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最近は芸能人が自殺したり、放火テロが頻発したりして物騒になっている。なぜ人間は小欲知足で穏やかにのんびり慎ましく生きることができないのか、欲と感情について考えることにした。●欲の扱い方・集団生活での禁欲人類は原始時代は本能のままに行動していたのだろうけれど、農業をして血縁以外の大勢の他人と協力して社会生活をするためには欲を制御する必要が出てきて、法律や宗教の戒律を作って理性で欲を制限しようとした。古代ギリシャでは肉と酒で乱痴気騒ぎをするバッコス崇拝に対して改革運動が起きて、ストア派は人格形成のための徳の訓練として禁欲した。ユダヤ教やキリスト教は審判に備えて禁欲した。イスラム教だとラマダンで断食して禁欲しているし、スーフィズムはさらに禁欲主義である。動物的な欲を抑えることで人間が他の動物とは違って神に愛される特別な存在となることができるので、一神教はたいてい禁欲的になる。仏教は出家して世俗から離れるやり方で禁欲をして、悪い欲から生まれる苦しみをなくそうとする。・資本主義社会での欲の解放中世のヒエラルキーが固定された社会では庶民はたいした欲を持っていなかったと思われる。農民は悪政に対して一揆を起こすことはあっても国家転覆までは狙っていなくてたいてい一矢報いた後は鎮圧されているし、中国だと農民から皇帝になったのは漢の劉邦と明の朱元璋くらいしかいない。しかし資本主義社会では庶民の欲望が解放された。プロテスタントが金を稼ぐことを正当化して事業を拡大して、金を稼ぐ能力がない貴族が没落していった。どんな身分に生まれようが誰でも金持ちになれる可能性がでてきたので、未来の成功を担保にして銀行から金を借りたり親戚から金を集めたりして投資したり事業を起こしたりして、その生産力を外国の領土や資源を奪うための軍事力として使って、世界中が利益を奪い合って世界大戦にまで発展した。・原始SNS時代の理性の喪失本能では食欲や性欲は自動的に制御されていて、満腹中枢が刺激されたら食欲はなくなるし、繁殖期を過ぎたらホルモンバランスが変わって性欲はなくなる。人間の脳の大きさや仕組みは一万年前からたいして変わっていないのに、欲は急激な社会の変化に伴って後天的に生まれたので、脳がその欲を制御しきれていない。特にSNSで数百万人にフォローされたりいいねされたりするような承認欲求は原始時代には想定していなかったタイプの欲なので脳が新しい欲に対して制御がうまくきかなくて、際限なくフォロワーを集めようとして過激なことをやったりお金を配ったりする人が出てくる。YouTuberやTikTokerのくだらない乱痴気騒ぎやそれを面白がる人たちには理性が欠如していて、人類は伝統的な価値観や生活様式から切り離されて原始SNS時代を生きる原始人となって、バッコス崇拝して酔って乱痴気騒ぎしていた頃の水準まで理性が退化してしまったようである。・富と名声が理性のたがをはずした封建時代には戦で武勲を立てた名声が貴族が領地を持つ正当性と権威の拠り所になっていたので、中世ヨーロッパの貴族は名声を気にするがゆえに富があっても倫理的なブレーキが働いて領民の救済とかのノブレスオブリージュを果たそうとしたし、名誉を汚されたら命懸けの決闘をして名誉を保ってきたし、だからこそ武勲を歌ったトルバドゥールの詩や騎士道物語も人気になった。富や名声は事業が成功したら後から必然的についてくるものだけれど、現代人はこの因果を逆転してとらえていて、有名になって金持ちになってモテたいという欲が先にあって、成功して欲を満たすための手段として事業を始めるようになる。この因果関係を間違えている人が多いので、やりたいことをやっただけでは満足せず、成功しないことをストレスとしてとらえるようになる。芸術なんかが典型的で、音楽が好きなわけでなくてモテたいからロックバンドをやるとか、いい小説を書くのが目的でなくて賞をとってちやほやされたいから小説を書くとか、有名になる手段として芸術をやりたがる人がいる。欲は行動の原動力になるという点では必ずしも悪いものではないけれど、欲の操縦を間違えると際限なく肥大した欲が満たされないストレスでアノミー的自殺に至ってしまう。猫はしばしば馬鹿扱いされるけれど、安全な住処があって飢えない程度の食べ物があれば幸せそうにしていて、SNSで有名になりたいとか金持ちになりたいとか思い煩うこともないし、自殺することもない。人間は衣食住が足りても満足せずに、生活に必要のないおもちゃやゲームのデータをコレクションしようとしてガチャを回して散財をして、遊ぶ金欲しさに犯罪をして、自ら生み出した欲や未来への不安に苦しめられて自殺していて、欲が制御できないという点では人間のほうが猫よりもよほど馬鹿である。●感情の扱い方・感情は間違う感情は出来事に対する単なる反応で、そこには論理がない。例えば夜にシーツが強風で飛ばされたのを見た人が幽霊を見たと思って恐怖を感じたとして、その恐怖の感情自体は本人にとっては現実の反応だけれど、事実としては幽霊がいることにはならない。感情には論理がないがゆえに正しいも間違いもないのだけれど、馬鹿な人は感情と論理を結び付けてしまって、自分がそう感じたから正しいはずだと思い込むので、しばしば感情に基づいた決断は非論理的になる。例えば2013年にリビアからイタリアへ難民を運ぶボートが沈没して海岸に難民の子供の死体が漂着したら、かわいそうだから難民を受け入れようという論調になって、大量の難民を受け入れることに反対する人はレイシストや人でなしとして感情的に批判されて、EUに移民や難民が殺到して2015年に欧州難民危機が起きた。論理的考えれば世界中のかわいそうな人を全員受け入れるか、世界中の独裁や紛争や貧困をなくして難民を生まないようにしなければ難民がかわいそうだという感情をなくすことができないし、そんなことはとうてい無理だしEUにそれをやる義務もないとわかりそうなものだけれど、EUのリベラルはこの論理を理解せずに中東やアフリカの難民や移民を毎年100万人以上受け入れて、ケルンで移民による集団暴行事件が起きたりして治安が悪化した挙句に根を上げて結局受け入れを制限して、ベラルーシとポーランドの国境におしよせた数千人のかわいそうなクルド人難民に放水して追い返した。感情は一時的なもので長続きしないので、一時の感情を元にして長期に影響を与える重要な判断をしてはいけない。それに感情はただの生理的反応なので反省も向上もない。しばしば欧米の底辺層が感情的になって暴動を起こしてスーパーマーケットや家電量販店を略奪したりするけれど、それは一時的な儲けや気晴らしにはなっても貧困や格差などの政治的な問題に対して論理的な解決になっていない。論理は検証して間違いがわかるし、間違い対して反省があるし、反省するがゆえに向上がある。古代ギリシアからの哲学的な論理の積み重ねで合理的な科学が発展して現代文明を築いたのに、人間は教育を受けないとその論理を理解できないので、いまだに感情的に非論理的な思考をする人が世界中に大勢いる。論理的に間違っていても、間違いを認めるのが悔しいとか恥をかきたくないとかで感情的に間違いを認めない人もいる。私はポスト・ケインズ派経済学の信用貨幣論が現実のデータと符合していて論理的に正しいと思うのだけれど、信用創造を否定して商品貨幣論や貨幣プール論を主張する主流派経済学者や財務省の官僚や評論家は日銀が異次元の金融緩和をしてもインフレしなくてデフレになって仮説と現実が符合しない理由を論理的に説明できないけど今までの政策の間違いを認めたくもないので感情に訴えるしかないようで、日本はタイタニック号みたいに氷山にぶつかるという矢野康治とか黒ひげ危機一髪みたいにいつかなんかのきっかけで破綻するという土居丈朗とか日本はすでに財政が破綻している裸の王様だという大前研一とかは恐怖を煽る感情的なたとえ話をしていてもはや論理になっていない。・感情のない機械の出現プログラミングには感情がないので論理を間違わなくて、将棋や囲碁では人間が怖くて打ちにくい手でも平気で打てるからAIは強い。裁判官も一律に前例主義で求刑に対して八掛けの判決しかしないならAIにするほうが効率的だし、トンデモ判決をする地裁の変な裁判官よりはAIのほうがましである。Forbesの「裁判官とAI、どちらの判断が正しいか。「被告40万人の釈放」が出した答え」という記事だと、AIのアルゴリズムのほうが保釈決定で人間よりもはるかに優れた判断をしたと書かれている。機械にはエラーがつきものなので機械を信用しない人もいるけれど、それでも感情任せで判断がころころ変わって利害に応じて手のひらをくるくるひっくり返す人間よりは機械のほうが基準が一定でエラーを修正できる点でましだと私は思う。この感情のない機械をたんなる生産設備としてでなく事務職や管理職としてうまく使いこなせるかどうかで今後の文明の発展度合いが変わってくるだろう。特にAI相手には賄賂や脅しが通用しなくなるので、縁故主義者や暴力団を排斥して意思決定プロセスの透明化をしたりできるようになるかもしれない。・感情の増幅装置の出現社会の変化に伴って欲の形が変化しても、感情は脳の機能なので感情自体は変化しない。原始時代から変わらない喜怒哀楽があったけれど、現代では感情を増幅して共感を呼ぶ装置としてSNSが使われるようになったのが昔とは違っている。このSNSは自由主義で孤立した人にとっては相性がよくて、他人とつながる道具としてスマホと一緒に一気に普及した。インターネットが出現する前は自分の意見を印刷するにもコストがかかったので、良識ある人しか本を出版していなかった。しかしSNSの出現で誰でも世界に向けて自分の意見を発信できるようになって、節度のない感情任せの意見を言うようになって、批判はエコーチャンバーで増幅されて中傷やヘイトスピーチに発展する。この憎悪の感情に振り回されて、中傷で逮捕される人や、中傷されて自殺する人が出てくるようになった。インターネットやSNSは欲と感情の両方で人間に害を及ぼし得る存在になって、YouTubeの低評価ボタンが非表示になったり、ヤフーニュースのコメントが荒れたら非表示になったりして、プロバイダー側も炎上対策をしているようだけれど、批判を封殺することで言論の自由を侵害しかねない問題もある。・宗教と芸術の感情のとらえ方西洋の宗教や哲学では道徳を善として推奨して、欲を悪として禁じる一方で、感情に対しては善とも悪ともみなしていなくて制限がない。論理的に考えれば人間の死は避けられないけれど、感情的には死を拒むので、西洋の一神教では死んだら天国に行って幸福になるとかで死の恐怖を薄れさせて感情的に満足させる方便を用意しているし、讃美歌やレクイエムのように喜びや悲しみの感情を表した芸術も発展した。一方で仏教では一切皆苦として苦しみの基になる感情自体を制限しようとする点で独特で、仏教的な考え方はマインドフルネスとして欧米にも受け入れられた。上座部仏教では瞬間的な幸福の感情を追い求めてもきりがないので現在だけ意識して過去の後悔や未来の不安をなくすという考え方なので、妄想や感情を書き連ねた小説をくだらない嘘とみなす。私はなるべく苦痛を少なくして過度な快楽を追い求めないという点では仏教やエピクロスと似た考え方だけれど、芸術観では仏教とは異なっていて、私は人間らしい感情は人間にしかないのだからその時々の一度限りの感情を楽しめばよいという考え方である。苦しみの基になる感情を捨てなくても、感情を芸術として昇華して苦しみを乗り越える方法もある。ミステリや恋愛小説は愛憎の感情を書かなかったらジャンル自体が成立しなくなるし、フィクションの失敗談も反面教師としては役に立つだろうし、現実世界で経験できることは限られているのだから妄想の世界でいろいろ経験してもよいではないか。仏教では悪い環境にいると生きることを見つめることができて修行にとって良いとしてとらえるし、芸術家は欠点のある人だらけで悩みが多いからこそネタも多くてリアルな感情を描き出せる。このように感情をどうとらえるかによって、悩み苦しみの感情を捨てて悟りを開いて覚者になるか、感情を作品に昇華して芸術家になるかの分かれ目になる。悟りを開いたら自分一人が苦しみから解放されるだけだけれど、作品にしたら大勢の人を楽しませることができるかもしれないので、私は苦しみも楽しみも全部の感情を糧にして創作するほうがよいと思う。プロでないと芸術作品を創作できないわけでもないし、ウェブ漫画で絵がそんなにうまくない素人の子育て奮闘記とか闘病日記とかにもけっこう需要があるように、作品にすることで同じ悩みを持つ他の人の役にたっている。感情は向上しないけれど、知識は蓄積するし技術は向上するし、感情を作品として昇華することで芸術は洗練されて知識も技術も他の人にも受け継がれていくので、それは有意義な人生の過ごし方だと思う。最近は大みそかの除夜の鐘さえもうるさいとクレームが来て中止しているそうで梵鐘メーカーの大手が破綻したけれど、除夜の鐘がなくなったところで煩悩がなくなるわけでもないので、年末年始の暇なときくらいは煩悩について考えたり、煩悩を元にして創作したりするのもよいと思う。
2021.12.31
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最近のコンテンツは何かのアクションをするよりも、何かに対するリアクションのほうが多いような気がするので、アクションとリアクションについて考えることにした。●アクションとリアクションとは何か・アクションアクションとは活動することである。フィクションだと登場人物が行動しないことには物語にならないので何かしらのアクションをしているけれど、格闘や銃撃戦やカーチェイスなどの派手な活動をする映画はアクション映画と呼ばれる。アクション映画は見栄えして盛り上がるのでフィクションの花形で、シュワルツェネッガーやスタローンとかの人気のハリウッドスターがアクション映画から出てきた。しかし派手なアクションには爆薬とかCGとかに金がかかるので製作費が高騰するのが欠点で、日本だとかつては『七人の侍』の三船敏郎みたいに時代劇で人気になったアクション俳優がいたけれど、もうアクションではワイヤーアクションやCGを駆使したハリウッド映画についていけなくなっていて、忠臣蔵のセットを作る金もないそうな。しかし小説や漫画はセットの予算を気にせず派手なアクションを書けるので、異世界転生チート無双するなろう小説やバトル系の漫画が人気になっている。・リアクション仕掛け(アクション)自体はたいしたことがなくても、それに対する反応を見せ場にするというコンテンツの作り方があって、テレビでお笑い芸人が熱々のおでんを食べたりドッキリを仕掛けられたりして大袈裟に反応するのがリアクション芸と呼ばれた。バラエティ番組で食レポをして「まいうー」とか「ウマーベラス」とか言ったり、VTRを見る芸能人の顔がワイプで切り抜かれて驚いたり涙ぐんだりする反応が映し出されたりするのもリアクションを見せ場にしたコンテンツである。YouTubeが登場してからは素人が食レポをしたりドッキリをしたりホラーゲームをして叫び声を上げたりしてリアクションをするようになった。YouTubeは企画はテレビの焼き直しと言われるけれど、そもそもリアクション芸は低予算でコンテンツを量産できるところに制作者側の需要があったわけだし、テレビでは素人ができる程度のことしかやっていなかったともいえる。しかしそうしたリアクションに何かオリジナルなものがあるかというとたいしたものがない。YouTuberは激辛のやきそばを食べるとかおにぎりを早食いするとかがバズると皆が同じことをやって、思想や技術での差別化がないのですぐ飽きられている。●フィクションにはリアクションが必要フィクションは誰が何をしたというアクションで出来事が作られていって因果関係でつながった一連の出来事が物語になるので、アクションが一番大事には違いないのだけれど、その一方でリアクションの役割はあまり考えられてない。例えばプロップの物語論には何かを禁じるとか騙そうとするとか家を出るとかのアクションの分類はあるけれどリアクションの分類はなくて、口伝の昔話にはリアクションがなかったかもしれない。しかし現代のフィクションでは娯楽として成立させるためにリアクションも重要である。私はリアクションが主体のコンテンツにはたいした価値がないと思っているけれど、かといってリアクションが全くなくてアクションをやりっぱなしでも駄目だと思うので、リアクションの役割を考えた。・話を盛り上げるためのリアクション誰が何をしてどうなったという出来事だけ書いて、そのアクションに対する登場人物のリアクションが書かれていないと話が盛り上がらない。例えば剣豪が戦ってやられ役が無言で死んで場面が終わるよりも、悶えながら遺言を残すとか、殺人現場に通りがかった酔っ払いが驚いて悲鳴を上げながら逃げていくとかのリアクションがほしいところである。ラップにはhype manというメインラッパーを補佐する役割の人がいて、ラップに合いの手を入れたりコール&レスポンスをしたりしてメインラッパーのアクションにリアクションして盛り上げ役をしていて、わちゃわちゃすることでノッてるような雰囲気が出る。・話を進めるためのリアクションアクションとリアクションの掛け合いをすることで、リアクションを次の展開につなげることでスムーズに物語を進めることができる。例えばミステリなら殺人事件が起きたときにその場にいた人たちが疑心暗鬼になって「あんたあの子に彼氏を寝取られて恨んでたじゃないッ」とか罵ったり怯えたりするようなリアクションをすると、場面を盛り上げるだけでなくてそれが次の殺人事件や推理といった新しいアクションにつながっていく。漫才コンビだと両方が出しゃばってボケると話の収集がつかなくなるので、片方が「なんやそれ、ありえへんわ」とつっこむリアクションをすることで笑いどころはここだよと観客にシグナルを送って、「ほんでどないしたん?」と漫才の進行を調整して次のネタにつなげている。お笑い芸人のツッコミ役が漫才の進行をコントロールしているので、テレビ番組の司会にも向いていて活躍しているのも当然といえる。このようなリアクションは物語を俯瞰して制御するメタ認知の役割をしている。昔話がいきなり川で桃を拾ったりいきなり動物を家来にして鬼退治に行ったりして唐突で意味不明な展開に感じられるのは、話を進めるためのリアクションがなくてアクションと次のアクションがうまくつながっていないからかもしれない。・読者の共感を促すためのリアクション人間は歳をとるにつれて無感動になっていく。子供は何をするにしても初めての体験が多くて、近所の公園にお出かけして古びたしょぼい遊具で楽しく遊んで、おやつはしょぼい駄菓子でもキャッキャと喜ぶのでちょろいもんである。ところが大人になるといろいろ経験して刺激に慣れて感動の閾値が高くなって、高級旅館のサービスを値踏みしてささいなことで不満をためて、有名店のスイーツを比較してケチをつけるようになって、感動するほどの体験がなかなかなくなる。しかし人間にはミラーニューロンがあって他人の行動を見るだけで共感できるので、リアクションをしている人に共感することによって無感動な人が感動を取り戻せるかもしれない。それゆえに出来事を書いたら、それに対する反応として登場人物の感情や思考とかの心理描写をするのが大事である。・販売促進のためのリアクションテレビの通販番組がいろいろある中でジャパネットたかたが流行ったのは、ハイテンションな商品の紹介がリアクションを兼ねていて、すごい便利でお買い得な商品だという感動や驚きが視聴者に伝わったからだろう。これは文学も見習うべきで、しばしば出版社が本が発売されたとツイートするけれど、これは感情のない単なる情報にすぎなくて販促になっていなくて、著者のファンなら反応するだろうけれどそれ以外の人は興味を持たない。それゆえに文芸評論家や書評家が共感を呼ぶようなリアクションをする必要がある。●若者のアクション離れフィクションの世界では登場人物のアクションで物語が作られていくけれど、現実の世界では若者が自分の物語の主人公であることをやめてしまって、美男美女や金持ちや有名人などの主人公属性を持った人のアクションを眺める村人Aになってしまった。昔はモボ・モガやフォークミュージックや竹の子族やパラパラやヤマンバギャルなどの若者発の文化があって若者が時代の最先端で流行を作っていたけれど、そういうものさえなくなりつつある。TikTokとかの動画配信は若者の間で流行っているけれど、企業が開発したフォーマット頼みという点では若者発の文化とは言えないかもしれない。ではなぜ若者はアクションをしなくなったのか考えてみる。・金ねンだわ何かの行動を起こすには金が要るし、逆に金がある人はたいてい何かの行動をする。旅行が典型的で、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」というクラシックの曲があるように第一次世界大戦後に金持ちになったアメリカ人はパリに押しかけたし、バブルの頃に金持ちになった日本人は海外旅行に出かけたし、中国で富裕層が増えたら日本で爆買いして豪遊しだした。あるいは貧乏でもネットがない時代は貧乏なりに自分で行動を起こさないと何も体験できなかったので、団塊の世代は国内旅行や登山や釣りとかのアウトドアを趣味にしていて、ギャンブルをするにしても競馬場まで出かける必要があったので地方競馬場にも需要があったし、バブル世代は恋人を見つけるにはナンパしないといけなかったので車を買ってブランド服を着てデートスポットに出かけて行った。ネットがない時代の人は貧乏でもそれなりに行動的だけれど、現代の貧乏人はネットで動画を見て他人のリアクションに自分を重ねて何でも疑似体験で済ませてしまって行動しなくなって、行動する少数の人と、それを眺める大勢の貧乏な人に分かれてしまった。例えばゲーミングPCを買う金がない人はゲーム実況者が最新のゲームを楽しそうに遊んでいるのを眺めているし、旅行する金がない人はリア充が友人と旅行している様子を投稿したSNSを眺めているし、ペットを飼う金がない人は犬や猫の飼い主がペットと戯れている動画を眺めているし、恋人と付き合う金がない人はリアリティー番組で金持ちが結婚相手を選んだり痴話げんかしたりする様子を眺めているし、ギャンブルをする金がない人はパチスロ系YouTuberとかの動画を見て他人がギャンブルして一喜一憂する様子を眺めている。金がないので代償行為として他人の行動を眺める人が増えたのでSNSが流行したのだろう。金がなくなると無気力になるのは世界で共通していて、就職氷河期世代のサイレントテロ、中国の寝そべり族、韓国のN放世代のどれも金がないのが原因で、本来は活動的な若者が恋愛、結婚、子供、家、車、夢をあきらめて活動を停止している。鈴木みその「ゲーム専門学校から見た風景」という2000年頃の漫画で、ゲーム専門学校の生徒は生きる気力が足りねえと言われていたけれど、そうした就職氷河期世代で大学に進学しなかった一部の生徒だけでなくて、失われた三十年の貧困の中で大勢の若者が生きる気力をなくしているようである。・他人が気になンだわ起業家や芸術家はいちいち他人の顔色を窺っていたら行動できないので、たいてい打たれ強くて批判は気にしないでやりたいことをやっている。しかし一人っ子とかで甘やかされて育った豆腐メンタルな人は批判されたくないので自発的に行動をしたがらない。日本だと空気を読んで協調することを強いられる同調圧力があって個人主義で協調しない人は批判されるし、若者はSNSのグループに加わって即レスしないと仲間外れになるので、社会の中で自分のポジションを確保するために他人の反応が気になってしょうがないのかもしれない。メイクも服装も言葉遣いもインフルエンサーの真似をして流行から外れないようにして、群れに順応する量産型女子ができあがる。他人の目を気にして無理に痩せようとして摂食障害になったり、醜形恐怖症で美容整形依存になったり、引きこもったりする人もいる。・反応してほしいンだわ自由主義の社会では地域や家族といったコミュニティから分断されて孤独な人だらけである。VTuberはデジタルキャバクラになっていて、現実世界に居場所がないカオナシが投げ銭してコメントを読んでもらって一時的な人間関係を作って満足している。愛情不足の子供がいたずらして親の気を引きたがるように、有名人を中傷したり、掲示板で逆張り炎上コメントをしたりして反応してほしがる人もいて、他人の反応で自分の存在を確かめようとしている。二次創作も原作に対する一種のリアクションで、無名の素人作家でも人気作品の二次創作なら読者がついてコメントとかのリアクションがあるので、読んでもらえることがうれしくて二次創作をやりたがる人が多いけれど、その一方で苦労する割に反応が乏しいオリジナル作品を作ろうとする人が少なくなっている。少年漫画誌だとオリジナル作品を連載したがる人が減ったので編集者は成人向け雑誌の漫画家にまで声をかけて漫画家を確保しているそうな。・どうすりゃいいかわかんねンだわ勉強をするにも金がかかるので、金がないと勉強できない。そのうえコミュニティから孤立した人は相談できるメンターもいない。親からあれをやるなこれをやれと過干渉されて自主性が育たなくて指示がないと行動できない人もいる。教養がないと価値判断の基準がなくて何が正解で何をするべきかという確信がもてないので、他人の反応を伺って他人に答えを求めて、群れが大きいほど安心して流れに身を任せるようになってインフルエンサーを妄信するようになる。芸術も見よう見まねのものばかりになって、なろう小説は異世界転生や悪役令嬢転生のテンプレをなぞる似たような物語が大量生産されているし、ニコニコ動画の踊ってみた動画やTikTokの踊りの動画も他人の真似止まりである。・代わりにやってほしいンだわ現代は宿題の代行、レポートの代筆、ゲームのレベル上げの代行までネットで他人にやってもらえるようになって、子供の頃から横着して物事を自分でやらなくなっている。しかし自分で行動しなくて他人の行動を眺めているうちに、他人を自分の思い通りに動かしたくていろいろ指図するようになる。特にFPSは民度が低くて、ゲーム実況者はミスしたりするとああしろこうしろ下手くそと罵詈雑言が飛んでくるし、なろう小説だと主人公が苦境になったりしてストレスがある展開だとコメント欄で作者に次の展開を指図する読者がいるそうな。不満があるなら自分でやるか、見るのをやめればいいじゃんという話なのだけれど、そうせずに思い通りにならないことに不満をためこんで他人を自分の思い通りに操ろうとして恫喝や脅迫したりする人がでてくる。うさんくさいビジネス系インフルエンサーが台頭したり巨額の投資詐欺が横行したりするのは、自分の代わりに成功への道筋を考えてもらって自分を成功に導いてほしいという他力本願の甘えた人が多いからだろう。●自分の人生を生きるンだプロスポーツやコンサートやミュージカルなどはファンがいないと興行が成り立たないように、才能がある他人を応援するのは立派な文化活動だし、他人の活躍を眺めて共感するだけでもそれなりに充実感がある。しかし食事や恋愛とかの人生の幸福の根幹にある分野でさえ自分で行動しないでSNSで有名人の生活を眺める傍観者のままなのでは自分の人生を生きているとはいえないし、自由意思の持ち腐れである。仕事で自己実現できないなら、せめて趣味では自分が主体となって行動を起こすべきだろう。趣味で失敗したところで誰かに怒られるわけでもないし、何かをやってみないことには失敗から学ぶこともできないのだから好きにやればいいのである。いちいち他人の反応を気にしなくても、自分の行動に自分が満足したらそれでよいではないか。起業や投資は失敗したらダメージが大きいけれど、リスクが高いことをやらない理由にするのでなくて、勉強して失敗の可能性を低くしたうえでやればいい。高齢者が死ぬ前に後悔することについてのアンケートはいろいろあって記事によって回答が違うけれど、チャレンジしなかったことや他人の目を気にし過ぎたことを後悔している人が多いそうである。歳をとるほど膝が痛いとか環境を変えるのが面倒くさいとかで行動しない理由が増えていくので、若くて元気なうちにいろいろ行動するほうがよい。成功しなくても何かを一生懸命やっていたらドーパミンがどぱどぱ出てそれなりに充実感があるもので、他人を眺めるよりもよっぽど楽しいと思う。
2021.12.23
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貧乏な騎手が馬主に逆らったり女子アナに惚れられたりする話。第14回小説すばる新人賞受賞作。●あらすじ28歳のフリーの騎手の八弥は人づきあいが悪くて営業をしないので騎乗依頼がほとんどなくて池田厩舎に頼って貧乏暮らしをしていた。かつてマスコミにアイドル扱いされた美人調教師の秋月智子が調教するドロップコスモに乗る機会を得たら実力があるのに怠けて走らない馬だったものの3位に入る。その後気性が荒い騙馬のベンライオンで勝つ。期待の新馬オウショウサンデーに乗って出遅れるものの追い込みで圧勝して成金の馬主の伊能に気に入られて、次戦は馬の意思を優先して逃げで勝つものの追い込みにロマンを求める馬主と衝突してオウショウサンデーが転厩してしまう。新人調教師の多治見の騎乗依頼で不器用なネオリックで勝つものの金欠になって、弟弟子の大路が八弥に厩舎で留守番するアルバイトを世話した縁で名門の厩舎から福島の未勝利戦の騎乗依頼が来て、厩務員の福田に甘やかされた根性なしのミラクルルイスで勝利する。女子アナの会沢ミカに同期の天才騎手の生駒についてインタビューされて気に入られる。オウショウサンデーは追い込みにこだわって負け続きだったものの、騎手が生駒に代わって馬のやりたいように走らせたら圧勝する。兄弟子の糺が無理な減量をして体重調整に失敗する原因になったリエラブリーが引退するというので八弥が最後に重賞に出させて本命のオウショウエスケプに勝負を仕掛けたら惨敗して、それが馬主の伊能への嫌がらせと取られて、オウショウサンデーの逃げ勝負のロマンを求める伊能から八弥に天皇賞のオウショウエスケプの騎乗依頼が来て、八弥は逃げ勝負を仕掛ける。●感想八弥が焦点人物で三人称で時系列順に展開する形式。良い点としては競馬用語の説明を入れるタイミングがちょうどよくて説明がストーリー展開のじゃまにならないし、厩舎のいざこざの場面とレースの場面を交互に展開していてすぐ次のレースになるのでテンポがよくて読みやすいし、騎手が馬を制御する様子の描写はよく書けている。欠点としては純文学に比べたら外面描写が少ない。15ページで「並ぶと八弥と同じくらいの背丈で、同じようにスリムな体型だったが」と秋月智子を描写していて、スタイルがよいと言いたいのはわかるけれど、そもそも八弥の身長と体重が具体的に書かれていないので比較されてもよくわからない。調べてみたら体重52キロ前後の騎手が多いそうで、兄弟子が体重調整で失敗した話が書いてあるだけになおさら八弥の体重や自己管理方法を書かない理由がわからない。エンタメとしてみれば個性的な馬を乗りこなす話は面白いのだけれど、八弥の物語というよりも盛り上がるストーリー展開合うように主人公を作ったようなご都合主義的な人物像なのはリアリティが乏しくなる。訳あり厩務員とかの登場人物たちは個性を出すためなのか誇張気味で、エピソードごとに人物を使い捨てる感じで伏線として効いてこなくて構成力が足りない。秋月智子がヒロインっぽく登場したかと思いきや会沢ミカにヒロイン枠を取られるし、その後両方ともプロットに絡むような出番があるわけでもなくて賑やかし要員になっていてあまり存在意義がない。それに出てくる女性がことごとく美人で八弥に好意を持っているのもご都合主義的で、独身男が風邪をひいたら美女が看病しに来るというラブコメによくあるご都合主義のテンプレ展開は一層リアリティがなくなる。長期連載の漫画なら場面つなぎで看病シーンを使うのもわかるけれど、書下ろし小説ならわざわざテンプレ展開を書く必要がなくて削ってもいい部分で、入念に取材した見せ場よりもこういう重要でない部分に作者の地力が出る。この辺は新人らしい未熟さがある。時系列順に物語が展開するのはわかりやすいのでこれが悪いわけではないのだけれど、三人称にしたのだから焦点人物の切り替えとかの構成に工夫がほしいところ。ジョッキーを主題にするにしても、八弥を焦点人物として固定せずに様々な騎手の群像劇にしたら違った面白さが出たかもしれない。例えば御崎と野田の引退レースは八弥とはあまり関係のない話なので八弥目線で書かずに御崎を焦点人物にしてもいいところである。この本は10万部売れたそうで、新人の小説としてはヒットしたようである。Wikipediaを見たらこの本は作者が24歳くらいのときの作品のようで、その後はスポーツドクターとかサッカーとかのスポーツ系のフィクションをちょっと書いて2012年から新作が出ていなくてデビュー作が代表作のまま伸びなかったようで、公式HPもSNSもないので活動しているのかわからない。作家は早くデビューしたところで長く活躍できるわけでもなくて、ストックが少ないと長続きしないのが難しい所である。★★★☆☆ジョッキー (集英社文庫) [ 松樹剛史 ]
2021.12.20
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最近は書評家の豊崎由美がTikTokで本を紹介しているけんごをくさしたことでけんごがTikTokをやめると言って、業界の損失だの老害だのと豊崎由美が批判されている。これについて考えることにした。●出来事のあらまし詳しいことはライターの飯田一史の「書評家が本紹介TikTokerけんごをくさし、けんごが活動休止を決めた件は出版業界にとって大損害」という記事に書いてあるけれど、ヤフーニュースの記事は時間がたつと削除されるので一応コピペしておくと、豊崎由美がTwitterで正直な気持ちを書きます。わたしはTikTokみたいなもんで本を紹介して、そんな杜撰な紹介で本が売れたからって、だからどうしたとしか思いませんね。そんなのは一時の嵐。一時の嵐に翻弄されるのは馬鹿馬鹿しくないですか?あの人、書評書けるんですか?とツイートして、それをうけてけんごが書けません。僕はただの読書好きです。書けないですが、多くの方にこの素敵な一冊を知ってもらいたいという気持ちは誰にも負けないくらい強いです。読書をしたことない方が僕の紹介を観て「この作品、最高でした」「小説って面白いですね」と言ってくれることがどれだけ幸せなことか知ってますか?とツイートしてTikTokでの活動を休止したそうな。●本を紹介する目的1.内容優先一般的な書評では本の紹介で内容の良し悪しを伝えることを目的にしている。良し悪しをどう判断するかは人によって違うので、他人の書評を見ると自分とは違う解釈をしていたりして理解が深まるし、芸術観が似ている人の書評は本を選ぶ参考になる。たぶん豊崎由美はこの考え方だろう。2.売上優先出版社や本屋とかの出版業界関係者は本の紹介で興味を持ってもらって本を売ることを目的にしている。本の帯の芸能人の紹介コメントや本屋の店員が書いたポップや王様のブランチの本の紹介などはこれに該当する。出版関係者は作品を批判されると売り上げが下がるので内容を優先する人を敵視する。出版関係者は素人の本の紹介だろうが若者が本に興味を持って売上に貢献して出版社も作家も儲かるんだからいいじゃんという考え方で、けんごを擁護して豊崎由美を批判している。3.作者優先本の紹介で作家のファンを増やすことを目的にしている人がいる。作家自身や作家の熱心なファンがこのタイプで、いわゆる布教活動をしている。打たれ弱いアマチュア作家やナイーブなファンは内容を優先する人が作品を批判すると、頑張っている人を悪く言うなんてひどいといって敵視する。4.読者優先本の紹介で他の読者にも楽しんでほしい、楽しさを共有したいという人がいる。一人で読書するよりも読書会をして他人とつながりたがるタイプである。たぶんけんごはこの考え方だろう。ナイーブな読者は内容を優先する人が作品を批判すると、読書を楽しんでいるのに粗さがしして楽しい気分を台無しにするなんてひどいといって敵視する。何を優先するかは単一な目的だけでなくて複合的な目的もあるだろうし、プロ書評家は内容と売り上げの両方を優先するだろうけれど、内容を優先して悪いところをあげつらう人は他を優先する人から嫌われるという点では共通していて、amazonでも批判レビューは売り上げが減るので削除されたりする。しかし良し悪しの議論がなくて賞賛するだけでは読者の審美眼が鍛えられないし、作者にフィードバックが届かなくて作品の質も落ちるので、褒める書評だけでは文学は衰退してしまうだろう。私は内容優先の考え方で、本屋大賞で書店員が本を選んだり芸術観がない有名人がおすすめしたりして本が売れたところで良い作品だという証明にはならないと思う。それに売り上げを優先する人はたいてい作品の長所だけ紹介して短所を無視して読者に売りつけようとするので不誠実である。それゆえに私はけんごにも本屋大賞にも王様のブランチの本の紹介にも興味がないけれど、だからといってそういうものがなくなればいいとは思わない。玄人の書評だろうが素人の本の紹介だろうが情報がなければ興味を持つきっかけもなくなってしまうし、人によって本を紹介する目的が違うのだから、それぞれが自分の目的を達成したらそれでよい。傑作を探し求めている目の肥えた読者と巷で話題の本を読めれば満足する程度のミーハーな読者は棲み分ければ双方が満足するだろう。本を紹介する目的が違う人に対して自分の基準に当てはめて批判しても相手が乗ってこないのでは意味がないので、豊崎由美はけんごに書評できるのかと自分の基準を要求する必要はなかったし、けんごは「多くの方にこの素敵な一冊を知ってもらいたいという気持ちは誰にも負けないくらい強い」というのが本音なら書評できないからといってTikTokを辞める必要がなかったし、無駄に喧嘩して双方にとって不毛な結果になった。●人気のある素人の台頭と人気のない専門家の排斥の傾向素人のインフルエンサーが歓迎されてベテランの書評家と対立したこの出来事と似たようなケースが他にもある。例えばオリラジ中田がYouTubeでちょっと間違った歴史解説をして専門家に批判されたり、ひろゆきがいっちょかみでいろいろな分野を批判して専門家に論破されたり、ワイドショーで芸能人が政治や経済に的外れなコメントしたりしている。これに対しても人気者を出して若者が政治や経済に興味をもつきっかけになるならいいじゃんという人と、専門家が正しい情報やよく考えた意見を発信するべきだという人がいる。私は後者の考え方で、人気者が間違った情報を伝えるのは無責任だし、それを専門家が批判するのも当然だと思う。これを人気のない専門家が人気のある素人に嫉妬していると感情論でとらえるのは浅慮で、人気者がもてはやされて専門性が必要な分野に進出して専門家が長年積み上げた知見が軽視されて仕事を奪われるのでは学術的研究の衰退と衆愚化につながる。このような専門家の排斥はニュースや教育やスポーツやゲームとかのどんな分野でも起こりうる。人気のアイドルが昔から〇〇のファンだったとかいって仕事をもらっても実はファンでなくて付け焼き刃の的外れなコメントしかできなかったりして、本当にその分野が好きな人からしたらそうした素人のコンテンツは満足できないものになる。最近は櫻井翔が「news zero」の真珠湾攻撃特集で「アメリカ兵を殺してしまったという感覚は?」と質問したことで炎上したように、インタビューは聞く側に知識がないと相手に的確な質問ができない。人気者を使えば視聴率は上がるのだろうけれど、それで番組の質が下がるのでは番組を作る意義がなくなりかねない。専門家が作ったコンテンツは時間が経っても価値を保っているけれど、人気者が作ったコンテンツはたいてい一時的な需要しかなくて作者の人気がなくなったら作品もオワコンになる。例えば水嶋ヒロが齋藤智裕名義で出した『KAGEROU』がいくら売れたところで文学の発展にたいして寄与しないし、売り上げが増えて若者の読書離れを防ぐから芸能人が売名のために書いたくだらない小説を歓迎しようという人は本好きにはあまりいないと思う。若者が読書離れしているのは小説がゲームやYouTubeとかの他の娯楽よりも面白くなくてコスパが悪いからだし、そこを宣伝でなんとかしようとして人気者に頼って一時的に売り上げを増やしたところで価値が伴わなければ長期的に先細りして衰退するので、目先の売上よりも価値を追求することのほうが大事だと私は思う。本当に価値があるものは貴重な時間や金を費やしてでも欲しくなるものである。
2021.12.13
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原始時代から現代までのサピエンスの社会の変化をざっくりと解説した本。●各章の面白かったところのまとめ第1部 認知革命第1章 唯一生き延びた人類種人間は二足歩行するようになって女性の骨盤が小さくなったので未熟な状態で子供を産むようになり、子育てには仲間が力を合わせる必要があるので社会的絆を結べる者が進化で優遇されて、未熟な状態で生まれるがゆえに他のどの動物よりも教育して社会生活に順応させることができる。30万年前に日常的に火を使うようになって調理できるようになり、エネルギーを使う腸が短くなったぶん頭が発達したと考える学者もいる。ホモ・サピエンスと他の人類が交わったという交雑説と、ホモ・サピエンスが他の人類を滅亡させた代替説があって、DNAの調査で中東とヨーロッパの現代人のDNAのうち1-4%がネアンデルタール人のDNAで、オーストラリア先住民の固有の遺伝子の最大6%にデニソワ人の遺伝子があったので、一部は交雑したことが判明した。第2章 虚構が協力を可能にしたホモ・サピエンスは共通の神話という虚構を集団で信じることで協力できるようになった。社会的な動物の行動は遺伝子によって決まっていて突然変異なしでは行動は変化しなくて、ホモ・エレクトスは200万年石器を使い続けていたが、ホモ・サピエンスは認知革命によって遺伝子や環境の変化を必要とせずに振る舞いを変えて新しい行動を後の世代に伝えた。以前よりも大量の情報を伝えられるようになって、大きくまとまりがある集団を作って、見知らぬ人同士で協力できるようになって、協力して道具を作れるようになって進歩した。第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし進化心理学では現在の人間の社会的特徴や心理的特徴の多くは農耕以前の長い狩猟採集時代に形成されたと言われている。狩猟採集民は生き延びるために誰もが素晴らしい能力を持つ必要があった一方で、狩猟採集時代以降は農業や工業で他者の技能に頼れるようになって脳の大きさは縮小した。狩猟採集民は資源が豊富で様々な食料をとっていて栄養不良になりにくい一方で、農民は小麦やジャガイモや稲などの単一の作物でカロリーの大半をとって栄養素を欠いていた。犬しか飼いならしていない狩猟採集民は家畜由来の疫病にかからなくてまばらに住んでいたので感染症にもならなかったが、農耕社会や工業社会では人口が密集した不潔な定住地で暮らしていた。狩猟採集民は平和で農業革命で私有財産を蓄えるようになってから戦争や暴力が現れた説と、狩猟採集民は並外れて残酷だという説があるが、どちらも証拠がない。狩猟採集民は多種多様な宗教と社会構造を持っていたので場所や時期によって暴力の度合いも様々だったと思われる。第4章 史上最も危険な種サピエンスは認知革命の後にアフロ・ユーラシア大陸から移住するのに必要な技術や組織力を獲得した。4万5千年前にインドネシアの島に住んでいたサピエンスが海洋社会を発達させてオーストラリア大陸へ移住して、その後数千年で体重が50キロ以上のオーストラリア大陸の動物24種のうち23種が絶滅して生態系が変わったが、気候変動が原因とは考えにくい。第2部 農業革命第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇放浪の狩猟採集民には乳幼児が重荷なので子供を産む感覚を3-4年置いていたが、中東の気候が小麦の育成に理想的になってナトゥーフ人が小麦を栽培して定住するようになり、村落で食料の供給が増えると女性は毎年子供を産めるようになって、子供を母乳でなく粥で育てられるようになると余剰の食物はなくなって兄弟姉妹と競っておかゆを手に入れようとして子供の死亡率が急上昇して、ほとんどの農耕社会では3人に1人の子供が20歳になる前に死亡したが、死亡率の増加を出生率の増加が上回って負担が大きくなっていった。何世代もかけて社会が変わったころには以前の暮らしを思い出せる人がいなくなって、人口が増加して後戻りができなくなったので、農耕をやめなかった。第6章 神話による社会の拡大狩猟採集民はその日暮らしで食べ物を保存したり所有物を増やしたりするのが難しかったので未来を考えなかったが、農業は未来のために働く必要があって、干ばつや洪水などの未来を心配して手を打つ必要があった。余剰食糧と輸送技術が組み合わさって多くの人が歳に密集して暮らせるようになったが、養えるというだけでは分配や紛争の解決には不十分で、神話を共有していたおかげで見知らぬ人同士が協力できた。ハンムラビ法典もアメリカ合衆国の独立宣言も神話で、共同主観的な想像上の秩序である。第7章 書記体系の発明アリやミツバチは社会を維持するのに必要な情報の大半がゲノムにコード化されているが、サピエンスの社会秩序は想像上のものなので、DNAの複製を作って子孫に伝えるだけでは秩序を保つのに不可欠な情報を維持できない。帝国は法律や税金の記録や目録などの膨大な量の情報を生み出すが、人間の脳は容量が限られていて、死ぬと脳内の情報が消えて、人間の脳は動植物の形状や集団の関係などの特定の種類の情報だけを処理するように適応して大量の数理的データを扱う必要に迫られなかったので、脳は帝国サイズのデータベースの保存装置としてはふさわしくない。古代シュメール人は脳の外で情報を処理して保存する書記というシステムを開発して、都市や王国や帝国の出現への道を開いた。アンデスでは縄に結び目を作るキープという書記体系に数理的データを記録した。第8章 想像上のヒエラルキーと差別人類は大規模な協力ネットワークを維持するのに必要な生物学的本能を欠いているのに、想像上の秩序を生み出して、書記体系を考案することでネットワークを形成したが、その秩序によってヒエラルキーを成す架空の集団に分けられた。ヒエラルキーのおかげで見ず知らずの人同士が個人的に知り合うために必要とされる時間とエネルギーを浪費しなくてもお互いをどう扱うべきなのか知ることができる。能力を磨く機会があるかどうかはヒエラルキーのどの位置にいるかで決まり、違う階級の人が完全に同じ能力を開発したとしても異なるルールで勝負しなければならないので同等の成功を収める可能性は低い。さらに穢れと清浄の概念が支配階級が自らの特権を維持するために利用されて、女性やユダヤ人やロマやゲイや黒人などは穢れの元と思い込まされて分離されて差別される悪循環になる。第3部 人類の統一第9章 統一へ向かう世界ホモサピエンスは人々を「私たち」と「彼ら」の二つに分けられると考えるように進化したが、認知革命を境に彼らを兄弟や友人と想像して見ず知らずの人と協力し始めた。紀元前1000年期に普遍的な秩序となる可能性を持った貨幣、帝国、宗教が登場して、私たちVS彼らという二分法を超越した。第10章 最強の征服者、貨幣狩猟採集民には貨幣がなく、集団は経済的に自立していて、よその人から手に入れる必要があるのは地元では手に入らない少数の珍しい品だけだったので単純な物々交換ができた。都市や王国が台頭して輸送インフラが充実すると、靴職人などの専門職やワインやオリーブ油などの製品に特化した村落ができて、専門職同士の物々交換の管理に問題がでて、貨幣を作り出した。王が貨幣を信頼してそれで税金を払うように要求するので我々も貨幣を信頼していて、貨幣の偽造は君主の支配権の侵害なので大逆罪として拷問や死刑になった。歴史上の最初の貨幣はシュメール人の大麦貨幣で、特定の量の大麦のシラが普遍的尺度として使われたが、保存や運搬が難しかった。紀元前3000年紀半ばに古代メソポタミアで銀の重さを単位にするシェケルが出現して、やがて硬化の誕生につながって、リュディアの王アリュアッテスが紀元前640年ごろに史上初の硬化が作られた。ローマのデナリウス銀貨は信頼が厚くて帝国の外でも使われて、デナリウスは硬貨の総称になって、イスラム教国家では名前がアラビア語化されてディナールを発行した。第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン帝国は異なる文化的アイデンティティと独自の領土をいくつもの別個の民族を支配していること、変更可能な境界と潜在的に無尽の欲があることを特徴とする。ハプスブルク帝国が婚姻同盟によってまとめあげられたように帝国は軍事的征服によって出現する必要はなく、独裁的な皇帝に支配されている必要もなく、大きさも関係なくてアテネ帝国やアステカ帝国のような小さな帝国もある。帝国は過去2500年で世界で最も一般的な政治組織で、非常に安定した統治形態だったが、帝国を建設するにはたいてい大量の人を殺戮して残り全員を迫害する必要があった。第12章 宗教という超人間的秩序狩猟採集民は動植物を対等の地位とみなしていたが、農業革命には宗教革命が伴っていて動植物は資産に格下げされた。人間は支配した動物を繁殖させる方法を悩んで、豊穣の女神、空の神、医療の神などの神々が人間と口の利けない動植物との仲立ちをしてこの問題の解決策を提供したので重要性を獲得して多神教の宗教の出現につながった。多神教は力の限られた多数の神的存在を信じているので、度量が広くて異端者や異教徒を迫害することはめったにない。多神教の信者の一部は自分の守護神を気に入って、自分の神が唯一の神で宇宙の至高の神的存在であると信じて一神教が生まれた。多神教では善と悪の対立する力の存在を認める二元論があったが、一神教では全知全能の神がなぜ世界に悪や苦しみがあることを許しているのか説明するのに困り、神はそうすることで人間に自由意思を持たせているのだと説明するものの、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教は悪魔の存在を信じている人が多い。人間には矛盾しているものを信じる才能があって、混合主義と呼ばれる。第13章 歴史の必然と謎めいた選択多数の小さな文化から少数の大きな文化へ、ついには単一のグローバルな社会への変遷は人類史の必然的結果だった。歴史は決定論では説明できないし、二次のカオス系なので正確に予想することは決してできない。歴史の選択は人類の利益のためになされるわけではない。第4部 科学革命第14章 無知の発見と近代科学の成立1500年ごろまでは人類は新たな力を獲得する能力が自らにあるとは思えなかったが、過去500年間に科学研究に投資することで自らの能力を高められると信じるようになった。近代科学は進んで無知を認める意思があり、観察と数学を中心にして説にまとめあげて、テクノロジーの開発で新しい力の獲得を目指す点で従来の知識の伝統と異なる。第15章 科学と帝国の融合コペルニクスが太陽が宇宙の中心に位置していると主張した後に天文学者は太陽は地球からどれだけ離れているかに興味を持って、太陽と地球を結ぶ線上を近世が通過する時間を観測するためにヨーロッパから世界各地に遠征隊が出向いて、ロンドン王立協会は天文学者チャールズ・グリーンをタヒチ島に派遣することにして、植物学者や科学者や画家を同行させてクック船長が指揮する遠征隊が1769年にタヒチを調査した。クックは柑橘類で壊血病が回復するというイギリスの医師ジェイムズ・リンドの手法を取り入れてリンドの手法の正しさを証明しただけでなく、天文学、地理学、気象学、人類学に関するデータは政治や軍事にも価値があって、イギリスが世界の海を支配して地球の裏側にまで軍隊を派遣する力を持つことに貢献して、オーストラリア、タスマニア、ニュージーランドが征服されて植民地としてヨーロッパ人が入植して先住民が殺戮された。ヨーロッパはアジアの列強には及ばなかったが、アジアの国々が外界に興味を持っていなかったのでヨーロッパ人がアメリカを征服して海上での覇権を得ることができた。フランス人やアメリカ人はイギリスの最も重要な神話と社会構造をすでに取り入れていたのでイギリスを見習ったが、中国やペルシアは考え方や社会の組織が異なっていたので、すぐに模倣したり取り込んだりできなかった。第16章 拡大するパイという資本主義のマジック近代以前はビジネスはゼロサムゲームのようにとらえられて、パイの大きさが変わらないので誰かがたっぷり取ると誰かの取り分が減ると考えられて、多くの文化で大金を稼ぐことが害悪とみなされて、経済が停滞したままだった。そこに科学革命が起きて、進歩という考え方が登場して経済に取り入れられて、将来に信頼を寄せるようになり、信用(クレジット)に基づく経済活動で将来のお金で現在を築けるようになった。アダム・スミスが『国富論』で個人起業家の利益が増すことが全体の富の増加の反映の基本だという主張は人類史上屈指の画期的な思想だった。自由市場資本主義は利益が公正な方法で得られることも公正な方法で分配されることも保証できず、成長が至高の善として倫理的なたがが外れると大惨事につながり、奴隷貿易が盛んになり、19世紀の産業革命は無数の労働者を貧困に追いやった。第17章 産業の推進力経済成長にはエネルギーと原材料が必要で、どちらも有限だがどちらかが不足して経済成長が減速する恐れが出るたびに科学とテクノロジーの研究に資本が流れ込んで、既存の資源のより効率的な利用法だけでなく、新しい種類のエネルギーと原材料が見つかった。産業革命以前は木、風力、水力のエネルギーを使っていたものの別の種類のエネルギーに変換する方法がわからなくて、使うことができるエネルギー変換装置は人間と動物の体だけだったが、産業革命で蒸気を動力に変換できるようになった。第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和産業革命は人間社会に大激変をもたらして、時間遵守、都市か、小作農階級の消滅、工業プロレタリアートの出現、庶民の地位向上、民主化、若者文化、家父長制の崩壊などがあるが、最も重大な社会変革は家族と地域コミュニティの崩壊と、それに取って代わる国家と市場の台頭だった。親密なコミュニティは衰退して、国民と消費者という想像上のコミュニティが台頭して、膨大な数の見知らぬ人々が自分と同じコミニティに帰属して、同じ過去、同じ利益、同じ未来を共有していると想像させようとしている。暴力の大部分は家族やコミュニティ間の不和の結果だったが、国家の台頭のおかげで暴力は減少した。核兵器で戦争の代償が大きくなったことと、戦争で得られる利益が減少したことで帝国は衰退する。歴史の大半で敵の領土を略奪したり併合したりすることで畑、家畜、奴隷、金などの富を手に入れられたが、今では富は主に人的資源、技術的ノウハウ、銀行のような複合的な社会経済組織からなるので富を奪うのは困難になっていて、イラクのクウェート侵攻のように旧来の物質的な富に依存する地域では国家間の全面的な戦争が起きている。伝統的な農耕経済では遠隔地との取引や外国への投資はごくわずかで平和にたいした得はなかったが、現代の資本主義経済では対外貿易や対外投資が重要になって平和からはこれまでにないほどの利益が上がるようになった。第19章 文明は人類を幸福にしたのか富は幸福をもたらすが、一定の水準を超えるとほとんど意味を持たなくなる。家族やコミュニティは富や健康よりも幸福感に大きな影響を及ぼすが、過去二世紀の物質面の劇的な状況改善は家族やコミュニティの崩壊で相殺されてしまった可能性がある。幸福は客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。科学から見た幸福では主観的厚生は外部要因でなく、神経やニューロンやシナプスやセロトニンやドーパミンやオキシトシンなどの生化学物質に決定される。仏教は幸せは外の世界の出来事でなく体の中で起こっている過程に起因するという生物学的な見識を受け入れているが、つかの間の感情を空しく求めることが苦しみの根源だとして、感情を渇愛することをやめるべきだという異なる結論に行きつく。しかしこの考え方は喜びの感情を必死で追い求めることに人生を費やしている現代の自由主義の文化とはかけ離れているため、仏教に初めて接した西洋のニューエイジ運動では内なる感情に耳を傾けるべきだというブッダの教えとは正反対の主張になった。第20章 超ホモ・サピエンスの時代へサピエンスはどれだけ努力しようと生物学的に定められた限界を突破できないというのがこれまでの暗黙の了解だったが、21世紀にサピエンスは限界を超えつつある。生命の法則を変える方法は、自然選択の法則を破る生物工学、サイボーグ工学のバイオニック生命体、コンピュータープログラムなどの完全に非有機的な存在を作り出すことの三つの方法があって、どの形でも自然選択に取って代わりうる。サピエンスの歴史に幕が下りようとしているのだとしたら、私たちは何になりたいのかという疑問に答えるために時間を割くべきだが、ほとんどの人はそれについて考える気になれない。●感想この本では人類がどうやって原始的な状態から社会を作ってきたか、認知革命、農業革命、科学革命、産業革命と順番にわかりやすく解説されていて予備知識がなくても読める。歴史や人類学や政治や経済に興味がある人にはおすすめで、特にグローバリズムや移民問題を考えるうえでは読んでおいたほうがよい。上下巻で3800円するのは私には高くて文庫になるまで待てなかったので中古で買ったけれど、興味がある人は新品を買っても値段分の面白さがあると思う。1日1章読んでも20日ぶんの暇つぶしができてよい。というわけでグローバリズムと移民問題について考えることにする。私たちは何になりたいのか?と著者が投げかけた疑問に対しては、私たちを考える前に、私は何になりたいのかというアイデンティティの問題が必然的に出てくる。たぶんたいていの人は今の自分の国籍や宗教や文化のアイデンティティを保ったままそこそこ物質的に豊かになって幸福になりたいという答えになるのではなかろうか。国家が台頭して家族やコミュニティが壊れたからこそ、グローバリズムを推進して国家という想像上のコミュニティが壊れたらもはや消費者という想像上のコミュニティしか残らなくなる。しかし第19章で富よりも家族やコミュニティのほうが幸福への影響が大きいと著者がいうように、人間が幸福であろうとしたら単に消費者として豊かであるだけでは不満を持って、また家族やコミュニティへの再帰が起きる流れになると思う。最近は日本で岸田総理が外国人労働者の在留資格の緩和をしようとしているけれど、私は日本の歴史や文化を尊重しない外国人を単なる安い労働力として受け入れる移民政策には反対である。グローバリズムで国境をなくそうとするのではなく、インターナショナリズムで相手の国を尊重しつつ文化が違うもの同士で友好関係を築いて互恵的経済発展を目指すべきで、そうでなければ第二次世界大戦後に旧植民地の国が独立して固有の文化を持った主権国家となった意味がないではないか。そんで移民に経済的なメリットがあるかというとあまりない。アメリカや中国みたいに金に糸目をつけずに世界中の一流の研究者や技術者を集めることができるのなら新しい技術が発明出来てメリットがあるだろうけれど、人件費をコストとみなして削減しようとするケチな日本ではそれができない。旅行するのが大変だった近代以前なら異文化を取り入れるのはヘレニズムとかロマン主義とかの文化的な発展につながったけれど、いつでもネットで交流できる現代で高度な技能を持っているわけでもない普通の外国人を連れてきたからといって文化や産業が発展するものでもなくて、労働集約型産業の機械の代わりの動力源になる程度である。第16章に書いてあるように本来は利益は国内への投資と雇用のために使われるべきで、日本も国内への投資をして日本人を雇ったから第二次世界大戦で負けて焼け野原から奇跡的な経済成長ができたのに、新自由主義政策をとりだしてからおかしくなって、1990年代は一人当たり名目GDPは3-4位だったのに、2003年から11位に低下して、2020年は24位まで低下している。日本人を雇わずに移民を雇ったり、従業員や下請けの給料を削って大企業が利益を出したぶんが配当として外国人株主に取られてそれが外国への投資に使われたら内需が減ってデフレになって世界が経済成長する中で日本だけ30年経済成長せずに貧しくなって当然である。移民を入れる前にまず国内の失業者をなくしたり生活保護受給者の経済的自立に取り組むのが先だし、移民を入れるにしても、送り出し機関に借金して日本に来る外国人技能実習生は移動の自由や職業選択の自由を制限された奴隷制度みたいなもので、日本は中国の人権侵害を批判する以前に自国の制度も見直すべきだろう。第8章に人はヒエラルキーで決まると書いてあるのはその通りで、中国秦代の宰相の李斯が便所で人や犬に怯えながら汚物を食べる鼠と兵糧庫で人や犬に怯えずに粟をたらふく食べた鼠を見て居場所がすべてだと悟ったように、ヒエラルキーは昔からの社会の真理のように見える。それゆえに教育と機会の均等で才能を拾い上げて適職につかせて分業するのが重要なのだけれど、低スキルの単純労働力として扱われる移民はヒエラルキーから抜け出せない最下層となって格差を拡大させてしまう。この点ではEUで大量に移民を受け入れた失敗が顕著になっている。スウェーデンで新首相が移民に対してスウェーデン語を覚えて働くように要求したのが話題になったように、経済移民はたいてい母国よりも手厚い福祉に集りに来ていて働かなくて、言葉を話せないので就職先が限られて貧困からギャング化して犯罪をするようになって、スウェーデンの殺傷事件の発生率はヨーロッパ最低レベルから最高レベルに増えて治安が悪化している。オランダも同様に多文化主義で受け入れたムスリムがオランダ語を話せずに落ちこぼれて低学歴低スキルになって、移民の失業率がオランダ人よりも高くてエスニック地区で貧困と暴力が蔓延して福祉行政の破綻を心配し始めている。移民に対して同化主義をとるフランスでさえ一気にたくさん移民が来て自分たちでコミュニティを作ってしまって同化に失敗しているくらいだから、多文化共生を掲げたら価値観の違いで衝突して当たり前だろうに、リベラルは寛容な自分に酔って移民を推進して、寛容の限度に達してようやく理想と現実は違うと理解したらしい。迫害された難民をかわいそうだからといってヨーロッパに連れてきたところでアイデンティティを捨てない限り結局は自治権を求めるだろうし、先住国民と移民の新国民の不和はいずれ自治権の問題に発展する。第18章で戦争は割に合わなくなったので平和になって、大半の国々が全面戦争を起こさないのは単独では国として成り立ちえないのが理由だと書いてあるけれど、自治権をめぐる紛争は割に合うか合わないかとか国として成り立つかどうかの話ではなくてアイデンティティの問題なので利益を度外視して行われている。近年のたいていの紛争はアイデンティティの相違と自治権が原因で、例えば中東のクルド人にはトルコ人やイラン人の多数派とは違うアイデンティティがあって自治権を求める独立武装派がいるのでテロ組織扱いされて迫害される原因となっている。ヨーロッパは陸続きなので有史以来隣の国を侵略し合って、帝国主義が終わってようやく戦争がなくなって落ち着いてきたのに、また言語も宗教も異なる移民を入れて自ら紛争の種を蒔いていて、民族の自治権を求めて争ったユーゴスラヴィア紛争から教訓を学んでいないのではないか。特にイスラム教徒は法律よりも戒律を優先して、教義で改宗を認めないので同化しにくい。ドイツのメルケル元首相やフランスのサルコジ元大統領は大量の難民を受け入れる以前の2011年頃にはすでに多文化共生は失敗だったと認めていたけれど、現在はヨーロッパ各国のイスラム教徒の比率は5-8%で、2050年にはドイツ、フランス、オーストリアでは20%近くなると予想されている。積極的に世界中にイスラム国家を樹立しようとする勢力もいて、イギリスの女王にイスラム教に改宗するか国家を去るように求めたり、バッキンガム宮殿をモスクに変えるように求めたりしているし、将来的にはヨーロッパでイスラム教徒が多い地域が独立する可能性もある。内乱や独立戦争が起きたら多文化主義は単なる失敗どころでなく国家が分裂したり崩壊したりする要因になる。第18章に国家が台頭して暴力が減ったと書いてあるように、安全であるためには個人よりも法律を優先してある程度自由と権利を抑制しなければならない。このときに信仰の自由があるので宗教は規制できないのが治安上の弱点になる。近代以前は為政者が統治のために異民族や異教を意図的に排斥してきたものの、現代の自由主義の国では特定の人種や民族や宗教を理由にして国民を排斥することは人権侵害になるので、一度移民を入れたら排斥して元の状態に戻すことはできなくて、治安を犠牲にして移民の権利を守るか、治安を守るために移民の権利を犠牲にするかというジレンマを抱えることになる。それゆえに移民に対して厳しく慎重な態度を取るのが賢明な自治の考え方で、例えばシンガポールは明るい北朝鮮と呼ばれるくらいに自由が制限されていて、言論の自由が制限されてデモや集会が禁止されていて、移民国家でありながら移民が政治的主導権を取れないような仕組みになっている。移民国家のアメリカでも国家の危機だと判断した時は個人の権利を侵害していて、冷戦の時は思想が違う人を取り締まって赤狩りをしたし、同時多発テロが起きた時は中東系の人を不当に拘束している。逆にヨーロッパでは移民に対する規制がなくて誰でもウェルカムしてアフリカや中東の移民を入れたがゆえに移民によって国家のアイデンティティが壊れることを危惧して右傾化が起きて、ノルウェーで移民推進派議員の子供を狙って大量殺人事件を起こしたブレイビクやニュージーランドのモスク襲撃事件を起こしたタラントのような反移民テロリストが現れて強行的に移民を排除しようとするわけである。個人が事件を起こすだけならテロだけれど、民族同士が対立すると民族紛争や少数民族迫害になる。同じ宗教の人なら人種が違っても仲良くできるだろうけれど、違う宗教の人同士は融和しないのは歴史が証明している。アイルランドはカトリック、北アイルランドはプロテスタントで宗教の違いから融和することがなくて、同じ小さな島に住んでいながら長年紛争を続けている。パキスタンはインドから独立したイスラム国家だけれど、同じイスラム教でもスンナ派がシーア派の少数民族ハザラ人を異端者とみなして攻撃している。キリスト教徒でもカトリックとプロテスタントで対立して、イスラム教徒でもスンナ派とシーア派で対立を続けている段階なのに、他の宗教とうまく付き合えるとは思えない。各国で起きている内乱はたいてい宗教の違いが原因なので、混ざらないで別々に暮らして自治をするほうが平和である。移民受け入れで得をするのは農場や工場とかの労働集約型産業に安い労働力がほしい経営者なので、移民受け入れを主導するのはグローバリストの経営者や政治献金を受ける政治家である。次に得をするのは発展途上国から先進国に来て生活水準を上げたい移民自身で、移住しただけですぐにインフラや福祉を享受できるので、グローバリストと移民の利害が一致する。そこに国家や国境を破壊したがっているリベラルが乗っかる形になる。租税回避するグローバル企業に社会保障費として相応の税負担をさせることができず、雇った移民が起こした問題に対しても雇用者としての責任を取らせることができないまま貧しい移民を大量入れると、必然的にフリーライドを許すことになって、元々その国に住んでいた庶民にとっては移民が増えることで得をすることはなく、むしろ増税や福祉の削減や失業や治安悪化などで損害を被ることになる。フランスの黄色いベスト運動では富裕層を優遇するグローバリストのマクロン大統領を批判しているように、庶民にとっての敵は隣の移民ではなくグローバリストである。クルーグマンとかの経済学者は国民の文化や幸福は無視して経済合理性だけ考えて日本は移民を入れるべきだというけれど、日本人は経済を考える前にヨーロッパの移民政策の失敗と日本の移民の状況をよく見ておくべきである。すでに日本では移民絡みのもめ事があちこちで起きていて、群馬あたりでは農作物の窃盗やドラッグストアの窃盗が多発していてギャング化したベトナム人がフェイスブックで盗品や偽造在留カードを売りさばいているし、大分県杵築市で平成14年に中国人留学生を世話していた人が強盗殺人の被害にあったし、イスラム系移民が土葬を求めたり学校の給食にハラール食を出すように求めたりして揉めているし、宗教関連施設は異質なものとして認識されて破壊の対象になりやすくてナイジェリア人が愛媛県西条市で仏像を破壊したり、この男が住む阪南市で大量の墓石が破壊されたり、サウジアラビア人が浅草寺の仏像を破壊したりしている。イスラム教は偶像崇拝を禁止しているので、日本でムスリムの移民が増えたら漫画やアニメやフィギュアといった日本ならではのサブカルチャーが迫害される可能性もある。あるいはイギリスみたいに天皇がイスラム教に改宗するように要求されたり、皇居にモスクを建てるように要求されることだってありうる。宗教に配慮しろという要求が外国人からの要求なら無視できるけれど、移民が日本国籍を持ってしまうと移民系議員が出てきて要求を無視できなくなる。使い捨ての労働力として移民を欲しがっている経団連や一次産業の経営者や、外国人に投票権を与えようとしている武蔵野市とかの左翼は日本の文化が変容してアイデンティティをなくして国民が幸福でなくなる可能性についてどう考えているのか。今より幸福になれないどころか今より不幸になるなら移民を入れる意味がないではないか。移民について考える際には、人手不足や少子化が云々とかよりも、私たちは何になりたいのか?という著者の問いをまずは考えるべきだろう。★★★★☆サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福 [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]サピエンス全史(下) 文明の構造と人類の幸福 [ ユヴァル・ノア・ハラリ ]
2021.12.09
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