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最近は妹尾ユウカが「商談の際などにパーカー着てる会社員のジジイなんなん?」とビジネスシーンでパーカーを着ているおじさんを批判したところ、おじさんたちがビジネスの文脈を無視して怒っているようである。ファッションに疎い私もパーカーを着ているので、徒然なるままにおじさんがパーカーを着ることについて考えることにした。●パーカーとは何かパーカーとは綿やポリエステルのトレーナーにフードがついた服で、英語ではhoodie(フーディー)と呼ばれる。プルオーバーパーカーはお腹の部分にポケットがついていることが多くて、ホッカイロや自販機のホットの缶コーヒーとかをポケットに入れるとお腹が暖かくなって便利である。ジップパーカーはジップを閉じずに羽織って使えるのでプルオーバーパーカーよりも温度調節をしやすいし、薄手のジップパーカーは夏に紫外線を防ぐためのUVカット用として使われていて実用的である。アウトドア用のマウンテンパーカーはたいてい化学繊維の撥水仕様で、登山の時に傘をさすと風にあおられたり木に引っかかったりして歩きにくいので雨をしのぐためにフードがついていて、袖口やポケットにも水がはいらないような実用的なデザインになっている。夏以外のアウターはマウンテンパーカーでいいじゃんというくらい機能性が高い。●ビジネスでのおじさんのパーカーの是非基本的にパーカーはカジュアルウェアで、ビジネスシーンで着用するものではない。Tシャツやセーターなら上にジャケットを羽織ればビジカジとして格好がつくのでIT系とかのオフィスワークならそういうネクタイをしないスタイルでもよいけれど、パーカーだとフード部分がはみ出てジャケットやコートに合わないし革靴とも合わないので、どう組み合わせてもフォーマルな感じが出なくてビジネスで人と会うのには向かない。ゆったりしたパーカーは部屋着として着るならリラックス感はあるけれどビジネスではだらしない印象になるし、年齢に不相応な若作りをしているように見られると貫禄がなくなって頼りない感じになって熟練のおじさんのメリットがなくなってしまう。それに服は身分や状況を表す記号としても機能している。スーツを着ていれば仕事をしている人だとすぐにわかるけれど、職場でパーカーを着ていたら私服で休日出勤しているのか制服がないパートタイム従業員なのか役職がよくわからないし、オフィスワークで同僚としか会わないならまだしもパーカーで外部の人と会うとTPOをわきまえていない人として社会的信用もなくしかねない。自分が職場でパーカーを着たいかどうかより、取引相手がパーカーを着ていたらどう思うかを基準にするとわかりやすい。パーカーを着た弁護士には弁護を頼みたくないだろうし、パーカーを着た医者には手術を任せたくないだろうし、パーカーを着た坊主に読経してもらいたくないだろうし、パーカーを着た世襲のボンボン政治家に増税されたらフードの紐をぎゅっと絞って殴りたくなるだろう。独立したクリエイターやアーティストがフォーマルな服をあえて着ないことで無頼で先進的な感じを出してサラリーマンと差別化して認知度を高めるのは営業戦略としてありだと思うけれど、広告代理店の社員みたいに会社の看板で仕事をして組織に守られているサラリーマンが気鋭のクリエイターぶってスーツを着ずに無頼を気取ると室内飼いの小型犬がイキって吠えているみたいでかえってダサくなる。天才サックス奏者のチャーリー・パーカーがパーカーを着ないでスーツを着て観客への礼儀を保っていたように、仕事の中身で勝負できる人は外見で目立つ必要はない。『王様の仕立て屋』という漫画ではスーツのいろいろなうんちくが書いてあるけれど、紳士服の本場のロンドンのサヴィル・ロウのスーツにはブランドタグが付いていなくてどの店で作ったのかわからないけれど着道楽たちは仕立てた店を当てて遊ぶそうな。スーツは着ている人を引き立てる脇役にすぎないので、スーツはロゴでブランドを主張することがないし、サイズがぴったりのオーダーメイドスーツはしわがなくてシルエットが美しくて凛とした佇まいになる。ブランドのロゴがドンと書いてあって主張が強くて誰でも着れるサイズ感でシルエットが大雑把なパーカーは紳士服の美的感覚と対極にあるので、ビジネスシーンでロゴドンパーカーを着る人は場違いな印象になってしまう。●私服でのおじさんのパーカーの是非ビジネスとは違って私服は好きなものを着ればいいじゃんと思うけれど、おじさんが子供が履いていた瞬足をまだ履けてもったいないからと履いていたらおかしいように、年相応の服装はある。それに体型によって似合う服が変わってくるので好きな服が似合うとは限らないし、高級ブランドの高い服を着ればおしゃれになるわけではない。おじさんになると筋力が衰えて貧相になったりおなかが出てきたりして、ポロシャツとかの体にフィットする服は体型を隠せないけれど、だぼっとしたパーカーは体型を隠せて便利である。女性ならゆったりしたパーカーを着るとかわいい印象になって相対的に足を細く見せられるし、若い男性がゆったりしたパーカーを着るとシルエットが丸っこくなって胸や肩や腕のごつごつした男らしさを抑えてなで肩でかわいくて活動的な印象になるけれど、おじさんの服がかわいくなっても老けた顔とちぐはぐな感じになるのが問題で、歳をとって老けていくほどパーカーのかわいさが似合わなくなる。パーカーに合う帽子もベースボールキャップやニット帽とかなのでいっそうシルエットが丸っこくてかわいくなってしまう。角がとれた柔和な老人ならかわいい格好も似合うけれど、まだ野心や性欲があって脂ぎって角が立っている短気なおじさんが服装だけかわいくなっても似合わない。あるいはB-Boyがだぶだぶのパーカーを着ているけれど、ダンサーがだぶだぶしたパーカーを着ると体格やダンスの動きを大きく見せられるメリットがあるし、パーカーがめくれたときに引き締まったシックスパックがチラっと見えるとセクシーだったりするけれど、膝が痛くてブレイキンを踊れないお腹ぽっこりおじさんがパーカーを着て贅肉をチラ見せしても全然セクシーではない。若作りの服装をしたら否応なく若者と比較されてしまって、老化による衰えが見えてしまうと年齢に不相応でみっともなくなる。ではおじさんがおしゃれをしたくなったらどうすればよいのか。ジェントリーというスタイルでジェントルマンとしての威厳を出すおしゃれの仕方はおじさんのおしゃれに向いている。パーカーだとゆるい感じになって威厳が出ないので、襟がついたジャケットを着てかっちりした肩や胴のラインを出すと男らしくなるし、中折れ帽やハンチングとかをかぶれば髪の薄さをごまかせて熟練のおじさんの威厳が保てるし、膝が痛くて杖をついても杖がファッションになじむので老化している印象を和らげられる。あるいはもっと派手なおしゃれを追求する人はダンディなスタイルがよい。コンゴのサプールは赤や緑の派手なスーツを着て街を練り歩いていて、長い手足にフィットした派手なスーツを堂々と着こなすことで派手なスーツに負けない自信に満ちたエネルギッシュな男らしさを強調している。これが派手なパーカーだと子供っぽくなって大人の自信があふれたダンディズムにならない。シャツはネクタイやベストやジャケットと組み合わせることで色や形や素材のパターンを変えられるけれど、たいていのパーカーは単色だし1着で上半身が完成してしまって差し色になる小物もいらなくなるので組み合わせの面白さを出しにくい。というわけでおじさんがパーカーを着てもおしゃれになりにくいので、おしゃれなおじさんになりたい人はパーカーを着ないほうがよいと言えるだろう。私は冬はしまむらで500円で買った無地の黒い綿パーカーの上に中古で500円で買った黒いMA-1を羽織って買い物に出かけているけれど、これはおしゃれのためにパーカーを着ているというより、冬の風が強くて寒い日に耳がしもやけにならないようにするにはパーカーのフードが便利だし、襟付きのジャケットやコートだと買い物用のリュックが合わないので実用性重視でパーカーを着ている。耳当てだと音が聞こえにくくなるし、ニット帽を深めにかぶって耳を覆うのでは台風の後の水田のように髪がぺちゃんこになって一層みすぼらしくなってしまうけれど、パーカーだと音が聞こえるし髪への圧も少なくて耳のしもやけ防止にはちょうどよいのである。私みたいに貧乏で着る服を選べなくて安い服を擦り切れるまで着てなんとか生活をしている人の服装をどうこう言うのは感じ悪いので、貧乏なおじさんの服装は放っておいてほしい。しかし大企業に勤務している小金持ちのおじさんは自分で服を選べるだけの収入があるはずで、服がダサいと文化的な教養や感性がなくてがさつな人とみなされかねない。しばしばプロ野球選手の私服がダサいと言われるように、金があるのにうまく使えていないと一層センスのなさが際立ってしまうので、お金があってそれなりの地位にいてドレスコードがあるレストランやセレモニーに行く機会が多い人はファッションも人並み以上に気をつけるほうがよいだろう。既婚のおじさんが公園で子供と遊ぶときに動きやすいパーカーを着るのは別にいいけれど、独身のおじさんがデートで美術館やレストランにいったりするときにパーカーだとおしゃれをしてきた相手の女性に恥をかかせるかもしれないというくらいのTPOはわきまえるべきである。●おじさんの是非おじさんもかつては若者だったけれど、老いて髪が薄くなってお腹が出て筋肉がしぼんで膝や腰が痛くなって動作がもっさりして見苦しくなっていくのは仕方がない。仕方がないからといってみすぼらしさに甘んじずに、体臭や態度に気を付けたりして他人を不快にしない程度のエチケットはもちたいもので、自分が若い頃に批判していたような自己中心的でうざい老害にはならないようにするほうがよい。おじさんが格好良くなるのは難しいにしても、だらしない格好にならないように気を付けることはできるはずである。中国で夏に暑くてTシャツをめくって腹を出すおじさんの格好が北京ビキニと呼ばれて批判されているように、体型がくずれたおじさんがだらしない格好をするといっそうダメさが際立ってしまう。パーカーを着たらだめなのかと怒っているおじさんたちは、なぜパーカーが良いのか論理的に説明するべきである。自分の行動や美的感覚を否定されたからといって条件反射的に怒って論理的な説明ができないのではもはやおじさんではなくて前頭葉が収縮して感情を抑制できない老害の域に入っている。意見が違うにしてもまず相手の話をちゃんと聞いて論拠や論理構成を把握してから反論するべきで、相手の話をちゃんと聞かずに前提や論理を無視して感情的にわめきちらして威圧して相手を屈服させようとするようなおじさんは若者に馬鹿にされて当然である。格好いいおじさんには若者が憧れて指導してほしくてぞろぞろついてくるものである。若者がついてこないどころか避けられているおじさんが若者にかまってほしくて自己主張したところで見苦しいので、青春を謳歌している若者の邪魔にならないように終活の準備をして社会の端の方で目立たないようにひっそり生きて若者に頼られたら手助けするくらいでよいと思う。
2024.12.20
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せむしの怪物が閉経間際になって中絶に憧れる話。第169回芥川賞受賞作。●あらすじ40代の井沢釈迦は背中がS字に曲がる障害があるものの、親の遺産で生活には困っていなくて自分が所有するグループホーム「イングルサイド」で生活して、エロ記事を書いた収入を寄付して、中卒なので大卒になりたくて通信大学を受講している。グループホームにVRゴーグルを寄付しようとしたら弱者男性のヘルパーの田中に絡まれて、山下マネージャーが腰痛だったので代わりに田中に体を洗ってもらい、生まれ変わったら高級娼婦になりたいとか中絶したいとかSNSに投稿していたのが田中にばれていたので、田中の身長分の大金の小切手をちらつかせて田中をしゃぶると誤嚥性肺炎で入院する。田中を堕胎の共犯にしたかったものの、退院する前に田中は辞めてしまった。●感想釈迦の一人称。先日読んだ古川真人の『背高泡立草』とは対照的に、早い段階で主人公の年齢や職業とかの情報を出していて小説の展開の仕方の基礎ができていて、日々の生活の様子の細部をよく観察している。例えば11ページでは「西向きの掃き出し窓から晴れた日は富士の頂がかすかに見えるけれど、西は右にあるから首が回らない。バルーンシェードの降りる出窓を背にしたワイドデスクの奥を定位置に、午後は座ったきりの生活を送る。正面の壁に50インチのテレビが据えてあって、しかし滅多に私はそれを点けず、隣の入居者の部屋から壁越しに聞こえるテレビの音に時々耳をそばだてた。」と部屋のレイアウトが書いてあって生活の様子がわかるし、18ページでは「巨峰とピオーネが3粒ずつ載った小皿がデザートに付いている。鯖の味噌煮とマカロニサラダとわかめのお味噌汁とごはん。部屋からふりかけを持ってくるのを忘れた。」と食事をちゃんと描写している。こういう細部のアクチュアリティから登場人物のリアリティがでる。人間は毎日食事をしないと生きていけないので、フィクションの登場人物が生きている姿にリアリティを出そうとしたら食事と排泄をちゃんと書く必要がある。ほとんどのジブリ映画で食事をしているシーンがあって『もののけ姫』でサンがアシタカに肉を口移しで食べさせるシーンや『千と千尋の神隠し』で親が勝手に店で食事を始めて豚に変わるシーンや千尋がハクから塩むすびを貰ったりするシーンとかで物語内で食事が重要な意味を持つように、食事をただの栄養補給の作業にせずに面白く書けるのはよいクリエーターだと思う。排泄は下品になりかねないので端折るのは仕方がないにしても、食事は書くべきだろう。この小説ではふりかけの「救世主み」を出しているところがよいし、箸で鯖の背骨を折るのはあざとい気もするけれど小道具の文学的な魅せ方がわかっているやり方である。葡萄も床に落として障害がある生活の不便さを強調するのに使っていて、食事を漫然と書き流さずに意味のある場面として丁寧に展開しているのはよい。生きていれば性欲もあるし、性欲を満たすことが幸福にも結びついているけれど、障碍者の性欲を書くのは難しい。ドキュメンタリーだと男性の障碍者が風俗で性欲を処理する特集をするのは見たことがあるけれど、女性の性欲はテーマにしにくい。健常者の小説家が障害者を取材して濡れ場を書くのでは取材相手の負担が大きいし、他人の不幸で金儲けしているようなあざとい感じが出るし、もし田中みたいな介護施設のヘルパーの弱者男性が女性の障碍者を観察してこういう小説を書いたら批判されて職場を解雇されるかもしれない。女性の障碍者自身が書かないと小説にしにくい空白地帯の内容を私小説として書いたという点でユニークで、好奇の目に晒される作者にも覚悟がいる。釈迦の出版業界への批判はまっとうである。文学界新人賞は確か何年か前にデジタルでの応募を受け付けるように変えたけれど、もし紙に印刷して綴じて応募する従来のやり方だったら負担が大きくて障碍者は応募しにくかっただろう。出版業界は紙での出版にこだわらずに文芸誌のデジタル化もすすめてアクセシビリティを高めていくべきだと思う。90ページ程度の短編なので構成はシンプルで登場人物が少なくて、釈迦が田中と接近して別れるという一つの出来事しかないけれど、シンプルなぶんよくまとまっている。釈迦が田中と命がけでエッチしようとする姿を見せることで冒頭の釈迦が書くエロ記事の軽薄さが消えて、最後に釈迦が書く娼婦の紗花のエロ記事が救済として昇華されて、障碍者についての知識がない読者が釈迦の性への執着を理解できるところまでもっていけている点でこの小説は成功している。技術的には大きな欠点はないけれど、人並みに堕胎することに執着してエロ記事を書いている釈迦が涅槃にたどり着くのは仏教とは違うかなと思った。仏教は執着を捨てて妄想を否定して今の瞬間に集中するけれど、女性は子育てするために男と子供に執着する脳の仕組みになっているし、小説も仏教が否定する妄想である。執着することで生命を全うしようとする釈迦はたぶん仏教の悟りとは違う境地にいると思う。というわけで、単にポリコレ棒で殴りかかってくる障碍者の恨み言の羅列の力技にならず、惰性で小説を書いているような中堅作家以上に観察眼や描写技術がしっかりしていて、表現したいことを過不足なく表現できていてデビュー作とは思えないくらいに完成度が高くてよい小説である。表紙のタイトルがゆがんでいるのもよい。私がブログでいろいろぼろくそに感想を書いていたら小説に命は賭けられないみたいなコメントをもらったこともあったけれど、この小説は作者が死ぬ前に書き残しておきたくて仕方がないことを表現しようとしている気迫がある。純文学はこうあるべきである。★★★★☆ハンチバック [ 市川 沙央 ]価格:1,430円(税込、送料無料) (2024/12/15時点)楽天で購入
2024.12.15
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九州の島にある納屋の草刈りをして帰る話。デビューから5作目で第162回芥川賞受賞。●あらすじ・船着き場大村奈美は母の美穂に言われて島にある20年以上前に捨てられていた母の実家の吉川家の納屋の草刈りをすることになり、美穂の車に乗って、美穂の姉の加代子とその娘の知香と合流してから船着き場に向かって伯父の哲雄と合流して、伯父に納屋について聞くと80年前の戦時中に買ったものだった。・雄飛熱戦時中の夫婦の話。夫は島を出たがり、妻は反対するものの、夫は満州に行くことに決めてしまったので、男が家を買い取った。・昼昼前に島に着いて昼食を食べて、敬子婆ちゃんから戦後に朝鮮に帰る人の船が難破して漁師を助けた話を聞く。・芋粥朝鮮人の男が乗っている船が難破して、漁船に助けてもらって、納屋にいた子供に芋粥を食べさせてやる。・納屋草刈り機で草を刈り、死んだ智朗のオジジが定置網にかかった鯨を引っ張った話を聞く。・無口な帰郷者鯨組の網本の息子の青年が関西に向かう船に乗り、半年して島に戻ってくると村に疫病が流行っていて、青年はあまり話そうとしなかった。・夕方新しい方の家はかび臭くなっていたので除湿剤を取り換えた。奈美は敬子や美穂が死んだあとも島に来て草刈りをするのだろうかと考える。土間にカヌーが置いてあった。・カゴシマヘノコ中学二年生の少年は漁師の父と喧嘩して、父から夏休みにカヌーで海を渡るように命令されて、30万円を持ってどこかの漁港にたどり着いて不信がられて、カヌーで九州を一周する高校生のふりをして鹿児島のヘノコから来たと嘘をつく。・帰路船に乗って平戸に着いて福岡に帰る。●感想三人称で、奈美視点の現代の章と過去の章を交互に展開する構成。句点で文章を長くつなげて改行が少ない文体で、文章量が多いわりに描写や説明があまりない。私はこのブログで何度も書いたけれど、登場人物の描写がなくて名前しか書かないような小説は嫌いである。ストーリを展開するなら小説でなくても漫画でもアニメでも映画でもできるし、会話ならアニメや映画のほうが俳優の感情表現が乗るぶん優れているし、心理描写なら漫画のほうが表情と心理を一挙に描けて優れている。じゃあ小説でしか表現できない部分は何かというと、描写の言葉遣いや比喩とかの言語表現で状況を読者の頭の中に想起させて読者一人ひとりに独自の読書体験をさせることだろうに、その描写を省いてしまうと漫画やアニメや映画の下位互換でしかなくなる。「船着き場」の章では船着き場や船や海の状態の描写がなくてどんな大きさのどんな場所でどういう船なのかわからない。「芋粥」も船が難破する話なのにどういう船なのか大きさとかの描写がないので、誰がどこで何をしているのかさっぱりわからない。海辺の場面なのに潮風の匂いも波の音も海鳥の鳴き声も書かれていないので、港町で育った私にとってはいっそうリアリティがないように感じる。美穂が運転する車にしても「車」と書いてあるだけで何の車種かわからなくて、中古のN-BOXに乗っているか新車のレクサスに乗っているとかで奈美の資産や年収とかを仄めかすこともできただろうに、そういう細部の情報量がなくて小道具でリアリティを出すような小技を使えていない。36ページの食事の場面では「次々と食卓に料理が並び、美穂たちはさっそくそれぞれ椅子に座り食べだした」と書いてあるけれど、材料に肉が入っているらしいけれど牛肉か豚肉か鶏肉かも不明だし、何の料理を食べているのかも不明である。島だから何か郷土料理的なものが出てくるのだろうかと期待したら「料理」を食べているのであった。なんじゃそりゃ。これは小説の文章としてはすごく雑で、例えば飲食店のメニューで「料理」と書いてあるのと、「新潟産コシヒカリの炊き立てふっくらご飯、おばあちゃんの秘伝の合わせ味噌の味噌汁、地物のイシモチの塩焼き」と書いてあるのでは、中身が同じでも後者のほうがおいしそうだろう。素人の主婦でも料理エッセイ本で稼げる時代に料理をおいしそうに書けないのはプロの小説家の文章としてダメで、基本のデッサンができていない。九州の島というほとんどの人が経験したことがない特異な場所を舞台にしたところで、描写がないとどんな場所なのか雰囲気が伝わらないので、マグロの身を捨てて皮しか使っていないようなもったいないネタの使い方になっている。短編なら描写を端折るのはわかるけれど、中長編で描写を端折って人物像を掘り下げないのは私は怠慢だと思う。冒頭のドライブと会話の場面なんかは急いで展開しないといけないわけでもないのに年齢や髪型や服装や体型とかにさえ言及しなくて、焦点人物の奈美の人物像が固まらないうちにどしどし脇役がでてくるので、誰が誰やらわからなくなくて初めの章を読んだ段階でこれはダメだと思って続きを読む気をなくしてしまった。そんで奈美の母が美穂で、美穂の姉が加代子で、奈美にとって加代子は伯母にあたるはずなのに、72ページでは奈美は加代子をおばちゃんと呼ばずに「加代子姉ちゃん」と呼んでいるのでいっそう混乱して、人間関係を間違っていたっけと思って前のページに戻ってもう一回確認しなおさないといけなかった。そんで99ページになってようやく奈美があと数年で30歳になろうとしているという情報が出てくるけれど、情報を出すのが遅すぎる。こういう気が利かないところにイライラする。喫茶店でコーヒーを頼んだらコーヒーを半分飲んだころに砂糖とミルクを持ってくる店員みたいなもんで、プロの仕事じゃない。又吉直樹の『火花』にも描写で文句をいったけれど、いまどきの若い小説家は観察眼がない。車、船、島、料理という抽象的な概念で物事をとらえて、個別の人や物の在り様、実存を観察していない。観察していないので、色、形、大きさ、重さ、匂い、味、素材、目的、しぐさ、思想、感情、記憶とかの様々な情報を取捨選択して組み合わせて言葉に落とし込めていなくて、「車」と書いただけで車を書いたつもりになって、登場人物の名前を書いただけで人を書いたつもりになっている。作者に見えていないものが読者に見えるわけもないので、作者のインプットの足りなさがボトルネックになってアウトプットもしょぼくなって物語の面白さのポテンシャルを引き出せていない感じになる。カメラで言うと30年前の25万画素のカシオのデジカメのQV-10で撮った手振れでぼやけた写真を4Kモニタに出力しようが画質が良くなるわけではないようなもので、観察眼がないのではいくら文章を長くしてもぼやけた印象になるので、リアリズムの観察眼の解像度を上げて精緻な描写をしてほしい。漫画で言うなら背景が真っ白で輪郭しかない人物が喋っているラフ画のレベルで、冨樫義博みたいに週刊誌の人気漫画家が締め切りに追われてやむなく未完成の原稿を雑誌に掲載して後でコミックス版で修正するならまだしも、これから世に出ようという新人小説家が満足して発表してよい文章ではない。作者が描写しないのでは私は場面を想像しようがないので、仕方なく金髪ドレッドヘアのタンクトップで腕が背高泡立草みたいなリストカットだらけの奈美が紫のパンチパーマの美穂が運転する走り屋仕様のカーボンボンネットとエアロでカスタムしたシーマに乗ったりTボーンステーキを手づかみで食べたりしているところを想像して無聊を慰めるしかなかった。現代の章と過去の章を交互に書く構成も特に面白いわけでもなくて、誰の何の話を書きたいのか焦点が散漫になっている。過去の章だと猖獗とかの難読漢字をちょっと使う程度で、文体レベルの書き分けをするわけでもない。作者が直接体験したはずの現代さえろくに描写できていないのに、作者が体験していない過去の話になるとなおさらリアリティがなくなってかえってしらけてしまった。奈美にゆかりのある人物に焦点を当てて一族の歴史みたいなのを書こうとしたのかもしれないけれど、そもそも人物の描写がなくて書き分けができていないので群像劇にならず、主人公が不在で見どころがなくなってしまっている。カゴシマヘノコの章だけ短編として発表した方がましだったかもしれない。あとタイトルがあまりよくないよ。この本自体は2年位前に買っていたのだけれど、タイトルが面白そうに見えないので読まずに放っておいたのだよ。背高泡立草だから何なの、という「何なの」の部分の工夫やとっかかりがないよ。私の偏見だけれど、タイトルに気が利かなくてオヤこれは何じゃろうなァと読者に思わせることができないような作者の感性では作品の内容でも読者を楽しませる気がないんじゃないかと思ってしまうよ。そんで読んでみたらやっぱり描写が乏しくて気が利かなかったよ。デビュー作の「縫わんばならん」は何を縫うのか、なぜ縫わないといけないのかを伏せることでオヤと思わせる感じの工夫をしているのに、なんでタイトルのつけ方のセンスが劣化しているのかよくわからないね。タイトルじゃなく内容で勝負したいということなんだろうかね。売り方を考えるのは編集者や本屋の仕事とはいえ、タイトルが地味なうえに本の装丁も地味で、作者も売る努力をしないと本屋に並んだ時に地味すぎて他の本より見劣りして内容がどうかという以前に手に取ってあらすじを見てもらうことも難しくなるんじゃなかろうかね。良い点としては、会話の方言に精彩があってよかたい。作者は福岡市の出身のようで、その点は地の利があって自然な方言で九州の人物のリアリティを出せているたい。おいどんのようなよそもんが付け焼き刃の方言を使ってもバレバレやけん、その辺ばうまかやっとうたい。新人のうちは地元付近を舞台にするとリアリティをブーストできて良かと思うけん、もし他の土地を舞台にするつもりなら上記のように観察眼と描写をどげんかせんといかん。というわけで、文章が長いわりに描写が乏しくて内容が薄くて読者に対して気が利かなくて小説としての勘所をはずしているというアンバランスな文体で、方言がなければ何の見どころもないような小説だった。小説は文章が長ければよいというわけではなくて、情報の密度がなければ脳への刺激が足りないのでつまらないし、描写や説明がなくて人物像のメンタルモデルができあがらないのでは共感できないので感動するほどの完成度にはならない。これを完成形として意図的にアンチリアリズムの描写のない小説を書いたというより、小説の技術を知らないので見よう見まねでこういう風に書くしかなかったような書き方に見える。この小説は芥川賞を受賞してはいるけれど、私は受賞するほどの技術水準に達していないと思うし、これをプロの純文学作品として送り出す編集者も芥川賞の選考委員も終わってると思う。私はぼろくそに文句を言いたくて小説を読むわけではないし、若い新人には頑張ってほしいし古本を買って作者の収入に貢献していないのにいろいろ言うのも申し訳ないけれど、内容の好みの問題でなくて技術的に欠点があるのはさすがにダメだと言わないといけない。本来は読者の私がダメ出しするのでなくて編集者が書き直させるものだし、雑な料理の場面とかはすぐに修正できそうなものだけれど、エンタメ寄りの集英社の編集者の文学観じゃその程度の修正も無理なのだろうか。小説の書き方を知らない作者が見よう見まねで書いたような下手な小説を読むと、虐待された栄養失調の子供を見ているようで悲しくなってしまう。この物語は編集者がちゃんと世話をして育ててやればもっと良い内容にできたはずだった。新人とはいえ5作目でこの程度の出来栄えなら描写をしないスタイルが既に定着しているのだろうし、下手な作品で芥川賞を受賞したことでこのスタイルでいいのだと自信をつけてしまったらかえって純文学作家としては大成しないだろうなァと思った。冬にちょっと読書しようと思ってブックオフで芥川賞受賞作をいくつか買ってきたのだけれど、芥川賞受賞作でもこんなに下手なのかと思うとさっそく読む気をなくしてしまった。★★☆☆☆背高泡立草 (集英社文庫(日本)) [ 古川 真人 ]価格:550円(税込、送料無料) (2024/12/6時点)楽天で購入
2024.12.06
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