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昭和4-9年、小林秀雄が27‐31才頃に書いた批評の全集で、昭和42年に新潮社から発行された。●面白かったところのまとめ・様々なる意匠小説家にとっては小説を創る事が願いだが、文芸批評家にとって文芸批評を書くことが願いだろうか。批評の方法が精密に点検されようが、その批評が人を動かすか動かさないかという問題とは関係ない。かつて印象批評の弊害が論じられたが、結局好き嫌いで人をとやかく言うなという常識道徳にすぎなかった。印象批評のお手本のボードレールの文芸批評は嗜好の形式や尺度の形式ではなく情熱の形式をとった彼の夢で、批評ではあるが独白でもあり、彼の批評の魔力は批評するとは自覚することであることを明確に語った点にある。批評とは竟に己の夢を懐疑的に語ることではないのか。芸術家は普遍性などという怪物を狙わずに例外なく個体を狙う。あらゆる人間的真実の保証を人間的であるという事実以外に求めないのは文芸批評とても同じことだ。卓れた芸術は常に或る人のまなざしが心を貫くが如き現実性を持っているもので、人間を現実への情熱に導かないあらゆる表象の建築はマニュアルにすぎず、人はマニュアルによって動きはせず、事件によって動かされる。強力な観念学は事件である、強力な芸術もまた事件である。芸術家で目的意識を持たぬものはなく、芸術家にとって目的意識とは想像の理論にほかならず、想像の理論とは宿命の理論以外の何物でもなく、芸術家が各自各様の宿命の理論に忠実であることを如何ともし難い。この他に若し目的意識なるものがあるとすれば毒にも薬にもならぬものである。芸術の性格はこの世を離れた美の図や真の世界を我々に見せてくれることにはなく、そこには常に人間情熱が最も明瞭な記号として存するという点にある。・アシルと亀の子宿命的に感傷主義に貫かれた日本の作家たちが理論を軽蔑してきたことは当然である。作家が理論を持つとは、自分という人間がこの世に生きて何故芸術制作などというものを行うのかという事について明瞭な自意識を持つという事で、いわば己の作家たる宿命に関する認識理論を持つ事である。今日に至るまで音楽理論、絵画理論に匹敵するほど立派な文学理論というものは一つもない。これは文学を文学の立場から批評することが間違っているためではなく、文学というものがこの世に姿を現すのに言葉という複雑豊富な記号を材料として持たねばならぬという困難な事情による。廣津和郎は「文士の生活を嗤う」で「私の期待したものは作の出来栄えについての批評ではない」というが、作の出来栄えこそ作家の心を隅々まで語ってくれるもので、凡そ作品というものの唯一の興味はその出来栄えにある。世の中を眺めて遙かに愉快で有益な事象が無限にあるとき、世人はヘッポコ小説を読む寛度を持たぬ。作品の出来栄えを最大の関心事としない文士は如何なる社会状態に於いても文士たる存在理由はない。詩人肌とか芸術家肌とかいう言葉は好まない。実生活で間が抜けていて、詩で一つぱし人生が歌えるなどという詩人は、詩人でもなんでもなく詩みたいなものを書く単なる馬鹿で、文学者世事に疎しとは文学者の恥辱にこそなれ自慢にはならぬ。・文芸は絵空事か正宗白鳥が文芸は絵空事にすぎぬと文芸時評をしたことについて考えた。如何に客観的に描かれた小説でも、優れた小説には常に作中人物の眼と作者の眼の二重の眼が光っている。正宗白鳥の作家たる心は濁ってはいないが澄んでもおらず、人生を信用していないように小説を信用しておらず、人生への懐疑が小説という形で完了すると信じていない。この懐疑派がいつのまにか文芸を唯一の事業としなければならなかった運命に関して漏らされた実感が文芸は絵空事にすぎぬという感慨である。写実は迷妄で、正確になればなるほど一般人に現実の姿からは離れていった。言葉が真理を表さないのは現代に限ったことではなく、社会の発展につれて言葉が膨大な社会的偏見を孕むようになった19世紀にポー、ボードレール、マラルメが言葉を嘘から救助しようとしたが、マラルメは言葉を愛するあまりについに言葉の表現を見失うに至った。セルヴァンテスが文学は絵空事だと言ったが、我々が文芸は絵空事だと確信するのにもはや天才はいらない。・物質への情熱若い作家達は期せずして自分の描く女たちを無理やりに近代趣味とやらで装飾し始めた。モダン・ガールとはジャズのようなものであり、これをのうのうと描く作家たちは、合わせて踊っている人たちのようなものである。爲永春水は1830年の先端を切った男で、春水の生きた時代は芸術が最も大衆に近づいた唯一の時代で、こういう時代に享楽小説が唯一の小説形式で、優れた作家もこの世での作家たる覚悟をしかと定める必要もなく、制作過程に倫理的影も必要とせず、すべては趣味であり、趣味を持つことが生きることであった。こういう時代の享楽文学と1930年の享楽文学とは月と鼈で、春水は残酷な心を持っていて、当時の都会人は皆残酷に生きていたが為に春水の残酷な眼は生き生きと人間を描くことができた。バーやダンス場を幾つ書いた所で、それは都会を生きた人の文学じゃない、都会を見物して驚いている奴の文学である。本当に都会人の心を持った人だけが今日の都会に生きる事のつらさを一番よく知っているだろう。今日作者たる眼を磨くとは何と困難を極めた事業であろう。・文芸批評の科学性に関する論争世に芸術家ほど直接経験の世界に忠実な人種はない。たとえ直接経験の世界から逃れて理論の世界へ、観念の世界へさまようように見えようとも、それはただ外見だけのことで、彼らは形、色、音をまともに常に感じていないではどんな夢もみる事はできない、あるいはどんな夢にも興味を持たない。こういう世界を直観の世界と人は呼ぶが、彼らは自分の世界を思惟に対する直観の世界だなぞと思ってはおらず、そういう対立に何の意味も認めていない。・現代文学の不安不幸を感じている人より不幸に慣れてしまった人の方が不幸である。不安が極限に達すれば、人はもう不安なくしては生きられぬと感ずる。昔は不安とは精神のある疾病であったが、今日では不安こそ健康な状態となった。こういう時、人は自分を忘れて最も饒舌になる。不安だ不安だと喋り散らすが、彼の声は少しも慄いてはいない。口に弁証法を唱えながら、こんな単純などうしても弁証法が呑み込めない、それほど奇怪な錯乱が今日の文学界を支配している。今日の新文学ほど青年のあらゆる意地の悪さ、虚栄心を誇示した文学はない。社会的焦燥にかられ己を忘れた理論が横行している時はない。・批評についてどうも私には不思議に思われる事がある。それは文学に携わる人々が、若い身空で、なぜ全くの精神の浪費にいそしんでいるかという事だ。なんと勿体ないと私は思う。現実的な遊戯というものは、これにほんとに凝った人は必ず何かしらでもとはとっているもので、三度の飯もうち忘れて麻雀に凝った男が麻雀で得る所があったと言ったとしても私は彼を必ずしも嘘つきだとは思わない。実際ある種の遊戯は深みにはまりこめばただ面白いでは済まされない。遊戯に凝るものは否応なくこれに伴う狂気や絶望や陶酔を知っている筈だ。だからこそもとがとれるのである。若し文学というものも人間の一種の遊戯だとみるならば、なんと凝るにむつかしい従ってもとのとれ難い遊戯だろう。骨折り損のくたびれ儲けという事がある。現実的な骨折りをすれば、くたびれだって現実的な内容を持っている。その内容はいつも教訓に溢れている。では、くたびれさえも儲からないのが文学であるか。はっきりそうだと答えるくらいの気組みがなければ、とんでもない目に合うと私は思っている。文学ぐらい、その狂気や絶望や陶酔を人々にわかつ事をしむ遊戯はない。文学というものは人々に何ら実質ある感動を与えず、而も人々を酔わせることができる。当人一つぱし文学に凝ったつもりでいて、何の生々しい糧もみつけることができず、而も空腹を感じない。いっそ悲惨というべきではないか。私はこういう悲惨を今日の同人諸雑誌で眺める。なんという文学に対する気組みの薄弱さだろう、情熱の払底だろう。・年末感想精神を精神でじかに眺める事、いかなる方法の助力も借りずに精神の傷の深浅を測定する事、現に独創的に生きている精神で精神の様々な姿を点検する事、一言で言えば最も現実的な精神の科学、この仕事を文学にたずさわる人々がやらないで誰がやるか。・作家志願者への助言1、つねに第一流作品のみを読め。いいものばかり見慣れていると悪いものがすぐ見える、この逆は困難だ。こうして育まれる直観的な尺度こそ後年一番ものをいう。2、一流作品は例外なく難解なものと知れ。一流作品は文学志望者の為に書かれたものではない。成熟した人間の爛熟した感情の、思想の表現である。私達は同じ事実、同じ理屈を理解するのに、登ってみなくては決して見通しのつかぬ無数の段階をもっている。3、一流作品の影響を恐れるな。世間で影響を受けたとか受けないとか言っているような生やさしい事情に影響の真意はない。真の影響とは文句なしにガアンとやられることだ。心をかき乱されて手も足も出なくなることだ。こういう機会を恐れずに掴まなければ名作から血になるものも肉になるものも貰えやしない。4、若し或る名作家を選んだら彼の全集を読め。或る名作家の作品全部を読む、彼の書簡、彼の日記の隅々までさぐる。そして初めて私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。実に何でも彼でもやって来た人だ、知っていた人だと合点するのだ。5、小説を小説だと思って読むな。文学志望者の最大弱点は、知らず知らずのうちに文学というものにたぶらかされていることだ。文学に志したお陰で、なまの現実の姿が見えなくなるという不思議なことが起こる。当人そんなことには気が付かないから、自分は文学の世界から世間を眺めているからこそ、文学ができるのだと信じている。事実は全く反対なのだ。文学に何ら患わされない眼が世間を眺めてこそ、文学というものが出来上がるのだ。文学に憑かれた人には、どうしても小説というものが人間の身をもってした単なる表現だ、ただそれだけで十分だ、という正直な覚悟で小説が読めない。巧いとか拙いとかいっている。何派だとか何主義だとかいっている。いつまでたっても小説というものの正体がわからない。・文芸時評文学という言葉が完全な意味を持っているのは広い意味で古典と呼ぶことの出来る文学の場合に限るので、生まれたばかりの作品はこれを文学作品と呼ぶにはちとなまなましすぎる代物なのだ。寧ろ現実の人間の姿に近い。この人間の姿が年月の波で次第に洗われ、現実的には全く死物と化する時文学的イリュージョンというものが初めて輝き出す。但し言うまでもなくこれは傑作の場合に限るので、現実的な死と共に文学的にも死なねばならぬ様なものは例外なく忘れ去られていく。傑作だから残ったよいうよりも残ったから傑作だという方が事実に近い。●感想旧漢字で読みづらいうえに、論点がどこなのか何を言いたいのかわかりづらい文章だけれど、昭和初期の文学を批判的に論じていてそれなりに面白い。小林秀雄はまだアラサーなのに若い作家が云々だの、直観的な尺度こそ後年一番ものをいうだのと年寄りみたいな言い方をしているけれど、当時はアラサーはもうベテランのおっさんみたいな扱いだったのだろうか。「アシルと亀の子」では大宅壮一が「文学的戦術論」で芸術の生産原理及び生産様式に関する唯物論的超個人主義的解釈を獲得するためにはまず芸術に関する天才主義的妄想より脱却し、芸術は経験的修練によって獲得され、成長する単なる技術であるという平凡な事実を明確に認識すべし、人間の労働、技術が意識的に組織化され、集団化されてゆく今日、芸術のみがこの一般普遍的傾向から逃れようったって駄目なり、と言ったのに対して、芸術家が単なる技術であると考える事は大切な事だろうがこのことから芸術家が集団化するなぞ考えるのは甘くて、大切なのは集団化ではなく芸術家が冷酷な科学的自意識を持つという事だと反論している。しかし実際のところは大宅の言う通りに映画だけでなく小説も集団化していて編集者や校正者と協力して本を出すのが一般的なので、小林秀雄の精神論みたいなのは時代遅れになった。情熱があるのはよいことだけれど、その情熱が合理化による発展を遅らせてしまっては本末転倒である。昔のオリンピックのフィギュアスケートや体操では1回転するだけで大技だったのが現代では専属のトレーナーやコーチを付けて超人的な4回転をしないといけなくなったように、芸術も技術的進歩についていくための科学的アプローチは必須である。小林秀雄が現実を見ようとする姿勢と文学への情熱はよいけれど、その一方で技術や理論を軽視する態度はだめである。作の出来栄えこそ作家の心を隅々まで語ってくれるからこそ出来栄えを批評するためには技術や理論への理解が必要だろう。技術や理論の積み重ねがなければ、どんなに情熱があろうが昔の作家と同じようなヘッポコ小説を作る段階から抜け出せなくなる。小林秀雄の文学批判は現代の文学にも当てはまるところがある。最近『JAM THE WORLD』というラジオ番組で、「文学がネット時代に生き残るには「作家の想像力」が重要だ―『文学界』編集長が語る」と文学界の武藤編集長が文芸誌の発行部数が激減した原因を聞かれて「まずひとつはオイルショック。紙の原価がどんどん上がっていく中で雑誌の値段もどんどん上がっていって、数年で5倍ぐらいになった。その値上げの段階で買わなくなる人が増えたことが推測されます。もうひとつ、やはり70年代以降は、テレビや漫画などのサブカルチャーも含め、表現に触れるチャンネルが多様化していったことだと思います。」と答えているけれど、「世の中を眺めて遙かに愉快で有益な事象が無限にあるとき、世人はヘッポコ小説を読む寛度を持たぬ」と小林秀雄がすでに百年前に指摘しているし、文学界はそれをわかっていながら今まで何をやってきたんだという話になる。そもそも読む価値がないヘッポコ小説に呆れた既存のファンが文芸誌の購読をやめて新規ファンも寄り付かなくなったという文学そのものの劣化が文芸誌が売れない原因で、値上げしようがチャンネルが多様化しようが文学が面白かったらファンはついてくる。ヘミングウェイや谷崎潤一郎レベルの作家が芸術の論争をして切磋琢磨しているような文芸誌なら私は食費を減らしてでも買うけれど、セクハラ評論家やコネ作家が慣れ合っている文芸誌なんて図書館で無料で読めるとしても読む価値がない。文芸誌は作家志望者しか読んでいないと言われるけれど、つねに第一流作品のみを読めという小林秀雄の助言に従うなら、文芸誌は読まずに古典を読むほうが作家としての感性が磨ける。武藤編集長は文学を活性化するには「作家というひとりの人間の想像力」が大事で「小説を読むことで読者が何を得るかというと、自分が経験したことのない人生を疑似的に生きられるということ。バーチャルリアリティという言葉がありますが、今ある時間や空間を一瞬でも出られるということで、それが小説の最大の力だと思うんです。この力は、どんな時代になっても変わることはない。逆に言えば、普通の人の考えを凌駕できるような想像力を持つ作家を見つけていくことが、文学が長く続いていく唯一の手段ではないかと思っています。」というけれど、私は作家の想像力よりも作家が現実を見る目のほうが大事だと思う。作家が現実を見て人生の問題と対峙するからこそ現実世界を一生懸命生きている読者は共感して感動するわけで、バーチャルリアリティーで別の人生を体験したいならそれこそゲームをやれば済む話で、そこを競うならゲームの圧勝で文学は勝負にならない。現実を見る目がない想像力信仰の典型的な例が北条裕子の『美しい顔』で、想像で書けるのはすごいと批評家が褒めまくってたのが結局は現実を丁寧に取材したノンフィクションの参照でしかなかった。文芸誌の編集長が現実を見る目よりも想像力に頼るようではこの先文学が社会に必要とされることもないだろうし文学が活性化することもないだろう。文芸誌の編集長という立場上は作家も作品もだめだとは直接言えないのはしょうがないけれど、編集者が文学理論を理解していなくて作家に技術的な指導ができずにヘッポコ小説をヘッポコなまま載せ続けるのは怠慢だし、すごい作家を見つけられたらいいのになあというないものねだりの姿勢はだめである。こないだ親孝行しようと思って親がスマホで雑誌を読めるように楽天マガジンを契約したのだけれど、週刊文春や週刊新潮はあるのに文芸誌が一冊もないし、出版社は文芸誌の読者を増やす気がないんじゃないかと思う。文学者世事に疎しとは文学者の恥辱にこそなれ自慢にはならぬ、と小林秀雄がいうように、想像力云々よりも出版社が現実世界のネット対応さえ遅れていることを恥辱としてとらえるくらいの感覚は持ってほしいものである。★★★☆☆
2019.05.31
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宮本武蔵の名勝負20戦の解説を中心に宮本武蔵の生い立ちや戦い方について特集したムックで、直木賞作家の早乙女貢が監修している。2002年の刊行。●感想実家に帰ったら父がこれをブックオフで108円で買ったようで、暇つぶしに読んでみたら面白かった。宮本武蔵自体が武芸と芸術の両方の才能がある特異な人物なのでどう特集してもそれなりに面白くなるし、ムックなので特に新しいことや詳しい研究が書いてあるわけではないのだけれど、この本は武蔵の足跡の地図があってどの場所で誰と対決したのかわかりやすかったり、吉川英治版『宮本武蔵』の実在の人物と架空の人物の相関図があったり、武蔵の肖像画や彫刻や絵画の写真があったり、年譜があったりして、宮本武蔵の全体像をさっくりと知る資料としてはわかりやすくてよい。名勝負の部分は2-3ページの掌編小説のような感じで書かれていてイラストも多くて、エンタメ寄りの読んで楽しい資料のような感じになっている。「現代にも通じる武蔵流”勝ち抜く術”を学ぶ」と自己啓発書みたいな副題がついているけれど、この副題はとってつけたような感じで現代が云々というのはあまり掘り下げられていないし、『五輪書』の解説もちょろっとある程度なので、その辺は物足りない。というわけで、宮本武蔵のどこが現代人の参考になるのか自分で考えることにする。宮本武蔵が面白いのは剣術だけでなく絵画や彫刻も一流の腕前だという点だろう。剣術を単に武家に士官する手段としてとらえている人には剣以外の世界の広がりが見えない一方で、宮本武蔵は他の剣士が見ていない色や形や空間や物事の道理を見る眼があった。だから状況を見て臨機応変に戦術を変えて相手の出鼻をくじいたり、相手を怒らせたりして、武術の腕前以外の戦術の部分で相手より有利に立って戦うことができるわけである。道場に通って稽古して〇〇流の型を習うだけの剣士には武蔵の道理が理解できないので、いったん型を崩されたら対応できなくなる。社内政治で派閥を作って出世した生え抜きのサラリーマン経営者がしばしば保守的に現状維持をして時代の変化に対応できなくなって会社を傾かせる一方で、プロ経営者は異業種の人と会ってなるべく視野を広げようとしているけれど、外交やテクノロジーの進歩で刻々とビジネスを取り巻く環境が変わる中では状況の変化や想定外の事態に対応できなければ勝負に負けるということである。昔は環境の変化が穏やかだったので三代目が身上を潰すと言われたけれど、今は世界規模で大きな変化が次々に起きるので成功した一代目が破産した話がごろごろある。外国や専門外の分野で起きている重大な変化を知らなければ、それが自分の破滅につながるかもしれないという恐ろしい時代になった。それから宮本武蔵と現代人との一番の違いは死ぬ覚悟の有無だろう。13歳の武蔵は真剣を持った有馬喜兵衛に勝負を挑んで相手を殺したけれど、武芸者として名を上げるために殺す覚悟も殺される覚悟もできている。父親の無二斎に子供の頃から武術を仕込まれていたとはいえ、覚悟がなければ若くして頭角を現すことはできない。第二次世界大戦前は戦争や病気でいつ死んでもおかしくない世界だったけれど、ペトラルカが死を忘れるなと自省しなければならなかったり、徳川家康がうんこを漏らして逃げたという逸話があるように、死が身近な中世や近世だからといって誰でも死ぬ覚悟ができているわけではない。戦後は平和になって医療が発達して日本は長寿国になると、武蔵のように今日死ぬかもしれぬという覚悟を持って生死をかけた勝負をする人間というのは出てこなくなって、住宅ローンをどう払おうか、老後をどう過ごそうかと自分が生きるという前提のもとに常に未来を心配しながら臆病に生きるようになる。40代でがんになった人が同室の80代の患者からまさかこの若さでがんになるとは思わなかったと愚痴を聞かされるという笑い話が5ちゃんねるに書かれていたけれど、もはや自分が死ぬ存在だとは死ぬ間際まで気付かないほど人間は長生きすることに慣れたのだ。だからこそ勝負に命をかける人間の物語が現代人にとって魅力的に映って、『キングダム』のような戦争の殺し合いを描いた漫画、命がけのギャンブル漫画や、人狼ゲームなどのデスゲームがヒットするのだろう。しかし作者に思想がないまま歴史上の人物や架空の人物の生涯を描いたところで、生きることに飽きた暇な現代人の娯楽として他人の生死を見世物として消費してしまうことになってしまいかねないし、それでは現代人が自分の死に向き合って平凡な人生を全うするように勇気づけるまでには至らない。その思想の浅さが現代のクリエイターの弱点である。昔は剣闘士の命がけの試合が見世物にされたけれど、現代の見世物はスポーツだろう。スポーツやeスポーツや将棋や囲碁のゲームが面白いのは選手や棋士が一つ一つの試合で人生をかけて物凄い集中力で努力と才能をぶつけ合って勝負しているからである。活躍すれば年棒や賞金が増えて人気になってスポンサーがついてテレビに出てどんどん収入が増えるけれど、プロとしての成果を出せなかったり怪我をしたりすれば社会に放り出されて世間知らずな一般人として生きていかないといけない厳しい世界での勝負だからこそ面白いし、名場面や名勝負というのがファンの記憶と共に残る。しかしプロ選手というは不自由なもので、ルールや審判に従わないといけないし、戦う相手を自分では選べないし、オーナーやスポンサーやファンの御機嫌取りをしないといけない。その一方で文学はテーマも書き方も自由に選べるし、誰に喧嘩を売ってどう戦うかも自由に選べる。ならば文学はスポーツやゲームよりも魅力があるのかというと、ない。小説家が文学に人生をかけていないし、戦っていないからだ。私はこのブログで文学がつまらんくだらん下手くそと文句ばかり言っていたら、文学に人生はかけられないというメッセージをもらったことがある。儲からない文学に人生をかけられないというのは常識的な損得勘定がある人ならそう思って当然だろうし、いまどき文学に理想を求める私の態度はドン・キホーテ的な時代錯誤に映るかもしれない。戦後の言論の自由がある資本主義社会で育った人は芸術を生き方ではなく単なる職業としてとらえていて、生きている間にうまく金を稼ぐことだけ考えて、誰とも戦うつもりがなくて権力者に喧嘩を売って投獄されたり死んだりすることも考えていない。それが平和な時代に生きている普通の人の感覚なのだろう。しかし芸術家というのは何者かになるか無名のまま死ぬかという覚悟を持って創作に生涯をかけたわけで、その勝負に勝った巨匠たちの名作と競うには巨匠と同等以上の思想の深みに到達して技術を洗練させないといけないけれど、脱サラして3年やってみて作家デビューできなかったらあきらめて普通に働くというような副業みたいな考え方で作家を目指す人がうわべだけまねた文学ごっこをしたところで芸術家として大成する見込みがないし勝負にならない。人生をかけて勝負する気がなくて途中で書くことがなくなって飽きて辞めるならはじめから文学なんかやらなきゃいいし、金儲けをしたいなら小説の印税で稼ぐなんて回りくどいことをしないで株式投資で信用二階建てでもやりゃいいのである。死ぬ覚悟を決めて自分の死に向き合ったときにようやく死んでいった先人たちと競うスタートラインに立てる。それから他人が死ぬ様子を眺めて、自分の無力さと才能のなさと人生の短さと人生の無意味さを目の当たりにして、希望を捨てて地獄の門をくぐって狂気の深淵を覗きながらも狂気に呑まれないようにするには思想が必要である。大正時代の文学青年は自殺者が多かったらしいけれど、思想がないまま文学に首を突っ込んだときに希望を見つけられないと破滅する。芥川龍之介や川端康成や三島由紀夫やヘミングウェイのように名を上げて成功した作家でさえ自殺する。一時期人気作家になった人でも死んだあとは作品が読まれなくなってはじめから存在しなかったかのように消えていく。おしゃれな芸術家の肩書がほしいなんていう人は死屍累々の腐臭が漂う世界で屍を踏み越えてさらに先に進む覚悟なんてないだろう。今日死ぬかもしれぬ、これが最後の文章になるかもしれぬという気魄もなく、惰性の文章でどんな戦いができるというのだ。現代のフィクションは儲からない芸術ではなく儲かるエンタメが中心になっていて、赤川次郎や村上春樹の小説がどんなに売れてもそれは職業作家が生産した商品であって思想がある芸術ではない。エンタメ小説が悪いというわけではなくて、娯楽として楽しんで余暇を充実させるのには役に立つ。しかし家族の死だとか自分の余命宣告だとか国家存続をかけた戦争だとかの人生の岐路に差し掛かってどう生きるべきかという思想が必要になったときにはエンタメ小説は人生の支えにはならない。娯楽は小説だけでなくて漫画も映画もゲームもすでに消費しきれないほどあるので娯楽の選択肢を増やしたところでたいした違いはないし、現代人が生きるために必要なのは娯楽でなく思想である。日本映画がだめになってコナンとポケモンだらけになって、音楽はEXILE系列とAKB系列の軽薄な商業音楽だらけになって、文学が思想を担えないならだれが思想を担うというのだ。ペンは剣よりも強しというけれど、小説家は宮本武蔵の剣よりも強い武器を持ちながら、文学の自由さを現実世界の怪物たる権力者や虚無主義や原理主義と対峙するための武器として使わず、安全圏にこもって小さな箱庭作りに人生を費やして、自分の名前で勝負せずに文豪の名前を冠したひからびた文学賞をもらってひからびた偉そうなジジババによしよしと頭をなでてもらって満足するのは情けなくはないか。勝ち組になった小説家は負け組が戦っている恐ろしい怪物など目に入らないし、怪物と戦おうとも思わないし、もはや自分の人生を脅かすものはないと確信してスコーンを焼いたりパリに住んだりしておしゃれな文化人を気取っているのだ。マインクラフトで遊ぶYouTuberみたいな空想の世界の箱庭遊びをやるなら文学でやる必然性がないではないか。現代社会は物質的に満たされていて便利で華やかでも精神的に貧しい文明で、貧乏人は自分が生きるのに精いっぱいで他人を気にかける余裕がなくなって、金持ちは他人を踏み台にして不正をしてでも自分さえよければよいという守銭奴だらけになって、マスコミは無責任に勝ち組だの負け組だのの対立を煽って、そこで負け組になった人は将来を悲観してそれ以上に不幸になるくらいなら自殺してしまうし、生きても無意味だと思った人は人生をかけた勝負をすることさえなく自殺してしまうし、どうせ死ぬなら社会への当てつけでテロをしようとする人も出てくるし、精神科医も患者に向き合ううちに精神を病んだりする。それぞれが問題を抱えていて、それぞれの戦いに負けている。戦前の大多数の人は学歴がなかったので高度経済成長期の仕事に生涯を費やすことで人生の無意味さを考えないようにしたけれど、すでに社会が発展してしまって必要とされなくなった現代人は積極的に死ぬ理由はないにしても幸福でないみじめな人生を生きる理由もなく、戦いに負けたときに生きることを肯定するような思想がほしいのだ。人生は苦痛だから子供を産まないという反出生主義は近代や現代ならでは人生の否定の仕方で、そこから建設的な考え方は出てこない。近い将来は医療が発達してがんも早期発見して治療できるようになるだろうけれど、いくら医療が発達しようが死ぬ意思を持った人を外科手術で救うことはできない。しかしいかにして生きるかという思想があれば五体満足で死に急ぐ人は少なくできるかもしれない。昔サルトルが飢えて死ぬ子供の前で文学は有効かと疑問を投げかけたけれど、飢えていないのに自殺する大人の前で文学は有効かと現代の小説家に聞いたらどう答えるだろうか。どんな作品で答えるだろうか。自分の命をかけて勝負してみないとその答えは出てこないし、他人の人生を変えて社会を変える力がある芸術は出てこない。敵と戦ってこそ剣士、剣豪だし、現実世界の権力や諸問題と戦ってこそ文士、文豪というものだろう。★★★★☆
2019.05.23
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量子力学について多世界解釈を中心にわかりやすく解説した本。●面白かったところのまとめ・量子力学が登場した当時のコペンハーゲン解釈では、共存していると不都合なことが起こりそうなので片方を無理やり捨てるというのが基本方針で、この操作を「波の収縮」と呼ぶ。これを受け入れるかどうかが量子力学の論争の中心で、無理やり捨てる考え方をせずに多くの世界が共存しても何も不都合が起きないという主張が多世界解釈。・1920年代に量子力学はボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーなどによってコペンハーゲン解釈が確立されて実用的には完成されたが、宇宙全体の事を量子力学で考えたらどうなるかという問題意識から多世界解釈がでてきた。1957年にエベレットは量子力学がこの世の根本原理だとしたら、原子一つ一つのみならず、それから構成される物体、人間、天体、そして宇宙全体も同じ原理で説明されるべきものであるという立場で多世界解釈に到達した。・コペンハーゲン解釈では電子の波の形はシュレディンガー方程式で決めた。波の形の変化もシュレディンガー方程式で決めるが、電子の位置を観測するとシュレディンガー方程式とは無関係な「波の収縮」が起きて電子の波は一か所に集まってしまうと主張されていた。その「波の収縮」の考え方を排除してすべてを量子力学の根本原理であるシュレディンガー方程式に立ち戻って考えるのが多世界解釈。・多世界解釈で無数の状態が共存しているといっても、あらゆる状態が共存しているわけではなく、波の形が状態の共存の様子を決める。電子の波の各点での高低が電子がその点に存在する状態の共存度を表す。「その世界の共存度がゼロだったら、その世界は共存していない。共存していないのだから、電子がそこに観測されることはけっしてない」「共存度がゼロでない状態が一つしかなければ、必ずその状態が観測される」「ある状態の共存度が、他の状態の共存度よりも「圧倒的に」大きければ、観測においては「まず」その状態が観測される」というのが多世界解釈の基本原理。・多世界解釈では電子のようなミクロの対象ばかりでなく、観測装置もそれを見ている人間もすべて量子力学の対象として考えて、宇宙のすべての物体をセットとして一つの状態として考えるのが重要で、これを分離不可能性という。・コペンハーゲン解釈は「波の収縮」と「確率解釈」を量子力学の基本的な前提(公理)として採用する。各位置に粒子がある状態の共存度の二畳がその位置に粒子が発見される確率に比例していて、この共存度(波動関数)の確率解釈によって、量が不確定になる量子力学でも何らかの予言ができるようになる。しかし人間も世界の中の現象の一つなので、共存している複数の状態の外側に立って全体を見通すことができず、自分が存在している状態しか観測することができないので、人間による観測に対しては量子力学が厳密な予言ができない。量子力学は自然を完全に記述しているが、人間はその一側面しか見ることができない。●感想新しい学問が従来の世界の認識を変えうるという点で量子力学は興味深い学問である。この本は昔読んだのだけれど内容を忘れたので、もう一回ちゃんと読むことにした。私は物理学はよくわからないけれど、シュレディンガー方程式の難しい計算式とかは出てこなくて門外漢でも要点がわかりやすい内容になっているのはよい。さて量子力学とフィクションについて考えることにする。言語というのは音としては波長だし、記号としては母音や子音が組み合わさった原子のようなものである。例えば「あいうえお」が元素記号表だとすると、「あ」はモノマー(原子)で「あああああ」はポリマーで、「あい」は分子で、「あいしてる」は化合物である。そうすると言葉の解釈の違いも波としてとらえることもできる。言語が思考に使われると脳細胞のデータだけれど、紙やモニターに転写されると違う物質になるというのは言語の面白い所である。量子力学みたいに最小単位の子音の聞き間違いとかを考えてもあまりおもしろくないので、作品全体をどう解釈するかというのを考えてみる。フィクションは無数の展開パターンがあるけれど、例えば主人公が生きている世界Aと主人公が死んだ世界Bが両方存在すると不都合なので、作者は片方のシナリオを無理やり捨てる。作者の頭の中にある無数のシナリオの中から不都合がない一つのシナリオに収縮して一つの物語を提示して、その作品を観測するすべての読者も作者が観測したのと同じ一つの物語を見て、作者の意図はああだこうだと似たような解釈に収束する。これがコペンハーゲン解釈的に波を収束させるフィクションのとらえ方で、本や映画として一個の完全な形で作品が提示されていた時代のフィクションのとらえ方である。一方でサウンドノベルの『かまいたちの夜』やアクションアドベンチャーゲームの『デトロイト ビカム ヒューマン』のようなマルチエンディングのゲームでは世界Aも世界Bも同時に存在していて、その作品を観測する個々のプレイヤーは違う世界の側面を見る。これが多世界解釈的なフィクションの考え方である。作者の意図が云々という批評の仕方は通用しなくなって、微妙に違う物語を鑑賞した個々人が自分はどう感じて何を考えたのかという批評の仕方になる。国語のテストで主人公が何を考えたのかを選ぶ4択問題も正解がなくなって、共存度の高さが違うだけでどの選択肢を選んでもその世界が共存しうる。漫画の映画化や二次創作で原作のイメージが壊れると怒る人はコペンハーゲン解釈的にフィクションを作者が観測した唯一の正しい世界としてとらえていて、原作と違ってもそれはそれで楽しめる人は多世界解釈的にフィクションをとらえて作者が観測しなかった別の世界を見ているわけである。私は二次創作は受け入れられる反面、歴史上の人物がフィクションで大幅に改変されるのが気に入らないのだけれど、これは共存度が低い作品を史実と共存する世界として受け入れられないわけである。いまはメディアミックスが標準的になって人気の作品はすぐに小説と漫画と映画で展開してメディアの垣根がなくなっているし、コミケの二次創作も人気の証なので、これからは原作の解釈にこだわらなくなって多世界解釈的にフィクションをとらえるのが主流になると思う。しかし制作コストが低い小説が粗製乱造されて小説特有の技術がなくなって漫画やアニメのシナリオ供給源になりつつあるのはよくない流れである。フィクションだけでなく宗教や思想も多世界解釈的に考えると、「波の収縮」をする必要がないという考え方のほうが平和的である。原典がある宗教で解釈が分かれた場合には多数派が異端派を弾圧したり、原理主義者がテロを起こしたりけれど、これはコペンハーゲン解釈的に一点の言語に波を収縮させようとして、宗教の観測点が異なる人を排除する宗教観である。しかし多世界解釈的にどの解釈も同時に共存しうる共存度が高い言語の波の観測点だと考えれば、解釈の正しさをめぐる不毛な争いはなくなるかもしれない。仏教は原典があやふやなので、宗派ごとに解釈が違っても最終的に解脱できればいいじゃんという感じで共存度の違いはあるにしても異なる宗派が「仏教」という広い波で共存できている。個人と解釈をセットにして、個々人がある宗教の違う側面を見ているとしても、異なる解釈を否定するわけではなく、個々人がその解釈に納得しているならそれでいいわけである。世界中で移民の問題が起きているけれど、大量に外国人移民を受け入れている日本もいずれ文化の衝突を経験することになる。寛容であるということは曖昧さを受け入れるということである。状態の変化の曖昧さ、つまりは歴史の曖昧さも受け入れるということである。曖昧さを受け入れられない人同士が交わると衝突が起きるべくして起きる。イスラム原理主義者のような曖昧さを受け入れずに自分の主張を通すために攻撃してくる人たちにどう対処するのかは21世紀の課題になるだろう。実業家とかはフィクションは時間の無駄だというけれど、金儲けの役に立たない娯楽だから無駄だというのは目先のことしか見ていない浅薄な考え方で、一神教の原理主義では思想が弾圧されて社会が停滞したり紛争が起きたりするのは歴史が証明しているように、世界の曖昧さを受け入れる価値観を養うという意味ではフィクションこそが100年単位での人類の発展を目指すときに人間に必要なものだと私は思う。リアリティのあるフィクションは現実世界が分岐した先で起こりえた別の共存度が高い世界像を提示するし、その世界から現実世界がもっとよい状態になる可能性が見つかるかもしれない。★★★★☆量子力学が語る世界像 重なり合う複数の過去と未来【電子書籍】[ 和田純夫 ]
2019.05.15
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最近はゆたぼんという10歳の小学生が自由を求めて小学校に行かずにYouTuberになっていることが批判されて炎上しているようである。私は勉強は好きだけれど学校が嫌いというタイプで学校に行きたくない子供だったので、学校に行かせるべきという意見と学校に行く必要がないという意見はどっちも共感する部分がある。というわけで、学校に行かないことについて考えることにした。●義務と自由のどちらが大事なのか・学校に行く必要はないが教育は受けさせるべき私はリバタリアン寄りの考え方なので、個人の自由を最大限尊重して、国家が国民に課す義務は必要最小限であるべきだと思う。では親が子供に教育を受けさせる義務と、子供が学校に行かない自由のどちらが優先されるべきかという問題になる。義務教育というのは「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」ということで、「けだし、憲法がかように保護者に子女を就学せしむべき義務を課しているのは、単に普通教育が民主国家の存立、繁栄のために必要であるという国家的要請だけによるものではなくして、それがまた子女の人格の完成に必要欠くべからざるものであるということから、親の本来有している子女を教育すべき義務を完うせしめんとする趣旨に出たものである」という理由で国家は税金で公立小中学校の教育環境を整えて授業料を無償にして親に子供に教育を受けさせる義務を課している。教育は必要最小限の義務で、子供に教育を受けさせないことを正当化するのは一種の児童虐待に当たるので、自由より義務が優先されるべきだろう。この義務というのは子供に教育を受けさせる義務のことであって、学校に行くことは教育の手段の一つに過ぎなくて義務ではないので、それを混同すると議論がおかしくなる。私は必ずしも公立小中学校に行く必要はないと思うけれど、その場合はホームスクーリングやフリースクールや塾などの代替案で子供に公立小中学校に通う場合と同等の教育を受けさせるべきである。私は番組名は忘れたのだけれどカナダ人の親が子供を自然の中で育てたくて人里離れた山奥で数か月生活する番組を見たことがあって、その親は子供を学校に行かない代わりに自分が教師代わりになって毎日子供に数時間つきっきりで勉強を教えてホームスクーリングをしていた。親のエゴで子供に他の人とは違う体験をさせたいのならこのように子供の教育環境を整えるのが親の責任だろう。学校に行かないことで得られる独自の体験もあるだろうけれど、それを子供のうちにやる必然性はどこにあるのか、教育よりも優先させることなのかという点も考える必要がある。人間は若いほうが知識の吸収が早いし20歳ごろに脳が出来上がるので、未成年の間は勉強に集中できる環境を用意して、文系学問も理系学問も芸術もスポーツも一通り勉強して適正を把握しながら社会に出て働く準備をするというのは合理的なやり方である。金持ちなら専属家庭教師をつけてカスタマイズした教育をするほうが学校に行くよりも良い教育を受けられるだろうけれど、庶民は税金で整備された公立小中学校に通うのが費用対効果がよいので、公立学校よりもよい教育環境を用意できない人が納得できる理由もなくわざわざ学校に行かない選択をするのは非合理的である。・学校に行かないのに正当な理由は何か怪我、伝染病、いじめ、家庭内の問題とかは学校に行かない正当な理由になりうる。成績が悪くても学校に行ったというだけで褒める皆勤賞みたいなのは筋違いの褒め方だと私は思うし、学校に行かない理由は人それぞれでよい。何年か前に親の有給に合わせて学校を休んで海外旅行に行った子供の是非がネットで議論されていた記憶があるけれど、私は子供にも大人の有給みたいに好きなタイミングで好きな理由で休んだり早退する日があってもよいと思う。思春期の子供なら体調がよくないときや一人になりたいときもあるだろうし、最終的に成績や出席日数が十分なら数日休んだところで特に問題もないだろう。さて、ゆたぼんが言うような宿題をしたくなくて担任のロボットになりたくないから学校に行かないというのは正当化できる理由だろうか。私はすでに十分理解していることを復習するのは時間の無駄だと思うし、学力を無視して一律に同じ宿題をやらせるのはナンセンスだと思うので、学力に応じて宿題を拒否してもよいと思う。例えば英語ペラペラな帰国子女や外国人留学生がディスイズアペンとかの簡単すぎる宿題を他の生徒と一律でやらされたら馬鹿らしくてやってられないだろう。しかし子供の学力が足りていないのに宿題をやらず、それを親が許容する場合は教育の放棄として批判されてしかるべきである。●学校教育を受けないデメリット現代社会は能力さえあれば学歴がなくても自営業やクリエイターとして稼げる。じゃあ学校に行かないで好きなことをやって稼ぐのが一番効率がよい生き方かというとそうではなくて、学歴がないことには当然デメリットもある。・社会的信用がなくなる学歴がない人が一時的に自営業やクリエイターとして稼ぐことができたとしても社会的信用は低いので、部屋を借りたり銀行から融資を受けたりするときに断られたりして苦労するようになる。・職種が制限される学歴がない人が一時的に自営業やクリエイターとして稼ぐことができたとしても、景気変動や技術革新などで仕事がうまくいかなくなったときに転職先が限られて潰しがきかなくなる。たいていの企業は高卒以上の条件で採用するので、最終学歴が中卒だとアルバイトを探すのも難しくなる。学歴がないと就労できる職種や国も限られて、例えば外国で働く場合は大卒以上でないと就労ビザが出ない場合がある。・科学的な考え方が理解できなくなる直感的には正しく見えても科学的に間違っていることはいろいろあって、科学を理解できない昔の人が天動説を信じたように、いったん間違った考え方を身に着けた人の考え方を変えるのは難しい。アレルギーを単なる好き嫌いだと思ってアレルギーの人に無理やりアレルギー物質を食わせようとする人が典型的だけれど、自分の意見が科学的に間違っているということが理解できないのである。・騙されやすくなる馬鹿は詐欺師の鴨になる。例えばスポーツ一筋でろくに勉強してこなかったプロスポーツ選手が取り巻きに金を巻き上げられたり儲け話に騙されたりして転落していくパターンが多い。歳をとれば無条件で知識が身につくわけではないので、普段から政治や経済を勉強して知識をアップデートしていく学習習慣がないとありえないような投資話を詐欺だと見抜けない世間知らずな大人になってしまう。●ゆたぼんを支持する大人に対する私の意見ゆたぼんの父親は「あなたにゆたぼんが何か迷惑をかけたのでしょうか?」と言っているけれど、革命と称して学校に行かないことを扇動する行為は子供を教育している親にとっては十分迷惑だろう。学校に行きたくなかったら一人で粛々と不登校すればいいだけで、他人の子供を道連れにする必要はない。ゆたぼんの父親は「与えられた課題をこなすだけじゃなく、自分で何を学ぶかを自分で選ぶ事の方が大切だと僕は思う。だから僕は学校に行かなくても子どもたちの可能性に目を向ければ、子どもたちは自ら学ぶべき事を学ぶべきタイミングで自ら学んでいくと信じています」と言っているけれど、たいていの子供が自分が何を学ぶかを選ぶのは大学受験の時であって、小学校レベルの読み書きや四則演算は知的障害でもない限りはできて当然の事なので選ぶ以前の問題である。最低限の教育を受けていないと自分で選ぶこともできないし、後になって勉強しておけばよかったと気づいたところで学ぶタイミングを逸していたら手遅れの場合もある。ゆたぼんの父親は「たまたま同じ年に生まれた同じ地域の子たちが集められた閉鎖的な場所(学校)での出会いで学べる事より、自らの足で色んな人に会いに行った方が多くの事を学べるのではないでしょうか?」と言っているけれど、短時間会ってちょろっと世間話して学べることというのはたかが知れているからこそみんなわざわざ学費を払って大学や大学院に何年も通って必死に知識を覚えるのである。例えば茂木健一郎に会うくらいなら脳科学の本を読むほうが多くのことを学べるだろうけれど、まともな教育を受けていないと脳科学の本を理解することもできなくなる。茂木健一郎は「学校に行かなくても、学ぶことは無限にできる。社会性も、学校で身につく社会性がすべてじゃない。そもそも同じ年齢の子どもたちだけの『社会』は『社会』じゃない」とツイートしたけれど、そもそも同じ年齢の子供たちを集めて子供を管理して行動を制限するのは保護の必然性があるからこそ行われているわけで、『社会』の害悪から保護するために未熟な子供を安全な学校に隔離して、スクールゾーンは交通規制をして、学校の近くには風俗店が出店できないように規制して、インターネットで閲覧可能なサイトもフィルタリングしていて、『社会』じゃないからこそ学校は安全なのである。学校に行かなくても学ぶことができるのはその通りだけれど、子供を『社会』から保護するために管理することさえ否定するような考え方は無責任である。それに学校以外で身につく社会性は休日に外出して見聞を広げればいいだけの話で、登校拒否をしていない子供でも習い事とかで学校以外で社会性を身に着けているので、登校拒否を正当化する理由にはならない。ダルビッシュ有は「自分の好きなように生きればいいよね。責任も取れないのに他人の人生に口挟まなくていいと思うわ」「アメリカではホームスクーリングは珍しくもないし、そこから優秀な人材も沢山出ているので」とツイートした。好きなように生きればいいというのはその通りだけれど、日本ではホームスクーリングは珍しいしそこから優秀な人材は沢山出ていないし、むしろ不登校からの社会復帰の難しさが社会問題になっているし、特に沖縄は親の貧困と子供の不登校で負のスパイラルから抜け出せないことが問題になっている。あらゆる社会問題は個別の事例の集まりなので、原因が異なる個々人の問題について考えることは「口を挟む」のとは違うし、好きなように生きた結果として問題が起きても自己責任で当事者の問題で他人は責任も取れないから放っておくという態度だといつまでも社会問題が解決しなくなる。●勉強して良い学校に行ってもっと勉強しよう学校の管理体制や教育方針に問題があるなら問題を解決するべくして行動するのが生産的なやり方で、それは親や教師の責任である。いじめなどの子供同士で問題が解決できない場合は学校から逃げてよい。小中学校で問題が起きるのは生徒に人生の目的がないからである。視野が狭い子供なのだから人生の目的がないのはしょうがないけれど、目的がないまま手段(教育)だけ与えてもそれをどう役に立てればよいかわからないので、勉強を親や教師に強制された面倒くさい作業としてとらえて勉強する気がなく、暇つぶしにくだらないいじめをやって他人の足をひっぱりたがる。そういう悪い学校には行く必要はない。しかし学校に行かないことで終わるのでなく、もっと良い学校に進学するために勉強をして、自分で良い環境を選ぶように努力するべきである。良い学校には人生の目的をもっていて目的を達成するために勉強熱心な生徒が集まる。人生の目的がある人は親や教師に強制されたから勉強するのではなくて自己実現のために自発的に勉強しているので、他人にちょっかいを出したりいじめをしたりするほど暇ではないし、そういう勉強熱心な人が友人になるとお互いに刺激を与えて切磋琢磨できる。私の高校の同級生は日銀に就職したけれど、彼は勉強ができるだけでなく人格も公正で爽やかな人で、くそ田舎の公立高校に自分より優れた同級生がいたのは私にとっても幸運なことだった。大学の教授も立派な人で、教授に目をかけてもらったのも幸運なことだった。勉強をすればするほど立派な人に会えるようになるので、その正のスパイラルの流れに乗るべきである。
2019.05.10
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最近はクリエイターになりたい若者が多いらしい。バブル崩壊で年功序列がなくなって、もはやルーチンワークをする作業員はどれだけ長く会社勤めしようがほとんど昇給しなくなった。メーカーだと商品開発が人気なものの、希望部署に配属されるとは限らないし、パナソニックの津賀一宏社長が今のままでは次の100年どころか10年持たないと言ったように先行きは厳しい。会社員は創造性を発揮しにくい一方で、ネットが発達して会社勤めしなくてもプロのクリエイターになる道ができたし、コンテンツ制作のハウツー本や無料のソフトウェアやアプリなどのツールが充実して、クリエイターになる難易度がだいぶ低くなった。制作技術が未熟だろうが作者が不細工だろうが、YouTuberやライトノベルで人気になれば一攫千金できるという点ではクリエイターは夢のある仕事である。しかしコンビニの新商品を食べるだけの動画みたいな誰でもできるようなありきたりで低品質なコンテンツよりも、もっとクリエイティブで高品質で楽しいコンテンツが増えればよいと私は思うので、クリエイティブになる方法を考えることにする。●凡人がちょっぴりクリエイティブになる方法私が行っていた大学院で研究がどういうものか理解していなくて先行研究をまとめるだけの先輩がいたけれど、知識や学歴があるからといってクリエイティブになれるわけではない。クリエイティブであるためには自分はこれをやりたいんだという動機と発想と行動力が必要になる。他人がやっていることに追随するのでなく、他人がやらないことをやるのが創造の第一歩である。・自由度の高い遊びを楽しむ子供は放っておけば手元にある道具で新しい遊びを思いつくもので、楽しいことをやっているときに脳が活性化して創造力を発揮する。例えばマインクラフトというゲームはブロックで自由に建物を作ったりできて子供の想像力を高めるという点で高評価されていて、発売から10年たってもまだ飽きられていなくて世界中で人気がある。トランプも一組あればいろいろなゲームができるという点で自由度が高いし、すごろくのサイコロ代わりにトランプを使ったりしてオリジナルのゲームを作ることもできる。日本のサラリーマンの創造力が乏しくて日本でイノベーションが起こせないのは、上司に行動を監視された殺風景な刑務所のような自由のない職場で仕事をしていても楽しくないのが一因じゃないかと思う。・ルーチンワークをやめて新しい刺激を受ける脳は重要でないと判断した情報を自動的に遮断するので、同じ作業を繰り返していると効率よく作業できるようになる半面、本来脳に入るべき刺激が意識から抜け落ちて感受性が乏しくなってアイデアが出にくくなる。例えば家から職場や学校までの道のりはたいてい最短距離のルートに固定されるけれど、あえて普段通らない道を通って普段とは違う街並みを眺めたり、珍しい車やファッショナブルな人を見つけたりすることが刺激になる。あるいは珍しい魚を買って料理してみるとか、ランチで新しい店を開拓してみるとか、普段読まない雑誌を読んでみるとか、休日に博物館に行ってみるとか、お気に入りのプレイリストを聞く代わりに今まで聞いたことがない外国の音楽を聴いてみるとか、脳を活性化することでいろいろな刺激が脳内で結びついてアイデアが出やすくなる。・考えるだけでなく作ってみる「テーマは「贖罪」」という自信満々なワナビーによる名言があるけれど、ワナビーはアイデアを考えただけで何かをやった気になって創作技術がない。たいていの人は下手な作品を批判されるのが嫌だったり、技術的にうまくならないのが嫌だったりして、創作しようとしない。しかし実際に作ってみないことにはいつまでも創作技術は身につかないし、最初は下手でも作り続けることでうまくなっていく。最近はフリマの宿題代行の出品が規制されたけれど、読書感想文とか自由研究とかを受験の役に立たないからといってないがしろにする親がいるからそういうビジネスがでてきたわけである。しかし宿題をアウトソーシングしていくら要領よく受験に成功したところで、創造力のない人は指示された作業しかできなくなるので成人後の伸びしろが少なくなる。子供にクリエイティブな仕事についてほしい親はちゃんと宿題を子供にやらせて、失敗してもいいような小さな研究や工作で試行錯誤を繰り返して自分で考える経験を積ませるほうがよい。・すぐに買わずに作ってみる現代社会はたいていの物はお金を出せば買えるし、いろいろな便利グッズも売っている。しかしお金を出して既製品を買うだけだと創造性が育たないので、ありあわせの材料で自分でDIYして生活を便利にできないか考える姿勢が創造性を育てる。例えばハーフパンツが欲しかったら裾が擦れてきたズボンを切ってリメイクするとか、貧乏なほうが自分で何でも作るようになるので創造性がつく。・答えを見ずにやってみる現代社会はたいていの物についてWikiやハウツー情報があって、ゲームの攻略方法も化粧も魚の捌き方もなんでも調べればすぐ答えがわかる。しかし答えを見てその通りに行動するのでは単なる作業になってしまって創造性がなくなる。調べればすぐにわかることを考えるのは時間の無駄じゃんという人もいるだろうけれど、試行錯誤する工程が発見につながる。たいていの情報ページには推奨するやり方だけ書いてあってだめなやり方は書いていないけれど、失敗してみてなぜそのやり方ではだめなのかという知識や経験を得るほうが創造に役に立つ。●誰もやっていないことをやる方法誰もそれをやらないのには理由がある。誰もそれを思いつかなかったり、それを思いついた人はいるけど技術的に難しくて成功しそうにないからやらないのである。そこで月並みな技術でもできる新しいアイデアを一番最初に思いつくか、あるいは技術的に難しいことをうまくやるためのアイデアを思いついて誰も真似できない技術を身につけるかという二通りの方法で、誰もやらないことができるようになる。・複数の要素を組み合わせる創作の際にはジャンルとか登場人物の性格とかのいくつか要素がある。例えば10個の要素から2つを組み合わせると、10C2で10x9/1x2=45通りのパターンになるけれど、これだと45人以上がやったら誰かのネタがかぶってしまう。これが10個の要素から3つを組み合わせると、10C3で10x9x8/1x2x3=120通りになって、だいぶネタがかぶりにくくなる。例えば二次創作のやおい漫画なんかはキャラクターの中から二人選んで攻めと受けの組み合わせが一通り出てしまうとそれ以上やることがなくなるけれど、キャラクターの中から3人選んで三角関係にすると他の人がやっていない新しい展開になりうる。・違う分野のものを組み合わせる違う分野のものを組み合わせると、今までと違う新しい発想が生まれることがある。例えば私は主に文学について考えているけれど、小説の構造を数学で分析すればフォルマリズムになるし、美学で分析すれば受容美学になるし、視点を変えることで普通の文学研究とは違う新しい着眼点がみつかるかもしれない。料理だとそれまで料理人の経験と勘の積み重ねだったのが、栄養学的な視点でカロリーや塩分に気を使った料理が出てきて、料理の盛り付けに色彩学の補色の考え方が取り入れられて、さらには科学的な分析に基づいた分子ガストロノミーの料理法が出てきて料理が進化している。制約条件の理論で料理のプロセスを全体最適化した時短料理とか、料理に数学を組み合わせた黄金比の寿司とか、料理に建築学を組み合わせた耐震構造の超高層重箱とかの新しい料理も考案されるかもしれない。ハーバードビジネススクール出身のエリートビジネスマンだと自分の仕事とは関係のない分野の人と会うことを欠かさないそうで、社内だけ見て井の中の蛙にならないようにして新しい仕事のアイデアを出す手掛かりにしている。今は器用貧乏なジェネラリストよりもスペシャリストが求められる時代だけれど、スペシャリストだからといって自分の仕事以外は知らないという人は、AIだのIoTだのフィンテックだのの他分野で起きている技術革新をうまく取り入れられなければ時代遅れの月並みな人になってしまう。・要素を還元して組み立てなおす還元というのは何かを構成する単純な要素に分けることである。絵画だと写実主義が主流だったのが「色」と「形」に還元されて再構成されて、印象派やアトミズムやフォービズムや抽象画などの新しい流派が出来上がった。音楽だとレコードからサンプリングした音にメッセージ性が強い喋りを加えることでヒップホップという新しい音楽が出来た。物理学だと電子顕微鏡が進化して素材を原子レベルに分解して物質を構成できるようになって新しい素材が開発された。・すでにある物を別のものに変える小麦や卵にアレルギーがある人でも食べられる米粉パンとか、糖質オフの麺とか、昔からあるものを別の新しい素材で作ることに成功すれば新しい需要を作ることができる。あるいは全体を変えなくても、一部を変えるだけで別物のようになることもある。例えば昔のメロンパンは表面がネトネトしていて歯にくっつくので私は嫌いだったのだけれど、最近のメロンパンは表面がサクサクのクッキー生地になっていて、私は新しいメロンパンが好きである。・温故知新する現代人は効率的な教育システムの中で全国で画一の教育を受けているけれど、近代化や合理化で失われた伝統的なものや地域的なものに現代人が見落としているアイデアがあったりする。例えば石川県の郷土料理の河豚の卵巣の糠漬けがどういう原理で除毒できるのかという原理は現代でもわかっていないものの、昔の人はそうすれば食べられるということを見つけ出した。現代人なら毒のある部分をわざわざ食べるために除毒する方法を探そうという発想はしないので、食べ物が貴重だった昔の人ならではのアイデアである。他にも除毒できたらおいしい食材があるかもしれないし、捨てていたものが役に立つようになる発見があるかもしれない。・先入観を捨てて観察や実験をするメンデルの遺伝の規則性は発表当初は権威者たちに全面的に否定されたけれど、当時は何が正しいのかを見抜く能力さえなかった無能な人が偉そうにして、メンデルとは対照的に死後に名前が残らなかった。あるいはソーカル事件で偉そうにしていた学者たちが論文を見る目がないことが明らかになったこともあった。権威というのはその程度のもので、権威ある本に書いてあることを事実だと思い込んで自分で確認しないでいると、本が間違っていることに気づかないことがある。アリジゴクは排泄しないという通説が本に書いてあっても、小学生がアリジゴクが尿のようなものを排泄したことを観察して表彰されたように、暇な小学生が観察して確認することでも忙しい大人は観察しないまま通説をうのみにしてしまうのである。世界中のあらゆる学問を疑ってかかると時間の無駄になるので懐疑主義になる必要はないけれど、自分の専門分野は他人の研究をうのみにしないで自分で確かめる注意深さが必要になる。そこから権威や通説を覆す新しい発見が見つかる可能性がある。・苦手なものに目をむけてみるクリエイターを目指す人は将来アレで食っていくからとたかをくくって専門知識以外を勉強しようとしなかったりするけれど、それが逆に欠点になりうる。漫画ばかり読んで漫画家になった人の作品はつまらないとか、アニメばかり見てアニメーターになった人の作品はつまらないという議論がしばしばあるけれど、他のクリエイターができないことをできるのか、プロに共通する業界の専門知識や専門技術以外に何を知っているのかがクリエイター同士の勝負になる。私は上のほうでmCnという数学のコンビネーションを使ったけれど、数学は苦手だしどうせ役に立たないからといって数学を全く勉強しない人は確率や統計や図形などを使った数学的発想ができなくなる。芸術家を目指すからといってデッサンばかりして物理や化学を勉強しないでいると、新技術や新素材を使ったインスタレーションとかの現代アートについていけなくなる。自分が苦手なものとして切り捨てた分野に本来自分が必要とする発想があるかもしれないし、それが他のクリエイターとの差別化になるかもしれないので、行き詰ったときは自分が避けてきたものを見直すことも大事である。・成功するまで失敗し続けるそもそも誰でも簡単にやれることは失敗しないし、失敗するのは新しいことに挑戦している証である。トライアンドエラーの試行回数を多くして、失敗した原因を分析して失敗から学ぶことで成功につながる。このパターンの成功例がエジソンや人工知能である。囲碁のAIは演算能力の速さを活かして何万局も対局して人間では物理的に不可能なほど自己学習することで、一気に人間の棋士以上の強さになった。試行回数が多いほど成功が近づくので、あきらめない情熱と暇が両方ある人向きのやり方である。企業の場合は予算の都合があって決算とかの期限までに結果を出さないといけないのでこのやり方はできないだろうけれど、芸術家や発明家を目指す個人の場合はこのやり方が向いている。ミケランジェロはgeneus is eternal patienceと言ったそうだけれど、たいていの人は失敗の連続で心が折れて天才になる前に諦めてしまう。●まとめマニュアル通りに物を作るのは創造性が必要ない単なる作業である。アイデアを思いついただけだと単なる想像である。アイデアを基にして、技術力によって新しい物やサービスを作り出すと創造になる。現代社会は合理化されて物も情報も行きわたって均質的なので、似たような環境で育って似たような考え方をする人だらけ中で独自の新しいものを創造するのは難しい。しかし難しいからこそ創造に価値がある。未熟さを感じられたときは成長の兆しで、失敗こそが成功の糧になるので、これから何かを作りたいという人は失敗にめげずに頑張ってほしい。
2019.05.04
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