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最近は週刊文春やBBCがジャニー喜多川の性犯罪を報道したのに日本のマスコミが報道しないことが話題になったり、岸田文雄暗殺未遂事件が起きたりして、いろいろな被害が起きている。良い社会とは何かと考えると、個人の生命や財産の権利が守られて他人から被害が与えられないことが重要である。というわけで徒然なるままに被害について考えることにした。●被害の種類被害と言ってもいろいろな形の被害があるので、適当に分類してみる。・身体的被害殴られたりして怪我をすると体に傷跡ができるので、被害としてはわかりやすい。・精神的被害旭川のいじめ事件だと被害者は外傷は負っていなくてもPTSDを発症して精神的な被害を受けている。精神的被害は客観的に被害の度合いを測って定量化できないので過小評価されがちなのが問題である。・金銭的被害物を壊されたばあいはその物の市場価値分の金銭的被害を受けたと言える。親の形見の木彫りの熊とかの思い出の物を壊されても市場価値分しか被害として算定されなくて、プライスレスな分は精神的な被害として扱うことになる。・時間的被害1990年の新潟少女監禁事件では9歳の被害者は9年監禁されて、救出されても失われた10代の青春は戻ってこない。スラップ訴訟を吹っかけられたら裁判への対応に時間がかかって、たとえ勝訴しても嫌がらせの目的は達成できてしまう。・社会的被害名誉棄損は風評による被害をうけているといえる。スマイリーキクチ中傷被害事件みたいに根拠のない中傷をインターネット流されるとねずみ講みたいに中傷を信じる人が次々に出てきてさらに中傷を繰り返すようになるので被害を回復するのが難しくなるので、早い段階で開示請求して中傷を止める必要がある。盗撮やリベンジポルノみたいに本人が公表したくないプライベートが流出して他人に見られるのも社会的被害を受けたと言える。・権利的被害無断二次創作による著作権の侵害とかは金銭的被害が出ていなくても著者として保障されるべき権利が侵害される被害を受けている。●損害賠償と罰何か被害があった時は民事では損害賠償請求をして、刑事事件では自由を奪う自由刑として懲役や禁固、財産を奪う財産刑として罰金や科料などの刑を科したりする。例えば傷害事件で身体的被害を受けた際には民事訴訟で怪我の治療にかかった医療費や怪我で仕事ができなくて収入が減少した分の損害賠償請求や、精神的苦痛を受けた分の慰謝料の請求ができるし、それとは別に傷害罪とかの刑事罰がある。交通事故とかで被害を受けた場合は保険で被害をカバーできるものの、犯罪で被害を受けた場合はたいてい被害者がやられ損で損害賠償が不十分で、特に金銭目的の強盗や詐欺は犯人が金がなくて犯罪をしているので出所後の損害賠償がされないことが多い。それに刑事罰も不十分で、凶悪な犯罪なのに刑が軽すぎることがしばしばある。刑務所も鞭打ちとかの体罰を与えることはできなくて規則正しい生活をさせて仕事を覚えさせる更生施設になっているけれど、更生せずに再犯する人が多い。受刑者にとっては出所後に必死に底辺の仕事を探して薄給激務で働くよりも慣れた刑務所で命令されるほうが居心地が良いので、刑務所に戻りたがって出所後にすぐに犯罪をする人もいる。更生の可能性があることを理由に減刑された受刑者が更生せずに出所後に再犯しても裁判官が責任を取るわけでもないし、裁判官が庶民感覚からはずれたぬるい判決を出すので裁判員制度が作られたけれど、一審で裁判員が死刑にしても二審で素人の判断を否定して死刑を取り消すので、裁判員裁判に参加しても時間の無駄になっていて仕事を休んでまでやりたがらない。国家は個人から復讐する権利を取り上げて公務員が刑罰として執行しているけれど、国家の対応が不十分な場合はリンチやテロが起きうる。例えばハイチだと警察が治安維持できなくてギャングが暴れていて、市民がギャングの逮捕や裁判を待たずに直接ギャングに反撃してリンチして殺害している。政治家や警察や裁判官が腐敗して犯罪者とグルになっている場合は国家に対するテロが起きうる。●テロと被害特定秘密の保護に関する法律第十二条第二項ではテロリズムは「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう。」と定義されている。テロリストは大きな被害を起こして社会に不安を与えることで目的を達成していて、捕まることや死ぬことも辞さないので、罰が抑止力にならない。それゆえにテロを未然に防ぐことが重要で、事件が起きた後に動き出す警察ではテロには対処できないので、CIAや公安とかの諜報部が活動しているし、テロ防止のために公共施設のゴミ箱が撤去された。世界の中では治安がいい方の日本でもテロは何度も起きていて、戦後に日本赤軍や東アジア反日武装戦線とかの極左組織が政治的目的でテロをしたり、オウム真理教が国家転覆を狙って警察庁長官を狙撃したり地下鉄サリン事件を起こしたりしたので、公安が危険な政治思想を持つ組織を継続的に監視して家宅捜索したりしている。最近は極左が高齢化して新興宗教ブームも終わって、政治思想がなくて自暴自棄になった人が一人で社会へ復讐するローンオフェンダー型のテロが起きていて監視が難しくなっている。じゃあどうすればテロを防げるのか。そもそも政治家が善政をして国民が幸福で社会に対する不満が少ないならテロは起きにくいし、社会福祉を充実させて無敵の人が少なくなれば貧困や社会的孤立が原因でテロを起こそうとする人は減らすことができる。中国のように町中に監視カメラを設置してSNSの投稿まで監視して反体制派を早急に見つけ出すのも一つのやり方だけれど、悪政と弾圧のセットでは国民は幸福にならないし、より大きな不満を招いて下手をすれば内戦になりかねないので、独裁国家でない国は善政を目指すべきだろう。・テロリストの主張の扱い方テロリストにも何かしらの言い分があるので、自身の生命や将来をなげうって不利益をこうむってでもテロを実行する。安倍晋三暗殺事件では山上徹也の主張と暗殺の是非がごっちゃになって議論されていたけれど、テロリストの主張とテロ行為は別のものとして考えるべきだろう。私は旧統一教会の被害者が救済されるべきだという主張はその通りだと思うけれど、安倍晋三の暗殺というテロ行為には賛同しない。統一教会に圧力をかけるとテロリストの思い通りなのでやるないう人がいるけれど、それはロジックがおかしい。例えばパンを食えと主張するテロリストと、米を食えと主張するテロリストと、麺類を食えと主張するテロリストがいたとしたら、テロリストの主張を聞くのは嫌なのでパンも米も麺類も食べないでオートミールを主食にするという人はいないだろう。テロリストが何を言おうが自分の善悪正誤の判断基準に沿って行動すればいいだけだし、日本人なら米を食うべきだと言う自分の主張とテロリストの主張がかぶったからと言ってテロを擁護していることにはならない。山上徹也が何を言おうがそれと関係なしに、統一教会にはいろいろ問題があるので対処をするべきである。最近は島田雅彦が安倍晋三の暗殺について「こんなことを言うとひんしゅくを買うかもしれないけど、今までなんら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えばね、せめて暗殺が成功してよかったと。まぁそれしか言えない」と発言して、これはテロの擁護なので炎上した。島田雅彦は「ネット放送「エアレボリューション」での軽率な発言により、大きな誤解を招いたことを反省し、今後、慎重な発言に努めることを改めてお伝えします。」「また大学の講義で殺人やテロリズムを容認するような発言をした事実は一切ないこと、言論に対する暴力的封殺であるテロリズムにも、先制攻撃や敵基地攻撃など専守防衛を逸脱する国家的暴力行為にも反対であることを明言します。」と釈明したけれど、そもそもテロリズムに反対なら暗殺が成功してよかったとは言わないだろう。本来左翼は言論の自由を守る立場だろうに、自分の気に入らない相手に対する言論封殺は内心は許容しているようである。●報道のあり方・どのくらいの被害を報道するべきかマスコミは取材するリソースも紙面やニュース番組の時間も限られているので、世界中のすべての出来事を取り上げることはできない。じゃあ何か事件が起きたときにどういう話題が優先度が高いのか、適当に分類してみる。1.大勢に被害がある出来事で、公共性が高い。戦争やテロや災害など。速報や新聞の一面レベル。2.有名人や大企業の重大事件で、社会的影響が大きい。警察の冤罪でっちあげなど。全国ニュースの特集レベル。3.一般人や中小企業の重大事件で、社会的影響が大きい。殺人事件など。全国ニュースレベル。4.有名人や大企業の些細な事件で、社会的影響が小さい。芸能人の詐欺被害など。週刊誌、コレコレレベル。5.一般人や中小企業の些細な事件で、社会的影響が小さい。田舎の交通事故など。ローカルニュースレベル。もし無名の地下アイドルグループで枕営業強要とかのセクハラがあったら4番目に該当してマスコミがいちいち報道しなくてもしょうがないと思うけれど、ジャニー喜多川の性犯罪は2番目に該当する有名人の重大事件で常習性があって被害者が多くて未成年への性暴行としては日本最大レベルの事件だと思うし、報道しないのがおかしい。新聞とテレビ局がグループ化していて、テレビ番組の視聴率をジャニーズに頼っているのでテレビのニュース番組だけでなくて新聞でさえジャニー喜多川を取り上げていないようだけれど、取引先に忖度して報道しないのではマスコミの中立性が疑われてただでさえ信用が乏しいのにますます信用をなくすだろう。・加害者への対応松本サリン事件ではマスコミは第一通報人で被害者でもある河野義行氏を犯人のように報道して、全国から中傷の手紙が届く報道被害が起きた。マスコミが独自に取材して真相を調査すること自体はよいけれど、そもそも現行犯逮捕とかの明らかな犯行の証拠がある事件以外は裁判が終わるまでは容疑者が犯人かどうかは確定していないし、容疑者だからといって事件と関係のないプライベートまで暴いて本人や家族の人権侵害をしていいことにはならない。マスコミはしばしば卒業アルバムを晒すけれど、成人の犯罪に対して中学や高校の卒業アルバムを映したところで犯行動機と関係ないし、家族や同僚にインタビューするならまだしもほとんど付き合いのない元同級生にインタビューしてどんな子供だったかを聞いてもたいして意味がないだろう。本庄保険金殺人事件の容疑者は有料の記者会見を203回実施して1000万円を手に入れたそうだけれど、マスコミが取材のために容疑者に儲けさせる行動もやるべきでないし、本来は取材でなく裁判で明らかにするべきことである。それに裁判の結果も真実とは限らない。2000年代に示談金目当ての痴漢冤罪でっちあげが問題になって『それでもボクはやってない』という映画が作られたように、女性は嘘をつかないという偏見を持った世間知らずな裁判官にあたると「疑わしきは被告人の利益に」という原則が無視されて物的証拠なしに自称被害者の証言だけででっちあげられた罪でも有罪になってしまうこともある。美濃加茂市長の藤井浩人は贈収賄で有罪になったけれど、これは詐欺師の証言だけで物的証拠がないまま有罪にされていて、私は不当判決だと思う。テロリストの主張を報道するべきか否かも議論がある。テロを起こした時点で主張は無価値なので報道しなくていい、報道するとテロリストを英雄視する模倣犯が出るという見方もあるし、「盗人にも三分の理」みたいに弱者を無視するからテロが起きるので主張を聞くべきだという見方もある。私は再発防止という点でなぜテロを起こしたのかという主張や動機を分析する必要があると思う。例えばオウム真理教のテロのように宗教的動機による犯行なら同じ宗教の人がまたテロを起こすかもしれないので公安の監視や警備の強化が必要になるだろうし、市民も挙動不審な人や放置されたバッグとかに注意が必要になるし、その一方で神の声を聞いたとかの精神病の人の単独の犯行なら次の犯行を警戒する必要はないし、市民に注意喚起をする意味では犯人の主張や動機の報道に公益性があると思う。熊谷連続殺人事件では警察が不審者情報を自治体や教育機関に提供しなかったことが被害拡大につながったように、情報を隠すよりは公開するほうが防犯上のメリットがあるし、その公開された情報が有益か否かは個々の市民が判断すればよいだろう。・被害者への対応基本的に報道は被害者に寄り添ったものであるべきだろう。ニュージーランドの地震で自身で脚を切断した青年に対してフジテレビがスポーツできなくなったのはどんな気持ちかとインタビューしたのがデリカシーがないと炎上していたように、テレビ局は視聴率がほしいので被害者が嘆き悲しんでいる絵を撮りたがるのだろうけれど、それは被害者の傷をえぐる行為である。マスコミは被害者が世間に伝えたいメッセージを伝えるべきで、マスコミがほしがるセンセーショナルな返答を誘導をするべきではないし、招かれていないのに家や病院や葬式にマスコミ各社が大勢で押しかけるのも不躾である。マスコミが相談して取材する記者の代表を決めるとか、記者会見の場所を用意するなりして節度を持って取材すればいいだろう。それに自称被害者も容疑者と同様に、裁判の結果が出るまでは被害者とは限らない。四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件で老人と揉めた女性が老人に財布を盗まれたと言って被害者ぶって逃げたように、DQNは被害者ぶって嘘をついたり罪を擦り付けたりして周囲を味方にしようとしたりその場を逃れようとしたりするので、自称被害者と加害者の証言が違う場合は双方の言い分を聞くべきである。秋田児童連続殺害事件のように子供の行方不明事件で実は親が子供を殺していたパターンもあるので、自称被害者がかわいそうだからといって肩入れするのは危ない。2019年に草津の黒岩町長が町議の新井祥子にセクハラ被害を訴えられて解職請求の住民投票で黒岩町長が失職したものの、後に新井祥子が虚偽の証言をしたことを認めて支援団体が解散したけれど、外国のマスコミがセカンドレイプの町として報道したことで草津町は風評被害を受けて、黒岩町長は名誉を回復するのに3年もかかった。マスコミはセンセーショナルに被害をわめきたてる被害者に偏見で肩入れして証言を鵜呑みにせずに、報道の仕方によってはマスコミが名誉棄損の加害者になりうることを自覚して客観的根拠をベースに事実を報道するべきである。・犯行の手口の報道岸田総理に爆発物が投げられた事件で、テレビ朝日の「サンデーLIVE」で銃器研究家の高倉総一郎氏がパイプ爆弾の作り方を解説していたけれど、これはテロリストに知恵をつけることになるので報道する必要がないだろう。たまたま容疑者の木村が小田急サラダ油男レベルの馬鹿で爆発物が爆発するまでの時間も威力も検証していなくて準備不足のままテロを実行したおかげで暗殺が失敗して死人が出なかったけれど、テロリストがより効果的に人を殺す方法を学習して入念に準備したら大勢犠牲者が出る可能性がある。凶器の作り方や使い方は警察官や警備員が知っていればいい話で一般人は知る必要がないし、一般人向けの報道はどう身を守るかという点に焦点を当てるべきである。軍事訓練を受けた外国のテロ組織は一発目の小さい爆発は陽動に使って二発目の大きな爆発で現場に集まった警察官や救急隊や野次馬を大勢殺すことを狙うので、テロ事件の現場をのんきにスマホで撮影していないで逃げるべきである。●フィクションと被害アクション映画では派手に車をぶつけたり建物を爆破したりするのが見どころになるけれど、アクションヒーローが多額の損害賠償請求に追われる場面は描かれない。ミステリも殺人の場面が見どころで、犯人を推理したところで話が終わってその後の裁判と懲役の様子は描かれない。加害による刺激がエンタメのフィクションの見どころになっていて、社会派ミステリや純文学とかの一部の作品以外では被害に対する罰や賠償には焦点が当たりにくい。そのせいかフィクションは暴力を描いていて有害だという人がいるし、事件が起きるとマスコミが犯人の部屋に漫画やゲームがあったと報道してフィクションの影響のせいにされがちである。しかし最悪の事態に対する想像力を持てるようになるという点では凄惨な被害を描くことにもメリットがある。この世界では殺人、拷問、誘拐、臓器売買、民族浄化、人種差別、戦争、麻薬といったありとあらゆる凄惨な犯罪が起きている。大人は子供にアンパンマンとかの幼稚なほんわかした物語を見せて現実世界の汚い部分を見せないように保護して育てるけれど、いずれ子供も大人になって現実に直面するときが来る。それまでにフィクションで耐性をつけておけば過酷な現実に順応しやすくなるだろう。それにフィクションには被害からの救済という側面もある。何かの被害を受けた人が被害を言語化して物語にして客観的に認識することでトラウマを乗り越えることにつながるし、同じ被害を受けた他の人にとっても励ましになりうる。何か悪いことが起きても創作のネタができたと思えるならレジリエンスも高くなるだろうし、フィクションこそ生きる力として活用するべきである。
2023.04.30
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このブログで何度かAIについて考えたけれど、最近はChatGPTが話題なのでこれについて考えることにした。●ChatGPTとは何かGPTはgenerative pre-trained transformerの略で、ChatGPTはあらかじめ学習した情報を会話形式に変更して生成する対話型AIで、アメリカのOpenAI社が開発した。学習データを基にして次に来る単語を予測して出力する仕組みになっているので、学習データに使われた情報の正誤や出力内容の正誤を判断する能力はない。例えば「イギリスの首都は?」というプロンプト(指示)が入力されると、学習データではイギリスの首都に関する話題でロンドンに言及している情報が多くてロンドンが首都である確率が高いので、「イギリスの首都はロンドンです」と返答する。この学習データが間違っていたり、複数のお互いに矛盾するデータから学習したり、データが乏しかったり、プロンプトが曖昧だったりすると返答も間違ったものになる。例えば「〇〇高校の偏差値は?」というプロンプトで、80偏差値を出しているソースと50偏差値を出しているソースをごっちゃにして一貫性がない返答をしたりする。この場合は「〇〇高校の80偏差値は?」とプロンプトを具体的にするとより正確な情報を答えるかもしれない。人間も授業や本とかのデータから学習しているという点では似ているけれど、人間は情報源を比較して矛盾や間違いに気づけるものの、対話型AIは単語をプログラムに沿って並べているだけで寄せ集めた情報の整合性を検証しないので矛盾や間違いに気づけないところが大きく違っている。・ChatGPTの使用の賛否無料版のChatGPT(GPT-3.5)は事実を尋ねても間違った情報を返答することが多いのでちょっと使ってみて役に立たないという人がいるけれど、それは学習に使ったデータが悪いだけでデータを限定すれば役に立つものになりうるし、目的に応じて学習データをカスタマイズできるのが対話型AIのメリットである。それに事実を確認したいならgoogle検索すれば済むわけでわざわざChatGPTに聞くのはもったいない使い方で、詫び状のテンプレを作ってもらうとかキャッチコピーを作ってもらうとかの文章生成をさせる必然性がある用途で使うのがChatGPTの有効な使い方である。有料版のChatGPT Plus(GPT-4)は性能が良すぎて悪用されると社会的影響が大きいので、OpenAIが社名でもあるAIをオープンにするという方針を曲げて無料公開をやめて有料にしたそうな。無料版のChatGPTだけ使ってみて役に立たないと言っている人は有料版を使ってみてから判断するほうがよい。横須賀市は自治体で初めてChatGPTを試験導入して広報文作成、議事録の要約、誤字脱字のチェックやアイデア創出に活用するそうだし、みずほ銀行はChatGPTの言語モデルをクラウド上で利用できるAzure OpenAI Serviceを社内文書作成とかに取り入れ始めていて、すでにChatGPT関連のサービスは実用に足る性能になっているからこそ企業が導入している。Microsoftの「新しいBing」も検索用にカスタマイズされたGPT-4を使っていてチャットボットがソース付きで返答していて、無料版のChatGPTよりは信頼性が高くなっている。OpenAIとGitHubが共同開発したGitHub CopilotはGPT-3.5を使ってプログラミングコードを提案する機能があるので、プログラマーがコードを考えたり手打ちで入力したりする手間を省いて時短できる。Microsoft 365 CopilotもGPT-4をベースにした大規模言語モデルを使っていてチャットに応答してデータを表示したり編集の補助をしたりするようになっていて、ヘルプを表示するだけのイルカのアシスタントからだいぶ進歩している。GoogleもChatGPTに対抗してAIチャットボットのBardを作っているけれど、いまのところはChatGPTの方が性能は上のようである。AIが仕事を奪うことが危惧されていてすでに外国ではフリーライターやコピーライターが大口の取引先から契約を切られた話とかが出始めているけれど、書類作成をAIに任せられるようになれば不毛な雑用に労力を使わずに済むようになってもっと重要な仕事に集中できるので、AIの導入は企業にとっては悪いことではない。例えば企業がMicrosoft 365 Copilotを使うようになれば、新入社員がエクセルのデータをグラフにする方法がわからないときに職場のパソコンに詳しい人に聞かなくてもチャットボットに聞けば済むようになる。歴史的にも電話交換手とかの技術の進歩でなくなった職業はいろいろあるし、一時的に事務職の失業者は増えるかもしれないけれどクリエイティブでない労働は機械化するほうが人間のためでもある。西村経済産業相はChatGPTを将来的に国会答弁の作成に活用する可能性について有力な補助ツールになりうると答弁したし、農林水産省は公表済みの情報のみを扱う文書の作成で使う方針のようだし、もし各省庁で導入されたら業務が効率化して官僚の負担が減るだろう。これからAIを導入して業務を効率化できる企業と従来の人力の書類作成を続ける企業の生産性の差は広がっていくと思うし、人手不足の企業ほどAIを使った業務効率化に取り組むべきだと思う。横須賀市とは逆に鳥取県の平井知事はChatGPTを県の業務で使用することを当面禁止にする方針のようだけれど、回答内容の正確性と入力内容に個人情報が含まれたら秘密保持の観点で課題があることを懸念しているそうな。しかし秘密保持云々を言うならChatGPTだけを危険視するのは筋が通らない。アメリカの国家安全保障局が日本の内閣や日銀や財務省の盗聴をしていたことが2015年にウィキリークスに内部告発されたし、TwitterのDMを含むすべての会話にアメリカ政府がアクセスできる状態だったとイーロン・マスクが暴露したし、アメリカと違って日本では中国製のIT機器やアプリの排除もしていないし、スパイ防止法がないので日本の機密情報はすでに漏れている。外国のサーバーを使うサービスや外国製IT機器の使用を全部禁止にするとかならわかるけれど、ChatGPTだけを危険視するのは未知のものに対する過剰反応だと思う。それに横須賀市が議事録を要約するのに使うみたいにもともと市民に公開されているデータを使って個人情報と関係ない業務に使えばいいし、ChatGPTの使用を禁止するのでなく個人情報の入力を禁止すればいいだろう。回答内容の正確性にしてもプロンプトを工夫して正確性を上げることはできるし、人間だって記憶違いや疲労や連絡ミスとかでいろいろ間違えるのだし、AIが書類を作ろうが人間が書類を作ろうが担当者がちゃんと書類をチェックすればいいだけの話である。鳥取県は役所のウェブサイトの外国語版ページを高電社の自動翻訳に頼っているけれど、それだってAI翻訳で100%正確さを保証しないと注意を表示しながら使っているのだし、ChatGPTも回答内容の正確性に課題があるから使用を禁止するのでなくて、正確さに注意を促しつつ使える範囲で使えばいい。●ChatGPTの弊害と危険性ChatGPTは便利には違いないけれど、車が発明されて運動不足で体力が落ちて太る人が増えて、パソコンが普及してペンを使わなくなって漢字が書けなくなった人が増えたように、便利になって使わなくなった身体能力は必然的に衰えていく。じゃあChatGPTが普及したら人間のどの部分が衰えるのか。人間の脳はこの世界の膨大な情報を丸暗記することはできないので、細部を忘れることで要点をまとめてインデックス化して記憶する仕組みになっている。しかしChatGPTは人間には記憶不可能な膨大なウェブ上のデータをあらかじめ丸ごと入力しておいて指定した文字数で要約して出力するので、ChatGPTに頼っていると直接原典を読まなくなって記憶力や文章読解力や要約力といった能力が衰えていく可能性がある。要約は価値判断に関わる部分で、同じ情報源でも人によって価値観が違って重要視するポイントが違うので要約の仕方が違う。その価値判断の積み重ねで人間は体系化した思想を持つようになる。原典にあたらずに価値判断の基準を持たないAIが作った画一的な要約を情報源にしていると人間は思想を形成できなくなるかもしれないし、人や社会はこうあるべきだという思想がなくなると集団凝集性がなくなって、社会が個々人の利害に基づいて分断されていく殺伐とした世界になるかもしれない。すでにある程度の知識がある人がChatGPTの応答を見たら間違ったことを言っているとわかるけれど、もし知識がない子供がChatGPTを頼るようになるとどうなるか。ひろゆきの言うことをオウム返しするひろゆきキッズみたいに、「だってChatGPTがゆってたもん」と思考停止して情報の真偽の判断がつかないままオウム返しするChatGPTキッズが出てくるようになると思う。デジタルネイティブ世代だからといって開発者側になれるわけではなくて、スマホだけ使って育ったZ世代は就職しても会社のパソコンやキーボードが使えなくて問題になっているけれど、2030年代に生まれるAIネイティブ世代は自分で観察したり考えたりする前にタイパ重視で手っ取り早くAIに答えを聞くようになって、AIの補助がないと思考や生産ができなくなったりしてもっと深刻な問題になるかもしれない。教育の仕方も変わるだろう。親や教師より博識な何でも答えるAIが出現して教育者の権威がなくなって子供が大人を尊敬しなくなって言うことを聞かなくなるだろうし、AIに聞けばすぐに答えがわかるのだから勉強しても意味ないと言って勉強しなくなるだろうし、そうなると知識量が多いことよりも人格が優れていたりインターネット上で明文化されていない暗黙知や経験が多かったりして理想に近づくにはどうすればいいか指導できることが教師に求められる資質になるかもしれない。もし悪人がChatGPTを悪用するとしたら何ができるのか。ChatGPTは爆弾の作り方とかの社会に害を与えることは返答しないようになっているけれど、もしハッキングされて改悪されたヴィラン版ChatGPTみたいなのがばらまかれたら悪人が爆弾や麻薬の作り方を簡単に調べられるようになったり、詐欺の台本やフィッシングメールの文章を作らせたりして犯罪が多発するかもしれない。スパイとかの工作機関が悪用したら、SNSに大量のチャットボットアカウントを作って投稿を自動生成していいねを量産してインフルエンサーをでっちあげて世論誘導をしたり、企業の悪いうわさを一斉に大量に流して株価操縦をしたり、政敵に嫌がらせしたりできるかもしれない。●大学でのChatGPTの使用の是非上智大学とかのいくつかの大学では学生のChatGPTの利用を禁止する方針だそうで、これには賛否両論ある。私は大学は何かのテーマの研究の仕方を学習するための施設だと思うし、ChatGPTを使って論文を書くと授業でインプットした知識をアウトプットする訓練にならないので、ChatGPTの使用禁止には賛成である。いくらChatGPTを使って論文のうわべの体裁を整えることができたところでWikipediaのコピペを継ぎはぎするのと大差ないし、引用元が不明な情報を自分の研究として発表するのは無自覚な盗用になりかねないし、独力で論文を書けないのでは学士に値する能力がないといえる。ただし一切AIを使うなというのではなくて、「〇〇のテーマの論文の概要と目次を作ってください」みたいなプロンプトでChatGPTに直接論文を書かせるのはだめでも、「大学の図書館の蔵書から〇〇のテーマに言及している本をリストアップしてください」「〇〇主義の学者とそれに反論している学者をリストアップしてください」みたいなプロンプトで研究の助手のようなものとして使うこと自体はよいと思う。●ChatGPTと小説対話型AIはプロンプトで指定した通りの物語のプロットや登場人物の会話や韻を踏んだ詩を作る程度のことはできるし、既存の作品を基にして二次創作の物語を作ることもできる。既にamazonにはChatGPTが著者の本が売られているそうな。もし小説の創作にChatGPTを使うとしたら、ブレーンストーミング代わりにプロットの案をたくさん出させたり、セリフが思いつかないときに何かしゃべらせたり、登場人物全員のプロフィールを考えるのが面倒な時に脇役のプロフィールを作らせたり、いい表現を思いつかないときに言い回しの類語をリストアップさせたりして、そのまま文章を書かせるのでなく参考にして叩き台にするような使い方になると思う。あるいは自分が考えたミステリのトリックやキャラクター設定が他の作品とかぶっていないかチェックするのに使えるかもしれないし、外国の刑務所内の様子みたいに取材が大変で検索しても見つけにくいテーマでもChatGPTに調べさせれば小説を書きやすくなるかもしれない。入力した文章に対して鹿児島弁で応答するJaddoGPTというのが開発中らしいけれど、こういうのがいろいろな方言バージョンで開発されると地元民でない小説家が書いた方言に違和感が少なくなって田舎を舞台にした小説が書きやすくなるかもしれない。しかしChatGPTを使って効率よく創作できても必ずしもよい作品になるともいえない。アメリカの心理学者のワラスの4段階説という創造性のモデルでは、創造性がある人は特別な才能があるのでなくて、準備期、孵化期、啓示期、検証期の4段階をタイミングよく切り替えていると主張していて、これは小説の創作の実情にあったモデルだと私は思う。小説を書くには膨大な知識や教養を準備してすぐに創作にとりかからずにしばらく寝かせるのが重要で、無理やりプロットをひねり出そうとしてもたいして面白い展開にはならない。ビートジェネレーションみたいに準備せずに体験に基づいて酒の勢いでワーッと書くやり方もあるにはあるけれど、それでは構成を練った長編に比べると構成が弱くて脱線が多くなったりしてあまり完成度は高くならない。若いうちに小説家になろうとする人は準備期と孵化期が不十分で、早くたくさん文章を書けることを自慢していきなり創作にとりかかって、才気を見出されてデビューしてもすぐにアイデアが枯渇して書くことがなくなって絶筆したりする。それと同様に、ChatGPTを使えば準備期と孵化期をすっとばしてAIにプロットのアイデアを提案させてすぐに創作にとりかかることはできるけれど、学習データとネタがかぶった劣化コピーのような浅いアイデアしか出てこないと思うし、最初は目新しいかもしれないけれど皆がChatGPTに創作アイデアを出させるようになったらありふれた陳腐なものになる。結局は作者の面白さの判断基準が作品の出来栄えを左右するので、横着せずにちまちま古典を読んで歴史や文化を勉強して良し悪しの判断基準を自分で形成して現代社会を見る目を持って独自のアイデアをひらめかないことには個性があって読者を感動させるような良い小説を書けるようにはならないだろう。小説には思想が必要とされるがゆえにイラストほどAIに席巻されることはないと思うし、思想がある作家がChatGPTを取材や校正の補足ツールとしてうまく使えばもっと良い小説を書けるようになるかもしれない。
2023.04.21
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最近はイーロン・マスクが世界一の金持ちでなくなって、LVMHの会長のベルナール・アルノーが資産28兆円で世界一の金持ちになったそうな。LVMHとアルファベットで言うとピンとこない人もいるだろうけれど、モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンとカタカナで言うと誰でも知っているフランスの高級ブランドである。生活必需品でない高級ブランドのオーナーが世界一の金持ちというのが金余りの世界経済を表しているようで面白い。というわけでブランドについて考えることにした。●ブランドとは何かブランドは放牧している家畜の所有者を示すために焼き印をつけるbranderという古ノルド語から派生して、他の商品やサービスと区別しているものをブランドと呼ぶようになった。例えばチェーン店の屋号はブランドの一種で、同じ屋号ならどの店舗でも同じ品質や価格の商品やサービスを提供することが期待される。他の商品やサービスと区別できないようなものはノーブランドと呼ばれていて、例えば中国の家電メーカーがしばしば他のメーカーと機能やデザインが類似した商品をamazonで売っている。企業は何か新しいことをやりたくなったら既に固定客がいるブランドでやるよりも、サブブランドを立ち上げて新商品を試したり新規顧客を開拓したりするほうがブランドイメージが棄損されずに済む。例えばUNIQLOはファッションデザイナーとコラボしてそこそこ高級感がありつつ値ごろな感じのブランドイメージを保っている一方で、廉価なブランドのGUを作って所得が低い若年層を取り込んでいる。バドワイザーはブランドイメージで失敗した例で、若者にアピールするためにBUD LIGHTの缶のデザインにトランスジェンダーのインフルエンサーのDylan Mulvaneyを起用したところ、既存のファンが反発して不買運動をされて製造会社のアンハイザー・ブッシュの株価が50億ドル相当(7千億円くらい)下落したそうな。欲を出して既存顧客以外にもアピールしようとしてブランド展開の戦略を間違うと、顧客を増やすどころか既存の顧客を失うことになる。作家のペンネームもブランドの一種で、例えば栗本薫は小説は栗本薫名義で出版して、評論は中島梓名義で出版して使い分けていた。エロ漫画家が一般向け作品ではポルノと区別するために違うペンネームを使って、エロ漫画家として築いたブランドのイメージを崩さないようにすることもある。●ブランドの役割・差別化独自のブランドを確立するためには他のブランドと差別化する特徴が必要になる。高級ファッションブランドはデザイナーの名前がそのままブランド名になっていたりして、デザイナーの感性で差別化している。機能性やデザインや品質だけでなく、ロハスを売りにしたオーガニック繊維のブランドとか、エコを売りにしたリサイクルしやすい服のブランドとか、発展途上国のフェアトレードを売りにしたブランドとかのライフスタイルや社会問題の次元でのコンセプトで差別化する仕方もある。・認知度向上農業や漁業では全国どこでも似たような作物や魚があるので、ブランド化して認知度を上げて他の産地と区別しようとしている。例えばメロンの産地は日本各地にあるけれど、夕張メロンは夕張キングという赤肉のメロンの種類よりも産地がブランドとして認知されている。・市場のポジショニング星野リゾートの星野佳路氏が『The Myth of Excellence』という本のファイブ・ウェイ・ポジショニング戦略を紹介していて、商品、サービス、経験価値、アクセス、価格のどれか一つを市場支配レベル、もう一つを差別化レベルにして、他は業界標準レベルでよくて、すべてを良くしようとするとリソースが足りなくて長続きしないと言っていた。企業はブランド化してコンセプトを絞ることでどこを売りにするのか明確にして市場戦略を練りやすくなるわけである。例えばAKB48は商品である歌やダンスはアイドル業界の標準レベルでたいしたものでないけれど、「会いに行けるアイドル」をコンセプトにしているだけあって小劇場で毎日公演していることでアクセスの良さが市場支配レベルで、握手会のファンサービスや選抜総選挙という経験価値が他のアイドルと差別化できるレベルだったので、もっと歌がうまくて見た目がいい女性歌手よりも人気になって一世を風靡したアイドルブランドになって、SKEやNMBとかのサブブランドもでてきた。これはコンセプトが成功したといえるし、個々のアイドルが平凡だという欠点も人数の多さでカバーしていて、もし3-5人の少人数のアイドルグループで同じことをやろうとしてもうまくいかなかったかもしれない。AKB48を卒業した人たちはあまり活躍していないけれど、AKB48のブランドの特徴がなくなったらアイドルの標準レベルにすぎなくなったので、知名度ほどの活躍をしないのも当然と言える。AKB48はアイドルの管理が標準以下で交際がばれたりしてスキャンダルが多いのが欠点で、それと対照的に「会いに行けるアイドル」のコンセプトをなくして専用劇場を持たない乃木坂46が人気になった。これはAKB48と差別化して清楚な感じを売りにして別のポジションを狙ったのが成功したといえる。・品質管理どの店や商品にも屋号や商標はあるけれど、商標があるだけではブランドとして価値があるわけではなくて、ブランドとして価値を持つにはコンセプトを体現してぶれないくらいの品質管理が必要になる。一定の品質を保つことがブランドであるための十分条件といえる。高級ブランドは価値を保つために偽ブランド品を取り締まるし、販路も直営店や代理店に絞って商品が売れ残っても安売りして在庫をさばこうとせずに廃棄する。レストランのチェーン店は覆面調査員がマニュアル通りに商品やサービスを提供しているか抜き打ち検査して品質を保っている。贈答用の果物のブランドはひとつづつサイズや糖度とかを測ってばらつきがないようにしている。買う側にとってはブランド物なら品質に問題ないはずだという安心感があるので、高くても買う理由になるし、贈答用としての需要もある。・社会的記号ブランドが何かのコンセプトを表しているので、そのブランドの商品を身に着けてることでブランドのコンセプトに共感する思想を持っていることを表す記号になる。コンセプトを理解せずにただ高いブランド品を寄せ集めても趣味の悪い成金扱いされる。何百万円もするバーキンも、自作のハンドバッグも、バッグとして持ち運べる物の量自体は変わらないし、コスパだけで考えるならたかが物を運ぶための入れ物に何百万円も使うのは非効率である。それでもあてくしは金持ちセレブざます、そこいらの庶民とは違うざます、というアイデンティティを維持するための道具として必要なので高級ブランドに需要がある。パーティーとかに出かけて社交する人には高級ブランドのファッションがマウンティング合戦の武器になるし、家に客を招く人は高級ブランドの家具が自慢の種になる。楽天モバイルで何十億円も横領した部長の妻が高級ブランド品を買い漁っていたそうだけれど、盗人が高級ブランドを身に着けたところで立派な人になれるわけでもなのに承認欲求を満たしたいので散財するのだろう。最近はセレブ気取りのインフルエンサーがアリエクスプレスで安く仕入れた服を独自ブランドと称してフォロワーにぼったくり価格で売っているそうだけれど、持ち物を見ればそういう偽セレブと本物のセレブの違いがわかる。逆に大金持ちのトレーダーのBNFが家具がない生活感のない部屋でカップラーメンを食べているのも当然で、社交しないし家に人を招くわけでもないので自己プロデュースの社会的記号として高級ブランド品で部屋を飾り立てる必要がないのである。・精神的充足高級ブランドはしばしば庶民の憧れの的になって、ブランド品を持つことが頑張ったご褒美とか記念日のプレゼントとかの精神的充足の手段になる。しばしば日本人は不釣り合いなブランド品を持っていて、猫背でO脚で歯がぼろぼろな人が高級ブランドの靴や鞄を持っていても映えないし、物の良し悪しもわからなそうな女子高生が高級ブランドのサイフを持っていても売春してそうで似合わない。何に幸せを感じるかは人それぞれなので別にいいけれど、ブランド品を買うよりも他にやることがあるんじゃないのという感じがする。収入に見合わない買い物をして買い物依存症で破産する人もいるので、精神的充足を得たいなら他の手段のほうが良いと思う。●人間のブランド最近はAIチャットボットが人間っぽい返答をしたりプログラミングをしたりするようになって、情報の正確さは課題があるけれど反応の速さや処理能力は人間以上である。そのうえAIは人間と違って疲れないし、ダメ出しして何度もやり直しさせても機嫌が悪くなって仕事をさぼることもないので、電力さえあれば24時間稼働できる労働力になる。産業革命で機械が単純労働をする労働者の仕事を奪ったように、今後はカスタマーサポートや受付とかのサービスがAIに代替されるだろうし、人間がAIと同じことをやって競ってもコストや能力で勝てないので、AIと同じ分野で競争するのでなくAIに代替されないための差別化が必要になる。人間は能力だけでなくモラルもAIより劣るかもしれない。AIは欲や感情がなくて意図的に犯罪をしないというだけでもDQNよりも労働力として優れている。AIに会計を任せればレジから金をくすねることもないし、AIに受付係をさせれば好みのタイプの客の個人情報をメモしてストーカーすることもないし、ツンデレ応答パターンとかのユーザーの好みを学習した萌えAIが出てきたら嘘をついて金をせびる場末のキャバ嬢の需要はなくなるだろうし、AIよりもモラルが低い人間は社会に必要なくなるかもしれない。中国は信用スコアでモラルを数値化しているように、今後は労働力として役に立つことよりもモラルがあって社会に悪影響を及ぼさないことが重要になって、AIの進歩が労働観や人間観を変えるかもしれない。じゃあAIと差別化して人間だけが持ちうる長所とは何か。中世の貴族社会では貴族の血統や教養がブランドで、戦国時代は戦闘力や忠誠心がブランドで、資本主義社会では金が多いことがブランドで、SNS社会ではフォロワー数が多いことがブランドだけれど、今後はたぶん真善美のパラメーターが高くて尊敬や愛情を集められることが人間のブランドになるかもしれない。今は金持ちや有名人が成功者としてもてはやされているけれど、数百年くらい後に機械やAIが労働の主力になって人間があまり労働する必要がなくなって資本主義が終わった後は人間主義になって、古代ギリシア人が奴隷に労働させて暇になって哲学にふけったようなのをもっとハイテクにやる感じになると思う。そしたらモラルが低いサイコパス経営者や迷惑系YouTuberとかはいくら金持ちや有名でも蔑まれるようになるかもしれない。●小説のブランド最近はあまり小説を読んでいないけれどこのブログは主に読書ブログなので、小説のブランドについても考える。昔は『白樺』が理想の人間像を書いた小説を載せていたり、初期の『文學界』が芸術至上主義を出版方針にしていたように、文芸誌がコンセプトを絞ってブランドとしての役割を果たしていたのだけれど、今は文芸誌のコンセプトがなくなって差別化できなくなっている。漫画雑誌はジャンプが努力友情勝利のバトル系でヤンマガがアウトロー系みたいに雑誌ごとに大まかな特徴があって看板作品があるけれど、純文学はフェミニズム特集や外国文学特集とかの企画をする程度で連載している小説自体が差別化になっていない。村上春樹の小説ならなんでも買うハルキストがいるように作者がブランド化していて、出版社はそれに味をしめたのか芸能人だのモデルだのの変わった経歴を持った小説家を推す傾向がある。しかし商品の品質管理ができていなくて芸術観がないうえに文学理論を理解していない下手な作家だらけなので、作者で話題づくりして売ろうとせずに作品本位に戻るべきである。ファイブ・ウェイ・ポジショニング戦略をとるにしても、小説自体が標準レベル以下で刺激や感動がなかったら他が良くても小説としてはだめである。本来は文学賞が作品の品質を保証したり差別化したりする役割として機能するべきなのだけれど、これも機能していない。芥川賞だろうが三島賞だろうが下手な新人の作品の中から多少ましな程度のものを選んで話題作りするおざなりな行事になっていて受賞作だからといって良い作品というほどでもないし、芥川賞と三島賞で選考委員は違うけれど候補作の作風が違うわけでもないので差別化もできていない。ブランド化するならリアリズム文学賞や私小説文学賞とかの作風やテーマごとに文学賞を作って差別化する方がよいし、似た作風の中で良し悪しを比較しないと品質を保てないだろう。小説家はファンサービスとしてサインを必死に何百冊も書いているけれど、これはたいしたサービスになっていない。私は小説が面白ければそれでよくて作者には興味がないのでサインはどうでもいいし、サインがあるからといってつまらない本を買う理由にはならない。登場人物の一覧をつけたり難読漢字にルビをつけたり物語の舞台の地図をつけたり解説をつけたりして、読書の体験を豊かにするサービスこそ本来小説に必要なものである。あと文芸誌はアクセスが悪くて、発行部数が少ないせいか大きな本屋に行かないと売っていないし、売り切れていたりするし、わざわざ買いに行ったり定期購読したりするほどの魅力もないので、楽天マガジンとかの電子書籍のサブスクで読めるようにしてほしい。他の雑誌が電子書籍化できているのに文芸誌の電子書籍化ができていないのでは業界標準レベル以下である。損して得取れで、紙の雑誌はどうせ売れないのだからせめて電子書籍化してアクセスが良くなれば純文学に興味を持つ人が増えると思う。
2023.04.12
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最近は神戸の高校生が卒業式でアメリカ国籍の父親のルーツの黒人の編み込みの髪型(コーンロー)にしたら「高校生の髪型ではない」と着席を拒否されて隔離されたそうで、これが適正な処分なのか差別なのかと巷で議論しているようである。最近は理不尽なブラック校則も話題になっている。というわけで徒然なるままに校則と服装について考えにけり。・校則の是非学校は教育をサービスとして提供しているし、学校ごとに教育方針が違って校則が違うのは問題ない。校則が厳しくても人権侵害や児童虐待でないのであれば躾の一環として正当化されうるものである。厳しい躾けを売りにしている学校もあってよいし、校則が嫌なら他の学校に行くか、フリースクールや学習塾にいって大検を受ければよい。宝塚音楽学校なんかが典型的で、校則が厳しくてもそういう清楚な雰囲気が売りなので宝塚が好きな親が子供を入れたがる。しかし男子だけ冬のコートの着用の禁止をするような、なぜそうしないといけないのか説明責任を果たせない理不尽な校則はなくすべきだろう。制服がわかるようにコートの着用を禁止していると学校は説明しているけれど、男子にだけ寒さを我慢させる理由になっていなくて、学校指定のコートを作ればいいだけである。校則は校内の規律を保つためにあるのであって、新入生を屈服させて従属させるための理不尽な加入儀礼であってはならない。ブラック校則が修正されないまま長年残っているのは生徒会に校則を変える権限がないのが原因だろう。権限がないのでは生徒会に存在意義がなくて、自分でルールを考えて決定に責任をもつことにならない。若者に選挙に行かない人が多いのも自分で物事の是非を考えて異議を唱えてルールを変えるという意識が教育されていないせいだと思う。・制服の是非小学校と大学は服装が自由で、中学と高校にだけ制服があるのはおかしな話である。学校のブランド化という点では下級生が憧れるようなおしゃれな制服があるのは売りになるし、私立ならブランド化のために制服があるのはわかるけれど、ブランド化する意味もない公立の学校に制服があるのはなぜなのか。服装で子供の貧富の差がでないようにするためという建前があるけれど、じゃあ小学校はどうなのという話になるので、そこは制服の主要な目的ではない。地域社会に見守ってもらうために制服でどの高校に所属しているかわかるようにするとかいう学校もあるけれど、言い換えると制服に監視タグとしての役割がある。小学生よりも行動範囲が広くて、なおかつ判断力が乏しい中学生や高校生の監視用に制服が必要なんじゃなかろうか。例えばガラの悪い学校の制服を着た生徒がコンビニに来たら店員も万引きを警戒しやすくなる。あとは同じ制服を着ることで学校への帰属意識や団結心を持たせる目的もあるのだろうけれど、小学生は校章がついたネームプレートだけだし、大学生は学生証だけだし、制服である必然性はないと思う。そもそも教師が制服を着ていないのに生徒にだけ帰属意識を持たせるのは中途半端である。フォーマルな服の着こなしを覚えるという点では制服を着ること自体は悪いものではないけれど、毎日制服を着る必要もないだろう。毎日着るからこそ堅苦しい制服が窮屈になって着崩してだらしなくなるし、だったら普段着るのはジャージとかの機能性が高いものでいい。・髪型の是非学校教育では男性が髪を伸ばすのは不良、髪を染めると不良というステレオタイプがあるせいか、たいてい髪を伸ばしたり染めたり整髪料を使ったりすることを禁止している。女子は髪をゴムで結ぶのは良くても編み込んでおしゃれをするのはだめだったりする。身だしなみの躾として校則にある程度の髪型の制限があるのは教育方針としては別によいけれど、仏教徒が髪を剃ったりユダヤ教徒がドリルもみあげにしたりイスラム教徒が髭を生やしたりするように髪型や体毛は信教の自由に関わる問題なのでむやみに規制するものではない。最近は女子にスカートを強制するのをやめてスラックスの制服を選べる学校が出てきたように、髪型も男性は短髪でないといけないとかのジェンダーの押し付けをやめるべきである。髪型も個性や自己表現の一部だし、野球部員が丸刈りにする同調圧力的な変な伝統がなくなりつつあるのは良いことだと思う。ちなみに私は高校生の時にダリオ・ポニッスィ(あるいは早乙女乱馬)みたいに後頭部の髪だけ15センチくらい伸ばして三つ編みにして遊んでいて、女子が教師に告げ口したけれど校則がゆるい学校だったせいか何も言われなかった。会社勤めすると髪型の自由もなくなるし、おっさんになると髪が薄くなってきて髪をいじって遊ぶこともできなくなるのだから、若者はふさふさなうちにいろいろな髪型を試してみるとよいと思う。・マスクの是非若者はコロナ禍でずっとマスクをしてきたので顔パンツ化して、口元を見せるのが恥ずかしいという意識になっているそうな。口と肛門はつながっているので口をプライベートな領域として見せたくない人がいるのも理解できるけれど、表情がわからないのでは人間関係は築きにくいだろう。入学から卒業まで3年間マスクをして過ごした世代の若者は十年後とかに同窓会で会っても同級生の顔が記憶に残っていないんじゃなかろうか。それに子供の頃に公園の土ぼこりを吸ったりしていろいろな細菌に対して免疫をつけるのも大事なので、ずっとマスクをすれば健康になるというものでもない。花粉症とかの持病がない人は基本的にはマスクを外して顔を出す生活をするのがよいと思う。・アクセサリーの是非たいていの中学や高校はピアスや着け爪やサングラスや香水とかのアクセサリーを勉強に関係のないファッションとして禁止していると思うけれど、ヘアバンドや腕時計や手袋やマフラーは許可されたりしているので、アクセサリーでも実用的なものはよいのだろう。しかし近所の学校で制服を着て帽子をかぶっている生徒は一人も見かけないのでたぶん校則で帽子が禁止されているようだけれど、帽子がだめな理由がわからない。帽子は夏は熱中症対策になるし冬は暖かくて実用的なので通学時に帽子をかぶるほうが合理的だと思う。保育園児は熱中症対策にたいてい外出時に帽子をかぶっているのに、中学や高校になると帽子を禁止する意味が分からない。自転車のヘルメット着用は努力義務化されたけれど、ヘルメットはよくて帽子はだめというのはおかしな話である。野球部みたいに部活では帽子をかぶって練習しているのに登下校の制服を着ているときは校則で帽子を脱いでいるのはナンセンスである。・セレモニーの是非入学式や卒業式とかの式典で目立とうとする人がいるけれど、それが許容されるかどうかは学校次第である。京大や美大は卒業式で仮装するのが伝統になっているので咎められることはないけれど、一般的には人生の節目の儀式的な意味合いが強いので制服や礼服で正装して厳粛な雰囲気で式を行って、TPOをわきまえていなくて場にそぐわない人は排除される。卒業式で編み込みの髪型を咎められた神戸の高校生はそれが正装でなく目立つために粋がったファッションとみなされたのだろう。良し悪しを判断するのは学校なので、学校がだめだと言うのなら卒業式に参加させないのも妥当だと思う。黒人のルーツの髪型だろうが先祖代々受け継がれた十二単だろうが父親の遺品の思い出がつまった長ランボンタンだろうがドレスコードに合わないものはだめで当然で、何か変わったことをやりたいのなら事前に主催者にドレスコードの確認をして承認されてからやるべきだろう。それにたいていは式典では外部の偉い客を招いてフォーマルに堅苦しくやって、二次会が内輪でカジュアルにはしゃぐ場所になっているので、目立ちたい人は内輪の二次会でおしゃれすればよい。ちなみに私の高校では卒業アルバムの写真は服装が自由だったのでコスプレして写真を撮ったりする人がいたけれど、それで自己顕示欲を満たしたのか卒業式の服装で問題を起こす人はいなかった。私の記憶を思い返してみると、入学式の記憶はあまりないのに卒業式はけっこう覚えている。たぶん入学式は緊張していてオリエンテーションとかのやることがいろいろあってのんびり振り返る機会がないのに対して、卒業式はクラスメートや恩師と会うのが最後だしその後にちょっと休みがあってのんびり振り返る余韻があるので思い出として残るのだろう。式典は自分ひとりだけのものではないので、派手な服装で目立とうとする幼稚で自分勝手な態度はやめるほうがよい。・反抗の是非おとなしくて問題を起こさない生徒が必ずしも良い生徒というわけではなくて、教師にとっては扱いやすいだろうけれど反骨精神がないのでは大成しなさそうである。校則が厳しくて躾を重視する学校があるのは別によいけれど、躾を重視する学校ではルールを疑問に思わずに長いものに巻かれようとしたり、あるいは疑問に思ってもわざわざルールを変えようとしない思考力や行動力が乏しい生徒が育つかもしれない。従順さと創造力は相反する特徴で、お前らがやってることはクソだぜという反抗心がないと、俺が新しい時代を作るぜという創造力は出てこない。新しい時代を生きようとする若者が古い権力に反抗すること自体は健全で、支配を離れて自立に向かう兆しである。しかし意義のある反抗でないと労力の無駄で、例えば不良が教師や交番を襲撃するのは何の生産性もない。自分がこの世界の独裁者になれるわけではないし、権力者が気に入らないからといって反抗ばかりしているのでは行きつく先は独房か精神病棟である。3年間おとなしく校則に従ってきたのに卒業式で派手な髪型にして校則にチャレンジして騒動を起こすのも反抗する意義がなくて賢い行動とは言えない。反抗するにしても生徒会や学級新聞とかで教師や他の生徒に自分の意見を主張して問題提起して議論するのが建設的である。例えばシャーペンやルーズリーフの使用禁止とかの非合理的な校則に反発して、校則だからと思考停止せずに校則を変えようとするのは他の生徒にとっても役に立つ建設的な反抗である。・私の意見私は服装や髪型がどうであれ清潔なら勉強に支障があるわけではないので自由でいいと思うし、校則の規定は学校に持ち込んでいけないもの程度で十分だと思う。クリエイティブ系の進路の人にとっては服や髪や化粧をいろいろ試して周囲のフィードバックをもらうのも将来のための準備だし、座って授業を受けるだけが学習ではないし、授業以外での学習の機会や個性を奪うのは良い教育とはいえない。校則を厳しくして無理やり反抗心を押さえつけても学校を卒業して枷が外れたとたんに反動で遊びまわってスーパーフリーみたいなろくでもない大学生になることもあるし、所詮は3年しかいない場所の規則で型にはめて人間の生来の性質や将来の可能性を縛るのは無理である。人間にとって本質的に必要なのは自律のための規律で、組織に従属させるための規則ではない。自律できない未熟な未成年に対して校則を適用するのはよいけれど、校則でがんじがらめにするのでなく、放任するのでもなく、やりたいことの邪魔をせずに方向性を示して合理的に学力や倫理観や社会性を伸ばして進学や就職とかの次のステージに導いてやるのが良い教育だと思う。
2023.04.03
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