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最近は村上春樹が母校の早稲田大の入学式でスピーチして、「小説というのは、直接的には社会の役にはほとんど立ちません。何かがあっても、即効薬やワクチンみたいなものにはなりません。でもね、小説というものの働きを抜きにしては、社会は健やかに前には進んでいけないんです」というようなことを言っていたのがニュースになった。無駄なものは文化として残らないので、役に立たないと言われる小説も実際は役に立っているはずだけれど、作家が小説は役に立たないと言うのはなんか悔しい。私は小説は役に立つのだと言いたい。というわけでこれについて考えることにしたのだけれど、小説だけだとあまり話が広がらないので、芸術が役に立つのか考えることにする。●プラグマティズムとは何かプラグマティズムはドイツ語のpragmatischに由来する言葉で論理学者のチャールズ・サンダース・パースが使い始めて、実用主義的な考え方でアメリカで発展した思想である。プラグマティズムの思想家の中でも意見が分かれて定義がはっきりしないけれど、行為や結果に基づいて判断するという考え方である。アメリカのような移民国家は宗教や科学とかの絶対的な一つの価値観で統一しようとしてもうまくいかないので、何が正しいかを突き詰めるよりも、様々な思想を道具として使って結果的に社会がうまくいく行動をとっている。例えば宗教者や霊能者や占い師は科学的に検証できないことを言っていて神や霊が存在するかどうかという真理はわからないけれど、相談した人が悩みを解決できるのなら宗教者や霊能者や占い師の行動は結果的にカウンセリングとして役に立っているので、理論はどうであれ道具として有用だといえるし、非科学的だからといって社会から排除する必要はない。こういうのがプラグマティズムの考え方である。工業製品は特定の目的のために作られていて目的と効果が一致しているので、アレはコレの役に立つとはっきり言えるし、同じ目的の別の製品とも比較が容易である。一方で芸術は目的と効果が一致しないことがあるし、素人にはよくわからないのでしばしば役に立たないと言われる。では芸術は何を目的に創作するのか、結果として鑑賞した人にどんな価値や影響を与えるのか、目的と効果を考える。●芸術の目的と効果・感動の表現著作物とは思想や感情を表現したものを言う。作家は作品を完成させた時点で作品が売れようが売れまいが自己表現の目的は達成できる。自由なテーマや創作手法で自己表現できることが芸術の存在意義でもある。作者の思想や感情の表現が読者に伝われば、非日常的な感動を追体験できる効果を持つ。「泣いた」が宣伝文句としてよく使われるように、感動できる効果がはっきりしている作品ほど人気が出る。40代頃から前頭葉の萎縮が始まって徐々に無感動になっていくけれど、フィクションで感情を刺激すれば脳の老化を防げる。・娯楽芸術は創作の過程で試行錯誤して脳が刺激されて楽しいし、作品を鑑賞するのも楽しい。娯楽を目的に創作された作品でもあまり楽しめない場合があるけれど、暇つぶしとしての効果はある。・金儲けプロ芸術家は作品を売って生計を立てているので、金儲けとしての側面が必ずある。作家が自己表現や読者の娯楽のためではなくて原稿料目当てに駄文を量産する場合もある。映画のロケ地やアニメの舞台は聖地巡りとして観光する人がいるので、興行収入以外の経済効果がある。・プロパガンダキリスト教などの宗教は教義を広めるために芸術を利用してきて、この場合は作者も信者なので熱心に制作して、宗教画や聖歌などのよい作品が出来上がって現在まで残っている。戦時中は士気高揚のプロパガンダとして芸術を利用したけれど、この場合は芸術家が徴兵されて言論統制下で無理やり作らされるので芸術性がなくて、戦争が終わると目的が達成されて存在意義がなくなって、たいてい見返すほどの価値がない作品として消えている。・社会批判社会批判はプロパガンダの逆で、社会や人生などのだめなところを作品を通して伝えている。思想の表現として明確な批判の形をとることもできるし、そうでなくても特定の物事に焦点を当てることで問題提起ができる。・話題作り芸能事務所が推す俳優の話題作りのためにしょうもない映画やドラマが作られたり、芸能人の本が出版されたりする。デートで映画を見に行くカップルにとっては映画の面白さに関わらず共通の話題ができる効果があるので、その後の食事とかで会話のネタにできる。水嶋ヒロの『KAGEROU』みたいにたとえ出来が悪くてぼろくそに批評されていても、みんなが話題にしていると興味を持つ人が増えて売上が増えたりする。・道徳教育自然主義以前のフィクションは善人が報われて悪人が罰せられる勧善懲悪の物語が多くて、教育水準が低い庶民に社会的に良いとされる価値観を伝える効果があった。勧善懲悪の物語は展開がワンパターンなので現代の大人向けの娯楽としては飽きられたけれど、価値観が定まっていない子供向けの童話は効果がある。明治20年代後半には子供に徳目を教える教育唱歌として数え歌がたくさん作られていて、手毬歌はリトミックとして教育的な効果があった。・知識の伝承芸術には後世に情報や技術を伝える効果があるので、一部の芸術は古典として価値を保っていて美術館で大事に保管されている。中世の貴族の肖像画は見て楽しいものでもないけれど、当時の服装や歴史や制作手法を知る資料として現代人の役に立っている。音楽は蓄音機ができるまでは音を残すことができなかったけれど、代わりに楽譜を残すことで演奏技術を伝承している。●儲からなくても役に立つこうして箇条書きしてみると、芸術はちゃんと社会の役に立っているのだと言えそうである。特に芸術を鑑賞した人の思想や感情を刺激するという点では社会に必要不可欠である。思想や感情は直接金儲けの役に立つわけではないけれど、思考も感情も脳の機能なので、その部分を使わなければ脳細胞のシナプスが死滅して脳が衰えていって、アパシーになって目的がある行動や思考への意欲がなくなる。感情に振り回されずに悩みがないのが幸福かというとそうでもなくて、頭の機能を十分に使わないのは人間性を放棄することでもある。遺伝子に生存戦略を残して物事を考えない動植物と違って人間は生存戦略として脳を発展させてきたので、人間は脳を使って悩んだり学習したりすることで遺伝的な本能に従う以外の幸福の可能性を模索しているし、その道具として芸術は役に立つ。貧しい発展途上国でも優れた音楽や踊りがあるけれど、言葉と歌と踊りはたいして金がかからないので、貧しい人でも芸術の恩恵を受けやすい。芸術を道具としてとらえると、異なる目的を達成するために異なるメディアが使われることを理解しやすい。サルトルが「飢えて死ぬ子供を前にしては『嘔吐』は無力である」「作家たるものは、今日飢えている二十億の人間の側に立たねばならず、そのためには、文学を一時放棄することも止むを得ない」と問題提起したけれど、小説に限らずにそもそも芸術は飢えた子供を救うことを目的にした道具ではないのだから、芸術が万能でないからといって一側面だけをあげつらって役に立たないと問題視する必要はない。作家に政治や経済の見識やモラルは必要だけれど政治的な目的で書かれたフィクションはあまりよいものがないので、問題解決のために思想が必要でないなら小説を無理やり目的外の道具にするような非効率なことをするよりは直接政治活動をしたほうが効果的である。芸術は評論家が傑作認定したから鑑賞する価値があるのではなくて、時代や国や民族や性別が違う個々人にはそれぞれ違う悩みがあって思想も感受性も違うのだから、個々人が自分の目的に合う道具として良い芸術を見つければよい。それゆえに芸術には多様なメディアや作品があるべきである。未熟で下手な作品でもないよりはあるほうがよいし、アマチュアもどんどん作品を発表すればよい。ミルが『自由論』で「天才が現れるためには、天才が育つ土壌を保持しておかなければならない。天才は、自由という雰囲気のなかでしか自由に呼吸できないのだ。」と言うように、自由に創作する中から特異な天才が出てくる。玉石混交の玉を見つけるためには無数の石を磨かなければならないし、ピンポイントで玉だけ手に入れようとしても無理である。儲からなくても芸術が身近にあって思想や感情が豊かなのは文化的で充実した人間らしい生活といえるし、数十年に一度現れる天才が技術や思想の水準を引き上げることもあるし、だからこそ全体主義や検閲はだめで表現の自由があるべきである。最近は文学部廃止論みたいに短期的な視野で物事を考えて儲からない芸術や教養を非効率で無駄なものとして排除しようとするけれど、これは長期的に文化を停滞させて社会の退化につながる。●何事も結果が大事芸術が役に立つとはいえ、単に作品が存在すればそれでよいかというとそうでもなくて、何の目的で物事をやって、目的を達成できたのか、実際はどんな効果が出ているのか確認しないといけない。何かに着手しただけで満足して結果を確認しないのでは改善点も見つからないし、時間の無駄になりかねない。沖縄科学技術大学院大学理事長のピーター・グルースは研究する上でCreative(創造性)、Curious(好奇心)、Courageous(勇気をもつ)、Critical(批判的であること)、Complete(完成させること)の5つのCが重要だと言っているけれど、これは芸術でも大事である。芸術の場合は興味を持って創造してもやりかけのまま完成させない人が多いので、特にCompleteが重要だと私は思う。例えばなろう作家は推敲しないまま文章を書きなぐって飽きたら未完のまま放置する人がいるけれど、それではいくら書いてもうまくならないだろうし、読者も未完の作品を批評しようがない。プロでも漫画の連載が未完のまま打ち切りになることがしばしばあるし、それは完成を待っていた読者への裏切りだと思う。作品は完成させただけだとただの作者の自己満足で、他人に批評されることで道具としての価値を見出されるので、批評も創造とセットで必要なものである。作品を発表して他人の批評にさらされるのは勇気がいるけれど、批評する側も作者に嫌われる勇気がいるもので、批評がない分野は衰退する。デザイン業界でオリンピックロゴとかのパクリが問題になったように、業界人が身内で褒め合って批判がないのでは競争が起きなくて質が向上しなくて、受賞経歴を並べて肩書だけ立派で実力が伴っていない人が出てくるようになって、そういう人が要職について利権を得てそれ以下の実力の人しか評価されない負のサイクルになって、業界がどんどん衰退してしまう。芸術だけでなくてあらゆる仕事では肩書よりも結果が大事である。新型コロナ対策やSDGsとかもやってる感を出すだけで効果がないのではやる意味がないので、PDCAサイクルを回して何かをやったら結果をチェックして効果がないなら別の行動をとるなりしないと目的は達成できない。アメリカは人種差別や格差や犯罪多発でいろいろでたらめな国だけれど、行動と結果を重視するプラグマティズムの考え方で失敗を恐れずに新しい製品やサービスを作って、問題が起きたら訴訟したり法律を変えたりして判断が早くて柔軟に対応して経済成長を続けている。それに対して日本は行動と結果を軽視して、高学歴だの新卒だのの肩書をむやみに有難がって、肩書だけが立派な業績泥棒の無能が要職について派閥を作って利権にしがみついて、失敗しないために前例主義で新しいことをやろうとしなくて判断も行動も遅くて、問題の先送りをして責任をとろうとしない。肩書が立派な無能な人といえば西室泰三で、東芝の相談役のときには2006年にウェスティングハウスを3500億円で買収して失敗して2600億円をのれん減損して巨額の損失を出したし、日本郵政の社長になったら郵便と物流の違いもわからないまま2015年に約6200億円でオーストラリアの物流会社のトール・ホールディングスを買収して失敗して4000億円の損失を計上して、結局経営再建できなくて一部の不採算事業を9億でファンドに売ってさらに674億円の特別損失を計上する見通しだそうな。失敗の原因になった経営陣はのうのうと高給をもらって、現場の労働者の減給や顧客サービスの低下で損失を埋め合わせするのは無責任きわまりない。西室は名誉欲と権力欲が強くて部下の手柄を自分のものにした挙句に嫉妬して飛ばしていたそうで東芝内での評判も悪いようで、日本郵政の取締役になるべきでない人物なのに政府は任命した責任をとるわけでもない。肩書コレクターの仇名を持つ西室とは真逆なのがソニーで10年赤字続きだったテレビ事業を黒字化させて復活させた平井一夫で、PRESIDENTの4/30号で平井は仕事は肩書ではなく人格でするものだと言っていて、「ワン・ソニー」であることと「感動を提供すること」をメッセージとして社内に発信して組織のマインドセットを変えようとして、それが現場に伝わってソニーの各業種でシナジーが出て良い結果につながったそうな。最近はSTEM教育に芸術も加わってSTEAM教育をするようになって、ビジネス界でもアートシンキングというアーティストみたいに考える手法が取り入れられているそうだけれど、感動した体験が乏しい人が価値を創造したり他人を感動させたりすることはできないし、他人の感情を理解できない人は部下や顧客の信頼を得られないので、効率だけ求めて仕事をするのでなくて人生にゆとりをもって芸術を創作したり鑑賞したりするほうがよいと思う。あと創造の過程での失敗を過剰に怖がるのはやめるべきである。全く失敗しないで新しいものを作ることはできないので、失敗を減点するのでなく、ある程度失敗するのを前提としたリスクマネジメントしつつ創造に挑戦するのが大事である。シックス・シグマとかの工業的な考え方は既存の物の品質や生産性を向上させるのには役に立つのだろうけれど、ミスしないことを重視して管理しようとする減点主義だと新しい物やサービスは生まれにくくなるので、モトローラやGEや東芝とかの20世紀に大企業だったシックス・シグマを取り入れていた製造業は今は落ちぶれている。消費者は凡庸な製品の完成度が高くなって不良品が少なくなったところで別に感動しないけれど、粗削りでも新しい体験をもたらす製品には感動しうる。例えばインスタ映えは料理の味の感動でなくて見た目の感動という新しい体験を開拓したので、パンケーキとかタピオカミルクティーとかのどの店でもたいして味が変わらなくてすごくおいしいというほどでもないようなものでもおしゃれさが話題になって、SNSで感動が共感されることで流行した。パンケーキと言えば私は最近料理に失敗して、おやつのホットケーキを一枚ずつ焼くのが面倒だったので巨大蒸しパンを作ろうと思って200gぶんを全部鍋にぶちこんだら、火加減が強すぎて底の方が固くなって巨大今川焼のような歯ごたえがあるのを一生懸命食べるはめになった。2回目は火加減を弱くしてうまくできたけれど予想通りの出来栄えで特に感動もなくて、失敗したほうが意外性があって面白かった。失敗と言えば私は就職にも失敗したので、クリエイティブでユーモアと教養がある人がほしい企業は私を雇うといいと思う。業務委託でもいいよ。
2021.04.25
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江戸から昭和の江戸千代紙の文様を200点以上カラーで紹介している本。●江戸千代紙の作り方と使い方のまとめ江戸千代紙は錦絵と同じ過程で作られている。版元と絵師が相談して下図を完成させて、この図柄を薄い美濃紙か雁皮紙に移して墨線の版下を仕上げる。それを彫師が版木に貼って線の通りに小刀で彫り、色数の枚数を墨色で刷って絵師に渡して色差しをしてもらって色板が作られて、試し刷りして版元に見せて校正が行われて千代紙が出来上がる。この初摺りは板おろしといって一番値打ちがある。摺師が黒墨を最初に摺り、あとは図柄によって色の順序を決めて濃い藍や紅は最後に摺る。江戸千代紙で作った少女用の紙人形は江戸姉様(あねさま)という。雛人形などの着物や帯としても使われる。箱に貼ったり封筒にしたりもする。●感想文章はほとんどないので、絵をざっと眺めて解説を読むだけなら10分もあれば読めるけれど、文様の意味や構図をじっくり観察するともっと楽しめる。動植物の文様が多くて、他には「かまわぬ」や「大当たり」といった洒落紋もあるし、ポールスミス風の直線と色の組み合わせや幾何学模様もあるし、昭和に人気になった松本かつぢの少女漫画『くるくるクルミちゃん』の文様もあって多様で面白い。手彫りでここまで精巧で色彩豊かなものがつくれるのだなあと感心する。デザインをする人には参考になるかもしれないけれど、興味がない人は文様だけ見てもあまり面白くないかもしれない。箱に千代紙を張って装飾するのは現在でも使える実用的な方法で、会社の事務所とかで段ボールだらけだと殺風景だけれど、おしゃれなデザインをカラーで印刷して段ボールに貼るとお金をかけずに華やかにすることができる。スタバのタンブラーの台紙を取り換えてオリジナルのタンブラーにするのも似たような考え方である。エフピコがフィルムにグラビア印刷するようになって1980年代に食品トレー容器が白い発泡スチロールでなくなってカラフルになったように、紙やフィルムに色をつけて素材に貼るのは素材そのものに色をつけるよりも手軽で応用がきく合理的なやりかたである。この本の文様を見ると私が見たことがないようなデザインが多くて、現代の製品のいろいろなデザインからは伝統的な文様が失われているのだなと気づいた。スマホケースなんかは数百種類のデザインがあるけれど、そろばん玉つなぎや菊などの和風の文様はほとんど見かけない。というかスマホで電卓が使えるので、デジタルネイティブ世代はそろばん自体を見たことがないかもしれない。「よきこときく」の斧や、「かまわぬ」の鎌にしても、庭や畑がある人以外は使ったことがないかもしれない。社会が変わったことで文様がもはや身近なものではなくなってしまったのだろう。『鬼滅の刃』が人気になって緑と黒の市松模様が流行ったように、きっかけがあれば文様は復活するけれど、きっかけがあまりないからこそ失われつつある。そういえばキャス・キッドソンの花柄のバッグは色や構図が江戸千代紙の文様に似ていると思ったので調べてみたら、キャス・キッドソンはロンドン出身で、ロンドンには老舗百貨店のリバティ社が販売しているリバティープリントという生地があって、リバティ社は1875年に開業して日本をはじめとした東洋の生地の色使いやデザインに影響をうけたそうな。19世紀後半のヨーロッパの画家が浮世絵から影響をうけて印象派が生まれたように、江戸千代紙もヨーロッパのデザイン界に影響を残したのかもしれない。さて文学と江戸千代紙について何か考えてみると、文学には江戸千代紙のような華やかさやユーモアが足りないと思った。本棚の装飾としての本の在り方もあってよい。漫画はコミックスの背表紙のフォントやイラストに凝っていて本棚で映えるけれど、小説の単行本はまだしも文庫の背表紙はタイトルと作者名があるだけで地味である。文庫のシリーズごとに色を固定するのは出版社はデザイン費用をコストカットできるのかもしれないし本屋の店員には分類がわかりやすくてよいのかもしれないけれど、読者にとってはつまらない。これはなんじゃろうと興味を持って手に取って眺めたくなるようなわくわく感がなくて、本棚に好きな本を置いてちらっと視界に入ると元気が出るような感じがない。新潮文庫はYonda?というかわいいパンダのキャラクターがいるのに、本のデザインに反映されていない。たかが1-2センチ程度の幅の背表紙でも文様やキャラクターをつけるなりすれば他の本と差別化できるのだから、漫画みたいに付加価値をつければいいのにと思う。紙であることの付加価値がないなら場所をとらない電子書籍のほうが便利なので、紙の文化も衰退していくのかもしれない。★★★★☆【中古】江戸千代紙/広瀬 辰五郎
2021.04.19
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日本の窯場28カ所の技法や特徴を書いた本。●まとめ福島県 相馬焼:相馬市の相馬駒焼と浪江町の大堀相馬焼があり、走り駒の絵が相馬焼の目印で、青磁釉で焼かれた青ひび焼と卵手という淡い黄色の釉薬をつかったものの二種類がある。福島県 会津本郷焼:陶器と磁器があり、陶器は厚手で重いのが特徴。鰊鉢が冬の保存食用の容器として作られた。栃木県 益子焼:人間国宝の濱田庄司が昭和初期に益子を活動拠点にしたので陶芸家が集まり、地元の土を使った民芸陶芸で有名になる。山水土瓶が特産品。茨城県 笠間焼:江戸時代に庶民が使う甕やすり鉢などの産地として始まる。伝統にとらわれず自由な作風。岐阜県 美濃焼:平安時代に始まり、桃山時代に日本の製陶の中心になる。志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒が代表。戦国時代に尾張と三河が戦乱の地になり、瀬戸の陶工が美濃に避難して美濃焼ができる。千利休門弟の古田織部の好みで織部が作られた。愛知県 瀬戸焼:伝説では鎌倉時代の陶工の加藤四郎左衛門景正が始めたと言われていて、東の瀬戸物、西の唐津ものという陶磁器の代名詞として有名。7つの釉薬と装飾技法が特徴で、江戸時代後期に加藤民吉が有田の磁器の技術を取り入れて絵付けがされるようになる。愛知県 常滑焼:平安時代に無釉の焼きもので始まり、江戸時代末期に鯉江方寿が陶土にベニガラ(酸化鉄)を混ぜて焼く技法を考案して朱泥の急須が作られるようになる。三重県 万古焼:江戸時代中頃の豪商の沼波弄山が趣味で始めたものが古万古と呼ばれ、沼波弄山の死後に古物商の森有節が焼いたものが有節万古と呼ばれる。森有節が考案した木型に薄く伸ばした陶土を押し付ける伝統技法が特徴。明治に四日市万古に使っていた垂坂山の白土が枯渇して、代わりに赤土を使ったチョコレート色の急須が代表になる。三重県 伊賀焼:釉薬なしで高温で焼くので焦げが生じて、ビードロ釉と呼ばれる青いガラス質のものができるのが特徴。古琵琶湖層から良質の陶土が取れたので奈良時代からやきものが作られていて、古田織部の影響を受けて茶陶として発展した。石川県 九谷焼:1655年ごろに有田で学んだ後藤才次郎によりはじまる。骨描き(線画)する前に素地の上に溶かしたにかわを木綿の布で前面に塗る膠引という久谷焼独特の技法があり、余白を幾何学模様で埋め潰す地紋つぶしや、器に窓を設けて内側に絵を描いて外側を幾何学模様で埋める窓絵の構図が特徴。福井県 越前焼:越前は平安時代末期から室町時代は北陸で最大の窯場で、農業の発達に伴う保存用の大きな甕やすり鉢を産出した。あまり装飾をつけずに地味で、高温で焼成して薪の灰が自然釉になっているのが特徴。滋賀県 信楽焼:平安末期に農民の種壺や水瓶などの焼きものが本格的に始まり、千利休が茶の湯にとりあげてから素朴で実用性がある茶器が作られるようになったが、利休の死後に茶器の需要が減って江戸末期には土鍋、徳利、植木鉢などの日曜雑器を作るようになった。京都府 京焼:17世紀初期にはじまり、野々村仁清が絵付けの発色性を高める独自の技術を編み出した。華やかな絵付けの陶器と、染付け磁器が特徴。奈良県 赤膚焼:赤膚三色といわれる乳白色、透明、黒の3色の釉薬を使い、経文の図案や上下二線に人物や家屋が描かれている奈良絵が特徴で、京焼、高取焼、萩焼の影響をうけた茶器が代表的。兵庫県 出石焼:柿谷陶石という白石を原料にして、純白に菊彫りや透かし彫りの彫刻がある白磁が特徴。兵庫県 丹波焼:平安末期が起源の日本を代表する六古窯の一つで、丹波の粘土は鉄分が多くて酸性が強くて釉薬がかかりにくくて焼き締めの土っぽい仕上がりが特徴。岡山県 備前焼:釉を使わず、耐火度が強い粘土質の陶土を使って、少しずつ割木を増やして窯中の温度を上げていくことで生まれる窯変の模様が特徴。島根県 布志名焼:民陶と茶陶の流れをくむ二種類の作風が特徴。楽山焼とともに出雲焼と呼ばれる。山口県 萩焼:大道土というやわらかい土を使っているので吸水性が高く、使うほど茶がしみこんで茶馴れと言われる色彩の変化があり、これを茶人たちは萩の七化けと呼んだ。絵付けがほどんどないのが特徴。徳島県 大谷焼:江戸時代に阿波の特産品の藍染の原料を入れる甕の需要が増えて、鉄分を多く含んだ陶土を焼き締めた甕や壺などの大物が作られた。愛媛県 砥部焼:砥部焼はほとんどが磁器の食器で、地元の伊予砥を原料にした白い磁器に藍の青い染付模様が特徴。福岡県 上野焼:1602年に朝鮮から陶工の尊楷が招かれて始まる。緑青釉、三彩釉、透明釉、鉄系釉の4種の釉が特徴で、毒消焼の異名を持つ。佐賀県 唐津焼:鉄分が多い土を使用するので、焼き上がりが灰色か黒っぽくて渋い感じが特徴。佐賀県 有田焼:秀吉の朝鮮出兵の際に連れてこられた李参平が有田で磁石をを発見して創成したといわれる。白磁に絵付けがしてあるのが特徴。江戸時代の有田焼は古伊万里と呼ばれる。鍋島藩の食器は将軍家への献上品や大名への贈答品になり、明治維新の頃まで庶民が使うことは禁じられた。長崎県 波佐見焼:朝鮮出兵に参加した大村藩主が陶工を連れ帰って1599年に始まり、磁器の食器が作られて江戸時代に人気になる。明治末期ごろまではコンプラ瓶と名付けられた瓶が東南アジアやオランダに輸出された。大分県 小鹿田焼:地元の黄色い土を使った日用雑器の大きな器が多いのが特徴。鹿児島県 薩摩焼:島津家の御用窯だけで焼かれた草花が描かれている白もんと呼ばれる白薩摩と、鉄分を多く含む火山性の土を使った黒もんと呼ばれる黒薩摩がある。沖縄県 壺屋焼:釉薬をかけずに焼き締める日用雑器の荒焼と、白い化粧土を施してサンゴ岩などの釉薬をかけた上焼の二種類がある。現在は日用雑器の需要が減って荒焼は土産用のシーサーが中心になっている。●感想私は100円ショップで適当に買った食器を使っているので本格的な陶磁器の食器は買わないし、お茶会に呼ばれる機会もないのでやきものには興味がない。しかし興味がないからこそ人生の中で何時間かやきものについて考えてみるのもよかろうと思ってこの本を読むことにしたのだった。全ページカラーで写真がたくさん載っているので特徴がわかりやすいのはよい。東北や北海道にあまり窯場がない理由は書かれていないけれど、西日本と違って朝鮮から陶工が来てなくて技術がなかったのが理由なのかもしれない。やきものは土や釉薬や製法や模様で違いがあるとはいえ似たり寄ったりで、なんとか焼といわれても予備知識がないとわからないけれど、この本を読んだら馬の絵がある相馬焼と、益子焼の山水土瓶と、常滑焼の朱泥の急須と、万古焼のチョコレート色の急須と、白くて彫刻がある出石焼は特徴がはっきりしているのでわかるようになった。フィクションで海原雄山的な人物が「ほほう、これは見事ななんとか焼ですな」とかいう場面がたまにあるけれど、私も一度言ってみたいもんである。時代劇に出てくる小道具が何焼なのか注目してみるのもおもしろいかもしれない。陶器の手入れの仕方も書いてあって、無釉の軟質の陶器は土肌の目が粗くて料理の汁や油がしみこみやすいから盛り付け前に水に10分から1時間くらい浸しておくそうで、面倒くさそうなので私はやきものは要らないなと思った。一人暮らしだと盛り付けとかどうでもいいのでフライパンから直食いで洗い物が減るほうがよい。さてやきものと文学について考えようかと思ったのだけれどあまり考えることがなさそうなので、芸術の地域性について考えることにする。やきものは土地ごとに土の質が違うのでまず材料で差別化できて、それからその土地に集まった人たちが切磋琢磨して製法とデザインで差別化している。料理も似ていて流通が整うまでは土地ごとに手に入る食材が違ったので、それをおいしくするため調理方法も異なっていて地方ごとに伝統料理や名物がある。土地ごとの材料で差別化ができるのなら文学の場合は方言で差別化できるはずだけれど、じゃあ文学に地域性があるかというとあまりなくて、地方文学賞にも存在感がない。関西に旅行に行ったらお土産に織田作之助賞受賞作の小説でも買うか、とはならない。ではなんで材料が違うのにあまり差別化できていないのか。日本の私小説や南米のマジックリアリズムみたいに国単位でみれば地域の特徴は出る。ということは日本語の方言がちょっと違うだけでは差別化としては不十分で、言語や宗教が全く違うと言葉の使い方や考え方が変わるので創作のための技法も変わってきて、差別化できるくらい際立った特徴がでるようになるのかもしれない。音楽の場合は言語が違うと言葉のリズムやイントネーションが違うので、それがメロディーに反映されて差別化しやすい。例えば沖縄民謡は本土の民謡とは音階が違うし、方言が分からなくても音を楽しめる。しかしそれが文学になると、言葉の違いがただのセリフになってしまって創作技法が変わるわけではないし、方言だらけで他の地域の人が全く読めなくなってしまうと読者が減るので差別化しにくいのだろう。それに茶道や陶芸が人気になった後で廃れたように、いくら差別化しようがジャンル自体が衰退してしまうと、興味がない人にとっては些細な違いはどうでもよくなる。ちょうど私が陶器に興味がなくてどれも似ていて産地や技法の違いがわからないと認識していたように、純文学に興味がない人はモダニズムやポストモダンの違いも知らなくてどれも地味でつまらないものとして認識しているのかもしれない。やきものは実用性があるので茶道の人気がなくなっても料亭とかで需要があるけれど、地域性も実用性もない芸術は支持者がいなくなったら文化が継承されずに見向きもされなくなるので、いったん流行が終わった純文学をもう一度人気にするのは大変そうである。芸術が発展するには大勢の庶民の支持を得るか、偉い人に気に入られてパトロンがつくかしないといけない。野球やJリーグは地元チームのサポーターを育てることで活動できているけれど、文学には地域性がないがゆえに地元の固定客がいないところが弱い。文学で地方の読者の支持を得るには1年に1回受賞作を発表するような地方文学賞を作るよりも、継続的に創作を発表できるメディアがあるほうがよいかもしれない。タウン誌にエッセイや短編小説をのせるとかして、B級グルメみたいに地元に根付いたB級文学や準文学みたいなのがあれば地方文学はもっと活気づくのかもしれない。★★★★☆【中古】 やきもの カラー版 / 西東社 / 西東社 [文庫]【宅配便出荷】
2021.04.14
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