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19世紀初頭のフランスで虚弱体質で親にネグレクトされて育った子爵の青年フェリックスが子持ちのモルソフ伯爵夫人に恋をしたものの、だめよだめだめとおあずけされたので性欲に負けて浮気したら、モルソフ夫人が嫉妬して絶食して死んでしまう話。●あらすじ一 二つの子供時代フェリックスは虚弱で発育が遅れていて、兄姉のいたずらをなすりつけられて両親からはひねくれた子として見放されて寮に入れられて、小遣いももらえずに学校に粗末な弁当を持って行っていじめられて、ミルクコーヒーの誘惑に負けて同級生に借金をして12年ぶりに会った母に罵倒される。思春期になると王族に憧れて、舞踏会でちょいぽちゃのモルソフ夫人(アンリエット・ド・ルノンクール)に一目ぼれしていきなり肩にキスしてドン引きされて、彼女がトゥーレーヌの谷間に住むと想像してトゥールから徒歩で15キロくらい出かけてクロシュグールドのモルソフ伯爵の館を突き止めて夫人と政治家のシェセル氏と知り合いになり、夫人の子供のマドレーヌとジャックは虚弱児で自分と共通点があったので夫人は子供が長生きする希望を持ってフェリックスを気に入り、モルソフ伯爵にトリクトラク(バックギャモンに似たボードゲーム)を教えてもらう口実で館に通うようになる。フェリックスは接待プレイで伯爵の機嫌をとりつつも伯爵を負かしたら伯爵がブチ切れてかんしゃくの発作を起こして、その後夫人と語り合って過去を打ち明けたら夫人も厳しい貴族教育を受けて愛情のない子供時代を送っていて共通点を見つけて、夫人の愚痴を聞いて仲良くなるものの、恋は否定されて友情だと念を押される。二 初恋王政復古でモルソフ伯爵は将軍になって年金をもらえることになり、夫人の父のルノンクール=ジブリー公爵は上院議員になって、夫人は莫大な財産を相続することになる。フェリックスは夫人に恋を拒まれつつも伯爵の死後に結ばれることを期待して、ブドウ狩りに行ってジャックの家庭教師をしようと夫人に申し出るものの、子爵が家庭教師なんかしたら世間に蔑まれるからと断られて母子のような関係になる。ジャックの乗馬の教育に厳しい伯爵と夫人が喧嘩して、夫人が卒倒したのでフェリックスがつきそう。いったん実家に帰ることにして夫人から処世術や恋愛のアドバイスの手紙をもらう。兄の紹介で社交界に行くようになってルノンクール家に出入りして、王党派だったことで公爵に気に入られてガンの宮廷に行ってルイ18世に紹介されて特使として働くことになり、ナポレオンの憲兵に追われながら仕事をして1817年に同僚の選定で同級生を選ばずに能力で選んだことから陛下の信用を得て、有望な青年として社交界でも一目置かれるようになる。伯爵のかんしゃくが酷くなって病気で死にかけたので、フェリックスが執事代わりになって夫人と交代で伯爵を看病するうちに夫人とさらに親しくなるものの、伯爵が元気になるとまたかんしゃくがぶり返す。夫人は伯爵を見捨てることはできても子供を置いてはいけないというので、フェリックスは夫人の髪をもらって別れる。三 二人の女性フェリックスの恋愛が陛下からサロンに漏れて噂になって、モルソフ夫人がマドレーヌとジャックの病気で苦悩している頃に、フェリックスは金持ちの30代の子持ちのイギリス人のダドレー侯爵夫人(アラベル)に惚れられて性欲に負けて熱愛する。フェリックスはモルソフ夫人から手紙の返事が来なくなったので気になって館を訪ねてみたら、熱愛の噂が伝わっていてモルソフ夫人に冷たく対応されるものの、性欲を言い訳して許してもらう。モルソフ夫人は夫と子供を捨てたアラベルを批判して、アラベルを値踏みするために待ち合わせ場所までついてきて姉としてアラベルを歓迎するというものの、アラベルはモルソフ夫人を批判してフェリックスと結婚したがって、フェリックスは板挟みになって苦悩する。モルソフ夫人が死にかけていると聞いてフェリックスが陛下の不興を買いながらも仕事を休んで会いに行くと、モルソフ夫人はアラベルに嫉妬して悲しみのあまりに42日間絶食していて、自分の人生は嘘で恋をしてパリのサロンに行きたかったと本音を打ち明けて死ぬ。フェリックスはマドレーヌとジャックに嫌われて「自分の事ばかり」となじられ、モルソフ夫人が残した手紙を読んでモルソフ夫人がフェリックスとマドレーヌを結婚させたがっていたことを理由にマドレーヌと和解しようとするものの、拒絶されて屋敷への出入りを禁止される。フェリックスは政治に専念することにしてアラベルとはサロンで皮肉を言う程度の仲になって、シャルル十世の即位で仕事がなくなると外交をやりだした。ということを愛人のナタリーが嫉妬して機嫌を損ねていると思って手紙で説明したら、やってらんねーわと返事が来る。●感想フェリックスが伯爵夫人ナタリー・ド・マネルヴィルへ身の上を語る書簡体形式。書簡体小説のメリットとしては、語り手のフェリックスの心理を掘り下げられることと、フェリックスに偶像視されているモルソフ夫人の美点をフェリックスの視点から強調できるところにあって、その点ではこの小説は作者がやりたかったことがちゃんとやれている。その一方で書簡体小説にしたことのデメリットも多い。肝心の手紙を送る相手のナタリーが全く物語に出てこないので、ナタリーが誰なのか、なぜフェリックスがナタリーに手紙で過去を語るのか不明で、最後になってようやくナタリーがフェリックスの今の愛人みたいなものだと判明するけれど情報を出すのが遅い。それに昔の小説なので読者の事はあまり考えていなくて、長編小説で中断なしには読めないのに文章がみっちり詰まっていてちょうどいい区切りがつけにくくて、450ページくらいあるので読むのがなかなか大変である。それにずっとフェリックスのモノローグなので、脇役の出番が少なくてプロットが単調になっている。対立があるのはモルソフ夫人とモルソフ伯爵、モルソフ夫人とアラベルくらいで、フェリックスは認知的不協和が起きて苦悩しているけれど自分が誰かと対立しているわけでもなくて、モルソフ夫人の愚痴を聞くだけでモルソフ夫人の苦悩の根本的な原因となっているモルソフ伯爵と対決するわけでもないし、一方的にモルソフ夫人に惚れた挙句に浮気して苦悩してアラベルのせいにして被害者ぶるのは自分勝手である。おまけにまた人妻ナタリーに手を出そうとしていて、家庭を壊してマドレーヌに恨まれてもまったく反省していない。それにフェリックスとモルソフ夫人の恋愛にテーマを絞ったことで話題の広がりが乏しくなっていて、ルイ18世の特使として何をしていたのか仕事の詳細が書かれていないし、ナポレオンの憲兵に追われているくだりがあるのに危機迫るシーンがあるわけでもないし、同僚を選んだくだりがあるのにその後に同僚との絡みのエピソードが全くないし、サロンでの社交の様子も詳細が書かれていない。そこが時代小説としては面白くなりそうなところなのにエピソードの掘り下げが足りなくて、学校で落ちこぼれたフェリックスがちゃんと特使の仕事をこなしているという裏付けがなくてどこで生活してどうやって生計を立てているのか不明だし、フェリックスがサロンでどのくらい有望視されて社交界でどう立ち回ってどういう交友関係があるのかよくわからないし、フェリックスが出世した後に実家の家族との関係がどうなったのかも書かれていなくて、あちこちの伏線を回収しないまま書きっぱなしになっている。バルザックは人物再登場の手法を使っていて、アラベルは『二人の若妻の手記』に出てきてナタリーは『人間喜劇』に出てくるそうで、バルザックの他の小説も読んだら話がつながる部分もあるのかもしれないけれど、この小説を単体で見たら人間関係がよくわからず登場人物の立ち位置が中途半端である。というわけで書簡体小説にしたメリットよりもデメリットのほうが目立っていて、19世紀初頭のフランスの王政復古のときのブルボン王朝かナポレオンのどっちにつくかという激動の時代の背景を活かすなら三人称でスケールの大きい話を書いたほうがエンタメとしては面白くなったと思う。良い所としては冒頭から悲惨な子供時代のエピソードの連続でつかみはよくて、母親の愛情不足から年上の女性を熱愛するようになったストーカーじみた心理はよく書けている。訳者の石井晴一の解説によるとバルザックは生まれてすぐ里子に出されていてフェリックスの幼年時代は自伝的要素が強くて、モルソフ夫人にもモデルとなったバルザックの愛人がいるようで、そのぶん心理がよく書けているのだろう。落ちこぼれとして実家で虐げられてから出世する展開はなろう小説の実家追放パターンを先取りしているけれど、さすがに実家ざまあ展開にはならない。この小説はフェリックスが主人公の成り上がりモテモテ浮気話として見るよりも、モルソフ夫人視点で自由のない貴族の妻の自己犠牲の苦労話として見るほうが面白く読めるかもしれない。★★★☆☆谷間の百合改版 (新潮文庫) [ オノレ・ド・バルザック ]
2022.02.24
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2月11日に東京大学理学部臨時公開講演会2022『眞鍋淑郎博士ノーベル物理学賞受賞記念講演会』をYouTubeでやっていて気候変化の計算のやり方を解説していたのだけれど、眞鍋博士は水蒸気、オゾン、二酸化炭素の役割を計算して、二酸化炭素が倍増すると地上気温が2.3℃上昇してこのうち1.0℃は水蒸気の増加によるものだというのをスパコンがなかった時代に現代とほぼ変わらない精度で計算したそうな。気温上昇の分だけ赤外線(長波放射)が出る量が増えて温暖化するプロセスをプランク応答といって、二酸化炭素が増えると赤外線を吸収して温暖化して、温暖化に伴って水蒸気が増えて、水蒸気の温暖化効果が高いのでさらに温暖化する正のフィードバックになるらしい。現在の気候フィードバック評価では水蒸気、気温減率、氷雪・アルベド、雲などの気候感度に影響を及ぼすフィードバックファクターを考慮して気候システム計算するそうな。というわけで温暖化の難しい話はよくわからなかったものの、フィードバックが重要だという事がわかったので、フィードバックについて考えることにした。●フィードバックとは何かフィードバック(feedback)はある系の出力(結果)を入力(原因)側に戻す操作のことで、エレクトロニクス分野やゲームとかで使われている。例えば昔のゲームは敵のパラメーターが固定されていて難易度調整が難しくてヌルゲーとか鬼畜ゲーとか極端だったけれど、最近のゲームだとプレイヤーの上手さをフィードバックしてプレイヤーごとに敵の強さを変えて、ゲームが上手い人も下手な人もちょうどいい難易度で遊べるように難易度調整をしている。●様々な分野のフィードバック・選挙選挙は政策に対するフィードバックで、役に立たない政治家は次の選挙で別の政治家に取って代わられる。AKB48の総選挙もグループとしての人気をメンバー個人の人気として可視化するフィードバックで、フィードバックがあるがゆえに塩対応のメンバーの人気がなくなって愛想がいいメンバーが人気になってファンサービスが改善されていく。・デモ独裁政権の国だと選挙がなくて政治の不満を為政者にフィードバックする方法が役所への陳情かデモくらいしかないので、香港の民主化デモのようにしばしばデモが行われている。・口コミ、アンケートインターネットが普及して食べログや価格コムやAmazonに口コミが投稿できるようになってから消費者の購買行動が一変して、まず買い物の前に口コミを調べるようになったので、企業も口コミを気にするようになった。スーパーにはお客様の声を投函するコーナーがあってサービスの改善につなげている。メーカーはアンケートを取って商品を改善している。・批評、採点芸術や採点競技のスポーツでフィードバックがないままやりっぱなしだと、鑑賞する側が良し悪しがよくわからないし、やる側も目標や洗練がなくなって自己満足で終わってしまう。批評や採点があることで競争が生まれて洗練されていく。漫画やなろう小説は読者の反応を見ながら人気キャラの出番を増やしたりして連載中の内容を変えていく。ただしフィードバックが一貫していないとてこ入れのつもりがかえって迷走することになりかねない。将棋や囲碁だとAIが最善手を示したり形成判断をしたりして、盤面の優劣をフィードバックするので学習に役立っている。・パーソナライズGoogleの広告は検索履歴やメールの内容をフィードバックして興味に合うようにパーソナライズされた広告が出るようになっている。予測変換もフィードバックを元にしてよく使う単語が自動的に出てくるようになっている。・複利投資の儲けを再投資すると、複利でどんどん利益が増えていく。これは正のフィードバックといえる。・裁判員裁判裁判官が世間知らずで庶民の感覚からかけ離れた判決を出すので、裁判員裁判で庶民の感覚をフィードバックして判決に影響を与えるようになった。最高裁の裁判官の国民審査も最高裁に対する国民のフィードバックである。・人事評価人事だと良い点を評価して成長を促すポジティブフィードバックと改善点を指摘して成長を促すネガティブフィードバックがある。・学習入力と出力のフィードバックを繰り返すことで、パターンを法則化して覚えていくのが学習である。子供は新しい漢字や英単語を覚えるときにノートに何度も書き写すし、体操選手は同じ技を何度も練習して完璧にできるように体の動きを調整していくし、こうしていったん学習したことは早く正確に出力できるようになる。●フィードバックがないと駄目になる・教育子供は教育によって後天的に社会性を身につける。しかし親に放置されたり叱らない方針の子育てをされたりして、やっていけないことのフィードバックがないまま育つと、自分の思い通りにならないと怒って暴力をふるったり他人の物を盗んだりして社会のルールを守らない問題児になる。そういう子供が好き勝手に生きてきたのに大人になって就職して急に上司にフィードバックされるようになると、それがストレスになって職場に適応できなくなったりする。・ワンマン企業ワンマン社長はしばしばイエスマンを侍らせて裸の王様になって、仕事ができる人は経営者に忠言しても無駄だと悟って転職していって、企業が内部崩壊して没落していく。『カンブリア宮殿』では関家具や飯田屋の社長が従業員に命令して裁量権を与えないワンマン気質で、従業員が大勢離職したのをきっかけにして反省して、従業員に仕事を任せるようになったら上手くいくようになったという事例を紹介していた。従業員が不満をためて辞めるときにしかフィードバックもらえないのでは経営者が成長しないし労働環境も改善しない。・マスコミフジテレビは「嫌なら見るな」といって批判的なフィードバックを無視したらそのまま視聴者がいなくなって、チャンネルごと忘れ去られて凋落していった。番組の内容に文句をいう人がいるうちはまだましで、視聴者が離れてから番組の内容を改善しようがしまいがもはや見る人がいないので意味がない。芸能人もテレビで脇役としてひな壇を飾るよりも、ファンからのフィードバックがあって主役としてやりがいが感じられるYouTubeに移行しだして、テレビ局も予算が少なくなってネタ切れして、テレビ番組の存在意義がなくなりつつある。・文芸誌最近の純文学の文芸誌は褒める批評しか載せないそうで、身内で褒め合って文学はその程度のものでいいのだと自己満足して成長しない駄サイクルになっているようである。文学賞の選考も外部からのフィードバックを反映させないので世間が求める水準と乖離していって、芥川賞ももはや新人の登竜門というほどの狭い門でもなくなって、有名人が小説を書いたら話題作りにノミネートされてモンドセレクション程度の賞になった。●フィードバックがあったら面白そうなもの・受刑者の更生弁護士は更生の可能性を持ち出してやたらと減刑したがるけれど、裁判の間だけ刑期を軽くしようとして反省したふりをして実際は反省していない場合がある。こういう場合は更生の可能性という不確実なものを根拠に減刑せずにとりあえず重い刑にして、刑務所内の生活態度から反省と更生が確認出来てからフィードバックして減刑すればいいと思う。あるいは更生せずに出所後に再犯したら正のフィードバックでそのぶん刑を重くすればよいと思う。・半自動運転ブレーキのタイミングやカーブの曲がり方とかの運転手の癖をフィードバックして車側で自動的に補正するようになったら、下手な運転手でもうまく運転できるようになって交通事故が減るかもしれない。・スマート冷暖房スマートウォッチで計測した体温や心拍数をエアコンやこたつにフィードバックして、いちいち温度調節しなくても自動的に快適な温度になるようにしたら便利かもしれない。・スマート飯噛んだ回数をフィードバックして唾液に反応して料理の味や硬さが変わったりすると健康管理に役立つかもしれない。・スマート椅子椅子や車の座席に計測器をつけて何分座ったかを計測してフィードバックすれば、運動不足やエコノミークラス症候群の警告を出して健康管理に役立つかもしれない。・スマートベルトウエストを自動で計測してスマホにフィードバックすると、太り始めたり便秘になったりしたときにすぐに気づけて健康管理に役立つかもしれない。●どう人生にフィードバックをするのか我々は他人や商品に対してはフィードバックすることができるけれど、一番大事な自分の人生に対するフィードバックが乏しい。子供のうちは親や教師がフィードバックをするし、仕事では上司がフィードバックをするし、結婚している人は配偶者がフィードバックをくれるだろうけれど、問題は一人暮らしをしている人である。なんらかの規則を設けて自戒できる人は修行僧くらいで、たぶんたいていの人は食べすぎたり運動不足だったりしてもまあいいやと流して真摯に反省して改善することはないだろう。さらに金を稼ぐようになると知人や店員がへこへこ愛想よくなって注意されることがなくなるので増長して、肩書は立派でも振る舞いが洗練されていない残念な大人が少なからずいる。自分について客観的に見ることができない人は自分の欠点を自覚して改善できないので、欠点を放置して傲慢になったり生活習慣病になったりして、友人がいなくなったり大病を患ったりして大失敗する。末期がんになってから名医を探すよりも日々の健康管理や病気の早期発見のほうが重要なように、人生が駄目になる前に早い段階で問題が小さいうちにフィードバックをもらって間違いや失敗に気づけるにこしたことはない。ではどうすればよいのかというと、まずはどう生きるべきかという思想を持たないといけない。人生に指針となる基準がなければ他人からフィードバックをもらってもその道理が理解できずに納得できなくて糠に釘になるし、自分の思想がないまま誰かに頼って人生を変えてもらおうとすると依存して支配されることになる。思想を持ったうえで金や地位とは関係なしに率直に忠告をしてくれる友人やメンターを持つことが大事だけれど、そういう友人は得難いものである。それゆえに金を払ってでも経営セミナーや占い師の人生相談やオンラインサロンでフィードバックをもらいたがる人が大勢いるけれど、有名で金持ちだからといっていいフィードバックをするわけでもないし、金持ちの中には頼ってくる相手を金づるとしかみないサイコパスもいるので、相談する相手は慎重に選ぶべきで、やたらと金持ちの有名人を頼るのはやめるほうがよい。既存の人間関係の中から知人の知人とかを紹介してもらって信用できる善人を見つけるほうがましだと思う。あるいは友人がいなくても人生の指針がはっきりしているなら、過去の自分と現在の自分を相対化することで自分自身にフィードバックをして、自分がどれだけ成長したのか、どれだけ道を外れているのか自覚して軌道修正できるだろう。
2022.02.14
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最近は巷で人気のイラストレーターの古塔つみの作品に写真からのトレースが疑惑が出て、一部の作品については「権利者の許諾を得ずに投稿・販売してしまったことは事実です」と謝罪したものの、「引用・オマージュ・再構築として制作した」「写真そのものをトレースしたことはございません。模写についても盗用の意図はございません」と主張したことでネットの検証班が元ネタ探しをやりだして、作品のトレパクが検証されて次々に元ネタが掘り返されて炎上しているようである。これについて考えることにした。●トレースとは何かトレース(trace)は英語で追跡する、線を描くという意味で、美術だと原画の上に薄紙を置いて描き写す意味で使われる。私が子供の頃に文房具屋でトレーシングペーパーという下絵が透けて見える薄紙が売られていて、漫画にトレーシングペーパーを載せて鉛筆で輪郭をなぞって描き写して、それをひっくり返して裏から輪郭をなぞると他の紙に漫画を反転トレースすることができた。こうしてトレースすると絵が下手な子供でもドラゴンボールのかっこいい絵を描けたのである。プロのアニメーターとかはトレース台というライトがついた台の上に下書きの原画を置いて、下からライトを当てて原画を透かして清書用の紙にきれいな線で描き写す。画像加工ソフトのレイヤー機能をアナログでやるわけである。今では創作がほとんどデジタル化したので、ソフトを使って簡単にコピーしてトレースできる。例えば雑誌から画像をスキャンして画像加工ソフトで輪郭の線を抽出して、レイヤーを重ねて下絵を透かしてデジタルで塗り絵をすれば手軽におしゃれなイラストが出来上がる。デジタルなので反転したり角度を変えたり拡大縮小したり他の画像とつぎはぎしたりすることも簡単にできて、著作権を無視すれば世界中のあらゆる画像が加工素材になる。古塔つみは写真のトレースを否定しているものの、模写としては線が一致しすぎているイラストがあるし、模写ならわざわざ反転させる必要がないし、1年に400点も製作したという制作スピードも常人離れしているので、私はトレースしてるんじゃないかと思う。●トレースの何が駄目なのか・他人の労力にタダ乗りする自分で写真を撮ってそれをトレースして絵に仕上げるならよいけれど、他人の写真の構図も小道具もそのままトレースして流用するのでは写真家の才能にタダ乗りして作品を底上げしたことになる。これは創作のモラルとしてだめである。写真家はカメラや照明の角度を若干変えたり、衣装や小道具を変えたり、被写体にイイヨイイヨと声をかけて感情や表情を引き出したりして、何百枚も写真を撮った中で決定的な一瞬をとらえたベストの一枚を雑誌や写真集に掲載する。そうやって被写体の魅力を最大限に引き出すのが写真家の技術であり才能である。その最高の一枚を元ネタにしてイラスト化したならいい構図や絶妙な表情が出来上がっていて当然で、それはイラストレーターが褒められる部分でなくて元ネタを撮った写真家が褒められるべきである。・表現でない古塔つみのイラストは単品で見たら良さげに見えるけれど、他人が表現した写真のイラスト化加工に過ぎなくて、古塔つみ自身の表現ではない。イラスト加工屋として活動するならそれでもよいけれど、元ネタがないと創作できないならプロのイラストレーターと名乗るべきではない。原作者に許可を取って元ネタを明記して二次創作イラストとして発表するべきだろう。・オマージュでないオマージュは名作に対してわかりやすい形で模倣が行われるし、自分の作風が主でオマージュの部分は従で主従がはっきりしている。例えば週刊少年ジャンプの漫画家たちが他の漫画家の連載〇周年を祝って自分の画風で他の漫画のキャラを描くのはオマージュといえる。自分の作風を確立していなくてトレースの元ネタに応じて作風をころころ変えて元ネタの影響に引きずられるのでは主従が逆転しているし、あっちこっちからネタをつぎはぎして改変するのは元ネタに敬意がないのでオマージュでない。・ソフト頼みで実力がないPhotoshopとかの写真加工ソフトを使いこなすのも一種の能力だけれど、それはソフトの性能がすごいだけで絵描きの能力として評価できない。古塔つみは写真と同じ構図でイラストを描いていて、人物の顔の角度やポーズが変わったら描けないのでは基本的な人体デッサンすら練習してこなかったのだろうし、立体を把握する能力が欠けているといえる。盗作について考えるという記事で勝海麻衣について考えたのだけれど、勝海麻衣は元ネタの模写が中心で独自性が乏しかったもののトレースではなくて自分で絵を描く能力はそれなりにあったのに対して、古塔つみの場合は主に写真からのトレースのようで独自性だけでなく描写力も乏しいと思われる。写真のトレースをすれば絵が下手な私でも似たようなイラストを作れるし、個人の能力に依らずにソフトの能力で誰でも作れるようなものには芸術的な価値が乏しい。・訓練にならないトレースは答えを見ながらテストを解くようなもので、デッサンと違って立体の重心や光や影を自分の頭の中で組み立てる訓練にならない。芸術家は日々の地道な努力の積み重ねで基礎的な能力を底上げして、その上に独自の技術や発想を付け加えて自分のスタイルを完成させるもので、才能を伸ばす近道はない。トレースして楽にうわべだけいい作品が作れるようになってしまうと、かえって基礎的な能力が伸びなくなる。●トレースのアウトとセーフの線引きどういうトレースが法的にアウトになるのかを考えると、無断でトレースをしているか否か、作品内で無断トレースが占める割合がどのくらいか、権利を侵害しているかが問題になりそうである。漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』の奇妙なポーズがファッション雑誌とかのトレースと言われているけれど、ポーズは同じでも人物や服装はまったく違うので肖像権は侵害していないし、作品全体に占める模倣の割合が小さくて変なポーズがないとしてもストーリには影響がないし、ポーズ自体には著作権がなくて同じポーズをしたところで権利を侵害しているわけではないので特に問題視されていない。一方で古塔つみのように一点物のイラストで写真から無断でトレースをして、構図や服装や人物などの作品に占めるトレースの割合が大きいと著作権や肖像権の侵害になりうる。グラフィックデザイナーの高橋証が過去の少女ヌード写真集を参考にしたCG児童ポルノを作って児童ポルノ禁止法違反の裁判になって、弁護側は架空の人物を描いた創作だとして無罪を訴えたけれど、検察側は実在した少女のヌードをトレースしていると主張して、裁判長は一般人から見て実在の児童を描いたと見られる場合は同一とみると判断して2016年に有罪判決になった。この判決を基準にして考えると、一般人から見て実在のモデルを描いたように見える古塔つみのイラストは写真を参考資料にして架空の人物を描いたのではなくて無断で実在のモデルを描いた肖像権の侵害といえそうである。日本写真家協会の写真著作権と肖像権の解説によると写真を元ネタにしたイラストは二次的著作物に該当するので原作者の許可が必要で、古塔つみが「引用・オマージュ・再構築として制作した」「写真そのものをトレースしたことはございません。模写についても盗用の意図はございません」と主張したところで原作者の許可なしに二次的著作物を高値で売っていたのだから、写真そのもののトレースでなくて模写だとしても結局は著作権の侵害になりそうだし、意図してなかろうが原作に酷似した模写に値段をつけてオリジナル作品として売ったらそれは盗用である。もし古塔つみに制作を依頼した企業側が古塔つみをかばうために著作権侵害を黙認するなら、同様の手法で企業の著作物が二次的著作物の素材としてちょっと改変して利用されるのも受け入れる姿勢だということになるし、企業の出方次第では大海賊時代の幕開けになってあらゆる写真やイラストの権利が無視されて素材として略奪されてしまいかねない。それゆえに古塔つみの対応だけでなくて発注した企業側の対応も重要で、ネット住民を怒らせたら企業のブランドイメージを損なう形で著作物を無断利用されてトレースやコラージュをやりまくられる危険もある。芸術新聞社は事実関係の精査のために『古塔つみ作品集 赤盤』をいったん出荷停止すると声明を発表したけれど、これが普通のまっとうな企業の対応だろう。●古塔つみを救いたい古塔つみは女性のアイコンを使ってサイン会には女性の影武者を用意して入念に女性のふりをしていたけれど、実際は妻子持ちの中年のおっさんがネカマして若い女性に写真を送らせているとばれて、作品もトレース中心で芸術性が乏しいとなると、ファンや企業が離れて今後はイラストレーターとして創作活動するのは難しいのではなかろうか。ではどうすれば古塔つみを救えるのか考えてみる。まずはトレースを認めて開き直って炎上も知名度として活用して、なぞり師として写真のイラスト化を専門にやる職人になってクライアントに写真を用意してもらう受注案件だけやればそれなりに需要があるかもしれない。あるいは反省を示すためにかわいい女子を描くのをやめて、漫☆画太郎みたいに婆専門になって絵画修行をやり直すとよい。岸田劉生がグロテスクな「デロリ」という美的感覚を見出したように、古塔つみが婆を見つめればかわいい以外の女性の魅力を開拓できるかもしれないし、世間から忘れ去れてほとぼりが冷めたころに復帰できるかもしれない。あるいはVTuberになってバーチャル美少女受肉おじさんのミッツ塔子として生まれ変わって、女装した自分をイラスト化すればLGBTアートとして別の需要を開拓できるかもしれない。
2022.02.07
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最近は石原慎太郎が亡くなって、過去の差別発言を批判する人や中傷する人がいて問題視されているようなので、これについて考えることにした。●故人への批判の問題点・遺族の感情に配慮するべき有名人の訃報に反応してここぞとばかりにSNSに批判や誹謗中傷を投稿する人は、故人の遺族や友人たちがそれを目にすることを考えていない。遺族の感情なんざ知ったこっちゃないという人以外は余計なことは言わないで普通にお悔みだけ言っておけばよいだろうし、故人と面識がない人は何も言う必要がないし、どうしても批判しないと気が済まないなら慣習に従って49日過ぎて遺族の心の整理がついた頃合いに批判すればよい。・言動の批判は生きているうちにやるべきゲームだと死体蹴りはマナー違反だし、反撃できない相手を一方的に攻撃するのは一般的なモラルとしてやるべきでない。誰かの言動について批判があるなら、その言動をした直後で当人が生きて反論できるうちに批判するべきである。反論がないと議論が深まらないし言動の改善につながらない。死んだ後にあの発言は駄目だったと終わったことを蒸し返しても謝罪や反省があるわけでもないし言うだけ無駄である。・仕事を評価するべき亡くなった相手に対しては何も批判を言えなくなるのかというとそうではなくて、その人が手掛けた仕事についての議論までなくす必要はない。人格と仕事を切り離して考えて、政治家なら政策の良し悪し、小説家なら作品の良し悪しが生前と同様に死後も議論されるべきである。政治家が人格者だろうが愛国者だろうが間違った政策をやったらその政策は批判されて当然だし、小説家が高学歴で博識でイケメンだろうが下手な小説を書いたらその作品は批判されて当然である。しかし批評を理解していない人が仕事への批判を人格への批判と混同して死んだ人を悪く言うなとかの的外れな指摘をしたり、あるいは死者が美化されたりして、仕事の評価がしにくくなる。志村けんが死んだときに美化されたけれど、批判と同様に賞賛も本人が生きているうちにやらないと仕事の向上につながらないし、生前に評価しなかったのに死んだとたんに美化するのは周りに良い人と思われたい欺瞞である。・誰も他人の人生の審判をする資格はない死は他人事でなくていずれ自分も死ぬ。しかしそのことを理解していない人が巷には大勢いて、自分の人生を生きることよりも会ったこともない有名人の人生が気になって粗探したくてしょうがないようである。たぶん人生で一度も失言がなかった人はほとんどいないと思うし、誰だって掘り下げれば汚点が出てくる。有名人は言動がニュースになりやすいので失敗が目立つけれど、失敗したからと言ってまるきり悪人というわけではなくて良い部分も何かしらあるだろう。我々は他人の人生の審判ができるほど相手の事をよく知っているわけでもないのだし、自分自身の人生の良し悪しの審判さえできないくせに他人の人生の良し悪しを言うのは傲慢である。他人の失敗を批判して憂さ晴らしするのでなく、他山の石として自分の人生を向上させるのに使うのが建設的である。
2022.02.04
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