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貧乏でも粘り強く努力すれば成功するのだということをいろいろな偉人を例に挙げながら語った本。
●まとめ
外部からの援助は人を弱くするし、すぐれた制度で人間を救えるわけではないので、放っておけば人は自らの力で自己を発展させ、自分の置かれた状況を改善していく。厳しい困難は人間が成功する上での障害とはならず、逆に困難が人を助けて、貧困に耐えて働こうという意欲が起き、困難に直面しなければ眠ったままになっていたかもしれない可能性もよびさまされる。人間の最高の教育には富や安定が不可欠だという説は間違っていて、安楽で贅沢三昧の生活は苦難を乗り越える力を与えてくれないという意味で、貧苦は不幸ではないし、自助の精神さえあれば貧しさは恵みに変わる。天才でなく、並みの能力しかなくても勤勉に努力し続けると名声を得るので、逆境の中でも希望を失ってはいけない。目標を持って粘り強く努力すると偶然のチャンスをとらえて成功する。
ビジネスの成功へいたる道は常識を身につける道でもある。いつも自分の不幸を嘆いている連中の多くは、自らの怠惰や不始末、無分別、努力不足のしっぺ返しを受けているにすぎない。ビジネスを効率よく運営するのに欠かせない6つの原則は注意力、勤勉、正確さ、手際の良さ、時間厳守、迅速さで、些細な事柄が大切で、堕落した個人や国家は些細な事柄を無視する。金はそれなりの力を持っているものの、知性や公共心やモラルもまた力で、金より高貴なもの。社会に本当に影響力を持つ人間は必ずしも金持とは限らない。
くだらない本をむさぼり読んで常識外れの人生模様に感激するのは時間の浪費にとどまらず人間の精神にも有害な影響を与える。本の中の事件に心を動かされたとしても、それは現実の自分が困る問題ではないので、フィクションにばかり感動していると現実に対して次第に無感覚になる。快楽に浸りきるほど若者に有害なものはない。失敗が最良の経験になり、困難が最良の教師になる。千回憧れるより、一度でも勇敢に試してみるほうが価値がある。若者は常によき友を探し求め、自らをいっそう高めようと努力すべき。過去の偉人が与えてくれる有益な手本を見習うべき。立派な人格は人生の最も気高い宝で、人格の力は富より強い。個人にせよ国家や民族にせよ、それぞれの価値に見合うものしか得られず、個人の人格や国民性の優劣が人生や一国の将来を決定的に左右する。真の人格者は公正に行動して、人一倍の誠実さを身に着けていて、弱者へのやさしさと思いやりがある。
●感想
サミュエル・スマイルズは1812-1904年に生きたイギリス人で、産業革命後の古い考えだというのを念頭に置いて読まないといけない。まずスマイルズには福祉の思想がない。成功は自分の努力次第なのだという考え方は貧乏人を励ましているようにみえるものの、裏を返せばアメリカによくあるような黒人は怠惰だから貧困なので支援しなくてよいという差別の論理につながる。日本では氷河期世代を切り捨てるために自己責任、甘え、努力不足のスローガンが使われたけれど、努力した人は成功しているので成功しない人は怠惰なのだという極端な考え方には、平凡な人が足るを知って平凡に生きるという選択肢がない。
タイムマネジメントの概念がない19世紀には時間を有効活用して努力する人が少なかったから一部の努力した人が頭角を現したけれど、現代人は睡眠時間以外は朝から晩まで何かしらの活動に追われていて、皆が同じくらい努力している中では努力が成功につながるとは限らないし、努力量が同じだからこそ適性や才能での勝負になる。例えばIT業界では努力よりも才能の勝負で、平凡なプログラマーが過労死するほど努力したところで天才プログラマーにはかなわない。スマイルズは努力して成功した偉人を何人もあげて自説が正しいかのように言っているけれど、中世の錬金術師や神学者のように努力しても学問的成果をあげずに人生を無駄にした人だっていたわけで、努力した挙句に失敗した人の存在を無視している。それからスマイルズが成功者として例に挙げたのは科学者や芸術家といった個人で研究や創作をした人たちで、ビジネスでの成功を論じているものの組織としてどうあるべきかを考慮していない。スマイルズは投資という概念も持っておらず、借金を否定して貯蓄を推奨して、質素な研究室で成功した学者を称賛している。スマイルズはビジネスを立ち上げる際の初期投資について一切考慮していないので、借金せずに裸一貫で自己資金をためてがんばれというやり方では、ニュートリノの観測とか新薬の開発とかの巨額の投資が必要な研究やビジネスはできない。バフェットやゲイツといった現代の富豪が何に金を使うかというと福祉団体への寄付や企業への投資で、スマイルズの逆のことをやって世界から貧困をなくそうとしているわけで、スマイルズよりそっちを見習うべきだろう。
というわけで、人格やモラルについての部分は普遍性がある内容だけれど、金や経済に関する部分は現代人にとっては賞味期限切れの内容なので、スマイルズの言うことを全部真に受けないほうがよい。この本を読んだ貧乏人が俺だってやるっちゃと奮起するのは悪いことではないけれど、努力の方向性を間違えてはいけない。
さてスマイルズは芸術家や偉人の伝記を称賛する一方で、小説はぼろくそにディスっている。当時はろくな小説がなかったというのも原因だろうけれど、フィクションにばかり感動していると現実に対して次第に無感覚になる、という点は現代でも考慮するべきことだろう。そもそも芸術というのは芸術家が現実に向き合って感動や思想を作品として表現したもので、作者の感動が本物だからこそ、その芸術作品を見た人も感動する。現実世界とまったく無関係なフィクションというのは芸術としての価値は乏しくなる。
現実世界にこだわる芸術家の例を挙げると、宮崎駿は現実世界の観察にこだわる人だというエピソードはいろいろあって、ドワンゴの川上会長が持ち込んだ人工知能でうねうね人体が動くCGを見て身体障害の友人を引き合いに出して、「彼のことを思い出して、僕はこれを面白いと思って見ることできないですよ。これを作る人たちは痛みとか何も考えないでやっているでしょう。極めて不愉快ですよね。そんなに気持ち悪いものをやりたいなら勝手にやっていればいいだけで、僕はこれを自分たちの仕事とつなげたいとは全然思いません。極めてなにか生命に対する侮辱を感じます」と言っていた。芸術家でない人は非現実的なものを何の抵抗もなく作るけれど、芸術家にはそういう現実の軽視、人間の軽視が許せないのである。宮崎駿は『となりのトトロ』を見た子供たちに外に出て自然と触れ合ってほしかったらしいものの、視聴者の子供たちは家でトトロのDVDを見るようになってしまって、宮崎駿の現実世界へのこだわりは視聴者の子供にはあまり伝わらなかった。生まれたころから漫画やアニメやゲームといったフィクションに囲まれて、他人と対面で話をせずに電話やメールやSNSでコミュニケーションをとって育ってきた一般人は、芸術家と違って現実を見る目線が欠落しているか、あるいは現実をとらえる感性が鈍いのかもしれない。だからこそ芸術家が現実に向き合うことに意義がある。
最近は東日本大震災の被災者でもなく被災地に行ったこともない北条裕子がノンフィクションを読んで『美しい顔』を書いて、それを被災者でない批評家が震災に向き合ったポスト震災小説だとべた褒めしたけれど、この人たちの中で「現実」に向き合った人がいるのか疑問である。作者も批評家も本の中の世界だけで完結している。『美しい顔』はアナウンサーを目指しているらしい東北の女子高校生のサナエの一人称だけれど、「レーザー光線のようにピーっとひたすら直線に歩いて行った。」という現実世界では使われていなくてアナウンサーが絶対言わなそうな変な比喩を使っているうえに、女子高校生が使わないようなくどいくらいの「である」口調で、アナウンサー的でもなく、女子高校生的でもなく、東北の方言でもなく、サナエのアイデンティティにリアリティがない。一人称の語り手にリアリティがないのでは作品全体にリアリティがなくなる。私から見たらサナエは東北の女子高校生ではないし、『もののけ姫』で猪の生皮をかぶった地走りみたいにうわべは被災者のふりをしていても中身が違う気味の悪い存在で、「お前たち破滅連れて来た。とうほぐ人でも女子高校生でもないもの連れて来た」と松ぼっくりを投げつけたいくらいである。宮崎駿風に言うなら東北の女子高校生に対する侮辱である。技術的な瑕疵としては「自分の顔が鬼畜のように歪んでいくのがわかった」という比喩があるけれど、鬼畜のように歪んだ顔というのは具体的にどういう形状なのか。なぜ鏡も見ずに自分の顔の歪み具合がわかるのか。一人称では自分の顔は見えないのだから外面描写はできないはずである。ナラトロジーを理解していればこんな文章にはならないけれど、技術的瑕疵を批評家が指摘しないのでは批評家の存在意義はないではないか。
『自助論』の224ページでメンデルスゾーンが「存分にアラを探してこき下ろしてくれたまえ。どこが気に入ったかなんて話は聞きたくない。気に入らないところだけを教えてほしいのだ」とオラトリオ「エリヤ」の初演で友人の批評家に語ったという逸話が紹介されていて、「警戒すべきは、必要以上の称賛や好意的すぎる批評にのぼせ上ってしまうこと」で、「手きびしい辛辣な評価のほうがむしろ本人のためになる」と言っている。これはその通りで、美術や音楽のプロを目指して専門的に勉強した人なら経験したことがあるかもしれないけれど、未熟だけど才能を褒めてほしいといううぬぼれた奴は心が折れるくらい指導者にボロクソに言われる。熱心な指導というのはそういうもので、欠点や間違いを指摘しないで良い所だけ褒めるのは指導ではない。芸術は生活必需品ではないし、いくら芸術が好きだろうが一部の一流の芸術家以外は食えないからこそ一定の技術水準に満たない人は才能がないからやめろと足切りをして、師匠は選りすぐった弟子がちゃんと芸を身に着けて独り立ちして生き残れるように厳しい指導をする。芸術の水準に達しない落書きや雑音はゴミ扱いされて、若い芸術家は働かないで芸術にふけっている役立たずのゴミのように扱われるみじめな修業時代を経てようやく世に出て歴史上の芸術家たちと肩を並べられる本物の芸術家に育っていく。
しかし文学だと子弟制度がなくなって厳しい指導者がいなくなって、プロ作家でも文学理論を理解していなくて技術水準が低かったりする。批評家にしても、もし新人が有名になったらわしが育てたと自慢したがって、わざわざ厳しいことを言って作家やファンや出版社に嫌われたくないという八方美人ぶりである。それは商品の評判を傷つけたくない商売人の態度で、芸術に対してとる態度ではない。北条裕子が被災地に行かないで震災を書いたことを褒めるのではなく、北条が作家として書き続けられるように取材の仕方を教えてやるのが新人を育てる側の本来の役割だろう。講談社は北条を守るというよりむしろスポイルしている。大型新人だのなんだのと絶賛して話題作りするのはマーケティングとしては成果があるだろうけど作家を育てることにはつながらないし、村上春樹以外にスター作家がいなくて純文学が売れないのは作家を育ててこなかった出版業界に原因があると私は思う。
★★★☆☆
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