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航空会社で組合活動をして経営陣と対立したせいで海外の僻地をたらい回しにされた恩地が飛行機墜落事故後の企業の体質改善のために抜擢される話。●あらすじ・アフリカ篇上国民航空のアラフォーの恩地元(おんちはじめ)は中近東からアフリカの僻地に送られて、仕事の合間に狩りをしている。ナイロビでの会議で社長にナイロビ就航を促すものの、本社はやる気がなかった。恩地が左遷された原因は労働組合だった。恩地は本社予算室の精鋭に抜擢されたエリートで委員長をやる気がなかったのに労務部の八馬から勝手に委員長に名指しされて、薄給激務で作業員が事故死したりする中で恩地がまじめに組合員のために会社と交渉しても会社が賃上げや労働時間削減に応じないので、首相が海外訪問から帰るタイミングでストを起こして桧山社長や堂本常務らの経営陣と揉める。副委員長の行天が肝炎になったので恩地が二期委員長をして泉沢が次期委員長になると、恩地は懲罰的人事でパキスタンのカラチ支店への転勤命令がでて、組合が不当配転に抗議して自主的にビラを撒くと会社は恩地の指示だと言いふらして、桧山は二年で戻すと言って配置転換を強行して、堂本は行天に恩地がアカで組合を利用していたと吹き込んで行天を組合活動から遠ざけた。恩地はカラチ支店で総務をしながら妻子を呼んで生活していると、スチュワーデスの三井美樹から行天が堂本や八馬と仲良くして出世してサンフランシスコ支店に栄転することを知る。パキスタンがインドに宣戦布告してカシミールで戦闘が始まって恩地は邦人の救援機手配の対応に追われ、視察に来た八馬に詫びて組合と縁を切れば日本で管理職にしてやると言われるものの断る。沢泉からの手紙でサンフランシスコで整備ミスが原因で起きた飛行機事故を会社が隠蔽しきれずに行天が安全神話に仕立ててうまくごまかして切り抜けていたことを知る。恩地は日本に戻れずにテヘラン支店を開設するためにイランに転勤になる。・アフリカ篇下恩地が島津支店長の下でテヘラン支店の開設準備をしていると、母が死んだと連絡が来て日本に戻り、桧山社長は2年で日本に戻すと約束する。その頃会社では畑委員長による経営陣側の新労働組合が作られて1社に2つの労働組合ができる事態になり、旧組合は引き抜き工作や不遇な配置転換を受けて規模が縮小していた。島津は様々なトラブルに対処して就航にこぎつけたのちに日本の子会社の役員になり、恩地は妻子を呼ぶ。元上司の人事部長の清水がテヘランに来て恩地が今後組合活動をしないなら日本に戻すと言うものの、恩地は旧組合員のために断ると、アフリカへの就航準備のためにケニアのナイロビに無期限で一人で行くように辞令がでて、納得できない恩地が出張の理由をつくって日本に戻ると桧山が入院して泣きながら謝るので、もはや桧山が社内に影響力がないと悟って恩地は辞令を受けることにすると、運輸省から天下りした小暮副社長が社長になる。恩地はナイロビで一から営業所を作り、コーヒー農園主の耀子ヒギンズのパーティーに呼ばれて獣医の兵庫らと交流する。妻子が来て、妻は子供を預けて恩地と暮らすというものの、恩地は会社に負い目を負わせたいので断る。ロンドン発羽田行きの国民航空の飛行機がニューデリーで墜落して行天が事故調査にあたり、副操縦士のミスだという結論になって国民航空の信用が落ちるものの、小暮社長は続投してケニア政府との交渉を打ち切り、恩地は放っておかれたのでやさぐれる。小暮は国会に呼ばれて責任を追及されて、組合活動をしたために十年僻地に飛ばされた恩地のことが話題になり、団体交渉で恩地が日本に帰れることになり、都労委で不当人事を証言すると都労委が会社の非を認めて全面勝利するものの、堂本は小暮を見限って都労委の是正命令に従わずに裁判をする方針を固める。1974年に恩地に日本帰還の辞令が出る。・御巣鷹山篇堂本が社長になり、54歳になった恩地は閑職の国際旅客営業部で国民航空の創立記念パーティーでケニア大使の相手をしていると、御巣鷹山に飛行機が墜落して自衛隊が救助に向かう。国民航空の山岳部員が招集されて恩地も救援隊に加わるものの、警察は国民航空を加害者として現場への立ち入りを禁止したので、藤岡市に待機している乗客の家族の世話係をすることになる。行天は事故原因を調査しようとして警察の許可を取らずに生存者の落合に面会に行って新聞に証言を載せたことが群馬県警や記者の熊野の怒りを買う。ニューヨークタイムズが事故原因は7年前の1978年のボーイング社のしりもち事故の修理ミスだとスクープして、修理ミスに気付かなかった国民航空も批判される。49日の慰霊祭が終わって現地対策本部が解散してひと段落ついても、恩地らは現地に残って遺族対応をしていると、恩地は窓際族を集めた大阪の遺族相談室の応援に駆り出されて遺族と補償交渉をすることになる。辞任を決めた堂本社長は弔問行脚をして遺族に批判されて、遺族会の「おすたか会」が国民航空を告訴して聴聞会が紛糾する。・会議室篇上利根川総理は国民航空を新体制にするべく参謀の龍崎を使って労務に明るい関西紡績の国見を会長に据え、海野社長と三成副社長が就任する。国見は現場の声を聴いて回り、国民航空労組、新生労働組合、乗員組合、客室乗務員組合に分裂して昇給差別されている状況を知って、組合統合のために会長室の部長に恩地を抜擢する。次期社長を狙う堂本派の秋月専務は国見に事故の責任を取って辞めろと言われ、新生労働組合で裏金作りをしている轟の金で人事権を持つ運輸大臣に働きかけて留任工作をするものの、轟は秋月を見限り、専務が廃止される代わりに行天が常務に昇進した。国見はコクピットを見学したり海外支店の社員から役人のたかり体質を聞いたりして実態を把握していると、新生労組委員長の長野が自殺して生協の納入業者から益田の汚職を告発する文書が届いたので恩地が裏付けをとるように命じられて国航商事専務の伊部に助言を求めて調査するものの、労務部の畑は秋月の復帰を信じて恩地に協力しようとしなかった。行天は三成と画策して懇意の記者に新生労組の会長批判の新聞記事を書かせて、旅行代理店からのキックバックで私服を肥やしていた田丸営業本部長は三成の永田町への中元用に一億円を集める。恩地は御巣鷹山に登り、贖罪の意識がない社内の連中をはびこらせてはいけないと決意する。・会議室篇下規制緩和で路線獲得競争が起きて、新生労組と通じている運輸族議員が国見を批判して、利根川総理も国見が無報酬で働いていて利権獲得に与しない厄介者だと気づく。義憤にかられた監査役の和光は国見にドル十年先物予約の巨額の為替差損と国航開発の社長の岩合ホテルの乱脈経営を進言して、恩地はニューヨークのグランドホテルの調査に行く。行天は航空局の石黒課長の愛人との密会用のマンションをペーパーカンパニー名義で購入してやり、社長命令で恩地を止めるためにニューヨークに行き、恩地より先に事情を調査して出世のために秋月と岩合を解任して力を削ごうと考える。岩合は雑誌に国見批判の記事を書かせて、恩地たちも広報部の行天が動いていることに気付く。国見に相談された元総理の永田が問題を預かり、記者に公表する。行天にペーパーカンパニーの社長にさせられた細井は顛末をノートに書いて東京地検特捜部に送って自殺する。十年先物は副総理の竹丸と日本産業銀行会長の池坊がインドネシアのODAを利用した裏金作りだったので閣議決定で国民航空の経営責任は問われないことになる。国見は総理の背任を知って岩合を解任してから辞任する意向を龍崎に告げると留意された挙句に更迭させられて、恩地には海野からナイロビ支店長になる辞令がでて、会社の思い通りに解雇されないために嫌々ナイロビに行く。行天は東京地検特捜部に呼び出される。●感想三人称。山崎豊子は新聞記者上がりの小説家のせいか、淡々としたドキュメンタリー風の文体でポエジーや遊びがない。1冊400ページで5冊分もある長編小説なのに、各章を盛り上げるためのストーリーアークが練られていないのはつらい。三人称しか書きなれていないのか、2巻で耀子ヒギンズが一人称で語る部分は下手で不自然な語りになっている。構成も下手で、アフリカ篇の冒頭部分でアフリカにいる現在と労組の過去の時間軸がちょくちょく変わるのが読みづらい。冒頭の状況に追いつくまでに600ページ分かかっていて、過去編が長いのなら下手に時系列をいじらずにそのまま時系列順に書いたほうがまし。それに冒頭で恩地が僻地を転々としていることを書いてしまったせいで、桧山社長が2年で戻すという約束を守らないということを作者が自分でネタバレしてしまっている。冒頭で読者が知らない異国の世界を書いて興味を引くのはつかみとしてはよい場合もあるけれど、アフリカを書いてもヘミングウェイほど魅力があるわけでもないし、動物の剥製を経営陣に見立てて撃つというのは安直にとってつけたような比喩で、その辺は文学的な工夫が乏しい。小説に「チェーホフの銃」という概念があるけれど、物語の前半で銃を持ち出したなら後半で使うべきなのに、アフリカ篇の最後で脇役のヒギンズに友情の証として銃をあげてから銃の出番がなくなり、結局恩地はただ銃を撃ったことがあるだけの人になっていて日本に帰ってからはハンティングの経験がまったく役に立っていないので、プロットの後半で銃を使うつもりがないなら無用な脱線は書くなという話である。内容としてはアフリカ篇は恩地が会社にいじめられる話が延々と続くけれど、恩地が自発的に行動するというより恩地の外側の事件に巻き込まれる形で物語が動いていて、恩地がなぜ航空会社に入社して何をしたいのか、なんでうんこみたいな会社にしがみついているのかよくわからない。そもそも海外転勤が嫌なら海外転勤がある会社に入社しなければいいし、無理やり労組の委員長にされてやる気がないなら適当にやり過ごせばいいのになぜか張り切って会社と対立して伝説の委員長になるし、そのくせ国見が会社を改革しようとするといったん社長室を断るし、出世したいのか組合活動をして待遇を良くしたいのか適当に定年まで大企業にしがみつきたいのか何をしたいのか意味不明。過去編を遡るなら新入社員時代の恩地の動機も書けばいいのに、そこを書かないので恩地に目的と動機がなくなっていて、物語の芯がない。会社の理不尽が気に入らないにしても、カラチで八馬を闇討ちするなり社長の約束の言質を書面に残すなり会社を辞めて外資系に転職するなり自分で会社を立ち上げるなりすればいいじゃんと思うのだけれど、恩地が経営陣に突っかかる割には喧嘩のやり方が下手だし結局は会社にしがみつこうとしているし、ヘタレの泥仕合を見ても面白くないので1巻を読み終わった時点でもう恩地に主人公としての期待をもてなくなった。会社が理不尽というより恩地の先読み能力がなさすぎて短絡的だし、ナイロビの税関でわざわざ職員を挑発して逮捕されるくだりは馬鹿すぎるし、恩地がエリートと言う設定に説得力がなくなっている。2巻の中盤からは恩地本人のネタが尽きたのか大企業の腐敗というテーマと無関係の現地人のエピソードの寄せ集めになっているのもよくない。パキスタンに妻子呼んで返して、イランに妻子呼んで返して、ケニアに妻子呼んでと同じことを繰り返しているのも話が冗長で、左遷ツーリズムとでもいうようなまだるっこしい展開。観光情報を知りたくて小説を読むわけじゃないんだからさっさとテーマを進めてほしいのに、伏線にもならない脇役がどっちゃり出てきて身の上話をしだして無駄に冗長になっている。恩地はサイの密猟を問題視している割には象牙をコレクションしていて、当時は象牙が合法だったのだろうけれど、この時代の人の倫理観はどこかおかしい。恩地を主人公にするなら御巣鷹山篇は恩地の視点から事故や会社の対応をどうとらえたかということを書くべきなのに、事故が物語の中心になってしまっていて、恩地が不要な脇役になっているのは小説としては決定的な欠点である。一部の遺族や関係者の名前は実名で書くのも中途半端で、ノンフィクションをやりたいのかフィクションをやりたいのかどっちつかず。補償問題のオチもついていなくてほったらかしたままになっている。取材と資料をもとにして書いたせいでこんな書き方になったのだろうけれど、御巣鷹山篇全体が小説というより山崎豊子選の事故エピソード集になってしまっていて、小説としては見どころがなくなっている。さらには会議室篇は国見が主役になっていて恩地はお使いを頼まれる程度で出番が少なく、国見が理想主義者として書かれているのに対して恩地が企業や仕事をどうとらえているのかが掘り下げられていない。恩地がライバルの行天を直接追い込むわけでもなく行天にやられっぱなしで、行天は終盤にぽっと出てきた脇役にちくられるという取ってつけたような終わり方で、政治家の裏金のほうはうやむやなまま。長編小説でこのオチは雑すぎる。恩地の娘の結婚式に行天を呼ぶ話題を出しておきながら結婚式の様子は書かないとか、岩合は解雇されても轟や益田の処遇は書かれていないとか、終盤に来ても投げっぱなしの脱線があちこちにあって、プロットがしっかり組み立てられていないので長編小説に見合うだけのカタルシスもない。取材して事実に基づいて小説的に再構築したものだと記して主要参考文献を80冊くらい列挙しているように、この作者は小説家というよりは情報をまとめるノベライズ作家で、ネットがなかった当時に一般ピープルが知らない業界で偉そうにしている連中の実態をあばくという着眼点こそよいものの、本や取材から得た一次情報を解釈しなおして別の物語として昇華させる力が弱い。飛行機墜落とかのセンセーショナルな話題で細部のリアリティがあるように書かれていると一見してよくできた小説のように見えるけれど、人が大勢死んだ様子を書けばすごい小説になるわけでもないし、登場人物が揉めれば面白くなるわけでもないし、ページ数が多いから傑作になるわけでもない。小説は単に出来事を列挙するのでなくテーマや構成が大事である。調べたことを全部書こうとして登場人物を増やしすぎて余計な脱線だらけになって、利益優先の大企業に逆らう人道主義者の恩地の話で始まったのに途中から主人公不在になって小説としてのテーマを掘り下げられなかったという点では失敗作である。作者は盗作で有名なのでどんなもんじゃろうと思って読んでみたものの、やっぱり盗作するような人は小説家の資質としてどこか欠けていて、小説として何が必要なのかを理解していないんじゃないかと思う。これなら事故遺族がなけなしの補償金を集めて恩地がケニアのヒギンズに頼んでウェズリー・スナイプス似の巨根の凄腕アサシンを雇ってコンクリートジャングルの巨悪を狩っていく痛快アクション巨編とかのほうがまだましだった。★★★☆☆沈まぬ太陽(一) ーアフリカ篇・上ー【電子書籍】[ 山崎豊子 ]
2018.10.27
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ヘーゲルとマルクスの中間に位置するフォイエルバッハについて論じた本。1888年、エンゲルスが68歳のときの刊行。●面白かったところのまとめ・ヘーゲルの「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」という命題が専制主義や警察国家などの現存するものの聖化として自由主義者の怒りを招いた。しかしヘーゲルにおいては現存するものがそれだけの理由で現実であるとは限らない。現実性という属性は同時に必然的でもあるものにのみ属するので、無条件に現実的であるということはない。かつて現実的であったものも発展の経過中に非現実的になり、その必然性、存在の権利、合理性を失い、死んでいく現実的なものに代わって、新しい生活力のある現実的なものが現れる。人類の歴史の領域で現実的であるすべてのものは時とともに不合理なものとなるのであり、はじめから不合理性を担っている。人間の頭脳の中で合理的であるものは、現存する見かけだけの現実性と矛盾しようと、現実的なものになるように定められている。現実的なものはすべて合理的であるという命題は、ヘーゲル的思考方法の規則に従って、すべて現存するものは滅亡に価するという他の命題に代わる。・近世の哲学の大きな根本問題は思考と存在との関係の問題で、古代の人間は身体の構造について無知だったので、思考や感覚は肉体の働きではなくて肉体に住んでいて死んだら去って行く魂の働きだと考えて、魂が肉体から離れて生き続けるとすれば魂の死を考える理由がなかったので魂の不死という観念が生まれた。神が世界を創造したのか、世界は永遠の昔から存在しているのかという問題は観念論と唯物論に二分した。なんらかの世界創造を認めた人々は観念論の陣営を作り、自然を本源的なものと見た人々は唯物論の学派に属した。ドイツの新カント学派がカントの見解を復活を企てたり、不可知論者がイギリスのヒュームの見解の復活を企てたりしたのは科学的には退歩である。18世紀の唯物論は機械論的で、重力の力学がある程度完成されていたにすぎず、化学は幼稚な形で存在しているに過ぎなかった。科学的知識がない当時に非歴史的な自然観をヘーゲルが持っていたことは非難することはできない。1848年の革命で観念論は行き詰った。・フォイエルバッハはヘーゲル主義者が正統派でない唯物論に進んで、基礎は唯物論だったものの伝統的な観念論にとらわれていた。フォイエルバッハの観念論は宗教をなくそうとするのでなく、宗教を完成させて哲学を宗教に改称しようとして、恋愛を新しい宗教の最高の形式の一つとして、恋愛、友情、同情、献身などの相互の愛情に基づく人間関係は宗教の名によって高い認可が与えられるときにはじめて十分に価値があるものと主張した。・ヘーゲルにおける悪とは歴史の発展の推進力が現れる形式。あらゆる新しい進歩は必然的に神聖なものに対する冒涜、死滅しつつあるが習慣によって神聖化されている古い状態への反逆として現れる。階級対立の出現以来、歴史の発展の梃子となっているのは貪欲と権勢欲のような人間の最も邪悪な激情である。しかしフォイエルバッハは道徳的な悪の歴史的役割を研究することは思いもよらなかったので、フォイエルバッハの道徳は貧弱なものでしかない。・フォイエルバッハは幸福を求める衝動が人間に産まれながらに具わっており、これがあらゆる道徳の基礎でなければならないというが、幸福衝動は外界との交渉を必要として、それを満足させる手段である食物、異性、本などを必要とするが、フォイエルバッハの道徳は幸福衝動を満たすこれらの手段や事物が各人に与えられていることを前提していて、手段を持たない人々にとっては実行不可能で値打ちがない。被抑圧階級の幸福衝動は支配階級の幸福衝動のために犠牲にされて不道徳だった。・愛があらゆる困難を切り抜けさせる神通力をなしているというフォイエルバッハの道徳理論は以前の諸理論と同じで、あらゆる時代、民族、状態にあうように作られていて、そのためにどんな時代にも適用されず、現実の世界に対しては無力。フォイエルバッハは人間を歴史のうちで行動しているものとして見ることを拒んで、抽象の世界から現実の世界への道を見出すことができずに零落した。フォイエルバッハの新しい宗教の核心をなしていた抽象的人間の礼拝は現実の人間と歴史的発展の科学によっておきかえられなければならず、マルクスが『新聖家族』でフォイエルバッハを超えて発展させる仕事を始めた。諸事実と一致しないあらゆる観念論的幻想を容赦なく犠牲にすることが唯物論。●感想1960年の翻訳で古いけれど、内容は100ページ弱で論理的に簡潔に書かれているので哲学書の割にはわかりやすいほうだと思う。ヘーゲル、フォイエルバッハからマルクスに至るまでのドイツの哲学に興味がある人は読んでおいて損はない。キリスト教圏では観念論から唯物論への移行ができずにいて、アメリカだと神が人間を創造したと信じている人がいまだに4割いるそうだけれど、日本でその問題がおきなかったのはなぜなのか。天皇の影響力がなかった明治時代以前は日本人は神々が日本列島を生んだという神道の神話を信じていなかったのかもしれないし、あるいは明治維新後に西洋化してキリスト教が布教されてはじめても魂の存在を否定する仏教のほうが浸透していたので、アメリカのような観念論者が生まれなかったのかもしれない。私は無宗教なので、愛はフォイエルバッハがいうほど重要でもないと思っている。愛というのは原始的な偏桃体の感情の次元で、道徳は前頭前野の理性の次元である。動物にも愛情はあるけれど、道徳は人間にしかない。類人猿から進化したばかりで前頭前野の使い方をしらない昔の人はキリスト教のお墨付きをもらった愛を至上のものとして崇拝していたけれど、現代では神の影響力がなくなって神に永遠の愛を誓ったアメリカ人の半分が離婚している。熱愛していたカップルはドーパミンが切れて3年で別れるし、育児放棄する母親がいるのもホルモンの作用で起きることで、意思の力で親子の愛や夫婦の愛が生まれるわけでもない。愛がなくなったとしても配偶者や子供を捨てないで家庭を維持するのは道徳的判断である。愛がないよりはあったほうがよいだろうけれど、愛があらゆる困難を乗り越える切り札のようなものかというと違うだろう。さて文学について考えてみる。恋愛やお涙頂戴物やホラーやポルノは原始的な喜怒哀楽の感情を刺激する、いわば幼稚な物語である。感情を刺激するのは楽しくてストレス解消になるけれど、それは思想の進歩や社会の改善につながるわけでもない。エンタメなら楽しければそれでよいけれど、芸術としての純文学がやるべきことは感情に対する刺激ではなく理性に対する刺激であるべきだろう。殺人鬼や幽霊が片っ端から殺しまわる恐怖を描いた物語はB級ホラーだけれど、殺人の動機を描いた『罪と罰』や『異邦人』は古典として読み継がれる文学になった。人間のありのままの本性を美化せずに書こうとする自然主義も、人間を理想化する白樺派も、どちらも道徳観に訴える文学らしい文学だった。愛や罪や道徳という抽象的な観念を具体的な物語として提示できることが文学の良い所である。しかし戦後に純文学が衰退しているのはなぜなのかというと、思想的停滞が根本原因になっている。各人が自由に行動して、無宗教も含めて自由に宗教を選んで、自由競争の中で自分の才覚で資産を築いて幸福になるというのは搾取の問題こそあるものの、労働基準法ができて昔と比べてある程度の人はそれなりに人間らしく幸福になれる思想で、ソ連と中国の共産主義が強制労働で大勢の不幸な国民を量産して自滅したので世界的な資本主義体制が確立された。あとは各国で税率と富の再分配の仕方に違いがある程度で、資本主義そのものに反対する思想がない。格差への批判はあっても、富裕層への課税と貧困層への富の再分配の問題なので資本主義を否定しているわけでもない。今の思想的なテーマは資本主義体制下での愛国主義になっていて、EUのように移民を受け入れて経済成長するか、トランプのように移民を排除して保護貿易をするかという点で、日本での外国人労働者の受け入れ拡大も国家の将来にかかわる問題である。これはキリスト教的な神の普遍的な愛が成立しないがゆえに、どのコミュニティを重視するか、別のコミュニティからきた部外者をコミュニティの構成要員として受け入れるか、コミュニティ内での利益の分配をどうするかという限定的な愛の問題になる。コミュニティ内での利益の分配は愛とは別の幸福の条件で、愛の代わりに金が人生の重大な問題になる。『グレート・ギャッツビー』は愛で破滅した金持ちの物語、『怒りの葡萄』は恐慌で破滅した貧乏人の物語、『金色夜叉』は恋に破れた男が極悪非道な金貸しになる物語で、経済や金銭の問題が純文学のテーマにならないということはないはずだけれど、日本だと経済小説はジャンル小説の一種として別枠扱いされていて賞レースの対象にもなっていないのはよくない。被抑圧階級が貧乏すぎて幸福衝動を満たせないことが少子化やら移民やら人種差別やらの現代社会の問題になっているので、経済問題に向き合うことなしに現代社会に向き合うことはできないのに、小説家が政治経済の諸問題を無視して抽象的な人間を描いて、現実の人間を見て新しく現実的なものを探すことに参加していないのである。大江健三郎は左翼が盛んな頃に左翼的テーマをうまく小説にしたけれど、今どきの小説家は政治経済の問題についていけなくなっていて、小説がメディアとして思想の発信源になっていない。本屋がつぶれているのも単にアマゾンや電子書籍が便利だという問題でなくて、町の本屋が人生を充実させる知識や思想の発信拠点になっていないのである。本屋が良書を目利きして、読者が一冊本を読むたびに賢くなって、社会問題の対処法を見つけて生きやすくなって、人生への希望を見つけて幸福を得ることにつながっていれば、本屋は地域に必要とされていたはずだし、読書離れは起きないはずである。暇な学生やフリーターや主婦が小説家になって政治経済から離れた身の回りの些細な出来事を書いたり、現実離れした妄想を書いたり、ビジネス左翼が歴史捏造本を売ったり、ビジネス右翼が愛国本を売ったりするような現状では文学にあまり期待を持てない。古典を真似て文学風にうわべの体裁を整えただけの趣味の文芸は毒にも薬にもならないので、作家が現代社会に向き合って問題提起をしてほしいもんである。★★★★☆フォイエルバッハ論 【岩波文庫 白】 / エンゲルス/松村一人(訳) 【中古】
2018.10.17
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元小樽市保健所長の著者がインフルエンザのパンデミックについて書いた本。●内容第一章 ドキュメント・豚インフルエンザ来襲2009年にメキシコからアメリカに豚インフルエンザが広がった状況と、日本で感染者が見つかったときの対応について書いてある。第二章 世界史を変えたパンデミックペスト、天然痘、スペイン風邪、SARS、エイズなどのパンデミックについて書いてある。第三章 鳥インフルエンザの不気味な予兆インドネシア、エジプト、中国で発生した鳥インフルエンザの対応状況について書いてある。第四章 過剰にして穴だらけの日本の対応パンデミックの危険度によって対応を分類したほうがよいよという提言が書いてある。●感想最近豚コレラが発生して問題になっているので読んでみたら、豚インフルエンザに特化しているわけでなく鳥インフルエンザも含めたパンデミックの話なので、タイトルのつけ方がよくない。いかにも新書的というか、刊行当時の時事問題の豚インフルエンザに寄せて興味を引こうとするタイトルにしたせいで長期的に見たときの本の価値がなくなっていて、これは作者よりも編集者が悪い。内容もインフルエンザを書きたいのかウイルスによるパンデミックを書きたいのか焦点を絞り切れていない。第二章で今まで世界で起きたパンデミックについて書いてあるけれど、そこはインフルエンザから話題がそれている。2009年刊行の本なので2014年のアフリカでのエボラ出血熱や2015年の代々木公園のデング熱については書いていないけれど、パンデミックを主題にするならインフルエンザ以外の既知のウイルスの感染経路や対策についてもっと掘り下げるべきだろう。それに著者が個人的にマスクが嫌いなのかもしれないけれど、そのせいで主張がおかしいことになっている。著者はマスクの予防効果は医学的に立証されていないといって、日本人がマスクをするのは自分の身だけ守ればよいという自己本位的な発想だと批判しているけれど、その一方で咳やくしゃみをするときはティッシュで口と鼻を覆う咳エチケットを推奨している。咳エチケットならティッシュよりマスクのほうがましだろうし、マスクするのは批判するようなことでもないだろう。そもそもインフルエンザの予防目的でマスクしている人より国民病の花粉症でマスクをしている人が多数派だと私は思うのだけれど、著者は自分が公衆衛生学の専門家だからといって公衆衛生の視点でしか物事を見れない視野狭窄になっているように見える。★★★☆☆豚インフルエンザの真実 人間とパンデミックの果てなき戦い【電子書籍】[ 外岡立人 ]さてインフルエンザと文学について考えようとしても何も思いつかなかったので、インフルエンサーについて考えることにした。小説というのは思想を媒介するメディアとして本来影響力が強くて、情報というのは物理的に脳の神経細胞の結合を組み替えて伝播するウイルスのようなもんで、だからこそ権力者は検閲をして反体制的な作家(インフルエンサー)を投獄したり処刑したりして思想が伝播しないようにしたのだった。これは右か左かは関係なくて、戦前の日本だと赤狩りで共産主義作家が拷問されて獄死して、共産主義のソ連や中国だと自由主義の作家が投獄されている。では現代で投獄されるほど影響力があるインフルエンサー的作家がいるかというと、いない。じゃあいつ作家の影響力がなくなったのかというと、高度経済成長期頃なんじゃないかと思う。私は戦前を生きたことがないので戦前の作家の実像は知らないけれど、戦前は共産主義者にせよ軍国主義者にせよまだ作家に思想があったようにみえる。これは戦争や結核などで死が隣り合わせだった時代だったからこそ、家族や友人の死を昇華しながら人生をいかに生きるのか、何に価値を見出してどういう社会を作るのかという思想が熟成されたのだろう。文人は東洋思想に最先端の西洋思想を取り入れて庶民を啓蒙して、各作家は艱難辛苦にまみれながら密度の濃い人生を送っている。文人は紙幣のデザインにも使われているくらいに国民の思想に影響力を及ぼしていたインフルエンサーだった。堕落論を書いた坂口安吾も、割腹自殺した三島由紀夫も、自分の思想に命を懸けていたからこそいまだに影響力を持っている。しかし戦後に資本主義社会で国民が豊かになるとプロレタリアもいなくなって、国家や政治や宗教がどうあるべきかという大きな主題から金儲けと個人の生活に主題が移ってしまう。医療が発達して死は老人になってから考えるような身近でない出来事になって、思想や宗教がなくても物はあるのでそれなりに充実して安定して生きられるようになって、人生の密度が薄くなった。工業化した社会で画一的な教育を受けて、地方都市に空港と新幹線が整備されて都会化して、テレビとインターネットで情報を共有して首都と地方の差も少なくなって、皆が似たような生活をするようになって個性も乏しくなった。中産階級の庶民が大学に行くようになって、専門分野が細分化されて高度になっていっちょかみの素人にはついていけなくなって、作家がリベラルアーツの知的エリートでなくなって作家が一般人を啓蒙する役割が終わって、作家の社会的影響力はなくなった。村上春樹のような人気の作家はいるけれど、読者の思想や行動を変えるほどの影響力は持っていないし、村上春樹が卵と壁がなんやかやと言おうがイスラエルとパレスチナの問題には何の影響ももたらさないし、村上春樹はパレスチナのために死ぬ気はないだろう。村上春樹は旧日本軍に批判的な小説を書いているけれど、ベトナム戦争の当事者として反戦を主張したアメリカ人と違って村上春樹は当事者として戦争を経験したわけでもないし、他人の反戦のイデアをなぞっているに過ぎないので、村上春樹ならではの思想があるわけでもない。じゃあ作家はこの先生きのこるためにどうするべきなのか。1.時事問題に取り組んで影響力を取り戻そうとするべきか、2.みんなに好かれる日和見のエンターテイナーになるべきか、3.世間を無視して個人的関心に向き合うべきか。3は社会が小説に関心を持たなくなって尻すぼみになるだけだろう。2は世間の顔色を窺って権力や資本主義に取り込まれた存在になって、小説の社会的意義をなくしてしまう。となると1をやるべきだけれど、思想や教養がないまま時事問題を扱うとかえって評判を落とすことになる。時事問題を扱った新潮45は世間から批判されるだけでなく社内の新潮出版文芸部からも批判されて逃げるように休刊したけれど、これは言霊がない金儲けのため出版なので社会に悪影響しかもたらさなかった。小川栄太郎という人はLGBT問題で私は初めて名前を知ったのだけれど、政治絡みの本ばかり出しているのになんで政治評論家でなく文芸評論家の肩書を使っているのか意味不明である。そもそも保守だと言っているくせに和服を着ずにスーツを着て、毛筆で手書きせずにパソコンを使って、古民家に住まずにマンションに住んで、和式トイレを使わずに洋式トイレを使うような人たちは日本の伝統を全然継承していない。保守したいならアーミッシュやアマゾンの少数民族のように文明を拒絶して伝統にのっとった生活をすればよいし、日本モダンガール協會の淺井カヨが大正から昭和初期の古い生活様式にこだわって生活しているのに比べて、ビジネス保守は戦前と同じ生活をするわけでもなく、伝統より利便性を重視して自分の生活を変えておきながら社会を変えたくないというのは言行不一致である。ビジネス保守は欧米の資本主義を受け入れて欧米と同じ生活様式で生きているくせに、個人主義は受け入れずにLGBTが欧米と同じ同性結婚の権利を持つのには反対するのは筋が通らない。マイノリティは多数決の民主主義だと不利益を被るからこそ政治家や社会的影響力がある人が率先して権利の不平等を正すために理解を求めないといけないのに、政治家や評論家がマイノリティへの偏見を正当化するのは異常である。その点で新潮出版文芸部は社内で批判ができるだけまだましだといえるけれど、肝心の作家がおとなしい。藤野千夜のようなLGBTの当事者や、クィア理論だのなんだのと言っている評論家がどういう反応なのか検索してみても、検索結果に出てこない。私が知らないだけでどこかの雑誌に書いていたりするんだろうか。社会の関心が高まっているときこそ声を上げてアンガジェするところだろうに、今言わないでいつ言うのだろう。作家が影響力がない一方で、着飾って飯の写真を撮るインスタグラマーがインフルエンサー扱いされているのはおかしな社会になったもんだなあと思う。
2018.10.08
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バカップルが喧嘩して仲直りする話。●あらすじ第1章 きいろいゾウ売れない小説家で介護施設で働く武辜歩(ムコ)と妻で専業主婦の妻利愛子(ツマ)は東京から田舎の村に移住して暮らしている。ツマは心臓が小さくて入院中に「きいろいゾウ」の絵本を読んでから動物の声が聞こえるようになって、犬のカンユやチャボのコソクと会話する。ムコは近所のアレチさんとどんじゃらをしようとする。海でムコに鳥の刺青があるのに気づくものの、ムコは刺青について語ろうとしない。第2章 よるがあけるまで妻我の犬のユメ(メガデス)が誘拐されたと騒いでいたら、登校拒否の9歳の大地の気を引こうとして洋子(ジェニー)が勝手に犬を連れまわしていて、洋子は金持の平木尚子の孫だった。第3章 せかいじゅうにきみをムコが漫才コンビのつよしよわしの十年ぶりの再会のいきさつを語って、介護施設で再結成漫才をすると、それを見た大地が大人になるのは恥ずかしくないと悟って東京に帰ることになる。ムコが世話をしていた足利が死に、ムコは自殺したない姉ちゃんとどんじゃらをしたことを考える。第4章 かぜにのってムコはツマが日記を読んでいることに気づいて、日記に昔の恋人の鳥の絵が気に入って出会ったけど彼女が病んだ話を書いてツマを置いて東京に取材に行く。第5章 よあけの、すこしまえ平木尚子がツマに夫にDVされていると語る。ムコのサイン会には大地が来て、その後でムコは昔の恋人の夫に会って助けてほしいと手紙を送ってきた理由を聞くと、恋人は障害を持った娘が死んだことを理解できないので、何かを思い出すかもしれないのでムコに彼女に会ってほしいという。第6章 せかいでいっとう嵐の日にツマが女の幽霊についていくと、アレチさんが墓に花を供えていた。ムコは恋人に鳥の刺青を見せて鳥が飛びたいのだといって、ツマのきいろいぞうになろうと思って家に帰る。●感想各章の初めにきいろいぞうの断片があって、ツマの一人称の語りの後にムコの日記を載せる形式。作家でもない語り手が読者の存在を意識しながら現在起きていることを実況中継する一人称というのは本来はありえない語りの形式なのでおかしい。最初は現在系で書いていたのに269ページに「その日から、私たちの少し苦しい生活が始まることに、そのときはまだちっとも気づいていなかった」と書いてあって結局過去から語っていることにしたり、その後でまた現在系に戻したり、351ページからはムコが日記でないのに自分語りしていたりして、作者がナラトロジーを理解していなくていつ誰が誰に対してなぜ語るのかという設定が突き詰められていない。エンタメ作家がよくやる小説のうわべだけ真似た語り方で、語りのリアリティがないと語る人物についてのリアリティもなくなり、どんな話を展開しようがつまらなくなる。内容としてはツマが心臓の病気より頭をなんとかしたほうがよいというくらいのアホなので、信用できない語り手というよりきちがいの語り手になっている。ツマが海ではじめてムコの刺青に気づくというのは今まで裸を見たことがないということだけれど、大地にセックスについて語ろうとしているのでセックスはしたことがあるようだし、苗字も別だし、どういう夫婦なのか不明。ムコツマの年齢も不明だし、ムコツマの両親も不明。場所に関する情報がなくて、やたらと田舎だと強調するもののどの程度の規模の市町村なのか不明。名田海岸という固有名詞が出てくるものの架空の場所のようである。元々場所と人間にリアリティがないのにツマが動物と話したり幽霊を見たりしてさらにリアリティをなくして、そのうえで自殺だの病気だのとリアリティが必要な展開にするのだから、内容も構成もちぐはぐ。動物と話すことがプロットに関係するわけでもなく、幽霊が見えるのはご都合主義になっている。前半はラノベみたいなくだらない冗長な内容で、後半は一変してケータイ小説みたいに病気と障害と自殺とDVと戦争の暗い話一辺倒になって、前半とは違うつまらなさになってうんざりする。おまけに主人公のツマが自分で何かをするわけでもなく物語のほとんどが他人のエピソードの寄せ集めで、主人公の動機のなさが物語全体のつまらなさにつながっている。ツマがムコに一方的に救われる受け身の存在として描かれているあたりは女性読者から見ても批判される女性像だろう。ツマがムコの指をつぶした後で平木尚子がDVをうけた話を聞いてムコへのDVを反省するわけでもなく微笑んでるのは頭がおかしい。たまに名前を見かける作家なのでどんなもんじゃろうと思って読んでみたものの、冒頭の「私の名前は、じゃーん、ツマといいます」という文章で読む気をなくした。読み始めて一分もしないうちに読む気をなくした作品は初めてである。つまらない小説がなぜつまらないのかを分析するのも勉強になるかもしれないと思って読んだものの、やはりつまらないうえに長い小説を読むのはつらい。小説は長さよりも密度と技術が大事だなあと再認識した。帯の映画の宣伝の宮崎あおいと向井理を見るとサブカル過ぎてやさぐれたい気分になる。「愛する痛みを知る、すべての人へおくる感動のラブストーリー!」だそうな。こういうのは送り付け商法みたいなもんで、すべての人へおくるものなんてたいていろくなものではない。架空の人物が病気だろうが自殺しようがトラックにひかれて異世界に転生しようがどうでもいいし、シリアスな話で感動させたいなら相応の創作技術を身に着けてリアリティに肉薄しないと茶番劇になる。じゃーん、こういうのをつまらないといいます。★★☆☆☆きいろいゾウ〔小学館文庫〕 (小学館文庫) [ 西 加奈子 ]
2018.10.03
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