となりとエピソード、印象派の画家たちのエピソードが書いてある。画家との親しさによって文章量はばらばらで、ボナールについては詳しく20ページ以上書いているけれど、ピカソ、モルガン=スネール、シニャック、キゼなどは1ページ程度でたいしたことは書いていない。著者の両親は画商として芸術家と交流して芸術のために戦い、早くからその筋に賞賛されたり政府の賞を受けた画家を警戒して、真摯な芸術というきびしい道を選んだはずの人が贅沢な趣味を持っていて物質的な贅沢に心を奪われていたら創造者とはみなさず、民の声は間違っているので大衆がすぐについてくるのは警告に等しいと考えていたそうな。単なる金儲けのための画商にならず、権威主義にならず、自らの審美眼で優れた芸術家を発掘しようとする姿勢はよい。著者が両親から聞いた話を書いているのでエピソードは断片的だけれど、ドガが女嫌いで女をぶさいくに描いていたひどい人物だとか、ロダンは下彫り工がおおまかに彫った石を仕上げただけで名声を得るために名士との待ち合わせにわざと遅れて自分を印象付けていたとか、トゥールーズ=ロートレックが死んだときに父親はパチンコで小石を撃って死体にたかるハエを迎撃していて親子そろって変人だったとか、ボナールは嫉妬深い悪妻マルトのせいで交友を制限されたとか、直接画家に会った人の内輪の話ならではの人物像が見えるので、印象派の画家について伝記的なことを調べている人には読む価値があるかもしれない。美術史的な一般知識を知りたい人は他の本を読んだほうがよい。さて世界では印象主義がもはや古い芸術として扱われている一方で、日本では印象主義が今でもなお大人気だけれど、これは日本人が芸術のトレンドを理解していない芸術オンチだというわけではないだろう。日本人は自然の美に対して鋭敏であるがゆえに、印象主義の風景画に描かれた風景の美に感応するのだろうと私は思う。印象派の先駆者となったモネはジャポニズムの影響を受けていて日本びいきだし、日本人が印象派びいきになるのも当然である。それに日本人は任侠好きなので、虐げられていた芸術家がついに認められる話は日本人にうけるのだろう。厚切りジェイソンみたいな日本についてろくに知識が無い傲慢なアメリカ人は他の国にも四季があるよと言って日本人の四季自慢を馬鹿にしているけれど、芸術的な観点から見るとアメリカには四季がない、言い換えると自然現象としての四季の気温と天候の変化はあってもその四季の特徴を美としてとらえて理想化する感受性が乏しい。日本では自然を司る八百万の神々を敬い怖れるとともに自然の美を意識していて、俳諧連歌で四季折々の感動を表現して、花鳥風月を掛け軸や屏風に描いて、庭に自然の姿を模した日本庭園を造り、季節ごとに着物の文様が違ったりして、春夏秋冬の自然の美をミニチュア化して日常生活の中で自然を鑑賞して四季の季節感を楽しんできたわけである。かたや西洋では風景画がたんなる背景でなく独立した主題になったのは16世紀のルネサンスのパティニールやアルトドルファーやブリューゲルからで、それ以前は自然に美を見出していなかった。LITERAは「西洋絵画には、ミレーをはじめ四季をモチーフにした絵画がたくさんある」といっているけれど、たくさんはない。そもそもキリスト教では人間は神が人間に与えた自然を支配してよいものとしてみなしているので、自然は神秘的な美の対象というよりは野蛮な未開拓地にある資源でしかなく、大航海時代には船の建造のためにヨーロッパの森林が消失して、産業革命で工業化が進んで自然が身近なものでなくなってしまって、ようやく18世紀以降に自然を意識するようになってヴィヴァルディの「四季」やバルビゾン派の田舎の風景画やターナーの風景画やワーズワースの自然賛美の詩が作られて四季折々の美を意識して自然回帰するようになったわけで、外国に四季を題材にした作品があるから外国にも四季があると言うのは芸術作品が作られた成り立ちを理解していないし、「どこの国にでもあるようなものを自分の国だけのようにがなり立てて」というのは芸術への理解がない発言である。フィンランドの四季とバルビゾンの四季と日本の四季はそれぞれ気温も植物相も違っている別個の四季だし、日本の四季にしても北海道の冬と沖縄の冬はまったく違う冬である。同じ場所でも時代が違えば四季も違うからこそ芸術家は自分が生きた時代の自分が生きたその場所にしかない唯一無二の四季の瞬間を観察して作品に描いて後世に残すわけで、どこの国にでもあるような観念上の四季を適当に想像で描いたのではない。LITERAがミレーを引き合いに出すならミレーが描きたかった18世紀のバルビゾンならではの四季を尊重するべきだろうに逆に「どこの国にでもあるようなもの」として貶めて、ネトウヨと一緒にミレーまでも冒涜している。LITERAは芸術を理解していないくせに「本と雑誌の知を再発見」を標榜しているのだからあきれてしまう。無知の再発見というべきだろう。自然を愛でる文化がある国では芸術作品がちゃんと残っているし、その点ではアジアと欧米ではまったく自然の見方が異なっている。中国や日本では古来から自然の美を観賞して四季折々の特徴を趣きとしてとらえて芸術作品として残した一方で、西洋では16世紀のルネサンス以前は自然をテーマにした有名な芸術作品はないし、もしルネサンス以前の西洋で四季を愛でるような文化があったならば王侯貴族が率先してその文化を保護しただろうし芸術作品として残っていたはずである。厚切りジェイソンがアメリカにも四季があるというなら、いつアメリカ人が四季に美を見出したのか説明してほしいもんである。アメリカで四季をテーマにした代表作はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』だろうに、環境破壊しまくりのアメリカ人がアメリカの四季を日本の四季と同列に語るなっちゅうの。★★★☆☆印象主義の戦い ドベルヒル著(中古)
2017.03.30
コメント(0)
平賀源内の生涯や仕事について解説した本。平賀源内は若くして仕事と故郷を捨てて自由の身になると、国益のために国産の薬草を調達するべく草本学に取り組んで薬品会(物産展)のアイデアを出して日本中の草本学者と交流して、杉田玄白と交友して蘭書和解の夢を語り、平賀の才能に目をつけた貸本屋に頼まれて風来山人として戯作を書き、神田白壁町で鈴木春信と交友して春信の吾妻錦絵は源内のアイデアだという説があり、鳩渓として下手な絵を描き、書類をなくしたのを他の人のせいだと思ってかっとなって殺人事件を起こして獄中死したらしい。昭和56年の刊行で、昔の本ならではのゆるい感じでキンキンギラギラとかの流行語を使っていたり、著者のエッセイぽい脱線があったりする。著者は東京大学の教授で、私のような頭が悪い人が存在することを知らなかったようで、引用した漢文の説明をしないままさっさと話を進めているので内容がわかりにくい。くだけた文章があってまじめな学術書ではないのに一般人にはわかりにくく、対象読者層が定まっていなくてアンバランスな感じ。面白かったのが平賀源内の処女戯作『根南志具佐』で、閻魔大王が女形の役者に惚れたので河童を使いにやったら河童も惚れてしまって情交するという内容で、いわば女装子と亜人の異種BLである。BL好きで日陰で生きている人は平賀源内先生もBL作家だったと知れば勇気付けられるのではなかろうか。あとうんちくとして面白かったのが「麻布」という江戸時代の隠語で、麻布六本木はどこに六本の木があってそう名づけられたのか誰も知らないので気(木)が知れぬことを麻布というようになったらしい。★★★☆☆
2017.03.28
コメント(0)
![]()
景色、仏像、人物、ヒロシマ、筑豊の子供などの戦前戦後の日本を写した写真集。私は写真や写真家にはあまり興味がなくて、旅行の記録として安いスマホのへっぽこカメラで構図も気にせずに写真を撮る程度なのだけれど、図書館でこの分厚い写真集を見つけて、分厚いので暇つぶしになるだろうと思って何気なく見てみたら、思いのほか面白かった。私は昭和初期の風景は白黒の記録フィルムにぼんやりと残っているものだと思っていたのだけれど、写真だと傷痍軍人とか子供とかがくっきりはっきり映っているのでびっくりした。これは私が月と金星くらいしか星が見えなかったのに新しい眼鏡を作ったときに初めて夜空一面にぶわーっと星が見えたのと似たびっくり感である。あと若い頃の小林秀雄がイケメンで、三島由紀夫の眉毛がげじげじで、昭和の文士は独特の風格があってよい。眉毛はげじげじなほうが日本男児ぽくてよい。そんで解説によると土門拳はリアリズムの写真家らしい。私が生きていなかった時代のリアルさがずしーんときて、いいなあと思ったのである。これは私が少年時代にゲームばかりやって近眼になってほとんどぼやけた風景しかみえないせいで、リアリズムの写真だと私の肉眼で見えないものがみえていっそう面白く感じるのかもしれない。いまどきはカメラの性能がいいし画像加工ソフトもあるので、アマチュアの写真コンペとかでも風光明媚な観光地を撮ったきれいな写真は多いけれど、きれいなだけであまり印象に残らない。かたや土門の拳の写真を見ているとyouはshockな感じで視力を取り戻したくなるので、プロの写真家の写真は違うもんだなあと感心した。★★★★★土門拳自選作品集新装版 [ 土門拳 ]
2017.03.28
コメント(0)
![]()
オカルト本を自費出版させて儲けようとして秘密結社の陰謀をでっちあげたら、でっちあげた秘密結社から追われる話。●上巻あらすじケテル:私はパリの国立工学院でフーコーの振り子を見学して、何かの計画のために博物館内を探索して閉館時間を過ぎても館内に残る。ホフマー:パリのヤコポ・ベルボから電話が来て、あの計画は本当でテンプル騎士団に追われていると言われ、警察に言っても無駄だからフロッピーを読めと頼まれるものの、パスワードを聞く前に電話が切れてしまったので、私はベルボのアパートにいってアブと名づけられたファイルのパスワードを解読する。ビナー:15年前の1972年に私はテンプル騎士団について卒論を書いていて、文科系出版社のガラモン社に勤めているベルボとディオタッレーヴィに会い、ピラデの店でテンプル騎士団の説明をしていると、近くでデモ隊が警官と衝突したので逃げ出す。1年後にベルボとアルベルティ大佐に会うと、大佐はテンプル騎士団が西暦2000年に世界征服を完了する計画だと言ってパリで行方不明になったインゴルフが見つけた羊皮紙の写しの暗号文を見せて、計画を知る人の反応を見るために本を出版したいというものの、その後に大佐が殺されて死体が消え、公安のデ・アンジェリス警部は大佐は財宝話で金を借りようとするペテン師で他にも前科があるという。ヘセド:2年後、私は恋人のアンパーロとブラジルに滞在しているとベルボから手紙が来て、オカルト雑誌の主催者が<三十九>の守護霊を呼んでテンプル騎士団のメッセージを告げてその後行方不明になったという。私は計画が本当にあって、彼女が誰も知らないはずのことを口にしたので黒幕が彼女を消したと推測する。アッリエと知り合ってカンドンブレの儀式を見せてもらい、ウンバンダでアンパーロに霊が憑依して、その後アンパーロと別れて一年後にイタリアに戻る。ゲプラー:私は30歳になり、文化に関する情報を提供する事務所を作る。1981年にリアと出会ってピムになる。自費出版専門のマヌーツィオ社で鉄の歴史の本を出版するための調査を引き受け、ガラモン社長がオカルト本で自費出版したがる人たちを見つけて金儲けを企んだヘルメス・プロジェクトに参加する。ベルボとディオタッレーヴィにアッリエを紹介する。図書館で警部にあってシナーキー世界帝国の陰謀の話を聞く。●下巻あらすじゲプラー(承前):薔薇十字の夜会とドルイドの儀式を見るためにガラモン社の人たちとベルボの故郷に旅行する。ティフェレト:ベルボは打ち込んだデータをプログラムでデータを組み替えて謎めいた文章を作り、大佐の暗号を解読して、TRESという秘密結社をでっちあげる。リアが息子を産む。ヒトラーと地電流と振り子を関連付けて振り子が地図上で地球の臍の位置を示すという陰謀をでっちあげて計画を練り、計画を邪魔したイエズス会について考察する。アッリエをはぶって計画を進めていたら、ディオッタレーヴィが病気になる。リアはインゴルフの文書は最近でっちあげられたものだと論破したが、私は計画を作るのが楽しくてやめるのに未練がある。ネツァー:ベルボはロレンツァに色目を使うアッリエに怒り、計画をアッリエに話しても地図は教えずに、自分だけが地図を知っていると言って優越感にひたる。ベルボがアッリエの荷物のお使いを引き受けたら中に時限爆弾が入っていて列車爆破未遂事件として追われることになり、アッリエは姿を消し、TRESからベルボにパリでの会合の電話が来る。ベルボが困って警部に電話するものの、警部は脅迫されていて協力を断り、ガラモン社長に相談したらガラモンも連中の仲間だった。ディオッタレーヴィが癌になり、ベルボはパリに行き、私はファイルを読み終わってベルボを追ってパリに行く。ホド:私はパリの国立工学院に隠れて騎士団の儀式を見ていると、アッリエがベルボを捕虜にして秘密を聞き出そうとするものの、ベルボは首に振り子のワイヤーを巻かれて絞首刑になる。私はホテルに戻ってワグナー博士に一部始終を話すものの狂人扱いされ、ディオッタレーヴィが死んだと聞いてイタリアに帰る。イェソド:私はリアが言ったことが本当だったと思い、ベルボについて考える。マルクート:私はベルボの伯父の家にいて、理解するべきことなど何も無いと確信して安らいであの連中が追ってくるのを待つ。残された三枚のファイル──訳者あとがき:あの連中が来ない。『振り子』の語り手の私は読者になる。●感想カゾボン(私)の一人称だけれど、79ページのビナーの章になるまで語り手の素性が不明で話がわかりにくいし、各章の小題のケテルとかホフマーとかは語り手の名前と勘違いしやすいし、各章の時系列がばらばらでいつの話なのか理解しにくい。それに一人称の現在形で語るのは映画だとカメラに向かって登場人物が自分でナレーションを付け加えるようなもので、小説でやるとインタビューとか実況中継とかの特殊な状況でない限りは矛盾した語りの形式になり、いつの時点で語っているのか、なぜ語っているのか、誰に対して語っているのかという整合性がつかなくなってリアリティを損ねる。肝心なことを読者に告げないで「あの計画」や「あの連中」を少しずつほのめかすやり方も回りくどい。そのうえアブラフィア(ヘブライ神秘主義者)とかトーラー(ユダヤ教の聖書の最初の「モーセ五書」)とかバフォメット(キリスト教の悪魔)とかグラール(聖杯伝説に登場する杯)とかカンドンブレ(ブラジルの民間信仰)とかの名詞を説明も訳者の注釈もなしにいきなり出されても自分で調べないと意味がわからないし、意味を調べるためにいちいち本から離れないといけないので物語世界に没入できない。ユダヤ教徒が原書で読むなら面白いのかもしれないけれど、この小説を日本語に翻訳したところでユダヤ教に詳しい日本人なんてほとんどいないだろうし、たいていの日本人にとっては内容が面白いかつまらないかという以前に宗教用語の意味や含意がわからないんじゃないかと思う。翻訳小説マニアの数は減り続けているそうだけれど、翻訳小説を売りたいなら注釈くらいつけろっちゅうのと出版社には文句を言いたい。研究者が研究書の意味を自分で調べるのには意義があるだろうけど、単に面白い物語を読みたくて本を買っている読者が小説内の単語の意味をわざわざ自分で調べないといけないのは不毛な労力である。それに時系列をばらばらにして構造を複雑にするならその分文章を簡潔にするべきだろう。文章と内容がわかりにくいうえに時系列も話のつながりもわかりにくいのでは娯楽として成立しない。語り手のカゾボンは自分が知っている専門知識を延々と語るだけで読者には意味を説明しないので物語の案内役として不適格で、読んでいて面白いどころかストレスがたまる。読者は読んだ文章をすべて覚えているわけでもなく、メンタルモデルを形成して各章の概要を把握するのだけれど、この小説は不必要に文章量が多くて物語上必要不可欠なプロットの部分と脱線の部分の区別がつかないのでメンタルモデルが形成できず、情報を整理するために脳に負担がかかり、そのうえ長編で休憩なしには読めないので、いったん本を置いてしまうともはや各章の物語のつながりがわからなくなる。どんな工夫をするにしても作者の工夫を読者が面白さとして理解できるように提供するのが作者の腕の見せ所だろうに、読者に意味が伝わらなければ工夫をしたところで作者の独りよがりである。研究者向けの専門書じゃないのだから、作者が読者に歩み寄らずに作者と同等以上の知識を持つ読者にしか理解できないような小説は値段をつけて一般人に売るものではない。というわけでパルスのファルシのルシがパージでコクーンみたいな意味不明な文章だらけで、専門用語と外国語に注釈も無く読者に対して非常に不親切で読みにくいうえに、上下刊で1000ページくらいあるので、時間と金を無駄にしたくないという人は読まないほうがよい。物語の現在がどの時間軸なのか不明なまま延々と過去のエピソードが語られるので、私は上巻の半分を過ぎたくらいでもう続きを読む気をなくしてこの本を読み始めたことを後悔した。カゾボンやベルボの人間性が見えず登場人物として魅力がなくて感情を刺激する要素がないし、一人称の語りの構図が破綻していて語り手も信用できないし、ベルボが連中に追われてそれからどうなったのかというストーリーを語らずに、なぜ追われるようになったのかというプロットを数百ページも使って延々と語っていて冒頭のサスペンスじみた展開の緊張感もなくなって何の計画があろうが誰が殺されようがどうでもよくなってしまって、いったん脳が物語のつまらなさに拒否反応を起こしてしまった状態になると長編小説の続きを読むのはもはや苦行でしかない。面白い小説は物語の続きがどうなるのか気になって寝る間も惜しんで読むのだけれど、この小説はいったん閉じてしまうともう手に取りたくなくなる。そんなこんなでちまちま読んでいたら読むのに2週間くらいかかったけれど、その時間で他の本を読んだほうがましだった。現実と虚構が交錯するのはいかにも現代小説風の試みで、労作には違いないけれど、物語としてつまらないのでは小説としては失敗である。フィネガンズウェイクのような衒学の意味を調べるのが好きな暇人とか、陰謀に興味がある中二病の暇人とか、ウンベルト・エーコのファンの暇人とかにはそれなりに面白いかもしれないけれど、そうでない人は小説として読むよりも雑学本として割り切ったほうがかえって面白いかもしれない。小説としてはつまらなくて、雑学としての面白さがあるとはいっても結局自分で調べないと意味がわからないので、オカルト本を直接読んだほうがましに思える。というわけで小説としてはつまらなかったのだけれど、下巻361ページの「小説を書くのは、<歴史>を書き直すため。それも書き直してから、<歴史>になるような歴史を。」という文章はフィクションが現実に悪影響を及ぼしうることを端的に言い表していてよい。歴史を書き換えるために小説や映画を作ったりするのは左翼がよくやる手法で、左翼作家は旧日本軍の悪行をでっちあげて、左翼政治家はフィクションを事実扱いして大騒ぎしている。権力者は検閲して左翼に対抗しようとするのだけれど、現代では検閲はないので左翼がやりたい放題やって、左翼が本屋を脅迫して言論の自由を脅かすという逆転現象まで起きている。偶然にもこのテンプル騎士団の小説を読んでいる間に村上春樹の『騎士団長殺し』という新作長編小説が出版されて、南京大虐殺で10-40万人死んだ説があると言い出して中国人を喜ばせていた。村上春樹はくだらないポルノ作家だと思っていたけれど、もはやくだらないを通り越してフィクションで歴史を書き換えようとする有害作家になってしまった。★★☆☆☆【中古】 フーコーの振り子(上) 文春文庫/ウンベルト・エーコ(著者),藤村昌昭(訳者) 【中古】afb【中古】 フーコーの振り子(下) 文春文庫/ウンベルト・エーコ(著者),藤村昌昭(訳者) 【中古】afb
2017.03.27
コメント(0)
![]()
造形芸術について解説した本。主に絵画について90のトピックに分けて、パターン、線、調子、色、形態、感情移入、内容、象徴、心理的価値、構造、世界各国の芸術、リアリズム、自然主義、バロック、ロココ、印象派、表現主義などについて解説しているけれど、各トピックが1-2ページしかなくて情報量が少ないので詳しい内容を知りたい人には物足りない。ざっくりと造形芸術の特徴の要点を知りたいという人向け。44ページで「絵画の律動はたんに線の輪郭によるのみでなく、量塊の繰り返し、普通には連続しながら減少してゆく量塊の繰り返しにとってのみつくられるものであろう。このような連続はしばしば三対になっており、これは三がそこから連続を知覚することができる最初の数字であるという事実に基づいているのであって、それ以上に何も神秘的な理由はない。そして絵画にあっては三つ以上の量塊の連続はあまりにはっきりしすぎる傾きがある」と書いてあって、そういえばエルズワース・ケリーの絵がそんな感じだったと思い出してググってみたら、絵画のリズムがなんとなくわかったような気がした。著者は美術評論家かつ小説評論家のようで、トルストイについても言及している。トルストイの芸術の定義として「自分が経験した感情を、自分自身のなかに呼びおこすこと、自分のなかに呼びおこしたならば、次に運動、線、色、音あるいは言葉による表現形式によって、他人もそれと同じ感情を経験するように、その感情を伝達する──これが芸術活動である。」「芸術は一つの人間活動であり、人がある客観的な記号によって、自分の体験した感情を意識的に人に伝え、人はその感情に感染し、それを経験するところに成り立つものである。」(p183)と紹介していて、「芸術家は感情の表現に成功するだけでなく、それを伝達することに成功しなければならないとトルストイは要求している。」(p186)けれど、誰に感情を伝えるかという点ですべての人に伝えると考えたのがトルストイの間違いで、「私は芸術の機能は、他人がそれと同じ感情を経験することができるように感情を伝達することではないといいたい。そのようなことは粗悪な形式を持った芸術──「表題楽」、メロドラマ、感傷的な物語といったたぐいのものの機能にすぎない。芸術の真の機能は感情を表現し、理解を伝えることである。」(p187)とトルストイの定義を修正している。著者は1968年に亡くなっているので70年代の受容美学は知らなかっただろうけれど、誰に伝えるかという点に着目しているのはさすが評論家である。★★★☆☆芸術の意味新装版 [ ハーバート・リード ]
2017.03.13
コメント(0)
![]()
老人が横丁の人たちの思い出を雀横丁年代記として書く話。●あらすじ短く狭いながらも人が多くて賑やかな雀横丁に住んでいる孤独な老人であるヨハネス・ヴァッハホルデルは子供のころからの思い出を年代記として気ままに書くことにする。フランツ・ラルフの娘の幼いマリーが亡くなった話、漫画家ウルリヒ・シュトローベルと知り合った話、フランツの叔父が臨終の際に話した半生、クリスマスに踊子のロザーリエ母子と会った話、フランツが死んで小さいエリーゼ(リーゼ)が孤児になったので養父になって世話をした話、遠くに住んでいるエリーゼが帰ってこない話、エリーゼが風邪をひいた話、エリーゼが死んだ小鳥を見つけて泣いた話、「デッペ」(deppeはドイツ語でバカを意味する)を言った学士ハインリヒ・ヴィンメルが警察から追われて横丁から出て行った話、エリーゼや学士たちと森に行った話、老婆マルガレーテ・カルステンが1807年に8人のフランス人を家に泊めてその後自由戦争で息子を二人亡くした話、未亡人ヘレーネ・ベルクと14歳のグスタフが引っ越してきてグスタフとエリーゼが仲良くなる話、1841年に横丁を追放されてアメリカに行ったヴィンメルがナネッテと結婚したと知らせる手紙、ロザーリエが女王の誕生祝で仕事を休めずに踊っている間に息子が死にかけていてなんとか臨終に駆けつけた話、乙女になったエリーゼとグスタフが仲良く喧嘩した話、シュトローベル草紙、月夜のエリーゼとグスタフの初恋の話、シュトローベルが旅行に行く話、エリーゼとグスタフが結婚した話を書いて年代記は終わる。●感想ヴァッハホルデルの一人称の日記形式。1937年に翻訳されたやうで、旧字なので読みづらいのである。内容は老人が大都会の横丁の知人たちを回想するというもので、いわば東京の下町の人情話のようなもので、普遍的な人間の喜びと悲しみを書いているので、ドイツの庶民の生活に興味がない人でも共感できるだろう。時系列順に書かれていないせいで読みにくくはなるもの、フランツの話をしたあと急にフランツの死後の話に移ることで人物を印象付けることに成功していて、物語の面白さではなく感情に訴えるのがこの本の狙いなので、その点ではよくできている。映画がなかった時代に映画のカットのように時間をとばした話のつなげ方をしている構成は凝っていて、うまく映画化したらそれなりに面白いんじゃなかろうかと思う。1856年に著者が25才くらいのときに書かれた処女作で、お涙頂戴の死別エピソードの一辺倒で終盤はエリーゼとグスタフの幸福な恋と結婚で締めるあたりはステレオタイプ的というか若さゆえの性急さというか、不幸な死と幸福な恋で読者の感情をゆさぶろうという姿勢が露骨に見えるし、語り手を老人にしている割には人生や社会への洞察がないのは物足りない。処女作なので欠点があるのはしょうがないけれど、娘思いの老人を書いた小説ならバルザックの『ゴリオ爺さん』やラーゲルレーヴの『ポルトガリヤの皇帝さん』のほうが面白いので、あえて現代にこの小説を読む価値があるかというと、あまりないかもしれない。★★★☆☆【中古】 雀横丁年代記 / ラーベ / 岩波書店 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2017.03.05
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1