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物語の主人公の書き方の動画をアップロードしました。なろう系の異世界転生だと勇者召喚自体が巻き込まれ系の最たるものといえますが、そのうえ主人公が盗賊に襲われている人に遭遇して助けるとか冒険者ギルドで絡まれるとかの巻き込まれ型の展開が続いて、それをやるのは主人公じゃなくてもいいんじゃないのと読者に思われてしまったら主人公の存在意義がなくなります。漫画だと主人公に個性を持たせようとしすぎて服や髪がごてごてしてかえって脇役的な小物感が出ているようなものあるけれど、小説だとキャラクターデザインにあまり凝らないで済むのは小説のメリットといえるかもしれません。
2021.01.25
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ハーバービジネスオンラインの「“昔なら入れなかったレベルの学生が東大に受かっている”!? 日本人の学力が低下し続ける原因とは」という記事によると、OECDが実施している15歳の子どもたちを対象にした学習到達度調査のPISAで、2000年の調査では数学的リテラシー1位、科学的リテラシー2位、読解力8位だったのが、2003年には読解力14位にまで落ちて、数学的リテラシーや科学的リテラシーも徐々に順位が落ちているようである。代々木ゼミナールの東大特進クラスなどで現代文小論文を担当する予備校講師の高橋廣敏氏によると東京大学に進学するような上位層でも読解力、記述力は低下していて、特に記述力は格段に下がっているそうな。小説を読めない人が増えているのはゆゆしき問題なので、これについて考えることにした。・なぜ国語力は低下したのか上の記事だとスマホとゲームが主な原因で、受験勉強ばかりやって本を読む時間が減ってインプットが減ったことでアウトプットも減っていると言っているけれど、これはその通りだろう。大学生は読書をする方がいいという記事で書いたけれど、2015年頃には大学生の53.1%が1日の読書時間がゼロになってスマホで情報収集するようになって大学生の読書離れが問題になっていた。けっこう前のニュースでLINEで若者が文章を書かなくなって「マ?」とかの短文やスタンプで返事を済ませたりしているという記事を見たような記憶がある。ゲームでも初期のオンラインゲームはキーボードを使ってチャットの文章を入力する必要があったけれど、今はヘッドセットでのボイスチャットが標準的なので文章を入力する必要がなくなった。ネット検索もGoogleアシスタントやSiriで音声入力できるようになって、簡単な答えなら文章でなく会話で応答するようになって文章に接する機会が減る。Twitterや2ちゃんねるとかで文章を読み書きする機会があっても短文が主なので、前後の文脈を理解したり論理的に章立てして文章を読み書きする訓練にはならない。新聞や雑誌の発行部数も年々減っているので、子供が親が読んでいる新聞や雑誌に興味をもつことも少なくなっているのだろう。書斎があれば本棚の本を家族で共有できるけれど、パソコンやスマホとかのパーソナルな端末だと家族がどんな本を読んだりサイトを見たりしているのかわからない。というわけでITの発達が国語力にも影響していると考えられる。しかし日本だけでなくて他の国でも子供はスマホを持っているだろうに、日本の学力の順位がじりじり落ちているのはなんでなのかと考えると、外国はパソコンを使ったICT教育が進んでいるのに対して、日本だとようやく小中学校へのタブレットやクロームブックの導入が始まった程度で家庭でスマホが主に遊びに使われていて教育のために活用されていないのが国語力低下の原因かもしれない。それに他の国は経済成長して富裕層が増えて子供の教育に力を入れるようになった一方で、日本は経済停滞して子供を教育するどころか子供を産まなくなって少子化で競争が減りつつあって、親が子供の教育にかける時間や金の余力の差が出ているのかもしれない。中国系アメリカ人の教授が子供にスパルタ教育をした顛末を書いた『タイガーマザー』という本だと中国人は子供を親の所有物のように扱うので容赦なくテレビとゲームを禁止したそうだけれど、日本の親は子供に嫌われたくないのでゲームを禁止できないのかもしれない。・なぜ国語力は必要なのか国語はしばしば作者の気持ちなんて知っても役に立たないと揶揄されるけれど、例えばアメリカ大統領の就任演説のときの大統領の気持ちを答えよという設問なら、日本の政治家がそれを読み解けなければアメリカとの交渉が不利になる。あるいは「お前には娘はやらん」と因縁をつける彼女の父親の気持ちを答えよという設問なら、それを読み解けなければ結婚できなくなる。こう考えると限られた情報の中から相手の気持ちや論拠を知る力はあらゆる場面で重要である。古代ローマのリベラルアーツで自由七科のうちで文法学、修辞学、論理学と三つも言語に関する学問だったように、人が持つ必要がある技芸として言葉を読み書きする能力は必須である。人間は言語と文字を持ったからこそ意思疎通して知識を蓄積して高度に社会を発展させることができたし、高い地位にいる人ほど情報を発信する必要があるので、資料を正確に読み解いて情報をインプットして思考をまとめて論理的に主張する能力が必要になる。この能力は文系学問だけが必要とするわけではなくて、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻教授の須藤靖は2017年の学術俯瞰講義で語学力・文章力・表現力が低い人は理系研究者に向いていなくて議論したり論文を書いたりするのに重要なのだということを言っている。母語は思考の基礎になるので、母語の読解力が低い人は外国語の習得もしにくくなる。教育熱心な親は子供をバイリンガルにしようとして子供の頃から英語教育をするけれど、母語の発達が不十分だとバイリンガルでなくてセミリンガル(別名ダブル・リミテッド)になって日常会話はできても抽象的な内容を伝達したり理解したりできなくなって教育に失敗するパターンがある。日本語は主に日本人だけが使っていて人口でいえば英語やスペイン語と比べてマイナーな言語なので、日本語の読解力が低い日本人が外国語を覚えて外国で活躍するとは考えにくい。日本語の読解力が低下すると日本語で書かれた文献の資産が十分に活かせなくなってインプット量が少なくなって、相手の言うことも十分に理解できなくなってコミュニケーションが不十分になって、なんやかやで国力が落ちることになる。上の記事で東大生のレベルが落ちて幼稚になっていることを問題視しているように、エリートのレベルが落ちることで長期的に見て日本の大学や企業の研究力も落ちていくと思われる。今までの学校の授業だと語学が重要視されていてたいていの大学だと英語の他に第二外国語も履修する必要があるけれど、今後は定型表現程度の翻訳はAIの自動翻訳があれば足りるので、マルチリンガルになることに労力を割くよりも特定の言語で深く考える力のほうが重要になる。若者が読書離れして国語力が年々落ちても社会で国語力が必要でなくなることはないし、舌禍事件でポストをなくす政治家やSNSが炎上するインフルエンサーがいるように一度言った言葉は訂正しにくくて信用が落ちやすいので、エリートになるつもりの人ほど国語力を鍛えないといけない。・なぜ文系学問の教養が必要なのか国語なんてたいていの人が話せるしスマホで漢字の変換ができるんだから受験で現代文を勉強しなくていいじゃんと言う人もいるけれど、国語力が低下して小論文を読み書きする能力が落ちると文系学問の研究も衰退することになる。文系学問というのは人間の心理や文化や歴史や社会について理解するための学問で、日本のビジネス界では文系は実学でないから金儲けの役に立たないとみなされてうけが悪い。しかしビジネスの目的はなにかと考えると、単に物やサービスを作って売ることではなくて生活を便利で豊かにして幸福にすることで、物やサービスを作って売るのは幸福になるための手段の一つにすぎない。手段だけ考えて、我々がどんな歴史の上に文化を築いてこれからどんな社会を目指すのかという目的を忘れては意味がない。人間は感情や思想に基づいて行動するがゆえに利益や理論だけでは人を動かせない場合がしばしばあるので、社長や政治家のように立場が偉くなるほど相手の信用を得るために文系の教養が必要になる。特に宗教や人種や歴史の理解がないと相手の信用は得られない。日本は2018年のOECDの名目GDPに対する輸出額の割合が18%で内需に依存しているので、グローバルなビジネスでの文系学問の必要性を理解しにくいのかもしれない。文系学問軽視が日本の外交下手につながって、日本企業はもっと輸出できるポテンシャルがあるのに外国でシェアが取れなくて、輸出依存度が低いから外国の歴史や文化を理解しようとしないという悪循環になる。鯖江市が中国企業にレッサーパンダと引き換えに無償で眼鏡作りのノウハウを教えてそのままシェアを奪われて産業が衰退したり、日本のメーカーが中国進出に失敗するのは取引相手の文化を理解していないからで、組織のトップに文系学問の教養がないと被害が甚大になる。ライフネット生命の創業者で立命館アジア太平洋大学学長の出口治明氏がビジネスパーソンが歴史を学ぶべきだと啓蒙しているけれど、文系の教養の必要性を理解している人は経済界では主流派ではない。それゆえに子供の国語力が低下していることも世間ではあまり重大なこととして受け取られていないのかもしれない。大前研一が週刊ポストの記事で「文系知識の価値は5円」と言うのが典型的で、文系を極端に軽視してはばからない人が経済界にいる。5円の根拠は文系の知識はスマホですぐ検索できるからだそうだけれど、そのスマホで検索すると出てくる文系の知識は文系学者が日々研究してアップデートしていると気づいていないあたりは浅慮である。・文芸創作が果たす役割たまたまTEDで文章創作について語っている動画を見つけたのだけれど、語り手のSakinah Hoflerは作家で、出来事を眺めるのでなく目撃して、人生の最悪の瞬間の詳細な物語を書くことで生きる力が戻るのだと言っている。日本だと小説は役に立たないという人がけっこういて、読書をしないだけでなく、ブログなどのまとまった量の文章を書く習慣がない人のほうが多いかもしれない。しかし文芸創作というのは空想のフィクションの小説だけではない。私小説やエッセイなどで作者の体験を語りなおすのは自分の人生を確かめる工程でもある。平時でも人間は傷病老死愛別離苦の苦悩があるのに、そのうえ不景気やら天変地異やらの不幸が次々に襲ってくる。その時に自分について語ることが生きる力になる。何が起きたのかを書き留めて、どう感じたのかを記録して、そのときどう行動すればよかったのかを検討して、より良い人生につなげることができる。そしてその物語は似たような悩みを持つ他の人の役に立つかもしれない。戦争の体験談や、阪神大震災や東日本大震災の体験談が出版されているように、当事者が悲惨な出来事と向き合うために体験を書くことが必要になる。最悪の体験をしていない人でも、自分が生きた時代に何が起きたのか、どんな時代だったのかを書き残しておくと、後世の資料として役に立つかもしれない。学問が知識の蓄積である一方で、文化は体験の蓄積で、各々が自分の体験を書き残すことでそれが文芸創作という文化となって人生の豊かさにつながる。自分の体験について書くだけだと自分はどう生きるのかという視点しかないけれど、他人の物語を読むと、我々はどう生きるのかという社会を見る視点ができる。社会は大勢の年齢も性別も思想も異なる人から構成されているので、様々な他人について知らないと皆にとって良い社会は作れない。金持ちで苦労せずに育った人はしばしば傲慢で他人の苦労に無頓着で、文章を書いても自慢しか書かないので他の人の役に立たないけれど、そういう人が小説を読んで他人の苦労を知れば慈悲心を持てるかもしれないし、自分のことだけでなく社会について考えるようになるかもしれない。そう考えると小説やエッセイなどの創作は社会を維持するために必要だといえるし、少数の作家だけが小説を書くのでなく、大勢の人が文章を読み書きするほうが社会は良くなると思う。コロナ禍で仕事が減ったりクビになったりして大変な目に合っている人も多いだろうけれど、悪い出来事を自分一人で抱え込まずに文章として書いてみるとよいよ。そういえば私はYouTubeで小説の書き方を解説しているので、小説の書き方がわからない人は見てみて、チャンネル登録もするとよいよ。
2021.01.21
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最近はお笑い芸人のキングコング西野亮廣のオンラインサロンがマルチまがいで金儲けの仕方がえげつないと話題になっているので、オンラインサロンについて考えることにした。・オンラインサロンとは何かサロンとはもともとは応接室などの部屋を意味する言葉で、フランスの貴族のおうちで開かれた社交界がサロンと呼ばれた。現代はオンラインで社交界をするのでオンラインサロンというわけで、芸能人や企業家などの有名人がサロンの主催者になって会費をとって会員限定のオンラインミーティングを開催している。・詐欺とオンラインサロンの違い投資詐欺などのたいていの詐欺は長続きせずに破綻している。最初は順調に騙せていても詐欺師の金遣いが荒くなって派手な生活をするようになって、金が足りなくなってさらに信者から搾り取ろうとしたときに信者や信者の家族から訴訟を起こされて、詐欺スキームが露見して破綻する。オンラインサロンの場合はやりがいや人脈を売りにしているので、有名人が広告塔として機能する限りは破綻しない。投資詐欺のように高額のリターンを保証する必要がないので、サロンメンバーが有名人のありがたい話を聞いて一緒に活動して満足すればそれでよいのでリターンが低コストで、リターンを用意できないということはまずない。有名人の人気がなくなって落ち目になったときには破綻するだろうけれど、オンラインサロンを主催するインフルエンサー同士でつながっていて互助しているので、よほどの事件を起こさない限りは失墜することはなさそうである。・権威づけの構図カルト宗教は奇跡を起こすことで教祖を権威付けしようとしていて、麻原彰晃が空中浮遊している写真を出したり、ライフスペースがシャクティパットで病気を治せると主張したり、法の華三法行が足裏診断をしたりするけれど、治療系の奇跡は結局は嘘がばれるのでそこから教祖の権威がなくなって破綻する。その一方でオンラインサロンはプロジェクトの成功や年収を奇跡の代わりに使って主催者を権威づけしようとする。西野は15億円の美術館建設とかの巨額のプロジェクトをやることで何かすごいことをやっているんだと印象付けて、会員数7万人で年収数億のすごい人なんだということを演出できて、さらに西野が高圧的な態度をとって気難しい天才ぶることで権威付けが完成して、権威に弱い人がこれに騙される。しかしプロジェクトが小さいと権威付けができなくなるので、実力に合わないプロジェクトをやろうとして失敗して権威がなくなるだろう。西野はクラウドファンディングで美術館建設資金を集めたのにまだ建設していなくて、しょぼい美術館を作ったら権威がなくなるし、立派な美術館を作ったところで信者以外の集客が見込めないだろうから維持費で赤字になるだろうし、このまま美術館を建てなかったら詐欺になるし、吉本の後ろ盾をなくした西野が美術館建設の対応を間違ったら詰むかもしれない。・なぜオンラインサロンにはまるのかオンラインサロンにはまる人は、サロンで金を払って手伝ってサロンメンバーの信用を買えば、自分が何かのプロジェクトをするときに信用があるからサロンメンバーから支援してもらえるはずだという理由でオンラインサロンに大金を投じて、西野の個展の設営や撤去をする権利を5万円で買ったりするようである。しかし世間では裏方として手伝ったことを実績とはみなさない。無名の美大生がこつこつ作品を作って街角のちいさな画廊で個展を開くように、自分で作った作品の積み重ねがクリエイターの実績であり信用である。自分で作品を作らない限り実績にはならないのに、西野のサロンメンバーは映画のチケットを大量に買って転売したり何度も映画を見たりすると実績になって信用してもらえると勘違いしているようである。オンラインサロンにはまる人が信用だと思っているものはサロン内だけで通用する信用で、サロンから出てしまうと何の信用もなくなるどころか、変な教祖を崇拝して変なものに大金を投じている信用マイナスのうさんくさい人である。それゆえにいったんオンラインサロンの枠組みにとらわれると信用を損切りできなくてその輪から出られなくなって、自分は間違っていないのだと自己肯定するために批判する人を敵視してさらに大金を投じて泥沼にはまり込んでいく。西野が自分が支援を受けたのと同じくらい大金を支援して回っているならまだ信者の言い分もわかるけれど、金の流れが信者から西野に一方的に流れていて西野が何をやるにしてもクラウドファンディングで済ませて自身は出費しないので、西野のやり方が批判されるわけである。西野信者たちは「何事にも打ち込んだことがない人が夢を見る人を批判するのだ」「成功者への嫉妬だ」と言い返すけれど、これは人格攻撃の詭弁で批判に対する返答になっていない。夢を批判してはいけないというのも変な理屈で、西野の美術館建設のように金だけ集めて手つかずのまま進捗状況の報告もないずさんな夢なら批判されて当然で、夢を見ることは債務不履行の免罪符にはならない。・一流の人がオンラインサロンをやらない理由なぜ一流の人はオンラインサロンをやらなくて、うさんくさい人のオンラインサロンが流行るのかというと、一流の人は仕事に専念したいから他の事に煩わされたくないのだろう。クリエイターは自分の作品の価値で金を稼ぐことを目的にしているし、ファンサービスも大事だろうけれどまずは作品作りに自分の時間を使う。一流の人は一般人相手のクラウドファンディングをしなくても実力を認めて金を出してくれるスポンサーやパトロンがいるし、他人任せで中途半端なものを作るのでは意味がないし、素人のファンが制作に関わるのは邪魔である。例えばアニメ監督がオンラインサロンで信者を囲ってクラウドファンディングで原画を描く権利や声優になる権利をファンに売れば金策はできるだろうけれど、締め切りには間に合わなくなるし出来栄えも悪くなるし、公開する価値がない作品は作る意味がない。クリエイターが制作に参加する権利を売るのはプロとしての矜持を売るようなものでやらないのである。資金繰りに困っているスポーツチームはスタジアムの命名権を売っても選手として試合に参加する権利は売らないように、いくら金がなくてもプロとしての質を保つために超えない一線がある。そもそも社交界に価値があるのは限られたメンバーだけが参加できて親睦を深められるからで、人間が安定的な社会関係を維持できる認知的な上限のダンバー数(100-250人)を超える人数が参加して主催者が参加者の顔と名前を覚えられなくなったら社交として機能しなくなる。1000人以上が参加するオンラインサロンはもはやサロンというより有名人のファンクラブだろう。講談師の神田伯山がオリエンタルラジオの中田に対して「吉本のトップの人って何人かいらっしゃるじゃないですか。その人を超えようという時に、多分、中田さんという方はどっちがお金持ってるかってことで勝負してるんじゃないですか? 僕は芸で勝負したいんですよ。」と言ったように、中田はもうお笑い芸人として芸で勝負することはやめたのだろう。西野も絵本作家と名乗っているのに絵は他の人に描かせている。オンラインサロンを作るのは中田や西野のように知名度はあっても一流でなくて作品や芸事の完成度を高めることよりも金儲けを優先する中途半端な人たちで、自分で作品や事業を作れないけれどやりがいや人脈がほしいふわっとした目標を持った中途半端な人たちがそういうオンラインサロンに参加して、高額なお布施をして教祖を高みに祭り上げることでそのみこしを担いでいる信者が自分は間違っていないのだと自己肯定して満足度が高まって、それを見た別の信者が引き寄せられるというループになっていて、信者の財布が空になるまで当面は教祖も信者もWin-Winである。ホストクラブで推しメンをナンバーワンにしようとして大金をつぎ込んだりする客や、AKBで推しメンをセンターにしようとしてCDを数千枚買うファンや、映画『鬼滅の刃』で煉獄さんを300億の男にするために何度も映画館に行ったりするファンも似たような心理で、推しメンの成功に自分の成功を重ねて自己肯定したいのだろう。千鳥の大悟が西野を「捕まっていないだけの詐欺師」と言ったのは的確で、自己肯定をする必要がない部外者から見れば価値に見合わないもののために大金を無駄遣いしているように見える。西野の絵本が原作の『映画 えんとつ町のプペル』を10回見て10プペしたと自慢する西野信者たちがいるそうだけれど、映画評論家でもないのに子供向けの映画を大人が10回も見ていること自体が異常で、その異常さの自覚がないのが問題である。・虚業の金儲けを放置してよいのか人間は平等ではないし、頭が良い人もいれば頭が良くない人もいる。坂口杏里のような頭が良くない女性は普通の仕事ができなくて水商売や風俗で働いたりするけれど、ホストにおだてられて大金を貢いだりする。それが合法だからといって頭が良い人が頭が悪い人から搾取することを正当化してよいのかというと、モラルとしてはよくないだろう。悪徳商法として規制されていないとはいえ、オンラインサロンや情報商材のような社会の役に立たない虚業で情報弱者から搾取する集金システムを放置しておくと、他人の損害を自分の利益にすることを躊躇しないサイコパスがのさばることになる。自称サイコパスの岡田斗司夫がオンラインサロンのやり方を西野に指南したように、オンラインサロンはサイコパスにうってつけの合法的な集金システムである。オンラインサロンは広く浅く人を集めて囲い込む仕組みで、囲い込んだ人のなかから少数の熱狂的信者相手に高額の権利をクラウドファンディングで売りつける二段構えにすることでやりがい搾取の錬金術が完成する。人間が複数集まれば人間関係の序列ができるもので、いったんピラミッドの下の段を作ってしまえば上に登りたがる人が出てきて信者同士でお布施を競うようになって、ピラミッドの上の段を作る権利を大金を払って買って喜んで労働するようになる。社会問題になるかどうかはオンラインサロンやクラウドファンディングに払う金額が対価として受け取る情報や物に見合うかどうか次第だろう。神社でご利益があると称する1万円のお札や熊手を売るのは慣習的に問題ないし買いたい人が買えばいいけれど、壺や墓石を数百万円で売りつけて買った人が生活に困窮するのは霊感商法として詐欺扱いされるように、金額が高くなると悪徳商法として社会問題になる。ソーシャルゲームのガチャは小遣いの範囲で遊ぶぶんには問題ないけれど、借金して大金をつぎ込んで破産する人がいるから社会問題になってレア排出率表記や課金上限額などが規制された。オンラインサロンも月額1000円程度でメルマガを読むだけなら本代とたいして変わらないし好きな人が加入すればいいけれど、オンラインサロンで信者を囲って〇〇する権利をクラウドファンディングで数十万で売りつけて生活に困る人が出るようになると悪徳商法扱いになるかもしれない。能力が低い人ほど自分の容姿や行動を実際よりも高く評価する認知バイアスをダニング・クルーガー効果というけれど、オンラインサロンに参加して何かやった気になっている人もこういう能力が低い人だろう。『映画 えんとつ町のプペル』のチケットを失業保険の24万円で80セット買った人なんかが典型的で、この人は大金を無駄にしてようやく自己評価が高すぎることに気づいたようである。果物の路上販売で独立できるとおだてられて市場で売れ残った痛んだ果物を売っている人とかも他人のスキームに搾取される無能な働き者である。頭が悪い人は騙されていることに気づかないかもしれないし、本人はやりがいを感じて満足しているかもしれない。そういう人を見かけた時に、それはおかしいからやめたほうがいいと忠告するのは余計なおせっかいなのだろうか。私は忠告するのが優しさだと思う。馬鹿じゃねーのと罵る人も言葉遣いは悪くても間違いに気づかせようとしてくれる優しい人である。しかし洗脳された人がしばしば忠告する家族や友人を敵視して人間関係が崩壊してますます教祖に依存するように、たいていの場合は忠告が素直に受け入れられることはない。偉大な教祖を持ち上げることと自己肯定がセットになっていて教祖の価値観が刷り込まれているがゆえに、教祖を否定することは自己否定になってアイデンティティが崩壊するので忠告を受け入れられないのである。信者は批判されるとしばしば教祖の金持ち度合いでマウンティングして正当化するけれど、中国に「人無横財不富、馬無野草不肥(野草を食べられない馬は太ることができず、不正に富を得られない人は金持ちになれない)」ということわざがあるように、金を持っているからといって立派な人というわけではない。金を稼ぐことを目的にするのではなく、社会に幸福や利便性をもたらすことを目的にしないと社会はよくならない。オンラインサロンに参加する人は社会を良くすることを目的にするのでなく、金持ちの有名人と交流して大きなプロジェクトに参加して顔を覚えてもらえる自分はすごい人だという自己肯定を目的にしていてそもそも目的が間違っている。・消費の時代から創造の時代になる20世紀は工業製品が大量生産されて大量消費されてきたけれど、ほとんどのものがコモディティー化して価値が低くなって、21世紀はもの作りよりもコンテンツ作りが創作の主流になると思う。20世紀の読者は毎週雑誌が発売されるのを行儀よく待っていたのだけれど、インターネットでオンデマンドでコンテンツを消費できるようになってからはコンテンツビジネスの消費速度が速くなった。例えば作者が漫画を1話作るのに複数のアシスタントを動員して1週間から1か月かかるのに対して、読者が1話を読むのは10分程で済むので、コンテンツの消費速度が速くて制作が追い付かなくなって、なろう小説が原作の似たような話が粗製乱造されている。今後AIがルーチンワークの仕事を奪うようになって暇な時間が増えると、ますます退屈しのぎのコンテンツの消費が増えて、コンテンツ不足を補うためにクリエイターが必要になる。レゴやマインクラフトのようなユーザーが自由に物を作って遊べるゲームが流行るのも、YouTuberになりたがる子供が多いのも、消費するだけよりも自分の発想で何かを創造するほうが脳の刺激になって楽しいからである。クリエイターになりたがる人が増えるにつれて、クリエイターを育成するビジネスが出てくる。以前は代々木アニメーション学院がそこを担っていたけれど、大学で映画学科やマンガ学科ができて、ネットでハウツー動画が紹介されて、創作の方法論やツールは誰でも手軽に入手できるものになった。オンラインサロンでインフルエンサーが制作のノウハウを教えるのもクリエイターになりたがる人を対象にした新しいビジネスである。オンラインサロンという仕組み自体が悪いわけではなくて、アカデミックな知識や確立された方法論を元にしてちゃんとノウハウを教えることができる人があまりいないことが問題になる。伝統や正解がない分野だとうさんくさい人がうさんくさい方法論で金儲けするようになって、オンラインサロンは会員限定コンテンツであるがゆえに外部から批判されないまま信者の洗脳が深刻になって詐欺が起きた時に被害が大きくなる。自分で作品を作れる人が他のクリエイターと対等な関係で交流したり共同でプロジェクトを始めたりするためにオンラインサロンに入るのはよいけれど、自分で作品を作れない人がオンラインサロンで有名人と会って雑用を手伝ってクリエイターになった気分になるのは欺瞞である。他人が作る作品にいっちょかみで参加して内輪のスタッフぶって自己肯定につなげるのではなく、自分の作品を作るために金と時間を使うべきである。成長のためには自分の未熟さに向き合うのも必要で、そこを金儲けのための甘言でごまかされて満足してしまうとだめになる。師弟関係なら師匠から弟子に対して細部まで厳しい指導があるけれど、オンラインサロンで同じ価値観の人同士で仲良しごっこするのでは切磋琢磨できないし、大人数のサロンなら丁寧な指導は受けられない。ホストやホステスが恋愛感情を煽って金儲けをしていても実際の恋愛にはつながらなくて金の切れ目が縁の切れ目になるように、金目当てのオンラインサロンでワナビーの自尊心を煽るやり方では才能の育成や作品の創作にはつながらないだろう。芸術家は思想や技術や発想や体験で何か唯一無二のユニークなものがあるからこそ価値があるわけで、エピゴーネンになってしまったら価値がなくなる。それゆえにサロン主催者を崇拝して追従して物事の良し悪しを自分で評価できない人はクリエイターには向いていない。フローベールが小説家とはその作品の背後に身を隠したいと思っている者だと言ったようにクリエイターにとって重要なのは作品だけれど、オンラインサロンを主催したり参加したりする意識高い系の人は作品よりも自分が目立ちたいという自己愛が強いのでよいクリエイターにはなれない。そういう人たちはクリエイターを目指さずに素直にファンとしてクリエイターを応援するか、あるいは小説や漫画とかの作品作りでなくてダンスや演劇とかのパフォーマンス系の創作で監督の指示のもとで自分が目立つやり方が向いていると思う。これからクリエイターを目指す人は有名なだけが取り柄のうさんくさいインフルエンサーに騙されないようにしてほしいものである。
2021.01.18
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最近はトランプ大統領のTwitterアカウントがBANされたり、Parlerという保守が使っているSNSがAmazonからサーバーを停止されたりGoogleとAppleのアプリストアから削除されたりして話題になっている。インターネット時代の言論の自由を考えるという記事で考えたように、GAFAによって言論の自由が脅かされかねない事態になっている。そもそもなぜGAFAは躍起になって陰謀論を削除しようとするのか、陰謀論について考えることにした。・陰謀論とは何か陰謀論とは〇〇が××なのは△△(権力を持つ人たち)の陰謀だという主張のパターンである。例えば「人間が猫を飼うのは猫好きな宇宙人の陰謀だ」というように何でも陰謀をでっち上げることができる。主張の証拠がないのは権力者に証拠を握りつぶされているからだと陰謀論者は証拠がないことを正当化して、いつまでも証拠が出てこないままで陰謀が正しいと証明される可能性は低いので、一般的に陰謀論は考慮するに値しない詭弁扱いされている。・なぜ陰謀論は流行るのか科学的知識は本能的に得られるものではないので、人間は真偽を判断する能力があまり高くない。その一方で生存に関わる不安や恐怖に対しては偏桃体が敏感に反応する。偏桃体は原始的な脳の部分なので、後から発達した前頭葉の理性が弱い人は刺激をそのままうけとって疑わずに信じてしまう。アンガーマネジメントで怒りを感じてから6秒待つといいと言われているように、偏桃体とかの大脳辺縁系の情報が前頭葉に伝わって感情を抑えて理性的に判断するまでに数秒の時間がかかる。これは詐欺犯が「オレオレ、会社の小切手を落としてしまったんで金くれ」とか、誘拐犯が「お母さんが事故にあったからおじさんが車で病院まで連れて行ってあげるよ」とか、占い師が「あんたこのままだと地獄にいくから高い墓を買って先祖を供養しなよ」とか言うようなもので、最初に不安を煽ると脳がパニックを起こして、冷静になるまでの時間を置かずに長文でワーッと不安を煽られると前頭葉の反応が間に合わなくて理性的に判断できなくなってしまう。陰謀論も刺激が強いので、「実はこの世界はあいつらに牛耳られているんだ」と真顔で言われると「な、なんだってー!」と信じてしまう人が出てくる。アメリカ人は科学的な思考方法をしない人が多いので、端的に言うと頭が悪い。2012年のNational Scince Foundationがアメリカ人2200人を調査したレポートによると、天動説と地動説の二択で地動説を答えたのが74パーセント、宇宙が爆発から始まったと答えたのが39%、人間は動物から進化したと答えたのが48%だそうで、宗教の影響もあるのだろうけれど未だに中世レベルの知識で止まっている人が少なからずいる。頭の悪い人はよくわからない正しい知識よりも、わかりやすい間違った知識を信用する。そしてしばしば陰謀論はいろいろな物事の辻褄が合うようにこじつけるので、ぱっと見はわかりやすい内容になる。そして確証バイアスで自説を支持する情報ばかりを集めてさらに陰謀論にはまりこむようになる。それゆえにトランプを支持する反知性主義の低学歴のアメリカ人労働者のような人たちが陰謀論を信じるようになるのだろう。・なぜ陰謀論は駄目なのかアトランティスやムーの古代文明がどうのこうのというオカルトや都市伝説のように、小人数が非実在的な存在を信じているだけなら放っておいても社会に害はない。しかし実在の人物や団体に関わる陰謀論を真に受ける人が多いと、抗議活動をする人が出てきたりして社会の害になりうる。アメリカ議会に侵入したトランプ支持者とかが有害な例である。特定の人種や宗教が陰謀論の対象になるとヘイトクライムの原因にもなりかねない。それに陰謀論が存在しないことを証明するのは悪魔の証明なので無理で、いったん社会で蔓延した陰謀論は取り消しにくい。それゆえにメディアは陰謀論を規制しようとする。特にユダヤ人は政治経済で影響力が大きくてそのぶんユダヤ人への批判も多いので、Googleとかのユダヤ系企業はユダヤ人を対象にした陰謀論を規制しようとする。・陰謀論は排除するべきなのか陰謀論が論として駄目だからといって、表現の自由を無視して排除してよいのかが問題になる。国家が憲法で表現の自由を保証しているのに、国家に所属するいち企業が規約を盾にして表現の自由を侵害してよいのか。本来は社会インフラとして税金で整備するべきITの表現の自由に関わる部分を民間企業が先にやってしまったので、民間企業のほうが国よりも影響力が強くなってしまって、GAFAが表現の自由を脅かす事態になっている。現役大統領のSNSアカウントがBANされて表現の自由の侵害を訴えるのは自由民主主義国家としては異常な事態である。アメリカでは水道の民営化でも問題が起きているけれど、インターネットを含めてインフラを民間企業にまかせてよいのか、営利目的の民間企業の倫理観は信用できるのかという点はアメリカ以外の国でもよく検討しないといけない。たとえ意見がおかしいとしても、人間には間違った意見を表現する自由があるので、出版であれSNSであれ主張する場を奪ってはいけない。アメリカだと連邦通信品位法230条でコンテンツを規制する権限を与えているそうだけれど、暴力を扇動するわけでもないトランプ支持のツイートまで削除するのは越権行為である。AmazonがParlerへのサーバー提供を終了したように、Amazonが本の内容を検閲して気に入らない本の販売を一方的に停止することだって今後起こりうるし、黒人とゴリラの区別がつかないAIのガバガバ基準で検閲したらウンベルト・エーコの小説のようなフィクションとしての陰謀論まで検閲や出版禁止などの言論弾圧の対象になりかねない。陰謀論者を強制的に排除しようとすると、やましいことがあるから排除するのだ、やはりディープステートは存在するのだ、とさらに陰謀論に傾倒してしまう。BANしたからといって陰謀論者が地上から消えるわけではないし、反陰謀論者と議論する機会もなくなってアングラサイトで先鋭化するようになる。元々Twitterは誤BANがあってBANの基準がおかしかったし、陰謀論者をテロリストかのように扱って一様にBANしたりツイートを削除したりしたのは対応がまずかった。名誉棄損とか威力業務妨害とかの法律に基づいて対応するべきだろう。陰謀論をなくすためにアメリカがやるべきことはアカウントのBANではなくて、科学的に正しい情報やデータに基づいて論理的に思考する方法の教育をやるべきである。しかしいくら最先端のITサービスがあったところで貧乏人がまともな教育を受けられなくて地動説や進化論さえ浸透していない有様では陰謀論をなくすことは無理だろう。アメリカは新自由主義で格差拡大を放置してきたのだから、貧乏人が陰謀論を支持するだのBLMで暴れるだのマスク非着用でコロナが蔓延するだのの様々な混乱が起きるのは自業自得である。最近はようやくトリクルダウンが起きないことが証明されて新自由主義の害が認知されて、結局はちゃんと教育を受けた中間層が厚い国のほうがよいのだと格差が見直されつつあるけれど、民間企業が大統領以上の影響力を持つほど増長してしまった後では修正は難しいだろう。最近はGoogleの親会社のAlphabetに労働組合ができて従業員が「Don't Be Evil」というGoogleの当初のモットーに戻るように訴えているけれど、すっかり拝金主義のEvilになって中国進出するようなGoogleを変えるのは難しそうである。バイデンが富裕層に増税して格差を是正しようとしても任期中の数年でアメリカの拝金主義の体質を変えることまではできないだろうし、バイデンの次の大統領選挙も荒れるだろうし、アメリカの混乱はしばらく続くと思う。
2021.01.11
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国民日報によると、柳美里が全米図書賞受賞について「東京で行われた全米図書賞受賞記念の日本記者クラブの記者会見で「(私の)全米図書賞受賞の紹介で“日本人で2度目”とか“日本文学で2度目”など、日本の作家という式形で報道されるけど、私は日本人ではない」と発言した。彼女は、「日本で生まれ育ち、日本語で読み書きをし、もちろん日本語で思考をしているが国籍は韓国、大韓民国」と言いながら、「だから日本人ではない」と強調した。」そうで、日本人扱いされて否定するのは当然だけれど、日本文学扱いされるのは別に否定することではないと私は思う。というわけで日本文学、アメリカ文学のように〇〇文学と区切る基準はどこなのか考えることにした。・文学をどこで区切るのか〇〇文学として区切る基準はどこなのかと考えると、小説の言語、作家の出身地、作家の国籍、作家のアイデンティティ、公用語が考えられる。小説の内容で区切るのはジャンル小説の区分には有効だけれど、外国を舞台にしただけの小説を普通は〇〇文学とは呼ばないので、たぶん内容は基準にならない。これらの基準について考えてみると、アメリカ、イギリス、フランスのように二重国籍を認めている国があるので、作家の国籍だけで〇〇文学とは区切れない。作家が〇〇国出身で〇〇人としてのアイデンティティを持っていても、小説を書いた言語が〇〇国の公用語でなくて大多数の〇〇国民が読めないならそれも〇〇文学とは言えないかもしれない。というわけで、私は小説が書かれた言語が〇〇文学と呼ぶ主な基準ではないかと思う。分類が揉めそうなのは、作家の出身地と国籍(nationality)と市民権(citizenship)と小説の言語が異なる場合である。いくつか例を見てみると、ミラン・クンデラはチェコからフランスに亡命してチェコ国籍をはく奪されて、チェコを舞台にした小説をフランス語で書いてフランスで出版して、後にチェコ国籍が回復したのでフランスの市民権とチェコ国籍を両方持っている。チェコの公用語はチェコ語で大多数のチェコ人はフランス語を読めないと思うので、フランス在住のチェコ人がチェコを舞台にした小説をフランス語で書いたのはチェコ文学というよりはフランス文学かもしれない。アイザック・バシェヴィス・シンガーはポーランド生まれでアメリカに移住して、イディッシュ語で小説を書いている。イディッシュ語とは高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えたドイツ語の方言のようなもので、東欧のユダヤ人の間で使われている言語である。シンガーはアメリカの市民権があるけれど、大多数の非ユダヤ教のアメリカ人はイディッシュ語を読めないので、アメリカ文学というよりはポーランド系アメリカ人によるイディッシュ文学やユダヤ文学と呼ぶほうが適しているように思う。ちなみにアメリカには国家規定の公用語がなくて、32州が英語を公用語にしているだけなそうなので、もしスペイン語話者が多いカリフォルニアでメキシコ系アメリカ人がスペイン語で小説を書いたとしたら、英語でなくてもアメリカ文学と言えるかもしれない。楊逸の『時が滲む朝』は中国を舞台にした小説が日本語で書かれていて、芥川賞を受賞した当時は中国籍だったけれど、日本語の小説なので中国文学でなく日本文学として評価された。シリン・ネザマフィは『白い紙』でイランを舞台にして日本語で小説を書いて文学界新人賞を受賞していて、国籍はたぶんイランだと思うけれど、日本語の小説なのでイラン文学でなくて日本文学といえる。これと同じ基準で考えると、韓国人の柳美里が日本語で書いた小説も日本文学として扱っても問題がないと思う。日本語が公用語として使われている国は日本だけなので、日本語で小説が書かれていれば日本文学と言えるし、在日外国人が日本語で小説を書いた場合だけでなくて、在外外国人が日本語で小説を書いた場合も日本文学と言えるだろう。例えばカズオ・イシグロは日本出身でイギリス国籍になって、長崎を舞台にした『遠い山なみの光』は英語で書かれているのでイギリス文学扱いされているけれど、もし同じ内容を日本語で書いたとしたら日系イギリス人による日本文学といえると思う。・文学を区切ることの必要性なぜ文学を区切る必要があるかというと、読者にとって母語で読めて興味に合う小説を見つけやすくなるのが一番の理由だろう。いくら柳美里が韓国籍で韓国人としてのアイデンティティがあるとしても、彼女の日本語の小説を韓国文学として分類して韓国の本屋や図書館に置いたところで一般の韓国人読者は日本語を理解できないので読まないだろうし、読まれない小説には存在意義がない。作者の国籍にかかわらず、日本語で書かれた小説を日本文学として分類すると日本の書店に置かれて日本語を理解できる日本人の読者に読んでもらえるようになる。文学を区切るのは出版社の売り上げにも関係している。日本の文学賞だと応募要項に「日本語で書かれた作品」という条件が入っている。出版社主催の文学賞は話題作りで売り上げを増やす狙いがあるので、いくら内容が良くても読者が理解できなくて売り上げが増えない外国語の小説に賞をあげる意味がない。それゆえに小説が書かれた言語を基準にして区切る必要がある。・外国人による日本文学をどう評価するのか楊逸が芥川賞を受賞した時に、中国人が中国を舞台にして日本語で書いた小説は日本文学と言えるのかという議論が起きたような気がするけれど、区分の問題よりもどう評価するかというほうが日本文学にとって重要だと思う。作者の経歴で話題作りしたい出版社は在日外国人の日本語の小説をプッシュするけれど、それが従来の純文学好きな読者の興味に合うわけではなくて、日本が舞台でないなら実質的に翻訳小説を読むようなものである。翻訳小説は一部の外国文学好きが読むだけで人気があるジャンルではないし、外国人による外国を舞台にした日本語の小説を日本文学という区分で売り出しても日本文学の人気にはつながらないだろう。私は翻訳小説が好きだけれど、翻訳小説にあまり人気がない理由もわかる。外国を舞台にした小説だと、その国に行ったことがない読者はリアリティを感じにくい。人名や地名とかの固有名詞を覚えにくいし、歴史的背景も知らないし、文化や宗教が違えば登場人物に共感しづらい。出版社の校閲担当者のように豊富な資料を基にしてじっくり読み込むなら正誤をチェックできるだろうけれど、事実と違う部分があっても普通の読者が一読してわかるものでもなくて、変な表現があっても外国特有の表現なのか異化なのか単なる間違いなのかよくわからない。脚注があれば便利だけれど、脚注を読むために話をいったん中断しないといけない。結局はよくわからないがゆえにあまり面白くないのである。日本政府は人手不足を解消するために移民の規制緩和をしているので今後在日外国人が増えるにつれて在日外国人による日本文学も増えるかもしれないけれど、そもそも外国人が母語以外の言語で小説を書く意義はどこにあるのか、それを日本人が読む意義はどこにあるのかということを考えないと、日本文学の発展につながらない。亡命者の文学は独裁国家の検閲を受けずに自由に作品を発表できるという点で意義があるし、デビット・ゾペティの『いちげんさん』のように外国人の目線で日本について書くことにも日本を相対化する意義があるし、米谷ふみこの『過越しの祭り』や須賀敦子のエッセイのように外国人と結婚した日本人の外国での暮らしについて日本人読者に向けて書くことにも外国を相対化する意義があるけれど、単に外国人が母国の外国について書いただけだとその国と無関係な読者が読む意義があまりない。出版社は左翼思想の人が多いので外国人びいきの傾向があるけれど、外国人が一生懸命母語でない日本語で小説を書いたからといって下駄を履かせずに、内容の良し悪しで評価しないといけない。テレビ番組の外国人タレントのようなイロモノとして扱うと失敗すると思う。
2021.01.06
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あけました。しかし私は新年になったからといって何がめでたいのかよくわからないので、あけましておめでとうございますとは言わない。というわけで新しさについて考えることにした。・人間はあまり変化していない自然淘汰で遺伝子的に病気に強い人が子孫を残す遺伝的な進化は現在も進行中のようだけれど、人間の脳の大きさは一万年前から変化していない。しかし言葉や文字という新しいコミュニケーション手段ができたり、宗教や哲学などの新しい思想が生まれたり、戦争で新しい国家ができたり、新しい道具が発明されたりして、社会は変化してきた。人間にとっては新しい思想や物で環境が変わることが生活に重大な変化をもたらしているといえるし、人間は環境適応能力が高いからこそ他の動物よりも繁栄して環境を作り変えながら高度な社会を作れたわけである。となると新しくて良い物の出現は人間にとって喜ばしいことなのでめでたいといえる。・新しいものはなかなかできない20世紀は急激に工業化が進んで、車、飛行機、電話、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、エアコン、ラジカセ、テレビゲーム、パソコン、インターネットとかが次々に発明されて、何か新しい物が発明されるたびに生活が劇的に変わった。電子楽器が発明されてヒップホップやテクノなどの新しい音楽もできたし、ペンタブレットの発明でイラストがデジタル化して質が向上したし、安価なデジタルカメラやビデオカメラが発売されて様々な映像が撮れるようになってデジタル加工ソフトもできた。その様々な技術革新が未来がもっといい社会になるという期待になっていた。しかし21世紀は新しい発明があまりなくなって、ムーアの法則に限界が来てパソコンの進化はゆるやかになって、iPhoneが新しいモデルになっても若干スペックが良くなる程度で機能が劇的に変わるわけでもないし、たいていの商品はコモディティ化して新製品だからといって新しい物でもなくなっている。ドローンや掃除機ロボットやスマートスピーカーは新しい発明といえるけれど、なくても困らない程度のものである。コンテンツビジネスは飽和してすでに語られたことを何度も語りなおしている段階に入っていて、どこかで見たような話だらけである。映画やアニメはデジタル化して技術的進歩があったけれど、内容は新しいわけではない。ゲームは3DCGの技術が進歩しても内容は人気作のナンバリングや旧作のリメイクが多い。YouTubeはバラエティ番組でやっていたドッキリや食レポや街頭インタビューやクイズを素人がやるようになって、メディアは新しくなっても内容が新しいわけではない。・人間は同じ刺激には飽きる人間は新しい刺激に敏感に反応するのに対して、同じ刺激を受け続けると反応が鈍くなる。田舎を旅行すると水や空気や景色が綺麗で野生動物がいるのに感動するけれど、しばらくすると慣れてしまっていちいち驚かなくなるように、人間は環境適応能力が高い分、刺激に慣れて飽きるのも早い。これはコンテンツビジネスにはやっかいな問題で、テレビ番組はネタ切れして飽きられて、テレビの真似をしているYouTuberも飽きられつつあって、プロゲーマーは毎日同じゲームをやってとっくに飽きているのに仕事として仕方なくゲームをやっていたりする。人づきあいも一種の刺激なので、人間に飽きることもある。2000年代に匿名掲示板やSNSが流行ったのは毎日新しい話題が投稿されて毎回違うユーザーが違う意見を投稿して飽きにくいからだろうけれど、結局は短文のやりとりでしかなくて似たような人が似たような意見ばかり言って飽きられてしまった。人間の思想はいったんできあがるとなかなか変わらないので、同じことを言うのはしょうがない。私のブログも同じことばかり言っているので飽きて見なくなった人もいるだろうし、それでよい。世の中にはいろいろな人がいるし、SNSも一期一会である。・現代人は人生に飽きてしまった現代人は電化製品がなかった頃よりも衣食住が足りて苦労せずに生きられるようになった半面で、必要に迫られて自分で創意工夫して発明することもなくなって他人が作ったものを消費するだけの存在になって、生きるのに飽きた段階に入ったのかもしれない。厚生労働省の自殺対策に関する参考統計資料を見ると、30歳以下の青少年の自殺は毎年3000人程度いて、1990年代からあまり変わらない。パソコンやスマホができて便利になったり、新しいゲームや漫画が出たからといってそれが人生の希望になるわけではない。生きるのに疲れて自殺する人がいる一方で、やりたいことがなくて生きるのに飽きて自殺する人もいる。庶民が地道に仕事を頑張っても中流止まりで、VUCA時代にはいつでも下流におちる可能性がある。学問も専門的になりすぎてごく一部の天才以外は新しい真理の発見ができないし、一生懸命勉強して博士になっても逆に仕事がなくて生活に困窮する有様である。いくら頑張っても現状よりも劇的によくなるような未来の展望が見えないことが閉塞感になるし、子供がいれば老後が安泰になるという幻想もなくなって、若者は結婚しなくなって、子供は自殺するようになった。若い世代の死因トップが自殺なのはG7で日本だけだけれど、たぶん自分の努力で新しい未来を切り開ける展望がないので若いうちにあきらめてしまうのだろう。20世紀の終わりにオウム真理教やライフスペースや法の華の新興宗教ブームが起きたのは閉塞感から逃れて救いを見つけようとした悪あがきのようなものだろう。しかし新興宗教という新しいものがよいものでなかったことは周知のとおりである。・うわべの新しさよりも洗練が大事になる新しいものがなくて未来の展望がなくて変わらない現状に飽きた人間がこれから目指す方向性はどこなのかというと、うわべの新しさよりも洗練を目指すべきだろう。他人と競争して有限の物や金や利権を奪い合うのをやめて、競争して技術や思想を洗練させる方向に向かえばその進歩の恩恵を受けられる人が多くなる。1人が趣味に耽るのは酔狂だけれど、皆が趣味に耽るようになればそれは文化になる。古代ギリシアで演劇が発展したり、戦国時代に茶道が発展したり、中世ヨーロッパで音楽や絵画が発展したりしたように、ある程度社会が成熟すると余暇が趣味に費やされて洗練されて文化になる。新しい物がない代わりに、洗練されたもので人生を豊かにすることで人生に飽きにくくなる。暇になった貴族が芸事を嗜んだり宗教家が修身したりして知性や理性を洗練させてきたように、庶民も食欲や性欲といった本能的な欲だけを満たすことをやめて生活を洗練させるようにすれば、つまらない日常の繰り返しから抜け出せる。何かの趣味を始めれば、達人レベルに技術を洗練させたりマニアレベルに知識を充実させたりするのに数年はかかるので、その間は退屈しない。何かの趣味に1年間に1万円出す人が10万人いれば10億円の市場になるので、プロとして生計を立てられる人が何人か出てきて競争原理で質が上がるようになる。質が上がってその分野に興味がない素人にもよさがわかるようになったら、観光や輸出で外貨を獲得できる産業になって国益にもなってよいことだらけである。例えば新日本プロレスワールドの会員数は約10万人で月額999円で、その売り上げの中からイケメンやヒールなどの多様なプロレスラーの給料が払えて、昔のぴちぴちタイツだらけのプロレスと違ってコスチュームも技もパフォーマンスも洗練されて、日本のプロレスは外国人にも人気があるコンテンツになった。機械や家電は機能は従来と同じでも省エネで壊れにくい方向に洗練させればよい。安くて粗悪で壊れやすいものを何度も買い替えるよりも、頑丈で良いものを長く使うほうがゴミが出なくてエコだし、商品が洗練されれば社会が洗練される。商品が壊れにくくなれば買い替えが起きにくくなるけれど、それはメーカーが物をただ売るのでなくてIoTとかで付加価値をつけて携帯電話やウォーターサーバーみたいな月額サービスやリースに業態転換すれば売上を確保できるだろう。食べ物はジャンクフードをたくさん食べるのをやめて、料理を洗練させて少量のものでも美味しくて栄養があって満足できるようにすればよい。最初から食べすぎや飲みすぎを避ければ後で糖質制限だのの極端なダイエットをする必要もなくなるし生活習慣病になるリスクも減る。「カンブリア宮殿」で湖池屋はカルビーに対抗しようとして変わった味の新作ポテチを作って失敗して、方針を見直したことでポテチ本来のおいしさを追及した湖池屋プライドポテトが成功したと特集していたように、本当はうわべの新しさでなくて既存の商品の洗練が必要だったのである。コンテンツビジネスは粗製乱造をやめて、似たような作品を何作も出さずにその分の製作費を1作に集約して時間と労力をかけて質を上げるほうがよい。ゲーム業界はそのやり方で巨額の制作費をかけて世界中で売れるゲームを作って成功している。粗製乱造だと飽きられるのが早くなって長期的なクリエイターやサポーターの育成にもつながらないし、ケータイ小説はそのパターンで数年で飽きられて趣味として定着しなかった。コンテンツビジネスは消費者がクリエイターにもなれて、ものを作る面白さを直接体験できて現代人の暇つぶしにちょうどよいビジネスなので、趣味として定着するように技術を洗練させるほうがよい。
2021.01.01
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