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NHK放送文化研究所が発表した国民生活時間調査だと、10代と20代の半数がテレビを見ていなくて若者のテレビ離れが加速しているそうで、掲示板だとテレビへの不満の声が多い。テレビだけでなくて新聞も販売部数が減っている。これは単にテレビや新聞がインターネットという新しいメディアにとって代わったというだけの問題ではないと思うので、これについて考えることにした。●マスコミとは何かマスコミはマスコミュニケーションの略で、不特定多数の大衆(マス)に情報を伝達(コミュニケーション)することである。その情報伝達のための媒体である新聞、ラジオ、テレビ、インターネットがマスメディアである。●私がマスコミに期待すること・事実を正確に伝えるマスコミの情報は早ければいいというものではなくて、裏取り取材やファクトチェックをして事実を伝えてほしい。事実がはっきりせずに意見が分かれるような場合は、マスコミが正誤を判断してバイアスをかけて主張するのでなく、異なる意見をそれぞれ紹介して視聴者に判断を委ねてほしい。・重要な出来事を取り上げる天気、災害、大企業の不祥事、選挙、法改正、外国の政策の日本への影響、外国の紛争などは大勢の人の生活や仕事に影響があって現代社会を生きるための知識として知っておくべき出来事なので、様々なメディアが報道するべきである。・専門家の意見を紹介する記者がインタビュアーになって専門家を取材して意見を紹介したり、あるいは記者自身が取材分野の専門性を持って意見を言ってほしい。例えばイタリアでケーブルカーの事故があったと単に事実を言うだけだと日本人にはあまり情報価値がないけれど、ケーブルカーの専門家が事故の原因やメンテナンスの仕方や日本のケーブルカーの老朽化は大丈夫なのかというところまで解説すると情報に付加価値をつけることができて日本の視聴者の役に立つ情報になる。私はほとんどテレビ番組を見ないし新聞も読まないけれど、TVerでテレビ東京の経済番組は見るし、ラジオ日経で株式市場のニュースを聴いている。これは経営や経済や株の専門家の意見があるので、視聴する価値があるものと思っている。・高品質の娯楽を提供する才能がある人にギャラを払って大勢のスタッフを動員して時間と金をかけないと作れないような高品質なコンテンツは金を払ってでも見る価値がある。スポーツは代表的な高品質の娯楽で、例えばサッカー日本代表の試合は日本中から才能がある選手を集めていて選手の意気込みも高くてJリーグよりもよい試合をするので視聴率が高い。・権力を監視するマスコミが権力と癒着したり、あるいは権力に弾圧されて権力を監視できなくなると、政権にとって都合がいいように世論操作されて、選挙で与党が有利になって民主主義が機能しなくなる。それゆえに報道の自由が保障されていて、内部情報をリークした人が不利益を受けないために情報源の秘匿も求められる。ベラルーシだと大統領が26年独裁して、批判したジャーナリストが逮捕されてマスコミが自由に報道できないようで、選挙で不正をするので選挙では独裁を終わらせられないようで民主主義が機能しなくなっている。●テレビのだめなところ・映像に価値がないYouTuberがテレビ番組の真似をしていると言われるけれど、逆に言えばテレビ番組は素人がまねできる程度ことしかやっていないといえる。テレビ番組で数百万円の高性能なカメラやドローンを使ってスポーツや自然の景色を撮影したりするならまだしも、スタジオでひな壇芸人のトークを映すのではカメラの持ち腐れである。トークはラジオでもできるし、VTRのリアクションはYouTubeでもできるし、素人が数万円のビデオカメラでできる程度のことをテレビでやる必然性がないし全国に放送するほどの価値がない。・情報の密度が低いテレビ番組はニュースにしろバラエティ番組にしろ情報の密度が低くて情報を得る手段としては効率が悪い。例えば健康情報なら文章だと〇〇は××の役に立つと簡潔に役に立つ情報を提供できるけれど、テレビだと番組の放送枠を使い切るために引き延ばしてクイズ形式にして芸能人数人に変な答えを書かせて正解はCMの後でついでにゲストの俳優のドラマの宣伝もして、という具合に間延びしていて時間の無駄である。・情報が遅いファクトチェックのために取材から放送まで時間がかかるのならまだしも、ネットでバズった話題を数日遅れでテレビで紹介したりしていて単純に情報が遅くて鮮度がない。ネットだと次々に新着情報が更新されていくので、情報が遅いテレビを見る意味がなくなる。・ニュースで重要な情報を取り上げない新聞は真面目に政治経済のトピックを特集しているけれど、テレビは世界で起きている重大な出来事をニュースで取り上げず、芸能人の不倫とかSNSで話題のペットの動画とかアイドルのコンサートの様子とか道端のど根性大根とかのどうでもいい内容を放送している。そのうえ朝と昼と夕方と夜のニュース番組で同じ動画を何度も流して新着のニュースがあまりないので、わざわざテレビのニュースを見る価値がない。ただでさえテレビのニュースの価値が乏しいのに、中居のジャニーズの退所の記者会見を各局が夕方のニュースを中断してまで中継したのは意味が分からない。YouTubeでTHE PAGEとかがテレビで取り上げないような政治家や企業の記者会見をライブ放送していたりするので、重要な情報を知りたいときはテレビでニュースを見るよりはネットを見るほうがましである。・コメンテーターが専門家でないテレビはニュース番組よりも情報番組(ワイドショー)が多くて、たいていは芸能人がコメンテーターをしている。俳優や芸人が時事問題をどう思うかなんてどうでもいいし、テレビ局が俳優や芸人で視聴率をとりたいならドラマやお笑い番組でプロとして芸事をやればいい話で、芸能人が専門外のニュースにまでしゃしゃり出てこないでほしい。元プロ野球選手がよく知らないサッカーについて喝とかアッパレとかコメントしたところで誰の役にも立たないだろう。様々な専門家を呼ぶよりも一人のコメンテーターにいろいろ言わせるほうが予算が安くなるのだろうけれど、そもそもコメントに価値がないのではコメントさせる意味がない。・倫理観が乏しくて不快お笑い芸人がツッコミとして相方を過度にどついたり、リアクション芸や罰ゲームとして芸人が嫌がる様子を笑いものにしたり、女子アナにセクハラをしたり、裸になったり、先輩芸人が後輩芸人にパワハラしたりして、ユーモアで人を楽しませる芸というよりはいじめや嫌がらせのような人間の尊厳を害するものがテレビで放送されている。品性のないお笑い芸人を見ると不快なので私は芸人が出る番組はほとんど見ないし、芸人をCMに起用した商品は買わない。・馬鹿を扇動する人間は処理流暢性が高い(=わかりやすい)ものを正しいものだと思う傾向があって、例えば科学的に正しい地動説よりも天動説のほうが感覚的にわかりやすいので教育水準が低い国ではいまだに天動説を信じる人がいる。この特性がマスコミに利用されると危険で、わかりやすくて間違った情報を伝えることで世論操作ができてしまう。例えば池上彰が国の借金で国民の負担が増えるという国民負担説をテレビ番組で言うと、馬鹿な国民が騙されて子孫に借金を残しちゃだめだと増税に賛成して経済を縮小させて子孫の所得を奪うようになる。・芸能人の使い方がおかしいテレビ番組は芸能人のパフォーマンスの優劣よりも事務所の力関係で出演者が決まるので、芸の実力がない人が多い。叶姉妹やデヴィ夫人みたいに芸がない人でも芸能事務所に所属していれば芸能人扱いで、芸がある人でも芸能事務所に所属していなければ素人や文化人という扱いでギャラも安い。ダンス番組の「少年チャンプル」や「スーパーチャンプル」は世間では無名でも実力があるダンサーたちが個性的なダンスを披露していて良い番組だったけれど、こういう無名な人を取り上げるテレビ番組があまりない。音楽番組でアイドルが生歌を歌ったら下手すぎて放送事故扱いされるとか、口パクでライブでやる意味がない音楽番組とか、バックバンドを用意せずにカラオケをやる手抜きの音楽番組とかだと番組を作る意味がない。ドラマだとアイドルの出演が前提でおざなりな脚本でドラマが作られて大根畑が豊作で、芸の質が低い。有名人を見たい人はテレビをみるかもしれないけれど、芸を見たい人にとっては音楽番組やドラマは見る価値がない。そのうえ本業の芸を磨かずにバラエティ番組でクイズとか食レポとか芸と関係のないことばかりやっていて、芸をやらないのでは芸能人でなくて単なる有名人である。・反社会的勢力とのつながりがあるもともと芸能界の興行はやくざが仕切っていたので、芸能事務所は反社会的勢力が関わっているところがある。近年は吉本興業がコンプライアンスを意識して暴力団と交際がある芸人や闇営業している芸人との契約を解除したけれど、うさんくさいイメージがぬぐいきれない。坂本弁護士一家殺害につながったTBSオウムビデオ問題でTBSが当初はテープを見せた事実はないと否定したように、反社会的勢力に協力するだけでなくて不祥事の隠蔽までしようとしたのは悪質で、TBSは報道機関として正義や真実を語る資格がない。・テレビマンの態度が悪いマスコミの取材NGの飲食店がけっこうあるけれど、これは店が常連客を大事にしたいというだけでなくて、マスコミが取材して有名にしてやるんだからありがたく思えという上から目線で交渉してきて宣伝費を要求したり、撮影した料理代金を払わなかったりするので嫌われている。ドラマの『海猿』の原作者の佐藤秀峰がフジテレビのアポなし取材や無断で関連本を出版したことに怒って絶縁宣言した出来事もあって、これはのちに和解したけれどフジテレビの原作者軽視の態度が垣間見えた。・リアクションが大げさで本音を言わないリアクションが大袈裟なのは食レポが典型的で、まずいものを食べてもまずいとは言わない。褒めるだけの感想は誰がコメントしようが違いが出ないし、商品やサービスを選ぶための情報として役に立たない。取材者を批判したら取材できなくなるからネガティブな情報はださないのだろうけれど、それは視聴者を騙しているということである。取材対象を批判しないのは広告代理店のステマに加担している可能性もある。週刊文春でフジテレビの女子アナが美容室の無料施術を受けて見返りにInstagramで宣伝していたステマ疑惑を報じたように、利益と引き換えに知名度が利用される可能性がある。こういう本音を言わない人たちはどこかの国や組織から資金援助を受けて世論工作に加担しかねない。・値段が高いテレビ番組はネットでTVerとかで見逃し配信を見るなら無料だけれど、受信機器があるとNHK代がかかる。その一方でネットの動画はCMありの無料プランかCMなしの有料プランがあって、月額料金はNHKより安いうえにコンテンツが充実していて見たいときに見れる。有料かつスキップ不可の長いCMがあるテレビ番組は他の動画サービスに比べると値段が高いといえる。・外国への情報発信能力がないカタールのアルジャジーラやドイツのDWニュースやシンガポールのCNAとかはYouTubeで英語でニュース動画を配信しているのに対して、日本のマスコミは資金力がありながら外国向けに英語のニュース動画を発信していない。これでは先進国のマスコミとは言えない。キー局には英語が流暢な高学歴のアナウンサーがいるのに、バラエティ番組のアシスタントとかのくだらない仕事に使うのは人材の無駄遣いである。取材能力がないのでおのずと発信能力もなくなるのだろう。・メディアのシナジー効果がない将棋や囲碁のタイトル戦は大手新聞社が主催していて、例えば読売新聞社が将棋の竜王戦と囲碁の棋聖戦を主催しているけれど、読売グループの日本テレビや読売テレビでタイトル戦を放送しない。これではいくらグループ企業が多くてもシナジー効果がないし、コンテンツを活かしきれていない。私は囲碁が好きなので日本棋院のYouTubeチャンネルを見ているけれど、タイトル戦がプロの解説付きで中継されるので、ネットがあればテレビはいらないと思う。●新聞やニュースサイトのだめなところ・事実を捏造する事実を伝えるために取材して記者の意見を言うのでなく、記者が政治的に偏向した意見を主張するために事実を捏造するのは手段と目的が逆転している。右派と左派で出来事の解釈が分かれるのはよいけれど、事実の捏造や隠蔽は報道機関として論外である。これがマスコミが信用を失ってマスゴミと呼ばれるようになった一番の理由ではないかと思う。・反日思想に染まっているマスコミはもともと左翼よりの思想だけれど、単なる左翼でなくて親中親韓反日なのではもはや日本人が見る価値がない。権力の監視をするために反日である必然性はない。朝日新聞の慰安婦報道での誤報は日韓の対立を深めて日本の国益を大いに損ねたし、朝日新聞も信用をなくして販売部数が減少したし、捨て身で反日したくてしょうがなかったのだろうか。イギリスのガーディアン紙が中国国営メディアが外国のメディアと提携して「チャイナ・ウォッチ」というプロパガンダキャンペーンをしていて日本だと毎日新聞社が担っていると指摘したように、外国のプロパガンダに加担しているのでは報道機関というより工作機関である。・取材しないニュースサイトだとSNSの反応をまとめたりプレスリリースの言葉を少し変えたりして、独自の取材をしないいわゆる「こたつ記事」が多い。素人がやらないことをやるからこそプロとしての仕事の価値があるだろうに、素人のまとめサイトでもできることをやるのはプロの仕事ではない。誰の役にも立たないおざなりの仕事はやる意味がないし、サイトの価値を落とすだけである。・身内を批判しないマスコミは報道の自由を掲げて他人のプライバシーを侵害するくせに、自社や広告を出している企業や左翼政党とかの利害関係者の不祥事は報道しない。いわゆる報道しない自由である。誤報の訂正や謝罪がネット検索に引っかからないように工作したりするのも悪質である。・クリックベイトをするクリックベイトとはネット記事のタイトルで情報の一部を意図的に隠したり大袈裟に誇張したりして、記事をクリックさせてページビューを稼ぐやり方である。読者が記事を最後まで読まなくてもクリックさえすれば広告が表示されるので、ページビューが増えれば広告代が稼げるわけである。大手新聞社のネット記事だとさすがにクリックベイトをしないけれど、プレジデントやダイヤモンドや東洋経済とかの新聞社よりも格下の雑誌はしばしばクリックベイトをしている。●若者のテレビ離れの是非マスコミは社会に必要だけれど、だからといって既存のテレビ局や新聞社が社会に必要というわけではない。若者がマスゴミの欺瞞を見抜いてくだらないテレビ番組を見なくなるほどの分別を持つようになったのならテレビ離れは良いことだといえる。テレビ離れはメディアの問題というよりコンテンツの質の問題で、テレビ番組をネットで放送したり人気のインフルエンサーを出演させたら若者はテレビ番組を見るかというと、コンテンツの質が低いのでは見ないだろう。人間は欲望に忠実なので、本当にテレビ番組が面白いなら金を払ってでもテレビを見るだろうけれど、ゲームとかの他のコンテンツに比べて金や時間をかけるほどの面白さがないからテレビ離れが加速するのである。たぶんテレビ局の中の人は他局の番組と比べてどうかという業界内の狭い視点で考えるので、どの局も似たような番組を作って、テレビ番組自体が社会に必要とされていないということに気づいていないのかもしれない。情報バラエティ番組の司会をどの芸人がやろうが私にとってはどれも見る価値がない。上記の問題がなくなるなら私もテレビを見るかもしれないけれど、マスコミには自浄作用がないようなので改善は期待できない。私の基準だと芸能人を無駄に起用しなくてちゃんと取材していて番組を見たいと思うのはテレビ東京くらいしかないし、わざわざテレビを買ってNHK代を払うくらいならネットでTVerで一部の番組だけ見れればいいやと思う。テレビ局はスマホを使えない情弱の老人がいなくなったら視聴者がいなくなると思うし、偏向したマスゴミが衰退して影響力がなくなるならそのほうが社会のためになると思う。
2021.05.31
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最近はサンデル教授が能力主義のせいで社会が分断したのだとリベラル派のエリートたちを批判したことが話題になっている。サンデルはコミュニタリアンだけれど、日本企業のコミュ力至上主義は会社という小さな共同体に従業員をはめ込もうとするコミュニタリアニズムの劣化版のようなものである。日本だとコミュ力がある人が能力がある人として扱われているので能力主義とコミュ力について考えることにする。●時代によって有利な能力が違う時代ごとに生存に有利な能力が違っていて、戦争が頻発していた時は力が強い人が有利になって、疫病が流行ると遺伝的に抵抗力が強い人が有利になって、飢饉が起きると飢餓に強い人が有利になって、人類は様々な危機を生き延びて様々なDNAの特性を子孫に残してきた。資本主義の現代では知能やコミュ力が高くて金を稼ぐ能力が高いことが生存に有利になっている。数百年という長期的スパンでの繁栄を考えた場合は、短期的に役に立たないものを切り捨てるという考え方はよくない。ある時代に能力を発揮した人が権力を握って、何かの基準に基づいて能力が劣る人を排除しようとすると、人材のプールから様々な才能のストックが減って社会が停滞するし、時代が変わったときに対応が遅れる。古代ローマやモンゴル帝国のように征服した民族の宗教に寛容な国ほど勢力を広げて長期間繁栄していたし、移民国家で歴史が浅いアメリカも世界中の才能を集めることで世界一の軍事力と経済力をもつほど発展している。一方で中国は文化大革命で知識人を弾圧したので新しい知識人層が育つまでに時間がかかって欧米に追い付くのが遅れたし、思想の自由がなくて少数民族や共産党を批判する人を弾圧しているので少数民族独自の文化をコンテンツビジネスに活かすことができなくて、人口が多くて多民族な割に欧米のコピーだらけで文化的な発展が乏しい。毛沢東のスズメ打倒運動で害獣を駆除したつもりがかえって虫が増えて米の収穫が減ったようなことを今は人間でやっているようなものである。●日本のコミュニケーション能力至上主義の問題点現代の日本社会ではコミュニケーション能力が高い人が就職に有利である。日本経団連が調査した「企業が社員採用時に求める資質」だと2004年から16年連続でコミュニケーション能力が第1位で、8割以上の企業がコミュ力を求めているそうな。最近は大学入試でも人物重視でペーパー試験の比率を下げて面接や小論文のコミュ力を問うようである。・コミュ力の定義があいまいコミュ力至上主義の一番の問題はコミュ力の定義があいまいなことである。Wikipediaではコミュニケーション能力を「他者と意思疎通を上手に図る能力」と定義して、飲み会で親睦を深めるとかメールを送るとかの対面・非対面でのコミュニケーションスキルがあることをコミュ力があるというようである。言語学だと文法的能力(正しい文を用いる能力)、談話能力(意味のある談話や文脈を理解して作り出す能力)、社会言語能力(状況に応じて適切な表現を行う能力)、方略的言語能力(コミュニケーションの目的達成のための対応能力)のことをコミュニケーション能力の要素としている。アメリカやフランスでは論理的コミュニケーション能力として物事を順序だてて説明できて冷静に人の話を聴けることを指している。私は人見知りで初対面の人が相手だと談話能力が低いコミュ障だけれど、文法的能力や論理的コミュニケーション能力はあるので、コミュ力の定義次第ではコミュ力が高いともいえる。逆に私が以前勤めていた零細企業のワンマン社長みたいにせっかちで人の話をさえぎって自分の話をして取引先を接待して飲みニケーションで仕事をとる人は談話能力と社会言語能力と方略的言語能力が高いけれど論理的コミュニケーション能力が低いといえる。ウェーイ系のリア充は談話能力が高くても、語彙が少なくてマジヤバイを連呼して文法的能力が低くて論理的コミュニケーション能力も低い。結局のところ、コミュニケーション能力のいくつかの要素のうちのどの要素がどれだけ高ければコミュ力があるといえるのか基準がなくて定量的にコミュ力の高低を表せないので、初対面の印象で愛想がいいとか口数が多いとかで主観的な感覚で判断されやすくなる。・コミュ力を欲する目的があいまい企業が従業員に何の仕事をさせたくてその仕事をこなすにはどの程度コミュ力が必要なのかが不明なままコミュ力を要求して、学生の時に力を入れたこととしてサークル活動とかの経験を重視して、地味に勉強したり研究したりすることが軽視されて、大卒である意味がないという本末転倒なことになっている。そもそもまともな大学生ならば論文を書いたりゼミで発表したりしないと卒業できないので論理的コミュニケーション能力があって当然で、わざわざ採用時に求める資質に挙げるものでもないはずだし、研究テーマについて聞けば論理性がわかるはずである。営業や接客業で人並み以上の談話能力が必要というのなら談話能力や社会言語能力のようなコミュ力を要求するのもわかるけれど、事務職や研究開発職や技術職はコミュ力よりも優先するべき能力があるだろう。何のためにコミュニケーションするのか、何の内容をコミュニケーションするのかという目的があいまいなまま、定義があいまいなコミュ力をやたらと欲する意味が分からない。ジョブ型雇用なら職務遂行能力があれば仕事の後の飲み会を断ろうが世間話に乗ってこなくて愛想が悪かろうがどうでもいいし、もはや終身雇用でない日本企業で社内で親密になるためのコミュ力は必要ないはずである。企業が従業員の職務を明確にしていないせいで、現場で誰が何の仕事を担当するか相談したり手が空いた人が他の人を手伝ったりするコミュニケーション能力が必要とされるのだろうけれど、それは経営者や怠慢や管理職の管理能力のなさが原因であって従業員に求める資質ではない。・成果が出てないコミュ力至上主義でコミュ力が優れた人だらけになった日本の大企業がどんな成果を上げたのかといえば、世界的に人気のサービスや製品が作れるわけでもなく、大企業や政治家とコネがあるコミュ力が高いエリートが上流で仕事をもらって実務能力や監督能力がないまま下請けに仕事を丸投げして、現場は多重請負や派遣で搾取されて薄給で長時間こき使われて問題だらけで、新型コロナウイルス接触確認アプリのCOCOAやワクチン予約システムとかの重要なサービスさえまともに作れない有様である。良い製品やサービスを作ろうとせずにコミュ力で仕事を受注して、コミュ力で客を言いくるめて粗悪品を売りつけようとする詐欺師の発想で目先の利益を出したところで、本質的な進歩がないのでは当然社会は発展しない。実務能力を伴わないコミュ力は学閥とか運動部出身とかの縁故主義を強化して、仲間内で利権を囲い込んで、空気を読んで長いものにまかれて偉い人が間違っても批判しないイエスマンがはびこって、社会が発展するどころか社会を衰退させている。・田舎と都会の格差が広がる性格は気候の影響を受けるという心理学の研究があって、寒い地域は家にこもりがちになって活動が限定的になるのに対して、快適な気温で育った人は外出して活動しやすいので社交性や外向性が高いそうな。実際にフィンランド人が最低限の会話しかしなくて無口だったり、雪国の人が朴訥で口下手だったりする。これでは東北や北陸などの雪国の人がコミュ力がないとみなされて、進学や就職で不利になって、貧しい田舎者がますます貧しくなって格差が拡大してしまう。気温が低くて四季のある気候下で生活していると将来のことに注目して自制を働かせて怒りや暴力的な行動が抑制されるという調査もあって、コミュ力がないぶん伸びる能力もあるのに、コミュ力至上主義の下では役立たず扱いされてしまう。全国治安ワーストランキングだと人口が少ない田舎ほど犯罪遭遇率が低くて治安がよくてモラルが高いといえるけれど、そんなまじめな人でも口下手なことを理由に出世の道が閉ざされてしまいかねない。●成功者が他人を顧みないと社会が壊れるアメリカほどの格差や人種の多様性がない日本は問題ないかというとそうでもなくて、小泉政権の頃から金儲けを優先する新自由主義者や自己責任論が台頭して順調に社会が壊れつつある。イギリスのチャリティー団体が発表している世界寄付指数だと日本が先進国で最下位で、日本人の冷たさは世界トップクラスだというニュースが話題になった。・コミュ力が高いからといってモラルや共感能力が高いわけではない自己愛性人格障害の人は自分を魅力的に見せるために表面的には明るくてコミュ力が高いけれど、実際は自分の利益のために他人を利用したり、自分の非を認めずに嘘をついたり、他人に責任をなすりつけたりする。こういう人がコミュ力を発揮して上司に気に入られて出世してしまうと部下が潰されて組織がだめになる。「巧言令色鮮し仁」ということわざは精神医学が発達する以前の自己愛性人格障害の人を指していると思う。電通は世間ではコミュ力が高い高収入のエリート扱いされているけれど、セクハラ・パワハラ三昧の下品な宴会芸をやったりしているしブラック企業大賞を受賞していてモラルがない。体育会系は群れるのが好きでコミュ力があるので企業ウケがよいけれど、上下関係で後輩をいじめたりする体育会系の不祥事がしばしば起きているし、コミュ力があってもモラルがないのでは社会をよくするためにコミュ力が役に立っていない。・金を持っているからといって社会の役に立つわけではない老人のタンス預金は消費や投資に回らないので死に金というように、金持ちがいくら資産を持っていようが有効活用されないのでは死に資産である。大富豪が豪邸を建てて高級車や宝石をコレクションして個人的に満足したところで、社会の幸福や発展のために役に立たない。トルストイみたいに農奴のために全財産を捨てようとする必要はないけれど、他人を助ける資産や能力があるのにそれを私利私欲のためにしか使わないのは人でなしや恥知らずである。大富豪は美術品の保護とかスポーツチームの後援とかエンジェル投資とかの資産がある人にしかできない社会貢献をやって社会に還元するべきである。CoCo壱番屋の創業者の宗次徳二がクラシック音楽好きで高い楽器を音楽家に貸し出しているように、資産が有効活用されれば社会の役に立っているといえる。資産をコミュニケーションの媒介にすれば、資産を通じて価値を広めて社会を豊かにできるだろう。●どうすりゃいいのさ日本のコミュ力至上主義は問題だと思うけれど、だからといってコミュ力が必要ないというわけではない。では日本をよくするためにはどうコミュニケーションすればよいのか考えてみる。・個人が倫理観と社会への責任を持つ日本だと個人主義は自分勝手とかの悪いイメージでとらえられがちだけれど、個人の権利を守らないと個人が自由に活動できないので、個人主義が悪いのではない。個人主義は社会を軽視しているわけでもなくて、国家があるからこそ法律で個人の権利が守られていて、個々人が分業して役割分担をしているからこそ高度な文明を維持できている。自分の思想や意志や知恵をもたずに個性を確立していない人が酒を飲んで騒いで慣れ合うようなくだらないコミュニケーションをしたところで意味がないので、まずは社会の構成員たる個人が修養するべきだろう。個人の権利を重視するリバタリアンは富の再分配目的で課税して強制的に分配することは個人の権利の侵害だと反対しているけれど、強制的な分配に反対するなら寄付するなり慈善団体を作るなりして自発的に自分が所属する国や共同体への還元をやるべきである。その還元が不十分だからこそアメリカの格差が問題になっているわけで、個人に任せていたら問題が解決しそうにないので超富裕層の中からもっと税金をとるべきだという人が出てきている。社会のおかげで利益を得ている個人が社会に還元しないのは個人主義と言うより利己主義で、私利私欲のために社会から搾取して社会を破壊している。日本人相手に商売しながら外国に移住して租税回避する日本人や、従業員の労働力を搾取して高収入を得ているブラック企業経営者が典型的な利己主義者で、そんな「今だけ、金だけ、自分だけ」の短期的な狭い視野で行動する人だらけになると社会は衰退していく。租税回避国は外国から人や企業を集めて多少は金が集められるだろうけれど、節税のために祖国を蔑ろにするような仁義をもたない人や企業が社会に還元することは期待できないし、社会を良くしようという意思を持たずに金だけあったところで社会が良くなるものではない。・論理的に建設的なコミュニケーションをする人間が猿と違って高度な文明を作れたのは、吠えて感情をぶつけるのでなく言葉や文字で複雑なコミュニケーションをして、様々な問題を議論したり交渉したりして問題を解決できるからである。その人間らしい社会の維持の方法が議会制民主主義である。しかし国会の答弁がご飯論法として揶揄されているように、論理的で建設的なコミュニケーションをやらない政治家がいる。議会は議論するための会なので、自分で考えず自分の言葉を持たずに官僚が用意した原稿を読むだけの政治家は議会に必要ないし、答弁をはぐらかしたり記憶喪失になったりして責任逃れをしたいのならそもそも責任がある立場につくべきではない。政治家は雄弁でなくても真摯であるべきで、社会を良くしようという姿勢がない保身のための議論をしても社会は良くならない。有権者は建設的な議論をしない政治家に投票してはいけない。・口だけ達者で行動が伴わない人に気をつけるコミュ力が高い人は精力的で魅力的に見えるもので、支持を集めやすくて出世したり政治家になったりする。しかし選挙のときだけ魅力的な公約を掲げて投票を呼び掛けるくせに、当選したら公約を無視する政治家がいる。東京都知事の小池百合子は「7つのゼロ」の公約を達成できなかったにもかかわらず二期目も出馬して当選しているけれど、こういう任期中に公約を達成できないことを何とも思わない無責任な人は何期やろうが何も達成できないので続投させてはいけない。満員電車をゼロにするどころか、ゴールデンウィークの朝のラッシュ時間帯に減便して混雑を加速させるという無茶苦茶なことをやる始末である。何かをやりたいと言う人にチャンスをあげることはよいけれど、何を言ったかよりもどんな行動をしてどんな結果を出したかを評価するべきで、結果を出せなかった人は退場してもらうほうが社会のためになる。環境大臣の小泉進次郎は温室効果ガスを2030年までに46%削減するという目標を掲げたけれど、46という数字が浮かんできたとかの理由が意味不明で、爽やかに応答してうわべはコミュ力が高いように見えるけれど、論理的コミュニケーション能力は低くて大臣を務めるには不適格である。イケメンがはきはき喋っているからといって有能というわけではないので、そういう人のうわべの印象に騙されてはいけない。
2021.05.21
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最近はVTuberとか仮想通貨とかのバーチャルなんとかの話題が多い。世界はどんどんデジタル化してバーチャルな方向に向かっているようだけれど、そもそもバーチャルとは何なのかよくわからないので、バーチャルについて考えることにした。●バーチャルとは何かバーチャルはIT用語だと「仮想」として使われるけれど、英語のvirtualだと「事実上の」「実質上の」という意味で、現実には物質としては存在しないけれど実在するかのように知覚できたり機能したりするものがバーチャル〇〇と呼ばれるようである。例えば仮想サーバーは一台のサーバーを実質的に複数のサーバーのように機能させている。仮想通貨は国家の裏付けがなくて誰も実物を見たことがないけれど実質的に通貨として機能するものである。普通の人がバーチャルと聞いて想像するのがVTuberのアバターとかの人や空間の視覚的な仮想化で、そのバーチャルを牽引してきたのがゲーム業界である。セガサターンの『バーチャファイター』はごつごつしたポリゴンのキャラクターが戦う格闘ゲームで、それまでキャラクターが画面の左右に移動するだけの格闘ゲームが3Dになったことで奥行きが出てカメラアングルに工夫できるようになって人気シリーズになった。スーパーファミコンまでのゲームはバーチャルとしてとらえられていなかったけれど、二次元のドット絵から三次元のポリゴンになった事で仮想空間という「空間」の感覚が出てきて、ゲーム機の処理能力が上がるにつれてポリゴンがなめらかでリアルになっていった。●我々は何を得て何を失うのか現代は現実にある様々なものがデジタル化してバーチャル〇〇に置き換えられつつある。人間は新しいものができるとそれに夢中になるけれど、科学の発展で便利になった分だけ使われなくなった人間本来の能力が衰えるのは必然で、失うものに無自覚なのはよくない。というわけでバーチャルになることで我々は何を得て何を失うのか考えることにする。・匿名の創作がはかどる思想の公表が迫害につながり得るので、匿名で顔を出さないことは表現の自由にとって重要である。作家はペンネームを使ってきたので今更アバターは必要ないけれど、作家でない人でも性別や年齢や人種を問わずにアバターを使って素性を隠して動画や歌を発表したりできるようになった。・コンプレックスや障害を補える顔が不細工な人や障害がある人でも、アバターを使えばコンプレックスを気にせずにオンラインで活動できるようになる。半身不随とかで外出できない人でもVRヘッドセットを使えば仮想空間でリアルな旅行気分を楽しめる。・孤独をまぎらわせるたまごっちやポケモンのようなバーチャルペットは餌や糞の始末とかの手間をかけずにペットを飼う体験ができて、動物虐待などの倫理的問題もなくせる。・訓練できるドライブシュミレーターやフライトシュミレーターとかのゲームだとリアルに近い運転の訓練ができる。実物を使った訓練だと大掛かりな設備が必要になるけれど、仮想空間なら実物がなくても様々な機械の操作などの訓練ができる。・場所代を節約できる子供は禁止事項が多い住宅街の小さな公園で遊ぶ代わりに、マインクラフトのような仮想空間のサンドボックスで家を建てたり鬼ごっこをしたりして自由に遊ぶようになった。大人がリアルな別荘を買うのは数百万円必要だけれど、ゲームの仮想空間なら子供でも小遣いで買えて自分専用の遊び場にできる。・無駄な人や物の移動を減らせる新型コロナのパンデミックでテレワークが推進されて、一部の業種の企業は従業員が一緒に作業するオフィスを持つ必要がなくなった。本社はバーチャルオフィスで済ませて、クラウドで作業をして、ハイブリッド型バーチャル株主総会をすれば、人や物の移動が減って移動にかかるエネルギーが減ってエコである。特に通勤中は作業ができなくて時間の無駄なうえに通勤ラッシュの満員電車や交通渋滞はストレスになって健康にもよくないので、その無駄をなくして仕事の生産性やQOLをあげることができる。他にもバーチャル葬儀やバーチャル墓地で遠隔地に住んでいてもオンラインで葬儀に参加したり墓参りをしたりできる。・運動不足になる会社が出勤する必要がないバーチャルオフィスになったり、散歩の必要がないバーチャルペットを飼ったりして移動が減ると、歩く距離が減って必然的に運動不足になる。徒歩から車に変わったときほどのインパクトはないにしても、出勤やペットの散歩のような毎日外出する習慣がなくなると、現代人の運動不足と体力低下に拍車がかかることになる。・現実を知覚して表現する能力が衰える赤ん坊の表情が多彩なのは、言葉が話せない分感情で母親に快・不快を伝えて世話してもらわないと生き延びれないからである。それゆえに人間は些細な表情の変化から自分の感情を伝えたり、相手の感情を理解したりする能力が優れている。赤ん坊は興味を持つと何でも手で触って口に入れようとするように、言葉を覚えていないうちは触ることが物を認識する手段になっている。このように人間はバーチャルでない現実のものから刺激を受けて成長していく。しかし幼児期に長時間スマホを使って実在の人間とコミュニケーションをとる時間が減ったり、あちこちに出かけていろいろな実物を見たり触ったりする経験が減ると、五感から得られる刺激が減って発達に悪影響を及ぼしかねない。幼児には発達の影響が顕著に出るけれど、大人でも徐々に影響が出る。特にクリエイターを目指す人が五感の感受性を衰退させるのはよくない。アリストテレスがミメーシス(模倣)をポイエーシス(創作)の本質としてとらえたように模倣して創作しようとすること自体はよいのだけれど、真善美の元になっている現実を見ないままフィクションを模倣してフィクションを作るのでは真善美からどんどん遠ざかる劣化コピーになってしまう。二次創作の同人誌みたいにデジタルを駆使して小手先の技術だけうまくなっても、現実を観察して分析して考察して創作に落とし込む能力がないのではたいしたクリエイターにならない。宮崎駿や西部邁はスマホに否定的だけれどこれを単に老害とは言えなくて、彼らのような高齢者はパソコンがなかった時代を生きたからこそどこにでもスマホを持ち歩く現代人が無自覚に失いつつあるものの重要性に気づいているのである。最近は作曲家で文化庁長官の都倉俊一が「デジタル技術はパンドラの箱を開けてしまったようなもの」と音楽にライブエンターテイメントの感覚がなくなったことに言及して批判されたけれど、デジタル加工した音では感動できないのは私も同意である。絵や音楽はソフトを駆使してデジタル加工すればうわべは上手い作品ができるけれど、それはデジタル技術がすごいのであってクリエイターがすごいわけではない。科学技術に頼って人間が現実の身体感覚から遠ざかるほど人間自身の価値が落ちているといえる。このまま人間の価値が落ちると人間は物事を考えて社会をよくするために何かを作る生産者でなくなって、人間の能力以上の機能を持った便利な製品に囲い込まれた無能な消費者という立場から抜け出せなくなるかもしれない。●あったら便利かもしれないバーチャルなんとか既にいろいろなものがゲームとかでバーチャル化されているけれど、バーチャルにしたら面白いかもしれないものをいちおう自分でも考えてみる。・バーチャルフード堅いものを噛めなかったり飲み込む力が弱くなった老人は流動食を食べているけれど、見た目がでろでろしていてあまりおいしそうに見えない。そこでVRヘッドセットとかで食べ物の見た目をバーチャルにしておいしそうにすれば食欲が増すかもしれない。あるいはダイエットをしている人がケーキの映像をみながらこんにゃくを食べたりすれば脳がケーキを食べたと錯覚してダイエットがはかどるかもしれない。・バーチャルフィットネス体を動かさない想像だけの筋トレでも筋肉が強化できることが研究で証明されている。怪我や病気で運動ができない人でもVRを使って仮想筋トレすることでリハビリがはかどるかもしれない。・バーチャル同居壁掛けモニタに監視カメラの映像を常時映して、インターフォンをオンラインで共有することで、離れたところに住む家族や恋人とすぐ隣の部屋で暮らしているような感覚で生活できて留守番や防犯とかの役に立つかもしれない。・バーチャル鏡姿をそのまま映すのでなくて、ちょっとかっこよく補正して映すデジタル鏡があったら不細工な人でも自信をもてるかもしれない。・バーチャル動物園世界中のあらゆる動物を網羅したノアの箱舟のような3Dの仮想動物園があれば教育や研究で役に立つかもしれない。あるいは保護された野生動物の子供にバーチャルな仲間の生態を見せることで社会性を持たせることができたりするかもしれない。・バーチャル守護霊スマホに憑依したバーチャル守護霊が毎日占いとか格言とかのアドバイスをくれたら面白いかもしれない。・バーチャル天国死期が近い人にVRヘッドセットできれいな花畑とかの映像を見せれば、死の恐怖が和らぐかもしれない。・バーチャル地獄殺人犯にVRヘッドセットでリアルなバーチャル地獄の映像を見せて被害者の断末魔を長時間聞かせれば、犯人の反省がはかどるかもしれない。・バーチャルデモ3Dアバターが仮想空間でバーチャルデモ行進をして、プロジェクションマッピングとかで国会議事堂周辺の建物に映像を映せば交通渋滞を起こさずに政治家にメッセージを訴えることができる。・バーチャル避難訓練学校の避難訓練はあまり緊張感がないけれど、VRゴーグルをして火事の煙が充満したり地震で物が上から落ちてきたり津波の水が押し寄せたりするリアルな仮想災害を体験しつつ避難訓練をすれば、緊張感をもって避難ができるようになるかもしれない。●小説はどうなるのか小説は文字で仮想世界を記述して読者の脳内に具体像を再現しているので、ある意味初期のバーチャルである。しかし小説は絵や音楽と違ってソフトを使った技術の底上げが誤字の自動修正や辞書機能やコピペくらいしかなくて内容のごまかしがきかないので、無数のネット小説が発表されても古い小説よりも出来がよいというわけでもなくて、他のジャンルよりも見劣りして衰退しつつある。ライトノベルが絵師ガチャと言われているように挿絵で売り上げが劇的に変わるのが典型的で、文章自体にはたいして価値がない。そのうえアニメやゲームのように映像と音がバーチャル化してしまうと、フィクションの世界に文字がまったく必要なくなってしまう。小説のとりえといえば製作コストが安いことくらいなので、いずれアニメやゲームの原作やシナリオとして他のメディアに吸収されていくのかもしれない。最近読んだ『千年の祈り』みたいに登場人物の名前だけ書いて外見を描写しない雑な人間の書き方に私は違和感があって、外面描写が乏しい小説はあまり楽しめない。バーチャルなものとして小説をとらえると、外面描写が乏しい小説は3Dでモデリングだけしてテクスチャマッピングをしていないようなものなので、仮想世界でモデルを動かすならちゃんとテクスチャを貼ってからにしてくれと言いたい。顔つきや服装の描写がないのでは名札をつけた棒人間が動いているようなものだし、それでは初代バーチャファイターのカクカクのポリゴン以下である。シナリオなら描写がなくても実物の俳優が演じることで補えるけれど、小説で描写がないのは面白さを損なう欠陥になる。というわけで小説が他のメディアに吸収されないためには、バーチャルな存在をリアルに感じられるほどの描写力が必要になると思う。
2021.05.08
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