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面白かった本や興味深い本を教えてほしいと言うリクエストがあったので、それについて書くことにした。●面白さとは何か作品やコンテンツの面白さとは何かという記事に詳細は書いたけれど、面白さとは刺激である。技術の良し悪しはある程度客観的に判断できるけれど、面白さとは主観的なものなので、私にとって面白かった本が他の人にとって面白いとは限らないし、私にとってつまらなかったからといって他の人にとってつまらないとは限らない。下手ななろう小説だって面白いと思う人がいるから商品として売られているし、たいていの本には誰かにとっての何かしらの面白さがある。それに読む順番や年齢によっても面白さの感じ方が変わってくる。例えば似たような内容の二冊の本があった場合は先に読んだほうが新しい刺激があって面白くて、後に読んだ本は既視感があってそのぶん刺激が少なくてつまらなく感じる。無知な若い頃に読んだ本と大人になって審美眼が身についてから読んだ本では感じ方が違ってくるもので、高校生の時に読んだ赤川次郎のミステリはそれなりに面白かったけれど、大人になって他の本格推理小説を読んだ後では推理が物足りなくてあまり面白く感じなくなる。それに私はある程度思想ができあがって小説の技術にも海原雄山なみに厳しくなって面白さにも耐性がついてしまって、感動するほどの本にはほとんど出会わなくなった。なのでこの記事ではあくまで私にとって面白かった本について書くけれど、それが必ずしも他人にお勧めというわけではない。●私にとって面白かった小説以外の本ソシュールの『一般言語学講義』とフッサールの『現象学の理念』は大学生のときに読んだけれど、受験勉強で暗記することに慣れて本に書かれたことを鵜呑みにすることで賢くなると思っていた田舎者の私が現象学的にエポケーしてそれまで学んだ知識をいったん脇に置いて自分で物事を考えて理解しようとするきっかけになったと言う点では私にとっては一番影響が大きくて面白かった本である。他の学部に行っていたらたぶん読まなかっただろうし、この2冊の本に出合っただけでも文学部に行ってよかったと思える。構造主義的に要素を分析する無神論実存主義の考え方が私の思考の基礎になっていて、倫理面では小乗仏教と孔子の『論語』に影響を受けているので、論語に影響を受けた渋沢栄一の『論語と算盤』や青空文庫にある和辻哲郎のエッセイも面白く感じる。和辻哲郎は「創作の心理について」で「ほんとうに生きようとしていないノンキな似而非芸術家が創作をやっている。それを「ほんとうに生き」たくない読者が喜んで読む。」「偉大な表現はただ偉大な内生あって初めて可能になるのである。何を創作したいという事よりも、まずいかに生きたいという欲望が起こらなくてはならない。」と言っているけれど、私も同じスタンスで、自分の人生を生きない限り独自の表現はあり得ないと思っている。本当に生きようとしている人が芸術を鑑賞すれば、技術が乏しくても何かの表現をしようとしている本物の芸術と、技術があっても表現をしようとしていない偽物の見分けがつくだろう。サリンジャーの真似をして感受性が高いティーンエージャーのおしゃれな小説を書けば評価されると考えてうわべの真似に終始して自分の人生を生きようとしていないような人が典型的な似而非芸術家と言えるし、そういう人はインフルエンサーに憧れる凡人みたいに他人の人生に憧れているだけじゃなかろうか。Tu vuo fa l'americanoのという1956年のイタリアのジャズの曲があってナポリ人のくせにママのカバンの金で野球やってキャメル吸ってアメリカ人ぶってやんのと第二次世界大戦後のイタリアのアメリカ化を揶揄しているけれど、戦後の日本のアメリカ化やK-POPを見て韓国人になりたがる現代の若者も似たようなもんで、中身が空っぽな人たちは自分の国で自分の時代を生きないで他の何かになりたがる。このブログで感想を書いた本の中ではジム・ドワイヤーの『9・11生死を分けた102分』や吉村昭の『関東大震災』が面白くて、実在の事件や事故を掘り下げると下手なフィクションよりも人の生死の迫力があるし、失敗から何かしらの教訓を得られるところがあって有意義である。『関東大震災』では関西での地震を警告する地震学者が取り上げられているけれど、関西では大きな地震は起きないという正常性バイアスがかかった俗説で安心せずにちゃんと地震を警戒して対策していたら阪神・淡路大震災の被害はもっと少なくできただろう。歴史を忘れたり歪曲したりして過去の失敗から教訓を得られなくなると悲劇は繰り返されるもので、だからこそ我々は歴史的事実と科学的真理には謙虚に向き合わなければならないし、見たいものだけ見ようとしてバイアスをかけて物事を見てはいけない。何が起きたのかという出来事のうわべだけ見ずに、なぜ起きたのか、どうすれば防げたのかという視点も持つべきで、災害の当事者でないからこそ冷静に物事を観察して分析するべきである。バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』は歴史上のへんてこな哲学者たちが面白かった。このブログに感想を書いていない本では、図鑑や事典は私が知らない知識を得られると言う点で面白い。暇だけど特に読みたい本がない場合は図鑑や事典をぱらぱら読むだけで暇つぶしになるし、庭に生えているイノコヅチやクロジクカリヤスやアジアンタムとかの草の名前を知るだけでも世界を知った気分になれる。あと歴史については知らないことだらけなので、歴史に関する本は何か1冊面白い本があるというよりはどれも少しずつ何かしら面白いところがある。山川出版社の日本史図録や世界史図録はたまに読み返したりする。こういう博物学や歴史の知識はすぐに役に立つ知識というわけでもないけれど、脳にちまちま新しい情報を入れておけば脳が活性化してアイデアが出やすくなる気がする。あと会社四季報でどういう会社がどういう仕事をしているのかを見るのも面白い。●私にとって面白かった小説最近はノーベル文学賞が迷走しているけれど、ノーベル文学賞を受賞した作家の小説にはけっこういい作品が多くて外国文学が好きな人は読んでも損はなくて、パール・バックの『大地』は3世代を書くスケールがよいし、ヘミングウェイの『老人と海』と『武器よさらば』と『誰がために鐘は鳴る』はハードボイルドがよいし、スタインベックの『怒りの葡萄』はアメリカの大恐慌の様子がわかってよいし、フォークナーの『響きと怒り』は白痴のベンジーの意識の流れとかの手法が独特で大江健三郎やトニ・モリソンに影響を与えた重要な作品だし、ラーゲルクヴィストの『巫女』は宗教的情熱を掘り下げていてよいし、カミュの『異邦人』と『ペスト』は不条理に反抗するカミュらしさがよいし、ゴールディングの『蠅の王』は『十五少年漂流記』を先に読んでから読むとパロディとして面白いし、ナギーブ・マフフーズの『渡り鳥と秋』はエジプト革命の官僚の苦悩がよいし、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』や『予告された殺人の記録』はマジックリアリズムがよいし、トニ・モリスンの『青い目が欲しい』や『ビラヴド』はアメリカで黒人であることの苦難が描かれていてよいし、ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』は目が見えなくなる病気が伝染するという特殊な状況が面白いし、カズオ・イシグロの『日の名残り』はイギリスらしいコテコテの執事っぽさが面白かった。技術的に上手かったりストーリーが面白かったりするだけでなくて、苦難に焦点を当てる人道主義的な作家の思想や人間観が出ているのがよい。他の外国文学はフローベールの『ボヴァリー夫人』はリアリズムがよいし、トルストイの『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』はポリフォニー的な人物の対話がよいし、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』は男女のすれ違いから始まる恋が面白いし、サッカレーの『虚栄の市』も男女4人の恋模様が面白いし、アフラ・ベインの『オルノーコ』は奴隷の物語が中世ならではでよいし、モーパッサンの『脂肪の塊』は脂肪の塊がかわいそうでよいし、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』はイギリス的な食事の貧しさがよいし、バーネットの『小公女』と『秘密の花園』は少女趣味的なのがよいし、ジャック・ロンドンの『野生の呼び声』は犬がかわいそうでよいし、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』と『不滅』は構成がよいし、イタロ・カルヴィーノの『木登り男爵』はへんてこで面白いし、タブッキの『インド夜想曲』は幻想的でよいし、ブッツァーティの『タタール人の砂漠』は戦争が起きそうでおきないという着眼点が面白かった。SFはあまり読んでいないけれど、ブラッドベリの『華氏451度』やH・G・ウェルズの『宇宙戦争』はSFらしさを楽しめた。他にも読みたい本はいろいろあるけれど、外国文学の翻訳は単行本が4000円くらいして高かったり絶版になっていたりして、文庫になっていない本は貧乏人にはなかなか買えない。日本の純文学は文学理論を理解していない下手な作家や思想がない作家が多くて外国文学に比べたらつまらなく感じる。戦争を経験した作家は生死に向き合っていて思想があるぶんましで、フランス文学を研究した大岡正平の『俘虜記』や『野火』は単に戦争をテーマにしたのでなくしっかりした文章で小説として仕上げていてよい。現代作家では辻原登は純文学だけでなく時代小説も書いて作風の幅が広くて、『許されざる者』は純文学の技法を駆使したエンタメとして面白かった。私は本格ミステリも好きで、我孫子武丸の『殺戮にいたる病』は叙述トリックのどんでん返しを楽しめたし、綾辻行人の『殺人鬼』は単にグロいスプラッターホラーではなくて叙述トリックを楽しめた。●私にとって面白かった漫画このブログでは漫画はレビューしていないけれど、本というくくりなのでせっかくなので漫画についても書くことにする。漫画がアニメやドラマや映画の原作にもなっていて日本のエンタメの中核といえるし、大手週刊誌に連載しているような漫画は漫画界のトップの作品ということもあってどれもエンタメとしては標準的な小説以上に面白いのだけれど、商業作品なので売り上げを優先して編集者が口出しして作者の思想が見えなかったり、締め切りに追われて絵が雑になったり、連載を引き伸ばしてプロットがぐだぐだになったりするので、小説の名作よりは物足りない。私はゆうきまさみの『機動警察パトレイバー』や『じゃじゃ馬グルーミン☆UP!』が気に入っていて、これらは親子関係や恋愛関係とかに悩みを抱える平凡な青年たちが周囲と衝突しつつも大人に見守られながら成長していく様子が良い。教養小説の漫画版みたいな良さと漫画ならではのどたばたしたコミカルな展開の娯楽としての面白さがあって、私はこういう平凡な人間が成長していく奮闘記が好きである。ロボットに乗ったからといって世界を救わないといけないわけではないし、ロボットを使って近所の事件を解決していくスライス・オブ・ライフでも面白い物語になる点はセカイ系のフィクションは見習うべきだろう。物語の主役は人間でロボットは主役を引き立てるガジェットに過ぎないけれど、それを勘違いしてかっこいいロボットに焦点を当てて人間をないがしろにすると子供だましのつまらない物語になる。『花の慶次 -雲のかなたに-』は巨根の大男が巨大な馬に乗って巨大な槍で戦う話だけれど、単に強い主人公が無双するご都合主義の話でなくて戦国時代の情を描いていて傾奇者の喧嘩の仕方に外連味があるのがよい。作画は『北斗の拳』と同じ原哲夫だけれど、『北斗の拳』よりも人間味があって好きである。『サンクチュアリ』は暴力団が政治を変えようとするハードボイルドな話で、池上遼一の作画のキリっとした感じがはまっているッ。『勇午』は交渉人が拷問されながらめげずに問題を解決しようとするハードボイルドな展開がよい。硬派な日本男児がいなくなって軟弱な男だらけになった現代でハードボイルド成分を補充したくなったときには命がけで目的を達成しようとする硬派な漢の漫画を読みたくなる。医療系フィクションは個人で創作する小説よりも出版社が取材をバックアップして監修がついている漫画のほうが出来がよい。『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』は脆弱な医療を何とかしようとする医師の奮闘を描いていてよい。我々はたいてい患者側として医療を受けるけれど、医師も人間なので診断を間違えて悩むこともあるということを理解するべきだし、自分以外の病気の人への共感や同情を持てるという点で医療系フィクションはよいものである。『ブラックジャック』や『スーパードクターK』は漫画らしく凄腕医師が活躍する話で、凄腕医師を中心にすると物語は作りやすくなるし娯楽としてはそれでよいけれど人間離れしすぎてそのぶんリアリティがなくなる。小説は物語を展開するのには向いていても具体的な映像を見せることはできないけれど、漫画だとそれができることが小説にはない面白さになる。美大を受験する漫画の『ブルーピリオド』は実在する作品を引用しながら芸術家を目指す青年たちの悩みを描いていてよい。
2023.07.31
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映画について意見を聞きたいというリクエストがあったので映画について考えることにした。ちなみに私は映画が好きなわけでもないし、一度も映画館で映画を見たことがなくてたいてい金曜ロードショーやインターネットで無料で見れる映画を暇つぶしに見てきた程度の素人なので、映画に詳しい人は私の意見を真に受けなくてよい。●映画の魅力映画は建築、絵画、彫刻、音楽、舞踏、文学に続く第7番目の新しい芸術として第7芸術と呼ばれることもあるように、芸術では比較的新しいジャンルである。私は戯曲はあまり読んでいないのだけれど文学部だったので映画も多少は勉強して、映画の最初期のリュミエール兄弟の映画やモノクロ映画のジョン・フォードの『周遊する蒸気船』や山中貞夫の『丹下左膳余話 百萬両の壺』やゴダールの『勝手にしやがれ』や戦後の邦画の小津安二郎の『東京物語』や石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』とかも見たのだけれど、昔の映画は新しい芸術で何を表現しようか、どんな映像を見せようかという試行錯誤とワクワク感に満ちていた。女優に気品とでもいうような独特の色気があって、例えば『ローマの休日』は王女がローマを観光するだけでシナリオ自体はたいしたものでもないけれどオードリーのかわいさだけで物語を成り立たせていて、そういう作品の作り方も初期の映画ならではでよいと思う。ジャッキー・チェンの初期の映画は体を張って高い所から落ちるスタントが見どころで、シナリオ自体は拳法の師匠がやられたから報復するとか警察が悪党を捕まえるとかのたいしたものではないけれど映画ならではの画面の躍動感があった。シュワルツェネッガー主演の映画もマッチョがわちゃわちゃするだけで賑やかな見せ場になった。『ゴジラ』や『エイリアン』や『ジョーズ』や『13日の金曜日』や『ドーン・オブ・ザ・デッド』は人を襲う怪物の恐怖を描いたという点ではワクワクするもので、シリーズ化したらマンネリになって面白くなくなったけれど初期作のアイデア自体はよいものだった。文革後の1980年代の中国映画は現代の映画ほどストーリーがエンタメ化していなくて、『黄色い大地』は中国の文化を表現していてよい。20世紀の映画は画質が荒くてセットが安っぽくて完成度は低くても、ここでないどこかの世界の今まで見たことがない新しいものや珍しいものやすごいものが見れるという期待があった。●映画の制約映画は総合芸術で何でもできそうな気がするけれど、実際はいろいろな制約がある。まずは時間的制約があって、映画はたいてい2時間程度で、それよりも長い大作もあるけれど長すぎるとずっと見ているのがしんどくなる。クラシック音楽やオペラも3時間を超える長いものはたいてい不評である。小説や漫画は延々と連載を続けることができるし、読者は好きなところで中断して好きな時に続きを読んだり前のエピソードを読み返したりできるけれど、映画や演劇はいったん場面を中断させるとそれまで積み上げてきた場面の緊張感が消えてしまって面白くなくなるので初めから終わりまで一気に鑑賞する必要がある。休憩せずに見れる長さとして90分から120分が妥当なところで、そうなるとシナリオも時間の制限を受けてちょうどいい物語の長さに収めるのが難しくなって、本来は尺がない物語を引き伸ばして中身がスカスカになったり、重厚な物語をむりやりまとめようとして展開にゆとりがなかったりする。さらには金銭的制約がある。舞台なら照明を暗転して背景の絵を描いた板をスライドするだけで簡単に場面転換ができるけれど、映画の場合はすべての場面のセットを用意しないといけない。学校や病院が舞台なら撮影専用のセットがあるけれど、実在の神社や駅とかを舞台にするときは撮影時にエキストラを配置したり一般人が映らないように排除したりする手間もかかる。大勢の役者やスタッフを長期間拘束するので人件費もかかる。映画はスポンサーがつくとはいえ撮影に取り掛かってから上映して売上を回収できるまでのキャッシュコンバージョンサイクルが長いので、そのぶん資金繰りも苦しくなる。映画会社の肝いりの膨大な予算をかけた映画でさえ大コケしたりするし、売れるかどうかわからない作品のためにあまり予算をかけるわけにもいかなくなって、俳優やシナリオやセットや演出がしょぼくなったりする。●日本映画はダメだと思う映画をほとんど見てないくせに批判するなという邦画ファンの意見があるのを知ったうえで批判するけれど、演技の良し悪しや撮影手法の良し悪しがわからない素人の私でもストーリーの良し悪しはわかるし、私が見た限りの作品で言えば最近の邦画はダメな映画が多いと思う。・予算がないハリウッド映画はセットやCGに予算をかけられるので派手なアクションや爆発やビルの倒壊とかの「これどうやって撮影しているんだろう」的な映画ならでは絵作りの面白さがある。トム・クルーズが『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』で1年間トレーニングして1万3千回バイクでジャンプして十分訓練してからバイクで崖から落ちるシーンを撮影したそうだけれど、邦画だと予算の都合で俳優のスケジュールを抑えられないので同じ事はできないだろう。日本ではろくにCGを作れない実写映画に代わって低予算でシナリオや絵作りの自由度が高いアニメが台頭して、宮崎駿や押井守や大友克洋とかは外国でも人気の監督になった。これが何を意味するかというと、日本人の映画監督の能力がないわけではなくて予算がなくてやりたいことが十分にやれていないのだろう。『名探偵コナン』の映画は毎回ヒットするけれど、『マトリックス』が『AKIRA』の演出をインスパイアしたように実写で同じことをやれといわれても予算の都合でビルを爆破したりできないだろうし、CGでやろうとしてもチープで違和感があるものになるだろう。子供向けの戦隊ヒーローものならチープな爆発でもいいけれど、大人向けの実写映画だと粗が目立つのは面白くない。・シナリオがだめなぜSF映画がつまらなくなるのか考えるという記事でも考えたけれど、シナリオにもっと手を加えたら面白くなるのに、なんでその程度のことさえやらないでわざわざつまらない作品を作ってリリースするのか疑問に思う。ハリウッド映画だと冒頭で客を引き付ける工夫をするけれど、邦画だと冒頭を見ても何の話をやりたいのかわからなくて、私は続きを見ても時間の無駄だなと思って途中で見るのをやめることが多い。しばしば小説家や漫画家は映画の原作にしてやるからありがたく思えという高圧的な態度で交渉されたとか原作の料金が少ないとか愚痴をいっているけれど、映画会社は独力で物語を作れないくせに原作者やシナリオライターを軽視して金を払わない姿勢はだめである。そのうえに原作をよく知らない監督がオリジナル展開をやろうとして原作の設定を無視して原作ファンにも嫌われたりして、何をしたいのかよくわからない。・地味で暗くて華がない邦画は暗い台所でぼそぼそ会話して食器をカチャカチャしていると揶揄されているけれど、そういう映画を見てもワクワクする楽しい気分にならない。ジャッキー・チェンの映画なら食卓と言えば喧嘩が勃発してテーブルに飛び乗って椅子を武器にしてわちゃわちゃ戦って賑やかだし、『羊たちの沈黙』では食卓はサイコパスが人肉をおいしそうに食べる場面が見どころになるし、ジブリ映画はいかにもおいしそうに料理を食べて登場人物はお腹がすいて食事をしてうんこもしてちゃんと生きている存在なのだと強調してそれが人物に精彩を与えている。何も起きないはずのところで何かが起きて予定調和を崩すギャップが面白いのに、退屈な食事の場面を退屈なまま描いたらだめである。『AWAKE』は将棋で挫折してプロをあきらめた青年が将棋ソフトを開発してライバルと対決する映画で、ストーリーは良いと思うけれど暗い部屋でパソコンをカタカタしていて画面が暗いし、俳優が地味で主人公とライバルが似た雰囲気なのでどっちがどっちなのかわかりにくくて、髪型や衣装とかでもうちょっと華やかな感じにできたんじゃないかと思う。漫画原作の映画『ヒメアノ~ル』はいじめられた森田剛が人を殺しまくる映画で救いがない。実際の殺人事件をモチーフにした『冷たい熱帯魚』も陰惨な展開で、実際の被害者を連想してしまうので娯楽としては面白くない。私はミステリが好きだけれど人が殺されるところを見たいわけではなくて謎解きが見たいのだし、心霊ホラーならお化け屋敷的感覚で人が死ぬ様子を楽しめるし、殺人でも復讐系の展開はその後に犯罪者がフルボッコにされてカタルシスがあるけれど、単に被害者がかわいそうなのはだめである。これは小説もそうで、カポーティーの『冷血』みたいに犯罪を忠実に描いただけで作者の思想や表現がないのは作品として面白くないし、人間の魅力を描かずに嫌なところだけ描いても気が滅入る。世界中の紛争や犯罪や疫病で大勢人が死んでいて現実世界に向き合うだけでも十分過酷なのに、なんでフィクションでも嫌な思いをしなきゃならんのさという気分になる。俳優にも華がない。ブルース・ウィリスやロバート・デニーロやアル・パチーノやスティーブン・セガールとかは主役感があって存在するだけで絵になるけれど、日本の俳優でそういう主役感がある人があまりいない。幼く見えるアイドルみたいな細身の優男ばかりでごついハードボイルド系やダンディ系がいないし、個性がある昭和の俳優が亡くなった後は代わりがいない。精悍な松田優作がなんじゃこりゃーと叫んだのに比べたら、童顔の藤原竜也がどうしてなんだよーと叫んだりほんわかした堺雅人が倍返しだと言うのは物足りない。・漫画原作に頼りすぎ漫画はデフォルメした絵だからこそリアリティがない物語でも受け入れやすいけれど、漫画原作のリアリティが乏しい展開を実写でやろうとすると違和感が出ていっそうリアリティがなくなって物語の世界に入り込めない。特にファンタジー系はいかにもコスプレしたチープな感じが出て私は見る気がしない。原作を知っていると原作と比べてしまってシナリオに不満が出るし、原作を知らないなら興味がないので見る気がしない。衣装が新品のままで体になじんでいなかったり、漫画的な派手な髪型をするためのかつらのせいでコスプレ感が出る原因になっているようで、舞台版の『テニスの王子様』みたいにファンを対象にしてやるならそういうコスプレでもいいけれど、一般人向けに映画を制作するようなものではないだろう。人気の漫画を映画化すれば漫画ファンが見るだろうしアイドルを起用すればアイドルのファンも見るだろうという判断で制作するのだろうけれど、それは別に映画でなくてもいいわけで、漫画で儲けたいならキャラクターグッズでも売る方が手っ取り早いし、アイドルを売りたいなら下手な演技をするよりも新曲でも作ればいい。監督は映画を作りたいから映画を作るという創作の原点に戻るべきで、金になるならなんでもいいというおざなりな態度で作られた映画が漫画を描きたくて描いた原作以上に面白くなることはない。漫画原作だとストーリーありきで展開するのでフィクションぽさが際立って人間の在り方の同時代性がなくなる。人間を描いた物語というより、物語を演じる人間を用意した感じになってそこに不自然さが出てしまうし、視聴者が同時代・同世代のスターに憧れるという感覚もなくなる。石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』は現代の若者が見てもあまり面白くないかもしれないけれど、戦後の同時代の若者像を描いたという点ではよい映画だと思うし、それゆえに石原裕次郎は当時の若者を代表する昭和のスターとなったのだろう。生身の役者が演じるところが漫画とは違う映画ならではの特徴なのだから、原作ありきで商業作品をつくるのでなく、まず監督が現代社会の人間の生き方に向き合うことからはじめるべきだろう。『デスノート』はリュークの造形が良くできていてそこそこ面白かったけれど、私は漫画の原作を先に読んでオチがわかっているのでわざわざ金を払って映画版を見ようと思わないし、無料なら暇つぶしに見るという程度でしかない。原作に頼らないでオリジナルの映画を作らないと映画ファンは増えないんじゃなかろうか。・同じことの繰り返し現代人はすでに映画がコモディディ化した世界に生まれていて、映画がここではないどこかの世界につれていってくれるという特別な期待がないし、その役割はゲームに移ってしまった。CGが発達して演出手法が増えたとはいえ、映画が登場してから100年も経つと面白い映画の展開や演出のパターンはだいたい出尽くして、映画のワクワク感がなくなって既視感がある作品ばかりになった。これは日本だけでなくてハリウッド映画も同様で、ヒット作の続編に頼りすぎていて新しい作品を作ろうとしていない。特にホラーはネタバレしていると面白くなくなるので、『リング』や『呪怨』は売れたからといってシリーズ化せずに新しいことに挑戦してほしかった。『名探偵コナン』と『クレヨンしんちゃん』はファンが飽きるまで映画を作り続けるつもりなんだろうけれど、私はもうキャラクターと展開のパターンに飽きたので興味ない。青春恋愛映画はキャストを変えて同じことを繰り返しているようなものでおっさんが見て面白いものではない。外国の青春映画だと『ウエスト・サイド・ストーリー』や『グリース』や『フットルース』や『サタデーナイトフィーバー』や『フラッシュダンス』や『あの頃ペニー・レインと』みたいにその時代ならではの音楽やダンスの文化とともに青春を描いているので同時代を生きた人が後で懐古的に見返したり、当時を知らない若い人が親世代の青春時代に興味を持って見る需要もあるけれど、日本の青春映画だと時代や文化を描かずに単に流行りの俳優やアイドルの恋愛ごっこを描くので俳優のファンしか見ないし、後で見返す需要もない。・左翼的展開のねじ込み別に左翼的だから悪いというのでなくて最初から左翼的なテーマを作品にするならよいけれど、それを映画でやる必要あるのかという左翼的なテーマを無理やりねじ込むのは気に入らない。例えば小説原作の映画『あん』はどら焼き屋の繁盛記かと思ったら途中でハンセン病患者の差別の話になって話がぶれて、差別がテーマなら別に舞台がどら焼き屋でなくてもアンパン屋でも饅頭屋でも羊羹屋でもなんでもいいやんけとしらけてしまった。アメリカ映画の『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』やフランス映画の『シェフ! ~三ツ星レストランの舞台裏へようこそ~』みたいに、最初に食べ物をテーマにしたなら食べ物の話題で一貫してまとめないと作品としてはだめである。ハリウッド映画界が左傾化してポリコレで人種やLGBTに過剰に配慮してキャストがぐちゃぐちゃになっているのに比べたらまだ邦画のほうがましとはいえ、物語を描くことよりも政治的主張を優先すると不自然さが出る。・単純に下手芥川賞を受賞した小説はしばしば映画化されることがあるけれど、そういうのはたいてい駄作になる。田中慎弥の『共喰い』が映画化されたけれど、誰が誰に対していつの時点でいつの出来事をなぜ語るのかという語りの構図を突き詰めないまま冒頭で主人公が延々と一人語りしていて、これは技術的にダメだと思って冒頭だけ見て続きを見る気をなくして最後まで見ていない。小説の朗読を聞きたいんじゃないのだから、ナレーションに頼らずに何が起きているのかを映像で説明しないと映画になっていない。映画監督が文学理論を理解していないのではどんな小説を原作にしても映画に落とし込めなくて下手な映画もどきにしかならないだろう。西村賢太の『苦役列車』もヒロインに前田敦子を起用して映画化されたけれど、西村は「中途半端に陳腐な青春ムービー」だと批判していた。若い頃の苦労を青春というステレオタイプで美化されるのが気に入らなかったのかもしれないし、主人公の苦役を掘り下げずに前田敦子の青春映画に仕上げるなら『苦役列車』が原作である必然性もなくなるので、映画単体として見たらそれほど悪くない出来でも原作ありきの映画として見た場合は勘所をはずしている。映画の『デビルマン』は主役の演技が下手すぎてかえって有名になったけれど、客から見ても粗が目立つものを監督がOKしてリリースしてしまうのは商品としてだめで、名演技でなくてもいいからせめて可もなく不可もなくというレベルまで仕上げてほしい。・時代遅れ20世紀に映画が人気になったのは当時映画が新しい芸術というだけでなくて他に娯楽があまりなくて競合が少なかったおかげでもある。競合が少ないので儲かって良いクリエイターも集まるようになってスターも大勢生まれて昭和が日本映画の黄金期となった。東大卒の高畑勲や学習院大学卒の宮崎駿が東映動画に入社したのとかが典型的で、俳優だけでなく裏方も教養ある人材が豊富だからこそ切磋琢磨する環境があってこの監督たちはのちにアニメで頭角を現した。動画が一般的でなかった時代はカメラやフィルムが高額で個人では買えなかったのでテレビや映画の映像は貴重なコンテンツだったものの、現代は個人が高性能のスマホで解像度が高い動画を撮ったりドローンで空撮したりしていて外国の珍しい風景もインターネットで見れるし、娯楽はいろいろあってクリエイターが漫画やゲームやYouTubeに分散しているし、客も時間の奪い合いになっていて若者はTikTokとかのショート動画に移行して2時間映画を見る行為がだるくなっていてファスト映画の違法ダイジェスト版が作られたりして映画というフォーマット自体が時代に合わなくなりつつある。私は映画ファンでもなくて映画館に行く気がないのでネットで見れないなら別に見なくていいやと思う。あと昔の映画はちょっとぼやけた感じでそれが独特の雰囲気を出していたものの、カメラが高性能になって衣装やセットがはっきり見えるようになって粗さがしをしているつもりがなくても粗が見えてしまうのもしらける要因になって、特に時代劇だと違和感が出てしまう。・ファンや信者に頼るしばしばアニメ映画は劇場ごとに違うノベルティを配って熱心なファンに何度も映画を見させてグッズをコンプリートさせようとするけれど、これはもう映画自体の面白さで勝負していなくて物で釣っている。『映画 えんとつの町のプぺル』みたいに信者力を競わせて何度も見させて売上ブーストするのもよくなくて、それをやったら幸福の科学と同類で芸術作品として映画を作ったというより信者を対象にした集金装置として映画を作っていることになる。●日本映画の復活の可能性・低予算で面白いシナリオを作るCGを作る金がないのは仕方がないとはいえ低予算でもシナリオ次第では面白い映画が作れる。例えば製作費60万ドルの『エグザム』は変な入社試験を受けるだけの展開でひとつの部屋と登場人物のやり取りだけで緊張感を出していたし、制作費12万ドルの『オープンウォーター』はダイバーが海に取り残されるだけの展開で海の怖さを演出していたし、製作費35万ドルの『CUBE』はキューブが連結した変な建物から抜け出そうとするだけの展開で1つのセットを使いまわして部屋がいくつもあるように見せていた。邦画で低予算で面白くする工夫ができないのはシナリオがだめなのだと思うし、そもそも漫画原作だらけで映画専門の著名なシナリオライターがいない。予算の都合でシナリオに金をだせないなら著作権が切れた名作を翻案したりリメイクしたりするのが現実的な解決策になりうる。宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が今上映されているように、映画監督が若い頃に読んで感銘を受けた小説とかを映画化すればいいんじゃなかろうか。あるいは歴史上の人物の伝奇物ならその生涯が大まかなシナリオとして出来上がっているので、シナリオライターの腕に関わらずそれなりに面白い話になるだろう。例えば安井算哲の生涯を描いた小説が原作の映画『天地明察』はそこそこ面白かった。あとミステリならテレビドラマ程度の予算でそこそこ面白い話を作れると思う。金田一耕助シリーズや『金田一少年の事件簿』シリーズや『名探偵コナン』や『TRICK』が人気になったり、『刑事コロンボ』が金曜ロードショーの常連だったように、ミステリファンが大勢いるのだから推理小説を原作にした映画を作れば低予算で人気になるかもしれない。私はドラマの『名探偵ポワロ』シリーズのポワロのぽっちゃりした感じがドラえもん的で好きである。・クロスオーバーする映画会社は交渉力が強いのだから、単に漫画原作で映画化するのでなくて「名探偵コナン」対「ルパン三世」や「エイリアン」対「プレデター」みたいなクロスオーバーをやればいい。「釣りバカ日誌」対「ジョーズ」で海外出張した浜ちゃんが人食いサメを釣って退治するとか、「今日から俺は!!」対「東京卍リベンジャーズ」で共闘するとか、「弱虫ペダル」対「頭文字D」で御堂筋くんとイツキが峠の下りでキモイ対決するとか、その程度のくだらない内容でも原作ファンは原作を改変されたと怒らずに原作にはない展開を楽しめると思う。・良い俳優を見つける予算がなくてシナリオもだめなら俳優の魅力に頼れば良い作品になるかもしれない。昔の映画はダンディな俳優や気品ある女優がいて、俳優への憧れが映画の魅力になっていたと思う。ハリウッドだと配役を専門にして監督の注文にぴったりの役者を見つけてくる会社があるそうで、日本もそういう会社を作ればよいし、知名度がある芸能人を話題作りに起用するのでなく作品をよくするためのキャストを起用するべきである。子役も話題性があって、『おしん』で小林綾子が有名になったり、『家なき子』で安達祐実が有名になったり、『ホームアローン』でマコーレー・カルキンが有名になったり、『ハリー・ポッター』でダニエル・ラドクリフやエマ・ワトソンが有名になったりしたように、子役の魅力は大人を魅了する可能性があるので子役発掘に力を入れれば映画に関心を持つ人が増えるかもしれないし、無名の役者を発掘すればギャラが安くて済む。私は『ルート225』のお姉ちゃんに文句を言う弟がかわいくてよいと思ったのだけれど、こういうふうに子役を活かして家族の情を描けるのは外国映画にはない日本映画の良さだと思う。最近はNETFLIXの『サンクチュアリ -聖域-』という相撲ドラマが話題だけれど、主演の一ノ瀬ワタルは元キックボクサーだそうで、こういうごつい人がやんちゃしていると外連味があってよいので、アスリートのセカンドキャリアとして俳優になる人を増やせばよいと思う。ハリウッド俳優が落ち目になって映画のオファーがなくなると日本のCMに出て小遣い稼ぎしてビッグインジャパンと揶揄されたりするけれど、落ち目でギャラが安くなったハリウッド俳優や監督を日本映画で起用するのもいいと思う。・視聴者層を広げる『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』は明るくて青春部活映画としてはよくできていると思うけれど、私のようなおっさんには刺さらない。学園物は学校を借りて舞台に使えてセットを自作する必要がなくて低予算で映画を作りやすいのだろうけれど、少子化が進行していく中で若者をターゲットにして学園物をやってもジリ貧だろうし、日本の学校の出来事というローカルなテーマだと外国の視聴者はなおさら関心を持たないだろう。それにどんな学生時代を過ごしたかよりもどんな大人になってどう生きるかのほうが重要だし、テレビドラマは放送がだいたい夜ということもあって大人向けのテーマが多いように、映画も大人向けを基本にするほうがよい。ホラーが盛んなタイのホラー映画やホラーゲームは日本でも評価がいいように、国や年齢を問わずに楽しめる作品を作るほうが世界での売り上げが増えると思う。・短編映画にシフトする映画の劇場での公開にこだわらずに若者向けに短編映画をネット配信したりするのもよいかもしれない。90-120分の映画でハリウッドと勝負できないなら10-20分の短編映画にすべての技術をつぎ込んで世界最高レベルで作って各国語に翻訳してPPVで100円で世界中で売るという方向性でもいいと思う。尺が変われば他の映画監督がやっていない工夫をする余地が出てくるし、長さの関係で原作に採用されなかった短編小説や読み切りの漫画を原作に使えばネタが増えるし、制作期間を短くしてキャッシュコンバージョンサイクルが短くなれば資金繰りもしやすくなってリスクを負っていろいろ新しいことに挑戦できるようになるだろう。例えばSadeのSmooth OperatorのPVは自分と付き合っていた男がヤバイ取引をしていて他の女と付き合っていたという短編映画のような展開で大人っぽい色気があって私はこういうのが好きだけれど、こういうふうに数個の場面だけで人間の一面を描くというのでもそれなりに面白いと思うし、アイドルを俳優として起用するなら新曲のPVに物語性を持たせて短編映画仕様にしてもよいと思う。『デッド寿司』みたいなネタ映画は途中で飽きるので90分見るのはきついけれど、10分に内容を凝縮させたらもっと面白くなったかもしれないし、日本が変な映画を作っているぞと外国でバズる可能性もあったかもしれない。そんで短編映画でいろいろ試して人気だったものを長編映画に作り直したり、短編映画集として映画館で上映すればよいと思う。藤本タツキの読み切り漫画の『ルックバック』が話題になったけれど、こういうのは短編映画の原作に向いていると思う。ポカリスエットのCMの「でも君が見えた」篇のぐにゃぐにゃした床とかはどうやって撮影しているんだろうというワクワク感があってそのへんの映画以上に映像の面白さを感じられたけれど、こういう雰囲気の演出だけで終わらせずにストーリーをつけて短編映画にすればよいと思う。●私の気に入った映画私は映画は娯楽として暇つぶしになればいいやと思っているのでDVDを買って何度も見返したくなるほどの好きな映画は特にないけれど、実写の邦画だと1964年の『砂の女』や1984年の『麻雀放浪記』は原作が好きなので映画版もよいと思う。これらは小説が原作ということもあって登場人物の設定や話の構成がしっかりしていて、映画の中の登場人物にリアリティを感じるがゆえに面白く思える。『麻雀放浪記』に麻雀仲間の死体を気軽に捨てるシーンがあったような記憶があるけれど、人の死が軽い戦後の死生観を描けているのはよい。その一方でABEMAで『人狼ゲーム』という映画が無料で見れるけれど、こういうのは人が死んだり叫んだりしても物語が面白くなるわけではないというダメな映画の例と言える。これは映画も小説も同じでただ人が死ねばいいというものではなくて、どこかの時代のどこかの場所を生きた登場人物自体にリアリティがないとその生死もどうでもいいものになってしまってしらけてしまう。黒澤明や伊丹十三や山田洋二とかの映画はよくできていると思うけれど、私の面白さの感覚に引っかからなくて別に好きでもない。外国映画だと『トレマーズ』の人間と未知の怪物の知恵比べみたいな展開が好きで、登場人物たちが特殊能力を持ったヒーローというわけでもなくて田舎者のおっさんたちが協力して知恵と勇気で急場をしのいでいくやり方がよい。同様に初期の『エイリアン』もただの作業員にすぎないリプリーの奮闘ぶりがよかった。逆にマーベル系の主人公が特殊能力を持っていることが前提の展開はCGはすごいと思うけれど物語自体はヒーローがヴィランを倒すだけで面白くないし、人間離れしたヒーローの苦悩にも共感できないのでマーベル的世界がヴィランに滅ぼされようがどうでもいいやと思ってしまう。パニック映画の『ポセイドン・アドベンチャー』は船が転覆するところに画面作りの面白さがあるし、登場人物がキャラ立ちしていて役割分担ができていた点が良くて有名な俳優がいなくてもシナリオがよければ映画は面白くなる例といえる。世界滅亡系の映画はいろいろあってスケールが大きくてどれもそれなりに面白いけれど、世界が救われる展開よりもネヴィル・シュートの小説『渚にて』が映画化された『エンド・オブ・ザ・ワールド』みたいなどう死に向き合うかという展開が好きで、世界がどうなろうが結局は個人を描いてこその映画である。『君の名は。』みたいに破滅を避けてハッピーエンドになるのはエンタメとしてはいいけれど死に向き合わない幼稚な展開で、大人向けの物語は避けられない死にどう向き合ってどう生きてどう死ぬかを描くほうがよい。個人の成功と破滅を描いた映画では『シティ・オブ・ゴッド』や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』や『パーティ★モンスター』がそこそこ面白くて、『パーティ★モンスター』はマコーレー・カルキンの病んだ感じとぴったりの役である。『孤島の王』みたいな反骨的なやさぐれた少年の生き方も好きである。アクション映画だとブラジル警察と麻薬組織との対決を描いた『エリート・スクワッド』やアル・カポネの逮捕を描いた『アンタッチャブル』が外国ならではの汚職具合のリアリティがあってよい。歴史ものでは1959年の『ベン・ハー』のガレー船での戦いや戦車競走のシーンも古い映画と思えないほど迫力があってよいし、こういう作品を代表する名シーンがある映画は印象に残っている。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はデロリアンやホバーボードとかのガジェットが面白い。関連記事:アンリ・アジェル『映画の美学』
2023.07.24
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最近はコロンビアの音楽グループのSystema Solarの曲が夏にちょうどいい感じで気に入っているのだけれど、そういえばシステムとはなんじゃろうと思ったのでシステムについて考えることにした。●システムとは何かシステムとは相互に影響する複数の複雑な要素からひとつの統一体を構成している組織のことである。例えばコンピューターはハードウェアやソフトウェアや周辺機器とかの複数の違う役割のものを組み合わせて動くシステムになっている。システムエンジニアはクライアントの様々な業務をこなすシステム用のソフトウェアの開発をしている。サウンドシステムは音源にミキサーやアンプやスピーカーとかの様々な機器をつなげてちょうどいい具合の音響を作っている。●思考のシステム心理学の二重過程理論だと、思考には無意識に自動的に直感的に素早く思考をする「システム1」と意識的に論理的にゆっくり思考する「システム2」があると言われている。システム1は感情に結びついていてバイアスがあるのでしばしば間違うけれど、巷の出来事の様々な誤解はシステム1による思考が原因になっているのではないかと思う。例えば日本は1000兆円の国債(地方債を合わせると1200兆円)を発行しているけれど、システム1の思考をする人は膨大な借金で大変だ、借金を返すために増税しないといけないと直感的に考える。しかしシステム2で論理的に考えれば、外貨建てでなくて自国通貨建て国債なうえに通貨発行権があるのでデフォルトすることはないし、1000兆円を税金で徴収して国債を償還したら政府の負債がなくなる代わりに1000兆円分の国民の資産が消えるし、不景気でデフレになっている時に増税してまで国債を償還する必要がないと理解できるはずである。インボイス制度でもシステム1で考えている人は消費税を預かり金と考えて消費者から預かった税金を払わないのは脱税だの猫ババだのと言ってインボイス制度に賛成しているけれど、システム2で論理的に考えれば消費税は預り金でないと地裁で判決が出ているのだからそもそも税を預かっていないので猫ババに当たらないし、免税されている売上1000万円未満の零細事業者や零細事業者と取引している企業に増税する産業抑制策だと理解できるはずである。マイナンバーカードで7312件の入力ミスがあったことで、システム1で考える人はミスがあるから危ないということで導入に反対したりカードを返納したりしている人がいるけれど、衆議院議員の甘利明によると保険証で受診する年間総受付数は約20億件で受診の都度に手入力していて年間500万件の氏名ミスとかの誤入力が発生しているというのだから、システム2で論理的に考えたら毎年500万件の誤入力が出るのに比べたら初回だけ7312件の誤入力が出たマイナンバーカードのほうがミスを少なくできるのは明白である。ヒトラーの大衆扇動術だと「大衆は愚か者である」「敵の悪を拡大して伝え大衆を怒らせろ」「大衆を熱狂させたまま置け。考える間を与えるな」「利口な人の理性ではなく、愚か者の感情に訴えろ」というのがあるけれど、これはシステム1を利用した戦略だといえる。ヒトラーだけでなくて中国や韓国が同様の手法を取って歴史的事実を教えるよりも感情を煽る反日教育しているし、日本の左翼マスコミも同様の手法を取っていて論理でなく感情に訴えて自虐史観で大衆を扇動している。システム1でしか物事を考えられない人は愚か者である。愚か者でないはずの人が愚かな発言をしているならヒトラーと同様に扇動のために意図的にやっていると思われる。例えばデービッド・アトキンソンは儲からない零細企業は政府が保護せずに潰れたほうがいいという新自由主義思想なので、インボイス制度が預り金でないと理解したうえでインボイス制度に反対する人を「脱税をしたい人の集まり」とレッテル貼りをして愚かな大衆の感情を煽りたいのだろうし、経営者なのでさすがに免税と脱税の違いがわからないレベルの馬鹿というわけではないだろう。システム2で物事を考えないと、複雑な社会の構造は読み解けなくなる。ではシステム2で論理的に考えるにはどうすればいいかというと、文章にして思考を整理するとよいと思う。たいていの学問はスピーチやプレゼンでなくて論文を基準にしているように、論拠を提示して論理的に自説を展開すればどこが正しくてどこの論拠が間違っているのか検証可能になる。文章と言ってもTwitterや掲示板のような短文がベースだと論拠を提示するほどの文章量がなくて不完全な切り取りや藁人形論法になりがちでシステム2による論理的思考にはなりにくいので、大学のレポートと同様に原稿用紙10枚分程度の文章量はほしいところである。●社会のシステム生物学では動植物が捕食したり依存したりする生態系のことをエコシステムという。透き通ったきれいな海はシステム1で直感的に見るとインスタ映えする素敵な海に見えても実際は生態系がなくて物質としての海水があるだけの貧しい海で、濁った海はプランクトンがいて海藻が生えて魚がいて多様な生物の生態系がある豊かな海である。ビジネスだと製品が連携して大きなシステムを形成することをエコシステムといって、たとえばGoogleやAppleのプラットフォームができるとそこにアプリ屋がわんさか群がって切磋琢磨して勝手にアプリが改善されてIoTとも連携してスマホの使い勝手がよくなってどんどん商圏が広がっていく。一方でMicrosoftはスマホでは他社を巻き込んだエコシステムを形成できなくて、Windows phoneはスペック自体は他社と比べて劣るものではなかったもののアプリが少なくて電話やメールやブラウジングくらいにしか使えなくてPC版のWindowsとも互換性がなくてどうしてもWindows phoneでなければならないという特徴もなかったのでシェアをとれなくて撤退した。企業はしばしば欲張って技術や規格を独占しようとするけれど、安藤百福が「日清食品が特許を独占して野中の一本杉として栄えるよりも、大きな森となって発展した方がいい」と言って即席ラーメンの製法を公開してメーカー各社に使用許諾を与えたら即席ラーメンが国民食といえるほど人気になったように、ファーストパーティーだけで事業をやるよりもサードパーティーにエコシステムを広げていって業界全体での認知度やシェアや製品の多様性を拡大するほうが最終的には儲かる。人間も一人で生きようとしてもたいしたことができないので、大勢が分業してそれぞれ得意なことをやることで作業効率がよくなって文明が発展していって、統治のための法律や宗教とかのシステムができた。イスラム教の国に発展途上国が多いように宗教的システムで厳格に管理して皆が同じ価値観を持って同じことをやる同質的な社会は変化がなくてあまり発展しないので、近年はダイバーシティ&インクルージョンが大事だと言われるようになった。女性や身体障碍者や高齢者や移民の社会進出だけでなく、アスペルガー障害の人が細かい違いに気づきやすくてプログラミングに向いているように発達障害や精神障害などのニューロダイバーシティも社会のシステムに組み込む必要がある。無職や引きこもりやホームレスや定年退職した高齢者のように社会から疎外される人が少なくなって社会参加する人が増えるほど治安もよくなるし福祉費用も少なくて済む。アメリカみたいに役立たずがホームレスになって野垂れ死ぬのは自己責任だという新自由主義の社会は治安が悪くて、2022年は小売店の万引きで14兆円の被害があってモラルが崩壊して大勢が不幸になっているけれど、犯罪が福祉代わりになるくらいなら最初から福祉を充実させて落ちこぼれを切り捨てずにみんなで頑張ろうというソーシャル・インクルージョンのシステムの方が不幸になる人が出なくてよいだろう。●物質のシステム地上の物体は原子からできているので、分子の構成やら運動やらのシステムが化学式や数式で科学的に説明できる。科学文明を維持するうえで科学的に真であることは必須なのだけれど、しばしば人間は真理に基づかずに欲や感情に基づいて判断するがゆえに間違うし、間違った人は相応の報いをうける。物理学を理解していない子供はスーパーヒーローが飛んでいるのを見て自分も空を飛べると思って高い所から飛び降りて骨折する。NASAの幹部はチャレンジャー号のゴム製Oリングが低温で弾性に影響が出ることを指摘されても無視して安全性よりもスケジュールを優先して爆発事故を起こした。ヴィーガンは動物がかわいそうだという感情を優先して人間には動物性のタンパク質が必要だという栄養学的な身体のシステムを無視して体調を崩したり早死にしたりしている。スティーブ・ジョブズのようにがん治療で西洋医学を拒んで非科学的な民間療法に頼る人はそのままがんが進行して亡くなっている。人間の行為の様々な失敗はこのような物質のシステムへの無理解が原因となっている。システム1で直感的に天動説が正しいように見えてもシステム2で論理的に考えないと地動説が正しいと理解できないように、科学的真理を理解するにはシステム2で時間をかけて考えることが必要になる。高等教育をしているはずの先進国でさえ非科学的な陰謀論やスピリチュアルが蔓延しているのは科学文明が壊れかけている兆候かもしれない。Googleが科学的根拠がないスピリチュアル系を検索結果から締め出したせいなのかココナラというスキルを売買できるサイトがスピリチュアル系の巣窟になっていて、レイキヒーリングや波動とかのカウンセリングが数千円から数万円で売られている。サイトは手数料で儲かるし、スキルを売る人も元手なしで儲かるし、客も満足して金を払っていて三方良しなのだろうけれど、感情を満足させることはできても病気が治るわけでもないし、科学的に真実でないことをやっても社会の発展にはつながらない。「波動の塩」という塩が普通の塩の10倍くらいの値段で売られているし、鉱石も運気が上がるパワーストーンと称して高額で売られているし、スピリチュアル系のビジネスは儲かるのだろうけれど、科学的教育を受けた文明人はそういう儲け方をしてはいけない。●芸術のシステム芸術は直感でぐわーっと創作するものに思われがちだけれど、商品づくりと同様に緻密な構成がないと完成度が高い芸術作品にはならないので、画家は色や光や形やシンボルのシステム、音楽家は音や楽器や音響のシステム、小説家は言葉や物語のシステムを理解する必要があるし、さらには鑑賞する人の認知のシステムも理解する必要がある。言語化されたシステムは理論と呼ばれていて、色彩学や図像学や音楽のコードや旋律とかの体系化された理論がある。プロとして活動するには同じクオリティの作品をいくつも作って生計を立てる必要があるので偶然いい作品がひとつできるだけではだめで、創作に再現性を持たせなければならないし、再現性を持たせるためには理論や技術を組み合わせて独自のシステムを確立する必要がある。芸術の才能は無数の要素の組み合わせの中から独自のシステムを組める能力ともいえる。しばしばいきなり創作してうまくいかなくて才能がないと判断して創作をやめる人がいるけれど、それは創作へのアプローチが間違っている。DIYで設計図がないまま材料が不揃いでメジャーでサイズを測らずに行き当たりばったりで作っても失敗して当然なように、創作でも完成像から逆算してどう創作すれば完成に行きつくのかというプランが必須で、作品を構成する要素のシステムを知らないと具体的なプランを組めない。どの理論に基づいてどういう技術を使えばこういう出来栄えになるというプランができればあとは実行するだけになるし、技術力を上げるほど完成度が高くなる。本を買ったり動画を見たりすれば理論は学べるのだから、ちゃんと理論を学んでから創作するほうがよい。そういえば私は文学理論の動画をYouTubeに投稿しているので、小説を創作する人は見ると良いですよ。ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ文庫NF ハヤカワ・ノンフィクション文庫) [ ダニエル・カーネマン ]価格:1,056円(税込、送料無料) (2023/7/20時点)楽天で購入
2023.07.19
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最近は某女優と某シェフが不倫してろうそくが炎上したりして話題になっている。ということで徒然なるままに不倫について考えることにした。●不倫とは何か不倫とは既婚者が配偶者以外と肉体関係をもつことで、法的には不貞行為という。異性とのデートやキスやハグ程度では法的には不貞行為と認められないので、不倫でなくて浮気と呼ばれる。既婚者が風俗に行く場合でも肉体関係があれば不貞行為として離婚の原因になりうる。独身同士がパートナー以外と肉体関係を持っても婚約していないなら不貞行為には当たらないので不倫でなくて浮気と呼ばれる。ゲイとレスビアンは今の法律では結婚できないので、パートナー以外と肉体関係を持っても不倫でなくて浮気扱いだろう。人間の倫理といえるものは不貞行為以外にもいろいろあるけれど、なぜ不貞行為だけが倫理を代表して不倫と呼ばれているのかといえば、古来から男女が家族になることが社会をつくる基礎になっているからかもしれない。ただでさえ人間は恋愛で相手の気を引こうとしたり恋のライバルを排除しようとしたりして情熱的になるのに、ましてや裏切られたとなれば憎しみも相当で、痴情のもつれはしばしば殺人事件にも発展する。やってはいけないこととして法律や戒律で禁止してしまえばトラブルを未然に防げるわけである。一夫一婦制の結婚の制度がない頃は不倫という概念もなかったのかというとそうではなくて、Wikipediaの「姦通」の記事を見てみると一夫多妻の平安時代は未婚の女性のところに通うのはよくても他人の妻を奪うのは批判されて、鎌倉時代には武家法で不倫密懐が処罰されたそうな。キリスト教では旧約聖書に「なんじ姦淫するべからず」とあるので不倫を禁じるのはわかるけれど、性についておおらかな日本でも既婚女性に手を出すのは人の道に反することとみなされたようである。家父長制では長男に家を継がせていたので、既婚女性が不倫すると血がつながっていない子供が長男になる可能性があってお家騒動になってしまうのでだめなのかもしれない。現代でも子供が父親に似ていない場合は母親の不倫を疑われるけれど、DNA鑑定がなかった時代は不倫していなくても証明しようがないのでなおさら不倫には厳しかったのだろう。●なぜ不倫するのか・遊びたい若い夫婦だと一緒に過ごした時間が短いので愛情もそれほど深くないし、子供がいなければ家庭を守る意識も乏しくて独身気分が抜けていないし、美男美女や金持ちとかの相手を選べて遊び慣れている立場の人ほど不倫へのハードルも低い。単身赴任している夫が夜遊びして独身だと偽って交際相手をだまして不倫する場合もあるし、夫が単身赴任でいない間に寂しくなった妻が夜遊びして浮気をしている場合もある。多目的トイレで不倫していた某芸人はたぶん風俗嬢代わりのヤリ捨てできる都合がいい相手で性欲処理をしたいだけで恋愛感情もなかったのだろうし、恋愛感情を持って不倫した人よりもかえって好感度を下げることになった。・隣の芝生は青く見える何度も結婚や離婚を繰り返している人はあまりいないので、初めて結婚した配偶者が最高の相手だという確信はないだろうし、結婚後に他の人が配偶者よりも魅力的に見えることもある。マリッジブルーで不安になった奥さんが元カレのほうがいいんじゃないかと目移りすることもある。男性と女性は性欲がピークになる年齢が違うので、歳をとってそろそろ落ち着こうとして性欲が衰えてきたおっさんが女ざかりの女性と結婚すると夜の営みに不満が出たりするし、そんなときに妻が異性の友人に愚痴をこぼしてほだされて浮気をしたりする。・不仲でも離婚できない恋人として付き合っているときは最高のパートナーだと思って生涯寄り添うつもりで結婚しても、人間は大人になってからも成長するし、成長の方向性が同じとは限らない。片方は仕事で飛躍したがって、片方は家庭を充実させたがったりして、結婚から時間が経つほど価値観のずれが大きくなっていく。パートナーに不満があっても子供がいると子供のことを考えてなかなか離婚しにくいけれど、それでも人間である以上は性欲もあるし恋をすることもあるので離婚するまで待てなくて不倫したりする。共働きの収入を前提にした自宅のローンがある場合は離婚するとローンが払えなくなるので、仮面夫婦を続ける一方で不満を他のパートナーで埋めようとして不倫する。経営者や政治家は政略結婚していて離婚できないので愛人を秘書にして不倫する。芸能人だとおしどり夫婦キャラや家庭的な主婦キャラで仕事をしたりするので仕事や好感度を気にして離婚できなくて不倫する。不倫でない普通の恋愛でも脳がホルモンの影響でバカになって変なことをやりがちになるけれど、不倫だと離婚したいのにできないという不満のブーストがかかることでいっそう燃え上がって大恋愛になって、こっそり黙って不倫していればばれないのに真実の愛をSNSで仄めかしたり増長して堂々とデートしたりして証拠を残して醜聞に発展する。・弱者の生存戦略金持ちの遺産相続目当てで不倫して子供を認知させようとする女性とか、正妻になれないと知りつつも既婚の経営者や芸能人と不倫して手切れ金をもらおうとしたり週刊誌にネタを売ろうとしたりする女性とか、交際目的というより金目当てで不倫する人もいる。不細工な金持ちと結婚した女性が夫をATM扱いして、本命のイケメンの子供を妊娠して托卵することもある。●不倫の報道のあり方不倫は道徳で言えば悪い事には違いないけれど、刑事事件ではなくて当事者が民事訴訟で決着をつける程度の話だし、マスコミが芸能人の不倫を大々的に報道するほどの情報価値やプライバシーを侵害する大義名分はないと思う。誰でも家族に対する態度と他人に対する態度は違うし、不倫した人たちが家庭でどう過ごしていたかは第三者には知りようがないし、いい人ぶっているけど実はクズなんだと知ったところでその情報が社会の役に立つわけでもない。せいぜい週刊誌が儲けて不倫した芸能人を起用したCMのスポンサーがCM差し替えで損する程度で、大勢の庶民には関係ない。それに私信であるラブレターや交換日記やLINEのやりとりを本人の許可なくテレビやネットで公開・拡散するのはプライバシーの侵害で、不倫を報道する側が倫理に反しているなら不倫した芸能人を批判する資格はないだろう。●不倫とフィクション我々は誰でも恋をしたことがあるだろうし、他人の色恋沙汰を邪推してああだこうだ言うのは野暮である。しかし他人事だからこそ不倫バレの修羅場が面白く思える。そんなときこそフィクションの出番である。ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』やフローベールの『ボヴァリー夫人』やトルストイの『アンナ・カレーニナ』のように、不倫をテーマにした小説が古典として残っている。19世紀は宗教の影響が強くて貞操観念が厳しくて離婚もしにくかったので、それゆえに禁忌の不貞の物語が話題になったのだろう。たいてい男性作家が女性を主人公にして書いた話で、不倫する女性は不幸になって不倫する男性は咎められないという展開ではフェミニストから見たら不満があるかもしれない。しかし男性は精子をばらまくことが本能なので浮気したところでたいして罪悪感を持たなくて感情的な見どころがあまりないので、浮気をする女性を主人公にして心理を掘り下げるのはフィクションの作り方としては合理的だと思う。不倫をテーマにしたフィクションはエンタメとしては需要があるし、作品も作りやすい。不倫する側の物語だと結婚生活に不満がある→不倫相手と出会う→離婚して不倫相手と一緒になる/離婚せず夫婦生活をやり直す/破滅する、というストーリーの大まかな構成が出来上がっているのでストーリーが作りやすいし、濡れ場や不倫がばれたときの修羅場とかの感情的な見せ場も作りやすい。あるいは不倫される側が主人公の物語だと不倫した人が不幸になる勧善懲悪のざまぁ系の展開にもできる。恋愛小説での不倫は、不倫する男性の物語、妻に不倫される男性の物語、不倫する女性の物語、夫に不倫される女性の物語の4パターンのどれかの展開になってあまり発展性がないので、新しい不倫系フィクションを考えてみる。不倫相手が実は幽霊で呪い殺されてしまう不倫ホラーとか、呪いで死にたくなかったら幽霊と不倫した証拠のビデオを他人に見せて社会的に死なないといけない不倫リングとか、探偵が密室での不可能不倫のトリックを解明する本格不倫ミステリとか、魔法を使って姿を消したり変身したりして不倫相手の家に忍び込む不倫ファンタジーとか、経営者が愛人と不倫したせいで会社が潰れる様子を書いた経済不倫小説とか、探検家がジャングルの遺跡で巨大ワニに追われながら不倫する冒険不倫小説とか、宇宙飛行士が宇宙人と不倫して宇宙訴訟に発展するSF不倫とか、夫が妻の不倫相手と戦って強くなっていくバトル系不倫とか、他のジャンルと不倫を混ぜると面白くなるかもしれない。
2023.07.11
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最近は送料無料だと荷物をただで運んでいると消費者が誤解するとして荷物の再配達率の半減を目指して送料無料の表記を見直す閣議決定をしたそうな。もちろん運送会社は料金をもらわないと経営できないので、実際は客は送料を払っていて、送料無料でなくて送料込みの値段にすぎない。そもそも無料のものなどほとんどないのだから金を払えばいいではないかと思ったので、無料と支出について考えることにした。●実は無料ではない人や物が介在すると必然的に原価や人件費がかかるので、たいていの無料や無償のものは消費者から見たら無料に見えても実際は他の誰かが運営費用を負担している。特に公共サービスはそうで、無料で使える公園や図書館は公金で整備されているし、義務教育の授業料が無償化されてもそのぶん税率を上げたりして歳入を増やして他の誰かが学校の運営費用を払っている。高速道路の無料化が棚上げされて2115年まで有料になる予定だそうだけれど、無料化したところで改修費用がなくなるわけではないので車に乗らない人からも改修費用を徴収するようになるだろう。政府や財務省が財政均衡を目指す限り、エネルギー保存の法則みたいにどこかを無料にしたらそのぶん他を増税して間接的に費用を徴収して帳尻を合わせようとするので、実質的な公共サービスの無料化はない。基本プレイ無料のゲームはたいていアイテム課金制だけれど、無料でサービスを維持できるわけではなくて誰もアイテムを買わなかったら採算がとれなくてサーバー代やメンテナンス費用で赤字を垂れ流すだけになるのでさっさとサービスを終了する。脱毛サロンとかは無料体験を餌にして有料のサービスを売り込もうとしていて、無料のままでは返そうとしない。無料のWikipediaはボランティアが記事を編集しているので人件費はかからないものの、サーバー代は寄付金で賄われている。無料のアプリやSNSは広告で収益を上げるビジネスモデルになっていて、消費者から見ればサービス自体は無料だけれど広告主が金を払っているし、その広告費用は消費者が買う商品代金に上乗せされているので、結局は消費者が間接的に金を払っていることになる。うどん屋のトッピングのネギが無料のところがあるけれど、そのネギ代は他の商品に上乗せされているし、ネギだけ大量に食べる客だらけになると採算が合わないので無料トッピングをやめたりする。最近はフランスで暴動が起きて店を襲撃して無料で商品を取り放題しているけれど、その被害も後で商品の値段に上乗せされる。無料だと得しているように見えても実際は誰かが対価を払っているのだから、最初から自分が納得して対価を払えるものにちゃんと対価を払うほうがよい。前澤友作がZOZOの社長だったときに送料に文句を言った客にただで商品が届くと思うんじゃねぇよと言って炎上したけれど、言い方はともかく言っていることは正論で、送料は無料で当然みたいな考え方はやめるべきである。いろいろな商品を実店舗まで買いに行く交通費や手間を考えたら通販でいろいろなものが買えて数百円で配送してくれるのは十分安いと言えるだろう。●大事なものは相応のお金を払わないと手に入らない・安全金持ちほど詐欺や空き巣や強盗に狙われるので防犯対策に金をかける必要がある。狛江市の強盗殺人事件の被害者宅は高級車を何台も駐車している豪邸だけれど、車や腕時計にお金をかけるよりもまず財産を守る手段にお金をかけないと奪われることになる。最近は無人販売の肉屋が増えているけれど、店員がいなくて隙だらけなのでしばしば襲撃されている。・健康発展途上国は栄養が足りてないので免疫力が低いし、病院の設備や保険も充実していないので、収入と相応に寿命が短い。病気になってから治療するよりも病気の予防にお金をかける方が安上がりなので、栄養がある食べ物やフィットネスとかの健康管理にお金を払って健康を買うに越したことはない。・教育教育費が有料だと金額に見合うだけの成果を得ようとして勉強をがんばるけれど、無料だとやる気が出ないタイプの人がいる。特に子供は自分の小遣いで塾や教科書の費用を払っているわけでなくて親が払ってるので、良い教育を受けられて親に感謝するどころか塾をさぼったりする。何かのプロフェッショナルを目指すのならなおさら教育に金をかけることが必須になる。クラシック音楽やフィギュアスケートやテニスは幼少期から専属のコーチを雇って英才教育を受けて留学や海外遠征をする人同士が切磋琢磨してプロの狭き門をくぐるので、貧乏な人がプロになれる機会はほぼない。・一流のもの一流の商品やサービスは常に富裕層の需要があるので値下げすることはなくて、買いたかったら相応のお金を払うしかない。三ツ星レストランの料理やオーダーメードのスーツとかは現時点での人類の伝統や技術が結集した最高峰のものなので、大金を払うに値する価値がある。・推し活ITmediaの「スラムダンク大ヒット “海賊版天国”だった中国が「本物」を買うようになったワケ」という記事によると中国人が映画の『THE FIRST SLAM DUNK』に対しては海賊版でなくて正規版を視聴しているそうで、中国人もそこそこ豊かになって推しにはちゃんと対価を払う価値観になりつつあるようである。YouTubeのスパチャとかもそうで、動画自体は無料で見れてもクリエイターをサポートするためにお金を払う人がいるおかげでサービスが成り立っていて、お金を払わないで無料で動画を見ているだけでは自分が推しを支えているという満足感は得られない。よくサッカーでファンとサポーターは違うと言われるけれど、無料でワールドカップを見るファンが多くなったところでJリーグの試合のチケットを買うサポーターがいないとクラブは運営できないので、本当にサッカーが好きなら推しチームのチケットや推し選手のグッズに金を払うべきである。・自由実家で親に養ってもらえば無料だけれど親に干渉されるし、自由に一人暮らししたかったら部屋を借りるためのまとまった金が要る。大企業ならやりたいことがあっても上司の許可がないと予算がとれないけれど、自営業なら金さえ出せばやりたいことがやれる。挑戦する自由や挑戦の準備をするためのモラトリアムも金を払わないと得られないことがある。●お金を使うことは無駄ではないなぜ巷の人が無料をありがたがって支出を渋るのかといえば、お金は使ったら消えてなくなるものだと思っているせいかもしれない。商品やサービスの対価にお金を支払ったら財布からはなくなるけれど、そのお金が消えるわけでなくて、相手にお金を使う権利を渡しているにすぎない。お金を受け取った人も買い物にお金を使って他の人にお金を渡して、世間でお金が循環することで経済が成り立っている。そんで家計支出(C)、投資支出(I)、政府支出(G)を足したものが国内需要(DD)になって、DD=C+I+Gという式になる。そこに輸出(EX)を足して、輸入(IM)を引いたものが国内総生産(GDP)と呼ばれて、GDP=C+I+G+EX-IMという式になる。この名目GDPからインフレの価格変動の影響を取り除いたものが実質GDPになる。実質GDPが増えたら経済成長しているといえるし、誰かが支出をしない限り経済成長しない。日本人は不安を感じやすいせいか貯蓄する傾向が高いけれど、お金は他のものと交換する手段に過ぎないのに、手段を貯め込むことを目的にするのは本末転倒である。健康とか幸福とかの何かの目的があるのに、目的達成の手段であるお金を使わないまま結局目的を達成できないで人生を終えるのではお金を貯めた意味がない。最近はお金は経験に使うべきだということを書いた『DIE WITH ZERO』という本が売れているそうな。日本だとタンス預金を数千万円貯め込んだまま死ぬ老人がいるけれど、子供を信頼していなくて生前贈与もせず、消費にも投資にも回されなかった死に金を抱えて死ぬのはいくら金を持っていようが金の使い道を知らない貧しい生き方である。・お金を使ってインフレするべき税を財源として考えて税率を上げて国債を償還すると市中からお金が消えてデフレに向かうし、国債を財源として考えて国債を発行したり税率を下げたりすると市中のお金が増えて価値が希薄化してインフレに向かう。要するに政府の財政支出を国民が税として負担するかインフレ率として負担するかの違いなのだけれど、ではなぜデフレではだめなのか。デフレだと時間が経つほど金利や物価が下がるので、稼いだ金は投資や消費よりも貯蓄に向かう。例えば家を建てるのを数年待てば金利や材料費が下がって支払額が安くなるなら、もっと貯金に余裕ができてからでいいやと待つ人が増えて土地開発が進まなくなるだろう。皆が消費や投資を控えるようになると物が売れにくくなって商品の在庫がたまるし、そうなると企業は安売りして在庫をさばこうとして在庫がはけるまで新商品の開発や仕入れは控えるようになって、いくら金利が低くても借り手がいなくなって市中で金が循環しなくなって、物が売れないから企業の利益が減って従業員の給料が減って、給料が減ったから物を買わなくなるというデフレスパイラルになる。労働力も買い叩かれて長時間労働で残業代未払いとかのブラック企業が蔓延するようになって、労働者も失業したくないので違法行為を黙認してブラック企業にしがみつくようになる。供給能力は十分あるのに物が売れないことで資金繰りできなくなった企業が倒産して、次第に供給能力さえなくなってしまう。逆にインフレだと時間が経つほど金利や物価が上がっていって相対的に現金の価値が目減りするので、稼いだ金は貯蓄よりも投資や消費に向かう。今家を建てないと数年後には金利や材料費や人件費が上がって支払額が高くなって手が届かなくなりそうになったら、多少無理してえいやっと住宅ローンを組んで家を建てるようになるだろう。それにインフレすると借金が目減りするメリットもある。わかりやすい極端な例を言えば大正時代に10万円(今でいうと5000万円相当)の大金を無利子で借りたとして、百年後に遺産相続するときに借金に気づいて額面通りに10万円を返しても民法上は問題ない。インフレ率は考慮しないで契約上の金額さえ返してしまえばよいので、固定金利で住宅ローンを組んだ後にインフレしたら実質賃金が変わらなくても名目賃金が増えればその分返済も楽になるし、インフレしたぶん家の資産価値も上がっていく。そうして消費や投資が増えるとその需要に答えようとして工場が新設されたりして供給能力が増えていく。そうなると人手不足になって求人が増えて失業者が減ってそのぶん生活保護とかの社会保障費用も少なくなるし、働いて知識や技能を覚える人が多くなって社会全体の冗長性が増して人材の層が厚くなって災害からの復興も早くなるし、人手不足で求人が多いので労働者がブラック企業にしがみつかずに辞めるようになってブラック企業が淘汰されて労働者の待遇が良くなっていく。デフレとインフレを比べればインフレのほうがましなのは一目瞭然だけれど、アメリカみたいに一挙に巨額の財政支出をしたら急激にインフレ率が上がって混乱が起きるのでむやみに政府支出を増やせばよいというものでもなくて、2-3%のマイルドなインフレが持続する状態にしてデフレを脱却するのが当面の日本の目標になっている。金本位制時代に国王が宝物庫に金銀財宝を貯めこんでいるイメージで政府が税金を集めれば豊かな国になれると誤解している人は国債発行を通貨の発行とみなさずに借金とみなして子孫につけを残すのだと考えて財政支出削減や増税といったデフレ推進策を支持するのだろうけれど、実際はインフレした方が子孫のつけが減るし、現代の硬貨や日本銀行券は江戸時代の大判小判と違って物体としての価値はないのだから政府が通貨を貯め込む意味がない。この金本位制モデルの時代遅れの間違ったエピステーメー(知の枠組み)を破壊して、政府が国民の幸福のためにお金を使うことがいいことだという考え方に変わらない限り日本の衰退は免れないだろうし、増税されて国民の受難は続くだろう。・国が国民に給付金を出したらだめなのかコロナ禍で定額給付金や持続化給付金が配られたけれど、国が国民に給付金を出すことに否定的な人が少なからずいる。東京MXの「寺島実郎の世界を知る力対談篇〜時代との対話〜#24」で多摩大学の学長の寺島実郎がファーストリテイリングの柳井と対談して、33:15に柳井が「国民が国から補助を受けるようになったらその国は終わりですよ」と言ってそれに寺島が同意して10万円給付が消費に向かわなかったと批判していた。10万円を12か月で割ったら1月あたり8千3百円程度でしかない。10万円もらったらすぐ高額な物を買うのは生活に困ってない人だろうし、庶民が先の支払いを見越してちびちび切り崩しながら使うのは当然で、それを消費に向かわなかったと批判するのは寺島が金に困っていないから庶民の金銭感覚がわからないのだろう。日経新聞の「ファストリ、巨額キャッシュため込むワケ」という記事だとファーストリテイリングは経営の安全性を高めるために2020年時点で1兆円以上の現金を持っているようだけれど、寺島が庶民が生活の安定性を高めようとしているのを批判する一方で同じことをしているファーストリテイリングを批判しないのは一貫性がない。ちなみに寺島実郎が学長を務める多摩大学は文科省の私立大学補助金をもらっているのに、多摩大学の補助金を棚に上げてコロナ禍で困窮した国民がほんの10万円ぽっちをもらうことをポピュリズムと批判する有様で、寺島は弱者への慈悲も愛もない。私は税金も給付金も格差やインフレ率の調整手段だと思っているので、いったん税として徴収してから給付金で再分配しても、減税しても、どっちでも大差ないので状況に応じて使い分ければよいと思う。税金を徴収してから給付金で再分配するよりも減税の方が事務手続きが簡素化するので事業者に対しては減税したり消費税を廃止したりしてインボイスの控除がどうのこうのという利益を生まない複雑な手続きをなくすのがよいけれど、もともと納税額が低い低所得者は減税したところで可処分所得があまり増えなくてたいした恩恵がないので、相対的貧困層に分類される低所得者には負の所得税として給付金で可処分所得を増やすのがよいと思うし、私は給付金を出すことが悪いことだとは思わない。寺島や柳井は自分で稼がずに金をもらうのはいかんという道徳観で給付金を批判しているのだろうけれど、自分の子供の子育てでそういう方針なら別にいいけれど政策に対して個人的な道徳観を基準にするのはナンセンスである。ディマンドプルインフレが起きているときに給付金を出すのはインフレを加速させる悪手だろうけれど、新型コロナやロシアのウクライナ侵攻とかの外部要因のコストプッシュインフレが起きているときに国民の負担軽減策として給付金を出すのは経済を停滞させないための対策としてはよいと思うし、日本はまだデフレで需要不足なのだからデフレギャップが埋まるまでは給付金を出すのも経済政策としては合理的だと思う。・投資しないと成長もしない財務省の御用マスコミが毎年過去最大の財政支出だと深刻そうに報道するのは馬鹿げていて、普通に経済成長して人口が増えているならそれに伴って社会保障費用が増えて毎年財政支出が過去最大になって、成長に応じて税収も過去最高になるのが当然である。もし子育てしている親が子供が大きくなるにつれて過去最大の食費になっていたから食費を減らさないといけないと言っていたり、子供の食事を減らしながらなんでこの子は成長しないんだろうと言っていたりしたら異常である。質量保存の法則があるので食べる量が増えないと成長しないし、食べる量が体を維持する分に足りなかったら栄養失調になる。じゃあ国はどうかといえば、間違った財政破綻論に毒されて投資を減らして経済成長を目指すという異常なことをやりたがるので、成長したかったら投資するという普通の考え方に戻さないといけない。輸出を増やして貿易を活性化したかったら港や高速道路に設備投資して大型船が入港できるようにしてコンテナを積んだ貨物トラックが渋滞で詰まらないように道路を整備したり工場を誘致したりする必要があるし、高度人材を育成したかったら教育機関に投資する必要がある。数年で投資を回収できる見込みがあるなら企業が投資するけれど、インフラ整備のように莫大な費用が必要なものや教育のように利益が出るまで時間がかかるものは政府が投資する必要がある。政府は「貯蓄から投資へ」として個人に投資させたがっているけれど、個人の預金程度でたいした投資はできないし、まず政府が投資するのが先である。国策に売りなしという格言があるように国策としてやると決めた事業には企業も個人も投資するようになるし、逆に国が原発の研究予算を縮小したら重電メーカーも受注のあてがない原発には投資しなくなる。財政支出を増やしたからといって経済成長するとは限らないという理由で財政支出を増やすことに反対する人がいるけれど、支出を増やしたら経済成長する分野だと明確に言えるのが一つあって、それが教育である。教育は福祉の側面もあるけれど、未来への投資である。日本には学校などの設備はすでにあるので新しく学校を立てなくても人件費さえ出せば教師を用意できるし、生徒も授業料さえあれば授業を受けられる。教師にかかる人件費や貧乏な学生への奨学金と、教師不足で優秀な人が教育の機会を得られないまま単純労働する場合の逸失利益を考えたら、教育に投資したほうが利益が大きくなる。そもそも日本は外国から知識や技術を学んで成長してきた国で、奈良時代は遣隋使や遣唐使として学僧を派遣したり唐の鑑真を招いたりして文化が発展したし、江戸時代は出島のシーボルトから医学や洋式砲術を学んだり朝鮮の陶芸家を招いたりして文化や技術が発展したし、佐賀藩主の鍋島直正が教育予算を170石から1000石に増やして藩校の弘道館を整備して弘道館出身の江藤新平や副島種臣や大隈重信がのちに明治政府の重役になったし、明治時代や大正時代はヨーロッパの学者を招いたり優秀な人をヨーロッパに留学させたりして近代化して国立大学を整備して、たいして資源がない国でも人材育成したおかげでノーベル化学賞や物理学賞をいくつも取れるほどの研究成果を出せた。その費用は公金から出して、費用に見合うだけの成果が出ているのは歴史が証明している。世界のIQ調査だと日本以外ではアシュケナージユダヤと中国のIQが高くて、アシュケナージユダヤや華僑は国に頼らずに生きられるように教育にはお金をかけていて欧米の名門大学で人脈を作って世界各国の政財界に食い込んでいる。教育がないとどうなるのかは発展途上国を見てみればいい。インド、エジプト、モロッコは世界三大うざい国と呼ばれているけれど、いくら人口が多くても教育を受けていなくて家業がない人間が何か生産的な活動ができるわけでもないので、金を持っている観光客に絡んで客引きや物乞いや詐欺や窃盗や売春や麻薬売買をやるようになって、観光業に寄与するどころか治安が悪化してかえって観光客を遠ざける要因になる。トー横キッズみたいなのが国中にわんさかいるようなもんである。チュニジアやエジプトやアフガニスタンの民主化が失敗したように、国民がろくに教育を受けていないまま民主主義をやろうとしても政策の良し悪しを理解できなくて当事者意識がなくて他人任せにするのだからうまくいかなくて独裁に戻って当然である。教育が充実しない限り文化も産業も発展しない。じゃあ日本政府は教育のために何をやっているかというと、今は教員も保育士も不足しているのに人件費は増やそうとしない。令和元年度就職氷河期世代を対象とした教職に関するリカレント教育プログラム事業公募要領(pdf)によると、就職氷河期世代は採用試験倍率が13.3倍で過去最高で、免許状を取得したものの採用に至らなかった者が100万人以上いると推計されるそうな。文部科学省の文教費の概観(pdf)の第14表を見ると2000年代から地方教育費補助が急減したことで国が負担した教育費の合計が減っているのが確認できるし、第15表と第16表で行政費に占める教育費の割合も徐々に減っているのが確認できる。就職氷河期に文教費を増やして教師が多くなっていれば分業して負担を軽減できていたのに、わざわざ予算を減らして採用を絞って残業代未払いの長時間労働を放置しておいて、今になって産休・育休や病休者数が増加して臨時教員不足だと言っているのだから、当時の政治家は先の見通しがないアホだらけだったのだろう。教師が多くてもその分教師一人当たりの負担が減って生徒が手厚い指導を受けられるし、教師が不足する弊害はあっても教師が余ることへの弊害はないのだから、人件費を出して就職氷河期世代を雇っていればいまの教師不足の問題は起きなかった。2001-2006年に総理大臣だった小泉純一郎は小林虎三郎の米百表を引用しておきながら目先の利益のために教育費を減らして若者を潰すという真逆のことをやってきた。そんで教師だけでなく学生の待遇もおかしくて、日本人の海外留学支援制度だと1万5千人に月10万円以下の給付しかないのに、国費外国人留学生制度だと9千人弱の外国人に奨学金を月14万円程度給付していて、外国人への給付のほうが金額が多いのはおかしい。大学の研究者も予算がかつかつでポストが不安定で優秀な人がアメリカや中国に引き抜かれて、もう日本からノーベル賞受賞者は出ないとまで言われている。教育や研究は成果が出るまでに時間がかかるので、単年度会計で短期で成果を求める今のやり方だと評価されない。人口減少に向かう日本こそかつての日本の繁栄の原点に戻って、長期的視点を持って教育を充実させて大谷翔平みたいな一騎当千の猛者をあらゆる分野で輩出する環境を作るべきだろう。・ゼロリスク信仰を捨てるべき無料をありがたがるのが社会にとって有害であるのと同様に、ゼロリスクをありがたがるのも問題である。未来は不確実で何をやるにしてもリスクがあるのに、極端にリスクを恐れていたら何もできなくなる。子供が立派な人間に育つかどうかは子供を産んで成人するまで育ててみないとわからない。芸術家はコストと時間をかけて作品を作り始めてみないことにはいい作品が完成するかどうかわからない。ベンチャー企業に投資して儲かるかどうかは投資してみないとわからないし、事業が成功したのを確認してから投資してもその頃には株価が上がりきっていてキャピタルゲインはあまり見込めなくなる。レストランの料理の味が値段に見合って自分が気に入るかどうかはお金を払って食べてみないとわからない。競馬はどの馬が勝つかわからないからこそ賭けが楽しめる。リスクをとってまだ誰も結果がわからないことをやるから新しい発見があって社会が発展していくのに、ゼロリスク信仰で少しでもリスクがあることはやらない、行動の結果がわかっていることしかやらないというのであればもはや作業を繰り返すだけの機械と同じで、人間から不確定な物事に挑戦する自由を奪ってただの労働力として家畜化してしまう。アントニオ猪木が「出る前に負ける事考えるバカいるかよ」とインタビュアーに怒っていたけれど、ゼロリスク信仰はやる前から負ける事ばかり考えて勝ち筋を見出すことさえ諦めているようなもので、勝てる可能性があっても勝てなくなる。子育てだとヘリコプターペアレントが子供に過干渉して先回りしてリスクを潰して子供が挑戦して失敗から学ぶ機会さえ奪ってしまって、やりたいことがない指示待ち人間になってしまう。漢の劉邦や明の朱元璋が農民から皇帝になったり豊臣秀吉が農民から将軍になったように、失敗するリスクを負いつつも人生を賭けて挑戦した人だけが大きな結果を残せるし、挑戦して失敗することもあるけれど失敗から学んで改善することで成功の可能性が高くなる。失敗しないことを目標にするのでなく、成功するためにどれだけリスクを負えるのかというリスクマネジメントをやって挑戦するべきだろう。DIE 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2023.07.03
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