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2018.01.22
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柳本光晴の『響 ~小説家になる方法~』という漫画が巷で話題らしくて、漫画が文学をどう扱って、絵で小説をどう表現するのか気になったので読んでみた。ストーリーは文芸部の天才女子高校生小説家が暴力を振るいながら芥川賞と直木賞をとってついでにラノベの賞もとって汚い大人をばったばったなぎ倒すという話である。
ラノベによくあるような主人公が何の苦労もなく勝負に勝って周囲に認められるチート系の展開で、リアリティがないので私はつまらなかった。響という主人公に人間味がないのが一番つまらない。デジタルネイティブ世代なのに手書き原稿で、不景気なのに印税に興味なくて、思春期なのににきびや便秘や受験勉強にも悩まないような無機質な女子高生に興味を持てないし、響を世話するストーカーの男子もきもい。実は響は人間でなくてガイノイドの試験機でAIが小説を書いていて、ストーカー男子は響のデータを解析している科学者だったというほうがまだ納得できる。
ちなみに小説家になる方法としては天才と親のコネしか書かれていなかったので、小説家を目指す人の参考にはならなそう。

●文化系天才ストーリーの欠点

・天才の作品を提示できない

天才の物語は華があるので、あらゆる物語の主人公は天才だったりする。友情・努力・勝利を標榜する少年ジャンプの漫画にしても、努力というより特殊能力持ちの天才が主人公である。スポーツや戦闘の体育会系の天才だと天才主人公とライバルが切磋琢磨して必殺技を繰り出す様子が描けるので話が盛り上がる。『テニスの王子様』の波動球のようなリアリティのない必殺技でも具体的に描くことができれば話が盛り上がる。しかし文化系の天才の場合、一人で創作する芸術ではライバルがいないのですごさの比較ができないし、周りが天才だと騒いで天才アピールするものの、作中で天才の作品がどういうものなのかが示されない。これは『響 ~小説家になる方法~』だけでなくて、土田世紀の『同じ月を見ている』は天才画家の話、かっぴーの『左ききのエレン』も天才画家の話だけれど、天才の創作物を直接読者に見せようとしない。結局は作者の才能を登場人物が超えることはできないし、具体的なものを見せてしまったらこの程度なら天才というほどでもないとばれるので、見せることができない。なので物語の展開としては凡人とは違う変な振る舞いをしたり、周りが天才だと騒いで間接的に天才像を演出するしかなくて、体育会系の天才と違って展開が婉曲でわかりにくくになる。『響 ~小説家になる方法~』の場合は主人公の才能を持ち上げすぎて切磋琢磨するライバルがいないので文芸部という環境を活かせておらず、チート能力がある問題児が悪い大人を懲らしめる話になっていて、これは小説ネタでやらなくてもいいんじゃないかというような展開になっている。

・子供は天才小説家にはなれない

・時代を反映していない

フィクションの天才の物語がつまらなくなるのは、天才本人に焦点を当てて同時代を書いていないのも原因だろう。芸術は時代とワンセットになっている。たとえば飢饉や伝染病が起きている時代には人民救済のための宗教画や仏像が作られたし、戦争が起きている中世には騎士道物語やドルバドールが産まれたし、第一次世界大戦があったから失われた世代の作家の小説が享楽的な特色を持ったし、第二次世界大戦後の大量生産の時代だからこそウォーホルの芸術が成り立った。しかし現代を舞台にしたフィクションだと読者が同時代を知っているという暗黙の了解で同時代を書こうとせず、天才だから作品がすごいと天才性をごり押しするのでよけいに背景情報のなさと天才の持ち上げぶりのアンバランスが際立つ。それに現代社会では世界中にものと情報が行き渡って価値が均質化して、たいていの芸術のアイデアはやりつくされて芸術の構成要素の色や形や音や言葉は還元されて、芸術のトレンドがなくなっている。現代の純文学にもトレンドがなくて個々の作家が好き勝手に書いている。それゆえに響が純文学というざっくりとしたくくりで天才扱いされてもどこが天才なのか、他の作家や作品とはどこが違うのか不明でぼんやりしていて、学校以外の社会を知らない未成年の響が何の苦労もせずに小説を書いたというのも才能の証明というよりはむしろ逆に思想の浅さにつながる。時代と向き合うこと、あるいはその時代を生きている自分自身に向き合うことなしでは、必死に生きている他人を感動させるような芸術作品は創作できない。響が現代社会の諸問題と向き合うことと作品の内容をセットで書かないと、響の天才性に説得力がない。

●実在の人物のほうがリアリティのない天才より面白い

いくら天才や英雄の物語がフィクションの王道だといっても、結局はフィクションでリアリティのない天才をでっちあげるより、古今東西の実在の人物の伝記のほうが面白いんじゃないかと思う。現代人よりも昔の人のほうが身分差がある中で病気や戦争や革命に直面して波乱万丈な人生を生きたわけで、丁寧に伝記を書けばそれだけで面白くなる。歴史上の人物を書いた物語はたいてい人気で、漫画だと『キングダム』(李信)、『ヒストリエ』(エウメネス)、『ヴィンランド・サガ』(ソルフィン・カルルセフニ・ソルザルソン)、『イノサン』(シャルル=アンリ・サンソン)などがあるし、小説だと司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が坂本竜馬人気の元になっている。実在の人物だと話の展開が決まっていて作家性が薄れるかというとそうでもなく、脚色の仕方に作家の特徴がでる。『イノサン』は処刑人の血なまぐさい話でありながら絵がきれいでマリーにケレン味があってよい。
芸術家の人生も波乱万丈で、印象派のような新しい時代を作ってきた芸術家たちは同時代の権威ある芸術家には理解されない不遇の貧乏時代があったり、逆に権威に認められた芸術家が時代が変わるとありきたりなものとしてまったく評価されなくなったりして評価の浮き沈みが激しいがゆえに面白いし、大正昭和の作家はインテリと貧乏人とごろつきが混在していて太宰治が芥川賞をほしがったり、坂口安吾が薬中になったり、三島由紀夫が自殺したりする実生活のスキャンダルも面白い。
現実世界を舞台にしておきながら現実に劣る程度のリアリティや想像力ではフィクションとしての存在意義がないし、フィクションは伝記と違って教養にもならない。暇つぶしの娯楽なら無料のゲームがたくさんあるので、教養にもならない小説や漫画を買う理由がなくなる。​ 出版統計 ​を見ると、ムックや文庫の刊行点数は94年の二倍くらいになっているのに販売額は94年以下に落ちている。その膨大な作品は本当に出版する価値があるのか、読者が本棚に置いて何度も読み返す価値があるのか疑問である。漫画家は数が増えすぎてアシスタント不足になっているようだけれど、作家や出版社は粗製乱造を反省して個々の作品の価値をあげるように努めるべきだろう。

●天才はチートではない

ライトノベルだと凡人が異世界に転生して特殊なチートスキルで成り上がる話が人気があるけれど、これはリアリティのないファンタジー世界だからまだ許容されている。一方で響は現実世界で天才が一切の批判を受け付けずに周囲を屈服させるチート能力を発揮したわけで、いくら漫画とはいえリアリティがなくなる。生来の才能を礼賛する物語は地道な努力を否定するので、生まれつきの能力を絶対的なものとしてチートスキルのように扱うのは現実世界を生きるうえでは危険な考え方である。芸術は師弟関係で技術が受け継がれてアイデアを付け足して洗練してきたわけで、天才だから誰から教えられなくてもすごい能力を発揮して他の才能を蹴散らすというのは芸術家が積み重ねてきた努力の否定、多様な才能の否定である。
週刊少年ジャンプだと『アクタージュ act-age』 という天才的な演技力を持つ女子高校生の話が連載開始されたけれど、やたらと未成年の天才がでてくるのはよくない流れだと思う。天才だからうまくいくという展開にするとプロットが作りやすい。これは登場人物が金持ちだったり美男美女だったりラッキースケベ能力があったりするのと同様で、天才は一種のご都合主義のキャラクター属性である。ライトノベルがいくら売れようがしょせんライトノベルとして馬鹿にされるのは異世界転生のチートスキルがなんでもありのご都合主義だからだけれど、ご都合主義で辻褄あわせをしているとプロット作りの能力向上は望めなくなるので、クリエイターは安易に現実世界に天才を出現させるのはやめたほうがよい。ファンタジー世界でなく現実世界の業界をネタにするなら現実世界の障壁も用意しないと、天才がやりたい放題やるだけの話になってしまう。現実世界の障壁を用意している例だと、『Capeta』は天才的なレーシング能力がある少年が主人公だけれど資金難という逆境があるのでマシン性能のハンデがあるなかで戦う主人公の活躍が見せ場になるし、『Giant Killing』だと怪我で引退した天才サッカー選手が監督として弱小チームを立て直そうとして選手やサポーターの反発に試合で答えていくという話で、天才だから何でもうまくいくというご都合主義の展開ではないのでそのぶん波乱万丈になって物語が盛り上がる。天才がカリスマ性を持つのは努力して苦労して逆境を乗り越えて才能を発揮して成功したからで、響のように天才だから何をやっても成功するという展開では凡人である読者は憧れも共感も持てない。才能をライトノベルのチート能力のようなものとして安直に描いてしまうのではご都合主義の二流のプロットといわざるをえない。

●漫画の表現としての価値はあるのか

私は『響 ~小説家になる方法~』が漫画で小説をどう表現したかが気になったので読んだもののその点では期待はずれで、出版する価値のない漫画とまでは言わないけれど、小説をネタにするならもっと面白い作品にしてほしい。筒井康隆の『大いなる助走』とか『文学部唯野教授』とかの文壇パロディネタがよくできているだけに、『響 ~小説家になる方法~』の小説ネタは書くことがなくなった作家とか賞レースに落ちて自殺しようとする作家とかぶさいくで顔出ししない作家とかステレオタイプな作家像で工夫が乏しく見える。響の小説の世界観を漫画風に絵で演出するわけでもないし、響の小説を読んだ人が料理漫画みたいなリアクション芸をするわけでもないし、背中を蹴りたくなるとか蛇にピアスをするとかのパロディがあるわけでもないし、漫画ならではの小説ネタの面白さが出せないなら『響 ~小説家になる方法~』は漫画で表現する意味が乏しい。リアリズムなら漫画ならではの大げさな演出をしないのもわかるけれど、絵柄もキャラクターもリアルでないので話の内容と演出手法がうまくかみあってない。池上遼一は『浦沢直樹の漫勉』でリアルな絵で荒唐無稽なことをやると言って人物造詣に拘っていたけれど、リアルでない絵で荒唐無稽なことをやったらそれは単なる荒唐無稽である。響の物理的暴力性に比べて、実在の作家を批判しないのでは釣り合いがとれない。Amazonのレビューだと響の暴力性が嫌という感想が多かったけれど、私にとってはぬるく感じる。小説家からクレームが来るぐらいに実在の小説家をこき下ろしてやればいいのに、それをやらなずに響が架空の作家や架空の不良と喧嘩したところで見所がない。作家が社会に喧嘩を売らない作品は欺瞞で、いくら暴力シーンを書こうが見せかけだけのファッション暴力である。そんな愛のない暴力では魂がエレクチオンしないッ。『響 ~小説家になる方法~』は映画化されるようだけれど、響に蹴られる小説家役に俳優を使わずに小説家を起用するくらいの文学界への挑発をやってほしいもんである。


響〜小説家になる方法〜(1)【電子書籍】[ 柳本光晴 ]






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最終更新日  2021.09.28 21:18:23
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