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イーユン・リーは北京生まれで渡米して作家になった人で、この本はいろいろな文学賞を受賞した純文学風のデビュー短編集である。●各短編のあらすじと感想「あまりもの」は51歳の林ばあさんが工場を退職したのでアルツハイマーの高齢男性と結婚して世話をしたり、私立学校の家政婦をして母親が迎えに来るのを待っている康くんの世話をしたりする話。三人称。林ばあさんが妻と母と祖母を疑似体験しただけで報われない人生の哀愁を書くのが狙いなのかもしれないけれど、いつの時代の中国のどの場所が舞台なのかはっきりしないし、50年も生きてろくに恋をしていないのは不自然だし、前半の結婚の話と後半の学校の話であまりつながりがないので、短編として書くならどちらか一方のエピソードに絞るほうがよい。あるいは中編や長編として林ばあさんの半生を掘り下げてもっと丁寧に書くほうが面白いかもしれない。可哀そうな善人の話は短編でよくあるパターンで、それが悪いわけではないけれどあざとさが出るので、もうちょい林ばあさんの個性を出してほしい感じ。「黄昏」は知的障害で脳性麻痺の娘を持つ蘇夫妻が方夫妻の不倫トラブルに巻き込まれる話。三人称。蘇夫妻と方夫妻の切り捨てられない愛を比較する構図なのかもしれないけれど、そもそも比較する必要があまりなくて、蘇氏と方氏の投資の話は脱線気味だし、蘇夫妻のエピソードだけにして蘇氏か蘇夫人に焦点人物を絞ってオーソドックスに心理を掘り下げるほうがよいと思う。これも可哀そうな障害者をネタにするあざとさがある。「不滅」は文化大革命時代に独裁者と似た顔の男が独裁者の映画の俳優に抜擢されて人気になるものの、売春宿に行ったのがばれてクビになる話。「わたしたち」が一人称複数形で語る形式で、誰が誰に対してなぜ語るのかわからないのはよくない。語り手のリアリティがないと語られた内容にもリアリティがなくなるので、単に語り手を一人称複数形にしてみただけだと悪手。それに「わたしたち」が知りようがない男の私生活まで神の視点で語っていてるので、視点が混在して矛盾している。一人称複数形を語り手にするなら例えば公安に捕まらないように連判状みたいに村の有志が匿名で独裁者の批判を書いたとか、何かしら一人称複数形にする必然性がほしいところ。名前も性格も違う人たちをひとくくりにするのは人間のとらえ方が雑で、作者が反共産主義の思想ならなおさらこういう人間の個性を無視するような書き方はするべきでない。「ネブラスカの姫君」は天安門事件が起きた時代にゲイの医者の伯深が20歳年下の京劇の女役の陽が好きだったものの、政府に拘禁されたので偽装結婚してアメリカに逃げて、陽の子供を妊娠した内モンゴル出身の薩沙と陽を出国させようとする話。三人称。アメリカに伯深と薩沙がいる現在の状況から過去の陽のいきさつを掘り下げていく展開で、時系列順に書かれていないうえに伯深と薩沙の視点が変わるので、誰の何の話を展開したいのか焦点が分かりづらい。国をまたいだゲイがらみの三角関係で情報が渋滞していて、短編なのだから構成をわかりやすく整理してほしい。「市場の約束」は天安門事件に抗議したせいでアメリカに行けなくなった旻を救うために三三が婚約者の土と偽装結婚させてアメリカに行かせたら、土がすぐに離婚して戻ってくるはずだったのに約束を破ってそのままアメリカで暮らして、10年後に離婚して三三よりを戻したがっていると知らされる話。三人称で、現在、過去のいきさつ、現在の続きという構成。旻も土も過去の人物として出てくるだけで現在の場面には登場しないのでそこから話が広がらないし、土との婚約の場面を書かないので土の裏切りの印象が残らない。オチでいきなり強烈なモブ男が出てきて見せ場を奪うのは反則気味で、モブ男が麻薬を売っている店と関連しているとかの前振りをしてそこに出てくる必然性を作らないと、オチのためにモブ男をとってつけたようなご都合主義的な感じになる。「息子」はアメリカに帰化したばかりのゲイの独身のハンの母親が熱心なキリスト教徒になってしまったので中国に戻って説得しようとする話。三人称。息子と母親の関係に焦点を絞っているので構成がわかりやすくてよい。宗教にはまった母親がやっかいなのはたぶんどの国でもどの宗教でも似たようなものだろうし、かといって完全に母親を拒絶することもできないという普遍的なうざさが書けているのはよい。「縁組」は13歳の若蘭は病気の母親にうんざりしていて、母親に惚れていた炳おじさんから母親が石女で若蘭とは血のつながりがないと教えられる話。三人称。オチがないような中途半端な終わり方。で?っていう。「死を正しく語るには」はわたしが子供の頃に夏に一週間厖家に預けられたときの四合院(中庭がある中国の建物)に住む厖家や宋家や杜家の思い出を語る話。「わたし」の一人称。わたしが自分について語らないので、わたしが誰なのか、なぜ厖家に預けられているのか不明で人間関係がよくわからないし、エピソードが漫然としていて誰の何の話をしたいのかはっきりしないのはよくない。わたしが登場人物として行動せずに傍観者に過ぎないのもよくない。四合院や胡同や工作単位といった中国特有の用語についても説明不足で、場面や状況がよくわからない。作者の子供の頃のエッセイとして中国人読者を対象にするのならこういうのでもいいけれど、中国の事情を知らない外国人読者にはノスタルジーは伝わらないだろうし、筋がない思い出話は小説としてはつまらない。あと原文がどうなっているのか知らないけれど、翻訳者が工作単位を勤務先や職場として翻訳しないのは何か理由があるのだろうか。工作単位が職場の事だとわかる日本人はあまりいないだろうし、中国っぽい雰囲気を出すためだとしても意味が伝わらないのではだめだろう。「柿たち」は17人を殺害して処刑された老大について農民たちが噂する話。「わたしら」の一人称複数形。復讐を果たした老大に比べて、老大と一緒に役所に抗議に行ったのに警官隊を前にして逃げ帰った農民たちはふぬけ柿たちなのだという権力に屈する農民への批判がテーマなのだろうけれど、わざわざ一人称複数形にして出来事を婉曲に語るよりはオーソドックスに直接老大の視点で役人の理不尽な仕打ちと復讐を書くほうが迫力が出て面白いと思う。「千年の祈り」はロケット工学者の石氏がアメリカ在住で離婚した娘のところに行って離婚の理由を聞こうとしてうざがられたので、公園でイラン人のマダムと友達になって、過去に不倫を疑われたことについて打ち明ける話。三人称。登場人物が会話するだけで何か行動するわけではないので、表題作の割には見どころがない。異性と会話できなかった時代の中国の体制批判と自由があるアメリカ礼賛の内容で、外国人同士が外国語で交流する親愛の情を書いた点ではよいけれど、物語としてはあまり面白くない。●全体の感想イーユン・リーは有望な若手アメリカ作家としていくつも賞を受賞しているので期待していたのだけれど、新人だったころの作品ということもあって技術的な欠点がめだってそれほど面白くなくて期待外れだった。謎や嘘といった創作手法を使ってプロットを展開して、何かの構図に当てはめて短編を書こうとする試みはよいのだけれど、狙いを詰め切れていない感じ。短編集なのに結婚やゲイや文化大革命や天安門事件がらみの話にネタが偏っていてバリエーションが乏しいのは物足りない。オチに取ってつけたように流血沙汰や死を持ってきて性急に読者の感情を揺さぶろうとする手法もよくない。どんな料理にも仕上げにケチャップをかけるようなもので、おいしくはなるだろうけれど味付けがそればかりだとプロとしては駄目である。「あまりもの」や「黄昏」で可哀そうな人を同情的に書くのは素人騙しのやり方で、可哀そうだねという既存の価値観への共感を誘うだけで話が終わっていて作家独自の人生観があるわけでもないのでつまらない。技術的な面では外面描写がないのがよくない。外国が舞台なうえに外面描写がないので人物が抽象的で、どんな人がどんな場所に住んでどんな暮らしをしているのか情景が想像しにくくて、修羅場を書いても抽象的なので臨場感がなくなる。ゲイにしてもガチムチなのかオネエなのかわからないし、名前を書いただけで人物を書いたかのような雑な書き方はよくない。短編だから外面描写を省いたのかもしれないけれど、それは小説本来の面白さを省くことでもある。あとこの作家は一人称が下手で説明不足や描写不足が三人称よりも顕著になっていて、外国が舞台の翻訳小説なので余計にわかりにくい。構成面では「ネブラスカの姫君」や「市場の約束」や「千年の祈り」は女性作家にありがちな回想を中心にした構成で、過去の出来事の回想に終始して現在の登場人物がどう行動して何が起きるのかを書かないのはよくない。「千年の祈り」は石氏がマダムに嘘を打ち明けることにしたのに、結局過去語りになってしまってそれで娘やマダムとの関係が変わるわけでもなくて登場人物の行動が未来につながっていなくて、登場人物たちがどう生きたいのか何をしたいのかよくわからない。テーマとしては共産党や共産主義を批判することはよい。アメリカに行った中国人が共産党を批判するのがこの小説の見どころで、共産党批判と対になっている露骨なアメリカ礼賛の部分もアメリカ人読者にはうけるのかもしれないけれど、アメリカを理想視するだけで終わるのでなくてアジア系アメリカ人の生活の現実について書かないと掘り下げ不足である。コロナでアジア系アメリカ人への差別やヘイトクライムが起きているように、アメリカは中国共産党よりはましだろうけれど理想郷ではないし、言論の自由がある国はアメリカ以外にもあるのに、なんでこの小説に出てくる中国人は皆アメリカに行くのかよくわからない。それに中国が舞台の話にしても文化大革命や天安門事件をノンフィクションみたいに綿密に取材しているわけでもなさそうだし、この作者でないと書けないような独自性がある話ではないので、この人の他の小説を読みたいと思うほどの面白さはない。あと帯に「ジュンパ・ラヒリの『停電の夜』さながら、完璧な短篇をつぎからつぎへと読むことができる類まれな作品集。」とワシントン・ポストの評価が書いてあるけれど、新人に対して欠点を指摘せずに完璧扱いするのはもう伸びしろがないと言っているようなもんで評価が雑である。完璧とか傑作とかを安易に宣伝文句に使う作品は私にとってはたいてい外れである。この短編集の中では「息子」はゲイが子供を持たないことについて掘り下げているので、登場人物がどう生きたいのかを考えている点では他の短編よりよくできている。しかし当たりが1/10だと短編集としては微妙で、短編だからいろいろ試してはずれがあるのはしょうがないけれど、3割くらい当たりを入れてくれないと他人にお勧めするほどのものでもない。★★★☆☆千年の祈り (新潮クレスト・ブックス) [ イーユン・リー ]
2021.03.30
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登場人物を書き分ける方法の動画をアップロードしました。イギリス文学は登場人物の性格がよく出ていて、例えば『高慢と偏見』は性格の違いを恋愛の面白さにつなげていて、1813年の古い小説にもかかわらず現代でも楽しめる面白さを保っています。たぶん対面で人づきあいして一緒に労働して休憩中にお茶を飲んで世間話していた近代のほうが一人でパソコンで作業して電話やメールで用件を済ませる現代よりも人間観察する時間が長くて、そのぶん小説の人物像に精彩が出るのだろうと思います。現代の作家は観察が足りない分を想像で補おうとするせいかステレオタイプな人物像が多くて、人間の面白さの掘り下げが乏しい気がします。小説を書くための技術的な要点は一通り解説してそろそろネタが切れてきたうえに仕事も忙しいので、小説の書き方講座の動画のアップロード頻度が落ちるかもしれません。
2021.03.23
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最近はコロナ禍で先行き不透明になって、大学生の就職率も悪化して、子供の自殺も増えている。不確定なことをどうとらえて、どう対処すればよいのか考えることにした。・人類はリスクをとりたがるエチオピアで発見された最古のホモ・サピエンスの化石は19万5000年前のものだそうで、農耕と定住生活を始めたのは1万年前の紀元前8500年ごろなので、人類は数十万年も狩猟採集生活をしていたことになる。簡易な拠点を作ってそこに安住せずにリスクを冒して知らない場所に移動して狩りをする事を繰り返してきたので、人類の脳はそれに最適化するように長時間かけて進化した。リスクを冒してあちこち探索して予期していない獲物を狩ったり偶然木の実を拾ったりするときに、報酬系からドーパミンが出て満足感を得られるような脳の仕組みになっている。生殖が快楽であるのと同様に、狩猟採集も快楽として生きるための本能に残っている。しかし人類の脳の大きさや機能は1万年前から変わってないにもかかわらず、現代人はもはや狩猟採集生活をしていないので、今度はその機能が様々な問題を起こすようになった。釣り人がスーパーで魚を買わずに立ち入り禁止の危険な堤防に行って大きな魚を狙いたがったり、素人投資家が分散投資をせずに全財産でFXに投機したりして、起業家のように社会の役にたつリスクの取り方をせずにたいてい個人的な快楽の追及をして不必要なリスクをとって失敗している。VUCA時代の現代人が不確定な未来についてわくわくするどころか自殺が多くて閉塞感が漂っているのは、日本だとリスクをとることに対する報酬が少なくて不安だけが増して達成感がないのが原因かもしれない。日本は天変地異が多くて不安を感じやすい人が生き残ったせいか、外国人よりも不安遺伝子を持っている人が多いので不安が増すのだろう。ということは不安がなくなるくらいに報酬を増やせばリスクをとっていろいろなことをやる人が増えて日本の経済や文化は活気づくかもしれないのだけれど、財務省が緊縮財政をしているうちは無理そうである。・不確定要素のビジネス化不景気の中でも好調な業界では不確定要素をうまくビジネスに取り入れて、客が満足感を得られるようにしている。人間がリスクをとって満足感を得ようとするのを娯楽として利用しているのがギャンブルである。ギャンブルとは偶然性があることに二人以上の人がお金を賭けて勝負することで、運営する胴元がいる。お金を賭けなくても娯楽として成立するけれど、お金を賭けてリスクと報酬を高くするほうが興奮出来て成功した時の満足感が強くなる。ポーカーや麻雀は配られるカードや牌の運の要素が大きいので初心者でも何度かやれば勝てることがあって、その満足感を何度も得られるように繰り返して遊べるようになっていて、胴元はその寺銭をもらうので遊ぶ回数が多くなるほど儲かる。ギャンブルなんかやらないという堅い人も無意識のうちに不確定要素を娯楽として楽しんでいる。おみくじは300円くらいで安価に楽しめる娯楽で、初詣したついでにいいくじが引けるかどうかの運試しを楽しむわけで、1000円で確実に大吉を引けるおみくじを作っても面白くないから誰もやらないだろう。その一方で実用品の福袋は運だめしとしては高いし、在庫処分のはずれを入れ過ぎて満足感を得られなくなった人たちが買わなくなったので、福袋の中身が見えるようになって不確定要素がなくなった。商店街の福引も消費を盛り上げるイベントとして定番になっている。ゲームは定額で作品やアイテムを売らずに基本プレイ無料のガチャ形式にしたことで売り上げを増やしている。ゲームのガチャを回したり、トレーディングカードのパックを開封したりする動画がYouTubeで人気になっているように、人間はミラーニューロンがあるので他人の行為も自分の行為のように感じて、自分が金を賭けていなくても楽しめるわけである。飲食店だとくら寿司の皿を入れるとガチャの抽選ができる「びっくらポン!」は食事に不確定要素を入れてエンタメ化している。居酒屋はサイコロを振ってドリンクの量と金額が変わるチンチロリンハイボールを取り入れている。ハート形のピノとか、当たりつきのアイスとか、何のシールが入っているかわからないビックリマンチョコとか、ランダムで当たりがある食べ物も人気になりやすい。e-sportsの中でも不確定要素がある「FORTNITE」や「PUBG」や「APEX LEGENDS」のようなバトルロイヤル系のシューティングゲームは人気なのに対して、実力勝負の格闘ゲームはあまり人気がない。バトルロイヤルだと初心者でも運が良ければ上級者に勝てる可能性があるのに対して、格闘ゲームだと初心者は上級者に勝てずにボコボコにされるので上達する前に嫌になってやめてしまうのである。バトルロイヤル系やサバイバル系のゲームは疑似的に狩猟採集を体験している点で人間の脳の仕組みに合うので、人気が出るのも当然といえる。つまりは客の予算の許容範囲内で買い物やサービスに何度も試行できる不確定要素を入れれば、普通に物やサービスを売るよりも客が満足感を感じて、同じ満足感を得るためにリピーターになるわけである。・小説はどうするのかコンテンツビジネスで一番儲かっているのはゲームで、マルチエンディングやマッチングやレベルアップのステータス成長値やガチャやアイテムドロップで不確定要素を入れやすいのが人気の理由だろう。その一方で小説はひとつの完成したものを提示するので、最初に金を払ったらそれ以外に課金要素がなくて作者にとっては儲からないし、1回読んだら繰り返して読む意味がなくて読者にとってコスパが悪いので、何度も試行できる他の娯楽ほどの楽しみがない。ゲームで読む小説としてサウンドノベルがあって、選択肢がある分何度も楽しめたので1990年代に人気になったけれど、2000年代には下火になった。サウンドノベルはミステリが多かったけれど、推理的な面白さはストーリー性がなくて手軽に遊べる脱出ゲームや人狼ゲームに取って代わってしまった。ゲーム会社はソーシャルゲームを開発するほうが儲かるので、シナリオ作りに時間がかかる割に地味で話題性がなくて課金要素がないサウンドノベルを開発する理由がなくなったのだろう。美術ならジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングのように制作手法に不確定要素を取り入れて再現不可能な唯一無二の作品を作れるけれど、抽象画と違って小説だとその手法は使えない。ランダムで辞書のページを開いて言葉をつなげても、文章として意味を持たないと面白くない。シュールリアリズムの自動筆記は書く側は面白いだろうけれど読む側が面白くない。というわけで小説の制作には儲かる不確定要素を入れる余地がなさそうである。結局のところ、小手先の工夫をするよりも完成度を高めてよい作品を作るべきなのだろう。下手で完成度が低い小説は漫画の原作やゲームのシナリオとして他のメディアに吸収されるだろうし、小説でなければ表現し得ないものを表現するには技術がいるので、創作技術を磨いて思想を深めて従来の小説としての価値を追求していけばよい。じゃあ小説は今以上にビジネスの範囲を広げられないのかというと、作品自体は変わらなくても小説を売る仕組みや読む環境をビジネスにできるかもしれない。販売で不確定要素を入れたケースだと、盛岡のさわやか書店フェザン店で『文庫X』として本のタイトルを隠して売る試みが話題になったけれど、小説だと好みに合わない可能性が高いので販売方法としては定着しなかった。他に何かできないか考えてみると、キャンプして他の人と本を交換してテントで読書を楽しむアウトドア読書とか、読み終わった本を二冊預けると蔵書をランダムで一冊もらえる本シェアサービスとか、恋人同士で本を送るなんちゃらデーをでっちあげるとか、本屋で本を買った人に図書券が当たるくじ型のしおりをつけるとか、本屋のカウンターに千円で1回回せるスロットを設置して当たりが出ると図書券がもらえるとか、文学賞の選考でオッズを表示して賭けにするとか、不確定要素が面白さや利益や達成感につながるような工夫をしたら小説離れを防げるかもしれない。・人生に不確定要素を入れて楽しむ現代はたいていの作業は効率優先でルーチンワーク化していて、何をやるかとどういう結果になるかが確定しているのでつまらない。かといって借金して起業して破産するリスクをとれるものでもないし、ギャンブルにのめり込むのも生産的でない。そんなときにはあまりお金をかけなくても生活に不確定要素を取り入れることで楽しくなる。例えば買い物に行くときに普段と違う時間帯にスーパーに行って買ったことがない商品を買うとか、行ったことがない裏道を通るとか、食べログの評判を見ずに飲食店を選ぶとか、本のあらすじを見ずにタイトルだけ見て買うとかして、ちょっとしたリスクをとって未知のことをやるとセレンディピティがある。そうして少しずつ新しい発見を積み重ねていくことで生活が前よりもちょっと楽しくなっていく。何かしら不確定なことを人生に取り入れて、偶然良いことが起きる可能性に期待したいものである。
2021.03.20
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こないだ月光氏の炎上について考えたのだけれど、インターネットには掲示板やSNSやQ&Aなどで日々膨大な意見が投稿されているても、それが建設的な議論になるわけでもなくて問題解決のために役に立っていないことがしばしばある。村上春樹はSNSをやらない理由として文章が上等じゃないと言っていた。SNSをやる人たちがなぜだめなのか気づけばもっと社会がよくなると思うので、これについて考えてみる。●問題解決のための思考のプロセス議論をするには定義などの前提条件を共有していないといけない。現状認識ができていないまま議論しても焦点が定まらないので、まずは定義や統計などの論拠になる情報を集める必要がある。例えばニートに就労を促すにはどうするべきかと考える時には、ニートとは何なのかを定義して、ニートが何人いるのかという統計を取ると、それを前提にして議論を進められるようになる。それから問題を解決するために原因を分析して、具体的な対策を考える。ニートになる原因が不景気で就職先や進学する金がない場合と親が金持ちで働く必要がない場合では対策も違ってくる。具体的な対策が出た後は行動に移して対策の効果を検証して、効果がなければまた現状認識や原因分析をやり直して他の対策を考える。現状認識、原因の分析、対策のどこかの段階で考えるのをやめてしまうと、問題解決ができなくなる。問題を解決するのが目的でなくて自分の意見を主張するのが目的になってしまっている人がいるのがインターネットの問題で、こういう人たちは問題解決のための議論を妨害する。●議論の役に立たない意見のパターン・誹謗中傷日本人はマスコミに扇動されやすいようで、事件が起きると一斉に犯人を叩いて感情を発散して、満足したら数日で忘れてしまって、どうすれば被害を防げたのか、再発防止のためにどうすればいいのか考えようとしない。東名高速道のあおり運転事故で犯人と苗字が同じだけの会社経営者が誹謗中傷されたけれど、こういう中傷をする人は現状認識をしないまま感情任せで行動していて、事実はどうでもよくて正義を振りかざしてストレス解消したいのだろう。過度にコロナを危険視して営業している店に嫌がらせをする自粛警察とかも同類である。現状認識ができていない人が行動をしたところで役に立たないどころか別の害を起こしている。原始的な脳の偏桃体の感情だけで物事を判断して、前頭前皮質の理性を使っていない民度が低いタイプである。・精神論自己責任、努力不足、甘え、などはネットによくある言説だけれど、現状の分析も具体的な対策を何も提示できていない。日本人は昔からこの精神論に毒されていて科学的に物事を考えることができないようで、竹やりで爆撃機と戦うために訓練したり、兵糧なしでインパール作戦を遂行するために努力を強いてきたけれど、科学的に考えればどんなに努力したところで物理的に無理なものは無理である。思考停止した努力厨にはそれがわからないのである。この非合理的な精神論は現代でも改善されていない。ネット右翼の「就職氷河期世代でも優秀な人は就職したのだから非正規雇用の人は努力不足だ」という論法なんかが典型的で、努力不足なのは本人の問題なのだから政治的に救済する必要はないと現状を容認して、精神論で個人攻撃をして政権擁護をして社会問題に向き合おうとしない。マクロな統計を理解せずにミクロな個人に原因を求める点で現状認識ができていないので、社会問題などの議論にならない。努力の定義も人によって違っていて、定義が共有できないので議論にならない。Yahoo!知恵袋には質問への回答になっていない精神論を振りかざす人がいるけれど、こういう人は問題を解決して他人を助けようという気が初めからなくてマウンティングでストレス解消するために自分より弱い相手を探しているのだろう。・条件反射即レスパブロフの犬みたいに条件反射的に言葉を連想するだけで、物事を考えることに頭を使っていない人がいる。例えば5ちゃんねるで山形県のスレがあるとスレの主題に関係なく「マット」とレスする人なんかが典型的で、マット事件が起きた新庄市とは関係のない山形県内の他の市についての話題でもたいてい山形という言葉に反応して「マット」とレスする人がいる。こういう人は認知能力に問題があって全体集合や部分集合、必要条件や十分条件といった概念を理解できないようで、定義を共有できなくて見当違いのことを言うので建設的な議論にならない。頭が悪くて議論に加わる資格がないタイプである。・自分語り中高年「俺の若い頃は~」という自分語りの自慢や上から目線のアドバイスをする人は中高年に多いけれど、昭和と現代では状況が全く違うし、議論の前提条件を共有しないのでは議論にならない。こういう人は知識のアップデートをしていなくて現状を認識する能力が欠けているので、アドバイスも的外れになる。例えばiPhoneのトラブルシューティングをしたいときに「俺が若い頃はPDAのWindows CEで~」と寂しがりのおじさんが話し相手が欲しくてしゃしゃり出てくるようなもので、現在起きている問題を解決するためには役に立たない。・かまってちゃんの釣り孤独で暇な人が誰かのレスがほしくて「東大卒で年収千万だけど~」と嘘をついたり、ネカマをして男性をおちょくって反応を楽しんだり、過激なことを言って相手が怒るのを楽しんだりする。意見が批判されると釣り宣言してすぐに逃げるので、議論が深まらない。インターネットは匿名だからこそ嘘をつきやすくて、こういう愉快犯的な荒らしが出没して議論の邪魔をする。・壊れたレコード誰かがこう言っていた、とネットで聞きかじった他人の意見をひたすら繰り返すだけの人がいて、陰謀論者がこのタイプである。自分で考えた意見ではないので反論に対して意見を返すことができないし、一方的に主張するだけで相手の意見を聞かないので、こういう人とは議論にならない。矛盾を指摘されたりして論理的に反論できなくなると、かんしゃくを起こしてコピペやスパムを連投して掲示板を荒らすネットの厄介者である。・極論実行不可能な極論はフィクションのアイデアならまだしも現実では役に立たない。例えばひきこもりを就職させる方法として強制労働させればいいという人が5ちゃんねるにしばしばいるけれど、人権侵害なので独裁政権でもない限り実行不可能で、結局問題は解決しなくて時間の無駄なので極論は考慮するに値しない。現状認識ができていない人がよく考えないまま意見を言うと極論になりがちである。・怠慢なラガード問題解決のための対策が提案されても、従来の慣れたやり方を変えるのを嫌ってやらない理由を探す人がいる。企業の採用担当の履歴書手書き教徒なんかが典型的で、手書きで性格がわかるだの履歴書を印刷するのは心がこもっていないだのと主観的で非合理的な難癖をつけてWordやPDFで作った履歴書の選考を拒んでいる。2000年代は手書きの紙台帳と電子記録の紐づけのミスで年金が支払われない問題があったように癖がある手書き文書はデータの保管に向いていないし、紙は保管の場所をとるし資源の無駄なのでペーパーレス化が推進されてきたけれど、未だに履歴書手書き教徒がいる。インド映画の『パッドマン 5億人の女性を救った男』だと清潔な生理用ナプキンを開発しようとする主人公を変態扱いする無教養な人が大勢出てくるように、新しいものを拒むラガードはどこにでもいる。新しい知識や技術を理解する気がなく、今よりも社会を良くしようとしないのは保守でなくて怠慢である。こういう人たちは問題を解決しないために意見をいうので、議論しても問題解決にはつながらない。・どっちもどっち論どっちもどっち論はあっちもだめだしこっちもだめだよね、と現状を確認するだけで思考が止まっていて、どうすれば問題が解決できるのかを考えていない。現状認識をしているという点では他のタイプの人よりもましだけれど、解決策を考えない限りは状況は改善できないので、どっちが良いか悪いかで思考停止せずにこれからどうすればよいのかを考えないといけない。●人間はもっと考えるべき仕事が分業化された現代では自分で物事を考えなくても指示された通りの作業ができれば金を稼いで生活ができるけれど、せっかく知的生命体として自我を持ったのだから頭を使わなければもったいない。現代社会には解決しないといけない様々な問題があるし、時間の無駄になる意見を言わずにもっと考えないといけない。社会を良くしようとする意志がある人が知恵を出して今後の社会を作るので、民主主義の社会では一人一人が自分で考える力を持たないと社会は発展しない。アラブの春の民主化が失敗したのは独裁政権への不満があっても対案の考えが不十分だったのだろう。発展途上国では独裁政権の腐敗と内戦を繰り返しているけれど、誰が政権をとろうが国民の民度が高くならない限り問題は解決しないし、軍事力での権力や富の奪い合いをやめて平和的に経済や文化を発展させる方法を考えないと人類は次の文明のレベルには進めない。不満を言うのは簡単だけれど、解決策を考えるのは難しいものである。日本が平和だからこそ日本人はネットでくだらないことを言う余裕があるのだけれど、それは必ずしも良いことではない。日本人は第二次世界大戦の敗戦のおかげでアメリカに憲法をもらって言論の自由を手に入れても、修養を放棄して目先の金儲けに夢中になって堕落している。独裁政権下の人たちが命懸けで手に入れたがっている言論の自由があるのに、その言葉を人助けや社会の発展のために使わずに誹謗中傷や優越感を得るためのマウンティングに使うのでは情けないではないか。かつて日本には大勢の武士や剣豪がいたように、ペンが剣よりも強い現代にはもっと文豪がいてもよいはずなのに、むしろ作家が社会問題について考えなくなって商業作家だらけになって古典として残るような文豪がいなくなってしまった。ネット記事のライターもコピペだらけのまとめサイトが問題になったように、文章を書くのが仕事の人でさえあまり物事を考えていないのだから、一般人が物事を考えないのも当然かもしれない。無知は現代でもはびこっているので、我々は知性で戦わねばならない。せっかくインターネットという情報の収集や発信のための便利なツールがあるのだから、有意義に使いたいものである。
2021.03.08
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