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死、幸福などの人生についての考察。●面白かったところのまとめ・死について四十歳を初老とするのは単に身体の老衰でなく精神の老熟を意味して、この年齢に達すると死を慰めとして感じられることが可能になる。死の恐怖は病的に誇張されるけれど、実際は死は平和であり、この感覚は老熟した精神の健康の徴表である。死の問題は伝統の問題につながっている。通俗の伝統主義の誤謬はすべてのものは過去から次第に成長してきたと考えるところで、絶対的な伝統主義は生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とする。死せるものは生長することも老衰することもない、この絶対的な生命は真理に他ならない。・幸福について今日の人間は幸福についてほとんど考えないが、過去のすべての時代において幸福が倫理の中心問題だった。幸福である者は幸福について考えないというが、我々の時代は幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではないか。幸福の要求が良心として復権されねばならぬ。幸福は徳に反するものでなく、幸福そのものが徳である。死は観念であるのに対して、生は想像である。想像的なものは非現実的であるのではなく、却って現実的なものは想像的なものであり、現実は構想力(想像力)の論理に従っている。生が想像的でなものであるという意味において幸福も想像的なものである。死は一般的なものという意味において観念と考えられるのに対して、生は特殊的なものという意味において想像と考えられる。生と同じく幸福が想像であるということは、個性が幸福であることを意味している。幸福は人格で、真の幸福は捨て去ることができず、生命と同じように自身と一つのもので、この幸福を持ってあらゆる困難と闘う。幸福は表現的なもので、おのずから外に表れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。・懐疑について懐疑は人間的なもので、神や動物には懐疑はない。人間的な知性の自由は懐疑のうちにあり、懐疑は知性の徳としての人間精神を浄化する。懐疑というのは散文でしか表すことができないもので、散文の固有の面白さ、難しさを示す。懐疑には節度がなければならず、懐疑は方法である。方法についての熟達は教養のうち最も重要なもので、懐疑において節度があることが決定的な教養のしるしだが、世の中は懐疑する力を失った教養人が多い。・習慣について人生においてある意味では習慣がすべてで、習慣は行為に形が出てくる。流行に対して習慣は伝統的なものであり、習慣を破るものは流行である。流行が横の模倣であるとすれば、習慣は縦の模倣である。習慣は技術的なものであるが故に自由にすることができ、意識的に技術的に自由にするところに道徳があり、修養というのはこのような技術である。・虚栄について虚栄はあらゆる人間的なもののうち最も人間的なもの。人間の生活はフィクショナルなもので、人生はフィクション(小説)であるから、どのような人でも一つだけは小説を書くことができる。普通の人間と芸術家との差異は、一つしか小説を書くことができないか、種々の小説を書くことができるかという点にある。人生がフィクションであるということは実体性がないということである、小説の実体性とほぼおなじもので、実体のないものがいかにして実在的であり得るかということが人生においての根本問題。虚栄心は自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションで、人間が虚栄的であるということは人間が社会的であることを示していて、社会もフィクションの上に成立している。・名誉心について名誉心と虚栄心は混同されやすいが区別が必要。虚栄心は社会を対象として世間的だが、名誉心は自己を対象にした自己の品位についての自覚。ストイックというのは名誉心と虚栄心を区別して後者に誘惑されない者のことで、ストイックは本質的に個人主義者である。ストイシズムは自己のものである諸情念を自己とは関わりのない自然物の如く見ることによって制御することで人格という抽象的なものを確立して、この抽象的なものに対する情念がその道徳の本質をなす。虚栄心の虜になるときに人間は自己を失い、個人の独自性の意識を失う。そのときアノニムなひとを対象とすることによって自身がアノニムなひととなって虚無に帰するが、名誉心は自己の独自性の自覚に立つ。名誉心はアノニムなものに対する戦いである。・怒について義人とは怒ることを知る者。怒はただ避くべきものであるかのように考えられているが、避くべきは憎しみであって怒ではなく、怒の意味が忘れられて混同されている。愛が神の愛(アガペ)、理想に対する愛(エロス)、肉体的な愛という三つの段階が区別されているように、怒も神の怒、名誉心からの怒、気分的な怒を区別することができる。多くの怒は気分的な怒だが、人間的といわれ得る怒は名誉心からの怒で、個人意識と不可分。人は軽蔑されたと感じた時に最もよく怒るので、自信がある者は怒らないし自分の優越を示そうとしない。・人間の条件について虚無は人間の条件である。自己は形成力であり、人間は形成されたものであるというのみではなく、世界も形成されたものとして初めて人間的生命にとって現実的に環境の意味をもつことができる。以前の人間は限定された世界のうちに生活していたが、現代人は無限定な世界に住んでいて、すべてがアノミム(無名)でアモルフ(無定形)のものであり、かような生活条件のうちに生きる現代人も無名な、無定形な、無性格なものとなる。今日の人間の最大の問題は形のない物からいかにして形を作るかということ。・孤独について孤独が恐ろしいのは条件による。孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。孤独であるとき我々は物から滅ぼされることはない。物において滅ぶのは孤独を知らないときである。我々が孤独を超えることができるのはその呼びかけに応える自己の表現活動においてのほかない。・嫉妬について愛と嫉妬は似たところがあるが、愛は純粋であり得るのに対して嫉妬はつねに陰険である。愛と嫉妬はあらゆる情念のうち最も術策的で、理知によって持続性を増す。愛と嫉妬の強さは想像力を働かせることに基づいて、ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起り、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、自分の位置に低めようとする。愛がつねにより高いものに憧れるのと異なって、嫉妬は愛と相反する性質のものとして干渉してくる。一般的なものに関してひとは嫉妬して、それに対して愛の対象となるのは一般的なものでなく特殊的なもの、個性的なもの。自分で物を作ることによって自己を作り、個性となり、個性的な人間ほど嫉妬的でない。嫉妬からは何物も作られない。・成功について幸福は現代的でなく、成功は現代的なゆえに、幸福と成功は倫理学で忘れられた。古代人や中世的人間のモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であり、幸福はもはや人々の深い関心でなくなった。成功は進歩の観念と同じく直線的な向上だが、幸福には進歩はない。成功と幸福、不成功と不幸を同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるか理解し得なくなった。他人の幸福を嫉妬するものは幸福を成功と同じに見ている。幸福は各人の性質的なものだが、成功は一般的なものなので他人の嫉妬を伴いやすい。・瞑想について瞑想には過程がないので、本質的に過程的な思索と異なる。瞑想はヴィジョンを与えるもので、ヴィジョンのない思想家はいないので、瞑想のない思想家は存在しない。ひとは書くことによって思索することができるが、瞑想は精神の休日。・噂について噂は評判としてひとつの批評というが基準がないので批評ではなく、不安定で不確定なので、批評のように受け取って真面目に対質しようとすることは無駄である。噂は嫉妬、猜疑心、競争心などのあらゆる情念から出てくるものでありながら、観念的である。・利己主義について我々の世界を支配しているのはギヴ・アンド・テイクの原則で、意識的にのほか利己主義であることができない。利己主義者を苦しめるのは自意識である。ギヴ・アンド・テイクの原則は期待の原則で、我々の生活は期待の上に成り立っている。利己主義者は期待せず、信用しない人間であるがゆえに猜疑心に苦しめられる。利己主義者は自分では合理的な人間だと思っているが、理知の限界が想像力の欠乏にあることを理解しない。・健康について健康は個性的で平等なもの。自然に従うのが健康法の公理で、自然に従うというのは自然を模倣するということ。その利益は無用の不安を除いて安心を与えるという道徳的効果にある。健康は物の形のように直感的具体的なもので、客観的なものは健康であり、主観的なものは病的である。病気や健康は存在判断でなくて価値判断であるとすれば、それは哲学に属する。自然哲学あるいは自然形而上学が失われたということがこの時代に健康が失われている原因である。・秩序について外見上整理されているものが必ずしも秩序のある者でなく、むしろ一見無秩序に見えるところにかえって秩序が存在する。どのような外的秩序も心の秩序に合致しない限り真の秩序ではない。最小の費用で最大の効用を挙げるという経済の法則が同時に心の秩序の法則でもあるということは、この経済の法則が実は美学の法則でもあるからで、秩序は技術の問題である。ソクラテスは徳は心の秩序であるといって技術と比較した。知識人というのは原始的な意味においては物を作り得る人間の事で、道徳の中にも手工業的なものがあり、これが道徳の基礎的なものである。しかし道具の技術から機械の技術に変化したような大きな変革が道徳の領域においても要求されている。近代の主観主義は秩序の思想の喪失によって虚無主義に陥った。・感傷について感傷はあらゆる情念のとり得る一つの形式で、感傷はすべての情念の表面にあり、入り口であるとともに出口である。情念は固有の力によって創造ないしは破壊してイマジネーションを呼びおこすが、感傷はそうではなく感傷に伴うのはドゥリームでしかない。感傷は制作的でなく鑑賞的で、自分自身を鑑賞する。感傷は主観主義だが真の主観性ではないから個性がなく、その意味では感傷は大衆的である。だから大衆文学は本質的に感傷的である。大衆文学の作家と純文学の作家との差異は、大衆文学の作家は過去の人物を取り扱って現代の人物を巧みに書くことができない点にある。感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている。行動的な人間は感傷的でなく、思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。・仮説について生活が事実で経験的なものであるのに対して、思想は常に仮説的なところがあり、思想が持っている力は仮設の力である。考えるということは過程的に考えることで、思考が過程的であるのは仮説的に考えるからで、仮説的な思考で方法的であることができる。小説家の創作行動は仮説を証明することである。人生が仮説の証明であるという意味はこれに類似している。思想は仮設の追及なのですべての思想らしい思想は常に極端なところを持っているのに対して、常識の持っている大きな徳は中庸ということ。真の思想は行動に移すと生きるか死ぬるかといった性質を持っている。・偽善について虚栄が人間の存在の一般的性質であるために人間は生まれつき嘘吐きであり、けばけばしいこと、飾りてることを好む。虚栄は実体に従っていうと虚無であるから、人間は作り事やお伽噺を作るのであり、そのような自分自身の作品を愛する。本性において虚栄的である人間は偽善的であり、虚栄と偽善は本質的に同じもの。自己を忘れて他の人間、社会のみを考えるところから偽善者が生じる。現代の道徳的退廃に特徴的なことは、偽善がその退廃の普遍的な形式であるということで、表面の形は整っていて新しいものだが虚無であり、これが現代の虚無主義の性格である。・娯楽について生活を楽しむことを知らねばならぬ。物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質で、生活の技術も同様である。生活の中にいて生活を超えることによって生活を楽しむということは可能になる。娯楽という観念は近代的な観念で、機械技術の時代の産物であり、生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものであり、幸福に対する近代的な代用品である。幸福について考えることを知らない近代人は娯楽について考える。パスカルは人生のあらゆる営みは、真面目な仕事も道楽も、すべて慰戯に過ぎないと考えた。一度この思想にまで戻って考えることが、生活と娯楽という対立を払拭するために必要である。専門という見地から生活と娯楽が区別されるにしたがって、娯楽を専門とする者が生じて、純粋な娯楽そのものが作られ、一般の人々にとっては娯楽は自分がそれを作るのに参加するものでなく、ただ外から見て享楽するものとなった。娯楽が生活になり、生活が娯楽にならなければならない。生活を楽しむものはリアリストでなければならず、技術のリアリズムでなければならず、生活の技術の先端はつねにイマジネーションがなければならず、あらゆる小さな事柄に至るまで工夫と発明が必要である。・希望について運命的な存在である人間にとって生きていることは希望をもっていることである。希望は欲望、目的、期待と同じではない。失望の苦しみを味わいたくない者ははじめから希望を持たないのがよいといわれるが、失われる希望というのは希望でなく、期待のごときもので、決して失われることのないものが本来の希望である。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成に達する。希望と現実を混同してはならぬといわれるのはその通りだが、もし一切が保証されているなら希望はない。希望が無限定なものであるかのように感じられるのは、それが限定する力そのものであるためで、あらゆる限定は否定である。断念することを知っている者のみが希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできない。・旅について旅においては誰も何等か脱出に類する気持ちになる。旅は過程であるがゆえに漂泊で、日常の習慣的な安定した関係を脱するために生ずる不安から漂泊の感情が湧いてくる。人生は旅とよくいわれる。我々は何処から来たのか何処へ行くのかが人生の根本的な謎である。人生は未知のものへの漂泊である。解放されることを求めて旅に出て自由になることができると考えるのは間違いで、解放というある物からの自由は消極的な事由に過ぎない。旅の出来心の冒険は真の自由でない。旅は好奇心を活発にするけれど、一つの所に停まって見ようとしない気まぐれな好奇心は真の知識欲とは違っている。真の自由は物においての自由で、単に動くことでなく、動きながら止まることであり、止まりながら動くことである。旅において自由な人は人生において真に自由な人である。・個性について個性は自己自身のうちに他との無限の関係を含みつつしかも全体の中において占めるならびなき位置によって個性である。●感想~であろうか、という反語が多い書き方なので若干読みづらいものの、人生における重要な要素についてロジカルに掘り下げていて内容は哲学書の割には理解しやすい。二項対立的な考え方が多いので現代の哲学から見たらつっこみどころがあるけれど、一般人が人生の教訓として気になる項目だけでも読む価値はあると思う。文学にも関係があるので文学好きの人が読んでも面白いかもしれない。誰でも一つは小説を書けるという言い回しはこれを読む前から知っていたのだけれど、三木清が言ったのだとようやく知った。誰でも一つは小説を書けるというのは本当で、リタイアした高齢者向けの自伝の自費出版ビジネスというのがある。そういう個人の自伝は製本されても一般人が読む機会はほとんどないし出版したところで儲からないのだけれど、それでも人は自分の物語を書きたがる。何かの仕事をしたという時点ですでに人生の結果は出ているのだけれど、秩序立てて人生の因果を書くことで人生が無意味でなかったことを確認したいのである。その時に名誉のために物語を書くか、虚栄のために物語を書くかで、芸術か否かが分かれる。作者の自己がなく思想の表出がない物語は芸術ではなく、他人の評価を意識した大衆小説となる。大衆小説でもオリジナルならそれはそれで娯楽として役に立つものの、虚栄に利己主義が加わるとパクリにつながる。パクリエイターは名誉心がない利己主義者が他人から評価されたいという虚栄のために芸術を盗むけれど、有名になると必然的にパクったのがばれて、一時的な虚栄も結局失うことになる。注目を集めることで成功できるという間違った心の秩序ができあがっている人にとっては、虚栄には成功も幸福も伴わないということがわからないのである。虚栄心の虜になるときに人間は自己を失うというのは三木が言う通りで、虚栄が現代病とでもいえるレベルに深刻になっている。芸能人は経歴詐称するし、成金は食事や財産の値段を公開するような下品なことをやるし、一般人はSNSのフォロワー数やいいね数を意味もなく競うし、YouTuberは髪を派手に染めて変なことをして目立とうとするし、注目されたくてツイッターで殺害予告する人もいる。サッカレーが生きていたら虚栄の市どころか虚栄のプレミアムアウトレットモールとかの大長編を書きそうなくらい虚栄だらけである。私は自己愛性人格障害の人を長年間近で見たので、ネットで友やめとか離婚話とかのエピソードを見るとこれは自己愛性人格障害かもしれないなあとだいたいわかるようになった。自己愛性人格障害の人は学歴や年収でマウンティングしたがって、相手を格下認定したらコントロールしたがって嘘と悪口を平気で言って、派手なファッションをして目立ちたがって、神の加護がある優れた存在として自分を肯定するためにスピリチュアルに傾倒する。sociopathyという用語は1930年ごろからアメリカの心理学者に使われたようで、三木清が生きていた頃はまだ日本でサイコパスという概念が知られていなかったのかもしれないけれど、自己愛性人格障害の人は自分が特別な存在だと思っているので、利己主義でも自意識に苦しまずに平気で他人を利用する。じゃあそういう虚栄まみれの人にどう対処するのかというと、幸福とはなんぞや成功とは何ぞやというのを考えることによって、虚栄まみれで中身がない人を見抜いて距離を置くことができるようになる。哲学は役に立たないと巷でよく言われるけれど、何が虚栄なのかを知って虚栄に対処する方法を知ることができるのは十分実用として役に立つ。哲学が役に立たないという人はたいてい金儲けに役に立たないという意味でいうけれど、金を基準にしてしか物事を考えられないのは拝金主義で目先の利益しか考えない浅薄な考え方である。本当に役に立たないものなら自然淘汰されて人類の歴史の中からとっくに消えている。耳を動かす筋肉は退化してなくなっても、虚栄がいまだに人間の特性から消えていないのは、虚栄も目先の処世術としては役に立つからだろう。しかし虚栄を成功と勘違いして金と評判を追い求めて人格をないがしろにすると、人生を虚無にする業を自ら背負うことになる。紀州のドンファンのような人は愛や幸福を知らないんじゃなかろうか。そういう人でも金さえ持っていれば成功者としてもてはやされるところに現代社会の問題がある。「人生論ノート」は昭和13年の「文学界」に掲載されたそうだけれど、真摯に生きるために真摯に考える昭和の文人の気概を見た気がする。これに比べて今の文芸誌や作家の体たらくは何なのだろう。★★★★☆https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html
2018.12.29
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虐待を受けていた男から殺人を目撃されて脅迫されたので殺す話。●あらすじ1:東京都の離島の美浜島で暮らす中学生の信之は幼馴染の美花とセックスするのに夢中で、年下の輔(たすく)は父親の洋一から暴力をうけていたものの、信之は輔がつきまとうのをうざったく思って適当にあしらっていた。信之が美花とセックスするために夜に家を抜け出すと、チリで起きた地震の津波が来て集落が壊滅して、信之、美花、輔、洋一、灯台守の爺、観光客の山中だけが生き残る。信之は美花と山中が避難所を抜け出してセックスしているのを見て、山中は合意だというものの美花の言い分を信じて山中を絞殺すると、崖で靴がみつかって事故として処理される。2:南海子は市役所勤務の夫と5歳の娘の椿がいるものの、どんくさい娘を疎ましく思って貧乏な工場勤務の男と不倫していたら、娘が不審者にいたずらされてしまう。3:工場で働いていた輔は新聞で偶然信之を見つけてストーカーして南海子と不倫して、不倫と娘のいたずらと山中の殺人をネタにして信之を脅迫する。灯台守のじいさんが輔が山中の靴を動かしたのを見たと洋一に遺言を残したせいで洋一が輔に金をせびりに来て、輔は父親に逆らえずに殺したのは信之と美花だといって死体の証拠写真を見せて、女優になった美花に脅迫の手紙を出すものの無視される。信之が写真を渡すなら洋一を殺すといって300万円をくれたので父親に金を渡すと飲んだくれて、泥酔しているところに睡眠薬を飲ませたら洋一が死んだので、結子に手紙とネガと残金を残して信之に会いに行く。4:信之は輔に脅迫された美花から相談されて、輔を始末することにする。輔に金を渡したのは洋一を酒浸りにさせるためで、信之は輔のアパートの空き部屋に侵入して様子を観察していたものの、洋一が死んだので、洋一を殺して埋めるためにアパートの床下に掘った穴を輔に見せて撲殺して埋めて、ホテルに滞在して美花とエッチしたら殺せとは頼んでないと言われて部屋を追い出される。5:南海子は信之が帰ってこないので警察で捜索願を出すと、結子から輔の手紙が送られてきて、信之が殺人犯だと知る。二週間後に信之が帰ってくるものの、南海子は生活のために知らないふりをして、家族で美浜島に旅行に行く。●感想三人称で章ごとに視点がかわる形式。児童虐待、津波、殺人、不倫、ロリコンとどれか一つだけでも長編小説になるような刺激的なテーマを盛りすぎたせいでリアリティを損ねている。輔が動機に基づいて行動しているというよりストーリーの都合で場当たり的に不自然な行動をとっているように見えるし、その不自然さを虐待のせいということにしてごまかしていて、せっかく冒頭でサスペンスを演出してもその後の行動の動機が曖昧で台無しになっている。輔は誰からも愛されなくて信之に無視されたくないので信之の家族を壊して自分に関心を向けたいという動機だけれど、輔が信之を脅迫するにしても奥さんを口説くという回りくどいことをせずに最初から殺人ネタで脅せばいいわけで、不倫とロリコンが蛇足になっている。それに輔は結子と付き合ってエッチしているので誰にも愛されていないというわけでもないし、父親に見つかったところで引っ越して転職すればいいだけの話なので、父親の言いなりになるというのも変である。輔が父親に取られた写真を見つけないと信之に殺されるかもしれないと急に怯えるのも不自然で、殺人した奴を脅迫しておいて無事ですむと思うほうがおかしい。輔は信之の家庭を壊したいのか金が欲しいのか、結局何をしたくて信之に執着しているのか意味不明になっている。物語を動かしているのが輔なのだから、輔の動機にリアリティがなくなると物語全体がだめになる。信之の行動の動機は好きな美花のために何かやるということしかないけれど、美花が好きならそもそもなんで独身を貫かずにわざわざ南海子と結婚したのだという話になるので、これも動機がおかしくて、動機と行動が一貫していない。構成もだめで、理不尽な暴力というテーゼに対してそれをどう乗り越えるのかというアンチテーゼもジンテーゼもなくて、信之や輔は暴力を肯定したままで何の葛藤もない。2章で椿にいたずらしたロリコンの正体も結局不明で、プロットを回収できていない蛇足になっている。3章と4章で同じ出来事を違う視点から語るのも二度手間で、信之一家の話を中心にするなら3章は削ってよい部分である。4章の輔殺しは1章の山中殺しのやり直しをしただけで、信之が美花に利用されるという人間関係に変化があるわけでもないので、美花の存在意義がない。美花を主要人物として登場させたのなら美花の行動の動機や人生の行方まで書かないと登場させる意味がないし、中途半端に書くくらいなら削るほうがましで、例えば美少年の信之がホモショタの山中に襲われて殺したのを輔が目撃して脅したという話なら美花なしでもストーリーが成り立つし、輔が親父に開発されたホモなので信之につきまとうという動機のほうが話がわかりやすい。魅力がなくて感情の動きが乏しい登場人物のなかで南海子は感情的で人間関係の変化に葛藤するけれど、結局信之の殺人を黙認するだけで、美花に対して何か行動を起こすわけでもなく、輔との不倫のけりをつけるわけでもなく、ロリコンを探すわけでもなく、南海子は何も行動していなくてオチがついていない終わり方になっている。冒頭で大惨事を書いておきながらメインストーリーは読者の予想の範囲内の単なる殺人にスケールダウンして、動機と行動が一貫しないうえにオチもないという竜頭蛇尾なのは長編小説としてはだめである。あと67ページでカップ麺を「毒々しい味と香り」と書くのは一生懸命カップ麺を作っている人から怒られそうな書き方で、個人の味覚として毒々しく感じるのならまだいいけれど、毒々しい味のものを売っているかのような書き方をしてはいけない。★★☆☆☆光【電子書籍】[ 三浦しをん ]
2018.12.28
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桜田義孝国務大臣はサイバーセキュリティー基本法改正案の担当閣僚だそうで、PCを使わなくてUSBを知らないことで担当にふさわしくないと話題になっている。パソコンを使えないとだめだよ派とパソコンを使わなくてもいいよ派で意見が分かれているようなので、私も考えてみることにした。ちなみに私はパソコンの知識は中くらいのレベルで、デスクトップパソコンの自作ができて、htmlコードのコピペで簡単なホームページが作れるけれどcssは使えなくて、Linuxのインストールはできてもコマンドは使えなくて、iOSは使ったことがなくて、エクセルの関数は使えるけれどマクロは使えなくて、パワポで紙芝居が作れて、フリーソフトを使って画像加工や動画編集ができて、ある程度SEOの知識がある。ネットショッピングやSNSしかしない一般人よりはましなレベルじゃないかと思う。●そもそもパソコンを使えるというのはどういうことかよく求人に「パソコンを使える人」という曖昧な条件があって、パソコンが使えるというのは何を指すのかしばしば議論されている。定義がはっきりしないと議論にならないので、まずここから考えることにする。・ハードウェアについての知識パソコンは電子機器なので、部品がひとつでも壊れれば動かなくなる。そこでメンテナンスのために電源、マザーボード、メモリ、CPU、ハードディスク、キーボード、マウス、モニタといった各部品がどういう役割を果たしているのかという知識が必要になる。パソコンのスペックを見てどの程度の性能なのかがわかる程度の知識がないのではパソコンを使えるとは言えない。大企業だとBiosやドライバの更新やメモリやHDDの増設やインターネット接続設定やデータのバックアップとかのメンテナンスは保守担当者がやるので、個人がパーツについての知識を持つ必要がない場合もある。金がある人ならパソコンが壊れたら買い替えれば済むだけの話である。・操作についての知識パソコンを使うにはマウスとキーボードの操作についての知識も当然必要になる。パソコンを操作するにあたって一番の障害になるのが文字入力の複雑さだろう。高齢者にQWERTYキーボードのへんてこな配列を覚えさせてタッチタイピングをさせるのはほとんど無理かもしれない。デジタルネイティブ世代の若者でもスマホしか持ってなくてキーボードが使えない人もいるそうな。しかしFlickTyperというスマホのフリック入力でPCに文字入力できるデバイスもあるし、Windows10のタッチキーボードにはフリック入力モードがある。マウスは初心者にとっては右クリック、左クリック、ダブルクリックの使い分けが難しいけれど、タブレットPCが出てきてからは指で直接画面が触れるようになって操作は簡単になった。というわけで操作についてのハードルはだいぶ緩和されているので、誰でもある程度操作できるんじゃないかと思う。・ソフトウェアについての知識実務でパソコンを使うには、OSと、そのOS上で動くソフトウェアについての知識が必要になる。たいていの会社のOSはWindowsで、Officeで書類作成をしたりメールを送受信したり情報を検索したり印刷したりするので、この作業が一通りできることを一般的に仕事でパソコンが使えるというようである。しかし基本ソフトが一通り使えるだけでは知識として不十分な場合が多くて、2011年に衆議院で偽装メールの添付ファイルからウイルスが感染したように、ファイルの拡張子についての知識がないとうかつにメールの添付ファイルをクリックしてマルウェアをインストールしたりするし、メールのCCとBCCの知識がないと個人情報や社外秘の情報をばらまいたりする。ソフトウェアの知識がないことが直接セキュリティーホールになる。・プログラミングについての知識プログラミングはソフトウェアを開発するプログラマーには必要だけれど、一般人はプログラミング言語を覚える必要ない。個人でもホームページを運用する場合はHTMLについての知識が必要になるけれど、たいていのブログやSNSはHTMLの知識がなくてもテンプレートが使えるようになっているので、どうしても自前のホームページがほしいとかブログパーツをカスタマイズしたいとかいう人以外はHTMLの知識は必要ない。コマンドプロンプトを使うようなメンテナンスは企業の保守担当の人がやったり、必要な時にインターネットで調べながらやればいいので、別に知らなくてもよい。・インターネットについての知識パソコンで情報を調べる時にはブラウザを使って、インターネットでサーバーにアクセスするわけだけれど、その仕組みや欲しい情報を探す方法を知らないと情報をうまく調べられない。ブックマーク、検索オプション、RSSフィード、SEOの知識があると情報を検索しやすくなる。さらにはインターネットにうかつに個人情報を出さないようにするネットリテラシーも必要になる。一般人のトラブルはたいていインターネットについての知識がないことが原因で、IPアドレスやcookieについての知識がない人はワンクリック詐欺でIPアドレスを表示されただけで住所が特定されたと思い込んで払う必要がない金を払ったり、匿名掲示板なら何を書いてもいいと思って誹謗中傷や殺害予告をして住所を開示されたりするし、ネットリテラシーがない人は恥ずかしい写真を彼氏に送ったらネットに流出して半永久的に晒されたり、実店舗がない詐欺ショッピングサイトに金を振り込んだりする。・デジタルコンテンツについての知識コンシューマーとしてパソコンを使う場合、インターネットを通じて動画や電子書籍を見たり、オンラインゲームをしたり、自分で作った動画や写真などのコンテンツをアップロードしたりすることを一般的にパソコンを使うという。この用途だけなら基本操作さえできればパソコンが使えるということになって、スマホがあればパソコンがいらないと言われる根拠になる。高齢者はパソコンやスマホを使う=遊んでいると誤解している人がいるけれど、そもそも自宅でパソコンで仕事をするのは自営業やフリーランスとかの少数派で、たいていの家庭では娯楽のためにパソコンが使われているからだろう。しかし娯楽としてパソコンを使うにしても、ファイル形式や著作権とかのデジタルコンテンツの知識がないのではちゃんと使えているとはいえない。ネット上に公開されているものはなんでも無料で使い放題だと誤解している人が著作権侵害でしばしば問題を起こしていて、例えばデザイナーがネットで拾った画像をポンポンと配置して商品化して炎上したり、キュレーションサイトのコピペや写真の無断転載がばれてサイトを閉鎖したりしている。いらすとやのイラストが企業でよく使われているのは無償で利用できてトラブルが起きにくいからだろう。フリー素材や著作権が切れたパブリックドメインのデジタルコンテンツをうまく使えるならちゃんとパソコンを使えるといえる。以上の事から、パソコンを使えるというのは基本的なハードウェアの知識があって、マウスとキーボードを使った基本的な操作ができて、メールの送受信やドキュメントの作成や印刷などの業務上必要な作業ができたり、インターネットを通じて検索や買い物などの自分がやりたいことができて、ネットリテラシーがあることがパソコンを使えると言えると思う。特定のソフトウェアやプログラミング言語が使える場合は、パソコンを使えるというよりパソコンで〇〇が使えるという言い方のほうがよい。●桜田大臣についてのネットユーザーの意見パソコンを使えないとだめだよ派の意見:・パソコンの知識がないと国会で深い議論ができないよ・パソコンで何ができるかを知らないのは駄目だよ・トップが理解していないと技術革新が遅れるよ・専門家と意思疎通できないレベルはだめだよ・いまどきパソコンを使ったことがないのは社会人失格だよパソコンを使わなくてもいいよ派の意見:・実務は優秀な部下がやるから問題ないよ・スマホを使えればパソコンを使わなくていいよ・専門家でないと大臣になれないというのはおかしいよ(じゃあ防衛大臣は銃を撃てるのか)●やっぱり桜田大臣はサイバーセキュリティー担当としては適任ではないさて上記のことから桜田大臣がどの程度だめなのかを考えてみる。サイバーセキュリティー担当としてUSB経由での情報漏洩やウイルス感染とかのハードウェアについての知識だけでなく、OSやソフトに固有の脆弱性とか、インターネットを介したサイバー攻撃とかについての知識も必要になる。桜田大臣がスマホは使えるとは言っても、パソコンのUSBを知らないならスマホにもMicroUSBやType Cという穴があるのも知らないだろうし、USBメモリを知らないならSDカードも知らないんじゃないかと思う。ただスマホの操作ができるだけで充電する穴の名前を知らないレベルではスマホを使えるともいえないし、そもそもパソコンとスマホはOSが違うのでスマホを使えたとしてもパソコン固有のセキュリティについての知識は必要なので、スマホが使えればパソコンを使わなくてよいという擁護は無理筋だろう。人間は一般的に自分が理解できないことは警戒するし、歳をとるほど変化を嫌うようになるので、知識がない高齢者が担当者になったときになんでもわからないからとりあえず反対したり、逆に特定の専門家の言いなりになってなんでも賛成ということになりかねないのが問題である。間違った知識を入れ知恵されて騙されたりする危険もある。原口一博議員が「グーグルアースか何かで見れば、どこに日本の艦船がいたか分かりますよ」と言ったのがつっこまれたり、永田寿康議員が堀江メール問題で議員辞職したけれど、こういうのがパソコンの知識がないと国会の議論が深まらなかったり騙されて利用されたりする例で、原口議員や永田議員を批判したことがある人は桜田大臣の知識不足を擁護できないんじゃなかろうか。ちなみに平井卓也IT担当大臣というのもいるそうで、電通出身でITの専門家でもない平井大臣に批判がないところを見ると、桜田大臣を批判する人は専門家でないことを理由に桜田大臣を批判しているわけではないといえる。ただでさえサイバーセキュリティーへの対応が遅れている現状なのに、そこでパソコンを使わずに一般常識ともいえるUSBについての知識さえない人を担当にするのはだめだという話で、専門家でなくても最低限パソコンを日常的に仕事で使っていて包括的な基礎知識がある議員が担当したほうが適任なのは当然だろう。高齢者にパソコンの使い方を教えたことがある人ならわかると思うだろうけれど、アナログ世代の高齢者にパソコンを教えるときはカタカナ用語の意味をいちいち説明しなければならなくて英語を教えるくらい大変なことだけれど、桜田大臣はパソコンが使えないだけでなく英語もしゃべれないので実質的に英語も教える必要があるようなもので、いくら優秀なスタッフがいたとしてもパソコンについてほとんど知らない人に説明するために長い時間を割くのは税金の使い方としては非効率である。中小企業の経営者がパソコンに疎くて時代に対応できなくなるのは自己責任だけれど、国でそれをやられると国民全員が迷惑をこうむる。パソコン遠隔操作事件で警察がサイバー犯罪の捜査に弱くて誤認逮捕したのが問題になったように、公務員は副業を禁止されていたりあまり転職しなかったりするせいで世間に疎くて民間企業以下の知識しかないわけで、そのうえ大臣まで知識がないのではサイバーセキュリティーは当分は期待できなくて、大臣にパソコンのいろはを指導しているうちに任期が終わってしまいかねない。というわけで、やっぱり桜田大臣はサイバーセキュリティー担当者として適任ではないと私は思う。今からパソコンの勉強する努力を否定するわけではないけれど、今まで政治家として積み上げてきたキャリアを活かして他の得意分野に労力を費やしたほうが本人も活躍できるんじゃないかと思う。●PCを使わない人はこれからの社会で有害になりうるPCを使わない人が老害化するのは、履歴書手書き教徒が典型的である。手書きの文字で性格がわかるだのという根拠のない非効率なやり方を有難がる採用担当者がいるけれど、こういう人が技術革新の抵抗勢力になる。会社のサーバーに履歴書のテンプレートを置いておいて応募者に記入させて送らせて、ビデオチャットで面接すればペーパーレスで選考できるのに、わざわざ証明写真を張らせたりして応募者に時間と金をかけさせることを強いているのは時代遅れである。小説家でさえ一世紀前にはタイプライターを使い始めて手書きしなくなったというのに、文章を書くのが本業でさえない人が妄信的に手書きにこだわるのはわけがわからない。たかが履歴書を印刷するだけのことにさえ抵抗する人が大勢いるというのは、GAFAが世界を席巻しているアメリカと比べて日本の未来が暗いことを示している。パソコンは使えるけれどIT化には反対するような頭が固い経営者や管理職が大勢いるような有様でIoTの製品やサービスが作れるとは思えない。出版業界も電子書籍の売り上げは伸びているのに紙の書籍を切り捨てる判断ができないでいて、IT化への対応ができないでいる。例えばレビューサイトなんかは時間がたってレビューが増えるほどサイトの価値が高まる仕組みになっているけれど、いまだに日本の本屋は単に本を並べて売ることしかやっていなくてろくにレビューがなくて、再販制度があるだけにどこで本を買っても値段が同じならレビューやプレビューがあるAmazonで買うほうが便利ということになって、Amazonとの差が広がる一方である。もはや情報を得るために本に頼る必要さえなくなっていて、最新のファッションやメイクはインスタグラムに載っているし、DIYやハウツー系はユーチューブに投稿されていて、出版業界がIT化の対応が遅れてぐずぐずしていると紙で売るか電子で売るかという流通の問題でなくなって、動画に客を取られて読書するという習慣自体がなくなりかねない。カーナビ業界はGoogle Mapに客を取られてパイオニアが香港のファンドの傘下になったけれど、出版業界もIT化に対応できないならいずれ外資の傘下になるかもしれない。そうなる前に読書に関するサービスを充実させるべきだろうし、その発想をするためには経営者がパソコンで何ができるかを理解していないと無理である。
2018.12.22
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スリがやばい奴に脅されてスリをする話。大江健三郎賞受賞作。●あらすじ西村が電車で掏摸をしていたら立花と再会して、石川がへまをして消されて木崎が何かやるらしいから巻き込まれる前に消えたほうがいいと忠告される。石川はパキスタンで死んだことにして新美に名前を変えていて、木崎を紹介されて西村が石川と立花と一緒に金持ちのじじいの家に強盗に行って家政婦を縛る手伝いをしたら、衆議院議員の殺害事件として報じられたのだった。西村はスーパーで母親から万引きさせられている子供に金をあげたら子供の母親が家に押し掛けてきたのでエッチして、子供にスリの英才教育をしていたら木崎が接触してきて、親子を殺されたくなかったら3つ仕事をやれと言われて、まず桐田の携帯電話を盗んで、次に男からライターを盗んで、母親に金をあげて子供を施設に入れて、米沢のコートに縫い込まれていた封筒をなんとかすり替えたら、木崎に殺されそうになる。●感想西村(僕)の一人称。犯罪者が自分の犯行について語るのは取り調べや刑務所内で書いた手記とかの語る動機がないとそもそも語ることがありえないし、実況中継風に語るのも動画実況でもしないとありえない語りの形式で、いつ誰になぜ語るのかというナラトロジーの始末ができていないし、語り手が語るということはどういうことなのか理解していないナンチャッテ一人称になっている。「僕」を「西村」にして三人称にしても成り立つ文章なので、だったら三人称にして自由な視点で物語を展開するほうがまし。一人称にしてしまったせいで西村についての年齢や外見と言った客観的情報がなくなるという悪手。西村の言動に魅力がなんもないので、もっと腕にシルバー巻くとかして工夫をしてほしい。一人称の小説は読者がずっと語り手に付き合わないといけないので、語り手に魅力がないのはしんどい。語り手と物語の主人公が別でストーリーが面白いならまだましだけれど、語り手が主人公の場合は語り手の魅力のなさがストーリーのつまらなさに直結する。文章も読みづらくて、石川は最初に木崎を「あれ」というので誰のことか不明だし、子供が最初に登場した時には「子供」と書かれるだけで年齢も性別も不明で「子供」で通すかと思いきや82ページで唐突に「少年」と書いているし、西村が木崎と再会した後になぜか木崎と呼ばずに「男」と呼び始めるし、こういう呼称のぶれのせいで何を書こうとしているのか曖昧でイライラする。具体的に語れるものをわざわざ抽象的で曖昧にして下方修正する意味がわからないし、下手くそすぎて読んでる途中で本をぶん投げて捨てたくなった。エンタメならこんなもんでもいいけれど、純文学なら金をとって売るレベルではない。ストーリーは主人公に動機がないせいで物語の展開が他人頼みになっていて、木崎にお使いさせられるだけの単純な話なのに木崎との再会が物語が半分を過ぎてからで展開が遅いし、長々と石川のエピソードを展開したくせに伏線になるわけでもなく、プロットもない。木崎がいきなりヤーヴェが云々と一人語りするのも不自然すぎて、ヤーヴェというより中二病がやべえし、木崎が何をしようとしているのかも不明。知らない子供の世話をするのもとってつけたような展開で、子供にスリの仕方を教えたりやめろと言ったりして言動が一貫していなくて何をしたいのか不明。著者の8冊目の小説らしいけれど、芥川賞を受賞した純文学作家がナラトロジーの始末をつけずにエンタメ作家みたいな一人称を使うのは技術レベルが低くて、構成が下手なうえに描写が曖昧でものすごく読みづらい。これがアカデミックな文学の知識がない人が書いた小説の技術的限界なのだろう。こういう書き方をしてよいのは文学理論の研究がされていなかった20世紀の作家までで、21世紀の作家がこういう書き方をするのは小説の技術について勉強不足である。花村萬月からエロスと暴力をとった劣化版という感じで、裏社会を書くにしてもウシジマくんのエピソード一つ分にもならない参考資料の焼き直しでストーリーにも見どころがないし、芥川賞受賞後に成長した様子もないので、この作家はもう読まなくていいや。★★☆☆☆掏摸【電子書籍】[ 中村文則 ]
2018.12.20
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アメリカの経済が不調で労働者の実質賃金があがらないのは国内の問題で、輸入や国際競争力とは関係ないよと説明する本。1997年に刊行した単行本を文庫にしたもの。●まとめ・各国は限られた範囲に生産を特化して、第一世界と第三世界の貿易は高度なハイテク製品と衣料品のような労働集約型の製品を主に交換する。第三世界の低技術製品の生産性が高くなっても第一世界の低技術製品の価格は変化せず実質賃金も変化しないので、第三世界の成長は第一世界に悪影響を与えない。・労働と資本の大きな違いは国際的な移動の程度で、1920年以後は先進国は経済目的の移住を制限したので、一部の頭脳流出はあるけれど労働者のほとんどは国際的に移動することはない。これに対して国際的な投資は世界経済に大きな影響を与えるが、第一世界から第三世界には資本がそこまでは移動していない。・競争力という言葉が何を意味するのかについてのまともな議論がない。ほとんどの人が国を企業と似たものと考えて、貿易とは企業間の競争を大規模にしたものと考えているが、国は企業とは性格が違う。貿易はプラスサムゲームで、ひとつの国の利益が他の国の損失になるわけではなく、貿易に関して競争という言葉を使うのは誤解を招く。・貿易のパターンの変化が国全体としては利益となる変化であっても、短期的に見て国内に勝者と敗者が生まれる。例えば外国のメーカーが品質の高い製品を安く販売するようになれば、国民のほとんどにとっては利益になるが、輸入品と競合する国内産業にとっては打撃になる。自由貿易に反対する意見のうちかなりの部分は既得権益の保護を求めるもので、競争力を高める必要があるとの主張も自己利益の隠れ蓑として使われる。●感想私は経済学については無知だけれど、それでもクルーグマンの言うことはなんかおかしいと思う。1997年の刊行当時は労働者が国際的に移動することはないという見解は正しかったのかもしれないけれど、1999年にアムステルダム条約が発効してEU内の人の移動が自由になって、それから2015年の欧州難民危機でアフリカや中東から大量の難民が事実上の経済目的の労働者として流入するようになってドイツには110万人の難民が流入している。イギリスは2004-2016年に毎年移民が平均25万人流入してきて、移民が増えすぎてイギリス人のアイデンティティの問題が起きて保守派がEU脱退の国民投票をしてBrexitが起きた。日本も入管法改正で外国人労働者の受け入れを5年間で最大35万人に拡大した。というわけで今や労働者が資本と同様に国際的に移動するものになっている。第一世界から第三世界には資本がそこまでは移動していないというのも状況が変わって、先進国の資本が世界の工場と呼ばれる中国に集まった結果、急激に経済成長した中国の資本が世界中に逆流している。中国の台頭は第三世界の成長が第一世界に悪影響を与えている典型例で、中国企業がドイツ銀行の筆頭株主になったり、アフリカの利権獲得に動いたり、一帯一路で途上国に資金を貸して経済的に依存させて中国の支配下に置いたり、政治家に選挙資金を出して親中派議員を送り出してカリフォルニア州が中国の工作拠点になったり、情報を盗むファーウェイがアメリカの情報通信ネットワークで力を持ったり、米司法省が過去7年間で摘発した経済スパイ事件の90%に中国が関与していたことも明らかになったりした。経済のデータしか見ていないクルーグマンが見落としているのは、いわゆる国際競争力というのが単に国家の貿易収支の増減でなくて、政治力や軍事力や宗教や思想といった統計上のデータに出てこない影響力の増減につながるという点だろう。例えばロシアや北朝鮮への経済制裁は単に気に入らない国を貿易で損させるつもりでやるのではなくて政権の支持率を落として軍事力を減らすことにつながるけれど、なんでクルーグマンが国際競争力の定義の時に政治的影響力を無視しているのか疑問である。保護貿易は何を保護するかだけが話題になるけれど、誰から保護するかというのも大事で、例えば大学生が車を欲しがっているときに店から中古車を買うのとやくざから中古車を買うのは帳簿上はどっちから買っても収支は同じだけれど、ついてまわる影響力が全然違うわけで、やくざに関わらないように親が注意するのは過保護として責められるものじゃないだろう。クルーグマンはこの「誰から保護するのか」という視点が欠落していて、中国に対する警戒心がまるでない。経済学的に統計を見れば国際競争力は問題視しなくていいよと言っても、現実世界は経済だけで成り立っているわけではないので、そこが経済学は役に立たないとかノーベル経済学賞はいらないとか言われる原因なんじゃないかと思う。というわけで、労働者や資本の移動といったクルーグマンの意見の根拠になっていた前提が変わったのでクルーグマンは意見を見直す必要があって、20年以上前に書かれたこの本を今読んでもあまり説得力がない。トランプは保護貿易をしているけれど、それが全部間違った政策かというとそうとも言い切れなくて、トランプが関税障壁で中国を牽制するのも単なるアメリカ国内の既得権益の保護だけが目的の保護貿易というのでなく、中国の政治的影響力を押しとどめて外交での主導権を得ようとしているという点ではアメリカ国民全体の利益になる政策である。中華思想で世界を中国化しようとする中国と違って、日本は外交的野心がなくて単に商品が売れて儲かればいいやという商売しかやらないので、トランプが壊れにくくて燃費がいい日本企業の自動車を敵視して規制しようとするのはアメリカ国民が不利益を被るだけなのでそこは政策として間違っている。そういえばコンテンツビジネスでは国際競争力という話は聞かない。アメリカで日本の漫画やアニメを規制してアメコミやカートゥーンを日本に輸出しようという運動にならないのはなぜかと考えると、コンテンツビジネスは資本集約産業でもなく労働集約産業でもなく少人数で少ない資本で製作されるので、設備投資や雇用にたいして寄与しなくて既得権益の保護にもつながらないからだろう。それにコンテンツビジネスではバイアスやプロパガンダはすぐに見破られて外国に対して政治的影響力を持たないので、コンテンツビジネスは国際競争力という文脈で語られないのかもしれない。中国のように外国のコンテンツを規制したところで、規制することが国内のコンテンツ産業の保護につながるわけでもなくて、言論の自由がないうえに外部からの刺激もなくなるとさらにコンテンツ産業が弱体化する。コンテンツビジネスではクリエイター個人の才能の勝負なので、国や国籍や人種は問わずに面白いコンテンツが世界中の消費者に支持されるわけである。デジタルコンテンツは在庫管理の問題がなくてサーバーにデータを置いておく費用も倉庫代よりは安いし、いったんコンテンツを制作してしまえばインターネットで世界中で売れるので長期的に利益を出しやすい。これから日本が人口減少で衰退するにしても、世界の人口が増えれば増えるほど潜在的顧客が増えるし、発展途上国が経済的に豊かになると娯楽に金を出すようになるし、そのときがコンテンツビジネスにとってチャンスになる。日本は外国人労働者にレタスの収穫とか介護とかの低賃金な労働をさせてピンハネでせこい利益を出すよりも、コンテンツの制作や翻訳ができる高度人材を確保するほうが儲かるんじゃなかろうか。★★★☆☆【中古】 良い経済学悪い経済学 日経ビジネス人文庫/ポール・クルーグマン(著者),山岡洋一(訳者) 【中古】afb
2018.12.15
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漫才のM-1グランプリの上沼恵美子の審査に対して、「とろサーモン」の久保田かずのぶと「スーパーマラドーナ」の武智正剛が更年期障害だのと暴言ともとれる批判をしたことが話題になっている。私は漫才のファンというわけでもないけれど、賞に落ちたからといって暴言を言うのはよくないと思うので賞レースについて考えることにした。●同業者しか審査できないのか誰が審査するのかという以前に、何のために賞を開催しているのかという趣旨によって、審査方法は変わってくる。サッカーや柔道とかのスポーツの審判は専門知識を持ってルールに精通している競技経験者が行って、選手や観客が抗議しようが審判の判断が絶対である。文学賞なら小説家だけでなく批評家や翻訳者や文学者といった類似分野の人も選評に加わって、多角的に魅力や欠点を分析して総合的な出来栄えを評価する。ドラマのオーディションは演技がうまい俳優から順に選ばれるというわけではないし、スポンサーの意向で世間のイメージがよくて話題になる人を選んで、主演が脇役より演技が下手ということもしばしばある。つまりは客観的な技術を評価するなら専門知識を持った同業者が審査をやるべきだし、芸術のように鑑賞する人によって評価が変わる場合は同業者でなくてもよいし、売り上げや宣伝を見込んで審査するなら技術を知らない広報担当やマーケティング担当とかが審査してもよいわけである。漫才は芸術でなくて娯楽なので、最終的な客はテレビを見る素人である。いくら技術的に上手くても客にとって面白くなかったらそれは漫才として商品価値がなくなる。素人にお笑いの何がわかるんだ、芸がわからない奴に審査されたくない、というのはもちろん芸人としての矜持があるから言うのだろうけれど、客を無視したら商品のコンペとして成立しなくなる。その点で、漫才は同業者から素人まで誰が審査してもおかしくないコンテンツといえる。●賞レースの審査の難しさ高額な賞金を出して若手のモチベーションを高めて芸を競わせること自体は良いことだと思うけれど、賞金が高額になるほどどういう審査をしても負けた大勢の参加者からは不満がでるものである。100メートル走のように全員が同じことをやって競う場合は比較が簡単なものの、全員が違うことをやって競う場合は優劣をつけるのが難しくなる。そもそも審査員によって点数が大きく異なるのは審査基準がないのが原因だけれど、じゃあガチガチに審査基準を作れば皆が納得する審査結果になるかというとそうなるわけでもない。体操やフィギュアスケートみたいに技術点と芸術点を分けて個々のツッコミやボケに細かく点数をつければ審査員ごとに採点がぶれることなく平均的な点数が出てくるけれど、スポーツでないエンターテイメントでそれをやるとかえって無粋になってつまらなくなる。オンエアバトルみたいに1人1票の広い客にうけるような芸とは違う漫才の技術をベテラン芸人が評価することにM-1の意義があるだろうから、ベテランがそれぞれの審査基準で独自に判断して総合点を競うのはそれほど悪くないやり方だと思う。審査員の数を増やせば個々の審査員の影響を減らしてバランスを調整することができるし、価値観の多様性があるほうがいろいろな才能を拾い上げることができるようになる。芸人は自分の師匠や先輩以外のベテランから率直な評価を聞ける貴重な機会としてとらえれば、長所や短所を自覚して飛躍のチャンスにもなる。審査員も大変である。厳しい採点をしたら将来伸びるかもしれない若手に嫌われるし、ベテランが偉そうな態度で若手をいじめているようで視聴者の印象も悪くなる。かといって嫌われるのを怖がって八方美人な甘い採点をすると、芸の質が落ちて賞の価値がなくなるし、優劣がつかなくなって賞レースそのものが成り立たなくなる。私はこのブログでは★でざっくりした小説の評価を書いているけれど、点数で優劣をつけろと言われても困る。小説のようにじっくり読むのでも良し悪しの比較は難しいのに、ましてや漫才のように数分の印象ですぐに点数をつけてコメントしないとないといけないのは大変だろうと思う。そういう難しい審査員役を頼んで引き受けてもらったわけで、上沼恵美子がえこひいきなしで真剣に審査したというのは本人が言う通りなんだろうなと思う。●芸人には批判する自由もある賞レースに参加するということは審査員に評価を委ねるということで、審査員や審査基準が気に入らないなら参加しないという選択肢もある。採点に文句があるにしても、審査員に対する個人批判をするのでなく、公正な賞にするために審査基準の改正を求めるのが筋である。芸人に批判する自由があるといっても久保田と武智の上沼恵美子批判に擁護がないのは、芸能界は上下関係が厳しいから先輩芸人を批判できないという問題ではなくて、久保田と武智ならどういう公平な採点ができたのかという具体的な改善案がなくて単なる悪口になっているからだろう。感情で審査するのはやめろと酒に酔って感情的に批判したせいで、ブーメランが戻ってきて自分に刺さる構図になっている。酔いがさめてから上沼恵美子に謝るのもダサくて、喧嘩するつもりもなくてすぐに謝るなら最初から言うなという話である。プロレスラーならマイクパフォーマンスの挑発で観客をわかせて次の試合への期待を持たせるだろうし、山岡士郎なら一週間後に本物の審査を見せていただろうに、酔って先輩批判してばれて謝るという場末のサラリーマン並みのつまらないことをプロ芸人がやってどうすんだ。謝って済むという問題でもないので、批判したいならしらふの状態できっちり批判するべきである。論理的に批判できないなら、単に上沼恵美子が嫌いだと表明しただけになってしまう。●目的と手段を間違えてはいけない芸人の目的は何なのかと考えると、審査員に気に入られて賞を取って賞金をもらうことが芸人の目的ではなくて、芸で客を楽しませるのが目的で、賞は芸を宣伝して売るための手段のひとつに過ぎないわけである。芸人が自分の芸に自信があるなら審査員が言うことは気にせずに客の反応だけ見ていればいい。芸人の客は賞レースの審査員じゃないし、賞レースで勝とうが負けようが客がついてこなければ意味がないので、義理人情を欠いて不快感を持たれる人になってしまってはいけない。どんな業界でもお互いに協力して成り立っているので才能があろうが人間のクズの居場所はないし、ヤクザでさえ組の邪魔にしかならない人間のクズは破門する。久保田は人間性がないのを売りにしているようだけれど、そんなのは自慢にならない。とろサーモンは2017年のM-1グランプリで優勝したのに、わざわざ評判を落とすようなことをして何がしたいのか目的がよくわからない。私は言動が粗暴で下品な芸人や体の欠点をいじる芸が嫌いなので、U字工事みたいにあまり面白くなくてもごめんねごめんねとちゃんと謝罪できるまじめな芸人のほうが人間として好きである。あるいはYouTuberでも人気のYouTuberは暴言を言わないからこそ好感度が高くて、例えばうまいプロゲーマーはたくさんいるけれど、ゲーマーは民度が低くて「引くこと覚えろカス」とかいう暴言をいうプレイヤーが多くて不快で見ていられない一方で、プロほどうまくはなくても暴言を言わずにゲームを楽しむ弟者は人気がある。エンターテイメントではいくら技術があろうが、客に感情的に嫌われたら商売にはならない。プロなら自分が満足するために行動するのではなく、客を楽しませるために行動するべきだろう。
2018.12.09
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1999-2006年に書かれた11編の短編集。●各短編のあらすじと感想「拝啓ノストラダムス様」はノストラダムスの予言を信じていた高校生のユウが幼馴染のカスミが自殺未遂したときの薬の残りをもらう話。コウの一人称。自殺未遂する少女、最後に花火というベタな構成。生きる理由がないことに向き合わないと本質的な解決になっていない。「正義感モバイル」は落ちぶれて時間つぶしの番組のレポーターになった元アイドルの由美子が同じグループで唯一売れたのに自殺未遂した桐原恵理について街頭インタビューして引退する話。大学生のレイの一人称。語り手を当事者でないいっちょかみの人物にするのはテーマを掘り下げることから逃げていて、桐原恵理が自殺未遂した理由も不明なまま。レイの心理を掘り下げるわけでもないのでレイを語り手にする必然性がなく、何を書きたいのか意味不明な短編になっている。「砲丸ママ」はファンだった女子砲丸投げの森千夏ががんで死んだのをきっかけにして元砲丸投げ選手だったママがまた砲丸投げをやり始める話。パパの一人称。森千夏は実在のアスリートだけれど、私は実在の人物をフィクションのネタにすることには批判的である。何かしらの業績を上げた人は伝記で充分面白い物語になるので、わざわざフィクションにする意味がない。「電光セッカチ」はせっかちな旦那が嫌いになった妻が子供を連れてプチ家出したら旦那が反省したので温泉旅行でのんびりする話。妻の一人称。ヤマなしオチなしのエッセイ風小説。作り物のエッセイ風小説を読むくらいなら本物のエッセイを読んだほうがまし。「遅霜おりた朝」は生徒にボコボコにされた元教師のタクシー運転手の修二が夜中に不良のヒロとミーコを乗せたら、ミーコの母親が不倫して家族を捨てた挙句にがんで死んだので長野まで行きたいのだという話。修二視点の三人称。死んだのはミーコの母親で彼氏のヒロの母親は関係ないだろうに、最後にヒロが「かあちゃん」と寝言を言うあたりはわざと臭い。「石の女」は不妊の雅美が年賀状を送った友人の史子に龍之介が犬だと言いそびれたので、甥を一日だけ借りてごまかそうとするもののばれる話。旦那の一人称。史子が連れてきた子供も借りものだったとか何かしら工夫の余地はあっただろうに、オチに特にひねりもない。でっていう。「メグちゃん危機一髪」は同期の晴彦と新井がリストラ候補になって新井が左遷されたとき、新井は会社を無断欠勤してアザラシのメグちゃんを暗殺しようとする連中の動向を見届ける話。晴彦視点の三人称。アザラシがどうなろうがどうでもいい。「へなちょこ立志篇」はマケトシと呼ばれている16歳の勝利が明日香に振られてプチ家出することにして、リストラされてホームレスになった高橋が駅前に居座って会社に復讐する様子を見ていると謎のメモリーカードを渡される話。勝利の一人称。へなちょこがVシネマみたいな体験をしたという程度の話で、結局は自分が何かをしたわけではなくて他人事にすぎないし、家出して何がしたいのか意味が分からない。「望郷波止場」はテレビ局のディレクターのトモとレコード会社の林が音楽バラエティ番組で羽衣天女という演歌歌手を再デビューさせるために出演交渉したら、昔と今を比較して笑いものにする番組だとばれて出演拒否されそうになったので説得する話。トモの一人称。トモが何をしたいのか意味不明な胸糞話。テレビ関係者は人間のくずしかいないと作者は主張したいのだろうか。「ひとしずく」は妻の誕生日祝いにワインを買ったら、図々しい義弟がいきなりやってきてワインを飲んでしまう話。ヘタレ夫の一人称。妻がなんでも許すことで無理やりいい話っぽくしているけれど、女性を都合のいい存在として扱う胸糞話である。「へなちょこ立志篇」の勝利と名前がかぶっているけれど、だからといって何か工夫があるわけでもない。「みぞれ」は息子が脳梗塞の父がいる実家に帰って昔のカセットテープを聞く話。息子の一人称。ヤマなしオチなしのエッセイ風小説。作り物のエッセイ風小説を読むくらいなら本物のエッセイを読んだほうがまし。●全体の感想典型的なエンタメ小説の書き方で、一人称の短編はどれもナラトロジーの始末ができていなくて不自然な語りになっている。作者の癖なのかほとんどの短編がトラブルに直面した当事者ではなく第三者の視点から書く構図になっていて、そのせいで話が婉曲になってつまらなくなっている。探偵(主人公)と助手(語り手)の組み合わせは物語の基本的なパターンだけれど、物語の主人公と語り手の関係性が浅いと傍観者的な浅い物語にしかならないし、それなら三人称で主人公に焦点を当てて書いたほうがまし。内容は誰かが死ぬことで話の山場を作る薄っぺらいお涙頂戴物か、何も起きないほっこり家族小説で、高校生くらいなら暇つぶしにはなるだろうけれど、大人が読む価値はない。こういうの書いたら感動するんでしょ的なネタを狙うスタイルとしてはこれはこれで完成されているやり方だけれど、表面上の感動を取り繕うことに何の意味があるのか。こないだ読んだ三浦しをんの『天国旅行』もそうだけれど、人の死に真摯に向き合わずにイイ話としてごまかして、他人事としかとらえていないあたりにエンタメ作家の思想の限界が見える。死んだ人についての反応を書くのでなく、その人が何を考えてどう生きたのかという姿を書くべきだろう。「あたたかな涙が、頬を伝います。胸にグッとくる必読の一冊!!──生きているって、家族って素晴らしい!」といういかにもアホ向けな宣伝文句が帯に書いてあるけれど、虚無と絶望に向き合わない人ほど偽善的な感動に浸ってそれを他の人に押し付けようとするものである。人生や家族がそんなに素晴らしいならそもそも離婚する夫婦はいないし、自殺者なんか一人もいないはずである。人生の苦痛を見ないふりをして、無責任に人生を礼賛する態度は生きていることに苦痛を感じる人に対する共感のなさや無関心の現れである。1冊で400ページ以上あるけれど、くだらない短編をたくさん読むよりもまともな短編をひとつでも読むほうがまし。★★☆☆☆みぞれ【電子書籍】[ 重松 清 ]
2018.12.07
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芥川賞受賞作の表題作とその他の短編集。●各短編のあらすじと感想「誰かが触った」はらい療養所の少年少女患者のための中学校の分教場に加納妙子が教師として赴任してくるものの、医学的に見て完全隔離する必要がないと初めて知って衝撃を受けて、馬場先生は他人のために犠牲を強いられるのが嫌になって悩んでいたものの本校に復帰するのをやめて残る決意をしたのに園長が分教場を合併してしまう話。三人称。視点を固定せずに各人物をちょっとずつ書く形式だけれどこれが悪手で、何の場面を書こうとしているのかわかりにくいうえに、各場面のつながりがないのはよくない。いつの時代のどの場所にある療養所なのかという客観的な情報がないままいきなり生徒がわんさか出てきて、ろくに外面描写もなくて人物像が固まらないうちにさっさと次の場面に移るので名前を覚えきれない。冒頭に歌子と悦子が出てきたのにそのあとは当分出番がないし、何のためにそのエピソードを書いたのか意味がわからない。生徒が十人前後だという情報が出るのが34ページになってからで情報を出すのが遅い。妙子は子供の施設外の外出を咎めていたのに、隔離する必要がないと知った後で子供への態度をどう変えたのかというのも書かれていなくて、馬場の話で物語が終わって妙子のエピソードを回収しきれていないので、教師の苦悩を書きたいなら妙子か馬場のどちらかの視点で固定したほうがましだった。「カッサンドラの地獄」は高校三年の裕子が孝とドライブしたら不審な男が自動小銃が要るだの団地にバズーカをぶち込むだのと物騒な話をしているのを聞いてしまい、犯行を警告するために叫んだりビラを配ったりするものの周りの人は無関心だったので、自分の言っていることをわからせるためには放火でもしないといけないと弟の治に言ったら、治が火だるまになる話。裕子視点の三人称。悲劇の預言者のカッサンドラを現代版キャストに改変したところで、そこで独自の面白さがあるわけでもない。いつの時代のどこの話なのか具体性がないし、裕子は不審者を見つけて警察にも行かずに避難もしないのも不自然だし、裕子が何をしたいのか意味が分からない。この小説が安保闘争か学生運動か何かの比喩として書かれたのかもしれないけれど、不審者たちが何のために団地を襲撃するのか不明だし、比喩として読むにしても手掛かりがなさ過ぎて裕子が単なるきちがいに見える。「あなたの町」は町に引っ越してきたのっぽと小太り眼鏡の二人の若者が別の町を散策しに橋を越えようとするとおっさんに町を出るなんてとんでもないことだと言われて何かおかしいと思い、荷物を背負って夜中に町を出ようとすると警察につかまって失敗して、当面の生活のために就職すると眼鏡は町になじんで逃げる気をなくしているものの、のっぽは人質を取って逃げることを提案して眼鏡と親しい娘を人質にするものの失敗して、のっぽがついに一人で橋を渡ったら町が橋の向こうまで拡張されていた話。三人称。監禁から逃げることを正常だと思っているのっぽが異常者として扱われる不条理的なことをやりたいのだろうけれど、町にも登場人物にも固有名詞がなくて抽象的すぎて場面が想像できないので物語が頭に入ってこない。リアリティがあるからこそ不条理さが際立つわけで、全部抽象的にして何でも起きうるリアリティがない世界にしてしまっては不条理さが減るし、町が主題なのに日本のどの地域のどの程度の大きさの町なのかも不明で町のトポスがなくて抽象的なのは物語の核がなくなってしまうし、技術的に失敗している。ある場所を出たくても出られないという話なら阿部公房の『砂の女』のほうが場所の特徴があるぶんよくできている。こういうアイデア頼みの小説をやるなら最初の一人にならないと意味がなくて、後追いでやっても見どころがない。エンタメになり損ねたSFという感じ。●全体の感想「誰かが触った」はずいぶんつまらなかったのでなんでこれが芥川賞を受賞したんだろうと思って芥川賞のすべて・のようなもので選評を見てみたら、ハンセン病をテーマにして深刻に書ける内容を明るく軽く書いたことが評価されて芥川賞を受賞したようである。「誰かが触った」はハンセン病患者だから意図的に外面描写をせずに軽く書いたというより、他の短編も外面描写が少ない非リアリズム小説なので、作者はそういうポストモダニズム的な書き方が好きなんだろうと思うし、私からすると技術的には下手な水準に見えるのだけれど、当時はそういう書き方が技巧的でうまいと思われていたんだろうか。ハンセン病を問題提起するなら症状も治療法もリアルに書くほうがましだし、その同時代の重さに向き合わずに軽さに逃げると、書かれてから何十年も時間がたって同時代性が失われたときには炭酸が抜けて酸化したシャンパンみたいになって読む価値がなくなってしまう。というかそもそもハンセン病を書かなくてもジョゼ・サラマーゴの『白の闇』みたいに謎の病気で隔離された様子を書いてもよいわけで、ハンセン病を掘り下げないならハンセン病をテーマにする必然性がなくなる。というわけで私には当時の選考委員が評価した軽さは欠点にしか見えない。3つの短編を読んでもそこに作者が現実社会をどうとらえたのかという思想が見えないし、アイデアと技巧だけで書いた小説という感じでいまさら読む価値はない。★★☆☆☆
2018.12.03
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沖縄作家初の芥川賞受賞作の表題作とその他の短編集。●各短編のあらすじと感想「亀甲墓」は沖縄で艦砲射撃が始まって善徳とウシは娘や孫を連れて墓で暮らし始めて、銃声がし始めて墓の上で日本兵が死に、墓から逃げるために食料を調達しに行ったときに校長が自分の畑で芋泥棒をしているのを追いかけて善徳は艦砲弾で死に、ウシは娘のタケが栄太郎と不義の関係をしているのが気に入らなかったものの善徳の遺体を担いで戻ってきた栄太郎を許して、ウシはダビするために親類に知らせてこいと栄太郎に言うので栄太郎は砲撃の中を走る。三人称。艦砲射撃の音をドロロンと書くあたりは方言と相まって独特な雰囲気が出ていてよい。避難でまごまごするところに緊張感がよくでているし、現実的な考え方をしていた栄太郎がウシに信頼されたことで義理を重んじるウシの考え方に巻き込まれていく様子もよく書けている。「ニライカナイの街」は時子が父親の健康と弟の健二の闘牛を見に行くものの父親の牛と敵の牛を取り違えて応援して、父と弟が仕事を怠けて闘牛趣味をして時子の金をあてにするのが気に入らず、牛を買う金でアメリカの土地を買うことを考えていると、夫のポールがベトナム戦争から帰ってきて牛を買うつもりでいるものの、時子は健二からポールはアメリカに本妻がいると言われてポールの愛の先の運命を保証するために茂雄が勧めるアメリカの土地を買うと茂雄は土地代の詐欺グループの首謀者として逮捕され、父親たちは掛けで高値の牛を買って闘牛に挑む話。時子視点の三人称。冒頭の牛を取り違えるという話からポールや茂雄への不信感へと物語を展開するのはよいけれど、闘牛に結婚の運命を賭けるというのは井上靖の芥川賞受賞作の「闘牛」と似た展開で、井上靖の「闘牛」が先に書かれたのだから差異化するためにも別の展開にするほうがよい。「カクテル・パーティー」は私が中国語研究グループのミラー氏のカクテル・パーティーに呼ばれて沖縄が日本文化と中国文化のどちらに属するかを議論していると、モーガン氏の子供が行方不明になったので私は中国人の孫氏とアメリカ人の住宅街を探しに行くものの子供は他の人が見つけていて、私がパーティーから帰ると娘は裏座敷を借りているロバートにレイプされていたものの娘はロバートを崖から突き落としたとして傷害罪で米軍に逮捕されて、警察からは告訴しても立証は無理だから泣き寝入りしろと言われてロバートを証人出廷させるためにミラーに同行を頼むものの、ミラーからは沖縄人とアメリカ人の問題でなく個人の問題だとして協力を断られて、小川と孫に協力してもらってロバートと面会するもののロバートは出廷する気はなく、私はまたミラーのパーティーに呼ばれて親善は仮面だと言って喧嘩別れして娘が苦しむのを承知でロバートを告訴する話。前章が私の一人称、後章はお前の二人称という実験的な形式。二人称の小説は実験しただけで見どころがあまりない小説が多いけれど、この小説は一人の人物の二つの視点を書いているという点で二人称がちゃんと機能している。前章で私がアメリカ人と好意的に親善していた視点を書き、後章でお前がアメリカ人に不信感を持つ視点を自己批判的に書いて、論理的には法律上はどうしようもないけれど感情的には収まりがつかない外国の占領下での犯罪の是非を問うやり方は成功していると思う。163ページの「小川氏は起こっていって」は「怒って」の誤植じゃなかろうか。「ショーリーの脱出」は背が低い戦災孤児の大嶺はショーリーと呼ばれていて朝鮮ピーの娘だと噂されていてヤモリの腹のような顔の津留子と付き合っていると、軍港サプライで懇意だったマッコイ曹長がベトナムから帰ってきて再会して、倉庫の部品に不整合が起きて責任者の小橋川や喜久山らが疑われて組合がごたごたして、津留子は喜久山の子供を妊娠して喜久山と結婚するというので別れて、ショーリーはベトナム行きの船に乗る話。ショーリー視点の三人称。米軍の部品供給のために働く沖縄県民がアメリカとベトナムの戦争にどこまで責任を負えるのかという問題提起はよい。誰が機械をいじったのか不明なまま全部うっちゃって脱出して終わるあたりは消化不良な感じ。●全体の感想大城立裕は菊村到と同じ1925年生まれでどちらも戦争をテーマにして小説を書いて芥川賞を受賞したけれど、大城立裕のほうが沖縄のトポスがあってアメリカ占領下の時事問題を反映しているぶん小説としては独自性があって面白い。戦争関連の小説はバイアスがかかったりやたらと感傷的になったりしがちだけれど、『カクテル・パーティー』は1967年の出版で戦争から時間が経ってから書かれているぶん、客観的に書きたいことが書けているのはよい。沖縄返還前の時代の問題提起をするテーマの選び方もよいし、本州の人は沖縄の大きな墓や闘牛がどういうものなのか知らないので沖縄の文化紹介としての面白さもある。技術的な面では文章がこなれていて、特に欠点もなくよく書けている。私は沖縄の方言はわからないので方言がどの程度デフォルメされているのかはわからないものの、沖縄の雰囲気を出しつつ本州の人でも読みやすい水準になっている。「カクテル・パーティー」は沖縄出身の作者だからこそ書ける力作で実験的な構図に挑戦する気概もよいけれど、個人的には「亀甲墓」のほうが沖縄らしさがあって小説として面白かった。★★★★☆カクテル・パーティー【電子書籍】[ 大城 立裕 ]
2018.12.02
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芥川賞受賞の表題作とその他の戦争をテーマにした短編集。●各短編のあらすじと感想「硫黄島」は片桐正俊が硫黄島に埋めたノートを掘りおこしに行くのを新聞記事にしてほしいと私に協力依頼をして、私は片桐は硫黄島に行く気がないんじゃないかと疑っていたら、片桐は硫黄島で日記が見つからないまま自殺してしまったので、私は片桐の知人に会って片桐が自殺する理由を探ったら、片桐は硫黄島で死んでいると思った日本兵から水筒を奪おうとしたら瀕死の相手が死んでしまったことを悔いていたという話。「私」の一人称なのに、ところどころで三人称になって私が知らないはずの片桐の硫黄島の体験を描写しているあたりはナラトロジー的におかしいので、一人称か三人称で統一したほうがよい。それに私が傍観者に過ぎず、結局は片桐の死が他人事になってしまっていて戦時中の罪の是非を考えようとしないので、私の存在意義がない。「しかばね衛兵」は沢が死体安置所の衛兵をして、台湾人の黄田見習士官が脱走した台湾人兵士を捕まえるときに相手が沼で溺れ死んだのは誰のせいかと考える話。三人称。内容は戦争小説によくある誰かが死んだという感傷の話。冒頭の納豆の夢は何の比喩なのかよくわからない。「奴隷たち」はソ連の捕虜になった日本兵たちが脱走したがったので西岡が部下を逃がすために協力すると、一人が怪我をして脱走に失敗して、西岡は中国人捕虜を殺したときのことを思い出して、自分が罪を背負って死のうと思って軍法会議にかけられたときには逃げた三人は捕まっていて、三人は西岡は仲間ではないと言い出す話。西岡視点の三人称。西岡の部下を名前でなく第一の男、第二の男と書くあたりが不自然で、抽象的で寓話的な話になっている。中国人捕虜を殺したエピソードを唐突に挟むのも狙いすぎで不自然。「きれいな手」はキリスト教徒の伊崎は奇妙な直感で砲撃を逃れて生き延びて、敗戦時に投降してフィリピン人の取り調べで誰も殺していないと主張するものの、人違いかなにかでひとりだけ独房に入れられて、自分はきれいな手のカソリックなのだと主張しても銃殺される話。伊崎視点の三人称。敗戦して投降したのにろくな取り調べもせず、罪状が不明なままいきなり銃殺というのはご都合主義的な変な展開。不条理小説としてみれなくもないけれど、戦争自体が不条理なので、個々人の不条理を書く意味が薄れる。「ある戦いの手記」は陸軍特別甲種幹部候補生の桐島が雪国の陸軍予備士官学校で井田中尉に嫌われてしごかれて、恋人からの手紙は井田に焼かれて恋人は別の相手と結婚して、桐島が脱走しようとすると井田が空襲で死ぬ話。桐島の一人称の手記形式。最初に脱出を決意してから過去のエピソードを展開するけれど、過去部分が長すぎるので、普通に時系列順に書いたほうがまし。そもそも手記形式なら時系列をいじる必然性がないし、小説的に仕上げると手記としてのリアリティをなくしてしまってよくない。結局手記形式にする意味がなくなっている。「不法所持」はタクシー運転手の山部がピストルで殺害されて、刑事の野田が若い田口と組んでピストルの不法所持者を捜査して、犯人の倉井は犯行を認めたもののピストルは姪の恋人の島岡が預かっていて、事情を聞くと島岡と倉井は戦友で裏切れないのでピストルを預かっていたのだという話。三人称。誰が物語の主役なのか、どこがストーリーの山場なのかはっきりしない展開の仕方がよくない。地の文でバーテンダーを「バアテン」と蔑称で書くのもよくない。タクシーの運転手が野田に似ていて、野田がアイデンティティがぐにゃーとなっていて、ミステリをやりたいのか何をしたいのかよくわからないオチになっている。●全体の感想菊村到は1925年生まれで見習士官のまま戦地に行かずに終戦を迎えて読売新聞の記者になったようで、風景描写とかは新聞記者らしい細部の書き方で文章は読みやすいけれど、従軍した戦中派の小説に比べて戦争の書き方が甘い。戦争に参加しそびれた人が後から戦争を取材して書くのはリアリティが劣る一方で客観的になれるというメリットがあるけれど、その客観性を活かせていない。どの短編も小器用に小説っぽく書かれているものの、戦争を総括するわけでもなく、戦争の当事者が語らなかったことを書くわけでもなく、戦争や殺人の断片的な衝撃に振り回されて作品としてまとめきれていない。構造も作者の癖なのか、現在-過去-現在という形式が多いけれど、無駄に時系列をいじって読みにくて不自然な展開になっていて構造がよく練られていない。戦時中の様々な状況をテーマにしているけれど、ヘミングウェイのニヒリズムのようにそのテーマをどうとらえるかという思想のコアがないので、結局何をどう書きたいのかはっきりしなくて、小説として面白いかというとたいして面白くない。「硫黄島」のように新聞記者として書いたり、「ある戦いの手記」のように士官学校の様子を書いたりして作者の体験を反映させるのは素直なやり方でそのぶん登場人物に精彩があってよいけれど、他の短編で死体安置所やソ連の捕虜収容所を直接書こうとしても細部の具体性が乏しくて寓話みたいに抽象的になっている。「硫黄島」や「奴隷たち」で個人が戦争の責任を背負おって死のうとするのもワンパターンな展開で、なぜそういう思考に至るのかを掘り下げていない。「奴隷たち」で中国人捕虜を銃殺するときに「その眼はけっして西岡を責めてはいなかった。西岡を糾弾してはいなかった。もしかしたらその眼は西岡を許していたのかもしれなかった。」と書くのは戦争を都合よく美化しているともとられかねない小説的な安易な書き方で、こういう細部を書きすぎてわざとらしさがちょくちょく出てくるのがよくない。上っ面を整える器用さはあるのだけれど、芸術としての勘所がずれているような物足りない出来栄え。この人はエンタメのほうが適性がありそうだし、江戸川乱歩が推理小説への転向を勧めたのはよい助言だと思う。★★★☆☆硫黄島【電子書籍】[ 菊村 到 ]
2018.12.01
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