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中学三年生の歩が東京から田舎に転校して、リーダー格の晃が稔をいじめる様子を眺めていたら稔に殺されそうになる話。第159回芥川賞受賞作。●あらすじ1中学生の歩は父親の転勤で各地を転々としていて、東京から津軽の50世帯くらいしかない地域に引っ越して全校生徒が12人しかいない中学校に転校する。学校を案内したリーダー格の晃は稔の頭を鉄鋼で殴って暴行事件を起こしたやばいやつで、同級生たちが高校生グループと戦うためナイフを万引きして、歩が花札で勝ってそのナイフを持たされることになる。歩が委員長に晃を推薦したら晃にも副委員長に推薦されて副委員長をやることになる。晃は回転盤をやるといって硫酸を盗んできて稔の手にかけるものの、中身は牛乳にすり替えていた。26月に角力をとって稔が石灰まみれになったのを藤間が乞食と呼んだことに晃は怒り、晃は花札でいかさまをして賭けが絡むときは稔を負けさせていたものの、藤間と今野が透明人間ごっことして稔を無視した時は晃は今野を殴る。晃は退屈だから彼岸様をやろうと言い出して、屈伸した後に縄跳びで稔の首を絞めてあやうく殺しかけた。3藤間が給食を吐いて、歩は晃が給食に硫酸を入れたのではないかと疑ったものの、教師には言わなかった。夏休みになって歩は稔と床屋で一緒になり、ナイフを渡してほしいと言われるものの断る。銭湯で晃と会って河に火を流す習わしがあると聞いて、過去の暴行事件は稔にコーラを買って来いと命令しても断られたので鉄鋼で殴ったのだと明かされる。4歩たちは作業服を着た中学のOBに森の中に連れていかれて、晃はすでに殴られておとなしくなっていて、稔はサーカスという手を縛って玉乗りする度胸試しをやらされて玉から落ちて鼻血まみれになる。晃は逃げ出し、稔はなぜか円盤状の肉切り包丁を持っていて縄をほどいて仁村の首を切り、歩は稔が晃を殺そうとしているのだと思うものの、稔は歩に一番ムカついていたと言って歩を切りつける。●感想三人称で歩が焦点人物。歩を焦点人物にすることで田舎を相対化してリーダー格の晃を観察する構図で、親の都合で転校せざるを得ず、生徒数が少ないがゆえに付き合う相手を選べずにいじめっ子と付き合わざるを得ない理不尽さが物語の推進力になっている。良い点としては、子供同士で無邪気に遊んでいるときに不意に晃の暴力性が出てくる不穏な感じはよい。悪い点としては、晃の暴力以外の見どころがないし、暴力の扱い方も中途半端である。晃や稔を焦点人物にして反抗的なangry young menを直接書くならキッチンシンク・リアリズムというジャンルになりうるけれど、歩は特に社会や権力に対して怒っているわけでもないし晃の稔への暴力をスルーしているし、晃にしても高校生グループにしても暴力をふるう動機や目的が不明なままで掘り下げられていなくて、暴力を描いても暴力が作品のテーマになっていない。それに歩が晃と稔の変な関係の観察者にとどまっていて、その関係に影響を与えて暴力を矯正したり影響を受けて暴力的になったりするわけでもないし、何か暴力的な出来事が起きただけで場面を終わらせてしまってそれに対する歩の心理を書かないし、ほとんど他人が出来事の起点になっていて歩に目的がなくて自分から行動を起こさないので、歩に主人公としての存在感がないのもよくない。何もしないなら帰れとブーイングしたいくらい何もしない。直接晃の心理を描写せずに歩を観察者にして婉曲にすることで晃の行動原理がよくわからない怖さを出すのが狙いなのかもしれないけれど、歩がアクションやリアクションをしないのでは読者としては歩に感情移入できないし、歩を登場させる必然性を感じない。小林秀雄風にいうなら田舎を生きた人を書いていなくて田舎に驚いている人を書いた話になってしまっていて、歩を驚かせるのでなくて読者を驚かせないとだめである。晃が稔をいじめているくせにたまに優しくする理由がよくわからないままなのも人間関係の掘り下げが中途半端である。冒頭にナイフを万引きした場面を入れるのは「チェーホフの銃」のようにいつナイフの出番があるのかという後半への期待を持たせることができるのは文学的な小技を効かしたやり方で、それ自体はよい。しかし中学生なら図工に使う小刀や彫刻刀とかの凶器になる道具を持っているだろうからわざわざナイフを万引きする必然性もないし、高校生グループも最後になるまで物語に登場しないし、読者にナイフを意識させるためにいかにもとってつけたようなエピソードになっている。しかも最後に稔が使う刃物が万引きしたナイフではなくて実家の肉屋から持ち出したと思われる肉切り包丁で、歩も万引きしたナイフで対抗するわけでもなくて、ナイフを万引きする場面が結局はプロットとしては必要なくなっているので、他にやりようがあっただろう。稔の肉切り包丁にしても突然出てきてご都合主義的で、持ってるならさっさと使えよという感じである。物語の時代は13ページに「再放送で観る九〇年代のテレビドラマ」とあるので2000年代以降の平成の話なのだろうけれど、中学生が暇つぶしの娯楽として花札や角力をして家庭用ゲーム機で遊ばないのはいくら田舎でも違和感があって、戦前の話と言われた方がまだ納得できる。その不自然な土台のうえに「神降ろしばしでまっだ、彼岸様ァ、彼岸様さおいでになられだ!」だのの超自然的な演出を重ねようとしても、いっそうリアリティがなくなってしらけてしまう。田舎者を乱暴で馬鹿で迷信深くて時代遅れなDQNとして描いたのも感じ悪い。2018年に刊行されたけれど現代の子供向けに書いたわけでもないし、おっさんが少年時代を回顧するのを狙ったようでもないし、ホラーにもなりきれていないし、津軽の人の反感を買うだろうし、どの読者層がターゲットなのかよくわからない。子供の物語にありがちなパターンでプロットに大人が関わらないのもよくない。少人数の学校なら教師の目が届きやすいだろうに問題だらけで、学校から硫酸が盗まれても気づかない無能な教師は晃が暴力をふるう舞台を用意するためのご都合主義的な存在になっている。子供は未熟で感情が豊かなので物語のメリハリは出しやすくなるけれど、だからといって子供だけの物語にするのは物語の作りやすさに頼る逃げの一種である。このテイストで田舎の陰惨な物語にするにしても、出世コースに乗る目前で田舎に転勤してDQNの横領事件や子供の暴行事件に巻き込まれて対処に追われる父親の物語にした方が大人の読者にとっては面白い展開かもしれない。構成もあまりよくない。冒頭の場面は本来は3章と4章の間にくるのだろうけれど、いきなりその場面だけ出されても意味がわからないし、3章と4章のつながりもわかりにくくなるので普通に場面を連続して書く方がよい。歩が誕生日にシフォンケーキを食べただの親と羽根つきをして遊んだだのという日常パートはプロットやテーマと関係ない脱線になっているのもよくない。あと93ページに晃が深田恭子がめんこいと言う場面があるけれど、その話題を掘り下げるわけでもないし、深田恭子の無駄遣いである。テーマとしては暴力を書いていけないわけではないけれど、純文学はいつまで田舎で暴力をふるうテーマを書き続けるつもりなのか。中上健次みたいな下手な小説家がもてはやされたせいか、田舎の暴力的な話が純文学のパターンのひとつになっているけれど、純文学の読者がそんな暗い話を読みたがっているのか疑問である。エンタメとしての暴力なら冒険活劇やミステリやホラーのほうが面白いし、純文学で暴力を描くのなら暴力の是非とかの真善美のテーゼがほしいところだけれどこの小説はテーゼがないまま物語を盛り上げるために暴力や不良を用意した感じで、いじめる人よりも傍観者の方がムカつくという既存の概念をなぞっただけで哲学的な見どころがないし、SNSや学校裏サイトのネットいじめが問題になっている現代に物理的暴力の話は古臭いし、田舎の教育に問題提起しているわけでもないし、子供が同級生や上級生の暴力にどう対処するかという処世術を書いているわけでもないし、建設的なところがない。この小説は新人の小説なのに純文学のステレオタイプにはまっていて技術やテーマの新しさがないし、暗い話で次回作を読みたくなるような作風でもないし、悪い小説ではないけれど魅力もないので、これで芥川賞を受賞しても作者のファンや純文学のファンは増えないと思う。芥川賞の傾向と対策に沿って暴力と方言と田舎の風景描写を混ぜて最後にカーニバル的に盛り上げて行儀よく書いた感じで、主人公の歩にその予定調和のテンプレ展開を逸脱するようなリビドーがなくて終始受け身の傍観者なのが決定的につまらない。特に終わり方が中途半端で、開高健風にいうならクー・ド・グラス(とどめの一撃)がない。もし歩が万引きしたナイフで稔に反撃して殺したり、稔が歩にとどめをさすところまで書いて暴力と殺人の葛藤を掘り下げたらもうちょっと純文学的な見どころがあったかもしれない。田中慎弥の芥川賞受賞作の『共喰い』も田舎の暴力の話で最後に殺人を持ってくる似たような構成で、技術的には下手だけれど思春期の主人公に性欲のリビドーがあってエレクチオンしているという点ではこの小説よりはましである。★★★☆☆送り火【電子書籍】[ 高橋弘希 ]価格:680円 (2023/3/30時点)楽天で購入
2023.03.30
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こないだTwitterで無知な人のほうが創造的だみたいな議論を見かけたのだけれど、私は知識がないと創造はできないと思う。というわけで無知と創造について考えることにした。●創造のプロセス物作りにしてもコンテンツ作りにしても、創造にはまずこういうのを作りたいなという着想がある。そしたらどんな素材を使うのか、どう部品を組み合わせるのかという設計をする。そんで試作品を作ってみて、着想通りに仕上がったか確認して、うまくいかなかったら修正して、試作を繰り返して満足する出来のものができたら作品の完成である。うまくいかない原因はたいてい設計が間違っているか、あるいは設計通りに作る技術がないかのどちらかである。例えば料理のレシピ通りに作れば誰が作っても同じ味になるはずだけれど、その味を再現できない人は調理の技術が足りないのである。新しいものを創造するには大まかに言って二つの方法があって、すでに他の人がやっていることを他の人よりうまくやるやり方と、他の人がやっていないことをやるやり方がある。前者のやり方では知識が必須になる。それゆえに他社の製品をリバースエンジニアリングしてどんな素材や技術が使われているか調べて違う素材を使ったりして、同じ品質でも値段を安くしたり、あるいは同じ値段でももっと高品質にしたりして、差別化して競争で優位性をもつようにする。後者のやり方ではアイデアが重要になるけれど、だからといって知識が必要なくなるわけではない。例えば最高にかっこいい家の着想をしてデッサンする程度のことは誰でもできるけれど、水回りの配管や電気の配線はどうするのか、耐震基準や耐火基準を満たしているのかという最低限の知識がないと実用にたる家は建てることができないし、デザインが奇抜であるほど高度な加工技術が必要になって実用化が難しくなる。他の人が今までやっていないのは必ずしも着想がなかったわけではなくて、技術的に無理とか採算が合わないとかの何かしらの理由があるからやらないのである。無知な人の方が創造的だと言う人は着想だけに注目しているのだろうけれど、作品や商品として完成させることができないのでは机上の空論である。着想は創造の一番面白い部分なので、みんな着想だけやりたがる。某絵本作家みたいに着想だけして作業は他の人に丸投げして天才を気取っている人もいるけれど、こういうのは金持ちや有名人だからできるやり方で普通の人にはできない。創造したかったら着想だけやるのでなくて、どう作るのかという知識が絶対に必要である。・固定観念固定観念は知識があることが創造の妨げになるようなケースといえる。例えば刺身はわさびと醤油で食べるものだという固定観念があるせいで、他のおいしい食べ方があってもわざわざ失敗するリスクを冒してまで試そうとしなくなる。しかし何かを知っていることが制約になっているなら固定観念や認知バイアスや過去の成功体験を自覚してアンラーンすればいいだけの話で、自分が何を自覚しているかを自覚するメタ認知能力がある人なら固定観念を修正するのは難しいことではないので、知識があることによるデメリットよりもメリットの方が大きいだろう。●創造の才能・天才と才能の定義イェール大学のYouTubeチャンネルのThe Nature of GeniusというプレイリストのA Definition of Genius for Todayという動画ではいろいろなgeniusの定義を紹介していて、ショーペンハウアーの定義だと"A person of talent hits a target that no one else can hit; a person of genius hits a target that no one else can see(才能がある人は誰にも打てない的を打つ、天才は誰にも見えない的を打つ)"と定義していた。この定義でいうなら私はギターで独自の演奏方法を確立して私にしか弾けない曲を作曲したのでgeniusと言っても過言ではないけれど、既存の曲を他の人よりうまく演奏することはできないのでギターの演奏のtalentはないといえる。他にもいろいろ定義があるけれど、だいたい他の人ができない独自の創作や洞察ができる人のことを天才と言うようである。子供のときに目立った才覚を発揮して神童扱いされる人が天才の典型とみなされがちで、それゆえに無知なほうが創造的だというイメージが生まれるのだろうけれど、遅咲きでも天才でありうる。天才はnature(生まれつき)かnurture(教育)かという議論があるけれど、サヴァン症候群みたいな努力ではまねできないような特殊な能力を生まれつき持っている人はいるし、遺伝子による生得的な適性や才能の差は確かにある。アスリート系は遺伝子による体格差が大きいけれど、創造の才能は遺伝子よりも後天的な学習の影響のほうが大きいだろう。たとえば偉大な小説家でも若いころの習作は下手で、古典として残るような傑作長編小説を書くのはたいてい晩年である。それに17-19世紀の初期の小説家よりも創作手法や哲学が研究された20-21世紀の小説家の方が完成度が高い作品を残しているし、個人の生得的な言語感覚よりも知識や技術の蓄積の方が創作への影響が大きいといえる。・情熱という才能上の動画のgeniusの定義には並外れた精神力を含めているものもあった。平凡な人は何度か試してみてうまくいかないと諦めるけれど、情熱がある人は諦めないで試行錯誤するので、うまくいくやり方を見つけて他の人ができないことができるようになる。エジソンは1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄だと言ったそうだけれど、何もしないでいきなりひらめくことはまずないので、ひらめくためにも相応の努力が必要になるし、努力して経験を積み重ねたらもはや無知ではなくなる。発達障害の人は過集中して周りが見えなくなることがあるけれど、それも創造においては才能となる。ではその並外れた情熱の源泉はどこにあるのか。ハングリー精神があるにこしたことはないだろうけれど、金や名誉が欲しい人の情熱は長続きしない。苦労して創作しなくても投資したり政治家になったりして金や名誉を手に入れる方法はいろいろあるし、いったん金や名誉を手に入れてしまったらそれ以上創作する理由がなくなってしまう。例えばヒット作を描いて金持ちになった漫画家は創作しなくなってしまう。物作りが楽しくていろいろ作ってみたくなる純粋な好奇心とか、社会課題を解決しようとする信念とか、芸術として昇華せずにはいられない感情とか、作るからには最高のものに仕上げようとする職人魂とかのほうが情熱の源泉としては大きいだろう。●創造へのアプローチ・知識と技術への投資先行事例を勉強せずに車輪の再発明みたいなことをやるのは時間と労力の無駄である。一度身に着けた知識や技術はその後もずっと使えるし、繰り返して使うほど技術が洗練されていくので、投資に対する費用対効果が高くなる。知識と技術は早いうちに身に着ける方が有利なので、大工や板前とかの職人は若いうちに下積みの修行をするのが慣例になっている。知識は本を読んだりネットで調べたりすればすぐに覚えることができるけれど、技術は実際に手を動かして何度か同じ作業を繰り返さないとノウハウが身に着かないので技術の習得には時間がかかる。それゆえに物作りには技術者の育成が重要になる。特許に使用料を払えばその技術を使えるけれど、その技術を使える技術者は金を出してもすぐには買えない。技術者は大企業のルールに縛られたくないのでベンチャーを起業してやりたいことをやるし、大企業はそういう技術者がほしいのでベンチャー企業をM&Aして技術者ごと買収している。自分で物を作らない政治家や官僚は金を出しても技術者や技術者が持っている暗黙知のノウハウはすぐに手に入らないことを理解していないので、緊縮財政でインフラの維持費を削減して技術者不足でインフラを維持できなくなっている事態になっている。発展途上国は自前で技術者を育てられないので自国でインフラを整備することができなくて外国企業に頼るしかないけれど、日本は金さえ出せば自前で技術者を育てられたのに人件費や研究開発費をけちって技術者を育てようとしないままベテランが引退して技術承継に失敗して人手不足になったりMRJやH3ロケットが失敗したりしているのは馬鹿である。コンテンツ制作は物作りと違って設備投資しなくてもよいと思われがちだけれど、よい作品を作るにはそれなりに投資が必要である。なろう小説みたいに無知な素人が書いた小説が異世界転生チートの二匹目のドジョウだらけになって飽きられているように、無知な人の着想はたかが知れているし、テーマについての専門知識や創作技術がないと作品の差別化はできない。その専門知識を手に入れるには本を読んだり旅行して取材したりする費用と時間がかかるのである。無知なほうが創造的だと言う人はたぶんなろう小説を読んだことがないのだろう。・他分野をとりいれる無知なままでは他分野の研究成果を取り入れる着想もでてこないので、他分野の研究成果を取り入れるには当然高度な専門知識が必要になる。古典芸術だと音楽をやる人は音楽の知識だけ、文学をやる人は文学の知識だけみたいな専門バカになりがちだけれど、現代アートはインスタレーションとかの体験型の展示と最先端の科学技術の相性がよくて、科学技術をうまくとりいれて新しい試みをやっている。IoTも既存の製品の可能性を拡大している。例えばおもちゃは電池を動力にして単純な動きをしたり光ったり音を出したりする程度であまり高度な技術は使われていないけれど、今後はAIを搭載して話し相手になるスマートぬいぐるみとかの付加価値が高い製品も出てくるかもしれない。私は今後のコンテンツ制作には認知心理学や脳科学を取り入れることが重要になると思う。6Gの脳とリンクする人間拡張システムが実用化されたら、脳汁ぶっしゃーとなるような爽快感があるコンテンツを作るためには製作者側が脳の仕組みを知る必要があるだろう。個人的にはゲーム制作会社が3D酔いしなくなる仕組みを研究してゲームに実装してほしいと思う。
2023.03.27
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最近は読解力が低くて算数の計算問題は解けるのに文章題がわからない子供が増えているようだけれど、文章だけでなくてモラルとかの明文化されていない暗黙の了解も理解できなくなっているようで、飲食店でいたずらする若者とかがでてきて社会に様々な問題が起きている。性善説やお互い様という精神が通用しなくてやっていいことととやっていけないことの基準を明文化しないと問題に対処できなくなっているけれど、その基準がなかったり、基準が曖昧だったりする。というわけで徒然なるままにいろいろな基準について考えることにした。●基準とは何か何かの上下のある水準をstandardといって、思想や評価の規準はcriteria(複数形はcriterion)という。例えば血液検査の基準値はstandard valueといって健康な基準から上下に外れていたら病気の兆候を意味するし、テストの合格基準や善悪の価値判断の基準はcriterionという。社会で問題になっているのはcriterionのほうで、個々人で判断基準が違うがゆえに諍いが起きているし、法律で皆が満足する基準を作るのも難しい。●モラルの基準モラルはより良い生き方を目指すための価値観で、宗教や哲学によって何が良くて何が悪いのかというある程度の基準はあるものの、どの程度のモラルを目指すのかは個人の価値観によって違うので、下限は犯罪として明文化できるけれど上限は明文化できないし、法律で善人になることを強制することはできない。違法行為を一切していなければ最低限のモラルがあるかというとそうではなくて、違法ではないけれどモラルがない人が大勢いるのが問題である。日本は恥の文化で、欧米は罪の文化だと言われているけれど、その価値観がモラルにも影響する。日本では他人に批判されることを恥と考えて、空気を読んで批判されないようにすることが犯罪の抑止力になる。大丸別荘が1年に2回しかお湯を変えなかったことは公衆浴場法違反で一定期間営業停止にされる程度でたいした罪でもないのに前経営者が自殺したけれど、これは罪よりも全国ニュースになった恥の方が精神的な負担になったのかもしれない。アメリカは人口の約1/5の6500万人が前科があるけれど、キリスト教では懺悔したら罪は許されるし、金を払えば保釈されるので、前科があるけどそれが何なのという程度の認識で、それを恥じることとは考えていない。ドウェイン・ジョンソンが子供の頃に毎日セブンイレブンでスニッカーズを万引きしていたとInstagramに投稿して、彼は罪を懺悔して長年の自責の念を追い払って満足して、万引きについて他人からどう思われるかを気にしていない。あくまで個人的な罪でしかなくて、他人には関係のないのである。最近の日本人はネットの普及や核家族化とともに日本的な道徳や躾の基準を継承しなくなって欧米化したのか、若者はもう恥の文化とはいえなくなっている。最近は名古屋でホームレスにおごると言ってレジまで来たら金を払わずに逃げた若い女が書類送検されたけれど、SNSでフォロワーを増やしたいという動機だったそうな。金を払っている客だから何でもやっていいと目に余るふるまいをする輩も多くて、最近は飲食店の無料のトッピングや調味料や漬物をどばどばと料理にぶち込んで面白がった挙句に食べずに残したり、ラーメン店でスマホで動画を見ながらのんびり食べて満席で待っている客に配慮しない客が問題になっている。キッチンDIVEという弁当屋で「金払ったら客だろうが」と硬貨を投げつけた酔っ払いもいて、カスタマーハラスメントとして批判された。代金を払っているのだから文句を言われる筋合いはないというのが彼らの理屈で、他人に迷惑をかけたり不快な思いをさせたりしても人として恥ずかしい行為をしているという自覚がなくて、羞恥心がないがゆえに自制が働かないのである。じゃあどうすれば日本人のモラルの水準を向上させられるのか。恥の文化を継承し損ねた恥知らずの人に恥の概念を教えるのはたぶん無理だろう。文化は親から子へ、先輩から後輩へと受け継がれて社会全体で構成するものなので、いったん文化の継承が途切れたら世代を超えて継承させるのは難しい。となるとアメリカのようにどんどん法律を作ってやってはいけないことを明文化して禁止したり、契約書に違反した際の罰則を延々と記載したりして、罰の文化に対応する必要がある。飲食店でいたずらする動画を撮った人に対して高額の損害賠償請求をしたほうがいいという意見が出てくるのも日本が罰の文化になりつつある表れだと思う。しかし罰を与えたところでモラルの最低限の基準を満たすだけに留まってしまう。それにモラルがある良い人間になったところで金が儲かるわけではないし、欲を自制すると快楽は減ってしまうし、良い人間になるインセンティブがないし、寺で厳しい修行をしてまで良い人間を目指す人はあまりいないだろう。だったら小説を読んだり映画を見たりして、善良な主人公が奮闘する様子を見て気軽に楽しみながらモラルの基準を形成するのが良いと思う。『鬼滅の刃』とかの勧善懲悪の物語をくだらないという人もいるけれど、子供だましのくだらない娯楽にも真善美のかけらがあることが重要である。●正常と異常の基準LGBTの問題は、何を正常とみなすのか、何を異常、病気、障害とみなすのかという人間観の認識に関わる問題なので、認識が違う人同士で妥協点を探すのが難しい。キリスト教やイスラム教とかの宗教保守は男と女しか性はないと考えて同性愛やトランスジェンダーは異常だとみなす。日本では同性愛には寛容なほうだけれど、それでも異常性愛として生理的に嫌う人がいる。性同一性障害のオカマはかつては変態扱いされて差別されていたけれど、障害だから仕方ないということで性転換して戸籍上の性別や名前を変えることを認められている。ところがWHOは性同一性障害を精神障害の分類から除外して性別不合と呼んで、性別変更のために手術を受ける必要があるとすることに反対する声明を発表したことで、トランスジェンダーの問題がややこしくなった。つまりWHOは性自認が体の性別と一致しなくても異常でなくて、人間の正常な状態だと判断したのである。障害ではないのに性転換手術もせずに自分が自認する性に自由に変更できるのが平等で、その自認を拒否すると差別として扱われるというWHOの基準ができてしまって、それゆえに欧米では男性器がついた自称トランス女性のレズビアンが女子トイレや女子刑務所で女性をレイプする事件が起きたり、トランス女性が女子更衣室で男性器を露出したりすることが問題になっていて、保守派は反発している。このWHO基準を日本に押し付けられたのでは、性同一性障害は障害だから苦しみを理解して受け入れようという社会的な容認さえなくなって、他人の迷惑を顧みない自分勝手な変態としてかえってトランスジェンダー差別を助長してしまいかねない。というわけで私は性自認と体の性別が一致しないのは認知に異常が起きている障害とみなすべきだと思う。精神病も基準があいまいである。自分がキリストの生まれ変わりだと自認している人は精神病患者として治療を受けることになるけれど、自分が地球神エル・カンターレだと自認している人は教祖になれる。病気の妄想と病気でない妄想の基準は日常生活を問題なく送れるかどうかで、仕事をして金を稼いで家事をして周囲と意思疎通して日常生活を送れるのなら珍説や陰謀論を唱えようが個人の自由なので治療の必要はない。しかし言動が支離滅裂で一貫性がなかったり、妄想がもとで周囲と諍いを起こすのであれば、認知機能が正常でないので精神病や認知症として治療が必要になる。うつ病も当初は怠けているのか病気かでもめていたけれど、今はうつ病は脳の病気ということが医学的なコンセンサスになっている。発達障害も障害とみなすのか、正常な個性のうちのひとつとしてみなすのかで議論がある。ダウン症みたいに寿命が短くなるのは障害と言えるけれど、アスペルガーやADHDとかの発達障害は健康や寿命に直接影響があるわけでもないし、特徴の度合いも人によって違っていてイーロン・マスクのようにアスペルガーでも起業家として成功する人もいるので、正常なのか異常なのか判断がわかれる。親が子供を特別支援学校でなく普通の学校に入れたがっても結局勉強についていけなかったり他の子供とうまくコミュニケーションできなくて孤立したりすることもあるので、日常生活に支障があるのであれば個性でなく障害とみなして支援するのが妥当だと思う。●差別の基準差別は辞書的な意味だと「先入観や偏見に基づき、特定の集団等を不平等に扱うこと」を指すけれど、はっきりした定義やコンセンサスがなくて、例えば障碍者差別だと内閣府の「差別の定義について」というページによると自治体ごとに若干違う定義をしているように、差別の定義や基準が曖昧であるがゆえに揉めやすい。相手を差別する意図がなくても相手が差別と感じたら差別なんだという理屈があるけれど、一人でも差別だと言えば差別認定されて慰謝料を払わされて差別用語として言葉狩りされて使用禁止になるのでは言葉の普遍性がなくなる。例えば「支那」が差別語だとか、障害者の「害」の文字が差別だとか、子供の「供」が差別だとかで左翼が言葉狩りをしているけれど、差別的な言葉を使ったかどうかでなくて実際に被害や不利益を受けたのかが問題だろうに、左翼はそこを取り違えていて言葉をなくせば差別がなくなると誤解しているようである。「嫁」や「家内」が女性を差別する言葉だと怒るフェミニストもいるけれど、配偶者を妻と呼ぶか嫁と呼ぶかは各家庭で決めればいいだけの話で、よその家庭を矯正したがるのは余計なお世話である。価値観は人それぞれなので怒るポイントが人によって違うのは別によいけれど、個人的な価値観を差別として普遍化してヘイトスピーチ規制法とかの法律で規制して価値観が異なる他の人に強制的に適用させるのはだめだろう。LGBT理解増進法にも「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」という文章が付け足されたけれど、差別の定義が曖昧で主観的に誰かが差別と感じたら差別だと認定されるのでは法律が拡大解釈されて気に入らない相手の揚げ足取りのスラップ訴訟に悪用されてしまう。ではどういう基準で差別か差別でないかを決めるのが妥当なのか。私は集団に向けられた言動なのか、実在の人物に向けられた言動なのか、侮蔑のニュアンスを含んでいるのか、不当に被害や不利益を受けたのかが判断基準になると思う。例えば子供の口喧嘩でよく使われる「お前の母ちゃんでべそ」は個人に対する侮蔑ではあるけれど集団に対する侮蔑ではないので、これを差別と言う人はいないだろう。「お前のキャシャーンでべそ」は実在の人物でないので差別ではない。「お前の母ちゃん出不精」はコロナ禍で出不精になっている人が多くて侮蔑というほどでもないので差別ではない。「オマーン人の母ちゃんでべそ」だったら特定の実在の集団を偏見に基づいて侮蔑しているので差別となる。しかし侮蔑されたからといって身体的・金銭的に深刻な被害を受けたわけではないし、「うっせバーカ」と言い返せば済む程度の話なので「でべそ」を差別語として禁止して「臍ヘルニア」に言い換える必要はない。もし海水浴場ででべその人はインスタ映えしないという理由ででべその母ちゃんの利用を拒否したら、でべそという特徴に当てはまる集団が何の落ち度もないのに不平等な扱いをされて不利益を受けているのでこれはでべそ差別として法的に是正する必要がある。もしでべその母ちゃんがアイドルグループに加入しようとして水着審査ででべそを理由に断られた場合は、侮蔑されたわけでないしアイドルを外見で選ぶのは社会通念上で許容されているし不当に不利益を受けたわけでもなくて自分でDBS48とかのアイドルグループを作って活動すればいいだけなので差別ではない。●平等の基準平等も差別と関連する概念で、判断基準でもめる。機会の平等を基準にするのか、結果の平等を基準にするのかでは社会の在り方が全く違う。そもそも遺伝子も容姿も能力も寿命も人によって違うのだから、個々人に何かの差があって当然で、あらゆる結果が平等であることはあり得ないので、私は機会の平等であるべきで適材適所で個々人のそれぞれの優れた能力を活かせばよいと思うし、結果を平等にしようとして個性を無視して運動会で手をつないで皆でゴールする左翼のやり方は全体主義的でばかげていると思う。格差が大きくなると貧しくて進学できない人が出てきて機会も平等でなくなるので格差の是正は必要だけれど、だからといって社会主義的になる必要はない。男女の平等も大きなテーマである。仕事でも機会の平等でなくて結果の平等を求めて、会社の役員や議員の半分を女性にしたがるフェミニストがいる。しかし女性の立候補を禁止しているわけでないし有権者が誰に投票しようが自由なのだから、選挙の結果の男女比を同じにしようとするのはおかしいと思う。この種の平等を主張するフェミニストは汚れ仕事は男女平等にしようとしない。例えば常備自衛官は約14万8千人で、そのうち女性自衛官は約7千人、男性に対する女性の比率は約4.7%で圧倒的に男性が多いけれど、その男女比の是正をやろうとしない。会社の役員や政治家といったエリート職だけ男女同数の平等を求める人たちは平等を目指しているのでなく利権が欲しいのである。身体能力に性差がある以上は男女で適職が違って収入が違っても当然だろうに、結果の平等を求める人たちはその事実を受け入れたくないので、女性が低賃金なのは女性差別のせいだということにしたいのだろう。年金制度は男性が一家の大黒柱だった時代に作られたので女性が優遇されていて、雇用機会均等法で男女平等になったのだから遺族年金や寡婦年金の女性優遇もなくすべきだろう。地方公務員災害補償法の規定では遺族補償年金を受給する際に女性には年齢制限がないのに対して男性には55歳以上とされていて、これは法の下の平等を定めた憲法に違反するのではないかと妻を亡くしても年齢制限で遺族年金が支給されなかった夫が訴訟が起こしたけれど、最高裁では「男女間における労働人口割合の差や賃金格差、雇用形態の違いなどを考慮すると、妻に年齢制限を設けないことは、不支給とした当時も合理的な理由があった」として夫に年齢制限がある規定は憲法に違反しないと判断した。男性だって低賃金の非正規雇用の人は大勢いるし、女性だというだけで性別で優遇するのは平等ではないと私は思う。そもそも賃金や雇用形態を考慮するというなら、性別を基準にするのでなく賃金や雇用形態を基準にするのが筋である。●老人の基準電車で老人に席を譲ったら「老人扱いするのか」と怒る人がいるそうだけれど、老人というのも曖昧な基準である。65-74歳は前期高齢者、75歳以上は後期高齢者という基準が一応あるけれど、老化の度合いは人によって違うので、あまり老いていない元気な高齢者もいる。なんで成人というくくりでなく高齢者として区別する必要があるのかというと、一般的に高齢になると知力や体力が落ちて働けなくなったり病気になったりして介護が必要になるからで、最近は医療が発達して元気な高齢者が多いとはいえ、平均寿命が80代なのだから、70代をそろそろ死期が近い老人として扱うのも妥当だと思う。バスや美術館の料金が割引になったりして高齢者優遇のサービスも多いのだし、高齢者扱いされたからと言って怒るようなことでもないだろう。老齢年金の支給開始年齢は徐々に引き上げられていて、昭和17年の発足当初は55歳だったのが60歳、その次は65歳に段階的に引き上げられている。フランスでは年金の支給開始年齢の引き上げに抗議してストが起きていたけれど、果たして引き上げは妥当なのか。日本の年齢階級別労働力人口の推移を見てみると、65歳以上の労働力人口は2012年が610万人だったのが、2022年は927万人に増えている。65歳の平均余命も今後徐々に伸びる見通しなので、高齢者でもまだ介護が必要なくて就職先があって普通に働けるのなら支給開始を遅らせること自体は妥当だと思う。しかしどんな契約でも内容を一方的に変えていいものではない。20歳で新しく年金に加入する人の支給開始年齢を引き上げるのならわかるけれど、すでに年金を払っている人に対して同意なしに引き上げるのは老後の人生設計に大きく影響するので抗議されて当然である。●美の基準動物は本能的に色彩で毒物や病気を見分けているので、毒々しい色彩や傷跡やシミや腐敗したような色は美しくないものとして嫌悪する。その一方で調和や均整が美しさの判断基準になる。例えば西洋絵画は構図や彩色のパターンが良く練られていて、全体として調和した印象を与えるように計算されているがゆえに鑑賞する側は美しく感じる。自然の草花は黄金比とかの幾何学的な法則を体現する美しさがある。料理は色彩の調和があると美しくて食欲がわく。音楽の和音は調和が美しく感じるし、調和していない音は不協和音と呼ばれるように美しく感じない。行動の美しさは躾と呼ばれて、和室を退室するときに一礼して音を立てずに襖を閉める所作は美しいけれど、どすどす歩いてバチーンと襖を閉める所作は美しくない。外見の美しさはルッキズムとして批判されがちで、ミスコンとかの美の優劣をつけるイベントはなくなりつつあるけれど、人間が本能的に美しいものに惹かれること自体は悪いことではないし規制するようなことではないだろう。人間は誰でもそのままで美しいんだみたいなことを言う人がいるけれど、そういう風に何もせずに賞賛を得ようとするのは結果の平等を求めるのに似ていておかしな考え方だと思う。おっさんのだるだるのビール腹よりもアスリートの引き締まったお腹のほうが健康的で美しいし、手入れしていないぼさぼさの髪よりも美容師が技術を凝らして整えた髪のほうが均整がとれていて美しいし、手間をかけて手入れした方が美しいのが当然だろう。外見を醜さをけなすコンテストや、病的に痩せたファッションモデルをもてはやす風潮はだめだろうけれど、健康的な体型づくりやメイク技術とかに努力した人の美しさを誉めるコンテストは批判される筋合いはないと思う。●まとめ人間は衣食住が足りたら洗練を求めるもので、特に真善美が洗練されなければ良い人生を送ったり良い社会を作ったりできない。真実は科学的に明確な判断基準があるし、美は歴史的に蓄積された判断基準があるけれど、善は有史以来宗教家や哲学者がずっと考えてきたけれどいまだに明確な基準はない。それゆえに特に善については自分なりの基準を持つのが大事である。経団連の十倉雅和会長が3月20日の記者会見でLGBT理解増進法案の議論が欧米より遅れていて恥ずかしいと答えたけれど、こういう「恥ずかしい」論法を使う人は自分の価値判断の基準を持っていないので、他人の基準に満たなくて批判されるのが恥ずかしいという思考をするのだろう。経団連は「ダイバーシティ・インクルージョン社会の実現に向けて」というPDFで女性、若者、老人、外国人の活躍に取り組んでいることを誇らしげに掲げていて人権意識が高いのが自慢のようだけれど、就職氷河期世代の中年男性を無自覚に除外しているのは矛盾している。自分の価値判断の基準を持たず、寄せ集めの基準と自分の言動との矛盾にも気づかないような恥知らずの大人にはなりたくないものである。
2023.03.19
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最近は首相の補佐官が同性愛を見るのも嫌だとオフレコで差別発言をしたとして批判されて更迭されて、LGBT理解増進法案の法制化が進められていて、ゲイの楽しんごが反対したりして賛否両論ある。欧米のポリコレ基準はいろいろおかしいと思うので、LGBTQやらなんやらのポリコレについて考えることにした。ちなみに私はLGBTQの当事者でもないしアライ(LGBTQ支援者)でもないし保守でもなくて、ただのおっさんである。●LGBTQの受容の歴史そもそもなぜ欧米でLGBTQ絡みのポリコレが盛んなのかというと、過去に同性愛を迫害してきた歴史が関係している。日本や古代ギリシアのような多神教では同性愛に寛容だったのに対して、キリスト教やイスラム教などの一神教の宗教では同性愛を迫害してきた。アメリカではソドミー法で同性愛の性行が違法だったけれど、1960年代にゲイ解放運動が起きて、欧米は過去に同性愛を弾圧してきた反動から罪滅ぼしともいえるようなLGBTQへの権利拡大が行われている。その一方でイスラム原理主義者はいまだに同性愛者を殺害している。日本は戦国時代から衆道があって同性愛には寛容で、明治時代に西洋化して1872年に鶏姦罪が作られたけれど合意に基づくものは違法ではないということで1882年にすぐ廃止されて、昭和初期からまた男色が盛んになった。しかしトランスジェンダーの理解は遅れていて、家父長制の影響からかオカマへの偏見は強くて女装するオカマは変態扱いされて親に勘当されたりしたけれど、マツコ・デラックスやIKKOのようなオカマタレントが人気になって性同一性障害も周知されて女装しても変態扱いされなくなった。最近は外科手術やホルモン注射やメイクの技術が進歩して青髭のおっさんが似合わない女装をしたいかにもオカマみたいなのはあまりいなくなって、金さえかければパス度(女性に見える度合い)を上げて氷川きよしみたいに美人になれるようになったし、「男の娘」とかのコスプレ的に女装する男性もでてきた。若者はLGBTQへの理解があるけれど、高齢者や保守はLGBTQを拒絶しているようである。●同性婚の是非保守派は同性愛を後天的な性的指向とみなしているので同性愛や同性婚に否定的だけれど、私は同性愛は生物学的に先天的に決まるものだと思っているので同性婚には賛成である。歴史上の世界中のあらゆる時代のあらゆる人種に同性愛者はいるし、同性愛者が異端視されて殺害されるイスラム教文化圏にも同性愛者はいる。これは同性愛が文化によって後天的に形成された性的指向でないことを示す根拠のひとつである。それに犬、猫、馬とかも雄が他の雄に発情して腰を振っている動画がしばしばおもしろ動画として投稿されているけれど、思想を持たない動物でさえ同性に発情するのだから、同性愛は思想でなく本能的に遺伝子にプログラムされた仕組みと考えられる。猫は姉妹猫の子育てを手伝うことが確認されているし、ライオンの雌も群れで子育てをしているし、生物学の研究ではすべての雌が出産して子育てするよりも出産しないで仲間の子育てを手伝う個体がいるほうが群れ全体の生存率が高まって繁栄することがわかっている。子孫を残さない同性愛の個体は一見すると遺伝子のエラーに見えるけれど、群れを作る動物は異性との性行を拒否して子供を持たずに子育てや縄張り争いに従事する個体が一定数生まれるほうが全体としては生存に有利なので、進化の過程で同性愛者になる遺伝子が淘汰されずに残ったのだと思う。杉田水脈が子供を作らない同性カップルは生産性がないと言って批判されたけれど、実際は子孫を残さない人が親族の子育てや仕事に従事することで社会全体の生産性が上がるわけである。この辺は素人の私が意見を言っても説得力がないので、生物学や遺伝学の研究者が同性愛について意見してほしいところである。というわけで、生物学的に一定数は否応なく同性愛者として生まれてくるのだから法的に平等であるべきだという理由で私は同性婚に賛成である。現状では法的に婚姻できない同性愛のカップルは入院のときの保証人になれなかったり、確定申告の扶養控除ができなかったり、遺産相続で配偶者扱いされなかったりして法的に不利益を被っているので、養子縁組をすることで法的な家族になっている。私の知人はイケメンで女性にもてていたけれど、ゲイだと突然カミングアウトしてパートナーの熊系のむっちりしたおっさんと養子縁組して、彼を狙っていた周りの女性たちは女心がわかるイケメンに限ってゲイだと残念がっていた。周囲の態度が変わるのを恐れて彼がゲイのそぶりを見せずに養子縁組するまでカミングアウトせず周囲にパートナーを紹介しなかった心情も理解できる。同性愛者は実際は夫婦に相当する関係なのに養子縁組で親子関係にならないと法的に家族になれないのは法の下の平等に反していると思う。それに浮気して離婚するときの慰謝料のようなものはもらえないので、養子縁組は結婚の代替にはならない。いずれ同性婚は認められる方向になると思うし、遅いか早いかの違いでしかないと思うので、だったら早く法律を作る方が同性愛者の救済になると思う。保守派は同性婚を認めると社会が変わるから反対だと言っているけれど、同性婚が合法になったからといって急にノンケの人が同性愛に目覚めて同性婚だらけになるわけでもないし、同性愛者の不利益がなくなるだけでそれ以外の人たちの社会は変わらないと思う。憲法の第一章第24条では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」と規定している。これが同性婚を禁止しているか否かで解釈が分かれている。憲法が同性婚を禁止していると解釈すれば、同性婚を合法化するためには憲法の改正が必要である。左翼は憲法を改正したら9条も改正されるから憲法を改正したがらず、「両性」は同性同士も意味するのだという解釈で同性婚を認めさせようとしている。しかし「両」は二つのもの、二つで一組になっているもの、対になっているものを意味するし、その後の文章に「夫婦」があるのだから、普通に解釈すれば「両性」とは男性と女性の両方の性を意味して、同性の二人は意味しない。もしテストで鉛筆と消しゴムを両方を持ってこいと言われて鉛筆を二本持ってくる奴がいたら小学校からやり直す必要がある。というわけで同性婚を認めるには憲法を変える必要があるけれど、憲法を絶対に変えたくない左翼のやり方では同性婚を合法化するのは無理だろう。自治体によってはパートナーシップ制度があるけれど、これには遺産相続とかの法的な効力はなくて結婚の代替にはならないので、不平等を解消するには憲法を改正して同性婚ができるようにするしかない。結婚は社会を形成するうえで重要な制度なので新しいLGBTQQIAAPPO2Sとかの分類が追加されるたびにコロコロ変えるのはだめだろうけれど、「両性」や「夫婦」を「両者」に変えるくらいなら社会に大きな混乱が起こることもないと思う。●ポリコレの是非・男性器があるトランス女性の性別の分類の是非トランスジェンダーをどの段階で男女に分類してどの性別で扱えばいいのかで世界中でまごついている。カリフォルニア州のスポーツジムで男性器がついているトランス女性のクリスティン・ウッドが女性用ロッカールームの使用を拒否されて、ジム側がほとんど使われていないVIP用男子ルームの使用許可で妥協しようとしてもウッドは女性用ロッカールーム使用にこだわって提訴して勝訴して和解金を手に入れて、ジムのスタッフは反差別研修を受けることになったそうな。クリスティン・ウッドのケースはアメリカだけの問題でなくて、こういう男性器がついたトランス女性が日本に観光に来たら当然女性用更衣室を使って女風呂に入ろうとするし利用を拒否したら差別として訴えられて日本は人権侵害の差別国だと欧米や国連から批判されて圧力をかけられる可能性もあるので、日本でも企業に対処を任せるのでなくて国として法の指針をはっきりさせて対処を考えないといけない。この判例のように性自認で性別を分類してその性別として扱わないと差別になるのか、あるいは性器で性別を分類して性転換手術をするまでは性器に基づいた性別としてみなすべきか、どの条件で戸籍変更を認めるべきか、認めないべきか。私は性器で判断するほうが性別の定義として合理的だと思う。というのも性同一性障害だと思ったけれど実際は自閉症だったりして性転換手術をした後で元の性に戻りたがるケースもあるようで性自認の自己認識が医学的に正しいとは限らないし、思春期に性自認のアイデンティティが定まっていなくてあやふやな人もいるので、自己申告の性自認を性の判断基準にするのは危うい。性器でなく性自認を基準にするなら、性自認が男女どっちでもないクイアは男性用と女性用のどっちを使えばいいのか、性転換手術をしないまま気分次第で両方使っていいのか、気分次第で戸籍の性別を変えていいのかという話にもなる。男性か女性かの区別は犯罪か否かの判断にも影響して、もし男性がトランスジェンダーだと自称したら女風呂で女児に男性器を見せつけても罪に問われないのでは法律の抜け穴になって変態がのぞきや露出をするインセンティブになってしまう。性自認の自称では客観的な性別の判断がつかないので、性器を客観的な性別の根拠とするのが合理的だと思う。ちなみにトランス女性が多いことで有名なタイだと戸籍変更が認められていなくて、トランス女性が徴兵免除を受けるためには性転換手術をしたことを医師が確認するそうで、性器を判断基準にしている。もし性自認だけで女性扱いされて徴兵が免除されるなら徴兵の時にだけトランス女性を自称する人が増えるだろう。刑務所の問題もある。性転換手術をしていないトランスジェンダーを性自認のほうの刑務所に入れると刑務所内でレイプが起きる可能性がある。スコットランドだと女性二人に性暴行をしたイスラ・ブライソンが逮捕後にトランス女性だと主張して女子刑務所に入れられて、受刑者が危険にさらされると行政の対応が批判されて結局男子刑務所に移送された。同性同士でも望まぬ性行はレイプだけれど、妊娠するかしないかは大きな違いで、特に女性にとっては男性器がついている人はその人の性自認がどうであれ脅威となる。男性器はついているけど心は女性のレズビアンで女性を性の対象にするというややこしい人もいるので、トランス女性だからといって女性をレイプしないわけではない。外国での事例を見ると、裁判官が差別主義者と批判されるのを恐れているのか、あるいは差別を許さない正義マンとしての名誉が欲しいのか、裁判官の認識と世論が乖離していてトランス女性を過剰に優遇して女性の権利を侵害しているように見える。トランスジェンダーへの対処はビジネスへの影響も大きい。特に更衣室で不特定多数が裸になる銭湯、ジム、プールとかで、アメリカみたいに男性器がついたままのトランス女性を女性と同じ扱いにしないと差別になるとなったら、更衣室での性犯罪を警戒して女性客が減って営業に支障がでるだろう。カプセルホテルは男性フロアと女性フロアが分かれていて女性ひとりの利用でも安心なことを売りにしているけれど、男性器がついたトランス女性が女性フロアを使うようになったら安全性の根拠がなくなるし、それでトランス女性の利用を拒否したら差別として訴えられるし、利用を許可して寝込みを襲う性犯罪が起きたら安全管理を怠ったとして被害者に訴えられる。男性器がついたトランス女性がcolaboに支援を求めて女性専用のシェアハウスに入居して共同生活するかもしれないし、そうしたら性被害でシェルターに避難している女性の安全も脅かされかねない。クラブや相席居酒屋は女性の飲食の料金を無料や割安にして集客して、そのぶんナンパ目当ての男性の料金を高くして利益を出すビジネスモデルになっているけれど、もしさもしいおっさんがトランス女性を自称してこうした女性優遇のサービスに群がるようになったらナンパ目当ての男性客が来なくなってビジネス自体が成立しなくなる。男性も無関係ではなくて、ソープやデリヘルで男性器がついたトランス女性が接客して、客が文句を言ったら差別として慰謝料を請求されるかもしれない。誰かが主張する自認を尊重しないと差別になるという考え方はおかしなポリコレ基準で、例えばカナダにStefonknee Wolschtというトランスジェンダーの自称6歳の女児の52歳のおっさんがいるけれど、この人のように自分が子供だと自認している人が電車に乗るときに子供料金にしたりしないと差別だということにはならないし、自分が天皇の隠し子だと血統自認している人がいたら自認を尊重して皇位継承資格を与えないと差別だということにはならないし、自分が猫だと種族自認している人がいたら人間の法律を適用しなくていいということにはならないし、自分が地球神エル・カンターレだと自認している人がいたら神扱いしないと差別だということにはならないし、自認がどうであれ法的に公認されている区分に従うべきで、自認の通りに扱わないからといって差別ではないし、トランスジェンダーは性自認と違う待遇に対して差別を訴える前にまず戸籍変更を公認する基準を満たすのが先だろう。日本の家庭裁判所では戸籍変更の条件として、二人以上の医師により性同一性障害であることが診断されていること、18歳以上であること、現に婚姻をしていないこと、現に未成年の子がいないこと、生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること、他の性別の性器の部分に近似する外観を備えていることのいずれにも該当する必要があると定めていて、私はこれは妥当な基準だと思うし、性転換手術をしていなくて男性器がついているトランス女性は戸籍上は男性なのだから女装していようが男性扱いするのは差別でないと思う。日本学術会議は自己申告だけで戸籍の性別変更ができるように要望しているけれど、私は反対である。例えば男性の犯罪者が刑務所でいじめられたくないので収監前にトランス女性として戸籍を変えて女子刑務所に行こうとしたり、イスラム教徒がトランスジェンダーだと自己申告して母国に帰ったら殺されるという理由で難民申請したり、前科がある人がトランスジェンダーとして名前や戸籍上の性別を変えて検索しても前科の情報が出てこなくしたりするように、本来トランスジェンダーでない人たちが脱法的な使い方をすると思うし、医師による性同一性障害の診断を基準にせずに自認の自己申告を正しいとみなすなら法律の悪用を防げなくなる。殺人犯が刑を軽くしようとしてしばしば心神喪失状態だったと主張するけれど、精神科医が診断して客観的に判断するように、自己申告でなく利害関係がない第三者が納得する根拠が必要である。・トランス女性の競技の是非アメリカでは下院でトランス選手の女子競技参加禁止法案が可決されたけれど、上院は民主党が多数派なので承認される見込みはないそうな。差別禁止法があってトランス女性が女性扱いされているアメリカでもトランス女性が女性としてスポーツに参加することに納得していない人が多い。3月23日に世界陸連は思春期に男性として過ごしたトランス女性はテストステロン値に関わらず女子陸上競技への参加を禁止にする決定をしたそうで、ほかのスポーツでもこれからトランス女性の扱いが議論されるだろう。男性と女性で性差があるし、男性として生まれ育って男性としての身体的特徴をもったままトランス女性として女性専用のスポーツに出場するのは不公平だと私は思う。心臓の重さは男性が268g、女性が230gで、肺活量は男性が3.5-4リットル、女性が2.3-2.6リットルで、男性は腹筋が発達して腹式呼吸をする人が多いのに対して女性は胸式呼吸をする人が多くて心肺機能は男性の方が圧倒的に優位で、トランス女性が男性ホルモンを女性並みにしたところで体格や心肺機能は男性の時のままなので女性と同じかというと全然違う。ガールズケイリンでトップ選手だった加瀬加奈子が男性と同じレースにでたら負けて、女子プロレストップの神取忍が天龍源一郎と本気で戦ったら顔面ボコボコにされて負けたように、いくらトレーニングをしたところで女性プロが男性プロ並みの筋力や体力を得ることはできないし、そこは努力や才能で覆せない性別の壁が明確にある。ボクシングは体格差でパンチ力が全然違って体重が軽い方が不利なので細かく階級を分けて同じ体重の人同士で戦っていて体重が重すぎると失格になるし、それくらいスポーツで体格は重要な要素になる。トランス女性の水泳選手のリア・トーマスは男性器がついたままで、男子のときはたいした成績でなかったのに女子になってから大会上位入賞するようになったけれど、こうした男子の体格で無双するトランス女性のスポーツ選手の成績は参考記録にとどめておくか、でなければトランス女性だけの選手権にしないと、女性が著しく不利になる。スポーツは男女で体格差が大きいからこそ男子スポーツと女子スポーツに別れているのに、女子スポーツ界をトランス女性が席巻するようになったら体格で劣る生来の女性が奨学金や賞金をもらえなくなってプロスポーツ選手として活躍できなくなるだろう。これでは平等でなくてトランス女性の優遇である。オリンピックとパラリンピックは障害の有無で能力差があるがゆえに分かれているのだから、性同一性障害者用のスポーツの祭典を別に作って分ければいいだろう。ちなみに競馬でも気性が荒くて去勢した騙馬は牝馬専用のレースには出られないし、実力勝負の馬齢重量戦でも牝馬の斤量が軽くなっていて牡馬や騙馬は若干のハンデを負っている。体格だけでなくて脳にも性差がある。将棋は女性はプロになれないと言われるくらいに男性が圧倒的に強くて女性プロ棋士はいないので、将棋の普及のために棋士とは別の女性専用の女流棋士制度が作られた。もし今後トランス女流棋士が出てきたら女装したところで脳は男性のままなので女流タイトル戦で無双するだろうけれど、女流棋士や将棋ファンはそれを平等な条件として許容できるだろうか。私は法的な権利は男女やLGBTQに関わらず人間として平等であるべきだと思うけれど、勝負事で性差を利用して自分より弱い相手と戦って賞金を稼ぐのは卑怯だと思う。・ヌードとポルノの区分の是非女性の乳首はポルノ扱いで、男性やトランス男性や女装した男性の乳首は非ポルノというのはおかしな区分である。性別にかかわらず胸の露出を認めるのが平等だろう。日本は混浴の温泉が多かったり、志村けんのバカ殿様や火曜サスペンスの湯けむり殺人事件で乳首を出していたりして女性の裸には寛容だったし、女性の胸は性的アピールに使われるには違いないけれど授乳用の器官であって性器でないのだから、わざわざ乳首を規制する理由もないと思う。アメリカには「Go Topless」というトップレスを推進する市民団体があって、女性が公の場で上半身裸になることは憲法で保障された権利だと主張している。州によって法律は違うだろうけれど、ニューヨークではトップレスは違法でない。ドイツにはフライケルパークルトゥアー(Freikörperkultur、略してFKK)という裸になって自然と触れ合う文化があって、水泳選手がプールでトップレスで泳ごうとして止められたことで反差別局のオンブズマンに不服を申し立てて、ベルリンでは市内の市営プールで女性が男性と同様にトップレスで泳ぐことが認めらてジェンダー平等として歓迎されているそうな。肌を露出したくない人が隠すのは好きにすればいいけれど、規制が権利の侵害であってはいけない。性器でなくても性的アピールになるものはだめだという基準で規制してしまうと、女性は髪も唇も手も足も体のどの部分でも性的アピールになりうるから露出してはいけないということになるし、イスラム原理主義が女性に全身を隠すのを強制している人権侵害を肯定することになる。・演劇のポリコレの是非アメリカの演劇界はおかしなことになっていて、映画のLGBTQ役はLGBTQの俳優にやらせるべきだとか、アニメの黒人キャラの声優は黒人にやらせるべきだとかいう議論があるそうな。そういう主張をする人たちはそれが差別にもつながる論理だと気づいていないのだろうか。この主張を正当化するならLGBTQの俳優はLGBTQの役しか演じてはいけない、黒人の声優は黒人キャラしか演じてはいけない、ということにもなってしまうし、それでは役者としての仕事の幅を狭めることになる。他人を演じるから演技なのであって、ドキュメンタリーでないのだから同じ属性を持った人しか演じてはいけないという主張はナンセンスである。黒人キャラの声優は黒人にやらせるべき理論だと、じゃあ宇宙人とかの架空のキャラクターは誰がやるのかという話になる。外見が重要な俳優と違って声優なら外見や性別や年齢にこだわる必要がないし、例えば日本のアニメの少年役の声優はたいてい女性で、パズーやルフィー役の田中真弓とか孫悟空役の野沢雅子やのび太役の大原めぐみのように女性声優が主人公の少年を演じていてもそこに違和感や批判はないし、一番役に合っていて演技がうまい人がやればよい。黒人がからむと差別として批判されやすいのも問題である。黒人の人種的特徴を描いたら差別、黒人を悪役にしたら差別、陽気な黒人や怒る黒人とかのステレオタイプも差別、黒人以外がアフロやドレッドヘアにしたら文化盗用、黒人を出さないのも差別というのでは黒人をフィクションで使いづらい。浜田雅功が「ビバリーヒルズ・コップ」のエディー・マーフィーのモノマネをして顔を黒塗りにしたのが差別だとして問題になったけれど、私はこれは被害妄想の過剰反応だと思う。黒い肌を馬鹿にするために黒塗りにしたわけではないし、日本人が黒人の役を演じるために外見を似せるメイクが差別なら、エディー・マーフィー風のシリコンマスクをかぶれば差別じゃないのか、それさえもだめなら人種が異なる人の演技を自体してはいけないということになるし、それは演技の否定である。老人の役を演じる時に老け顔にメイクしても老人差別とは言わないし、障碍者の役を演じる時に言動の特徴を真似ても障碍者差別とは言わないし、なんで黒人を演じるときに黒人に似せると差別になるのかわからない。相手が不快と感じたら差別なんだ、差別に無自覚なのはマイクロアグレッションだという理屈があるけれど、それだと誰かを笑いものにして怒らせる可能性があるコメディーや風刺が成り立たなくなる。黒人女性は髪にコンプレックスを持っていて髪の矯正をやりすぎて禿げたりするけれど、クリス・ロックがウィル・スミスの奥さんの坊主頭をネタにしてウィル・スミスが怒って平手打ちしたのは黒人差別なのかという話になる。アメリカではウィル・スミスが悪いと言う論調だったけれど、黒人同士なら相手を怒らせてもジョークとして受け入れるべきで、黒人以外が黒人を怒らせたら黒人差別になるのではダブルスタンダードである。・被差別利権の問題差別をなくそうと活動することはよいし、そのための団体ができることもよい。しかし反社会的勢力が差別を利用して金儲けをしようとすることが問題で、差別がなくならないほうが反社会的勢力は儲かるので、そういう団体の存在によってかえって差別が助長されてしまう。役人は責任を取りたがらないので、差別を糾弾されると弱腰になって金を出す。例えば部落解放同盟に暴力団が関わっていて、同和問題への取り組みを口実にして献金を不当に要求したり書籍を押し売りしたりするえせ同和行為をしているとして人権連に批判されている。アイヌ協会も差別を盾にして政府から過分な補助金をもらっていて領収書偽造や不適切会計とかの不正の温床になっていて、アイヌ協会がアイヌのために活動しているとは思えない。LGBTQ関連の法案も反社会的勢力の新しい利権として利用される可能性がある。例えばトランスジェンダー差別で就職できないと言って生活保護にたかったり、ジムや銭湯に男性器がついた自称トランス女性を送り込んでわざと騒動を起こして差別されたと慰謝料を請求したり、ジェンダー教育講演をして大金を要求したり啓発本を押し売りしたり、役所にジェンダー平等監査官みたいな職を作らせて利権化したりするかもしれない。非営利団体は監査が不十分でザル会計で、利権で金儲けをしている団体は不正を指摘されると差別に話題をすり替えて相手を差別主義者として糾弾して言論封殺してごまかそうとするので、変な団体に公金が不正に使われないように注意が必要である。・ポリコレの議論の是非リベラルのポリコレ基準に異議を唱えると差別主義者のレッテルを貼られて建設的な議論にならないのが問題である。女優の橋本愛がトランスジェンダーの更衣室やトイレの使用に「体の性に合わせて区分する方がベターかなと思います」と意見を言ったら、トランスジェンダーの更衣室やトイレの使用を議論すること自体が差別だと活動家から批判があって事務所に詰められたようで、無自覚に人を傷つけたと謝罪したけれど、私は謝罪する必要がないと思う。差別だとわめきたてて謝罪と賠償を要求してキャンセルカルチャーで議論自体を潰そうとするのでなくて、議論がないと理解が深まらない。私は橋本愛と同じ意見だけれど、あえてトランスジェンダー側の視点から意見を言うとしたら、例えば性転換手術は費用が高くてリスクもあるのですぐに手術できないし男性器がついていても心が女性なので男性用更衣室で男性に裸を見られたくないし男性に女装をからかわれるのが嫌なので女性用更衣室を使わせてほしい、という意見なら納得する女性もいるかもしれないし、更衣室にトランスジェンダーに限らず体を見せたくない/見られたくない人用のスペースを作ってパーティションで区切るとかの妥協案も出てくるかもしれない。問題解決のための建設的な議論がないのでは相互理解につながらないし妥協点も見つからないし、感情的な対立を深めるだけになってしまって不毛である。LGBT理解増進法に「性的指向および性自認を理由とする差別は許されない」という文章が付け足されたけれど、どういう行為が差別に該当するのか定義が不明で、議論すること自体が差別だという人がいたら議論さえできなくなるし、権利が対立する状況で片方の言い分だけ聞くのは公平でない。上の方で自認よりも公認の基準に従うべきだと書いたけれど、その公認の基準が不平等だから変えようという問題提起をするのはよい。しかしその正しさの基準は国や時代によって違うので、ただ外国の判例を真似るのでなく日本人の合意を得たうえで決めないと、平等でなくゴネ得の優遇として反感を持たれて差別をより深刻にすることになる。だからこそ差別主義者のレッテル貼りで相手をつるし上げるのでなく、理解と合意を得るための議論が必要である。議論せずに周囲の理解を得られないまま法案を作ったり裁判で勝ったりして自分が正しいんだと主張したところで、訴訟されたくないからしぶしぶ受け入れるけどできるだけ関わりたくない厄介者のような扱いをされると思う。●フィクションとポリコレと規制・死後の著作者人格権の侵害イギリスの作家のロアルド・ダールの作品が出版社のポリコレ基準で「太った」を「大きい」にしたりして勝手にあちこちの表現を変更する予定だったそうで、サルマン・ラシュディとかに批判されて結局変更せずに出版することになったそうな。作者は1990年に亡くなっていてまだ著作権が保護されているし、死後に勝手に表現を変えるのは同一性保持権の侵害である。他にもアガサ・クリスティーの小説も黒人やユダヤ人に関する記述が修正されたそうな。表現が気に入らないなら絶版にするか版権を他の出版社に売るのが筋で、出版社が著者の権利を侵害して出版を続けようとするのは論外である。自分で創作をしない人がこういう検閲をやりたがる。「かちかち山」みたいに作者不明の民話なら子供の発育に合わせて残酷な部分の内容を変えるのはまだわかるけれど、民話は文化的資料としての価値があるものなので、現代人の都合で勝手に変えるくらいなら現代の絵本を子供に読み聞かせするほうがましである。なんでポリコレ左翼が新しく創作をせずにわざわざ規制の作品の表現を変えたがるのかというと、リベラルの根底にファシズムがあるのでリベラル基準の「正しい」価値観で思想統制をしたいのだろう。右翼ファシストと検閲の基準が違うだけで結局やっていることはファシズムで、自分の価値観とは異なる人を排除したいのである。死んだ作家の著作者人格権を侵害して表現を変えるのは死人に対して思想教育をしているようなもので、出版に携わる人間が権利を侵害している自覚がないのは危険である。・フィクションの児童ポルノの扱い2012年のスウェーデン漫画判決だと、漫画翻訳家のシモン・ルンドストロームが元妻と親権を争って、元妻が「彼はペドフィリアの性犯罪者である」と警察に通報して、性的虐待では無罪となったもののパソコンが押収されて『ラブひな』とかの胸の小さな女性キャラクターを児童扱いして児童ポルノ所持で起訴されて、「漫画の絵は児童ポルノではなく、被告を有罪にすることは表現の自由を定めた統治法に反する」として最高裁判所で無罪になった。実在の児童を保護するために児童ポルノ法があるのだからフィクションのエロ漫画を児童ポルノ扱いするのはおかしいし、胸の大きさで児童と判断するのは偏見で、ちっぱいの大人に対する差別だし、無罪は当然の判決といえる。しかし2019年の国連の「児童売買、児童搾取および児童ポルノに関する子どもの権利条約の選択議定書の履行におけるガイドライン案」で漫画とアニメを児童ポルノ扱いして規制する要求が書かれていて、国連のガイドラインは締約国に対して法的拘束力はないけれど、表現の自由を侵害したくて仕方がない左翼ファシスト勢力が国連にいるようである。児童保護団体からは架空の児童を守るのに労力を使うくらいなら実在の児童を守れという批判があるけれどその通りである。・フィクションと非行の関係最近はロシアで『HUNTER×HUNTER』の敵役の幻影旅団の影響を受けた若者グループがPMC Redan(民間軍事会社旅団)と称してクモの絵柄の黒服を着用して乱闘をしていて数百人が拘束されて社会不安の元になっているので、日本アニメ禁止論が出ているそうな。しかし日本でもロシア以外の外国でも『HUNTER×HUNTER』の漫画やアニメは見れてもロシアみたいな非行少年グループが出てきていないのだから、ロシアの教育の失敗や大人への不信が非行少年を生む根本的な問題で、それがフィクションが原因であるかのようにみなすのは筋違いで、面識がある親や教師の言葉が会ったこともない外国人漫画家が娯楽として作ったフィクション以下の重みしかないならそれこそ恥ずべきことである。それにワグネルとかの現在進行形でウクライナに侵攻している民間軍事会社と、フィクションで念能力でうでをぐるぐる回してパンチ力を強化したりして戦う犯罪集団のどっちが青少年に悪影響があるのか比べるまでもない。もし日本のアニメを禁止したところでカルト宗教だのネオナチだのの別のものをインスパイアして暴れる不良になるし、そうして本来の原因から目をそらしてフィクションをスケープゴートにして規制を強めるほど反発が強くなることを理解せずに検閲と思想統制で強権的に問題を解決しようとするので、独裁国家は不満を抱えた人だらけになって、デモを武力弾圧して政治不信を深める悪循環になる。・フィクションのキャラクターに対するわいせつ行為の規制最近はジブリパークで女性キャラクターの像の胸を揉んだ写真を撮った客に対して、ジブリパークはノーコメントで、愛知県の大村知事はジブリパークに対して不適切行為を確認した場合は直ちにやめさせるよう求めるそうな。そもそも展示物を触れることを売りにしている施設だし、ジブリパークが咎めないなら業務妨害でもないので問題にする必要もない話で、人を模したプラスチックやシリコンや布を触ることが違法なわけでもないのに大村知事が何の法的根拠があってやめさせるように求めているのか不明である。ジブリパークは愛知県、スタジオジブリ、中日新聞が連携して運営しているそうだけれど、だからといって大村知事の個人所有物ではない。何を不適切と思うかは個人の自由だし写真を撮った人にジブリの世界観を壊すなとか直接文句を言うのはいいけれど、不適切な状態を取り締まる必要があると思うのなら条例を作るのが政治家の仕事なので大村知事は人形にわいせつ行為をしてはいけない条例とかを議会に提出するのが筋だし、写真の表現内容の規制は表現の自由にかかわる問題なので議会の承認を得ずに一人の政治家の主観的な価値観で勝手に規制しようとしてはいけない。ジブリパークのスタッフだって法的根拠がないまま客を監視して「アへ顔ダブルピースで写真を撮るのは不適切だよ」とか「軍隊式の敬礼の写真を撮るのは不適切だよ」とか「ビバリーヒルズ・コップのエディー・マーフィーのモノマネをして写真を撮るのは不適切だよ」とか独自の基準を作って思想警察みたいに取り締まることはやりたくないだろうし、法的根拠なしに規制したら客と揉めるだろうし、それゆえのノーコメントなのだろう。もし愛知県の個展で人形の胸を揉んだりスカートをめくったりできる展示をしたら大村知事が不適切として規制するかどうか、芸術家の人は機会があったら試してみてほしい。●まとめ LGBTQの問題は自分がLGBTQの当事者でなくても自分の子供や孫やそのパートナーがLGBTQになるかもしれないので、ジェンダーだけでなく障害や職業などでもマイノリティーへの差別がない平等な社会の在り方を皆が考えるべきことだと思う。フィクションのポリコレも表現の自由に関わる問題で、主観的に気に入らないからといって規制や検閲をしてよいものではない。そんでヘイトスピーチでもないのに何か気に障る意見を言ったらマイクロアグレッションだの差別主義者だのとつるし上げられるのでは意見を言おうとする人がいなくなって議論も理解も深まらなくてかえってヘイトを招くので、リベラルファシストでないなら言論封殺しようとせずに冷静に妥協点を議論すればよいと思う。
2023.03.09
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最近は政府がコオロギ食のごり押しをしていて芸能人がコオロギ美味いと言い出して案件臭くて、コオロギパンを開発しているパスコが批判されたりしているので、これについて考えることにした。●なぜコオロギ食推進なのか農地は限られているのに世界の人口は増え続けていて、いずれ世界的な食糧難が起きる可能性があるので、その対策として国際連合食糧農業機関が昆虫食を提唱してコオロギ食の研究が進められているようである。コオロギは低コストで繁殖させやすくて収穫までの期間が短くてタンパク質が多くて環境への負荷が少なくてサステナブルで、新しいタンパク源として注目されているそうな。1kgのタンパク質を生産するために必要な飼料はコオロギが1.7kg、鶏が2.5kg、豚が5kg、牛が10kgで、体重を1kg増加させるために必要な水資源がコオロギが4リットル、鶏が2300リットル、豚が3500リットル、牛が22000リットルで、飼料や水が少なくて済むのがメリットのようである。そんで農林水産省のフードテック研究会と電通とパソナが昆虫食を社会に受容させるために取り組んでいるそうな。マスコミがコオロギ推しをしているのは電通の意向なのかもしれない。●昆虫食の安全性人類は歴史上で何度も飢饉を経験してきて、生か煮るか焼くかして食べられるものは食べてきたし、日本の一部の地方にはイナゴの佃煮やセミの素揚げやハチノコ炒めみたいな昆虫食の文化があるし、メキシコにはメスカルというイモムシ入りの酒があるし、イタリアにはカース・マルツゥというチーズバエのウジにチーズを食べさせて発酵させたウジ入りチーズがある。食品添加物に使われる赤い着色料のコチニールがコチニールカイガラムシという虫が原料なのが有名なように現代人は無自覚に虫を食べているし、昆虫食自体にはそれほど忌避感がないと思う。日本人は節足動物のエビやカニにもなじみがあるけれど、これもなじみがない外国人にとってはキモイ食材で、単に慣れの問題である。私の知人のブラジルの内陸出身の女性はシーフード全般が苦手で、海に遊びに行ったときに知人が小さいカニを捕まえたら彼女は怖がって近づくこともできなかったけれど、これは節足動物に慣れていないからだろう。昆虫食も慣れないと見た目で拒否したくなるし、慣れれば定着すると思う。昆虫食は世界各地にあるけれど主要な食べ物とは言えない。多分飢えていろいろな昆虫を食べた人はいるだろうけれど、おいしくないので食べ続けようと思わなくて食文化として定着しなかったのだろう。ゲジゲジを素揚げにして食べるYouTuberがいるけれどおいしくないそうな。サバイバリストのベア・グリルスも芋虫を嫌そうに生で食べて最悪の味だと文句を言っていた。コオロギは陸のエビと呼ばれるくらいおいしいそうだけれど、おいしいならなぜ今まで食べなかったのか謎である。それに食事では精神的な幸福感を得ることも重要である。それゆえに料理人は味に関係なくても盛り付けにこだわっておいしそうに盛り付ける。いくらコオロギが食べられるといっても、コオロギの姿のままだと見た目で食欲がわかないし、コオロギの脚が歯に挟まって食感も悪いし、灰色のコオロギパウダーでは食事というより餌的な感じでこれも食欲がわかない。ふだんプロテインやサプリを食べている人ならコオロギパウダーをパンとかに混ぜるのに抵抗がないかもしれないけれど私はそういうのは嫌で、タンパク質はたいてい食事のメインのおかずになるのだから私は肉や魚を噛みしめる感じを楽しみながらタンパク質を摂取したい。味や気持ちだけでなく安全性の懸念もある。そもそも昆虫には蛾のように毒を持つものが多いし、おいしくて危険なものもあるし、まずいうえに危険なものもある。たいていの細菌や寄生虫は加熱すれば殺せるしパウダー化されているコオロギは寄生虫の心配はないだろうけれどけれど芽胞形成菌は加熱しても残る。昆虫に鮮度が関係あるのかは知らないけれど、鮮度が悪い青魚のヒスタミンは過熱しても消えないのでヒスタミン中毒になるように、鮮度で影響がでる可能性もある。無菌状態で餌を厳選して養殖したコオロギなら野生のコオロギよりは安全だろうけれど、栄養素自体が問題がある場合もある。食品添加物や珍味としてごく少量食べるだけなら問題ないものでも、長期間食べたり大量に食べたりしたらアレルギーやがんとかの健康被害がでる可能性もあるし、個人の遺伝子によっては体に合わない栄養素もある。私は昆虫食を否定するわけではないけれど、食の安全性に関しては保守的であるべきだと思う。蜂蜜を食べる文化は世界中にあるけれど、蜂蜜のボツリヌス菌が1歳未満の乳児に乳児ボツリヌス症を起こすと判明したのは1976年でわりと最近で、長く食べられてきたものでも危険性があると判明する場合がある。食品添加物の着色料や保存料にしても最初は便利なものとして使ってきたけれど発がん性が判明して一部は使われなくなった。一般的に大豆は安全な食材だけれど、ヴィーガンはタンパク質を大豆に頼りすぎてイソフラボンを取りすぎてホルモンバランスを崩している。エビやカニとかも一定量を食べたら後天的にアレルギーを発症する人がいる。マグロやカジキには生物濃縮でメチル水銀の量が多いので妊婦はあまり食べない方が良い。魚や貝類は生息域によっては餌から毒物を蓄積して有毒になる個体がいて、シガテラ毒とかがある。グレープフルーツや納豆は普通の人が食べる分には問題ないけれど特定の薬と相性が悪いので病気の人は食べないように注意が必要である。バナナやホウレンソウも栄養豊富だけれどたくさん食べるとシュウ酸が結石の原因になる。柿も食べすぎるとタンニンと胃酸が反応して柿胃石ができて腸閉塞になる。牛乳やアルコールや生海苔は遺伝的に体内で消化や分解できない人がいる。ヨーロッパで長く主食として食べられてきた小麦も特定の遺伝子がある人にはグルテン由来のセリアック病を引き起こすと判明して、グルテンフリーの米粉パンが作られるようになった。既存の食品でさえいろいろ問題があって食べる量や食べ合わせに注意が必要なのに、ましてやいまだに研究途中のコオロギをいきなりメイン食材として使おうとするのは商業化を急ぎすぎている感じがする。サプリや珍味とかならまだわかるけれど、パンは主食として食べるものなのでパンに入れるなという世間の反発が大きいのだろう。コオロギがタンパク質が多いのはわかるけれど、プリン体がやたらと多いようだし、タンパク質以外の栄養素のアレルギー物質や発がん性がどうなのか、妊婦や乳児や病人へ悪影響はあるのか、肉に代わるメインのタンパク源として長期間大量に摂取してもよいのか不明なのが問題で、安全性の情報が欲しいところである。食品の選択肢が増えることはよいけれど、安全でないと意味がない。もし国産養殖コオロギが安全だとしても、食品業界は産地偽装が横行しているので、外国産の安全でないコオロギにすり替えられる可能性もある。野生動物は食については超保守的で、自然界には毒物が多いし種によって毒になるものも違うので飢えていても未知の食べ物は食べようとしなくて、それゆえに雑食の動物は少なくて肉だけ食べる動物や草だけ食べる動物や果物だけ食べる動物がいて複雑な生態系ができている。うろ覚えだけれどイギリスかどこかで保護したシャチに餌として魚を与えても、住んでいた水域と違う魚種だと食べなくて衰弱して死んだというニュースを見たような気がする。人間の感覚なら飢え死にするくらいならダメモトでとりあえず食べてみればいいじゃんと思うけれど、動物は警戒心が強いことが生存にとって重要なこととして本能にプログラムされているのだろう。コオロギの安全性が証明されたら食べたい人は食べればよいと思うけれど、科学がなかった時代にアクが強い栃の実や渋柿や毒がある梅やフグでさえ安全に食べる方法を確立したほど食い意地がはった日本人がそこらじゅうにいるコオロギはなぜか食べてこなかったのだし、飢えた先人たちでさえ食べなかったものはなるべく食べないのも安全の観点からは合理的な判断だと思う。●食料政策の矛盾日本はかつて食用にしようとしてウシガエルやアメリカザリガニやブラックバスやブルーギルやヌートリアを輸入したものの、あまり食べずに野生化して生態系を壊しただけに終わった。見た目が変な深海魚や漁獲量が少なくて知名度がない魚とかもスーパーに並べてもなじみがないので売れ残るし、そういう魚種は入荷が不定期で味や大きさもばらつきがあるので飲食店でも使いにくい。イノシシやシカの害獣駆除の副産物のジビエも引き取り先がなくて廃棄されている。タピオカミルクティーは流行したけれど、ブームが終わったら大量の業務用タピオカが余って投げ売りされたり廃棄されたりした。我々が食事として普段食べる量は同じで、今まで食べてきたものの量を減らしてまで新しい食材を食べるメリット(値段や味や栄養の優位性)がないとわざわざ食べないので、皆が食べたことがない食材を流通させて食文化として根付かせるのは難しいし、食材だけ提供するのでなくておいしく食べるための調理法も一緒に紹介しないとたいてい失敗する。電通絡みのコオロギ食のごり押しもかえって反感を招いて失敗すると思う。数値上はコオロギがサステナブルだとしても、じゃあ誕生日のお祝いにすき焼きやステーキをやめてSDGsのためにコオロギを食べるかというと食べない。台風の日に小売店の入荷が滞って棚がスカスカでも辛ラーメンだけ売れ残っているように、どうしてもそれを食べないと飢え死にするという状況でもない限り嗜好に合わないものは食べない。それに食料自給率が低いのに米の減産や生乳の廃棄をしているし、恵方巻とかも売れ残って大量に廃棄しているし、賞味期限切れ食品もまだ食べられるのに廃棄されていてフードロスが多いので、コオロギを養殖する前にやるべきことがいろいろあるだろう。そもそも食料自給率が高かったら他の国で食糧難になろうが影響が少なくて済むので、安全保障の観点からも食料や肥料は自国で生産できるようにするべきである。食糧難に備えてコオロギ食を普及させるにしても、鶏や大豆とかの陸のタンパク源が手に入らないほどの食糧難ならコオロギの飼料も手に入らないだろうし、それなら海のタンパク源に注目するほうが将来性があると思う。最近はクジラが増えすぎたせいでアニサキスが増えているようだし、だったら増えすぎたクジラを間引いてタンパク源にすればいい。キリスト教の欧米諸国はクジラを食べないので、食糧難で他の国がコオロギの脚をしゃぶっているときに日本人はおいしいクジラ肉を独占できる。こないだスーパーで売れ残った冷凍ニタリクジラの刺身が半額だったので食べてみたらマグロの赤身のような味でおいしかったし、値段さえ安くなれば日常的に食べたいくらい気に入った。輸入牛肉の消費量を減らしてクジラを食べれば意識高い人たちもメタンガスが減って満足するだろう。政治家が環境にやさしいコオロギ食を普及したかったらまず隗より始めよで、議員会館食堂のメニューをコオロギ丼やコオロギカレーに変えてSDGsをアピールすればよいと思う。あと小泉進次郎は環境保護のために食事のうちの46%くらいコオロギを食べてコオロギ進次郎に改名したらセクシーだと思う。
2023.03.03
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