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最近は『テラスハウス』という恋愛リアリティー番組の出演者の女子プロレスラーの木村花がSNSで批判されて自殺したことが話題になっているので、リアリティー番組について考えることにした。●リアリティー番組とは何かリアリティー番組は素人が参加して演技でないリアルな反応をする様子をカメラで撮った番組である。素人がゲームやクイズで勝ち残ったり、アイドルを発掘したりして、いろいろなパターンがある。恋愛リアリティー番組はひとつの家で複数の美男美女が生活して、誰が誰を狙ってるとか、二股かけたとかの人間関係のいざこざを観察する。出演者は役者ではない素人なので台本はないものの、出演者が当たり障りのない世間話するだけだと番組が成立しないので、番組を盛り上げるためにカップリングイベントとかの仕掛けがあって、人間関係の変化や素人が感情をむき出しにする生々しさが見どころになる。従来の恋愛ドラマはヒーローとヒロインがはっきりしているので先の展開が読めるけれど、リアリティー番組は筋書きがなくて誰が誰とくっつくのか破局するのかわからない感じがうけているようである。リアリティー番組は素人を寄せ集めて何かやらせることを繰り返すだけで、完成系がない。テレビ局にとっては役者を使うよりも素人を使うほうがギャラが安いし、素人に下手な演技をさせるよりは素の反応のほうが個性が出るし、完成系がないがゆえにシリーズ化がしやすいようで、テレビ番組として使い勝手がよいようである。●リアリティーとは何かフィクションではリアリティーは作品の完成度のひとつの尺度である。創作にすぎないフィクションに現実味を持たせるために脚本家は取材をしてプロットの矛盾をなくして、役者は役作りをして自然な感情を出せるように演技をする。その演技が視聴者の経験と重なるときに、視聴者は演技をリアルだと感じて登場人物に共感して作品を楽しめるようになる。一方でリアリティー番組は素人がリアルな感情を見せることそのものがコンテンツになっていて脚本も演技もないので、完成度を高めるための尺度がない。素人からリアルな反応を引き出すことで番組の目的を達しているといえる。リアルそのものだからフィクションよりもすごいのかというとそうではなくて、どうすれば完成度があがるかという尺度がないがゆえに完成度を高めるために技術が洗練されることもないので、映画のように芸術作品として何度も鑑賞するほどの価値はない。しかし一回限りのリアルな反応を見るのはテレビ番組としては成立する。●視聴者のいきすぎた批判作品の鑑賞に対しては批評はつきものである。しかしリアリティー番組は芸術作品ではないので、演技や脚本が良い悪いという映画のような技術的な批評がなくて、好き嫌いという感情的な批判になる。SNSはバカッターやバカスタグラムと呼ばれるくらい民度が低くてしばしばネットリンチが起きているけれど、「うざい」「むかつく」「消えろ」「死ね」という短文の批判は批評する言葉を持たないIQが低い人ならではの不満の表明なのだろう。『run for money 逃走中』という番組で仲間を裏切って見せ場を作る役の人がいるけれど、その人に対して批判が殺到する。裏切りは番組を盛り上げるための台本なのだというテレビ番組の裏側のメタな部分を読み解けないナイーブな視聴者が存在していて、そういう人程テレビに夢中になって批判している。アニメでもヒロインに彼氏がいる設定だとわかったとたんにかんしゃくを起こしてDVDを破壊した写真をSNSにアップロードしたり、作者を脅迫したりする人がいる。なろう小説だと主人公がピンチになると思い通りの展開でないからといって作者に文句をいう読者がいるらしい。このように今どきの若者は作品を自分の思い通りにしたがる人がいるようで、ゲームならチートを使って無双して思い通りになるけれど、テレビ番組は思い通りにならないことがストレスになって、ストレス解消のためにSNSで暴言を吐いているのかもしれない。無関心よりは炎上するほうが視聴率が高くなるし、リアリティー番組は視聴者に迎合して人間の嫌な側面を見せつけて番組出演者に対するヘイトを煽るところに問題がある。●現実とフィクションを混同させる危険性一時期テレビでオカルト番組やスピリチュアル番組を作って不安を煽って霊感商法の被害が多発したように、フィクションを現実と混同することは危険が伴う。ノンフィクションと称して嘘を書いて長期的に国益を損ねる外交問題になることもある。リアリティー番組の問題はフィクションを演じる役者と違って、現実をひきずったまま作り物の番組に出ることによる出演者の人生への影響が大きいことである。リアリティー番組の出演者の態度はあくまでカメラで撮られていることを前提にした人工的で不自然な生活環境の中での一側面でしかなくて、それがその出演者の人格のすべてではないのに、視聴者はテレビ映えするように切り取られた一部分しか見ないので、出演者は視聴者に嫌われやすくなる。そのうえ視聴者はそれをフィクションではなくてリアルな人格としてとらえてしまう。出演者はリアリティー番組に出た後には普通の人生があるのに、なまじ有名になったせいで嫌われ者というレッテルを貼られて、醜態を晒した映像がネットに残って、数時間の印象のせいでその後の人生まで台無しになる。しかも出演者は役者でなくて素人なので、次回作で反省を生かす機会もなくて、批判が芸の肥やしにならずに人格否定としてのしかかる。フィクションには終わりがあるけれど人生には死ぬまで終わりがないので、出演者はアンチが一生付きまとうことが精神的負担になって、批判を止めたいがために自殺につながりうる。被害者が出る可能性があるがゆえに現実とフィクションを混同させるようなコンテンツの制作には慎重になるべきで、番組が原因で問題が起きたら製作者の責任である。炎上しやすい番組で視聴率を高めて金儲けして、被害者が出ても補償するわけでもなく番組を打ち切りにして幕引きというのは無責任である。娯楽は基本的に人を楽しませるためのもので、たとえ視聴者が低俗な番組を望んだとしても、被害者が出るようなコンテンツは作ってはいけない。●テレビに夢中にならないで自分の人生を生きるんだ私は人間の行動の心理には興味があるけれど、個々の人間の人生にはあまり興味がない。有名人が社会問題について発言したときにロジックが間違っていれば批判するけれど、有名人の私生活には興味がない。誰が付き合おうが別れようが私の人生には関係ないし、リア充の恋愛模様が面白いとも思わないので、私は恋愛リアリティー番組を見ない。有名人のSNSを逐一チェックして何度も批判のメッセージを送るアンチの人の心理はわからないけれど、たぶんそういう人は自分の人生を一生懸命に生きていないので、リアルが充実している他人のことが気になってしょうがないのだろう。『テラスハウス』の主な視聴者は10代から20代の女子だそうだけれど、他人の人生に憧れたり嫉妬したりするのは若者ならではの行動で、仕事をして自立している大人なら自分の人生を生きるのが忙しくてテレビの向こうの有名人に構っている暇はない。好きな有名人に入れ込んで応援しても親しくなれるわけでもないし、ましてや嫌いな有名人に執着するのはエネルギーの無駄遣いである。勉強やスポーツや創作などで自分の知識や体力や技術を磨いて、家族や友人のために時間を使うほうが建設的である。リアリティー番組の出演者にしても一時的に有名になれるかもしれないけれど、役者と違って芸を磨けるわけでもないし、テレビのレギュラーになれるわけでもないし、SNSが炎上してもテレビ局が責任をとってくれるわけでもないので、人生を切り売りするようなテレビ番組に出るのはやめるほうがよい。今回の騒動をきっかけにして、恋愛リアリティー番組がなくなるほうが社会のためになると思う。
2020.05.26
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イタリアでは家族を心配して里帰りした孫が祖父母にコロナウイルスを感染させてしまったように、愛情に基づいた行動が感染症を広めることになってしまった。というわけで、愛と感染症について考えることにした。●愛が感染症を広める・欧米の挨拶と社交欧米では昔から臣下が王の手の甲にキスをしたり、騎士が貴婦人の手の甲にキスをしたりしていた。握手はお互いに利き手に武器を持っていないことを示すしぐさとして古代から世界各地であったようだけれど、アメリカで握手が挨拶になったのは18世紀のクエーカー教徒の握手する習慣の影響だそうでわりと最近である。身体的接触をすると愛情ホルモンのオキシトシンが分泌されるので、身体的接触をして忠誠や友情の証とするのは生理的に合理的なやり方といえる。さらに欧米は社交を好んでホームパーティーや晩餐会で集まりたがって、ダンスを踊って密着することでコミュニティ内の愛情を深めていく文化である。しかしその接触の多さが感染症を広める原因となる。偉い人ほど他人と握手をせざるを得ない状況が多いので、イギリスのボリス・ジョンソン首相とか政府高官とかの偉い人のコロナウイルス感染が相次いだ。一方で日本は愛に基づく人間関係ではない。儒教的な忠孝悌という主従関係で人間関係を形成している。肩を組む身体接触は親しい同級生や先輩から後輩に対してはあるけれど、目下の人から目上の上に触るのは馴れ馴れしい失礼な行為とみなしてやらない。口吸いは室町時代からあったようだけれど、挨拶としてのキスやハグなどの身体接触は欧米化した現代でも一般的ではなくて、たいていの挨拶は会釈やお辞儀や手を振ったりして身体的接触をしないやり方である。・神への愛マレーシアはクアラルンプールでイスラム教徒がモスクの礼拝で集団感染を起こしている。インドはイスラム教徒がニューデリーの大規模集会で感染を広げたのでイスラム嫌悪が広がっている。韓国では「新天地イエス協会」という新興宗教で集団感染が起きている。敬虔な信者であるほど困ったときに神の愛に頼るのだろうけれど、集会で感染が広がって一層困ることになる。科学よりも宗教を信じて、法律よりも戒律に従って、政府の外出禁止命令を無視して集会して感染を広げる人たちは、本人には悪気がなくても共同体への脅威になりうる。一方で日本はあまり宗教的な集会をしない。仏教は法話会みたいなのがあるけれど、他の宗教みたいに戒律で曜日を決めて必ず開催するようなものでもないので、法律に従って一時的に中止すればよいだけである。神社は手水があって比較的清潔だし、ユダヤ人みたいに嘆きの壁にキスするような農耕接触はしないので、神社も感染源にはなっていないようである。科学よりも宗教(スピリチュアル系の似非宗教)を信じる日本人は多いけれど、信仰心が薄くて宗教的な戒律があまりないがゆえに、日本では宗教が原因の感染は起きていないようである。・性病愛もしくは性欲が原因で感染症に感染する点では性病が一番わかりやすい。売春は貧乏な移民が稼ぐための常套手段だけれど、売春が違法の国では縄張りの元締めに稼ぎをピンハネされる。さらに外国は保険料や医療費が高くて、医者が移民を差別して丁寧に治療しようとしないので、貧乏な人はちゃんと性病検査をうけることができないだろう。ましてや麻薬を買うために売春するような底辺娼婦が性病検査をしているとは思えない。そうして客と濃厚接触して性病をうつされた娼婦は治療しないまま他の客に性病を広げることになる。VICEの「売春天国と化したスペインで問う 法規制のあり方」という動画だとスペインは売春がグレーゾーンで、組合に入れば外国人でも合法的に働けて社会保障を受けて健康保険に加入できるそうだけれど、所得を申告して税金を払うのが嫌で組合に入っていない人も大勢いるようなので、たぶん性病検査もちゃんとやっていないのだろう。韓国はソウルのゲイクラブでコロナウイルスの感染が拡大して、ゲイだと特定されたくないせいかクラブに行った客が名乗り出ないので追跡も困難だという。このようなプライバシーが関わる場合は感染者の追跡が難しくなって感染が拡大する。一方で日本は高級な店ほど店が嬢を管理して性病検査をやっているし、国民健康保険があるので保険料をちゃんと払っていれば安価に性病検査ができる。日本では最近は梅毒の患者が増えているようだけれど、デートアプリが原因のようで、自己管理ができるプロよりもだらしない素人のほうが危ないようである。●こんなに感染するのなら……愛などいらぬ愛は感染症を治す力がないし、むしろ愛が感染症を広めるので、感染症を広めないためには愛などいらぬという精神的な強さが必要である。アンパンマンは愛を捨てて勇気だけを友達にしないといけない。しかし愛を生活の習慣にして愛で困難を乗り越えてきた豆腐メンタリストの外国人は愛を捨てることができないようで、コロナウイルス対策を徹底するためには外出禁止令を出して罰金をとったり逮捕したりする強硬措置を取らないと、ハグしたり集会をしたりする行動の習慣を変えることができなかったようである。いったん愛を捨てて、感染症が収束してから愛を取り戻せばよい。中国は人権侵害ともいえる法律によってコロナウイルス感染者を強制的に隔離して、愛のない冷酷な監視社会は感染症に対しては有効であることを示した。しかしそもそも都市部の人口密集による不衛生な環境が感染症を発生させる原因になっているので、隠蔽だけ得意になっても意味がない。●偏愛は愛よりも危ないかもしれない人間は家族や友人などの愛情が深い人から順に守ろうとする。しかし感染症対策では大事な人だけ治療してどうでもよい人たちは放っておくというやり方だと、国家に大事にされていない貧乏人の間で感染が広まって被害が拡大する。シンガポールでは金持ちを保護する一方で対策が不十分だった外国人労働者の間でコロナウイルスの感染が拡大した。貧乏な移民が働くおかげで国が成り立っているので、金持ちコミュニティだけを守ろうとしても国家を守ることはできない。アメリカでも同様に生活のために働かざるを得なくて地下鉄を使う黒人などの貧困層を介してコロナウイルスの感染が広がった。アメリカではコミュニタリアリズムで自分の所属コミュニティだけ優先して、危機に瀕した時には他のコミュニティに対して協力するどころか偏見を持って敵対行動をとってきたけれど、そのやり方ではコロナウイルスに対する戦争は勝てない。『ブラック・クランズマン』という映画は白人至上主義者が黒人を殺そうとするヘイトクライムをテーマにしていたけれど、これは2018年の映画で、アメリカは奴隷解放宣言から150年経っても、公民権運動から50年経っても、未だに人種差別の問題が解決していない。第二次世界大戦で日系アメリカ人が差別されたように、アメリカでコロナウイルス感染が広がったらアジア系アメリカ人に対してヘイトが向かって、アジア系アメリカ人が自衛のために銃を買い込んで銃が売り切れる事態になったのがアメリカの人種間の相互不信を象徴する出来事のように思える。ヤンキースの田中将大投手が身の危険を感じて日本に一時帰国したように、アメリカは金を持っていようが有名だろうが安心して生活できる国ではない。アメリカは世界一の経済大国で軍事大国で大企業があって科学も娯楽も発展しているけれど、私はアメリカが良い国だとは思わない。白人のフロンティア精神や、黒人の音楽や、メキシコ系アメリカ人のテクス・メクス料理のように個々のコミュニティには良い点があるけれど、国家としてはばらばらである。愛の文化によるコミュニティの結束の強化と、マチスモ文化で筋トレしてテストステロンが増えて攻撃性が増加するという組み合わせで、他のコミュニティへの排他性と攻撃性が増して差別やヘイトクライムが起きている。広い国土に世界中から移民が集まって3億人以上も人口がいて、人種の違い、宗教の違い、貧富の違い、政治思想の違いで分断されて、それぞれのコミュニティが相互に不信感を持ったまま対立して、アメリカのコミュニタリアリズムは失敗しているように見える。WASPとかの金持ちエリート支配層のコミュニティに属する人にとってはアメリカはよい国なのかもしれないけれど、他のコミュニティに属する人にとっては銃による凶悪犯罪と麻薬が蔓延して病気になったら破産してホームレスになる貧しくて危険な国である。トランプ大統領が中国とWHOを批判しはじめたけれど、中国がコロナウイルスの起源だとしても、アメリカ国内で感染が拡大しているのは医療費が高額すぎて病院に行けない貧乏人が感染を広めるというアメリカ特有の問題だし、中国への批判でもアジア系アメリカ人への差別でもアメリカのコロナウイルス感染は解決しないので、アメリカ人はアメリカ国内の格差や差別の問題に向き合うべきだろう。弱者の保護を目指したオバマケアを批判した共和党政権下でコロナウイルスで世界一の感染者と死者を出してしっぺ返しを受けているのは皮肉な話である。*「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」とメッセージが出て投稿できなかったので、楽天の言葉狩りに抗議する。
2020.05.24
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歴史小説・時代小説・伝奇小説の違いについての動画をアップロードしました。個人的には『ドリフターズ』や『Fate』とかのとりあえず有名人を使ってみた感じの二次創作のような話は嫌いで、フィクションならオリジナルキャラを使えばいいのに、史実をねじまげてまで歴史上の人物を使う根性が気に入らないです。歴史上の人物たちは激動の時代を命懸けで生きて、たいていは夢を果たせないまま失意の中で死んでいったというのに、命も賭けずにのうのうと生きている現代人が他人の人生をフィクションとして改変して金儲けするのは人生に対する冒涜です。
2020.05.23
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現代は商品や飲食店やブログや子供の名前などがなんでもかんでもランク付けされていて、何かを調べると検索結果には人気の〇〇トップ20とかのランキングが出てくる。これほど社会に蔓延するようになったランキングとは何なのか気になったので考えることにした。・ランキングの変遷インターネットがなかったころはランキングというのはあまり一般的でなくて、テレビの視聴率のランキングや、ビルボードやオリコンなどのCDの売り上げランキングで、人気の度合いを測るための単なる統計としてのランキングだった。インターネットの初期の頃はYahooのディレクトリ型検索エンジンが主流で辞書のようにカテゴリ別にウェブサイトを分類していたのでランキングがなかったけれど、googleがロボット型検索エンジンで優位にたって、検索結果の上位に表示されるためのSEOという概念が出てきて検索結果のランキングを競うようになった。インターネットが普及して誰でも意見を掲示板に投稿できるようになると、ユーザー生成型コンテンツはウェブサイトのコンテンツ充実につながってSEOに有利になって、価格.comや食べログのような大勢のユーザーレビューを基にした人気ランキングが出てきて検索結果の上位で不動の地位を占めるようになって、個人のレビューは重視されなくなった。なんでもかんでも客がレビューを書いてランキング形式で比較されるようになると、人気のものはますます人気になって、不人気のものは存在が気づかれることさえなくなった。そうなるとランキングで上位になることがものを売るために重要になって、評価を高くするための口コミ代行サービスが出てきたり、食べログのレビューをちらつかせて飲食店に便宜をはかるように要求する輩も出てきた。こういう不正が出てくるのはランキングが商習慣として根付いたことの裏返しだろう。統計としてデータを示せる売上ランキングと違って、人気ランキングは根拠が乏しくてアカウント水増しやステマレビューが問題になる。・判断基準としてのランキングどんな分野でもランキングの上位にあるものは競争を勝ち抜いただけあってそれなりによいものなので、商品や飲食店を選ぶときにとりあえずランキング上位のものを選べばそれなりに満足感があって、ランダムに選ぶよりはずれが少なくなる。これは選択のための時間を短縮できるし、はずれをひかなくなって無駄金も節約できる。スティーブ・ジョブズがいつもTシャツを着ていたように、現代は物があふれすぎていて選択にいちいち判断力を使うのは時間の無駄なので、どうでもいいようなことに判断力を使わないのがネット時代の賢い生き方になった。しかし家や車などの高い買い物はランキングに頼る人はあまりいなくて、他人がどう思うかというよりも自分の好みに合わせて買い物をする。不動産屋の営業に使われている住みたい街ランキングを真にうける人があまりいないようなもんである。口コミサイトとかのランキングは飲食店などの比較的安い買い物で選択肢が多いときにいちいち悩むのは時間の無駄だからわかりやすい指標として使われていて、思考を放棄して他人の評価にゆだねる怠惰のためのランキングといえる。・コミュニティ内のランキング争いホストのナンバーワン争いなんかは誰がナンバーワンになろうがその店の客以外の人にはどうでもいいことだけれど、客はホストの顔を立てて喜んでいるところを見たいために飲みきれないほどの酒を注文して、ナンバーワンホストの時間を独占する優越感で快楽を覚えて、ホストにはまって毎月金をつぎ込むようになる。ソーシャルゲームは大金を使って強くなったゲーマーをランキングで表彰して優越感を持たせている。さらにランキング上位のユーザーだけがもらえる限定アイテムを用意して客同士を争わせることで、強くなるアイテムやスタミナ回復のアイテムの売り上げにつなげている。音楽だと普通に曲を聞きたい場合はCDを1枚買ったらそれで終わりだけれど、アイドルの場合は推しメンと握手したりランキングを上げたりするためにCDを何枚も買って、ひとつのコンテンツの消費の上限を上げている。野球やサッカーや相撲などのスポーツで順位をつけて日本一を決めるランキングでは、日本一をかけた試合は普通の一戦よりも盛り上がる。もし順位をつけずに親善試合のように単発でただ試合をするだけだとたいして盛り上がらなくなる。このようにコミュニティ内の競争にランキング要素を入れることで、消費者の便益を最大化することができる。これは快楽を追及するためのランキングといえる。・ランキングのビジネスあらゆる商品をランキング化することで注目を集めて売り上げを増やせる可能性がある。SNSでは急上昇ランキングで巷で話題のものや人気のものにさらに注目があつまる仕組みになっている。本や音楽のように毎月新作がでて比較的安くて値段が似ている商品は他のものと比較しやすいので、統計としての売上ランキングを出して発売一週間でこれだけ売れたと人気を煽れば、話題のものに飛びつくミーハー層が興味を持って買う。売上ランキングを出しても出さなくても商品自体の質が変わるわけではないけれど、ランキングを出すと客の注目を引いて興味を持つきっかけになるので、ただ商品を並べるよりもランキングを出したほうが売上が増えるかもしれない。人気がないものはコミュニティ内でランキングをつけるようにすれば、ランキングで上位になりたいという欲が出て競争が増えてコミュニティが活性化する。例えば若者に人気がない饅頭とか最中とかようかんとかの地味な食べ物でも、和菓子グランプリを開催して客が投票すれば話題作りできて、和菓子店の競争がおきて商品のレベルが上がって新しく和菓子ファンになる客が増えるかもしれない。お笑い芸人のコンテストが乱立しているのも世間の注目を集めて売り出したいからだろう。・ランキングの弊害宮崎駿は『熱風』の2010年7月号の「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」という題のiPadについてのインタビューで、「世界に対して自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。」とiPadを批判して、「あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。」と言っている。10年経って宮崎駿が批判したとおりのスマホをいじる消費者だらけになって、ランキングを見て他人の評価を見て実物を見ないまま物事を知った気になって、自分で思考して判断する能力をなくして情報に操られている。ランキングに頼って客の選別眼や感性が乏しくなった影響がビジネスにもでていて、買い物が実店舗よりオンライン店舗が主流になって、客は実物を見ないままネットで写真だけ見てものを買うようになって、店舗を訪ねることが少なくなった。百貨店離れは顕著で、百貨店ならではの高級感ある雰囲気や丁寧な接客を感じながらじっくり商品を見て優雅に時間を使って買い物をしたいという金と時間に余裕がある客が少なくなった。個性的でニッチなものはランキングに乗らないので売れなくなって、企業は節操なく流行を追って他社を真似て似たようなものやサービスを売るようになって、売る側の個性や経営理念も乏しくなった。似たようなものだらけなら消費者は安いほうがいいので、価格が下がってデフレにもつながった。コミュニティ内のランキング争いでは借金してまでランキング上位になろうとして、ホスト狂いで風俗嬢になる人やホストを恨んで付きまとう人がいるし、ソーシャルゲームにはまってカード破産する人やゲーム会社を脅迫する人もいて、間抜けな消費者として企業にいいように金を搾り取られて金がなくなったら捨てられて、一時的な快楽を追及しても消費者の幸福につながっているとは言えない場合がしばしばある。AKBの人気投票で誰がセンターになろうが歌がうまくなるわけでもなく、ソーシャルゲームで客にランキングを競わせて儲けた会社が必ずしも名作ゲームを作っているわけではないように、ランキングを争っても生産者側の質の向上につながっているわけではない場合もしばしばある。ランキングをビジネスに使うと金儲けできて便利だけれど、便利なことが必ずしも幸福につながっているとは言えない。人間は不便を解消しようとして知恵を出して新しいものを作るけれど、パソコンを使うようになって漢字の書き方を忘れたり、AIが翻訳するようになって語学力が落ちたりするように、便利になる代わりに使われなくなった能力が衰えることにつながる。新しくて便利なものに飛びつく前に何を失うのかを考えることも必要だし、新しいものを敵視しすぎて履歴書手書き教団のような時代の変化に対応できない非効率な人になってもいけないので、便利で効率的になることが本当に社会が豊かになって人間が幸福になることにつながっているのかを考えて取捨選択しなければならない。人気ランキングに判断を委ねて効率化できるかわりに判断力や感性が衰えて、コミュニティ内のランキング争いで快楽を得る代わりに熱中しすぎると時間と金を無駄にする。私はそれはよくないと思うので、生産する側の人はあまりランキングに頼らないほうがよいと思う。
2020.05.17
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最近は自粛警察が行動自粛を求めて過激化して、器物破損事件などが起きていることが問題視されている。というわけで自粛警察について考えることにした。・自粛警察とは何か徳島県で県外ナンバーの車に石を投げて嫌がらせしたり、高円寺の商店街で営業している飲食店の窓ガラスを破壊して嫌がらせをしたり、パチンコ店に並ぶ客を罵倒する人がいて、こうした外出自粛や営業自粛を求めて過激な行動をとる市民がネットスラングとして自粛警察と呼ばれている。もちろん自粛警察に警察のような権限があるわけではないし、社会の役に立つどころかむしろ迷惑行為で治安を乱している。ブラジルだと政府は外出自粛しない方針にもかかわらず、スラムのギャングは住民が外出しないように自主的に監視しているそうだけれど、これも自粛警察といえる。・なぜ市民が過激な自粛警察になるのかブラジルのギャングが政府の指示に反する行動をして自粛警察をしているように、自粛警察の動機は政府の指示に従わない人を罰しようとする愛国心や正義感というよりは、危険を感じた時に自分や共同体を守ろうとする生存本能が原因だと思う。人間は危機に直面した時に本能的に攻撃か逃避のどちらかの行動をとる。脳の偏桃体が恐怖とかの生存本能に関わる強い衝動を呼びおこすけれど、前頭葉の理性は後から発達した部分で、機能が弱くて本能的な衝動を抑えきれない。それゆえに危機に直面して恐怖や不安を感じた人はしばしば理性をなくして非合理的な行動をとるようになる。さらに人間は将来の見通しが立たないと不安を感じるけれど、何もしないで待つと不安がつのるので、不安を解消するために何か行動したくなる。それゆえによく考えずに動く無能な働き者となって、自粛警察活動に邁進して脅威を攻撃するようになる。アメリカでアジア人差別が深刻化しているようだけれど、アジア人に殴りかかったところでコロナウイルスを退治できるわけではないのはたぶん10歳児くらいの知能をもっていれば理解できる。しかしアメリカは元々銃を肯定して自己防衛意識が高くて攻撃的な国民性なので、本能的に攻撃態勢をとって差別によって共同体から脅威を排斥しようとしているのだろう。日本の自粛警察も攻撃性の表れといえる。宇都宮市でコロナウイルスの症状が軽い感染者を収容しているホテルが放火されたけれど、犯人は感染者を社会の脅威とみなして攻撃しようとしたのかもしれない。というわけで頭が悪い人(前頭葉の働きが弱くて本能的な衝動を抑えられず理性的に行動できない人)が、自分が何の目的で何をやっているのか自覚しないまま、自分や共同体を守ろうとして恐怖に対して本能的な攻撃衝動に従って行動して、それを正義と勘違いして正当化した結果として自粛警察の過激化につながっていると思う。・政府の対応のまずさが自粛警察が出てくる原因テレビ東京の「ガイアの夜明け」で「日本が今中国から学ぶこと」として中国のコロナウイルスの対応を特集していた。中国は政治の権力が強くて人権を無視していることもあって感染の疑いがある人を強制的に隔離して、市民も政府の政策と協調して電車のどの車両に乗ったとかの行動履歴を提出して、コロナウイルスから徹底的に逃避したので封じ込めに成功した。中国市民は最初はマスクを購入しようとしてドラッグストアに押し掛けたりして騒動が起きたものの、政府が逃避の方針をはっきり示して、それに従えば脅威が取り除かれて不安が解消されるのだと国民が理解したことで、コロナウイルスを収束させて経済活動を再開させることができた。日本のコロナウイルス対策の失敗は何をやるにしても中途半端なことである。発熱後4日間自宅待機ルールに医学的根拠が乏しくて方針を変えたり、給付金が30万から10万に変更されて給付が遅れたり、営業自粛要請の補償が乏しくて効果が薄かったり、不要不急の外出自粛要請に違反しても罰則がなくて効果が薄かったりする。補償がないがゆえに倒産しないために営業する店がでてきて、罰則がないがゆえに不要不急の外出をして遊びに行く人が出てきて、そこで感染が広がってだらだらと感染者が増えるので緊急事態宣言が延長されて、いつコロナウイルスが収束して経済活動を再開できるのか見通しがつかなくて経済的な不安が解消されないし、保健所や病院がPCR検査の基準に満たないといって検査を拒否するのでちゃんと治療を受けられないのではないかという生命の不安もあるし、日常の行動が制限されることによるストレスもたまる。その不安が攻撃衝動に転嫁されて、自粛していない攻撃対象に対して政府が要請した以上の自粛を求めて威嚇行為をするようになる。政治家がリーダーシップをとって迅速に適切な対策をしていてれば、市民の不安は軽減されていたはずだった。・自粛警察はやめよう未知のウイルスの危機に直面して現状に不安を感じるのは当然だけれど、他人への嫌がらせや器物破損は違法で社会の不安を助長するうえに、コロナウイルスの収束につながらない自己満足にすぎない。感染しているのに自宅待機せずに山梨県に旅行してバーベキューをして感染を広めたあげくに事情聴取に嘘をついた感染者に対してはネットで特定されて容姿などの中傷が起きていて、無責任に感染を広める行動への批判はよいけれど容姿や家族の中傷はよくない。飲食店の従業員にも生活があるし、補償をできるわけでもない他人が政府が要請した以上の自粛を求めて嫌がらせをするのは営業権を侵害していてよくない。民主主義の法治国家の国民だという自覚があるなら、法的権限がない警察ごっこで他人を不当に攻撃するのでなく、批判は政治家に向けて休業補償や三密違反の罰則強化などの対策を要求すればよい。国民の不安が解消されないのは政治が原因なので、不安を解消したかったら政治家を動かして合法的に問題を解決しないといけない。そのために我々は選挙で投票して税金で政治家に給料を払っているのである。
2020.05.08
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最近は岐阜で大学生の野球部の集団がホームレスに石を投げて殺したり、なんでそんなことをするのだろうというような仁義のない酷い事件がしばしば起きている。というわけで仁義について考えることにした。・仁義とは何か仁義というと映画の『仁義なき戦い』のように任侠もののフィクションでよく出てくるけれど、元々は儒教の「五常」と呼ばれる仁義礼智信という道徳である。仁とは思いやりの心で万人を愛することである。義とは利欲にとらわれずになすべきことをすることである。仁を行動として表したものが礼である。智は知識が豊富で道理を知っていることである。信は友情に厚くて誠実であることである。・仁義がない人への批判岡村隆史がラジオでコロナウイルスでお金に困ったかわいい人が風俗嬢になるのが面白いというような発言をして批判されて不適切だったと謝罪したけれど、これも仁義がないと思う。岡村隆史の発言のどこが悪いのかというと、お金に困って風俗で働く人に対する思いやりの仁がなくて、風俗で楽しみたいという利欲にとらわれていて義がない。落ち込んだ人を笑わせて勇気づけるために芸を磨くのが芸人の仁義で、岡村の発言にはその仁義がなかったので女性蔑視と取られて、芸人仲間からも擁護する人がほとんど出てこなかった。風俗という職業自体が悪いわけではないし、風俗に行ってはいけないというわけではないし、結婚できない男性と金を稼ぎたい女性が合法的に取引するぶんには問題がない。落語の「明烏」のように風俗をテーマにした笑いもある。しかし芸人が風俗に通ってもそれを芸人の仁義につなげられなくて、かわいそうな女性の立場を思いやることができずに客を笑わせるどころか怒らせるのでは女遊びが芸の肥やしになっていないといえる。「医は仁術」というのが医者の倫理の基準になっているように、他人の不幸が自分の利益になることを喜んではいけない。死人が多いほど葬儀屋は儲かるし、台風の被害が大きいほど土建屋は儲かるし、不況になるほど金に困ったかわいい風俗嬢が増えるかもしれないけれど、それを喜んではいけない。自分の利益を喜ぶのでなく、仁義によって他人や社会の役に立つことを喜ぶべきである。・なぜ仁義はなくなったのかもともと日本は儒教の影響が強くて、江戸時代には朱子学や陽明学が侍の倫理の基準になっていた。学徒出陣した若者たちの親や国を思う忠孝悌の倫理観も立派なもので、もし私が徴兵されても国のために死ぬなんてまっぴらだとぐだぐだ文句を言って役に立たないだろう。ではなぜかつて日本人に共有されていた儒教的な倫理観がなくなってしまったのだろうかと考えると、第二次世界大戦の敗戦で天皇の権威や家父長制がなくなって忠孝悌の従者としての倫理観がなくなって、戦後の高度経済成長を経験して欲望にブレーキがきかなくなって個人の利益を優先して行動するようになったのが原因だろう。政治家や官僚は利権のために義をなくして、儲からない社会保障を削減しだして仁もなくした。経営者は終身雇用がなくなってからは従業員の生活を犠牲にして低賃金の長時間労働で利益を出すようになって仁義をなくした。仏教は信者を資金集めや投票に利用する政治団体化して仁義がなくなった。大学は就職予備校のモラトリアム扱いされて金儲けにならない教養を軽視して徐々に学力が下がっていって智がなくなった。昭和の芸能人はテレビに出る人としてふさわしい言葉遣いや立ち居振る舞いが要求されていたので芸能人としての礼節や貫禄があったけれど、芸人は落語のような厳しい師弟関係がなくなって芸人養成所の先輩後輩のゆるい関係で育ったので礼がなくなった。芸能事務所が力を持って専門家でないタレントがニュースにコメントするようになってメディアから智がなくなって、御用学者を使って偏向報道してメディアは信もなくなった。かくして自分が儲かれば他人がどうなろうが知ったこっちゃないという仁義がない人が社会の中枢でかじ取りをするようになって、社会から仁義礼智信がなくなった。資本主義社会では金さえあればなんでもできるようになるけれど、そのぶん傲慢になって無知であることへの謙虚さがなくなり、他者への仁と礼を欠くようになり、義をなくして私利私欲を追及するようになり、金儲けにならない智を学ぶことを時間の無駄とみなすようになり、いずれ醜悪な本性がばれて信用を失う。利益だけを求めて仁義のない社会がどういうものなのかは経営者や芸能人といった金持ちの不祥事の多さに端的に表れている。儒教の倫理観が絶対的なものというわけではないし、儒教が形骸化すると年功序列の縁故主義になる弊害もあるけれど、儒教的な倫理観があったからこそ日本に特有の庶民の民度の高さが保たれて発展した。発展途上国はその逆で、民度が低くてしょっちゅう暴動や強盗や殺人事件を起こしている。倫理の発展に伴って社会は発展するし、倫理が衰退すれば社会も衰退する。・コロナウイルスで仁義が問われるコロナウイルスのパンデミックで、個人や社会の様々な問題点が一挙に浮き彫りになった。個人の問題としてはコロナ感染の疑いがあるのに自宅待機せずに感染を広げる無責任な若者、他人が困るのにつけこんで品薄のマスクや消毒用アルコールを買い占めて高値で転売する人、マスクを欲しがってドラッグストアで暴れる人、非常事態宣言が出ても外出自粛せずに休日に遊びに行って立ち入り禁止の場所に侵入して潮干狩りやキャンプをする人、家族総出で不要不急の買い物に行く人、過度な自粛を求めて嫌がらせをする自粛警察が問題になった。社会の問題としてはリーダーシップがなくて対応が遅い行政、中国に工場が集中して国内にマスクや防護服の生産設備がないリスク、グローバリズムで世界中に感染が拡大しやすいリスク、経営陣の高齢化によるIT化の遅れ、東京の一極集中リスクが問題になった。もともと道徳が乏しい個人は危機の時にその道徳のなさが顕在化する。慶応病院の研修医が不要不急の宴会をしてコロナウイルスに感染したようなのが典型的である。民主主義ではまずは個人の倫理観が変わらないと政治も社会も変わらないし、社会を良くしていこうという意識を持って選挙で投票するとかの行動しないと社会はよくならない。コロナウイルスで明らかになった問題点を改善しようとせずにそのまま放置しておくと、南海トラフ地震や富士山の噴火とかのコロナウイルスよりもひどい状況が起きたときにはさらに悲惨な状態になりうる。市民に良識がなくて社会を気にしないと、ヨーロッパのように行政の権限が強くなって警察が外出自粛しない人から罰金を取ったりするようになる。その行きつく先は中国のように個人の自由がない監視社会である。自分の生命や財産に対して無能な政府が強力な権限を持つというのは恐ろしいことで、そうならないように個々人が倫理観をもって社会を変えないといけない。特に社会的な影響力が大きい政治家や経営者の倫理観が社会の幸福度を左右する。「ガイアの夜明け」でビジネスで社会問題を解決しようとするボーダレス・ジャパンを特集していたけれど、これが起業家の仁義のあり方である。地震や台風のような局地的な災害では被災者とそうでない人がはっきり分かれるので、募金や買って応援とかで個人で支援しやすかった。しかしコロナウイルスは被害者が多すぎて被害者像がはっきりしないので、そのぶん支援がしにくい。自粛に耐える資金がない個人経営の店、ホテルなどの観光業、人が集まるイベントがなくなったスポーツ選手やミュージシャン、鯛の養殖業者、内定を取り消された新卒、日雇いの仕事が途切れたネカフェ難民など、広範囲に大勢困っている人がいる。こうした広範囲の問題は個人の支援よりも行政が対処しないといけない。自分が投票した地方議員や国会議員がちゃんと働いているのか、困っている人を助けようとする仁義を持った人なのか、専門的な知識を学んで問題解決をしようとしているのか見極めて、次の投票に反映させる必要がある。知恵もなく利権にまみれて威張っているような仁義礼智信がない政治家に自分の生命や財産や自由に対する決定権を与えてはいけない。私はまだ大勢の日本人が仁義を重んずる倫理観を持っていると思うし、だからこそ岡村への批判も起きたのだと思う。その倫理観を政治家にもぶつけて、投票に反映して社会を変えてほしいものである。
2020.05.05
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