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生徒の母親と不倫している小学校教師が片思いしている小説家志望の女友達が年上の韓国人女にレズしようとして失敗して失踪したので探す話。●あらすじⅠ:都内の私立大学の文芸科のすみれは小説を書くのに専念するために大学を辞めて、週末にぼくのアパートに原稿を見せに来る。すみれはいとこの結婚式でアラフォーの既婚の韓国人のミュウに会って恋をして、ミュウがビートニクをスプートニクと間違えたので「スプートニクの恋人」と呼んでいることをぼくに話す。ぼくは一般の会社の競争を避けて小学校の教師になってうまくやっているものの、人生に何を求めているのかわからず、すみれと話していると自分という人間の存在を感じて結婚したいけれどすみれはまったくぼくに男性として関心を持っていないのでぼくは生徒の母親と肉体関係を持つ。すみれはミュウの会社で働き始めて小説を書くのをやめて、ミュウの秘書として一緒にヨーロッパ旅行していると手紙が届いて、ミュウからぼくに電話がきてすぐギリシャに来いと言われたので一週間仕事を休んでギリシャに行くと、ミュウはすみれが行方不明になったと言って経緯を話す。夜中にすみれは精神に異常をきたして放心してミュウとレズしようとしたら、ミュウは14年前の出来事のせいでこの世界の誰とも身体を交わらせることができなくなっていて頭ではすみれを受け入れるものの体は拒否して、翌朝すみれはいなくなる。ぼくはすみれが書いていた文章から手掛かりを探す。Ⅱ:すみれの文章。わたしは身軽になってミュウに寄り添うために小説を書くのをやめて思考をやめた。わたしは死んだ母親の夢を見る。わたしはミュウの14年前の出来事を尋ると、ミュウは25歳の時に遊園地の観覧車に取り残されて、双眼鏡で自分の部屋を見ると、自分とフェルディナンドがエッチしていて、翌日ミュウは傷だらけで観覧車にいるのを救助されて白髪になっていた。わたしはこちら側のミュウとあちら側のミュウを両方愛していて、自分が分割されるように感じる。ぼくはすみれがあちら側に行ったと仮説を立てて、あちら側に行く方法を考えて、音楽が聞こえる山の上に行って月を見る。すみれの両親がギリシャに来たのでぼくは東京に帰り、すみれが大事な存在でぼくの中のいろいろなものが消えたとわかる。にんじんというあだ名の生徒が万引きして捕まってぼくはスーパーに呼び出されて警備員と話をして、にんじんにギリシャに行った話をして、にんじんの母親との不倫をやめることにする。すみれがいなくなって半年以上すぎてからミュウを見かけたらぬけがらのようになっていた。あるとき電話が鳴ってすみれがわたしにはあなたが必要だから迎えに来いという。●戯れに焼いたピザみたいな感想語り手の「ぼく」の一人称で、ぼくがすみれについて語る形式。ぼくはすみれのたった二つ年上なのに上から目線ですみれの小説の才能をほめるというピザばかり食ってるアメリカのデブみたいな尊大な態度で、そのうえ平然と生徒の母親と不倫するサイコパス教師で、冷凍食品のピザ風の食パンみたいに全く魅力がなくていけ好かない。一人称の小説で語り手が嫌われるとその小説はもう失敗していて、ピザ窯の温度を間違えてピザにどんな具を乗せようが全部焦がすようなもんである。ぼくは小学校の教師としてのリアリティがない量産型ワタナベで、冒頭からノルウェイの森の自己模倣の既視感があって、食べ残しの歯形がついたピザを焼き直したようでもう読む気がしない。ぼくとすみれとミュウがどういう人物でどうやって知り合ったのかという平凡な内容をピザって10回言ってみて肘を指さすような過剰な比喩を使ってうだうだと書いて、本の半分にさしかかってようやくすみれが消えて物語が動き始めるけれど台風の日のピザの配達みたいに展開が遅い。書きたいことを書いているというより、原価の安いピザを大量生産しているみたいにページ数を増やして原稿料を稼いでいる冗長な文章で、切り分けたピザみたいに一行空きが多くて場面が途切れ途切れになっていて、冷めたピザのチーズのように個々のエピソードに張りがない。主要登場人物はぼくとすみれとミュウの3人しかいなくてマルゲリータの具のように展開パターンが限られていて、外国を舞台にするのも苦し紛れのネタ切れのダメ押しでチーズ入りのお好み焼きを和風ピザと言い張るみたいな安っぽさ。ミュウはすみれにEメールをわざわざ印刷させていてテクノロジーに順応できていない時代遅れなおばさんなのに有能を気取っていて、ヘルシーなシカゴピザみたいに滑稽。さてあらゆるピザにチーズがのっているみたいに、この小説にも村上春樹の小説の典型的な特徴がみられる。・女性に好かれてほいほいエッチするけど世間ずれしていて孤独なやりちん。・社会になじめない病的なヒロイン。・性的不能。・音楽と猫。・言葉のオウム返し。・過剰な比喩。この小説の登場人物たちは現実の男性と女性としてのリアリティはなく、村上春樹の小説におけるヒロインはどういう存在なのかというと、ぼくへの供物である。ぼくはいろいろな女をとっかえひっかえしてきたやりちんだけれどほいほい股を開くような女が相手ではぼくの存在理由としては不十分なので、ぼくとのセックスを拒む特別なヒロインの精神的存在を吸収してようやくアイデンティティがあやふやなぼくの存在理由が正当化される。これは男女の存在が融合するメタファーとしてのセックスで、普通の妊娠とは逆で男の存在に女の存在を受肉することでぼくの生存理由が生まれるので、ぼくの存在理由を裏付ける相手は男ではなく女でなければならない。だからぼくは女友達やセックス相手はいるけれど、男友達はいないし、父親も兄弟もいない。精神的な存在が融合して肉体的な存在が必要なくなるとヒロインは消失して、性的不能で不完全な肉体をこちら側の世界に残さない。ぼくは自分が直接挫折することなしに社会になじめないヒロインの挫折を踏み台にして、特別なヒロインを喪失することでどれだけヒロインが必要だったのかを自覚して、かわいそうなぼくを乗り越えて成長するわけである。まるでいろいろな味を取り込んでようやく一人前になるクワトロピザのようなもんで、ぼくはおしゃれで特別なクワトロピザを気取ってシーフードピザやテリヤキチキンピザとほいほい合体してきたけどそれでは物足りなくて、マヨコーンピザとも合体しようとしたけどマヨコーンピザは単品メニューから消えてしまって、やっぱりクワトロピザにはマヨコーンピザが必要だったのだと自覚することで何味なのかあやふやだったクワトロピザのアイデンティティが確立するのである。こうして出来上がったクワトロピザに万人受けする音楽と猫をサイドディッシュに添えて、具が乏しくても豪華に見えるように過剰な比喩でラッピングして、オウム返しでオーダーを確認すればハルキストご用達のピザセットの完成で、新鮮みがないことが成功の証である。クワトロピザの味の組み合わせを少し変えて新商品として量産すれば商売としては儲かるし、ファストフードの割にはうまいしインスタ映えすると満足する人もいる。でもこんなものでは私の飢えは満たされない。★★☆☆☆スプートニクの恋人 (講談社文庫) [ 村上春樹 ]
2018.03.31
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許嫁の宮を金持ちにとられた学生の貫一がやけになって高利貸しになったら宮が悔悟する話。明治30年から35年まで読売新聞に連載された未完の長編小説。●あらすじ前編:鴫沢隆三は恩人の息子で身寄りのない間貫一を引き取ったら品行方正で頭も良かったので娘の宮と結婚させて家業を継がせようと思っていたものの、宮は音楽院のドイツ人や院長から求婚されていて美人だと自覚していたので学士風情を夫にするのは乗り気ではなく玉の輿を狙っていたところ、富山銀行創業者の富山重平の息子の富山唯継がイギリスから戻ってきて嫁選びをしようとかるた会を開催して金剛石を見せびらかす。貫一は友人に宮との結婚を祝福されて宮も貫一と夫婦になる心が決まっていると言っていたものの、宮が急にため息をついて熱海に旅行に行ってしまい、貫一は鴫沢から宮を富山に嫁がせるから洋行しろと言われたので宮に真意を聞こうと旅行先まで追いかけて行って、宮が金目当てに愛のない結婚をするつもりだと知ると罵って蹴り飛ばして行方不明になる。中編:四年後、貫一は大学を辞めて身分を偽って高利貸しの鰐淵直行の手代になって無慈悲な取り立てをしていると、赤樫の妻の満枝が資金援助するから独立しろと勧めてくるものの貫一ははぐらかす。鰐淵の妻のお峯は満枝が夫を取ろうとしているのではないかと疑って貫一に様子を探るように頼む。富山は写真会会員同士の田鶴見子爵と友人になり、宮は夫とともに田鶴見子爵に招かれて貫一を見かけて高利貸しの手代になっていると知り、宮は恋心に悶えながら無言ですれ違う。遊佐は美人の妻がいるものの鰐淵から連帯責任で借りた金の高利に悩んでいて、金利を払えず、かといって連帯保証人を立てるのも渋っていたところ、友人の蒲田と風早が代わりに談判しようと様子をみると相手が旧友の貫一だったので昔のよしみで元金にまけさせようと試みるものの、貫一は人間をやめたといって話に応じず、蒲田と風早は激高して首をしめて力づくで証書を盗んで貫一を追い払う。満枝は貫一を色気で篭絡して鰐淵に取次ぎを頼もうとするものの貫一は応じない。貫一は二人の曲者にボコボコにされる。後編:貫一は全治三か月の重傷を負い、高利貸しが襲撃されて入院した事件は新聞で報道されて、鰐淵が襲撃されたという誤報を聞いて息子の直道が駆けつけて天罰だと言って親に高利貸しを辞めるように説得するものの、鰐淵は無抵当だから高利だと皆承知して借りているので不正はないといって応じない。宮は貫一と別れてから恋を自覚して後悔して富山を夫にする決意がないまま結婚して、初子は肺炎で死んでしまって宮は再び子を産むことを決意するものの、嫁いだ理由を自覚しているがゆえに恋人を捨てたことを苦しみ、夫に寵愛されて世の娘が憧れる立場になっても毎日やることがなくて豊かなことに飽きて引きこもりがちになっていて、貫一を見てからは自分の過ちを夫の罪だと思うようになって夫を嫌う。宮は訪ねてきた母に貫一を見かけて心配して消息を知りたがるものの母親はあてにならない。満枝は人妻なのに貫一をかいがいしく看病して美人クリイムとして浮名が流れ、貫一は鰐淵に満枝との間柄を疑われて見舞いを有難迷惑だと断る。鴫沢が見舞いに来ても貫一は知らんと無視するものの、鴫沢が貫一を捨てたのではないので縁を切りたいなら貫一の言い分を聞いて誤解を解いてから縁を切るというと貫一は黙って涙を流し、満枝が間をとりなすと、鴫沢は人妻なのに貫一の看病をする満枝を疑う。鰐淵家に謎の老女が訪ねてきて、鰐淵に会うなり懲役に行った雅之の敵討ちだと言い始めて、鰐淵は連帯者をでっちあげて私文書偽造で捕まった債務者を思い出して、きちがいとしてあしらうと老女は毎日訪ねてくるようになり、強風の日に老女に放火されて老女は逮捕され、家は全焼して鰐淵夫婦の死体が見つかって金庫だけが残る。貫一は焼け跡で鰐淵夫婦の死を嘆いて、直道に真人間になってくれと言われるものの断る。続金色夜叉:宮が乗った車夫が酔っ払いに当て逃げして、相手を見ると貫一の旧友の荒尾だった。荒尾は貫一が身を誤ったのは宮のせいで、宮が悔悟したのはよいがもう遅いといい、悔悟して自ら許されたのは誰にも許されないよりは勝ると宮を媛友として慰めるものの、宮を恨んでいるので貫一への謝罪のとりなしは断り、貫一のために宮が富山を欺くことも咎めて、敵ではないけど力にはなれないという。直道は親が高利貸しで稼いだ不義の遺産を相続するのを拒否して貫一に相続させて人のために使えと頼むものの、貫一は焼け跡に家を建てて相変わらず高利貸しの暴利をむさぼっていた。荒尾は貫一を訪ねて旧友として金で慰めを得られないなら宮が悔悟したので許してやれと忠告して、貫一は自分のことより参事官だった荒尾が落ちぶれたのを気にすると、満枝は荒尾と面識があって荒尾は満枝に三千円の借金がある債権者だと貫一に教えて、貫一は自分が肩代わりしようと事情を聴くと、荒尾は恩人の大館の連帯保証人になって選挙に失敗した運動費用を払わされることになっていた。貫一は宮の悔悟の手紙を封を開けずに燃やして、千葉に行ったときに隣室にいた飽浦雅之と婚約者の鈴が話すのを聞いて、鈴が親の反対にもかかわらずに雅之と結婚したがっているのに感心する。貫一の家に絶交したはずの荒尾が訪ねてきたというので何の用かと会ってみると、荒尾ではなく宮で、貫一は宮が話を聞いてほしいというのを無視して、満枝からも逃げて外出して家に戻るとまだ満枝が待っていて、貫一と宮を殺して死んでしまいたいというけれど貫一は満枝に殺される理由がわからず、赤樫に事情を話すというと満枝は赤樫に金で無理やり囲われただけで夫婦だと思ってなくて敵も同然だから話しても無駄だといい、自分の感情を汲んでくれと言い寄っているところに宮が乱入してくると、満枝は宮を押し伏せて刃物を取り出して、宮は貫一が殺さないなら自害すると言い出して、首を切ったうえに外に出て浅瀬に飛び込んで死んだのを見て貫一は宮を許して、宮が悔悟したなら自分も人の道に対して悔悟しないと済まないと宮の死体を背負って一緒に淵に沈もうとすると夢だった。続続金色夜叉:貫一は自殺するか過ちを償うために生きるか悩むものの、大口貸付の取り立てのために塩原の温泉宿に行くと、宿泊している狭山とお静(芸名は愛子)が訳ありで逢引していて、失恋しか経験のない貫一は二人の恋の行方が気になって二人が服毒心中しようとしているのを止めて相談に乗ると、狭山は主人の金を遊びに使って苦し紛れに相場に手を出して三千円を使い込んで、使い込みを許す代わりに主人の姪と結婚しろというのに気乗りがしなくて縁談を断ったら告訴されて、お静にも身請けの客がついてそれが富山だったので振って狭山と添い遂げるつもりだというので、貫一は純愛に感動して金を立て替えて世話してやることにする。新続金色夜叉:宮は病気で寝込んで貫一に悔悟の手紙を書き、貫一も今度は手紙を焼かずに読むものの引き裂くと、お静に顔色が悪いのを心配されて、男と女はどっちが情愛が深いかとお静に訪ねると、女の歳によって見惚、気惚、底惚があると聞いて感心する。宮はヒステリーの病気になって富山は遊び歩いていてこのまま死ねたら幸せだと手紙を書く。未完。以後の構想は宮が発狂して別家に幽閉されて富山は本家に妾を入れて宮が捨てられて、貫一が宮を引き取って高利貸しを廃業して荒尾の借金も返してやる展開になる予定だったそうな。●感想三人称の文語体の文章。文語体に慣れていないと読みにくい。当時は「彼女」という言葉がなかったのか、女性も「彼」と呼ばれているので男女両方いる場面だと誰の描写なのかわかりにくい。テクニックとしてはあちこちに趣向が凝らされていて、「葡萄酒の紅を啜り、ハヴァナの紫を吹きて」と色を対比する描写をしたり、会話文のかぎかっこの前に発言者の頭文字をつけたり、貫一が独立を唆されていることをお峯に追及されているときに栗の中から悪い虫が見つかるという暗喩を使ったりして、昔の小説の割には現代人でも読みうる技術水準になっている。高利貸し→氷菓子→アイスクリイム→バイスクリイム→美アイスクリイム→美人(びじ)クリイムという洒落が読者に通じてなくて解説しているあたりはギャグ慣れしていない昔の小説ならではのぎこちなさ。しかし文語体ならではのよいところもあって、鴫沢が貫一に宮の結婚を告げる緊迫した場面で「お前は矢張私の家督よ、なう」「何かに就けて誠に心細いわ、なう」と急にツイッター風につぶやきだして、一世紀ごしのギャグの不意打ちが面白いなう。物語の展開は序盤でいきなり貫一の激昂シーンがあって展開が早い。義理と愛情と人情のテーゼとその道理を覆す金のアンチテーゼもわかりやすく、貫一は金のせいで鴫沢に義理を裏切られ、宮に愛情を裏切られ、復讐のために旧友相手にも引かずに恨みをかってボコボコにされる姿を書くことで貫一の絶望を強調している。『闇金ウシジマくん』と違って高利貸しハザマくんはアウトローではなくて金持ちに人生設計を壊された復讐の代償行為としてやさぐれて不器用に高利貸しをしているので読者も感情移入がしやすい。単なる貫一の失恋物語にせず、鰐淵親子に高利貸しの是非を議論させて天引き3割3月縛りの高利貸しというビジネスについて掘り下げて問題提起している点はよい。弱みに付け込んで貸すのは人の道に反するという直道と、借りるやつがいるから貸すのであってそれが不正なら社会が不正なのだという直行の理屈では、私は直行のほうを支持する。金利に納得できないなら借りなければよいし、金利が高いのがだめなら法律で金利を変えればいいのに、法律を批判せずに人の道がどうのこうのと道徳を批判するのはまだ民主主義が根付いておらず商法も未熟な明治時代ならではの議論かもしれない。人物造形としては、鴫沢、貫一、宮、鰐淵、直道、荒尾のそれぞれが自分の言い分があって人間味があってよい。誰が悪いのか、どうすれば不義を許せるのかは簡単に決着がつかない問題なので小説の中で対話させて議論する価値がある。いろいろな登場人物に言い分を言わせることで貫一と宮だけの問題ではないポリフォニーになり、そこに読者が共感する余地が生まれる。しかし皆頑固で意見をまげなくて死ぬだの殺すだと絶交するだの言いだすのは極端すぎて、泥仕合になって落としどころのジンテーゼがなくなっている。本来は常識人の荒尾の意見を採用すれば決着がつくところなのに、宮の死のクライマックスで物語を終わらせ損ねてやっぱり宮は死んでなかったという夢オチに逃げて落としどころさぐり直してだらだら続けたのは構成上の失敗である。夢オチにするにしてもどこからどこまでが夢なのかが不明。蒲田と風早が証書を強盗した件にオチがなく、貫一を襲った二人組の素性も不明なままで、満枝の貫一への恋に決着がついておらず、あちこち投げっぱなしで続続編と新続編で狭山のエピソードを新しく展開しても貫一が夢の中で宮を許したことで復讐の緊張が途切れてその後は蛇足になっている。たとえば貫一がボコボコにされたあとに鰐淵が遊佐の証書がないのに気づいて、証書を持っていた蒲田と風早が襲撃犯として疑われて貫一に助けるように証言を求めてそこでまた貫一の人間性が試されるという展開にもできた。雅之と鈴の恋愛も貫一は聞き耳を立てただけで直接関わっていないけれど、鰐淵の家が放火された損害賠償を雅之に請求して貫一と雅之を絡めて貫一の倫理観を掘り下げるという展開にもできた。その辺のエピソードの拾い方が弱い。波乱万丈のロマン主義の長編小説で、文語体の読みにくさを差し引いても現代の軟弱な小説よりはよほど読みごたえがあってよい。江戸時代の価値観が残りつつも自由恋愛ができるようになって貧富の差が大きい明治時代に恋愛や高利貸しをテーマにしたのは目の付け所がよく、人気小説になったのも必然といえる。欠点があるとはいえ古い小説だからといって読まないのはもったいないくらい面白いし、尾崎紅葉が37歳で死んだのももったいなくて、長生きしていればもっとよい小説を書いたかもしれない。さてこの小説での問題提起である何のために金を稼ぐのか、金のために愛のない結婚をして女性は幸せになれるのかという点は現代でも考えるに値するテーマだと思うので考えることにする。男尊女卑の明治時代でさえ宮は姦婦として批判されたけれど、男女平等の現代でも女性は相変わらず自分より稼ぐ男性との上方婚しかしようとしない。日本人女性は学歴があるのに社会で才能を発揮するよりも専業主婦になりたがって自立していないと外国人に指摘されたりするけれど、なぜ日本人女性は男女平等の先進国で教育をうけながら男尊女卑の途上国みたいな他人頼りの玉の輿志向になるのか謎である。『花より男子』は庶民の女子がイケメンの金持ちたちにちやほやされる人気少女漫画でドラマ化もされて、男子の私でさえ知っているくらいだからたいていの女子なら知っているだろう。しかしキャリアウーマン版の島耕作やサラリーマン金太郎みたいな女性が実力で成り上がる人気の物語を私は聞いたことがない。女医のドクターXや科捜研の女が活躍するドラマとかはあるけれど、限定された職業での女性の活躍の物語なのでキャリアアップの話とはまた違うし、政財界で出世して女ボスになってブイブイ言うような物語がないのである。フィクションにおいても女性のキャリアアップよりも玉の輿のほうが需要があるようである。知能や体格や外見や健康という遺伝子に惹かれる恋を生物としての本能の生存戦略として考えれば、金銭や財産という金融資産に惚れるのも社会的な生存戦略として別に非難されるものでもないように思う。現代人が必死に金を稼ぐのは広い家とか栄養のある食べ物とかを金で調達して生存に有利な環境を確保するためで、巣作りがうまい雄が雌に選ばれて遺伝子を残しやすいからである。遺伝子は属人的であるけれど、金融資産は非属人的である。非属人的なものに惹かれるということは相手が好きなのではなくて金が好きなのだということになるわけで、じゃあ男女平等の時代なのだから女性は自分で金を稼いで、好きでもない金持ちと結婚しないで、女版富山となって金剛石をみせびらかして好きなイケメンを金でたらしこめばいいじゃんという話になる。自分で出世するキャリアウーマンや投資するミセスワタナベが金に価値を見出した女性のあるべき姿で、金に価値を見出しているのに自分の才能と努力で金儲けを追求する気がなくて自分磨きの習い事という金儲けに関係ない努力で玉の輿になろうとするのは非効率な手段で欲望を満たそうとする欺瞞である。それに男尊女卑で教育と賃金の格差があるイスラム圏ならまだしも、日本は結婚で人生が一変するほどの男女の賃金差はない。となると、日本人女性が一様に玉の輿上方婚志向になるのは何かしらの特有の原因があるにちまいない。そう考えると社会制度としての男女の不平等ではなく、日本人特有の不安遺伝子のせいで日本人女性は自分が直接金儲けするリスクや責任を避ける欺瞞的な行動をとって玉の輿になりたがる説を思いついた。日本人には俗に不安遺伝子と呼ばれる遺伝子があるので保守的になってリスクを避けがちだけれど、男性と女性とでは女性のほうが一層保守的になる。日本人女性は横並びを好んで責任を負うのを嫌がって管理職に抜擢されても断る人がいるようだけれど、リスクを回避しつつリターンを最大化する究極形が玉の輿志向なのではなかろうか。結婚したところで昭和のように跡取りの長男を産めという重圧があるわけでもなく、親戚の畑仕事を手伝えという面倒な人付き合いがあるわけでもなく、家電のおかげで家事は楽だし、親の介護も施設に丸投げできて、主婦は夫から定収入を得られて自由な時間も持てて、老後の資産も蓄えられる。女性は金持ちに好かれさえすれば労せずして生涯快適な生存環境が手に入るわけである。結婚して専業主婦になるリスクとしては夫のリストラと離婚くらいしかないけれど、高給取りの有能な夫ならリストラされにくいし、不倫とか家事放棄とかでもしなければ有責で離婚されることはないので大したリスクではない。鴫沢にしても別に家業が傾いているわけでもなく、すぐに金が必要な事情があるわけでもなく、富山とビジネスの取引があるわけでもなく、貫一に跡取りとして不満があるわけでもないのに、老後が心細くて金持ちと親戚になったほうが頼もしいからという理由で富山との結婚を決めていて、これは金銭欲というよりは老後の不安からの過剰なリスク回避である。直道が父親に高利貸しを辞めろというのも高利貸しが非道だからというよりは襲撃される危険があるという不安からの防衛反応で、リスクを自覚している鰐淵がリスクがあるからやめとけという説得を受け入れないのは商売人としては当然である。登場人物の行動原理の根底に不安があるのが日本の小説の特徴かもしれないので、不安を軸に他の小説を分析してみても面白いかもしれない。愛のない結婚で幸せになれるか否かという点は、子育ての段階で問題が顕在化するのではないかと思う。金持ちの子供がぐれているというのはよく聞く話で、夫に愛情がないのはエッチでごまかせても子供に愛情がないのはごまかせない。子供は自分がいい子でも悪い子でも親が変わらずに愛してくれるかを試すために非行をして親の愛を量るらしいけれど、金に任せておもちゃを買い与えて愛情がないのをごまかすような母親では子供をスポイルして非行を止められないので、母親の育て方が悪いのだと普段家にいない夫から批判されることになるのが典型的なパターンである。いくら金があったところで自分の利益を最優先するような女性では家庭生活がうまくいかないというのは神の見えざる手の調整とでもいうべきなのだろうか。この小説では子供のことまで書くつもりがなくて貫一と宮を元鞘に納めて終わるつもりだったようだけれど、恋愛小説は男女二人の一代限りの問題として終わらせてしまうのは物足りない。パール・バックの『大地』みたいに結婚後の家庭や子孫の恋愛まで書くような長期的な視点を持った恋愛小説が増えれば恋愛小説というジャンルはもっと面白くなるかもしれない。★★★★☆
2018.03.25
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動物行動学的に人間のふれあいを分析した本。●面白かったところのまとめ第一章 親密性の根底にあるもの・母親が赤ん坊を抱いてゆすったりゆりかごであやしたりするのは子宮の中にいたときの歩行のリズムを再現している。・母親は心臓の近くに赤ん坊を抱いて心音を聞かせていて、心音には赤ん坊をなだめる効果がある。・母子関係は食物の補給でなく、生後数ヶ月のボディタッチの豊かさが愛情の絆の基本を作る。・赤ん坊を布や服でくるむことで子宮の抱擁に代わる心地よい感触を与える。・赤ん坊の背中をリズミカルにたたく動作は鳥が飛び立つときに首を上下に動かして仲間に信号を送るインテンション・ムーヴメントと同様の接触信号として進化した。・サルや類人猿の赤ん坊は笑わない。人間の赤ん坊は母親にアピールするために笑うように進化した。・泣くときに涙を流すのは親密性を誘い出す視覚的信号で、母親が子供の目をぬぐう親密なボディタッチによる慰撫行為が必要になる。・生後一年目の後半に独立心を持つと抱かれるのを嫌がるようになるが、母親の代理品として生命のない哺乳びん、やわらかいおもや、ショールや寝具などの布などの転移物が慰めとして意味を持つようになる。大人になっても子供のころの転移物に執着しつづけるのはまれで、たいていは代理品の代理品を見つけ出す。・戦闘ごっこは装われた親密行動で、親とレスリングすることで子供は幼児期の親密関係を追体験できる。・思春期になると親とのボディタッチはなくなるが、軽い親密行動はまだなくなっていない。・思春期が終わると家をでて、カップルを形成してボディタッチで親密になって家庭を築くと第二の幼児期が終わる。・晩年に孫との親密性が現れて第三の幼児期を迎える。第二章 性的親密性への誘い・股を露出して親密性への視覚的誘いとして見せるのはセックス信号としては強烈過ぎるが、親密性が進んだ段階では視覚的に見せることの意味がなくなるので、衣類で強調する。・女性は尻を強調することで性的信号を送ることができる。・伸びた脚が若者の成熟を示す指標になるのでハイヒールが人気になる。女性の足が男性より少し小さい菜を強調して女っぽくすることで性的信号になる。・肥満体の権力ある男を興奮させるためにハーレムのスネーク・ダンスが生まれて、現代では洗練されてショーになった。・男性より女性のウエストが細いので性的信号として人工的に誇張される。ヴィクトリア朝時代の後期にはウエストのインチ数が誕生日の数と同じでなければ魅力的な女性とは言われなかった。・乳房は単なる給餌器官でなく半球形の尻の擬態で、直立した状態で男性に性的信号を送る。女性の滑らかな肩やスカートから見えるひざも尻の擬態。・性的に抑圧されたピューリタン的文化の男は女性の平たい乳房は性的信号を鈍らせる。娘のような新妻にたいして父親の役を演じたい男性はちっぱいを好む。ホモ傾向の男たちはちっぱいにボーイッシュな印象を持って魅力を感じる。・男女両性にとってなめらかで清潔な病気のない皮膚は大きな性的意味を持つ。女性は男性より体毛が少ないので、脱毛することで性の違いを強調する。・人類特有の男性のあごの突出は内部に力学的機能を持たず、あごひげの自己主張。・ほおの紅潮は若い女性に多い人類の基本的な生物学的特徴で、親密性への誘いとして強力な信号。・喜びの強い感情が働くと瞳孔が開いて涙が少し増える。目の動きやまつ毛の誇張は女らしい信号を送る。・眉毛の基本的な機能は感情の変化を信号化する。第三章 性的親密性・口腔-性器接触はユダヤ教の経典では非難されていて、アメリカのほとんどの州で非合法。アメリカの統計だと結婚した夫婦の約半数が口腔-性器接触を前戯のひとつに取り入れていて、哺乳類のほかの種にも広くみられるにもかかわらず、不自然な親密性とみなされている。他の種では特定の時期にしか完全な発情状態にならないので、オスにとっては交尾の前に相手の興奮状態を正確に知っておくことが大切で、接触で相手を刺激することは副次的な意味しかないが、人間の場合は逆で相手を興奮させるために使われる。第四章 社会的親密性・背中を叩くという基本的なタッチの信号が音の信号に発展したのが拍手で、パフォーマンスの後に両手を広げて拍手を促すのは抱擁のインテンション・ムーヴメント。視覚的信号に発展したのが手を振ることで、手を振ると遠くからでも目立つので挨拶で手を振る。・肩の抱擁は男性のほうが背が高いので男性から行う方が女性から行うよりも五倍多い。肩の抱擁の四分の一は男同士で行われている。・腕を組む動作は基本的に女性の動作で、女性から男性に対して行う方が男性から女性に行うより五倍多い。男同士だと一二分の一しかなく、ラテン諸国の男か高齢者のどちらかに当てはまる。・腕を上げるジェスチャーは攻撃的性格があり、勝利のしるしに手を握って持ち上げる動作はライバルがもう戦えない状態なのに自分はまだ打つことができるという信号。・頭に手で触れたり頭を押し付けたりするのは若い恋人たちが年配の夫婦より4倍盛んに行う。・唇が柔らかいものにふれていること自体が重要な基本的親密行動。・支配的な動物の怒りを静める一つの方法は自分の姿を小さく見せて相手に与える脅威を和らげ、相手は自らの優越性に対する挑戦とは見なくなって攻撃的行動を取る可能性が低くなる。人間の場合、従属的に体を低くするために平伏して、支配者は高い王座から相手を見下ろす。中世では神に対して完全にひざまずいて、君主に拝謁するときは方ひざだけ地面につける形に昇格して、宮廷式の片足を後ろに引いて両膝を屈めるお辞儀が半分ひざまずく形のインテンション・ムーヴメントに一段進む。現代では女性の宮廷式お辞儀はめったに見られないが、舞台公演だけはなぜか例外的に宮廷式お辞儀をする。・握手は尊敬のキスと関連性があり、唇で親愛の情を表そうとすると、自らの地位の低さにつりあうだけの低い場所に行わなければならなかった。囚人は支配者の靴に近い地面にキスして、最も地位の低い者は支配者の足にキスをして、少し地位が高いと着物のへりやひざにキスして、次は深い尊敬を表すために手にキスをして、対等な人間はお互いのほおにキスをした。第五章 特殊な親密性・2世紀前は助産法の専門書が卑猥な出版物扱いされて、医学の心得がある男性の助産師は現場から締め出されて、技術もない産婆が出産を助けた。ミッドワイフという言葉は妻のそばにいるというだけの意味で助産師の性別は関係ないのに、今は女が連想される。・映画で殴りあった男同士に友情が生まれる。人間同士の親密な接触は、暴力じみた接触であれ、個人と個人のボディタッチが十分にぶつかり合う性質のものならば、二人の敵対者同士の間にも固い絆が生まれうる。・子供たちが喧嘩遊びをするのは、攻撃的な動作をしているけれどもやっつける気持ちはないという信号を送っているけれど、負傷したりしてデリケートな遊びのバランスが崩れたときには本当の喧嘩になる。・社交ダンスの社会的な意義は友人同士だったカップルが一気にボディタッチの親密段階にエスカレートできる点にある。ダンスはインテンション・ムーヴメントの繰り返しが原型で、19世紀にワルツが登場して人類史上初めて男女が抱擁する形になって堕落した下劣なダンスと決め付けられて非難されて、以後はタンゴやジャズなどの新しい刺激的なダンスが登場するたびに中傷と憤慨の声があがって、60年代にはツイストなどのボディタッチがないダンスが登場して、抱擁したままのダンススタイルは衰退する。ボディタッチの度合いの突然の衰退現象は性的許容度が高まってきたことと関係がある。第六章 親密性の代替物・人間同士のふれあいを規制する文明的な倫理観が人間の親密性への欲望の対象を愛玩動物に向かわせる。愛児の代わりなのでサイズが重要で、犬は腕で抱きかかえられる大きさに選別され、進化の程度が低い動物は愛玩用としての価値は落ちる。第七章 物への親密性・たばこや葉巻は大人の代償吸乳行為をカムフラージュするダミー。・ビンの飲み口は昔は大型サイズだったのが小型化されて哺乳ビンの吸い口のサイズに近くなっている。・寝具は布製の子宮であると同時に布製の母体の抱擁である。・風呂に入ると子宮的環境に復帰できる。・男性性器の代用品の張型は旧約聖書の時代からあって、18世紀にロンドンで市販された。日本の琳の玉はセックス代用品の中でも異彩を放っている。第八章 自己親密性・失敗して手でほおをくるむのは、慰める他人の手の役を自分の手にやらせた。・ほおづえをついた手を頭にのせると、母親や恋人に抱かれた慰めと親密性の快感を用意に再確認できるし、原型となった動作との類似性・連想性が少ないので人前で平気でできる。親指を口にくわえるしぐさはカムフラージュが薄いので人前では不作法。・両足を組む姿勢は小さいとき両親の体に足を絡ませたときの気分がよみがえって自己慰安的効果が強い。ヴィクトリア朝時代には女性のエチケットが特に厳しくて、人前で足を組んだりひざを抱くような格好はタブーだった。・腕で足を抱くのが一番密着度が高く、自分の足を想像上の抱擁相手の胴と感じて、膝は相手の胸や肩の代わりになる。このスタイルは女性が95パーセントで、男性が5パーセントで、圧倒的に女性のもの。・18-19世紀は自慰を不健康な習慣とみなして粛清運動がたびたび起きて、違反者は包皮に穴を開けて金属リングを通したりとげつきのペニスベルトをはめさせられたりして、フランス式のビデはイギリスに上陸することを禁じられた。1950年代に自慰はどんな年齢の人間にとっても正常かつ健康的な行為と宣言される。第九章 「親密性」への回帰・人口過剰な現代社会で、一時的な知り合いにすぎない他人ばかりがひしめきあっている社会に独り放り出された現代人は誰一人として信頼のおける他人が見出せず、付き合いのない他人には最小限の関係しか持たないように自己規制せざるをえない。通勤で人ごみの一員になる機会が多い都会生活で他人との関わりを避けるために神経を使って、都会への適応力が身につくにつれてすべての親密性に対して禁止的な態度が強くなり、これが進むと家族に対しても同じような態度しかとれなくなり、こうした他人との接触嫌悪症や反親密性の状況から現代人は親としての能力に異常をきたす危険を抱えていて、幼児教育のはじめの数年間にこのような態度を子供に及ぼすと取り返しがつかない人格形成上のダメージを受けて、社会に出た場合に人間関係を結ぶ能力に欠陥が生じがちになる。・子供を大人と同様に扱ってスキンシップを避けるワトソン式教育法のような誤った教育法の影響がいまだに残っている。厳しくしつけることと甘やかすことを繰り返すと、子供はいい子でも悪い子でも親は同じように愛してくれるという確信を求めて反抗するものの、反抗すると親にしかられるので親は自分を愛していないのかと疑問を抱く。最初から赤ん坊をヤング・アダルトとして扱わずに、赤ん坊として扱うだけでよい。●感想ジェンダー論的に掘り下げることもできそうな内容だけれど、LGBTについての記述は少ない。男同士で腕を組むのはラテン諸国の男か高齢者のどちらかだと言い切っているけれど、この本が書かれた1971年には腕を組む非ラテン諸国のゲイは全くいなかったんだろうか。著者はイギリス人だけれど、いつどこの国の人間を観察したのかというデータや主張の根拠がはっきりしないので、学術書としては物足りない。最近は脳科学の研究も進んでいて幼児期の脳の発達も解明されつつあって、この40年前の本に書かれている幼児の成長過程が科学的にどれだけ正しいのかはわからないものの、考える材料をくれるという点ではおもしろい。さて最近は文学部でもサブカルチャーを卒論の対象にする人が出てくるようになったけれど、漫画をちゃんと分析して見ると面白い発見があるかもしれないので、デズモンド・モリス風に漫画のキャラクターのふれあいを分析してみるとどうなるのかやってみることにする。漫画のキャラクターはしばしば体型が誇張されていて、たとえば『ONE PIECE』だとフランキーは男らしい人物として肩やあごが誇張されているし、ナミやロビンはウエストが細くて脚が長いし、男女の差異を極端に誇張していて体型がもはや人間じゃなくなっている。『キャプテン翼』で脚がやたらと長いのも単に作者の絵が下手というわけではなく、『ベルセルク』みたいなファンタジーで主人公がやたらと非現実的な大きさの大剣を振り回したがるように、『キャプテン翼』では長い脚がサッカー選手の強い武器の表象なのかもしれない。『らんま1/2』だと高校生や大人たちは普通の体つきなのに老人の八宝斎やコロンは極端に小さく2頭身にデフォルメされているけれど、これは衰えて小さくなったことを強調しているというよりは非人間的な小ささにすることで妖怪じみた底知れない感じにしたいのかもしれない。表情も誇張されていて、特に少女漫画だと瞳がうるうるキラキラしたり、///で頬が紅潮したりして、感情の視覚的な記号として極端に表現されている。連続したコマとコマの表情の変化の違いから読者は登場人物の感情を汲み取るわけである。次に漫画のボディッタッチについて考えてみる。少女漫画だと恋愛系が主流で、ボディタッチは友情よりも性的な親密性を表す。壁ドンは男性のほうが女性よりも背が高くて力が強いということを誇示する性的記号なのかもしれない。壁ドンで直接ボディタッチしないのはまだ親密さが浅いともいえる。お姫様抱っこは男性のほうが力が強いということを誇示して、抱っこというのはもともと子供を正面に抱えて保護する抱き方なので、男性が父性を出すことで女性に安心感を促すわけである。これを実際にやろうとするとかなり腕力がないと無理だけれど、漫画だと細身の優男が軽々とお姫様抱っこをしていたりする。負傷者を運ぶときはたいてい肩を貸すか背負うかなので、わざわざ無理な体勢でお姫様抱っこするのは保護者としての意識の現われなのかもしれない。第五章の249ページでは映画で殴りあう男の友情について洞察しているけれど、少年漫画ではバトル系が主流で、やたらと殴りあうのが特徴である。『DRAGON BALL』でゴクウとベジータが敵として対決した末に仲間になったり、『NARUTO』のラストシーンでナルトとサスケが対決して和解したり、『僕のヒーローアカデミア』で緑谷と爆豪が対決してお互いを認めたりして、殴りあうことで譲れない信念や努力や才能を確かめ合って「やるじゃねえか」「お前もな」という友情が芽生えるわけで、殴りあわずに話し合いで平和的に問題を解決してしまうとボディタッチがないのであまり友情は深まらないのかもしれない。殴り合いが男同士の友情を深める一方で、超能力バトル漫画だと直接的なボディタッチが少なくなってしまうせいか友情が乏しくなる。たとえば『ジョジョの奇妙な冒険』だとスタンド同士が戦っていて間接的なボディタッチになるせいか、主人公が敵と戦っても友人関係にはならず、敵は始終敵のままである。ギャグ漫画だとツッコミがしばしば暴力的でボケた人がボコボコにされるけれど、これも殴っても許される親密なボディタッチといえる。たとえば『こちら亀有区葛飾公園前派出所』だと両津が部長にお仕置きされても、その暴力性が親密さの表現であるがゆえに読者を不快にしない。少年漫画だと遅刻しそうで走ってたら女子高生にぶつかって転んでパンツが見えるようなラッキースケベは多いけれど、エロシーンの多さに対して自慰シーンは少ない。単なる業界タブーなのかもしれないけれど、タブーでないとしたらなんで自慰を描かないのかと考えると、漫画だとご都合主義でハーレム状態にしてボディタッチを増やして他人が慰めて主人公が自己肯定できて、失敗して落ち込んでも誰も慰めてくれない孤独で陰気な登場人物というのはあまりいないので、自己親密性のボディタッチを描く必要がないのかもしれない。その点では『新世紀エヴァンゲリオン』では孤独で陰気な碇シンジの自慰シーンがあって安易に周りに慰められる展開にしなかったのはよく考えられていて、主人公が孤独であるがゆえに他の似たようなロボット系の作品と差別化できたのかもしれない。漫画だとしばしばマスコットキャラクター的な動物や妖精や使い魔のようなものが主人公のお供になるけれど、これはペットのようなものである。お供キャラのサイズが小さいのは主人公に従属している存在だという記号で、主人公が親以外の親密性の代替物が必要で自分で意思決定できない幼稚なお子ちゃまだということを示す記号でもあり、お供キャラが登場「人物」ではない裏方の立場から主人公をサポートすることで主人公の成長と自立を促すわけである。たとえば『ぼくらの』のコエムシは主人公の少年少女たちのサポート係である。『ゲゲゲの鬼太郎』の目玉のおやじもサポート係なのである意味お供キャラかもしれない。『ドラえもん』の猫型ロボットは実際の猫よりも大きくてのび太と同じくらいのサイズで描かれていて、のび太に従属するわけではなく対等な存在で、お供キャラというよりお友達キャラである。『うしおととら』のように主人公よりもお供キャラのほうが大きい場合はたいていバトル漫画で、お供の大きさが主人公の強さを表す記号になる。漫画のように壁ドンして恋が進展したり殴り合って友情が深まったりラッキースケベが起きたりお供キャラができたりすることは現実では起きないけれど、非現実的な暴力や性愛のボディタッチは漫画の中心的な魅力になっている。現代社会だと暴力や未成年の性愛が禁止されているので、その抑圧された欲求のはけ口として暴力や性愛のボディタッチをするフィクションに需要があるのかもしれない。ペットを飼えない人がYouTubeでペットの動画を見るようなもんである。漫画が青少年に悪影響を与えると主張する人たちは漫画の過激な表現を規制しようとするけれど、青少年に一番影響があるのはフィクションではなく現実社会そのものである。フィクションは現実をもとにして生まれる空想上の副産物に過ぎないので、フィクションが問題視される背景としてまず現実社会に問題がある。核家族化して夫婦の共働きや一人っ子が増えて家族間のボディタッチや他人とのボディタッチが少なくなったことのほうが漫画の表現よりも優先的に危惧するべきことなんじゃなかろうか。第九章でデズモンド・モリスが指摘したように、親にも問題がある。大人が自分の言動を省みずに漫画の表現を批判するのは、親が自分の子供に対して漫画以下の影響力しかもってないといっているようなもんだし、他人の子供への悪影響まで気にして思想警察になるのは余計なお世話である。テレビがクレームばかりで面白い番組が作れなくなったというのにも通じるけれど、好ましくないと思うものを全部規制すれば理想のユートピアができるというわけではなく、娯楽が退屈になるだけでなく規制がきついほど悪影響もでる。キリスト教が性欲を否定したせいでホモショタ神父が児童虐待するように、人間の本能をうわべのきれいごとで否定したところで本能が消えてなくなるわけではないので別の形で反動がでる。表現規制派はフィクションを暇つぶしの娯楽としてしかとらえておらず、フィクションを人間の本能的な欲求に向き合う道具として有効活用しようという視点が欠けている。きれいごとを教えるのは政府公認の教科書で足りるので、フィクションまできれごとまみれになる必要はない。人間の本能を否定するよりも、人間は暴力的ですけべな存在だということを認めた上で本能を理性で制御するほうが健全だと私は思う。いくら社会を知らない子供でも現実が大人が言うようなきれいごと通りではないことに気づくし、表面を取り繕って本質から目をそむける大人の欺瞞にも気づくのである。★★★★☆【中古】ふれあい—愛のコミュニケーション (1974年) (古書) D.モリス; 石川 弘義
2018.03.09
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