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登山家の長谷川恒男の生涯について書いた伝記。●まとめ長谷川はベビーブーム世代で学校になじめずに中卒でレコード会社で働くものの退屈で登山を始める。当時は極地法で荷物係が大量の荷物を運んでベースキャンプを設営しながら少数だけが登頂するやり方が正統派で、ほとんどの山が初登されてしまったので、第二次RCCがより難しいルートを登るロッククライミングをするようになるものの邪道扱いされていた。長谷川はロッククライミングにのめり込んで実力をつけるものの、調子に乗って嫌われて山岳会を辞める。長谷川は遠藤甲太と組んで積雪期谷川岳滝沢ルンゼ状スラブ登攀で名を上げて、保守的な山岳会とは違うアルピニストの同人「星と嵐」を作るものの、人間関係が悪化して二年後に解散する。外国の登山がブームになる中でRCCはエベレスト登山を計画して森田勝を誘い、森田の推薦で長谷川も登山隊に加わるものの、悪天候で南壁の初登攀は断念せざるを得ず、長谷川はノーマルルートのサポートに回されて、登頂した石黒と加藤を下山させるためには長谷川はどうでもいいと本部が交信しているのを聞いて、集団での登山をやめてソロ・クライマーになる。長谷川は谷川岳の第二スラブを他のパーティーと一緒に登ったのに初登攀したと発表して物議をかもす。長谷川はアイガー北壁冬季単独初登攀を成功させて、森田も触発されてグランド・ジョラス北壁の単独登攀に挑むものの失敗する。長谷川がメディアに注目され、ファンクラブができるほど人気になり、結婚して仕事の幅も広がり、アコンカグアでアルピニストとしての業績を重ねる一方で、森田は弟子の村上と再度グランド・ジョラスに挑戦して死亡する。長谷川は寄せ集めの登山隊でエベレストに挑むものの失敗続きで、パキスタンの登山家のナジール・サビールと一緒に未踏のウルタルII峰に挑んで失敗して、再挑戦して頂上が間近という時にナジールが雪崩を警戒して6時にキャンプを出発しようと言うものの、長谷川は雪が安定していると判断して8時に出発して雪崩に巻き込まれて死亡する。●感想「人はいつでもどこでも、死ぬことができる」というプロローグの出だしの文章がまずよい。これから登山家の死に様を書くよと出し惜しみせずに最初に書いて読者の関心を引くのはよい。他の本やインタビューを基にしていて客観的に長谷川の人物像を掘り下げていて、文章も読みやすい。登山家が危険を冒してまで山に登りたがるのは登れなかった山が登れるようになって自分の成長がわかって目標を達成できるからだという登山家の心理も書いているので、山に登らない人でもわかりやすい内容になっている。私のように登山をしない人から見れば誰がどの山を登ったというのはどうでもよくて、エゴイストな登山家の実力と名誉をめぐる人間模様が面白い。長谷川はろくな教育を受けないまま競争に晒されて身勝手になって人間関係でつまづくという団塊の世代らしい特徴がよく出ている。空白地帯がなくなって、新しいことをやろうとすると「単独」「無酸素」「フリー・クライミング」等のカッコ付き登山が行われるようになる、というのは登山に限ったことでもなく、似たような空白地帯のない閉塞感は現代社会のいたるところにある。2019年に天皇が退位するということで平成はどういう時代だったのかという総括がいろいろなメディアで行われているけれど、平成はパソコンや携帯電話が高性能になって普及してインターネットの通信速度が速くなって便利になったという程度で、テクノロジーが進歩した一方で社会は多様性がなくなってかえってつまらなくなった。昔は個人経営の店があちこちにあって、たいして旨くない飲食店や小さな本屋でもそれなりにビジネスになったけれど、今は駅周辺やロードサイドの立地がいい所は大資本のチェーン店に占拠されて、コンビニが乱立して、郊外にイオンができて商店街がさびれて、田んぼにレオパレスや大東建託の同じデザインのアパートが建って、どの都市も似たような風景になった。テレビはどこかの番組が人気になると他局も横並びで同じ時間帯に似たことをやってすぐに陳腐化している。文学もヌーヴォー・ロマンやマジックリアリズムなどの技法的なアイデアはやりつくされて、「俳優」「モデル」「現役女子高生」「お笑い芸人」「セクシー女優」とかのカッコ付きの小説家が目立つようになって、何を書いたかよりも誰が書いたかに焦点が当たるようになった。じゃあこれが登山のバリエーションルートの開拓のような技術的に難しいことをやっているかというと逆で、小説で身を立てようという気もない門外漢に未熟な小説を書かせて内輪で褒め合うという安易な方向に流れている。長年形が変わらない山と違って社会は刻々と変化するので、小説家が人間と社会に向き合っている限り小説を書きつくすということはないはずだけれど、それなのに純文学が行き詰っているのはネットやYouTubeに客を取られたということではなく、小説家が社会に向き合うことを辞めたのが根本的な原因だろうと思う。先人の技術や思想を承継して社会に向き合えばおのずと文学の新しい境地は見えてくるんじゃないかと私は思うのだけれど、当事者である出版社や小説家がそれをやる気がなくてピクニックレベルで満足しているんじゃどうしようもない。★★★★☆長谷川恒男虚空の登攀者 (中公文庫) [ 佐瀬稔 ]
2018.11.28
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でくのぼうの成田長親が忍城に攻めてきた石田三成と戦う話。●あらすじ序:石田三成は秀吉が備中高松城を水攻めするのを見てこんな戦がしたいと思い、秀吉が天下を取った後は兵糧担当の三献茶として他の家臣に見下されていたところ、秀吉から北条家の支城の武州忍城を攻めるように命令される。1:アラフォーの成田長親は百姓たちからは役たたずのでくのぼうとして「のぼう様」と呼ばれていて、家老の正木丹波も幼馴染の長親を馬鹿にしていた。北条家は小田原城に籠城すると決めて成田家に兵を出すように言うものの、成田家当主の氏長や家臣は秀吉に降伏するか戦うか決めかねていて、北条家の使者が来て返答を迫られて主戦派で氏長の叔父の泰季が五百騎を出すと言い出す。長親は北条家にも関白にもつかずに今と同じように暮らしたいと言って馬鹿扱いされるものの、氏長の娘の甲斐姫は村娘を手籠めにした侍を成敗したときに事を収めたのが長親だったので長親に惚れていた。氏長は山中長俊を通じて関白に内通するつもりで主戦派の正木丹波、柴崎和泉守、酒巻靭負と役立たずの長親を留守居にして、北条家にばれないように戦の準備だけして秀吉が攻めてきたら戦わずに開城するように命じると、和泉の失言で村人にも降伏するとばれてしまう。2:秀吉は三成に忍城に出陣するように命令するものの、内通の事は堅物の三成には伝えなかった。三成は館林城が戦わずに開城したのが不満で、事を荒立てるために忍城へ戦をするか尋ねる軍使に高飛車な長束正家を送ると、正家は長親たちを愚弄して長親に甲斐姫を秀吉に差し出すように言ったので、長親は戦うと勝手に返答して家臣たちも同意する。泰季が病死すると長親が城代になり、丹波が百姓を徴発して籠城するのを三成は兵糧が減るだけだと判断して手出ししないでおく。3:鉄砲組を横一列に配置した正家に対して丹波は騎馬鉄砲で迎え撃ち、丹波は山田帯刀との一騎打ちに応じて倒して、敵を圧倒して正家を撤退させる。軍略好きな靭負はあえて老兵を集めて、三成の先鋒の貝塚と一騎打ちしてわざと逃げて、追ってきた敵を迎撃して三成を撤退させる。和泉は大谷吉継の鉄砲隊に苦戦するものの、鉄砲隊が進軍して川に入ったところで堰を破壊して敵を一掃する。三成は敵を見直して水攻めをすることにして、大金をかけて百姓を集めて利根川と荒川を結ぶ巨大な人工堤を5日で急造して川を決壊させると、忍城は本丸を残して水没する。4:長親は水攻めを破ると言って舟の上で田楽踊りを始める。これは長親があえて撃たれることで自分を慕う百姓を死兵にして弔い合戦に持ち込む作戦だと大谷吉継は気づくものの、三成は秀吉が水攻めを見物に来るという手紙を受け取ったので秀吉が来る前に忍城を落としておこうと焦って長親を鉄砲で撃つ。長親は生きていたものの百姓の士気が上がり、場外の百姓が堤を決壊させる。水が引いたら三成は総攻撃をする予定だったものの、秀吉は一夜城を築いて北条家を圧倒して小田原城を落城させたので、忍城も開城する。終:三成は長親に会いたがり、自ら軍使として入城する。正家が士分は財産と兵糧を全部置いて行けと本来の和睦の条件にないことを言い出すと、長親はそれなら戦うと言い出して撤回させて、甲斐姫を秀吉の側に置くという条件を受け入れて和睦する。北条家の支城で落ちなかったのは忍城だけだった。●感想三人称で、ちょくちょく資料を引用しつつ物語を展開する形式。「いま、成田氏長の軍勢が入場するのを見下ろす氏政は、この五カ月後に自刃し、息子の氏直は、高野山へと追放され、この翌年死ぬ。」(上巻p.107)「のちに秀吉は、北条方に氏長の内通を知らせて、この小才子を窮地に追い込む。」(下巻p.76)のように、読者が物語世界に入りこんでいるところにわざわざ現代の俯瞰視点を持ち出して未来をネタバレするのは邪魔だし面白さを損ねている。「当時の人は、秀吉の異様な風体を「大魁美麗」の粧とか「天下希代の壮観たり」などと激賞したというから、この時代の豪華趣味はよくわからない。」(上巻p.130)と作者の意見を挟むのも邪魔くさい。読者は物語を読みたいのであって、歴史の解説や作者の意見を読みたいわけではないので、物語を語ることに徹してほしい。古い言葉と現代語が混じっている会話文も雰囲気を損ねていて、酒巻靭負がいくら若造でもありえないだろうというくらいチャラ男すぎるので会話のトーンを統一してほしい。幕末くらいの下級武士なら砕けた話し方をする人がいるのもわかるけれど、戦国時代の武士が礼儀知らずのチャラ男なのは違和感しかない。それに章分けが序の後が1、2、3というアラビア数字で、そこは壱、弐、参じゃないのかとちょっとがっかりする。おしゃれな章分けのデザインになっているけれど、こだわるなら漢字にしてほしかった。内容としては、いくさの部分はエンターテイメントとしてそれなりに楽しく読めるけれど、甲斐姫が長親に惚れているという設定が話から浮いている。甲斐姫がおてんばとしてキャラ付けされすぎていきなりキスしたりして悪目立ちしているし、長親は武士の結婚適齢期を過ぎているのに妻帯者でないのも謎だし、長親がもめ事を一回収めただけでは甲斐姫が長親に惚れる動機としては弱いし、戦国時代に自由恋愛の価値観を持っているのも不自然で、甲斐姫がご都合主義的なお色気担当になっている。最後に秀吉の側室になる前に惚れた男に抱かれると言い出すあたりがおてんばというより破廉恥で興ざめした。ロマンティックが止まらない恋愛を書きたいなら時代小説でやる必要はない。三成は秀吉の真似をしたがって水攻めをしたのだ動機と行動の辻褄が合うようにしているけれど、それに対して主人公である長親は馬鹿なのか大器なのかよくわからない人物という演出をしているせいで、結局長親は何がしたいのか動機がわからなくなっている。長親が三成と戦うと言い出す動機付けに甲斐姫が使われているけれど、それなら最後に甲斐姫を秀吉の側室にすることにあっさり同意するのは意味が分からない。弱者である百姓を守りたい博愛主義者かと思いきや、無能だけど馬鹿にするやつに降参するのは嫌だという個人的なプライドで百姓をいくさに巻き込んでいて、何がしたいのかわからない。無能な長親が今までどんな戦に参加してどんな戦果を挙げたのかは書かれていないけれど、武士が中年になるまで生きればさんざん修羅場を見てきただろうに、長束正家に啖呵を切った程度で長親が腰を抜かす描写はおかしい。武家に産まれても殺し合いをしたくない人は出家するので無能で戦闘には参加しないけど将器だけはあるという武士像は違和感があるし、無能なのにカリスマがあるという十分な理由付けがされていないので、長親を馬鹿扱いしていた百姓たちがいきなり結束するのも不自然に見える。長親が甲斐姫のトラブルをうまく収めた方法を書かないことで本当は切れ者だという可能性を残しておいたくせに、長親の行動の一貫性のなさを最終的に馬鹿だからと片付けてしまうのはずるいやり方。三成側の動機を書いたことで一応物語として成立しているけれど、敵よりも主人公側の動機を掘り下げるべきだろう。それに三成にしても、忍城を愚弄して無駄に戦を仕掛けたくせに最後は投降しようとした百姓を殺したやつは許せんと善人ぶったりして、人物像がぶれている。フィクションは何でもありとはいえ、実在の人物をフィクションとしてゆがめた形で消費してしまうのは私は個人的に好きではない。偉人を魅力がある人物として書くならいいけれど、プロットの都合で馬鹿や悪人に仕立て上げるやり方は嫌いである。時代小説は現代とは違う戦時下の環境でどういう思想をもってどういう生き方をしているかという個々の武将の生き様が見どころだけれど、そこで現代人っぽい人物像に脚色してしまうと時代小説の意味がなくなる。生死をかけた武士を命をかけたこともない現代人が馬鹿扱いするのは敬意がない冒涜で、これがもし自分の先祖ならこういう書き方はできないだろうし、世が世なら打首になる所業である。忍城が水攻めを耐えたという史実の面白さに頼りすぎて、戦国時代のうわべの面白さだけ書いて武士の死生観や甲斐姫の乙女心は書けていないし、創作部分が逆に史実の面白さを損ねている。結局は作者自身が生きることはどういうことなのかということに向き合って敬意をもって人物を描写しないと、何を創作しても実在の武士の死生観に劣るものにしかならない。歴史考証をした結果として長親がでくのぼうだったという説を出すならまだわかるけれど、歴史上の人物を当人から文句が出ないのをいいことに勝手にでくのぼうにしてはいけない。勝負を書きたいだけなら歴史の面白さに頼らないでファンタジーでやればよい。★★☆☆☆のぼうの城【電子書籍】[ 和田竜 ]「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」とエラーメッセージが出たので、楽天の言葉狩りにこの場で抗議しておく。「ごうかん」を漢字にすると引っかかるようだけれど、単語が公序良俗に反するのではなく、行為が公序良俗に反するのであって、言葉狩りをしてよい理由にはならない。誰が何の理由で公序良俗に反すると判断したのか開示するのが楽天の企業としての責任だろう。それができないから楽天は三流IT企業なんだ。
2018.11.18
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日本テレビの人気のテレビ番組「世界の果てまでイッテQ!」が外国の祭りをでっち上げていたことが文春にスクープされて、巷で是非が議論されている。私もこの番組を好意的に見ていてがっかりしたので、何がダメなのか考えることにする。・演出と捏造は別の問題であるショービジネスに台本や演出があることは問題ないと私は思っている。例えば一時期プロレスは視聴者には秘密にされていたブックが明るみに出て、キックボクシングとか総合格闘技とかのブックがなくてKOが出やすい派手なスポーツに観客を奪われて人気が低迷したけれど、それでもプロレスは個々のレスラーがキャラ作りをして派手な衣装や新技を取り入れて人気を盛り返した。観客はレフリーがヒールに襲われてカウントを取らないのが台本通りだとわかっているし、謎の覆面レスラーの正体も知っていたりするけれど、故障を抱えたレスラーが全力で迫真の試合をするからこそ楽しんで応援できるのである。『逃走中』という番組でよく卑怯な行動をした人が批判されるけれど、それが番組を面白くするための台本通りだというのも問題ない。しかし捏造は演出とは別の問題である。例えばクイズ番組で街頭アンケートを取って一番人気の食べ物は何かという質問があったとして、クイズを面白くする演出としてふざけて明らかに間違った答えを言うのはいいけれど、一番人気はキムチ鍋だとアンケート結果を捏造するのはいけない。それは視聴者を騙す行為だし、放送を利用したスポンサーへの利益誘導や、世論形成やプロパガンダにつながりうる。テレビ局側は橋祭り問題は視聴者は許しているという論調に持っていきたいようだけれど、視聴者は当事者ではないのだから視聴者の意見を聞くのは筋違いである。内山信二は誰も傷ついていないからいいと言っていたけれど、当事者の意識の低さにあきれる。捏造でだれが被害を受けるかというと、本気で番組を盛り上げようと頑張っていたのに裏切られた番組出演者たちと、変な文化を捏造されたラオス人で、テレビに出演する側こそテレビ局に対して怒るべきである。日本にイシマタラという文化があると韓国人記者に捏造された事件があったけれど、これは日本人がすぐにそんな文化はないと反論したから大事にならなかった。しかしラオスの文化には日本人はなじみがないので、文春が問題視しなければラオス人は変な祭りをやっていると誤解したままの日本人だっていたかもしれない。日本人がなじみがない国を相手にしてすぐに真偽がわからないような形で捏造したから余計に悪質なのである。誰も傷つかないというのは、例えば「日本のバラエティをラオス人にやらせてみた」という企画なら橋渡りアトラクションをやっても全く批判されなかったと思う。宮川大輔が体を張って日本のバラエティはこうやるんだよと大袈裟に演出した手本を見せれば笑いになっただろうし、日本とラオスの文化交流にもなっただろうし、入賞者にスポンサーの商品を配ってラオス人が喜ぶ様子を映せばスポンサーの宣伝にもなっただろう。そういうのを誰も傷つかないという。傷つくかもしれない人の存在を無視してこれぐらいならやっても許されるだろうというのは誰も傷ついていないということではない。演出として捏造をやっても許されるなら、もう世界の果てまでロケに行く必要すらなくて、群馬県の大泉町にセット作ってそこで適当に外国の祭りをでっち上げればいいじゃんということになる。しかしそれが魅力があるかというとない。実在の外国の祭りだからこそ視聴者は普段行けない外国でどんな祭りをやっているのか見たいのであって、テレビ局がひねり出した祭りっぽい企画を見たいわけではない。この程度の演出はバラエティ番組なのだからやっても許されるのだとイッテQを擁護する人は、番組の存在意義さえ否定している。・現実とフィクションを区別するべき小説やテレビドラマの場合はこの物語はフィクションで現実の団体や人物とは関係ないとちゃんと断りを入れている。しかしなぜかバラエティ番組やお笑い芸人は面白ければ視聴者を騙してもよいと思っているらしくて、それは視聴者を馬鹿にしている。上岡龍太郎はオカルト嫌いで『探偵!ナイトスクープ』で除霊師に幽霊のお祓いをさせたディレクターに怒ったそうだけれど、テレビの影響力を知っているからこそ科学的根拠がない情報をテレビが無責任に放送することに批判的だったのかもしれない。番組が面白いことは無責任であることの免罪符にならない。テレビ局は『発掘!あるある大事典』のデータ捏造とか、佐村河内や奇跡の詩人を持ち上げたりするとか、目先の視聴率やスクープを求めたあげくの不祥事を何度も起こしている。事実を事実として放送する気がなく、演出した面白さを放送するなら、この番組はフィクションですと断りを入れるべきである。視聴者がフィクションだとわかっていれば、興味がない視聴者は見ないで済むし、嘘を信じないで済む。現実に即して面白い作品を作るのには多大な労力と時間がかかるし偶然の要素も必要だけれど、演出すればその労力を短縮できるので、製作側にとって演出は便利である。しかし番組を面白くするためには演出してよいという考え方は出演者にとっても損なことで、芸能人が何か月もトレーニングをしてチャリティーマラソンをしようが、ドーバー海峡を泳いで横断しようが、貧乏な芸人が長年の苦労の末に漫才のコンペで勝とうが、リアリティーショーで出演者が本気で恋愛しようが、テレビ局の企画だからどうせヤラセだろうと言われるようになって、視聴者は出演者の努力も苦労も真剣に受け取ろうとしなくなる。フジテレビは偏向報道をしてバラエティだけでなく報道でさえ信用できないテレビ局として視聴者から愛想をつかされて凋落した。日テレも初動対応を間違って現地コーディネート会社のせいにして素直に謝らなかったせいで、もはや番組の問題ではなくテレビ局の体質を問われている。イッテQを打ち切りにしようがしまいが、同じ制作者が番組制作をする限り同様の問題は起こりうる。テレビ離れしている中でも高視聴率がある人気番組でテレビの信用を無くすことを自らやるのは馬鹿だし、これを機に襟を正すどころか問題ないと擁護する御用聞きの芸能人がわらわら出てくるのは業界として終わってると思う。・フィクションは危険なものであるコンテンツビジネスは何でもフィクションとして現実をゆがめた形で消費しつくしてしまう。現実を娯楽のフィクションとして消費するということは、現実に向き合う力や現実を見定める力を失いかねない危険をはらんでいる。小説はテレビより古くからあるコンテンツで検閲を受けたりしたあげくに表現の自由を獲得したからこそ、まともな小説家は小説が毒になりうると理解している。しかしテレビ業界はテレビが危険なものになりうるという認識が甘いのではないかと思う。イッテQの橋祭り問題では、製作者側がうわべの面白さだけを求めてラオスの歴史や文化に真摯に向き合うつもりがないという姿勢が露呈した。本来は文化を作る側であるはずのテレビ局が、現実の文化を軽視してフィクションとして消費する側に回っている自覚がなく、その姿勢のまま報道にも関わるのは恐ろしいことである。現実に基づいたフィクションは何度も参照されて長期間価値を保つのに対して、現実離れしたフィクションの衰退は起きるべくして起きる。20世紀半ばにアメリカで西部劇が流行ったときにインディアンは史実とは異なる悪役として誇張されて、それが結局は西部劇の衰退につながった。中国では抗日ドラマが作られて、素手で日本兵を引き裂くとかのあり得なさすぎる演出が飽きられている。フィクションが現実から離れすぎると、もはや現実世界に生きている人の関心事ではなくなる。純文学も衰退したのも同様である。小林秀雄は作家は小説を読んで小説を書くのではなく現実を見て小説を書けというようなことを言っていたし、菊池寛は若者が小説を書いてもしょうがなくて人生を見る目を持って世の中の出来事に触れないとだめだというようなことを言っていたけれど、現代の純文学作家は現実に向き合わない作家だらけになって純文学の社会的影響力はなくなっている。現実を見る目をなくすとどうなるかというと、フィクションと現実を混同する人が出てくるようになって、フィクションが現実に悪影響を及ぼすようになる。西部劇が衰退した後も徒党を組んで馬に乗って「アワワワワ」と叫んで襲ってくる間違った先住民のイメージは残ったし、抗日ドラマが中国の都会の若者に見向きもされなくなってもテレビを信じる情弱な田舎の中国人の反日感情は残っている。吉田清治の捏造から慰安婦が国際問題になったように、意図的にフィクションを元に史実を歪曲しようという勢力もいる。マスメディアが嘘に加担して嘘の情報を広めてはいけない。しっかりした現実があるからこそ、消費者はフィクションを現実と切り分けて空想として楽しめる。消費者が安心してフィクションを楽しめるように、コンテンツを作る側こそフィクションの危険性を自覚して現実を見る目を持たなければいけない。
2018.11.15
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大金持ちの長野社長が私怨で上場企業を買収して会社を私物化している栗山親子を追い出そうとする話。●あらすじ53歳の弁護士の大木は首都産業の社主の65歳の長野満から再婚するために昭和物産の70歳の栗山大三に復讐したいと頼まれる。40年前に長野は昭和物産の先輩だった栗山の妻の英子と相思相愛になったものの、栗山は嫉妬して英子と別れようとしなかったのが原因だった。大木は長野に株主代表訴訟を勧めて、栗山と養子で甥の史郎の公私混同の証拠を英子からコピーしてもらって証拠を固める。インフォユニが訴訟に参加すると、栗山は慌てて自分が退職金なしで引退する条件で和解したがっているというメモのコピーを英子が持ってきて、長野は史郎が会社に残ってもいいからすぐ和解したいというので和解する。和解した後になってまた長野が栗山親子を昭和物産から追い出したいと言い出したので、公開買い付けで昭和物産を敵対的に買収することにする。首都産業が銀行を抑えると、窮地の昭和物産は外資のコロンビア・システミックに身売りしようとして、財務省の官僚も昭和物産を勝たせたがり、長野の側近の大里がインサイダーで逮捕されて買収が失敗に終わる。大木はコロンビア・システミックと協力して、昭和物産の株主総会で史郎が株主総会の延期を言い出したところで首都産業側に議長を交代させて新取締役を選任する。栗山は裁判所に訴えたものの勝つ見込みはなく、史郎が自殺したことでマスコミは英子を熟女シンデレラとして中傷すると、英子は睡眠薬をオーバードーズして自殺する。●感想大木の一人称。著者が元検事の国際弁護士なので弁護士視点なのだろうけれど、一人称でやる必然性がない。守秘義務がある弁護士が一人称で読者に向かって語ること自体が本来ありえない語りの形式で、大木は読者に対して語るのではなく弁護士事務所の同僚に語るとかして語りの動機が必要になる。そのうえ物語における現在がいつの時点なのか不明でナラトロジーの始末ができていない不自然な語りになっている。一人称なのに()を使って自分の心理を書くのもおかしいし、103ページで伝聞を直接見聞きしたように三人称で書いたり、164ページで史郎の心中を神の視点で書いたりするのは視点が統一できていない。さらに大木が話の中心なのに自分の私生活についてはまったく語ろうとしないので、誰が主人公で何を書きたいのかよくわからない話になっているし、脇役についても掘り下げないので人物に見どころが全くないし、そのうえニューヨークのビル・ニーダー弁護士を思い出しただのなんだのと脇役ですらなく伏線にもならない固有名詞を出したりする無駄な脱線が多くて登場人物も整理されていない。内容は長野がいったん栗山と和解して英子と結婚したのにまた栗山親子を追い出したいと心変わりする動機が不明で、結局何のために法廷闘争しているのかよくわからないし、大木も勝っても負けても依頼者から金を取れればいいというドライな態度なので、読者としては誰にも肩入れできずに裁判の行方がどうでもよくなる。長野は株主代表訴訟で栗山の公私混同を非難していながら、自分も私怨のために会社の金を使って昭和物産を買収しようとして公私混同をしていて、登場人物たちにモラルも信念もない。登場人物たちに人間的魅力がなく、感情の起伏も乏しく、脇役の活躍もなく、どんでん返しもクライマックスもなく、文章表現も単調で、見どころがないのでは小説としては失敗である。弁護士の仕事の苦労とか、弁護士と依頼者との信頼関係とか、原告と被告との法廷闘争とか、どこかに焦点を絞って物語の見せ場を作る必要があるのに、ただ弁護士が淡々と仕事をするだけでは業務解説になってしまう。ゲーテは小説では特に心情と事件が表されなければならないと言っていたけれど、事件があるだけでは不十分で、その事件に対する心情や人間関係を書かないと小説にならない。動機があって物語を牽引するのが長野で、語り手の大木は依頼を引き受けただけで動機がないのだから、それなら大木の一人称にせずに三人称の長野視点で法廷闘争の一喜一憂を書いたり、栗山視点で破産する様子を書いたりするほうが見せ場が作れた。敵対的買収や会社の私物化や老人の恋愛という刺激的なテーマを扱っていながら、技術的な未熟さが原因でこの小説はつまらなくなっている。作者は語り手を自分と同じ弁護士にせず、語り手から距離を置いて物語のどこが読者にとって面白いのかを客観的に把握するべきだし、それができないなら原案者として他の人に執筆を委ねたほうが作品の完成度は高くなったかもしれない。ある程度社会的地位を得た経営者や弁護士が承認欲求から小説を書きたがるけれど、テーマについての知識はあってもそれを小説として昇華できていないパターンが経済小説には多くて、それでは小説というより作者の経歴自慢や知識自慢で終わってしまう。出版当時は一般的でなかった敵対的買収を物語にするというのがこの小説の狙いだったようだけれど、小説としての見どころがないのでは現実のM&Aのノンフィクションを読むほうがまし。実業家が下手な小説を書いて実務のための貴重な時間を浪費するのは社会にとって多大な損失なので、実業家は本業で社会に貢献するほうがよい。★★☆☆☆買収者(アクワイアラー) (幻冬舎文庫) [ 牛島信 ]
2018.11.12
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変な図書館の職員のアラサー男が美女とエッチして堕胎する話。●あらすじサンフランシスコにある市民が自作の本を持ってくる変な図書館で31歳のわたしが住み込みで働いていたら、セクシーすぎる体にコンプレックスがあるヴァイダが本を持ってきてエッチしたら妊娠してしまったものの今は子育てできる状態ではないので、洞窟の倉庫係の飲んだくれのフォスターに図書館の留守番を頼んで、堕胎するために二人で飛行機に乗ってメキシコに行って、堕胎して図書館に戻ると、図書館に本を持ってきた女が勝手に後任になると言い出してわたしとフォスターはくびになった。●感想「わたし」の一人称。わたしは信用できない語り手で、わたしの年齢は書かれているものの本名も人種も家族構成も出身地も前の仕事も不明で、語り手自体にリアリティがないので物語全体にリアリティがない。回想形式に徹せずに実況中継みたいな一人称になったり、途中でヴァイダの一人称に切り替わったりするあたりはナラトロジー的におかしい。語り手が自分について語らないだけでなく、他の登場人物も頑なにわたしを名前で呼ばないあたりも不自然で、主人公を固有名詞を持たない抽象的な存在にしたのは何か理由があったのかもしれないけれど、このやり方は私にとってはつまらない。信用できない語り手は真摯に語ろうとしていないので、真摯に読むに値しないという意味でつまらない。これなら語り手が真摯に語ろうとしている日本の私小説のほうがつまらなくてもまだましである。実験みたいなのもあちこちにあって、「わたしはもちものがすくないの。もっているものといえば、たなにほんがなんさつかと、しろいじゅうたんと、ゆかにはちいさなだいりせきのてーぶる、それにれこーどがなんまいかあるだけ。」(p.99)とわざとひらがなで書いたり、「「…………」わたしはいった。」(p.107)と何を言ったか書かなかったりしているけれど、小手先で読者の注意をそらすような工夫が小説の本質的な面白さに寄与するわけでもない。そういう小手先の工夫はこの小説でなくたってできるし、この小説でやる必然性がないし、シュールリアリズムほど発想の面白さもない。翻訳者の青木日出夫は解説でわたしが35人目か36人目の図書館員でこれが描かれたジョンソン大統領時代はクリーブランド大統領をどう数えるかによって35代目か36代目の大統領であやふやなので、この図書館はアメリカの暗喩で、図書館員がアメリカ大統領で本を持ち込んでくる連中はアメリカ市民だと考えることもできると言っているけれど、それだと先代の図書館員が妊娠で辞めたりオーストラリアに移住したりバイク団出身だったりしたことも歴代大統領の暗喩にならないと意味がないので、アメリカの暗喩というほどの意味はなくてただの時事ジョークなんじゃないかと思う。なんで『愛のゆくえ』という日本語のタイトルになったのか不明だけれど、原題はThe Abortion: An Historical Romance 1966で、テーマは愛でなく堕胎である。堕胎をユーモラスに描くという点にこの小説の狙いがあったのだろうけれど、堕胎をテーマにするなら変な図書館のくだりは蛇足だし、なんで堕胎のためにわざわざメキシコまでいかないといけないのかという当時のアメリカ国内の堕胎をめぐる宗教的問題に切り込んでいかないと問題提起にならない。ストーリーは社会からはじき出されたうだつが上がらない男になぜか若くてセクシーな美女が一方的に寄ってきてほいほいエッチするというご都合主義な展開で、村上春樹の小説を読んだ人なら既視感を覚えるくらいに作風が似ている。しかしブローティガンの小説はストーリーが一本調子で伏線も問題提起もなく、村上春樹の小説のほうがストーリーがあるだけエンタメとしてはましで、もうブローティガンは村上春樹に食われてしまっていまさら読む価値がなくなってしまった。新潮文庫版の裏表紙には「彼女とわたしの奇妙な関係は、その日から始まった……。」と書いてあるけれど別に奇妙でもなくて普通に同棲しているだけだし、「やさしく、内気で、文明社会とは断絶した人々のファンタジーの世界を、おかしみと哀しみをこめて描く。」と書いてあるけれど、リアリティのない世界をファンタジーの世界と呼ぶのは詐欺だし、サンフランシスコにある図書館は文明社会の一部なので文明社会と断絶していない。この裏表紙を書いた人はこの小説を読んでないんじゃないかというくらいでたらめな紹介文である。裏表紙が真摯に書かれていないような本はだいたいハズレである。★★☆☆☆【中古】 愛のゆくえ / リチャード ブローティガン / 新潮社 [文庫]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2018.11.06
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ハロウィンは欧米の収穫祭で、日本人はやる必要がない祭りだけれど、経済界が金儲けのためにクリスマスやバレンタインデーと同様に秋向けのイベントとして2000年代からハロウィンを大々的に宣伝するようになった。地域の子供向けのイベントとして親子で外出する動機を作ったり、カボチャを使った新商品を作ったりして経済を活性化するということ自体は問題はない。ところがパーリーピーポーが騒ぐ口実にして、もはや本来の意味からはずれてコスプレして渋谷に集まって騒ぐイベントになってしまった。しかし幽霊と関係ないマリオのコスプレとかだったり、コスプレイヤーほどキャラクターに対する愛着がなかったり、欽ちゃんの仮想大賞ほどアイデアも練られていなかったりして、文化の発展に寄与するわけでもなく、騒ぐ当人以外は得していない。渋谷のハロウィン暴動は荒れる成人式と同じ構図で、酒を飲んだDQNが騒ぐ→テレビで放送する→目立ちたがりのDQNがもっと騒ぐ→テレビが特集を組む→目立ちたがりのDQNが徒党を組んで気合い入れて騒ぐ→行政が問題視してイベント規制、という展開になっている。こうなってしまってはビジネスとしては失敗である。●DQNマーケティングの是非DQNをターゲットにした商売というのがある。クラブミュージック、刺青、バイク、車の改造、ドンキホーテ、パチスロ、オラオラ系ファッション、バーベキュー、サーフィン、スノーボード、メルカリ、居酒屋、風俗、麻薬とかにDQNが金を落とす。とび職とかでサラリーマンより金を持っているDQNもいるし、DQNは計画性がなくて借金してでも衝動的に欲しいものを買うので、DQN向けの商売というのは儲かる。しかしDQNでない人との問題も起きるので、儲かるからと言ってDQNをターゲットにしてビジネスをしてよいのかという議論になる。海水浴場での飲酒や音楽を禁止するのも海の家の売上を上げるよりもトラブルを防いで海水浴場のイメージを保つためのルールで、そもそもDQNが酔って騒いで喧嘩して民家にゴミを捨てなければければそんなルールはなくてもよいのである。渋谷のハロウィンも目立ちたがりのDQNを煽るDQNマーケティングになってしまった。コスプレ衣装屋は儲かっても渋谷の商店街の売り上げは三分の一になったそうで、地元に金が落ちずにゴミ処理だけを押し付けているのでは渋谷区長に規制されてもしょうがない。しかしむやみに規制するよりは誰かがイベントを仕切ってイベント会場に隔離したほうがよい。例えば代々木公園で年中なんかのイベントをやっているように、そこをハロウィンのコスプレ会場にすればよい。あるいはフジロックみたいに山奥でハロウィンフェスをやれば一晩中騒いでも誰も迷惑しない。渋谷と反対にDQNを排除して成功しているのが池袋のハロウィンコスプレフェスや川崎のハロウィンパレードで、人目がある昼間のイベントにして、騒いで目立ちたいだけのDQNが近寄りがたい明るい雰囲気にしているせいか、大規模なイベントにも関わらず痴漢や暴徒化といった問題も起きていない。主催者や開催日時がはっきりしない祭りや集会の類は治安維持や交通渋滞の面からも悪影響があるので規制する方向でよいんじゃないかと私は思う。どうしても渋谷の路上でハロウィンをやりたい人は、表向きはデモとして届け出を出して「東京オリンピックは税金の無駄遣い」とかのプラカードを掲げてコスプレして練り歩けばよい。せっかく人が集まるのだから、ウェーイウェーイと意味不明な奇声を上げて騒ぐのではなく何か社会的なメッセージでも発したほうがましだろう。●外国の文化を取り入れることの是非クリスマスやバレンタインデーのようなキリスト教由来の行事はもう日本で定着しているし、ハロウィンも広まって田舎でも定着しつつある。しかしそれは良いことなのだろうか。仏教徒ならハロウィンをやるよりまず釈迦の誕生を祝う灌仏会に行くべきだろうし、神道なら氏神の祭りに参加するべきだろう。自国の文化さえ尊重できない人が外国の祭りなんてやって浮かれている場合ではない。灌仏会も神社の例祭も金儲けのためにやるわけではないから地味だけれど、DQNのように目立つ必要なんかないのだから本来は地味でよいのである。土用の丑の日や恵方巻に反発があるように、金儲けのために無理やりイベント化されたものには日本発だろうが外国発だろうが市民が参加する理由はない。限定イベントに流されやすくてほいほい金を払う人がいるから企業も節操なく便乗しようとするけれど、外国の行事を商業的にゆがめることは外国の文化の軽視になりかねない。神仏への祈りに切実さがなくなり、悪霊への畏怖がなくなり、豊作を有難がらなくなったのはそれだけ豊かな生活ができるようになったということである。渋谷のハロウィンは百鬼夜行ならぬ百DQN夜行で、感謝や畏怖の感情をなくした苦労知らずの若者のバカ騒ぎとして象徴的である。衣食足りて礼節を知るどころか、豊かになったがゆえに人間の醜悪さをさらけ出すというのは皮肉なものではないか。その醜悪さを後押しする企業の利益優先主義もまた醜悪である。いかに客に消費させるかを考えるより、いかにして生きるべきかということを考えるのが先にあるべきだろう。マスコミも視聴率がほしくてハロウィンでDQNが暴れる映像を取りたがって、地味な灌仏会や例祭といった日本の伝統行事は特集しない。金儲けばかり考える大人がいるからこそDQNな若者が育つという日本の縮図を渋谷のハロウィンで見た気がする。外国の文化を浅く取り入れて商業主義にゆがめるくらいならやらないほうがましだし、まず自国の文化をきちんと継承するべきだろう。ハロウィンをやるならやるでかぼちゃの収穫を体験をするとかして食料が手に入ることの苦労やありがたみを子供にきちんと伝えるほうがよい。なんも収穫していないのに収穫祭をやること自体がおかしい。●フィクションでのハロウィンディズニー映画の『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は骸骨やらゾンビやらのハロウィン的世界をテーマにしているけれど、面白いかというと面白くない。まずキャラクターがかわいくないし、デフォルメされているせいでホラーでもないし、微妙な感じである。ホラーとしてなら普通のゾンビ映画とかのほうが焦点が絞ってあるので見どころが作りやすくて面白い話になる。名探偵ポワロシリーズには「ハロウィーン・パーティ」というエピソードがあって、ハロウィンで少女が殺人事件を目撃したと言い出したら殺される話である。ハロウィンは雰囲気づくりに使われているけれど、結局やることはミステリとして殺人事件が起きるだけなのでハロウィンならではの面白い展開になるわけでもない。クリスマスが『グレムリン』とか『ホームアローン』とかの物語の軸になって面白い作品になっているのに比べて、ハロウィンは物語の方向性が限定されすぎてフィクションでは使いにくいようである。日本だと特別なイベントがなくても日常的に妖怪や幽霊が出てくるのでホラーをやるなら別にハロウィンが舞台である必要性もないし、ハロウィン的なゴーストの世界を軸にしてしまうと人間の出番がなくなってしまう。欧米のフィクションではしばしば魔女がステレオタイプな悪役として描かれるけれど、大人はキリスト教の非人道的な魔女狩りのほうがえぐいと知っているので、魔女を素直に悪役として見れなくなってしまう。ハロウィンはゲームのイベントやアバターが増えるという点ではフィクションに役に立っているともいえる。ゲーム内でアバターを着せ替えるだけなら渋谷のハロウィンのような暴動も起きないしユーザーも楽しめる。しかし結局はハロウィンは物語の面白さを引き出すというより、商業的にハロウィンを利用しようという需要くらいしかない。●私の意見のまとめハロウィンは地域や経済を活性化するビジネスになるものの、本来の収穫祭の意義を逸脱してDQNがトラブルを起こすことが問題になっている。私はハロウィンが嫌いというより理性がなくバカ騒ぎするDQNが嫌いなので、ハロウィンのイベントを規制するのでなく、DQNを規制したり制御したりする方法を考えるほうが建設的だと思う。ハロウィンだけでなくサッカーや年越しなどの行事のたびに渋谷で混乱が起きる様子は日本の恥の風物詩になりかねない。フランスのハロウィンでは暴徒化して100人が逮捕されたのに比べて渋谷は13人の逮捕なのでまだましという見方もあるけれど、日本が外国人労働者の受け入れを拡大してのちに日本が外国人だらけになることも見据えると、警察は大勢のDQNが暴れだす前に制御する方法を今のうちから訓練しておいたほうがよい。警察が検挙実績をあげるDQN収穫祭になってしまって、普通の人が怖がってイベント参加を敬遠するようになったらビジネスとしては失敗である。
2018.11.04
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フォトジェニー説やモンタージュ説などの1910年代から50年代までの映画理論の解説書。●まとめルイ・デリュック:映画の表現の基礎的な要素は装置、照明、リズム、マスク(俳優)で、リズムはモンタージュを目指している。モンタージュで異なる映像を交互に組み合わせることができ、我々は内面的にも外面的にも並行して起こった事件を見ることができる。現在と過去、現実と夢の関連と対立の可能性はフォトジェニックな芸術の一番暗示的な手段の一つ。ジェルメーヌ・デュラック:プロデューサーは俳優たちに演じられている劇的境遇で述べられるストーリーを物語ることが必要だと信じているが、動きと境遇との混同があるので、劇化という束縛から解放されなければならない。映画の魂である運動は、単に人工的に映像の自然の展開の上に置かれたテーマの図解で、ドラマを創造するものは十分な運動の強さである。運動の表現はリズムのみに基づく。リズムは物質的要素と感情的要素から作り上げられた運動の展開である。映画作品はあらゆる外部からの美学を拒み、固有の美学を探し求めなければならない。映画の動きは生命(飛び跳ねる馬、芽を出す穀物など)でなければならない。映画の動きは人間に限定されず、自然と夢の世界にも伸びて行かなければならない。デュラックは感動をただ視覚的に構成されたものの総合的表現を通してだけ人に伝えて、文学的伝統に従属している叙述的、心理学的、劇的な要素を拒んで、その理想を映像によって示したのはアベル・ガンスの『鉄路の白バラ』のレール、機関車、ボイラー、車輪、圧力計、煙、トンネルなどの視覚的シンフォニーを構成しているシークェンス。ルネ・ドゥミック:映画の登場人物は避けあうか、または結びつくために、できるだけ多く行ったり来たりしなければならない状態におく必要がある。レオン・ムーシナック:リズムの優越性を主張。リズムの組み合わせによって引き起こされる感動が基本的であるばかりでなく、その要素を分析し、音楽的価値を持つ時間の単位の上に基礎を置いた映像による表現としてそれらの要素を具象化することができる。すなわち量というものがリズムの記録される世界となる。エリー・フォール:映画が演劇に併合させられるのに反対。映画を絵画、音楽、舞踏を含む動く建築という概念でとらえる。ルネ・シュオップ:映画は形而上学的な本質を持っている。運動の分解と現実の特権的な把握とによって、この世界の秘密の顔を暴くことによって、映画はあらゆる創造されたものの奥にある神秘の忠実な図表を与えてくれる。映画はそれぞれの登場人物から、いっそう真実な人物、形而上学的な存在を我々に示す。運動は純粋リズムほどには映画の目的ではない。ジャン・エプスタン:ストーリーを否定して、何も起こらないのではなく大したことが起きない映画を望む。この主題の欠如が現実からその神秘と潜在した象徴主義の重々しさ全体を解放させる。映画は本質的に超自然で、存在していないもの、非現実的なものを見る。シネマトグラフの魔法は時間のディメンションと方向を変えさせることができる能力に帰着する。フォトジェニーは第一に動性の機能として現れた。運動の表現がシネマトグラフの存在理由であり、主要な能力であり、天性の基礎的表現である。映画は本質が運動に結び付けられているので、いたるところに運動を検出して、普遍的な動性を暴いている。映画は形の観念を否定する。運動が形であり、映画の形を作る。したがって映画は静止しているもの、非常に正確なもの、理屈っぽい理性というようなすべてに対して本能的に嫌悪の心を抱いている。その流動性によって、動いているもの、紆余曲折しているものなどに対して本質的な親和力を持っている。そこから映画が夢の世界と完全な対応をしめしている事実が生まれてくる。アベル・ガンス:映画は光の音楽。速度、偏在、今まで経験されなかった諸感覚が日常の要素になる芸術こそが映画。いろいろの動きが同時に存在すること、いろいろな時間と時代が同時に存在すること、過去、現在、未来がそれぞれの破壊の中に凝集される。ルネ・クレール:第七芸術の文学的伝統への結び直しを否認して、デカルト的論理学から解放された映画を望む。絶対的な数学的解決が呼び起された映像の感情的価値を無視していることは間違っている。超現実主義:アド・キルーを中心に映画は本質的に超現実主義的で、人生の潜在的内容について夢見られた表現手段とみなす。人生と夢、知覚しうるものと知覚しえないものとの偉大な融合が映画によってなされる。アヴァン・ガルド:マルクス主義的に映画の中にブルジョワ的伝統から解放される手段を見ている。ハンス・リヒテルは映画は論理と明らかな意識に還元はできないが、厳格に抒情的でかつ創造的で、異常な映画的可能性の利用から生まれるであろう超現実に達することによって人間を解放しようとした。リアリズム:文学や演劇のようにスクリーン上でリアリズムを試み、人生の断片であろうと望み、幻想を拒み、人間や物事を当然あらねばならぬもののようにではなく、あるがままに描く。作家は映画の価値を低めるためではなく、反対に伝統的な芸術の美しい嘘を精神から解放して、映画はその精神を真実に開くものであることを示す。ジガ・ヴェルトフは映画が俳優、衣装、メークアップ、スタジオ、装置、照明などのあらゆる演出を拒否し、人間の眼よりも一層客観的な眼であるカメラに従属しなければならないと主張した。リアリズムは社会政治問題に対してはっきりした態度を示してアンガジェの映画と区別できなくなり、その傾向と結びついた映画監督はたいていマルクス主義者になった。イタリアのネオ・リアリズムはロシアの社会主義リアリズムから発生して、情緒と夢の優越性を再び導きいれるネオ・ロマンティスムの表現。表現主義:1914-1920年の間にドイツでは表現主義が隆盛になる。ドイツ文学の2/3が夜の闇の価値に定義づけられていて、夜は外見のヴェールが切り裂かれて我々が普遍的秘密に参加することができる瞬間で、自我と非我との区別を廃止して人間は人間性から脱して、宇宙の中に溶け込んで超現実に達して、そこではすべてが可能である。表現主義は昼の価値を退けて、夜を凝集しようと試みる。ベラ・バラージュ:映画の大映しは映画と演劇を区別し、映画に特別に抒情的な性格を与え、特別の力のある近接と孤立を創造し、大写しは最小の手段によって最大の悲劇を暗示することを可能にしている。顔の小さなしわも性格の基礎的な特性の一つとなり、一つの筋肉の震えも独自の意味を持って心の中の大事件を示す。映画のリズムを創造するのはモンタージュで、同時性のモンタージュはお互いの間に論理的つながりを持たない事実を集めて宇宙的印象、存在の概観、世界の一種の全的ヴィジョンなどを呼び起こそうと努めて、繰り返しのモンタージュは一つのシークェンスの同じ数のライト・モチーフを構成する視覚的モチーフの繰り返しの上に基礎を置く。フセヴォロド・プドウキン:モンタージュの型の定義は対照、平行、同時性、ライト・モチーフの四つで、モンタージュの本質的な機能は観客におけるある心理的過程を決定すること。映像の構成が詩的価値を示すとすれば、それは精神に働きかけることであり、ある知的作用を促すことである。カメラによって創造され、演出者の意見に従って別々のセルロイド断片を選び編集した後に新しい一つの時間、映画的時間が生まれる。時間の省略と集中化と同様に、空間の凝縮と習合がある。そして映画的空間は、不調和な諸要素の均一の総合として現れる。エイゼンシュタイン:一つの感情的動きをそそのかし、その結果一つの観念の連なりを引き起こすように構成された一連の映像を作ることが重要。映画はダイナミックで頭脳の興奮を促す唯一の具象的な芸術で、その思想の動きは静止的で、それが現実的にくりひろげられる助けとはならないが、その思想の糧となることのできる他の芸術にとってと同じようには行われえない。モンタージュの最も完成された形式は多音モンタージュで、カットは独自の動き、光の強さ、筋の展開中の段階などの独自の手がかりによってのみならず、一連の多様な線の同時の進行を通してもお互いに結び付けられている。その同時の進行は独立した美学的展開を保つと同時に、そのシークェンスの相対的展開にも参加している。エイゼンシュタインにとって芸術とは心理学的な分野において原始的な精神過程の形式に向かって人工的な退化を行うことにほかならない。ルドルフ・アルンハイム:空間的深さの制限、色彩の欠如、照明、場面構成、対象の距離、空間及び時間の連続性の欠如、感覚的活動力の視覚的要素への要約などの欠陥と考えられるこれらの現実との差異が、反対に美学的表現の要素で、我々の近くの3つのディメンションがスクリーン上では2つのディメンションに縮小されるということが映画の表現手段を貧しくするどころか、かえって豊かにすることができる。対象物はますます直接的となり、異常な方法で提示されるという事実によって、一層生々した印象を生み出す。スポティスウッド:映画言語の特別な諸要素は視覚的な要素と視覚的でない要素に分けられ、視覚的な要素は自然の因子と映画的な因子に分けられる。自然の視覚的な因子は静止的なものと力学的なものに分けられる。静止的な区別の諸要素はカメラアングル、場面構成、照明、深さの欠如など。力学的な因子はカメラの動きに相応する。イタリア派:ルイジ・キアリーニはフィルムは芸術であり、シネマは企業であるとして、技術、芸術、企業を区別して、技術と企業が芸術を悪化してはならないという。芸術的傾向は一つの映画を他の映画から区別しようと試み、企業的傾向は映画を一様化しようとする。カメラ万年筆説:漢字などの表象文字が意味をあらわすように、映画は一つの見世物ではなく、一つの文字であるという考え方。美学の問題:映画のカット割やカメラの動きや俳優の演技をスタッフに説明して厳格に管理するプドウキン(慎重派)と、おおざっぱな台本しか用意せずに演出者が具象化しようとする主題に命に吹き込むようにするエイゼンシュタイン(即興派)の見解が相違する。映画製作を合理化するとインスピレーションに頼ることが困難になるという問題がある。●感想1958年の刊行で古くて翻訳が日本語としてこなれていなくて『戦艦ポチョムキン』が『甲鉄艦ポテムキン』になっていたりして何の映画なのかわかりにくいので読みにくいし、一人の評論家の意見を2-4ページ程度で紹介して解説も短いし、映画のタイトルを挙げてもどういう映画なのかという注釈もなく写真もないので内容も理解しにくく、映画の初心者向けの内容ではないので古い映画を見ていない人がこの本を読んでもつまらないだろうと思う。それでも演劇→無声映画→トーキーへの表現手法の発展は20世紀初期の人にとって衝撃だったのだろうし、新しい表現手段として現れた映画をどうとらえてどこに価値を見出したのかという当時の人の反応は新鮮である。今は映画は山ほどネットに落ちていて無料でもつまらないので見ないけれど、そのつまらなさの原因はなんなのかというと、現代人は生まれたころからすでに映画が存在していて、ルイジ・キアリーニが言うように企業が映画を一様化してハリウッド映画やディズニー映画のように視聴者にうけるようなハッピーエンドになるストーリーテリングや演出の手法が既に確立されて、監督の権力がなくなって作る側が映画とは何ぞやモンタージュとは何ぞやという本質を問いながら試行錯誤して芸術表現をすることをやめてしまい、見る側も映画は二時間でストーリーが完結する娯楽だという理解の範疇を超える衝撃的な芸術作品を期待しなくなってしまったのが原因かもしれない。昔の映画監督は自然の風景や天候にこだわってその一瞬でしか撮れない映像を撮ったそうだけれど、今は緑色の殺風景なスタジオでタイツを着て演技して衣装や背景をCGで合成して何度でもやり直しができて修正がきく人工物で、映画に自然や偶然は存在しなくなっている。アニメーションが夢のような架空の世界を描くようになったことで実写映画が夢を描かなくなって、かといってリアリズムでもなくて、夢でもなくリアルでもなくどこかで似たようなものを見たことがある中途半端な作り物になってしまった。アニメ版の『ポプテピピック』がクソアニメだと開き直って声優に丸投げして無茶なアドリブをやらせたりして、アニメのほうが映画よりよっぽど冒険してるなあと思う。さて私は映画館がない田舎で育っていてろくに映画を見ていなくて映画評論はできないので、映画以上に消費されているポルノやYouTubeの動画について考えてみることにする。人間はセックスのときにどういう運動を行うかを観察するのがポルノの目的である。ポルノは人間の生理的真実を表現しているにも関わらず、公序良俗に反するものとして規制されて芸術表現とはみなされずにアングラに押しやられているけれど、一般家庭にビデオデッキやパソコンが普及したのもポルノのおかげで生活に必須の要素なので、実際は社会にかなりの影響力がある。セックスというのは基本的にリズミカルな運動だけれど、運動があれば面白くなるというわけでもない。洋物ポルノでマッチョ男優とセクシー女優がアクロバティックなセックスをしてオーイエスオーイエスといっても別に面白くない。行為を映してもそこに人間の感情を映していなくてドラマもストーリーもBGMも効果音もないので、祭りでわっしょいわっしょいと神輿を担ぐみたいなもんで、賑やかな運動でしかない。スポーツもどきの運動をするくらいならむしろ体操やフィギュアスケートみたいにセクシャルアーツとして正式な競技にして体位ごとに技術点や芸術点を採点して、種目別に演技を競うほうが面白いかもしれない。オリンピックだと体力を持て余したアスリートに大量のコンドームを配っているそうだけれど、どうせセックスするならセックスを競技にしてもよいではないか。日本のポルノはアニメも漫画も実写も人気の一大産業だけれど、なぜ外国でhentaiというジャンルを確立するほど人気になったのかというと、セックスの物理的な運動や女優の外見や年齢よりも、ストーリーの中での愛情、嫉妬、羞恥心、背徳、罪悪感といった感情表現を中心にしているからだろう。江戸時代の春画でタコが人間にセクハラしているのがその後のhentaiに代表される触手モンスターになったり、無機物でさえも擬人化して感情を持たせて性的コンテンツにしてしまったりするのは、付喪神やもののけや妖怪といった神道的な想像力が性的な妄想と結びついて超現実的なものになっていて日本ならではの面白さがある。こういう日本文化とポルノの融合は実写のロマンポルノでは起きなくて、漫画やアニメやゲームといった二次元の表現手法が自由になったことで開花した。世界中でポルノの規制が緩くなったら、インドで大勢で踊りながらセックスするポルノとか、香港でカンフーの達人がワイヤーアクションを使って空中でセックスするポルノとか、北欧の女騎士が敵につかまってくっ殺せというポルノとか、各国の文化を反映した独自のポルノが出てきてポルノがもっと面白くなるかもしれない。ポルノはコンテンツビジネスとしては有望なんじゃないかと思うのだけれど、クリエイターが本格的にやろうとしなくて名作映画のパロディみたいなしょぼいポルノやストーリーがなくてただセックスするだけのつまらないポルノしかないのは残念である。日本映画も濡れ場が薄暗くてやたら感傷的で、性のとらえ方に遊び心や面白さがない。イタリアのポルノ映画の巨匠ティント・ブラスは性欲や裸体や性器やセックスを人間から締め出そうとせずに堂々と描いていて、AVみたいに単に性器を大写しにするのでなくてシースルーの下着や鏡を使ったじらしのテクニックとかの画面の見せ方が面白い。『TRICK』も上田教授の巨根いじりが面白い。テレビ業界も昔はバカ殿様やトゥナイトや火曜サスペンスの温泉旅館殺人事件とかでおっぱいや裸が出ていたけれど、もしポルノが規制されていなかったとしたらテレビや映画はもっと面白くなっていたかもしれない。松嶋クロスは人前でセックスするAV女優は人間のくずだと言っていたけれど、そんなのは芸術を知らない女衒の物の見方である。YouTubeの場合はテーマは多様だけれど映画やテレビよりも動画の目的がシンプルで、一つの動画に一つのネタしかなく、出演者も少なく、ストーリーや役作りや演技もない。そうなると必然的にそのネタをどうやって面白おかしく盛り上げるかという演出に労力が向かって、テンポがいい場面切り替えや早口の実況や大げさなリアクションや軽快なBGMやわかりやすいテロップという特徴が出る。これは予算がどんどん膨れ上がって複雑で技巧的になっていく映画の要素を分解して、数分で簡単に表現できる最小単位の面白さを追求した結果である。若い人たちの間ではTikTokで撮ったダンス動画が流行っているそうだけれど、これも映画の要素をリズムと身振りに還元して制作を単純化した演技のようなものである。ルドルフ・アルンハイムが言うように、ヒカキンの顔芸とか派手な原色のテロップとか対象物が異常な方法で提示されることで生き生きとした印象を生み出す。YouTubeは素人がテレビのまねごとをしていると揶揄されているけれど、単なる素人の寄せ集めなら今ほど人気になっていない。映画やテレビと違って動画の尺が自由だし、編集も試行錯誤できるし、プロの映像クリエイターに比べて動画の編集技術が未熟でも完成されていない黎明期で各自が好きなことをやっているからこそ面白いともいえるし、プロYouTuber化して機材やスタッフをそろえてテレビ番組のようにスポンサーや視聴者を意識しだすとかえってつまらなくなったりする。ユーザーが全世界にいて間口が広くて時間の奪い合いの競争が激しいだけにトップクリエイターは何かしら秀でた部分があって、YouTuberはテレビ慣れして気取っている芸能人と違って素人だからこそ喜怒哀楽の感情がじかに伝わって視聴者とコメントで交流できるという利点があるし、個々の動画の内容の良し悪しよりもクリエイターが前面に出ることでファンがつく。テレビ番組だと視聴者はどのプロデューサーやディレクターやカメラマンが担当したのかなんて知らないし、制作者は裏方にいて映像の中には出てこなくて、とんねるずやダウンタウンやマツコ・デラックスがスタッフいじりをするとスタッフが画面にちょっと映ったりするけれど、テレビの制作者側に数百万人のファンがつくということは基本的にないし、金をかけてプロが動画を制作したテレビ局の公式YouTubeチャンネルにはほとんどチャンネル登録者がいなくてコメント欄が閑散としていたり、コメントできない設定になっていたりする。制作者兼出演者というのがYouTubeならではの動画形式である。映画が夢や超現実として語られたのに対して、YouTuberの動画は感情が強調されてはいるもののクリエイターの私的な日常の延長である。チャンネル登録者が数十万人もいるクリエイターが優れている点は日常をさらけ出しているところで、一種のリアリティーショーになっている。ヒロシがキャンプ動画のYouTuberとして人気になったけれど、他の人がキャンプや釣りや旅行をどうやっているのかというテレビでは取り上げない他人の日常への需要を掴んだからこそ人気になったわけで、芸人として芸をやる必要はない。売れない芸人YouTuberは芸人だから面白くしないといけないと思って非日常的な芸をやっているけれど、それこそテレビの真似事として需要を見誤っていて、先輩芸人の合コンのセッティングしたら怒られたとかのテレビではやらない芸人の日常の喜怒哀楽を動画化したほうがましである。動画自体にストーリーがなくても、他のYouTuberとの不仲とか事務所とのトラブルとか自宅バレとか炎上とか動画外で筋書きのないドラマが展開するので、動画は日常から切り離されたコンテンツではなくなっていて、映画のように2時間に物語をまとめなくても人生の一場面を切り取って動画として継続的に見せ続けることが物語になる。映画の物語は過去と現在と未来を凝集するけれど、YouTubeの動画は非連続の現在で、視聴者は個々の動画に興味をもつだけでなく、クリエイターの人生の続きを見たいのでチャンネル登録をするのである。映画のフィルムが高かったころは誰でも映画が撮れるわけではない特別な表現手法だったので映画俳優は役のイメージを壊さないために私生活を非公表にしていたけれど、今ではスマホに高性能のカメラがついて誰でも動画を撮れるようになって、もはや動画が現実とは別の世界を追及する手段ではなくなって、リア充の旅行記録とかおしゃれな料理とか仲間内でのふざけあいとか他の動画を見た反応とかのありふれた日常を見栄えよく演出するツールになって、動画に映るのが特別なスターではなくなった。元スマップの人たちが仲良くしている様子を動画にしたり、本田翼が趣味のゲームをやったりするだけでコンテンツになるし、アイドルだからといって華やかな舞台で歌って踊って私生活を非公開にして気取る必要はなくなったのである。ローガン・ポールのようなくだらないYouTuberもいるけれど、YouTubeを動画という檻の中に閉じ込められた人間を見世物にする動物園としてみれば、彼は人間がどこまで社会の役に立たないくだらない存在になれるのかに肉薄しているすばらしい標本である。そんで今はポルノとしてライブチャットが盛況らしくて、風俗がない地方都市の人がライブチャットで恋人といちゃいちゃする気分を味わうらしい。将来的には女優の演技としてポルノをパッケージ化する必要もなくなって、日常のセックスをYouTuberのように実況したりして人気になる人が出てくるのかもしれない。映画は表現を試行錯誤した挙句に結局は売り上げ重視で文学的伝統にのっとったストーリーがあるドラマを目指して、邦画はポケモンや名探偵コナンのアニメ映画とか漫画や小説が原作の画一的な実写映画ばかりになって芸術志向の映画はほとんど話題にもならず、映画理論も知らない素人のYouTuberが動画をストーリーから解放して日常の面白さを再発見して映画以上の人気コンテンツになったのは皮肉な感じである。理論を考えれば最高の芸術として最良の結果になるというもんでもなく、その時代の人間にとって必要とされないものは消えていくものである。しかし消えていくものが劣っていて、残っているものが優れているかというと必ずしもそうではない。集団の人間関係でコミュニケーションのために複雑になった言語は感情を示す絵文字やLINEスタンプに簡略化されて、総合芸術である映画の演技や構成もリズムや風景やリアクションに還元されて単純化していき、批評はいいねボタンを押すだけになり、人間は複雑で手の込んだ表現を失ってどんどんあほになっていく。あほにとっては簡単でわかりやすいものほど価値があり、自分に理解できない複雑な芸術は必要なくなる。世界遺産に落書きする連中なんかが代表的なあほである。やがて人間よりもAIのほうが賢くなり、人間は考える力を失って感受性も退化してAIの指示通りに行動する自動装置になる。そういう未来が嫌な人は、わけがわからない芸術を鑑賞して感覚を拡張して、Googleに答えを求めるのをやめて答えのない問題を自分で考えないといけない。役に立たないようにみえるものを受け入れる感性を培うという意味では役に立たない芸術は逆説的に役に立っているし、芸術は金儲けのためにあほに迎合してはいけない。★★★☆☆【中古】新書 ≪エッセイ・随筆≫ 映画の美学 / アンリ・アジェル【中古】afb
2018.11.01
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