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きちがいのヤリマン女が海外旅行してドラッグやらセックスやらをする話。●あらすじヤリマンの黒沢真知子が会社をやめたら幻覚や幻聴が出るようになり、通称『先生』の元大学教授の金持ちサカキバラヨシオとパリ経由でモロッコに行くことになるものの、自分の分身のジョエルの幻聴の指示に従ってパリで先生から逃げて、他のホテルで知り合ったコバヤシとラフォンスとディスコにいってサイコパワーで催眠術師を吹っ飛ばしてコカインをやって仲良くなって、再会した先生を仲間に殺させて、モナコの賭博場で幽霊の幻聴を聞いて発情してペニスだけの幽霊に会いに行って、その後モロッコに行ってコカインをやりながらレズってたら警察に捕まり、テレパシーを使って脅迫して釈放されたら一人でマラケシュに行って、ターキッシュ・バスでおばあさんと言語波で旅や故郷について会話して、おばあさんからイビサの話を聞いてバルセロナに行くと、犯罪者が売春婦の少女に目をつけていたので自分が身代わりになると言語波を送って、両手両足を切断されたものの奇跡的に地元の資産家に助けれて、ディスコのシンボルとして生き延びることにする。●感想黒沢真知子の一人称。一人称なのに語り手に自分語りする動機がなく、現在形と過去形がごっちゃになっていていつの時点から語っているのか不明で、ナラトロジーとしての設定が詰められていない。「先月からわたしは歯にペンをはさんで字や絵を書くことを始めた。最初の手紙は、父親にあてて出すつもりだ。絵のテーマも決まった。モチーフはすべて、歯と骨だ。」というのがラストの文章だけれど、じゃあこの物語はいつどうやって書いたのか。歯にペンをはさんで一ヶ月で自伝を書き上げたというのはありえないし、つじつまが合わない。それに一人称の場合は何かしら自分語りする動機があるべきだけれど、その動機がないまま語り手が本来は隠すはずのドラッグやら殺人やら犯罪がらみの出来事をべらべらくっちゃべっているがゆえに、女性の一人称なのに村上龍というおっさんが小手先で書いているのが丸出しでリアリティがなく興ざめする。そのうえ黒沢真知子の経歴や人間関係が謎のままで、幻覚まじりのわけがわからない自分語りが展開するので、物語に入り込めない。さらには黒沢真知子には主人公として物語を牽引する動機がなく、プロットがないような妄想交じりのエログロエピソードがだらだらと続く。短編ならナラトロジー的におかしくてもまだ読めるものの、長編でこの語り手に付き合うのはつらい。40ページくらい読んで続きを読む気をなくして、一応最後まで読んだもののの面白いと思える箇所がどこにもなかった。作者はセックスやらドラッグやらを書いて何かしら出来事を書いたつもりになっているけれど、そもそも一人称の語りにリアリティがないので濡れ場も暴力シーンもくそつまらない。さらにはサイキックだの言語波だの奇跡的に助かるだのというご都合主義のごり押しにうんざりする。赤プリとかディスコとか海外旅行で自分探しとかいかにもバブル時代に濫造された三文小説という感じ。きちがいヤリマンの自分探しなんかをテーマにしないで、エンタメとしてポルノに徹していたほうがまだましだったかもしれない。純文学としてもエンタメとしても駄作。★★☆☆☆イビサ [ 村上龍 ]価格:534円(税込、送料込)
2016.02.10
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アメリカの森の中で暮らした一家の出来事を幼女の目線から書いたエッセイ。●あらすじ北アメリカのウィスコンシン州のオオカミやクマがいる森の中にぽつんとある丸太小屋で、5歳のローラは両親と姉のメアリーとブルドックのジャックと猫のブラック・スーザンと一緒に住んでいた。ローラは父親が鹿や豚を解体する様子を眺めたり、母親がバターを作る様子を眺めたり、離れたところに住む祖父がパンサーに追われた話を聞いたり、父親が鉛を溶かして銃弾を作るのを眺めたり、クリスマスにいとこの一家がやってきたり、安息日に退屈したり、クマに襲われかけたり、砂糖雪が降るとメープルが葉を出すのを控えて樹液がとれるという話を聞いたり、祖父の家のダンスパーティーで南北戦争に行って荒くれ物になったジョージおじさんのダンスを見たり、春になってペピンの町に行って買い物したり、夏になって母親のチーズ作りを眺めたり、父親とヘンリーおじさんのカラス麦の取り入れをしていたら嘘つきのチャーリーがスズメバチに刺されたのを眺めたり、新しく発明された脱穀機での麦の脱穀を眺めたり、父親がシカ狩りに行ってシカに見とれてシカを仕留めずに帰ってきた話を聞いたりした。●感想三人称で、作者が自分の子供時代の日常のエピソードを書く展開。著者が60歳を過ぎてから書いたそうだけれど、自伝として一人称で書かずに三人称で書いたのは、大人目線で過去を懐古するのでなくて子供の読者を想定して子供目線で体験を伝える狙いがあるのかもしれなくて、このやり方はうまくいっている。個々のエピソードは独立していて全体として物語の筋があるわけではないので、ストーリーの面白さと言うより南北戦争後の19世紀後半のアメリカの生活や自然の様子に博物的な面白さがあって、一つ一つの出来事を丁寧に書いているのがよい。母親のバターづくりとか父親が狂犬ごっこして追いかけてくるとかの現代の小説やエッセイでは省略されるような些細な出来事に家庭の幸福な様子が感じられる。父親が鉛を溶かしてぴかぴかの銃弾を作ってローラが触ってみてやけどするエピソードがあるけれど、私も似た体験があって、子供の時に親戚の漁師が鉛のパイプを鍋で溶かして鋳型に入れてぴかぴかの錘を作っているのを見物したのだけれど、私は鉛から出た赤茶色の不純物を集めた山に触ってみたくなってやけどしたのだった。そういう触ってみたくなる子供の心理がよく書けていて、大人にとっては日常の作業でわざわざ注目しないことを子供目線にして視点を相対化することで新鮮な出来事として読者に見せていて、一般人の自伝でも見せ方を工夫すればそれなりに見どころが出てくるという良い例である。あるいは夏目漱石の『吾輩は猫である』みたいに動物の視点を使う手もあるけれど、そこまでやるとリアリティがなくなりかねないので、子供の視点がちょうどよい。お湯で豚を茹でてから毛をこそげ落とすのは、九州の猟師が猪にお湯をかけて毛をむしる「湯抜き」と似ている。日本の猪の解体方法は他にも皮をはぐタイプ、毛を剃るタイプ、バーナーで毛を焼いて擦り落とすタイプがあるようで、ウィスコンシン州と九州の熱湯をかけて毛をむしるやり方は伝播したというより偶然同じやり方になったのかもしれない。著者が60歳を過ぎて5歳の頃のエピソードをはっきり覚えているのはすごいけれど、これは現代人とは情報量が違うので一つ一つの出来事をよく観察して記憶しているからかもしれない。現代人が1日に触れる情報量は平安時代の一生分、江戸時代の1年分と言われているけれど、現代人は知らないといけない情報が多すぎて一つ一つの出来事をじっくり観察したり考えたりする暇がないし、直接体験したり知人から話を聞いたりするよりもテレビやネットや本とかのメディアで会ったことがない人から情報を知ることの方が多いし、日々の仕事が忙しすぎて過去の些細な出来事を思い出すこともない。昔は何をするにも手作業が多かったので子供は親が働いているところを見ていて、それが親への尊敬につながるけれど、現代では食事は総菜を買ってレンチンするだけだったり、仕事と家庭が切り離されていたりして、子供は親が働く様子を見ていない。子供はマインクラフトやどうぶつの森とかのゲームの箱庭作りに夢中になって、昆虫採集よりもポケモン採集をやるようになって、大人は移動中にスマホを片手にふらふら歩いて周りを見ていない。重厚長大な小説が少なくなって、描写がスカスカで展開が速いケータイ小説やライトノベルが流行るのも情報過多な環境で作者と読者の両方が現実を見なくなっているせいかもしれない。じゃあライトノベルが現代に適応した小説の進化なのかというと、経験も技術も思想も想像力も乏しくなった退化に見える。現代人こそ昔の人の生き方や物語に学ぶところがいろいろありそうである。あと最後のエピソードのグライムズじいさんの歌がこの本のシメとして効いていてよい。ふるき友は忘れ去られてしまうのだろうか心によみがえることはもうないのだろうかふるき友は忘れ去られはるけきむかしも忘れ去られるのだろうか友よ、あのはるけきむかしはるけきむかしふるき友は忘れ去られはるけきむかしも忘れ去られるのだろうかはるけきむかしを忘れないために我々は文章を書き残したり、昔の人の書いた文章を読んだりするわけで、作者がこの本を書いた価値もそこにある。果たして現代に生きる我々は忘れられないほど大事な経験をしているのだろうか。★★★★☆大きな森の小さな家 (角川つばさ文庫) [ ローラ・インガルス・ワイルダー ]
2021.08.26
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田舎で育った純朴な青年詩人が都会で恋をしたりしてまた田舎に帰る話。牧歌的な主人公の失恋や友情のリアリティはよい。しかし過去形で時系列順に淡々と語るオーソドックスな文体はストーリーの起伏が少なく、視点は主人公に固定されていて脇役のプロットが乏しく退屈。★★★☆☆
2008.12.03
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