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最近は安倍晋三銃撃事件が起きて統一教会が話題になっているけれど、そもそも宗教とは何じゃろうと思ったので宗教について考えることにした。ちなみに私は無宗教無神論の実存主義者である。●宗教とは何か宗教とは神などの人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系のことで、同じ思想体系に基づいて行事や儀礼をしている集団を宗教団体という。一般的な宗教から派生した団体はセクトまたはカルトと呼ばれる。文化庁の宗教法人運営のガイドブックによると、宗教団体が宗教法人として認可されるには、宗教団体を作って3年程度の活動実績があること、教義をひろめること、儀式行事を行う事、信者を教化育成すること、礼拝の施設を備えることが必要で、規則の変更や合併や解散についてはその都度所轄庁の認証を受ける必要があって、3人以上の責任役員を置く必要があって、財産の処分などの重要な行為をするときは信者や利害関係者に広告する義務がある。●なぜ新興宗教が増えるのか仏教やキリスト教などの大手の宗教は社会に浸透しているし信者が何かしらの社会貢献をしているがゆえに社会と共存出来ていて、学校法人や病院を持っている宗派もある。ではなぜ既存の宗教の信徒が増えるのでなくていろいろな怪しげな新興宗教が起きるのかというと、既存の宗教の下っ端になってもあまり旨味がないので、教祖になって神の代理人や救世主として絶大な権限を持って金儲けするために新しい宗教を始めるわけである。例えば麻原彰晃みたいにイケメンでなくても教祖になってしまえば信者とまぐわい放題になるし自分よりも高学歴な信者をアゴで使える。そういう新興宗教は仏教やキリスト教を基にしていても原典の戒律や解釈からは外れているので、カルト認定されて危険視されている。キリスト教でホモ神父による児童虐待が起きているように立派な教義を掲げている司祭や信者が教義を体現する立派な人とは限らないし、金と権力をもった宗教家ほど欲まみれで悟りから遠くてむやみに信用してはならない類の人だし、不課税なのを利用して大儲けしても社会に還元しない宗教法人なんてろくなものじゃない。しかし信教の自由があるので宗教に対する制限がゆるくて、たとえ変な教義を掲げるカルト宗教でも違法性がないかぎりは警察は介入できない。金を持たないのが教義だという宗教を作ることもできるし、それで全財産を教団に貢ぐのも信者の自由である。オウム真理教は国家転覆を狙ってテロを起こしたので幹部が逮捕されたけれど、アレフに名前を変えて宗教活動を継続しているし、おとなしくしているうちは強制的に解散させることはできない。●なぜ非科学的な宗教を信じる人がいるのか神が定めた運命みたいなものはないし、人間は自分で生き方を決める。この考え方をを実存主義という。サルトルの実存主義哲学を知らない人でも、無宗教の人はたいてい実存主義的な生き方をしていて、科学的な教育を受けて合理的に世界の仕組みを考えてやりたいことを自分で見つけて、仕事や趣味や子育てとかの何かしらの自分の価値観に基づいた生きがいや目的を持って生きている。生き方については実存主義的に生きている人でも、死については人間は物質にすぎなくて魂は存在しないという科学的な説明では感情的に納得しない人や、死んで無になるのが怖い人もいるので、科学文明に生きている現代人でも死の受け入れ方に迷ったときには超自然的な解釈を求めて宗教に頼ることがありうる。自分や家族の死に直面して死をどう受け入れればいいかわからなくて宗教に救済を求めて傾倒する人もいるし、いつか自分が死ぬという漠然とした不安に対処するために何か大きなものに守られているという加護の感覚がほしくて神仏を崇める人もいる。あるいは宇宙の起源とかの科学的に解明できていないことを神の御業として考える人もいて、リチャード・ドーキンスの「戦闘的無神論」というTEDの動画によると科学者の大半は無神論者だけれど物理学者の5.5%は神を信じているそうな。それに自由に生きていいよといわれても、境界知能の人とかで科学的思考ができなくてどう生きればいいかわからなくて生きがいがない人もいる。物理学や数学や科学は無数の研究者が生涯をかけてひとつづつ原理や法則を解明していったくらい難しいものなので、それを子供の頃の義務教育で一気に覚えろといわれても理解できない人がいるのは仕方がない。複雑な世界を認識できない人は自分で物事を考えるよりも、あれは善です、あれは悪です、あなたの使命はこれです、これをやりなさい、こうすれば救われます、と単純化された宗教的な世界像を提示されて命令されるほうが楽なので、人生がうまくいかなくなるほど他人の指示を求めて依存して思考停止してしまう。上座部仏教は自分で考えて行動して解脱することを要求するので依存したがる人があまり来なくて廃れる一方で、誰でも極楽に行けることを売りにする大乗仏教系の宗教や、神の救済を売りにするキリスト教系の宗教や、治療された気分になれる似非宗教のスピリチュアルには依存したがる人が集まって信者を増やしている。さらにサタンや闇の勢力とかの仮想敵と戦ったり布教したりすることで天国に行けるだのアセンションできるだのと使命感を与える一方で、お布施しないと地獄に行くと脅して飴と鞭で信者を支配しやすくなる。科学的に合理的に思考できる人はそうした非科学的な説明がでたらめだとわかるけれど、頭が悪い人は地獄に行くとか不幸になるとか大声で脅されると不安になって思考せずに言いなりになる。宗教活動に反対する常識的な家族や友人を敵視して疎遠になる一方で、宗教活動を励ましてくれる宗教関係者との人間関係が心地よくなって依存を深めて、宗教的なフィルターを通してしか世界を認識できなくなってますます一般常識から乖離して、宗教活動に人生を捧げることになってしまう。頭が悪くて騙されやすい人を賢くすることはできないので、自己責任として放置するのでなくて、信者の全財産を巻き上げたり洗脳したり脱会を拒んだりする悪徳宗教に関しては法律で規制をするべきだろう。●宗教の勧誘の是非中世キリスト教の布教活動が侵略を正当化して植民地を支配するための手段として使われたように、布教は救民のためというよりも支配勢力拡大のために行われる。それゆえに信教の自由は本来はスパイ防止法や破防法とセットで運用して、信教の自由の名のもとに侵略されることを防がないといけない。いくら宗教法人の要件に教義を広めることが必要とされているとはいえ、仏教や神道だと布教に関するトラブルは起きていなくて法話会や初詣とかの誰でも参加できる行事を通して自然に布教活動できているけれど、新興宗教は強引な勧誘でしばしばトラブルが起きている。なぜ新興宗教が布教活動に力を入れてしつこく勧誘するかと言えば、信者が増えるほど宗教団体は儲かるからである。信者のお布施や宗教道具の販売だけでなく、布教用のパンフレットを信者に自費で買い取らせたりして、信者の財産がなくなっても生きている限り生活保護や年金からお布施を搾り取れる。それに信者は他人に真理を教えて救済の手を差し伸べて良いことをしているつもりで布教活動をしているので、熱心に近所を訪問して布教のためのパンフレットを配ったり勧誘したりしてくる。あるいは明確な宗教活動の形をとらなくて、ヨガ教室やボランティアサークルとかで人間関係を作ってから徐々に宗教関連の活動に誘うやり方もある。都会は人が多いだけあって宗教の勧誘も多くて、私もいろいろ勧誘された。私が街を歩いていたらモルモン教のイケメン白人4人に囲まれたことがあって、私は用事があるからといって逃げたけれど、たぶん外人好きの日本人女性は話を聞いてしまうのだろう。私が野良猫の集会に参加して猫を撫でまわしていたら、通りすがりの老婆から仏教の法話会のパンフレットを渡されたこともある。サイエントロジーの二人組は私が歩いているときに話しかけてきて、数メートル勧誘しながら付いてきた。家に訪ねてくる人もいて、エホバの証人は聖書が云々といってパンフレットをポストに入れていくし、朝起き会は雑誌をポストに入れていくし、天理教の老人は家の前で1分くらい呪文を唱えていて信者にとってはそれが安心を得る方法なのだろうけれど他人にとっては迷惑である。信教の自由があるので誰が何の宗教を信仰してもよいのだけれど、だからといって他人に迷惑をかけてよいということにはならないし、無宗教も信教の自由に含まれているのでしつこく勧誘しないで放っておいてほしい。●宗教法人の金儲けの是非宗教法人で働く人も給料がないと生活できないので、宗教法人が何かしらの収入を得ること自体は特に批判されることでもない。しかし霊感商法で大金を稼ぐことは問題である。金を出さないと殴るぞと言って金を受け取ると恐喝として逮捕されるけれど、高額のお布施をしないと地獄に行くぞ家族が不幸になるぞと言って金を受け取るのは合法で、しかも不課税である。これは一般的な倫理観から見たらおかしいし、統一教会の霊感商法はマスコミに取り上げられて問題視されたけれど規制はされなくて今も被害が出ている。法の華三法行のように病気を治療すると謳った宗教は詐欺として摘発されているのだから、同様に霊感商法も詐欺や恐喝として刑事事件として立件するべきだと私は思う。宗教法人が信者に販売するものの金額に上限を設けるなり、不課税にする額に上限をつけるなりして霊感商法対策のやりようはあるだろうし、そもそも宗教法人は営利活動を目的にしていないのだから信仰心を悪用して儲けすぎないように規制されたところでまっとうな宗教なら困らないはずである。巨大な寺院や都心に自社ビルを建てるほど資金力がある宗教法人なら明らかに担税力があるのだから宗教用施設だからといって固定資産税を不課税にする必要もないだろう。宗教活動を持続するために金を稼ぐのでなく、統一教会のように日本人から金を巻き上げて韓国に送金する目的で宗教を利用しているなら宗教法人としての認可を取り消したり資産凍結したりするべきだろう。霊感商法で問題になった統一教会を野放しにしたのは政治の責任である。カルト宗教を追及してきた有田芳生は公安はオウム真理教の次は統一教会を摘発するつもりだったのに政治的圧力でなかったことにされたと言っているし、週刊文春は統一教会の関連団体幹部が当時の下村博文文科相に陳情してパーティー券を購入したと報道しているので、自民党の議員が政教分離の原則に反して統一教会に特別な便宜を図って優遇してこなかったか野党は調査するべきだし、自民党の議員にやましいことがないなら今からでもカルト宗教の規制と被害者救済のために活動すればよい。●宗教二世の問題大人が何の宗教を信仰しようが自由だけれど、子供は自分で物事を判断できるようになる前に親と同じ宗教にさせられてしまうことが問題になる。イスラム教だと異教徒との結婚と改宗を禁止しているので子供も自動的にイスラム教徒になって、大人になってから判断力がついてイスラム教を辞めたいと思っても国によっては死刑になるので改宗できなくなってしまう。エホバの証人も信者本人が輸血を拒むのは自由だけれど、1985年に自動車事故にあった子供の輸血を親が拒否して死なせた事件のように、親の宗教的理由で子供を死なせるのは法律で処罰される可能性がある。親がカルト宗教の被害者かつ、子供に対しては加害者になって、間接的な被害者が増えてしまう。日本だと親の権利が強くて児童虐待が起きても児童相談所が及び腰で虐待死したりしているし、子供の権利が保護されているとはいいがたい。子連れで宗教の勧誘をしている人もいるそうだけれど、親が未成年の子供に宗教的な活動をさせることに対しては法的な制限があってもよいのではないかと思う。YouTubeのディスカバリーチャンネルでアーミッシュの若者たちが初めてニューヨークに行くシリーズが始まったけれど、親が子供の宗教や生き方を決めてそこからはみ出さないように囲い込むのでなく、子供が成人して自分で世界を見たうえでどう生きたいかを自分で決めるべきだろう。●結局宗教が違うと分かり合えない今は統一教会に批判が集中しているけれど、世界の脅威は新興宗教よりも既存の宗教同士でうまく付き合えないことである。例えばユーゴスラビア紛争では民族と宗教が違う人たちが独立と自治を求めて内戦をして6つの共和国に国が分かれてユーゴスラビアは崩壊したし、インドはイスラム教のパキスタンとバングラデシュが独立して仲が悪いし、同じイスラム教でもスンナ派とシーア派が対立して中東の内戦の原因になっている。イスラム系移民を数百万人単位で受け入れたEU諸国は福祉のタダ乗りや治安の悪化で早くも移民政策の失敗を認めているし、いったん受け入れたイスラム教徒を強制的に追い出すことはできないので、将来イスラム系の子孫が増えたときに地域に同化して世俗化しなかったら自治権を求めて国が分裂するリスクをはらんでいる。科学的に合理的に考える人同士なら議論が成り立つし、物事の正誤を論理的に証明できるけれど、宗教やスピリチュアルとかの科学でない体系を信じている人とは議論が成り立たない。いくら非科学的で非合理的でも、それを信じていると言われてしまえばそこで議論が終わってしまうし、議会制民主主義で議論して合理的に社会を発展させるのが困難になる。非科学的な主張でもそれが社会に害をなさないならどんな教義でも構わないし、信者が幸福になって社会によい影響を与えているなら良い宗教と言えるけれど、問題は非科学的であるがゆえに社会に害をなす場合である。例えばインドの主要な宗教であるヒンドゥー教に基づくカースト制度は理不尽な身分差別と人権侵害を起こしていてインドの発展の妨げになっている。ナイジェリアは人口が増加して経済成長が著しいけれど、イスラム原理主義のボコ=ハラムが跋扈して学校や教会を襲撃して女子の教育を妨げている。イスラム原理主義は教義として異教徒の殺害を正当化して女子の教育を否定して偶像崇拝として文化を破壊するので、現代の先進国の倫理観とは絶対に共存できない。いくら先進国に信教の自由があって宗教で差別してはいけないといっても、法よりも戒律を優先して人権侵害や違法行為を正当化する宗教は社会から排除するしかない。●生きることと死ぬことについて考えるべき死なない人間はいないのに、自分はまだ死なないだろうと思って死について考えていない人が大勢いるのではないかと思う。しかし東日本大震災や新型コロナウイルスのパンデミックとか予想外のことが起きていきなり死ぬこともあるし、がんとかで突然余命宣告されてじっくり考える時間もないままやり残した事を後悔して死ぬこともあるし、歳をとってそろそろ死にそうだというときに認知症になってうまく頭が働かなくなることもある。だからこそ元気なうちに死ぬことについて考えて自分が死ぬことを受け入れて、自分が死ぬことを前提としたうえでどう生きるのかを考えるべきである。世界は科学的な物質で成り立っているとはいえ、人間は主観的に世界を見ているし、視力が悪い人にはぼやけた世界が見えるように人によって現実の見え方が違うし、時代ガチャ、国ガチャ、親ガチャ、遺伝子ガチャ、教師ガチャ、同級生ガチャで恵まれた人と恵まれない人では生き方も死についてのとらえ方も違う。自由とは自分に由るということなので自由に生きるには経済的に自立するだけでなくて精神的にも自立する必要があるし、自分を押し殺して家族や友人に合わせるのでなく、芸能人や政治家が信者だからと権威主義になって他人を基準にするのでなく、勉強してインプットを増やして自分で考えて自分が納得できる価値を見つけることが大事である。自分で考えることで論理的思考力が鍛えられていくし、非科学的な嘘で騙したりおだてたりする人の下心も理解できるようになる。宗教は生き方に迷ったときのガイドラインにはなるけれど、依存して思考を放棄してはいけない。自分で思考せず、自分で判断せず、経典に書かれているプログラムや教祖の指令を実行するだけで生涯を終えるのなら、それは自分の人生を生きているとはいえないだろう。宗教に答えを求める前にまずは自分で考えてみて意見を持つべきである。あるいは自分で考えてもどうすればよいのかわからなくて誰かに相談するにしても、付き合いが長い友人や恩師とかの価値観がわかっている相手に相談するほうがよいし、有料の相談サービスを使うにしても相談料一時間当たりいくらと料金を明確にしている占い師のほうがお布施の相場がはっきりしなくて懐具合によって態度を変える宗教団体よりも良心的である。個人対団体の構図になると相手に主導権をとられて言いくるめられてしまうので、相談するなら特定の個人を相手に相談するほうがよい。何かの宗教を信仰しなくても合理的に自分の死を受け入れて人生に意味を見出すことはできると私は思っている。自分はいずれ死ぬのだから、自分ひとりのためだけに生きて財産をため込んで自分の幸福を最大化したところで結局は無に帰す。今は資本主義の時代なので物と金を多く持っている人が成功者としてもてはやされているけれど、金を持っていて物質的に豊かな人ほど傲慢で欲深くて短気で精神的に貧しいことがしばしばあるし、金に執着して使い切れないほど金を稼いだところで死んだら他人のものになるのだから無駄金である。他人を踏み台にして利用して権力を持って金を儲ける人よりも、物やサービスを作ったり人を育てたりして未来を担う次の世代のための踏み台になって文明の礎となる人のほうが立派だし、そういう生き方をすれば死を恐れる必要もないし宗教に救済を求める必要もない。論語にある「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」というやつである。
2022.07.22
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廃村に1人で残った老人が過去を思い出しながら自分が死ぬまでの様子を語る話。●あらすじ私を探しにアイニェーリェ村に武装した男たちがやってきて、獣に食われて苔に覆われた私を見つける。私と妻のサビーナは村に二人だけ取り残されて暮らしていたが、サビーナは村を徘徊するようになって粉ひき小屋で首つり自殺をした。私はサビーナを引きずって埋葬して、ロープを道端に捨てたら雪に埋まり、サビーナの思い出の品もトランクに詰めて地面に埋めた。それは記憶違いでなければ1961年の事だった。雪が解けたらロープが出てきたので、私は肉体を失ったサビーナの魂としてロープを腰に巻くようになる。長年連絡がなかった息子のアンドレスからドイツで暮らしているという手紙が来て、アンドレスが家を出て行ったときのことを思い出す。アンドレスが出て行った代わりに市民戦争で戦死したカミーロと4歳で病死したサラの亡霊が出るようになった。私は兄弟を捨てたアンドレスを許していないので手紙を破り捨てる。私は一人で農作業をして暮らして、空き家になったアシンの家で一服したら毒蛇に手を噛まれて、応急処置をするものの悪化してサビーナが部屋にいる幻覚を見て、数日後に手の腫れが引いて生き延びた。娘と同じ肺の病気になって死が近づいても恐ろしくなくて、祖父と父が死んだときのことを思い出して、父が死を受け入れたことが自分が死と向き合うことになったときに役に立った。アイニェーリェ村はゆっくりと荒廃が進んで一軒一軒と家が崩れていった。フリオ・フランシスコ一家が村を去ったのをきっかけに離村が始まって、アドリアンが去ったときのことやガビンが孤独死したときのことを思い出す。真夜中に台所に母の亡霊がよく現れるようになって、台所で死んだ人たちが会話していて、私は彼らの姿を見ないために村のどこかに隠れたり、山の中をさまよい歩いたりして避けていたが諦めて、家族が自分たちの一員になる時を待っているのだと考えると心が慰められた。私はときどき食料や弾薬を買ったり果物を売ったりするために村を出ていた。5年前の8月に村に帰ったときに荷物を取りに来たアウレリオと会ったが、銃を突き付けて何も持たずに村を出て行かせた。アウレリオが殺されそうになったとベルブーサ村で触れ回ったせいか、羊飼いも来なくなって、ベルブーサ村に食料を買いに行っても狂人のように警戒された。冬に大雪のせいで罠が雪に埋もれて食料がなくなり、飢えに耐えきれなくなって意地も誇りも捨ててベルブーサ村に行ったものの村人に警戒されてノックしても誰も出てこないので帰った。孤独感を振り払うことができなくなって仲間が欲しくなって川岸まで降りて行くと、昔川に流した雌犬の兄弟の鳴き声が聞こえた。帰り道を間違えてソブレプエルトの古い焼け焦げた家の前に来てしまい、そこは私が15歳のときに火事になった家で、老婆が焼け焦げて、ああ、水、水がほしい、殺しておくれ! と叫んでいた。私は死につつあって死者の声が聞こえて、アイニェーリェ村にまだ誰か残っていれば私も老婆と同じように哀願するだろうが、ここには私しかいないのでひとりで死と向き合っている。●感想1章は死体(幽霊?)になった私が俯瞰視点で村に来る男たちの様子を「~だろう」と一人称で語る形式で、本来はありえない語り方で始まるのでインパクトはある。しかし冒頭だけの一発芸で終わって、2章以降は月並みな年寄りの昔語りになって、そのうえ記憶があいまいな信頼できない語り手の一人称の語りで、私が誰なのか、いつの時点でいつの出来事を語っているのか、誰に対して語っているのかが不明だし、客観的な説明もないので話の内容が分かりにくい。100ページに「あれは一九五〇年のことだった。当時、村に残っていたのはフリオとトマス・ガビン、それに私の三人だけだった。」と書いてあって、そのすぐ後に「少し前からアドリアンが私とサビーナと一緒に暮らしていた。」と書いてあって矛盾している。103ページに「フリオのところに息子が二人と弟がいた。」とあるので、100ページのところは三人でなく三世帯というべきじゃなかろうか。このようなあいまいな情報だらけなので、話が面白いかつまらないかという以前に状況がよくわからない。プロットもなくてランダムに思い出話をするだけなので、各章の話に一貫性がなくて続きを読みたくなるような物語の推進力がない。信頼できない語り手が読者に対して情報を隠していてそれがどんでん返しに繋がったりするのなら信頼できない語りの手法を使うのは良いけれど、物忘れが激しい老人の脈絡のない話を聞かされても面白くない。家を出た息子に対して手記を残す体裁にするとか、村に来た男が霊感があって幽霊の声を聞く体裁にするとか、語りの形式を突き詰めていれば内容に一貫性が出てもっと面白くなったかもしれない。幽霊が出てくる点がこの物語を異化しているけれど、冒頭で語り手自身を幽霊みたいな存在にしてしまったのでそのぶんリアリティがなくなっているし、幽霊が積極的に行動を起こすわけでもないし、ホラー的な面白さがあるわけでもない。語り手が死ぬのも冒頭でネタバレしているし、それに代わるオチがあるわけでもない。良い点としては孤独と苦しみの表現は豊富で、蛇の毒で苦しむあたりには独特の詩情がある。詩ならそれでいいけれど、小説としてはやはりストーリー性がないと面白くない。過疎地に住んでいて孤独死する予定で死に向き合いたい中高年の人には面白いかもしれないけれど、普通のストーリー性がある小説を読みたい人にはつまらないかもしれない。★★★☆☆黄色い雨 (河出文庫) [ フリオ・リャマサーレス ]価格:902円(税込、送料無料) (2022/7/18時点)楽天で購入
2022.07.18
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7月8日に安倍元総理は目前の参議院選挙の応援のために奈良市の大和西大寺駅付近の道路で演説していたところ、41歳の山上徹也が背後から近づいて自作の銃で二発銃撃して、これが致命傷になって亡くなった。元総理が暗殺されるという重大な事件なので、これについて考えることにした。●安倍晋三とは何だったのか安倍晋三は1954年に東京で生まれて会社員を経て、政治家だった父親の晋太郎の地盤を継いで1991年に政治家になって自民党内で順調に出世して内閣官副房長官、内閣官房長官を経て2006年に総理大臣になるものの2007年に潰瘍性大腸炎による体調不良で早々に辞職して、2012年に総理大臣になって第二次安倍内閣が発足して長期政権になった。安倍内閣は「日本を、取り戻す。」をスローガンにして戦後レジームの脱却を訴えたことで保守層に支持されたけれど、結局は変節して総理としての靖国参拝をせず、改憲もできず、拉致被害者救出にも進展がなく、有言不実行でグローバリズム新自由主義に迎合して外国人移民受け入れを拡大してTPPを推進して種苗法を改正して習近平を国賓として招こうとしたので保守層が離れて、アベノミクスは財務大臣の麻生と財務省の緊縮財政派の抵抗にあってデフレ下で増税する愚策をして失敗して消費税増税に反対していた内閣官房参与の藤井聡も離れて、自分で消費税を上げたくせに総理を辞めてから消費税減税を訴えるというちぐはぐなことをして、異次元の金融緩和で株価だけは上げたけれど庶民には恩恵がなくて増税の負担だけがのしかかって所得が減った。外交面ではアメリカやインドと友好関係を築いて中国を牽制して、韓国の理不尽な態度にも譲歩せずにうまく外交をこなしていた一方で、北方領土問題では状況が悪化して、外国に金をばらまいているバラマキ外交という批判もあった。外貨準備高を無駄に保有しても意味がないので投資に回したともいえるけれど、それなら日銀当座預金を無駄に豚積みしたままで日本への投資として財政出動をしないのは矛盾している。菅にくらべたら自分の言葉で雄弁に話す人だったけれど、国会で野党の質問に真面目に答えていないときもあったし、118回虚偽答弁をしたり森友問題の公文書改ざんをしていたし、桜を見る会の公私混同もあって交友関係にある人への優遇が酷くて、左翼系マスコミには集中的に批判された。私は安倍晋三は自民党の中では小泉や森や麻生や岸田とかの歴代の総理よりは国家観があるぶんましなほうで、首相になる時期が悪かったと思う。民主政権→第二次安倍内閣→菅→岸田という流れだったけれど、もしこれが民主政権→岸田→第二次安倍内閣という流れだったら、岸田の緊縮財政路線ではだめだということで改憲や財政出動をして日本を立て直せたかもしれない。●平和ボケの極みSP普通は政治家は選挙カーに乗って高い所から演説するので、SPは不審な動きをする人を見つけやすいし、暴漢が近づくのは困難である。ところが今回は道路上での演説ということで近づきやすくて、360度の警戒が必要で警備もしにくくて、犯人の山上はそこを狙った。銃撃の瞬間の動画を見ると、山上が安倍の背後から少しずつ近づいてきてドンと爆発音に近い発砲音がして白煙があがっていて明らかに異常事態なのに、警備が反応できていなくて山上がさらに数歩近づいてきてそのまま二発目を撃たせている。これではずさんな警備と言われても仕方がない。今回の凶器は自作の銃だったけれど、洗剤を混ぜて作れる有毒ガスや火炎瓶みたいに銃以外にも殺傷能力が高い武器は自作できるし、犯人が自分も死ぬ覚悟ならガソリン自爆テロもありうる。それゆえにまず不審者を近づかせたらだめで、不審者の接近を許した段階で警備に失敗している。さらに攻撃されても即座に反応できなかったことで警護対象を守ることができず、致命傷を負わせることになって救助も間に合わなかった。犯人は安倍の政治に対する犯行でなくて母親が統一教会に大金を寄付して家庭崩壊して恨みがあるから統一教会に関係している阿倍を狙ったと供述しているようだけれど、統一教会を直接狙わないで安倍を狙う理由がよくわからなくて別の動機があるかもしれないし、政治家を狙った計画的犯行なので背後に組織がいる可能性もある。日本はスパイ防止法がないうえに外国人技能実習生や移民の受け入れを拡大しているので、その中に外国の政治団体や宗教団体の指令を受けたヒットマンやテロリストが紛れ込んでもおかしくない。安倍は現役閣僚ではないとはいえ、元総理の現役の政治家がやすやすと暗殺される警備体制は放置してはいけない。今回の事件を教訓にして政治家の警備体制や演説の場所を見直すべきだし、スパイ防止法を作って国全体のセキュリティを向上するべきである。もし日本を敵視する国があったら、いくら日本が防衛力を強化しようが、キーパーソンの政治家を暗殺して簡単に日本を攻略できると思うだろう。銃乱射事件について考えるという記事でも考えたけれど、日本人は平和ボケしていて銃声がしても聴衆が伏せてたり避難したりしていないし、警察官がすぐに銃を抜いて犯人を射殺するわけでもなくて、犯罪への危機感がまったくない。アメリカの警察官ならすぐに犯人を射殺していただろう。●今後も要人暗殺は起きる竹中平蔵が「日本のワクチン開発が遅れをとった理由。製薬会社と医療の根深い問題とは?」という堀江貴文との対談動画で2.26事件に言及して、「恵まれてるんですよ。何をやっても社会的に非難されることは沢山あるけど殺されることはたぶんないから恵まれてるんですよ」と言ったのは死亡フラグになっている。権力や財産を持つものは常に誰かに命や地位や財産を狙われていると考えるべきで、日本人の民度が高かったのでたまたま要人暗殺があまり起きなかっただけなのに、「殺されることはたぶんない」という平和ボケした希望的観測を基準にして物事を考えてはいけない。楽観的なのは個人の性格としてはよいけれど、危機管理としてはだめで、最悪の事態を想定するべきである。おそらく日本はこれから緊縮財政派の岸田政権で消費税が増税されてさらに経済が悪化して生活が苦しくなるだろうし、そのうえPB黒字化名目で社会保障も減らされて治安が悪化して、京王線ジョーカーみたいな無差別なテロが起きるだけでなく、政治家、官僚、経営者、御用学者、有名人たちに憎悪が向けられて暗殺が行われるようになるだろう。政治的・宗教的・金銭的な動機に限らず、〇〇を殺した人として有名になりたい馬鹿な模倣犯も出てくるかもしれない。大岡昇平の『俘虜記』に日本に戻る船の中で上官を海に突き落として殺害する場面があったような気がするけれど、理不尽で悲惨な体験をした人はこいつだけは許せないという相手がいるもので、法で裁かれないのであれば自分でやってやろうという気になる。就職氷河期世代がまさにそれで、就職難での圧迫面接や理不尽なパワハラで大勢が自殺したりうつになったりしたし、結婚もできず未来への希望もない中で劣悪な労働環境に耐えかねてブチ切れた派遣や非正規の人がいろいろ事件を起こしてきた。自己責任、努力不足として他人を虐げて蔑んできた権力者たちが、今度は恨まれて殺されても自己責任、因果応報として報復されるターンになる。政治家や経営者みたいに権力を持つ人は自らの権力の大きさや他人への影響力を自覚して、権力を間違った方法で使えば殺されるという覚悟を持って、不正をせず私利私欲を求めず、人を助けて社会を良くするために仕事に務めるべきである。それが権力を持つ者の責任で、その責任を取りたくないのであればそもそも権力を持ってはいけない。●民主主義の危機日本人は自分が社会を担っているという自覚がないのか選挙に行かない人が多くて、投票率は50%くらいしかない。政治家の質も悪くて、地盤を継ぐ世襲議員が新人議員よりも優位なので、政治家と地元の利権が結びついてさらに支持を集めて新人議員や野党議員が育たないので、自民党がでたらめな政治をしても自民党以外の政党が頼りなくてなかなか政権交代が起きない。政治家は芸能人やスポーツ選手がセカンドキャリアとして立候補するようなものではないのに、そんな人を票集めに担ぐ政党があるし、有名だというだけで政策も見ずに投票する馬鹿な国民がいる。若者は政治がわからないからと投票しないので、投票率が高い高齢者の支持を集める人が当選するシルバー民主主義になってしまっている。小選挙区で支持したい候補者がいなかったり、投票しても死票で無駄だと思った人は選挙に行かなくなる一方で、もはや選挙では社会は変わらないから自分で変えないいけないと業を煮やした人たちが出てくると、クーデターが起きて強硬手段で権力を奪取したり、テロで政治家が殺されたりするようになる。政治家が殺されるのは民主主義が危機に瀕しているシグナルで、メキシコで麻薬撲滅を掲げた政治家が殺されるように、政治家の命が脅かされるようになると政治家になろうとする人がいなくなる。優秀な人は国に見切りをつけて自国を良くしようとするよりも環境のいい外国に行ってしまって人材難になって、ますます国家として衰えていく。そうなってはいけないので、民主主義を守るためにどんな政治家であろうと言論を守らなければならない。国民を代表して議論するのが代議士で、代議士が議論するために議会があるので、政策が間違っているなら議会での議論によって決着をつけるべきである。民主主義では平均的な国民以上に優れた政治家は出てこないもので、良い政策を訴える候補者がいても国民が政策を理解できなかったら当選できない。スリランカが明らかに罠の中国の貸し付けを返せなくて破綻して大統領が国外逃亡したけれど、庶民は生活が苦しくなってからデモをして大統領公邸を占拠しても意味がなくて、親中派の大統領を選挙で選んだ段階ですでに手遅れなので、生活が苦しくなる前に政策で将来がどうなるかを予測して選挙でちゃんとした政治家を選ばないといけない。7月の参院選では政策の勉強もしていない元芸能人が有名だというだけで当選したけれど、日本がなまじ豊かなだけにまだ国民に危機感がなくてちゃんとした政治家を選ぶ意識がないのだろう。もし南海トラフ地震が起きたり台湾有事が起きたときに勉強不足のアイドル政治家が対応できるはずもないし、能力不足の政治家を選んで有事の時に困るのは国民自身である。日本をよくするには国民一人一人が政策を学ばなければならないし、自分だけでなく家族や友人や勤務先や取引先や地域社会の幸福のためにどうすればよいかを考えて投票しなければならないし、だめ政策を掲げる不勉強な政治家は落選させなければならない。そして就職氷河期世代のように自己責任扱いして社会から見捨てられた人を生み出さないように、政治が弱者を救済することが大事である。就職氷河期世代を対象にした公務員採用は倍率数十倍とかで全然椅子が足りていないので、自民党は失われた30年間の失政を反省して財政出動して就職氷河期世代に仕事を用意して失政によって自殺に追い込んできた人たちの鎮魂をしなければ、中高年になって派遣やアルバイトの仕事さえ見つからなくなった就職氷河期世代がさらに荒ぶるようになるだろう。山上徹也は派遣を辞めて無職になってそれ以上失うものがない無敵の人となって犯行に及んだようだけれど、もしやりがいのある安定した仕事があって信頼できる同僚と人間関係を築けて結婚して家庭を持てたなら、そのささやかな幸福を捨ててまで犯行はしなかったかもしれない。●言論人の誹謗中傷の責任安倍晋三を批判していた人たちの中には「安倍死ね」「たたきき斬ってやる」とかの過激な発言をしていた人もいて、実際に安倍が殺害されたら暴力は許されないとかのコメントしているけれど、自分で暴力を煽っておいて無責任である。権力の監視や政策批判は大いにやるべきだけれど、「死ね」等の人格批判は脅迫や侮辱になりうるし、憎しみを煽ってテロを誘発しかねない。「安倍やめろ」は別によいけれど、「安倍死ね」は一線を越えている。木村花に対する「死ね」というSNSのコメントが彼女を自殺に追いやって侮辱罪として科料されたように、基本的に死に関する言葉は他人に対して言ってよい言葉ではない。中傷したり人形を損壊したりするパフォーマンス的な批判をやったところで個人的な気晴らしになるだけで議論にならなくて生産的でないので、批判するなら政策について批判するべきである。ヘイトスピーチをしていることに無自覚なのは言論人としてはだめだろう。●宗教の政治への関り方が問われる古代から宗教は国民の人心の平定のために為政者に利用されてきたし、宗教も地位を確立するべく為政者を利用してきた。政教分離の原則は信教の自由を保障して国家が特定の宗教を強制したり、特定の宗教に権力を与えたり、宗教教育や宗教的活動をしないということで、宗教が政治に携わってはいけないというわけではない。宗教法人は収益事業には課税されるけれど、戒名料、お布施、玉串料、お守り、お札、おみくじ、拝観料、賽銭などは不課税で、税制で優遇されているがゆえに収益事業も成功しやすい。金があるうえに信者も動員しやすくて政治との相性がよいので、勢力を拡大して利権を得るために政治活動をするようになる。宗教が弱者を救済して社会の役に立っているならいいけれど、問題はむしろ宗教が弱者を搾取して社会の害になっていることである。特に伝統がない新宗教は勢力拡大や金儲けのために倫理観のない活動をしていて、洗脳して教祖に依存させたり、霊感商法で高額の壺や墓石を買わせたり、足裏診断でがんが治るとかミイラが復活するとかの詐欺をして社会問題になった。全国霊感商法対策弁護士連絡会の記者会見によると統一教会は信者に1冊3000万円の聖本を何冊も買わせて破産に追い込んでいたそうで、統一教会のせいで家庭が崩壊しても政治が被害者を救済したりカルトを規制したりしないどころか、安倍がメッセージを送ったことで山上の憎しみが膨れ上がったのかもしれない。新潮の「統一教会」から5千万円返還させていた……「山上容疑者」が抱えていた教団との金銭トラブルという記事によると、山上の母親が統一教会に1億数千万円貢いで、5千万円を取り返してもそれもまた貢がれたそうで、山上の家庭だけが殊更ひどい被害にあったのではなくて、全国に同様の被害者が大勢いるのだろう。宗教法人は宗教活動のみに専念して、宗教法人が不課税で稼いだ金は宗教活動を通じて信者や地域社会へ還元されるべきだと私は思う。出家したら俗世間の政治に関わらないのが本来の宗教家の在り方で、権力や金銭欲にまみれて政治的権力を持とうとする人は宗教家とは言えない。何かの宗教を信仰している人が政治家になること自体はいいけれど、不課税の宗教活動で得た金を同じ宗教の政治家に献金したり、信者を無給の労働力として動員した政治活動をしたりするならそれはもはや宗教活動とは言えないので、政治家への団体や個人の献金を規制したり、政治活動をする宗教法人の税の優遇をなくしたりするべきだと思う。あるいは「この政治活動は御覧のスポンサーの提供でお送りしています」と政治家に献金した企業や団体や個人の一覧を表示するように義務付けるなりすればよいし、そうなったらカルト宗教からの献金を政治家が自発的に断るようになるかもしれない。
2022.07.09
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最近は環境問題に関して大阪府のメガソーラーの不正入札とかいろいろ事件が起きていて、再生可能エネルギーをめぐる利権とかがあるようである。というわけで脱成長と環境問題について考えることにした。●脱成長とは何か脱成長とは反資本主義思想の運動で、人的搾取や環境問題を引き起こすグローバル資本主義を批判して、消費の引き下げで人生の充実の引き下げをするのではなくて、むしろ少ない消費で芸術を楽しんだりして経済以外のものに価値をおいて人生を充実させることを目的にする考え方である。●環境を保護するには技術開発が必要・農業と林業中世では木を燃料や建材にして大量の木を消費したので森が消えたけれど、その一方で植林の技術も発達した。植民地のプランテーションで単一作物を大量に生産するやり方も環境破壊につながるので見直されて、アグロフォレストリーとして森の生態系を維持したまま様々な農作物を育てるやり方をしている。TEDの「地球規模の人口増加について」という動画で、ハンス・ロスリングが最貧困層の生活水準を引き上げることが人口の増加の抑制につながると言っている。中途半端に脱成長すると発展途上国の最貧困層の人口が増えて焼畑農業とかの非効率な生産方法で土地がやせて飢餓を起こしてしまうので、脱成長を言う前に発展途上国がちゃんと成長することが大事である。・蓄電池脱化石燃料のためには不安定な再生可能エネルギーを安定して使うための蓄電池が不可欠だけれど、蓄電池に使われるレアメタルの価格がネックになる。EVの価格の三分の一が電池代だそうで、ガソリン車に比べて価格が高いがゆえにEVの普及も遅れている。それゆえにレアメタルフリーの蓄電池とかを開発して蓄電池自体を高性能にしつつ価格を下げる必要がある。電気燃料輸送船も新しい技術で、パワーエックスは岡山県に日本最大級の蓄電池工場を作って、洋上風力発電で発電した電気を電気燃料輸送船で運搬するそうな。EVボートの開発も進んでいるようで、もし漁船が重油でなく蓄電池で航行できるようになったら、漁師のランニングコストが原油価格に左右されなくなって利益が増えるかもしれない。もし大容量で長期間使える蓄電池が開発されたら、夏に再生可能エネルギーでためた余剰な電気を冬の暖房や除雪機とかに使えるようになるのかもしれないし、そうなったら雪国は大助かりである。・都市設計CNAでシンガポールの電力の7割がエアコンに使われていると特集していたけれど、エアコンの電力を減らすにはエアコン自体を省エネにするだけでは不十分で、気温が暑くならないように熱をため込まないアスファルトとか風通しがよいビルのデザインとか街路樹で日陰を作るとかの都市設計レベルでの省エネ対策も必要だろう。港風を妨げてヒートアイランド現象を引き起こしている沿岸部の高層ビルやタワマンは省エネ対策名目で大きさに応じて余分に税金をとってもよいくらい迷惑である。・産業連携新潟県柏崎市だとクリーンセンターの廃棄物の焼却処理で出た熱を温水として農業用ハウスに使ってバナナを育てたり、長岡市のサーバー会社がサーバーの熱でチョウザメの養殖と水耕栽培をしているそうな。こういうふうに無駄な熱をうまく使って無駄でなくするやり方は最先端の技術が必要なわけでもないので、全国に普及すればよいと思う。・太陽光発電の是非太陽光発電と蓄電池のセットは送電網が整っていない発展途上国や離島とかの家庭用電力として使うぶんには役に立つけれど、高圧電力が必要な工場とかの産業用の安定した電力として使うのには向いていない。メガソーラーは基本的に広い土地があるところで使うものなので平地が少ない日本には向いていないし、天気によって発電量が不安定で他の発電所で送電量を調整しないといけなくてメインの電力にはならないし、水害のときに感電するリスクがあるし、パネルを処分するときに化学物質で汚染されるので、エコどころか環境破壊になりうるし、山を切り開いて森の生態系を壊してまで太陽光発電をするのは本末転倒である。WiLLが「全国各地でメガソーラー「破産」相次ぐ」というYouTubeの動画で説明しているけれど、メガソーラー企業が破綻しても原状回復費用の預託金を担保していないので自治体がパネル撤去費用を負担しないといけないし、壊れたパネルが放置されると水源の汚染源になりうる。問題だらけでも政治家がやたらと太陽光発電を推進したがるのは中国のソーラー事業者の接待やらキックバックやらの利権があるのだろう。大阪市のメガソーラー事業に上海電力が参入する際に不正があったジャーナリストの山口敬之が指摘しているように参入の経緯が不自然だし、そもそも電力という安全保障にかかわる分野で外国企業が簡単に参入できるのがおかしい。小池百合子のように都内に戸建てを建てる人にソーラーパネルを強制しようとするのは個人の権利を侵害する悪政で、本来は補助金を出してソーラーパネル設置を促すのが筋だろうし、戸建てだけターゲットにするのも意味が分からない。●技術開発以外で環境に配慮する方法・流行を作るのをやめるファッション業界は意図的に流行を作ってまだ着れる服を流行遅れにして買い替えを促しているけれど、これが資源の無駄である。消費者も流行を追ってファストファッションの生地がぺらぺらで縫製が雑な3000円の服を1シーズンで使い捨てるより、生地が厚くて縫製がしっかりした9000円の服を3シーズン着るほうが無駄が少なくなる。そもそもルイ・ヴィトンの鞄みたいに丁寧に作られて頑丈で親子で何十年も使えるのがブランドの価値だったはずで、流行を追ってころころデザインを変えてすぐに流行遅れになって飽きられてリサイクルショップに売られるようなのはむしろ価値が乏しいといえる。流行を追うのをやめて定番の品だけ売って売れ残った在庫の裁断をやめるか、あるいは店頭に置くのはサンプル品だけにして受注生産にすれば売れ残りが出ないし、ブランド側で環境に配慮できるはずである。作業着みたいにすぐ必要になる服と違っておしゃれ用の服なんてすぐに必要になるものでもないからたくさん在庫を持つ意味があまりないし、鞄や靴は良いものが欲しいなら注文してからちょっと待つくらい消費者も受け入れればよいだろう。本当の高級品は大量生産をやめて客の注文に合わせて一点物を作るオーダーメイドに戻るべきである。・無駄な人と物の移動をやめるコロナ禍でテレワークが促進されたように、職種によっては仕事がオンラインで完結するので、毎日従業員全員がオフィスに通勤するやり方が無駄なコストになる。特に自動車通勤が必要な田舎ほど無駄にガソリンを消費することになる。都内の大きなオフィスをなくしてテレワーク中心にして小さなオフィスに移転する企業が出てきたように、企業側で環境に配慮した対応ができるはずである。紙の書類をやり取りするのも資源の無駄なので、はんこをなくしたりする電子化が進んでいる。宅配便の不在時の再配達も無駄なコストなので、置き配やコンビニ受け取りとかの仕組みが定着した。・シェアリングやリユースをする町内会の集会場をシェアリングの拠点として活用して、業務用の大容量で簡易包装の物を地域住民で共同購入して集会場で分配すれば個別包装されたものを買うよりも包装や運送コストを減らせるだろう。おもちゃや絵本も各家庭で子供が育った後にいらなくなったものを放課後児童クラブや公民館とかの施設で共有すれば、子供にとっては自分の家よりもたくさんの絵本やおもちゃがあって幸福になれるかもしれない。ジモティーとかで引っ越す人がよく不用品の引き取り手を探しているけれど、これも町内会が仲介すればネットを使えない老人同士のリユースや遺品整理がはかどるかもしれない。様々なものを個人所有せずに共有するようになればそ商品の製造数は減るだろうけれど、企業はそのぶん商品の単価を上げれば利益を減らさずに環境に配慮することができるだろう。・選択の自由という贅沢をやめる豊かになるほど選択肢は増えるし、消費者は各々の好みにあうものを買うことができる。しかしその反面で選択のミスマッチによって売れ残りが出るし、選択肢が増えることが必ずしも幸福にはつながらない。例えばガリガリ君のナポリタン味とかの新商品を作ったところでたいていの人の好みに合わないから当然売れ残るし、食材やエネルギーや運送コストの無駄である。消費者からしたら食べ物の選択肢が増えたところで食べる量が増えるわけでもないし、普段食べている定番のガリガリ君ソーダ味を地道に改良してくれるほうが幸福度が増える。服の好みが分かれるのはしょうがないけれど、服をたくさん持ったところで1度に着れる服は1セットだけだし、服の種類を増やすよりも体を鍛えてスタイルを良くする方が格好よくなる。・廃棄を出さないようにするコンビニは弁当が売れなくてもフランチャイズに無理やり仕入れさせて廃棄させて本部だけ儲けるやり方をしているけれど、これは食材や流通コストの無駄なのでやめるべきである。特に恵方巻やクリスマスのケーキや土用の丑の日のうなぎとかの特定の日のイベント用の食べ物は完全予約制にして欲しい人だけ欲しい量を買うようにすれば、廃棄は急用で店舗にこれなかった人とかのぶんくらいで済む。服屋のBEAMSはビームスクチュールで在庫品や不良品をリメイクして売っているようで、すぐに捨てずに売る方法を考えるのはよい取り組みである。・コラボをやめる『鬼滅の刃』やBTSとかの漫画やアイドルとコラボした菓子や飲み物が売れ残って廃棄されているように、ファンだからといって必ずコラボ商品を買うわけでもないし、ファンでない人は好きでもないアニメキャラやアイドルがパッケージに印刷されてロイヤリティ込みで割高になった商品をわざわざ買わないので、需要を見誤りやすい。コラボするにしてもパッケージごとコラボ特別仕様にするのでなくて、パン祭り方式でシールを集めたら景品を送るとかのほうが食品ロスが出ないだろう。・規格を統一するiPhoneのライトニングケーブルはコネクタが違うだけで機能はUSBと同じで、互換性がない不便を解消するための変換コネクタとかの無駄な製品が作られている。CPUとかなら独占禁止法にならないように規格が違うのはわかるけれど、高度な技術が使われているわけでもない充電ケーブルを独自規格にするのは企業のエゴにすぎない。EUはUSB Type-CをEU圏内のすべてのスマートフォン、タブレット、カメラの共通の充電ポートにすることを義務付ける無線機器指令を2024年秋までに施行するそうで、これはよいと思うし日本でもやるべきである。EUはバッテリーがある製品のバッテリーの取り外しや交換を可能にすることを義務付ける規則を3月10日に採択していて、これもよいと思う。バッテリーを交換可能にするだけでなくて、スマホ内臓のリチウムイオン電池も乾電池みたいに規格を統一して交換可能にすればスマホを長く使えて買い替えペースを緩やかにできてそのぶん資源の無駄が出なくなるだろうに、スマホのバッテリーの規格が統一できないのはなんでなのかよくわからない。スマホの大きさも微妙に違うせいでスマホケースに互換性がなくなって無駄である。0.1インチ刻みの大きさのこだわりは客は求めていないので、ケースも互換性があるようにしてほしい。パソコンは規格化できていてパーツやケースを交換して自作できるのに、スマホだとケースの互換性さえ乏しいのはなんとかしてほしい。・過剰包装をやめる贈答用の菓子とかはある程度高級感を持たせるために厚紙で包んでのしをつけるのは文化としてはわかるけれど、庶民のお土産の2000円程度のものに高級感を持たせたところでたかが知れているので無駄に見栄えを良くするのはやめればよいし、スーパーで小売している菓子はなおさら過剰な包装は必要ない。ソーセージの袋の上を束ねるための余分な空間とか、三食入りやきそばの袋を閉じる赤い針金とかも無駄なのでなくすほうがよい。●正直者が馬鹿を見る日本は電力の85%が化石燃料なので、これをいきなりなくすのは無理である。化石燃料に頼らないで発電するなら原発を稼働するのが合理的である。しかし経済合理性よりもイデオロギーを優先して何があろうが原発を稼働させたくない勢力がいるので、なかなか原発の再稼働に至らない。化石燃料に依存したままなので、日本は2021年の国連の気候変動会議COP26化石賞を受賞して馬鹿にされたけれど、ロシアのウクライナ侵略が始まってロシアからガスが買えなくなったらドイツはしれっと石炭火力発電を始めているし、ドイツで原発を廃止して足りなくなった分の電力をフランスの原発で発電した電力で補うのでは結局脱原発になっていない。ヨーロッパ内でも混乱が起きていて、オランダだと7月3日に政治家が汚染物質削減の法案に投票して、これが窒素やアンモニアを規制して強制的に家畜数を減らす政策だったので、反対した数千人の農家がDutch Uprisingという運動を起こしてドイツとの国境をトラクターで封鎖したり、政府の庁舎に堆肥をぶちまけたり、農家に賛同した人がストライキしてスーパーで野菜がなくなったりしているそうな。法律で強制的に他人の生活の糧を奪うのなら補償するなり他の仕事を斡旋したりするのが筋で、畑仕事もやったことがないエコロジーにかぶれた偉い人の理想のために現実の生活を支えている生産者が割をくうのでは庶民は納得しないだろう。ドイツはクリーンディーゼルを謳って市場シェアを得た挙句に2015年にフォルクスワーゲンの不正が発覚したように、エコに関しては建前と現実がだいぶ違っている。原発も嫌、化石燃料も嫌というわがままを言ったところで両方辞めたら電力が足りなくなって発展途上国並みに産業が衰退するので、日本は馬鹿正直に欧米の脱原発や脱化石燃料に付き合う必要はないだろう。長期的な環境への配慮が重要だとしても、食料やエネルギーの安全保障のほうが優先されるべきである。●豊かさに満足する上限はどこか現代人は貧乏な人でも砂糖や香辛料をふんだんに使って中世の貴族よりも豪華な食事をして生活習慣病になっているし、食べ物についてはもう十分豊かになっていて食べ過ぎないように自制が必要である。1970年代に100万円したパソコンよりも小型で高性能なスマホを子供でさえ持っている。家庭用ゲームはたいてい3Dになってもう十分リアルだし、Minecraftがヒットしたようにグラフィックが粗くてもゲーム自体の面白さが損なわれるわけではないし、各家庭で数十万円のハイエンドゲーミングPCを持つ必要なんてないだろう。ゲームなんて所詮は暇つぶしにすぎないのだから、その程度のものに資源をつぎ込んでもたいして幸福度は増えない。車はF-1の人気がなくなったようにもはや速度はロマンではないし、スポーツカーはかっこいいというよりもむしろ燃費が悪くて環境に配慮していなくてエンジン音がうるさくて金を持ったDQNがスピードを出し過ぎて悲惨な事故を起こすマイナスイメージのほうが大きい。自動車のスピードが足りなくて不満な人なんていないだろうし、小型車や低燃費車や安全性とかの開発に力をいれたり、公共交通機関やカーシェアリングを充実させるほうがよい。現代社会は技術的には十分豊かである。問題は富が偏在して豊かさを享受できない人が大勢いることで、豊かになる個人はいても未だに豊かな社会は築けていない。標高が高くても登山家しか登れなくて木も生えない険しい山と、標高が低くてもすそ野が広くて様々な動植物がいて大勢がハイキングを楽しめる山で、どちらが豊かな山かと言えば後者である。脱成長というのは利益の最高値の追及から利益の広がり(=公益)に豊かさの方向をシフトすることだと私は思う。日本は新一万円札の肖像を渋沢栄一に変えるけれど、経済の在り方も株主資本主義でなくて渋沢栄一が目指した公益を追及する合本主義、現代風に言うなら公益資本主義という日本の原点に戻るべきだろう。『老子』に「知人者智、自知者明 勝人者有力、自勝者強 知足者富、強行者有志 不失其所者久 死而不亡者壽」とあってしばしば「足るを知る者は富む」と言われるように、自分を知って物事の本質を知って志を持って努力すれば、収入がどうであれ精神的には豊かな人生を送れるはずである。日本人はもともと足るを知っていまある物や人を大事にする精神性を持っていたと思うけれど、経営者がグローバリズムの新自由主義にかぶれてからは物も人も使い捨てになって社会が壊れてしまったので、人や物を大事にする日本的な価値観に回帰して社会を立て直すべきである。
2022.07.07
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