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酒場の常連客の4人が押し込み強盗に誘われる話。1976年の「狐はたそがれに踊る」の改題で、著者が49歳の時の作品。●あらすじ誘う男:奥村の手先になって悪徳材木屋の一石屋を脅迫したごろつきの佐之助、静江が病気で死にかけていて酒に逃げている浪人井黒、若い頃に喧嘩で人を刺して江戸払いになって30年後に江戸に戻ってきて娘の世話になっている弥十、おりえと婚約が決まっているのでおきぬと別れたい仙太郎は酒亭おかめの常連客で、それぞれ商人風の男に楽に儲かる押し込み強盗を手伝うように誘われる。酒亭おかめ:奉行所の定町回り同心新関多仲は岡本屋という材木屋から五百両を奪った四人の押し込みを探していて、13年前に喧嘩で人を殺して江戸に帰ってきた伊兵衛に目星をつけて、芝蔵におかめを調査させる。佐之助はおかめからの帰り道に雨に打たれて高熱を出したおくみを看病して口説いて、奥村から殺人を依頼されたのを断って伊兵衛の押し込み依頼を受けることにすると、おかめの屋根裏に皆がそろって伊兵衛から繰綿問屋の近江屋に押し入る計画を聞いて、佐之助が家に戻るとおくみがいなかった。押し込み:新関は伊兵衛を尾行して観察して近々押し込みをする予感する。弥十は伊兵衛にもらった酒代の出所を娘に咎められながらもおかめに行って左官に酒をおごってやり、仙太郎はおりえにおきぬとの仲を追及されて、井黒は妻を看病して、佐之助はおくみを探す。翌日押し込みに行って金を盗むと佐之助は元カノのきえに顔を見られてしまい、伊兵衛にきえを殺すように言われるものの佐之助はきえをかばう。新関はきえから伊兵衛の顔を見たという証言を聞いたものの、証拠をつかむまで伊兵衛を泳がせることにする。ちぎれた鎖:井黒は静江の死を看取ってから静江の旦那の室谷と決闘をする。仙太郎はおきぬと別れたくて伊兵衛に金を前借りしにいったところを芝蔵に見られて伊兵衛に怒られて、仙太郎はおきぬに別れ話を切り出して殺される。芝蔵は伊兵衛がきえを白昼堂々殺そうとしていると感じて、きえをおとりにして捕まえることにする。弥十は左官と世間話をしているところで孫が人さらいにつれていかれたので孫を取り返そうとして刺されて脳に障害が残る。佐之助は伊兵衛がきえを殺すかもしれないと考えて伊兵衛を尾行して伊兵衛がきえを刺そうとしているところに割って入って助けて、おかめの主人から他の人たちの末路を聞いて、酔って家に帰るとおくみがいたので佐之助はおっぱいを触りながら真面目に生きることにする。●感想三人称。文章はテンポがよくて読みやすくて、視点移動もこなれていて三人称のメリットを十分に生かしている。大きなプロットとしては押し込みは伊兵衛の計画通りに行くのか、あるいは新関が伊兵衛を捕まえられるのかという点だけれど、押し込みをする四人もそれぞれ金が必要な事情があるので脇役の顛末もそれぞれ見どころになる。しかし押し込み犯同士の交流があるわけではないので、歯車というほど4人の意思がかみ合っているわけでもないし、個人的事情から話が広がらないのでプロットに意外性がない。この小説は時代サスペンス小説とでもいうんだろうか。江戸時代を舞台にするメリットがどこにあるかというと、近代的な警察に比べて同心の捜査が遅いことで犯罪を描きやすくなる。現代を舞台にして同じことをやろうとすると佐之助が一石屋の太ももを刺した冒頭の場面ですぐに警察に通報されて監視カメラの映像で捕まってそこで話が終わってしまうけれど、江戸時代なら佐之助がのうのうと生活してその後の物語が展開できるわけである。しかし同心の捜査が尾行と勘頼みで論理的でなく、新関と芝蔵はプロットをなぞっているだけの役割になっていて個性がなく、捜査のがばがば具合が面白さを損ないうるデメリットにもなる。序盤、中盤は良く書けているけれど、終盤は押し込みの成否とは関係なしに井黒や仙太郎や弥十が個人的事情でばたばたとやられてしまうあたりはご都合主義的で性急な物語の畳み方で、佐之助だけは奥村から消されずに新しい恋人ができて堅気の仕事をする気になってめでたしめでたしというのは主人公補正がかかっている。ごろつきに恋人ができて心を入れ替えて堅気になって終わりというのは長編小説のオチとしては弱い。佐之助の更生を主軸にするなら、押し込みに焦点を当てずに佐之助の生涯と歴史上の事件を絡めて教養小説にしたほうが面白かったかもしれない。★★★☆☆闇の歯車【電子書籍】[ 藤沢周平 ]
2018.07.30
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咲子、由香子、薫子、満里子のアラサー女子四人組の短編集。「恋する稲荷寿司」はピアノ講師の咲子が花火大会でとなりの男から稲荷寿司をもらって恋の予感がしたものの連絡先を聞きそびれたので、皆で手分けしてその男を探す話。「はにかむ甘食」は出版社勤務の薫子が由香子のレシピブログの書籍化を担当をすることになるものの、由香子は掲示板のアンチスレでパクリ扱いされているのを見て料理が作れなくなったので、皆で甘食のレシピの元になった由香子の友人のノンちゃんを探す話。「胸さわぎのハイボール」は美容部員の満里子の恋人の雄太が友達の雪子のハイボールとおつまみが好きだと言い出して浮気を疑って喧嘩したので、皆で雪子の店を探す話。「てんてこ舞いにラー油」は先輩編集者のバキと結婚して文芸担当になった多忙の薫子が4日ぶりに夫と会って食事をしたときのラー油がうまかったものの誰がくれたラー油かわからないので、皆でラー油をくれた人を探す話。「おせちでカルテット」は薫子が義母におせちを作れると見栄をはってしまったので大晦日の夜に薫子の家に皆でおせちを持ち寄って集まる予定だったものの、咲子は大雪で秩父に足止めされて元彼と遭遇して、満里子は残業中にデパートの倉庫に閉じ込められて、由香子はテレビの収録のために急におせちを作ることになって、薫子の義母は予定より一日早くアポなしでやってきて、各自てんやわんやする話。●感想内容は女性四人組が和気あいあいとしていてほのぼのとした展開で恋愛がらみでもエロスはないので、女性的なドロドロネチネチした小説が苦手な人向け。しかし短編なのに内容が穏やかなのでプロットが弱いし、料理がテーマになっているものの結局やることは人探しで、社会的メッセージや哲学的な問題提起もない。こんなもんだろうなという予想通りの内容なので別に悪い小説というわけでもないけれど、短編としてはオチにもっと工夫がほしいところ。短編5つでひとつの長編小説とみなして読むと登場人物が友情を深めていく心理的成長がみえるものの、始終女同士の友情を肯定していてアンチテーゼがなく、友情がなくても何とかなるような些細な出来事ばかりなので、長編のオチとしては印象が弱い。文章はどの短編も三人称だけれど、客観的な三人称ではなく地の文でさん付けだったりして作者の女性的目線が混じった文体。文章は概ねわかりやすくて、描写のペースも安定していて読みやすい。欠点というほどでもないけれど、女性作家にありがちな饒舌すぎたり説明不足気味だったりして雑な部分があるのがちょっと気になる。例えば「恋する稲荷寿司」の15ページのお稲荷さんを食べる場面で、薫子は言うなり、テーブル中央のお稲荷さんが四個きっちりと並んだ皿に手を伸ばす。満里子は悲鳴を上げた。「シンデレラのガラスの靴になんてことをっ」という文章があるけれど、これはアスペルガー症候群の人だと意味が分からないかもしれない。咲子が男を探す手がかりの稲荷寿司をガラスの靴を手掛かりにして王子がシンデレラを探すことに例えた隠喩なのだろうけれど、咲子とシンデレラでは探す側の性別が逆だし、私はなんで稲荷を食べる場面で唐突にガラスの靴の話が出てくるんだろうとひっかかって、最初は満里子が薫子に足を踏まれて悲鳴を上げたのかと思ってしまった。女性読者ならシンデレラといえば恋愛がらみとすぐにピンと来るのだろうけれど、私のような頭の鈍い男性読者もいるので、エンタメ小説ならわかりにくい比喩を避けてわかりやすく説明するほうがよいかもしれない。それにシンデレラやディズニーのアニメなどの他の作品名が出てくるけれど、他のフィクションはうかつに作中に出さないほうがよい。その物語を知っている読者は別の物語を想起してしまって良くも悪くも読書体験に影響を与えるし、読者がその物語を知らなければ意味が伝わらなくなるし、プルーストがどうこうと言い出すと衒学的になって脱線するので、ミスリードを仕掛けて意外なオチに活かすとかの工夫がないなら他のフィクションに言及せずに物語の世界を書くほうがよい。私はシンデレラと白雪姫は知っていたけれどオーロラ姫は知らなかった。成城石井やコストコやマリメッコやグルーポンのスカスカおせちなどの実在の企業やブランド名の固有名詞を多用している点はアクチュアリティが出る反面、田舎の読者や年代が違う読者には伝わりにくくなって読者を選んでしまうので良し悪しがある。作者と同年代の女性読者だけ読めばいいと割り切っているならこの書き方でもよいけれど、広い読者に面白く読んでもらうには時事ネタいじりの細部に凝るよりプロット自体を面白くする工夫がいる。この小説の登場人物たちは順調に結婚したり恋人を見つけたりしているけれど、小説として面白くなるのは馴れ初めの話よりも付き合って数年後に子供や転職や介護の問題がでてからで、物語としての熟成期間が短くてまだ発酵してない感じ。東村アキコの漫画『東京タラレバ娘』からギャグと毒気と下品さを抜いたような感じで、アラサーの生態観察としてはタラレバ娘のほうが不幸度合いが強くて救いようがない分だけツッコミどころが多くて面白いかなと思った。★★★☆☆あまからカルテット【電子書籍】[ 柚木麻子 ]
2018.07.21
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貧乏でも粘り強く努力すれば成功するのだということをいろいろな偉人を例に挙げながら語った本。●まとめ外部からの援助は人を弱くするし、すぐれた制度で人間を救えるわけではないので、放っておけば人は自らの力で自己を発展させ、自分の置かれた状況を改善していく。厳しい困難は人間が成功する上での障害とはならず、逆に困難が人を助けて、貧困に耐えて働こうという意欲が起き、困難に直面しなければ眠ったままになっていたかもしれない可能性もよびさまされる。人間の最高の教育には富や安定が不可欠だという説は間違っていて、安楽で贅沢三昧の生活は苦難を乗り越える力を与えてくれないという意味で、貧苦は不幸ではないし、自助の精神さえあれば貧しさは恵みに変わる。天才でなく、並みの能力しかなくても勤勉に努力し続けると名声を得るので、逆境の中でも希望を失ってはいけない。目標を持って粘り強く努力すると偶然のチャンスをとらえて成功する。ビジネスの成功へいたる道は常識を身につける道でもある。いつも自分の不幸を嘆いている連中の多くは、自らの怠惰や不始末、無分別、努力不足のしっぺ返しを受けているにすぎない。ビジネスを効率よく運営するのに欠かせない6つの原則は注意力、勤勉、正確さ、手際の良さ、時間厳守、迅速さで、些細な事柄が大切で、堕落した個人や国家は些細な事柄を無視する。金はそれなりの力を持っているものの、知性や公共心やモラルもまた力で、金より高貴なもの。社会に本当に影響力を持つ人間は必ずしも金持とは限らない。くだらない本をむさぼり読んで常識外れの人生模様に感激するのは時間の浪費にとどまらず人間の精神にも有害な影響を与える。本の中の事件に心を動かされたとしても、それは現実の自分が困る問題ではないので、フィクションにばかり感動していると現実に対して次第に無感覚になる。快楽に浸りきるほど若者に有害なものはない。失敗が最良の経験になり、困難が最良の教師になる。千回憧れるより、一度でも勇敢に試してみるほうが価値がある。若者は常によき友を探し求め、自らをいっそう高めようと努力すべき。過去の偉人が与えてくれる有益な手本を見習うべき。立派な人格は人生の最も気高い宝で、人格の力は富より強い。個人にせよ国家や民族にせよ、それぞれの価値に見合うものしか得られず、個人の人格や国民性の優劣が人生や一国の将来を決定的に左右する。真の人格者は公正に行動して、人一倍の誠実さを身に着けていて、弱者へのやさしさと思いやりがある。●感想サミュエル・スマイルズは1812-1904年に生きたイギリス人で、産業革命後の古い考えだというのを念頭に置いて読まないといけない。まずスマイルズには福祉の思想がない。成功は自分の努力次第なのだという考え方は貧乏人を励ましているようにみえるものの、裏を返せばアメリカによくあるような黒人は怠惰だから貧困なので支援しなくてよいという差別の論理につながる。日本では氷河期世代を切り捨てるために自己責任、甘え、努力不足のスローガンが使われたけれど、努力した人は成功しているので成功しない人は怠惰なのだという極端な考え方には、平凡な人が足るを知って平凡に生きるという選択肢がない。タイムマネジメントの概念がない19世紀には時間を有効活用して努力する人が少なかったから一部の努力した人が頭角を現したけれど、現代人は睡眠時間以外は朝から晩まで何かしらの活動に追われていて、皆が同じくらい努力している中では努力が成功につながるとは限らないし、努力量が同じだからこそ適性や才能での勝負になる。例えばIT業界では努力よりも才能の勝負で、平凡なプログラマーが過労死するほど努力したところで天才プログラマーにはかなわない。スマイルズは努力して成功した偉人を何人もあげて自説が正しいかのように言っているけれど、中世の錬金術師や神学者のように努力しても学問的成果をあげずに人生を無駄にした人だっていたわけで、努力した挙句に失敗した人の存在を無視している。それからスマイルズが成功者として例に挙げたのは科学者や芸術家といった個人で研究や創作をした人たちで、ビジネスでの成功を論じているものの組織としてどうあるべきかを考慮していない。スマイルズは投資という概念も持っておらず、借金を否定して貯蓄を推奨して、質素な研究室で成功した学者を称賛している。スマイルズはビジネスを立ち上げる際の初期投資について一切考慮していないので、借金せずに裸一貫で自己資金をためてがんばれというやり方では、ニュートリノの観測とか新薬の開発とかの巨額の投資が必要な研究やビジネスはできない。バフェットやゲイツといった現代の富豪が何に金を使うかというと福祉団体への寄付や企業への投資で、スマイルズの逆のことをやって世界から貧困をなくそうとしているわけで、スマイルズよりそっちを見習うべきだろう。というわけで、人格やモラルについての部分は普遍性がある内容だけれど、金や経済に関する部分は現代人にとっては賞味期限切れの内容なので、スマイルズの言うことを全部真に受けないほうがよい。この本を読んだ貧乏人が俺だってやるっちゃと奮起するのは悪いことではないけれど、努力の方向性を間違えてはいけない。さてスマイルズは芸術家や偉人の伝記を称賛する一方で、小説はぼろくそにディスっている。当時はろくな小説がなかったというのも原因だろうけれど、フィクションにばかり感動していると現実に対して次第に無感覚になる、という点は現代でも考慮するべきことだろう。そもそも芸術というのは芸術家が現実に向き合って感動や思想を作品として表現したもので、作者の感動が本物だからこそ、その芸術作品を見た人も感動する。現実世界とまったく無関係なフィクションというのは芸術としての価値は乏しくなる。現実世界にこだわる芸術家の例を挙げると、宮崎駿は現実世界の観察にこだわる人だというエピソードはいろいろあって、ドワンゴの川上会長が持ち込んだ人工知能でうねうね人体が動くCGを見て身体障害の友人を引き合いに出して、「彼のことを思い出して、僕はこれを面白いと思って見ることできないですよ。これを作る人たちは痛みとか何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」と言っていた。芸術家でない人は非現実的なものを何の抵抗もなく作るけれど、芸術家にはそういう現実の軽視、人間の軽視が許せないのである。宮崎駿は『となりのトトロ』を見た子供たちに外に出て自然と触れ合ってほしかったらしいものの、視聴者の子供たちは家でトトロのDVDを見るようになってしまって、宮崎駿の現実世界へのこだわりは視聴者の子供にはあまり伝わらなかった。生まれたころから漫画やアニメやゲームといったフィクションに囲まれて、他人と対面で話をせずに電話やメールやSNSでコミュニケーションをとって育ってきた一般人は、芸術家と違って現実を見る目線が欠落しているか、あるいは現実をとらえる感性が鈍いのかもしれない。だからこそ芸術家が現実に向き合うことに意義がある。最近は東日本大震災の被災者でもなく被災地に行ったこともない北条裕子がノンフィクションを読んで『美しい顔』を書いて、それを被災者でない批評家が震災に向き合ったポスト震災小説だとべた褒めしたけれど、この人たちの中で「現実」に向き合った人がいるのか疑問である。作者も批評家も本の中の世界だけで完結している。『美しい顔』はアナウンサーを目指しているらしい東北の女子高校生のサナエの一人称だけれど、「レーザー光線のようにピーっとひたすら直線に歩いて行った。」という現実世界では使われていなくてアナウンサーが絶対言わなそうな変な比喩を使っているうえに、女子高校生が使わないようなくどいくらいの「である」口調で、アナウンサー的でもなく、女子高校生的でもなく、東北の方言でもなく、サナエのアイデンティティにリアリティがない。一人称の語り手にリアリティがないのでは作品全体にリアリティがなくなる。私から見たらサナエは東北の女子高校生ではないし、『もののけ姫』で猪の生皮をかぶった地走りみたいにうわべは被災者のふりをしていても中身が違う気味の悪い存在で、「お前たち破滅連れて来た。とうほぐ人でも女子高校生でもないもの連れて来た」と松ぼっくりを投げつけたいくらいである。宮崎駿風に言うなら東北の女子高校生に対する侮辱である。技術的な瑕疵としては「自分の顔が鬼畜のように歪んでいくのがわかった」という比喩があるけれど、鬼畜のように歪んだ顔というのは具体的にどういう形状なのか。なぜ鏡も見ずに自分の顔の歪み具合がわかるのか。一人称では自分の顔は見えないのだから外面描写はできないはずである。ナラトロジーを理解していればこんな文章にはならないけれど、技術的瑕疵を批評家が指摘しないのでは批評家の存在意義はないではないか。『自助論』の224ページでメンデルスゾーンが「存分にアラを探してこき下ろしてくれたまえ。どこが気に入ったかなんて話は聞きたくない。気に入らないところだけを教えてほしいのだ」とオラトリオ「エリヤ」の初演で友人の批評家に語ったという逸話が紹介されていて、「警戒すべきは、必要以上の称賛や好意的すぎる批評にのぼせ上ってしまうこと」で、「手きびしい辛辣な評価のほうがむしろ本人のためになる」と言っている。これはその通りで、美術や音楽のプロを目指して専門的に勉強した人なら経験したことがあるかもしれないけれど、未熟だけど才能を褒めてほしいといううぬぼれた奴は心が折れるくらい指導者にボロクソに言われる。熱心な指導というのはそういうもので、欠点や間違いを指摘しないで良い所だけ褒めるのは指導ではない。芸術は生活必需品ではないし、いくら芸術が好きだろうが一部の一流の芸術家以外は食えないからこそ一定の技術水準に満たない人は才能がないからやめろと足切りをして、師匠は選りすぐった弟子がちゃんと芸を身に着けて独り立ちして生き残れるように厳しい指導をする。芸術の水準に達しない落書きや雑音はゴミ扱いされて、若い芸術家は働かないで芸術にふけっている役立たずのゴミのように扱われるみじめな修業時代を経てようやく世に出て歴史上の芸術家たちと肩を並べられる本物の芸術家に育っていく。しかし文学だと子弟制度がなくなって厳しい指導者がいなくなって、プロ作家でも文学理論を理解していなくて技術水準が低かったりする。批評家にしても、もし新人が有名になったらわしが育てたと自慢したがって、わざわざ厳しいことを言って作家やファンや出版社に嫌われたくないという八方美人ぶりである。それは商品の評判を傷つけたくない商売人の態度で、芸術に対してとる態度ではない。北条裕子が被災地に行かないで震災を書いたことを褒めるのではなく、北条が作家として書き続けられるように取材の仕方を教えてやるのが新人を育てる側の本来の役割だろう。講談社は北条を守るというよりむしろスポイルしている。大型新人だのなんだのと絶賛して話題作りするのはマーケティングとしては成果があるだろうけど作家を育てることにはつながらないし、村上春樹以外にスター作家がいなくて純文学が売れないのは作家を育ててこなかった出版業界に原因があると私は思う。★★★☆☆自助論【電子書籍】[ 竹内 均 ]
2018.07.17
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精神分析学者の著者が浮世絵の母子が同じものを見ている構図の分析を通じて、人のつながりと、つながりがあり続けているという幻想と、つながりが断ち切られることから生じる幻滅について考察した本。●面白かったところ・浮世絵の婦人と子供は同じものを共に眺めることで関係を保っている構図になっている。・享保7年(1722)の好色本禁止令以来、美人画が制限されて取り締まられた結果、無邪気な男児がエロチックな女性に寄り添う家族画を装った好色本になった。・浮世絵に女児が少ないのはエディプスコンプレックスを根底にして、男女差別の大きかった江戸時代の母親が男児に生きがいを見出したから。・浮世絵以外の近世絵画は父親が登場するが、浮世絵は父親が不在。浮世という感覚は父子関係に伴わず、浮きと憂きという関係は母子のもの、男女のもの。・日本語の愛は上から下に愛を与えるもので、下から上を愛することは視野の外におかれて、逆に幼いものが大人に愛を求める甘えを際立たせる。上下関係を支配構造として否定的に意識すると甘えにくくなり、上下関係を受容すると甘えることができる。・恥が露呈して、見る側が拒否や嘲笑などの幻滅反応を起こすと、見られる側に恥の不安が発生する。●感想まずタイトルで何の本なのかよくわからないのがよくない。哲学的なエッセイかと思ってタイトルだけ見て買ったら全然違う内容だった。内容も精神分析というより絵画の分析なので、絵画に興味がある人のほうが面白いかもしれない。著者のあとがきによるとこの本は錯覚と幻滅の精神分析について書いたエッセイや論文を書き直して一冊に集めたもので、元は臨床の専門家に対して書かれたそうだけれど、ちゃんとした論文の形式で書かれていないので、何をどう考察したのか、結論は何なのかがよくわからない。これは私が門外漢だから理解できないというのではなく、書き方が悪い。例えば目次やサブタイトルも意味不明で、XI章の「浮かんでで消える」だと鶴の恩返しについての考察で「見るなの禁止」というサブタイトルがついているけれど、この言葉が何を指しているのかが章の中で説明されていない。見ることを禁止するというのが普通のとらえ方だけれど、なぜ「見るなの禁止」という見ないように命令することを禁止するという誤解を招きかねないような書き方をするのか、意味が分からない。こういう作者が独自の言葉遣いをして一人合点しているような文章があちこちにあって読みにくくて、他人に理解してもらうための文章になっていない。私が買ったのは2002年の第2刷で定価1900円になっているけれど、増補版だと定価2800円になっている。この内容でさらに値段が高くなったら、定価で買うほどの価値はない。★★☆☆☆幻滅論増補版 [ 北山修 ]
2018.07.15
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ユダヤ系ドイツ人の著者が老いと死について考えたエッセイ。●まとめ「死にゆく者の孤独」古代に比べて、他人の苦痛や死を我がことのように感じて他人と自己同一化する態度が一般化した。死は生きている者の問題で、あらゆる動物のうちで自分が死ぬことを知っているのは人間だけで、人間にとってのみ死が問題になる。予測できない運命的打撃に対する形而上学的な保護を約束してくれる超現実的な信仰への結びつきは不安定な境遇に身を置いて自力ではこの境遇を変えられる見込みの少ない集団の間でいまなお存続しているが、発達した社会では死の危険を前もって知ることができるようになり、守護してくれるべき超越的な力への欲求は弱くなった。幼児体験は来るべき死を意識した時にどう克服するかに関わる。強烈な恐怖心に耐えられるようにする周知の方法は自分は不死身の存在だと考えることで、幼児期に不死身幻想があった人は瀕死の人間をみると不死身幻想が弱められるので世話できなくなる。死を迎える人が必要とするのは別離にあたっての力添えと愛情。現在生きている人は自分の業績や創作のうちで重要とみなしたもので未来の世代の人々を相手にするが、当人は意識していない。死を恐れるということは自分が大切に思い生きがいとも感じているものが失われ破壊される事態を恐れるということ。人間社会総体の連続性が断ち切られるときには、人間が何千年もの間内部に持ち続けた来たものの一切の意味が消滅する。人間は相互に依存しあい、幾世代にもわたる人間社会の存続に依存しているが、我々は己の生涯の有限性と自分自身の来るべき崩壊を直視することを極度に避けようとするので、この依存関係を理解するのは現在は困難になっている。他人から完全に独立したと思っている現代人は自分だけの関心事を追及することを有意義に思い、自分だけの意味の探求を人生のもっとも重要な課題にするものの、その人たちには人生がばかげているように見える。ある人間の人生はどのような形にせよ他者に対して意味を持つので、自分の人生の中から他者との関連を欠いた自足しているような意味を見つけようとする試みは徒労に終わる。死を間近に控えた人間が周囲の人々にとって自分はもはやほとんど何の意味も持っていないのだと感じなければならないような事態に身を置くとき、その人間は真に孤独である。「老化と死──その社会学的諸問題の考察」若者が高齢者の老化に感情移入できないのはもっともで、想像できないし、想像したくない。高齢者でない人間が、老人やいまにも死んでゆく人間と自分とを同一視しようとしても、自分の老化と死という考えにできる限り抵抗する。この抑圧は発達した社会のほうが顕著である。人間は昔より理性的になり、事実に基づいた社会的知識、つまり確実性の感覚を与えてくれる知識が増大して、これに比例して空想的知識の影が薄くなると、人間にとって脅威となる老化と死を統御しようとするものの、自然万物に対して人間の力は限界があって及ばない。発達した社会では死を間近に控えた人間が普通の社会生活から隔離され、現代の若者にとって死は遠い存在になり、現代社会のように人間が音もなく衛生的に死んだことは歴史上かつてなかったし、これほど孤独を促進する社会的条件の出現は未曽有のことである。このままではよくないので、死を迎えた人の孤独感に注意をむけることによって発達した現代社会の課題の核心に気づく。●感想内容は良いことを言っているけれど、翻訳のせいか言葉遣いが回りくどくて、ページ数の割に値段が高い。買うほどでもないけれど、図書館にあったら読む価値はあると思う。日本人は自殺率が高いだの過労死が問題だのと騒ぐ割に、文学や哲学などの文系学問を役に立たないと言って人生と死を真剣に考えようとしないし、近視眼的に目先のことだけ考えて自分の死を見ようとしない。死刑廃止論者の弁護士が自分の家族が殺されてようやく意見を変えるようなもので、死が自分の価値観を揺るがさない限りは、死は他人事でしかない。資本主義社会で育った日本人は平家物語にある盛者必衰を知らず、取れる限りの権力を取って後世に残らない無駄な仕事をして、自分の生涯の時間をすべて金儲けに使おうとする。そういうふうに死を考えてこなかった幼稚な大人が死に直面した時、ミイラが蘇るというライフスペースや手をかざすと病気が治るという法の華のような非科学的なカルト宗教を信じて、必死にため込んだ財産を詐欺師に献上して、みじめに死からの救済を求めるようになる。個人の死だけでなく企業のゴーイングコンサーンや国家の存続のような集団の存続と消滅も本来は普段からまじめに考えるべきことだけれど、経営者も政治家も長期的な視野を持っていない。日本企業は少子化に直面してからようやく労働力の確保を考えるようになったけれど、大企業でさえその時々の景気任せでいびつな採用計画をしていて、不景気の時は労働者の代わりはいくらでもいるといってパワハラや雇い止めをしてきたのだから、労働者の側にしてもそういう会社がつぶれようが知ったこっちゃないし、自分が死んだ後に日本という国がなくなろうが知ったこっちゃないわけである。集団は個人の死を超えて世代を超えて維持するものだという共通認識がなくなったら、その集団は滅亡する。個人がカルト宗教に救済を求めるように経営者や政治家は外国人移民で企業や国家を維持しようと考えているけれど、これは現実逃避の夢物語だろう。さて文学について考えると、文学は死と関連がある芸術である。著者は54ページで「人間は幾多の世代から成る連綿たる鎖の中の限定された環なのであり、一定の区間にわたり自分が握って走り続けてきたたいまつを最後には次に控えた走者へ引き継ぐべく手渡す、あの松明リレー競争におけるひとりの走者にほかならないのだということに気づく者は、したがってめったにいないのである。」と言っているけれど、めったにいないというのは言い過ぎである。著者はユダヤ系ドイツ人だけれど、たぶん一神教の宗教だと、神に個人的救済を求めてしまって種族としての人間について考えないから、人間の環に気づく人がめったにいないということなのかもしれない。しかしまともな文学研究者や小説家は文化を引き継いでいることにとっくに気づいているはずである。じぶん一人だけで成立する言語や文学というのは存在しなくて、過去の文学研究や文章技術を引き継いで未来に橋渡ししてきたから現在の言語や文学がある。言葉は作者の死後も残るので、真の文学者は孤独も死も恐れないのである。「書よめば昔の人はなかりけり 皆今もあるわが友にして」という短歌を残した本居宣長は言葉が時間と死を超越することを理解して、それを端的に表現している。それを理解せずに金や名声を得る手段として小説を書くような小説家は偽物である。金目当ての作家の言葉は作者が死んだら忘れ去られるけれど、本物の作家の言葉は千年経っても残る。鴨長明は『方丈記』に火事や地震の惨禍を書いて無常の死生観を語ったけれど、死を他人事としてとらえず、妻子がなく出家して一人で隠遁生活をして年老いた自分の死にも向き合っている。孤独に現実と向き合って、言葉を残して死ぬ覚悟があるのか、孤独と死への態度が本物の作家と偽物の作家の分水嶺になる。同じほうじょうでも、群像新人文学賞を受賞した北条裕子は自分の死に向き合わずに、借り物の言葉で他人の死を書くのはおこがましいとは思わないのだろうか。小説家や批評家や編集者が美人の新人小説家を担いで話題作りをして、他人の死を感動的な娯楽として扱って金儲けしようという程度の見識しかないのであれば、純文学というのは文学者を気取りたい世間知らずのぼっちゃんおじょうちゃんの暇つぶしの手慰みとして馬鹿にされてもしょうがないではないか。そういう似非文学者たちにはくたばれという言葉がにあう。最近の西日本の水害で亡くなった人も、もし自分が死ぬとわかっていれば家族や社会に対して死ぬ前に言いたかったことがいろいろあっただろうと思う。小説家の仕事は自分が生きた時代の人間や社会を観察して、他人の人生に共感して、語られなかった言葉を想像力で汲み上げてフィクションにすることである。それができないなら自分のことだけを語ればよい。ノンフィクションを参照して、誰かが後世に残したくて語った言葉を自分の言葉にすりかえるのは小説家の仕事ではない。★★★☆☆死にゆく者の孤独新装版 (叢書・ウニベルシタス) [ ノールベルト・エリアス ]
2018.07.09
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最近模倣について書いたページのアクセスが増えたと思ったら、芥川賞の候補作になった北条裕子の『美しい顔』が参考文献の類似表現を使ったという騒動でもめているようである。美人女性がデビュー作で批評家から高評価されたあげくに芥川賞候補という出世街道に乗ったのに、逆に注目を浴びたタイミングでケチが付いた。私はこの小説を読んでいないし、読むつもりもないけれど、賞レースで疑惑がある作品が候補になるのは由々しき問題なので、この問題について考えることにする。『美しい顔』がどういう小説かと言うと、群像のウェブサイトには「十七歳の私と幼い弟を残して母は行方知れずになった。マスコミの取材に協力するうち、私の内側で何かが変わっていく。未曾有の災厄に襲われた人間はどのように一歩を踏み出すのか――。選考委員激賞の驚異のデビュー作。」と書いてある。『美しい顔』と参考文献がどの程度の類似なのかは、netgeekの記事によると「その横に名前、身長、体重、所持品、手術跡といったことが書いてある」、「今日までに見つかっている遺体はこれがすべてです」といったセリフが類似表現らしい。出版関係者らしいTsunoda Naokoのブログによると、つまみ食いしている箇所がけっこうあるそうである。朝日新聞の記事によると、遺体を蓑虫が一列にならんでいるようにたとえている部分が類似している。これを見る限りだと偶然の類似はありえなくて、コピペ改変型の剽窃のように私には見える。●講談社と新潮社の対応講談社は7月3日に群像新人文学賞「美しい顔」関連報道についてと声明を出して、「6月29日以降の一部報道により、本作と著者について中傷、誹謗等がインターネット上等で散見され、盗用や剽窃などという誤った認識を与える文言まで飛び交う事態となりました。これらの不当な扱いによって、本作と著者およびそのご家族、新人文学賞選考にあたった多くの関係者の名誉が著しく傷つけられたことに対し、強い憤りを持つとともに、厳重に抗議いたします。今回の問題は参考文献の未表示、および本作中の被災地の描写における一部の記述の類似に限定されると考えております。その類似は作品の根幹にかかわるものではなく、著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません。」と言っている。一方で新潮社は「『遺体』と複数の類似箇所が生じていることについては、単に参考文献として記載して解決する問題ではないと考えています。北条氏、講談社には、類似箇所の修正含め引き続き誠意ある対応を求めています」言っている。剽窃か否かは当事者同士の協議で最終的な結論が出るだろうから外野がどうこう言ってもしょうがないのだけれど、私は単に事実の参照に留まらなくてミノ虫とかの比喩表現が似すぎていると思うので、新潮社を支持するし、盗作や剽窃が誤った認識だとは思わない。しかし裁判で盗作を認定する基準はすごく厳しいらしいので、おそらくは裁判をしたら講談社の言うとおりに法律上は盗作や剽窃ではないという判決になるかもしれない。だからといって、裁判官が読者として作家を応援するわけではない。選考委員や批評家がほめたし法律上は問題ないと講談社が強弁したところで、最終的に作品の価値を判断するのは個々の読者である。読者が読む価値がないと思えば、それがその小説の価値である。●誰が悪いのか5ちゃんねるでの議論を見ていると類似表現を見抜けなかった編集者や選考委員を責める人もいるようだけれど、その点で私は群像新人文学賞の選考段階での編集者や選考委員を責める気はない。プロ作家に担当編集者がついている場合ならテーマについて参考資料を調べたり助言したり取材を手伝ったり校正したりするだろうからパクればわかるだろうけれど、素性の知れない新人が持ち込んだ小説を一読してどの本のどの表現のパクリかなんてすぐにわかるもんでもない。たとえば死体の描写にしても、震災関連のノンフィクションだけでなく、震災とは全然関係ない戦争小説や医療小説からパクっている可能性だってありうるし、漫画や映画やアメドラのような絵や映像からパクっている可能性だってあるので、膨大なデータベースからパクリを検出して類似度を判定するAIでもないと選考期限内の短期間でパクリを見つけるのは無理である。賞レースで編集者や文学賞の選考委員がパクリを見抜けなかったのはそれはそれで問題で選考システムを改善するべきだけれど、それよりもまず編集者や選考委員さえだまそうとする作家の姿勢が問題である。新人作家が他人の創作や表現に敬意を払わない創作姿勢でデビューしてよいのか、それを出版社が後押ししてよいのか。著者だけでなく、群像の編集部や新人賞の選考委員の姿勢も問われる。自販機のコンセントでスマホを充電して1円の盗電でも捕まるように、たった一行の剽窃でも作家のモラルとしてはアウトである。謝ったら許してくれる人もいるかもしれないけれど、超えていけないラインを超える危ない人として距離を置かれてもしょうがない。大衆小説ならまだしも、純文学で自分の言葉で表現しようとせず、他人が考えて表現したことを自分の表現のように扱うのは恥ずかしいことである。近年はインターネットで一般人の感想が共有できるようになって、小説家だけでなく漫画家やイラストレーターやデザイナーやミュージシャンのパクリが次々に判明したけれど、調べればわかったり、パクられた人が見たらわかったりような安易なパクり方をする人は、すごいものを見つけてきて自分名義に書き換えたら自分がすごいと勘違いしているようなもので、創作がしたくて創作しているわけではない。称賛されたいという結果ありきで称賛されるに値する元ネタを見つけてきて改変するのは創作ではないし、その称賛は元ネタのほうに与えられるべきものである。芸術家なら大江健三郎がフォークナーをパスティーシュしたように、優れた芸術のテクニックや感性を取り入れて自分の持ち味として確立するべきであって、他の作品の内容や表現を転用する短絡的なパクリには芸がない。芸がないのは芸術ではない。東日本大震災を経験して、津波や原発や復興に何も感じず何も考えなかったという日本人はほとんどいないだろう。自分が生きている間に千年に一度の天災が起きたなら、その印象を何らかの形で表現したり記録に残したりしたいと思うのは当然である。しかし大勢の人が経験して注目したことだからこそ、半端な創作では実体験の鮮烈な衝撃に劣る。戦争、天災、革命、テロのような史実の重大事件をモチーフにして傑作を作れば注目をあびて芸術史に残るし、そこに芸術家の野心も絡むけれど、重大事件だからこそそれを取り扱う作家の思想や芸術性が問われるわけで、若い新人が扱うテーマとしては向いていない。衝撃的なモチーフを扱ってすごいことをやった気分になるのは作家としてはナイーブである。カミュが『ペスト』で架空の事件に見舞われた登場人物たちを通じて不条理の思想を展開したように、テーマを掘り下げていく思想の深さのほうが重要である。『美しい顔』は作者が取材不足を自覚しているなら他の本の内容をパクってまで東日本大震災を舞台にしなくても、隕石の墜落とか巨大蟹の襲来とか巨大だんじりの暴走とか架空の事件を物語にして、これは震災の比喩だなと読者に気づかせるようなやり方もできたはずである。そうしないで直接東日本大震災の被災者の女子高生を主人公にしたあたりに震災ポルノで話題作りを狙うあざとさが見える。芥川賞の候補になったことがある小説家の木村紅美のTwitterで震災を題材にすることへの葛藤がつぶやかれているけれど、これがまっとうにテーマに向き合おうとする小説家の態度だと思う。●取材しないで小説を書くのはよいのか私はフィクションに取材は必要ないと思う。たとえ現実とは違うような記述があったとしても、そういうことが起きている可能世界なのだという風にみなすこともできる。ポストモダニズム以降はプロットの矛盾さえも許容して面白さとしてみなすようになったし、マジックリアリズムのように動物がしゃべってもいいし、実験的な文章表現でもいいし、つまりは何でもありである。そこに作者の思想や芸術的なテクニックが表現されていれば、それが作品の価値を裏付ける。なんでもありなら想像で適当に書いてよいというわけでもなく、逆説的に、何でもありだからこそ作者の教養や思想が試される。同じテーマの先行作品を読んで差別化しているか、比喩に想像力があるか、語彙が豊富か、哲学や文学理論を理解しているか、現実世界の政治経済をどうとらえているか、生老病死にどう向き合うか、等の複合的な知識を統括して作品として完成させる芸術観や思想が必要になる。取材をしたからといって芸術になるわけではないし、取材をしなかったからといって芸術でなくなるわけではない。例えばピカソは内戦中のスペインに行かずにパリのスタジオで「ゲルニカ」を描いたし、宗教画を描いた画家でキリストやマリアに会ったことがある人なんて一人もいないけれど、取材しないからといって芸術性を損なうわけではない。リアリズムだけが芸術の評価基準ではない。しかしリアリズムの作品を作る際には、物語にリアリティを出すために現実世界を取材する必要がある。そこでどの程度取材をするのかという線引きが作家の芸術観によって違う。実体験を私小説として書く人や、資料を何百冊も読んで外国に滞在したりして専門家レベルの知識をもつまで取材する人もいるけれど、リアリティがあるからといって物語が面白くなるというわけでもない。予算と時間が限られている中で、事実関係の取材に力を入れるよりも、プロットを面白くするために力を入れるという制作方針もあってよい。たとえばテレビや映画の時代劇なんかは時代考証がいいかげんで、刀の差し方が間違っているとか、歩き方が違うとか、専門家が見ればわかるレベルでいろいろ間違っているらしい。しかし視聴者も江戸時代に生きたことはないのでその間違いには気づかないし、事実と違うからといって物語の面白さを損なうわけではない。視聴者もそれが作り物だということは頭の片隅に入れながらフィクションの世界に没頭して楽しんでいるので、こんなの僕の先祖が生きた江戸時代じゃないよと怒り出す人はいない。さすがに時代劇に携帯電話やメロンパンが出てくるレベルで事実と違うなら視聴者に怒られるだろうけれど、時代劇っぽい雰囲気を壊していなければたいていの視聴者は満足する。だったら別にそこまで時代考証や事実にこだわらなくても、フィクションとして面白ければいいんじゃないかという考え方もできる。さて『美しい顔』の件に戻ると、この小説は現実世界の東日本大震災を舞台にした一人称のリアリズムの物語なのだから、ちゃんと取材して書かないと現地の人が読んだ時には作り物としての粗が見えてしまう。私は読んでないから何とも言えないのだけれど、5ちゃんねるの文芸誌の感想スレに投稿された感想では「東北の沿岸部は東北のなかでも訛りが強い場所で、そうした訛りを用いられないところに違和感があった。」「なまりがないところから作品がめっちゃほつれて虚構性があらわになる」とリアリティの欠如を指摘しているものがあった。私はとうほぐ出身でふぐすまの知人もいるのでふぐすまの方言や訛りもある程度わかるけれど、主人公のあねちゃが話す言葉にリアリティがないならその心理にもリアリティがなくなるので、リアリズム小説としては大きな瑕疵になる。『美しい顔』を絶賛した群像新人文学賞の選考委員や批評家たちは東北出身でないから方言のおかしさには気づかなかったんだろうか。現地を取材しないでこれだけ書けるのはすごいと批評家がほめているけれど、この小説は被災地のトポスが重要なのだから取材するべきだった。例えばアイヌがアイヌ語で話すのと標準語で話すのでは違う意味を持つというのは誰でも理解できると思うけれど、『美しい顔』は福島の人が方言でなく標準語で話すことの意味を考慮しているのか疑問である。地方の人にとっては方言が母語で、標準語はテレビや本で後天的に覚えるものなので、地域の絆や伝統を重視している人ほど方言を使う。映画だと白人以外の役を白人にやらせるホワイトウォッシングというのがあるけれど、地方の人の役を標準語をしゃべる人にやらせるのは標準語ウォッシングとでもいうようなもので、著者や批評家がそこに無自覚なのだとしたら、方言を話す人のアイデンティティや地域とのつながりを軽視しているということだ。方言や訛りは同郷の人が聞けばあのひとはあの地域の出身なのだなと一発で見抜けるくらいのアイデンティティのよりどころである。批評家の佐々木敦は「真正面からあの出来事に向き合っているさまに感動を覚える」と言っているけれど、出来事に向き合う以前に、人間に向き合うべきではないか。●盗作した人の才能はどう評価するのか『美しい顔』は盗作だとしても選考委員や批評家が激賞したのだから才能があると擁護している人もいた。これは半分は当たっているものの半分は間違いである。つまらない作品や下手な作品からパクっても意味がないので、パクる人は面白い作品を見つけてくる審美眼はあるという意味では才能がある。しかしその審美眼に創作能力が伴わなず、独力で作品を生み出せないのでは創作の才能はない。審美眼があっても創作能力が乏しいなら、技術力や発想力が身に着くまで地道に下積み修行をするのが本筋である。あるいは作家になることに固執せずに編集者や批評家として作家以上の審美眼を発揮することだってできる。あるいはある程度の創作能力があっても独創性が乏しくて何かを参照しないとうまく創作ができないなら、漫画や映画を公式にノベライズしたり、舞台用に脚本化したり、人気小説の外伝を担当したり、翻訳したりする道もある。そもそも芸術家が自分の才能を確信しているなら他人から盗作なんかしない。盗作しないと良い作品を作れないなら、それは芸術家として独自のものを作ろうとする信念や創作技術が足りないということなので芸術家として不適格だし、盗作で作品を底上げして楽してオシャレな芸術家の立場を手に入れようという態度は芸術への冒涜である。盗作した人を才能があるからといって業界に留まらせようとするほど人材不足なら、そんな業界は潰れてしまえばいい。●文学賞はちゃんと選考しないと賞としての意味がない私は文学賞の賞金額が低いことがパクリの温床になっているんじゃないかと思う。群像新人文学賞の賞金はたかが50万円で、小説を書くくらいなら普通に働いたほうがましなゴミのような賞金額である。他の純文学の新人賞も横並びで似たようなもので、高くても100万円である。そもそも大手出版社が50-100万円で業界の将来を担う才能を募集しているのを編集者はおかしいと思わないのだろうか。出版社は高い金を払って新卒採用して高学歴な編集者を採用しているのに、新人作家の発掘にはろくに金を払おうとしない。群像新人賞は原稿用紙50-250枚までの作品が対象なので、250枚の作品で受賞したとしたら原稿用紙1枚あたり2000円である。原稿用紙1枚書くのに2時間かかれば時給1000円である。さらに取材費用も持ち出しなので、50万の賞金で利益を出そうと思ったらろくに取材費用などかけられない。群像新人文学賞は「気鋭の才能を輩出した群像新人文学賞は、更に一層の清新な才能を待望しています。」と言っているけれど、これではスーパーマンを最低賃金で募集してやりがいを搾取しようとするブラック企業のようなもんである。ゴミのような賞金しか出せないなら、それに見合うゴミのような作品しか集まらなくて当然だろう。もらえるかどうかもわからないゴミのような賞金を目当てに金と時間をかけて取材して真面目に小説を書くのも馬鹿らしいので、50枚でも250枚でも賞金が同じなら、なるべく労力を削って短く書くのが合理的な判断だし、パクってばれなかったら小遣い稼ぎできてラッキーというモラルのないセコケチの格好のターゲットになる。ちなみに第47回文藝賞でもネットからモチーフを盗作して受賞取り消しになったそうな。詩をパクって詩の賞を受賞しまくって激賞された女子中学生もいた。複数の新人賞でパクリが激賞されて受賞したり、デビュー後に実力不足でパクったりしていて、純文学の存亡にかかわる重大インシデントだらけで、もう今までのように応募者のモラルに頼る選考のやり方ではだめなのだ。出版社が本気で新人作家を発掘したいなら、賞金を高額にしてそのぶん選考を厳しくするほうがよいと私は思う。作品を作家と切り分けて作品単体の良し悪しを評価するやり方ではパクリは見抜けないので、例えば新人賞の最終候補に残った人と選考委員が芸術観や創作手法や文学的教養について討論して作家としての資質を吟味するような手間をかけた選考方法が新人作家の発掘に必要かもしれない。あるいは将棋だとアマチュアがプロ棋士になるためにプロ棋士と師弟関係を結んで奨励会に推薦してもらう必要があるように、新人賞受賞作として推した選考委員が新人のメンターとして数年間指導するなりして連帯責任を負うというやり方でもよい。作品の質を保つように出版業界全体で賞レースの選考の仕組みを改善していくべきだろうに、今変われないならいつ変わるのだろうか。早稲田のセクハラ批評家じじいにもあきれたけれど、『美しい顔』をめぐる講談社や批評家たちの対応にもあきれてしまった。講談社が真似しても参考文献扱いすればOKという姿勢で文学にかかわるつもりなら、もう清新な才能を待望するのはやめたほうがいい。
2018.07.01
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