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2022.01.28
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最近YouTubeで公開されている大学の講義を適当に見ていたら慶応大学の講義の受動意識仮説というのが面白そうだったので、これについて考えることにした。

●受動意識仮説とは何か

受動意識仮説は人間の意識は司令塔みたいな能動的な主体でなくて受動的な観察者のようなものだという仮説で、慶応大学大学院の前野隆司教授が提唱した。人間はエピソード記憶をするために受動的に意識があって、意識が能動的に意思決定しているわけではなく、意思決定の0.数秒前に無意識の小人が意思決定をしている。昆虫のようにエピソード記憶ができない動物は意識を持っていなくて、多くの哺乳類や鳥は餌があった位置などのエピソード記憶ができるが意識のクオリア(主観的意識)があるかどうかはわからない。

・意識はひとつなのか

私は受動意識仮説が正しいような気がする。養老孟司がYouTubeの何かの動画でてんかんの患者で左右の脳をつなぐ脳梁を切った患者について話していたのだけれど、左脳は外に出かけるために右手で靴下をはこうとして、右脳は外に出かけたくなくて左手で靴下を脱ごうとして、なんとか靴下を履いたあと、左脳は右手でドアを開けようとして、右脳は左手でドアが開かないように抑えていて、患者は「ドアが壊れて開かない」と言ったそうな。このエピソードを基に考えると、この患者の意識はひとつだとしてもその意識はドアを抑えようとする右脳の行動を認識していなくて意識が能動的に指示を出して右脳を動かしているわけではないし、右脳と左脳で二つの意思系統があるか、あるいは脳の部位ごとに無意識の小人がいるのかもしれない。右脳と左脳が違う意識を持ったとして、右手と左手は別々に動かすことができるけれど、言語として口から出力できるのはひとつの言葉しかないので、言語中枢がある部分(右利きの95%以上、左利きの70%以上は左脳)が意識をつかさどることになる。アウトプットの手段が限られているがゆえに我々は実際は脳内のあちこちの部位にいる小人たちが意思決定しているのを受動的にひとつの意識としてまとめているだけなのに、一人の人間にはひとつの主体的な意識しかなくて意識が意思決定していると錯覚しているのかもしれない。この辺は素人の私が考えても証明しようがないけれど、脳の研究が進めば明らかになると思う。脳の活動を企業の会議にたとえて考えると、営業部長や経理部長がそれぞれ自分の立場から発言して、その意見をまとめて出来上がった報告書を読む株主が受動意識といえる。部長が発言してから報告書になるまではタイムラグができるし、報告書から削除された発言は株主は認識できない。株主は株主総会で意見は言うけれど、株主が企業を所有するからと言って企業活動のすべてを把握して直接指示を出しているわけではない。こう考えると、無意識に小人たちが意思決定して、受動意識がそれを認識しているという考え方が理解しやすいのではなかろうか。

・無意識の小人がけっこう有能

脳は無意識にいろいろ活動していて、例えば危険がないと学習した刺激は脳が省エネのために自動的に無視するようになって、時計の針がチクタクいう音は物理的には聞こえているはずなのに意識は音を認識しなくなる。意識的に時計の音がうるさいから無視しようと思って無視するわけではないし、意識が司令塔として脳のすべてを制御しているわけではないといえる。右目と左目も実際は若干違う映像を見ているのに、脳が勝手にピントを調整してひとつの映像を見ているように意識は認識する。

・感覚の共有と意識

文明が発達したのは、一人の人間がひとつのことを考えるのでなくて、大勢の人間が協力してひとつの事を考えるようになったからだろう。しかし言葉を媒体にしないと共通認識を持てないのがボトルネックになっていて、言語化しにくい感覚が必要なものは共同作業をしにくい。しかし感覚の共有で言葉を媒介せずに済むようになると作業効率が上がると思われる。
最近はドコモが6G通信で人間拡張基盤を開発していて、これは脳波センサーや筋電センサーをセンシングして得た情報をロボットや人に伝えて操作したり知覚させたりすることが目的で、「身体のユビキタス化」「スキルの共有」「感情の伝達」「五感の共有」「テレパシー・テレキネシス」という目標を掲げている。
この技術が発展したら人間同士が直接感覚やスキルや情報を共有できるようになって、文明が飛躍的に発展したり変化したりするかもしれない。例えば子供は病気になってもうまく症状を説明できなくて診療を怖がるけれど、どこがどのくらい痛むかとかの感覚を脳波センサーでデータ化して可視化できるようになったら患者に説明させなくても診断できるようになるかもしれない。娯楽の楽しみ方が変わって、例えば映画や演劇では観客が登場人物と喜怒哀楽の感情を共有するような芸術鑑賞ができるのかもしれないし、スポーツ観戦だとアスリートと身体感覚を共有して一人称視点で自分がスーパープレイをしているような感じを体験できるのかもしれない。近未来で感覚の共有が一般的になったら、受動的に他人の感覚を意識するようになって、「私」という自意識はあまり重要でなくなるのではなかろうか。そうなったら個人のアイデンティティの拠り所はどうなるのだろう。意識でなく遺伝子がアイデンティティになるのか、あるいは所属する集団がアイデンティティになるのだろうか。集団がアイデンティティになったら個人の自由や権利もなくなって共産主義に適した環境になって、テレパシーで思想教育をして、無個性な労働者がスキルを共有して全員が熟練工なみの作業をして、集団での幸福の感覚を共有する共感覚共産主義というディストピア的な社会が出来上がるのかもしれない。現代は貧乏人がセレブのSNSをフォローしてバカンスだのブランド物のファッションだのの贅沢な気分を疑似体験して代償行為にしているけれど、感覚が共有できるようになったらさらに極端になって、貧乏人が政府から配給されたサプリを噛みながら美食を食べているエリートの味覚を共有して満足するような感覚共有の使われ方になる。

●受動なんとか仮説

主体的だと思っていたもののが実は受動的なものかもしれないという考え方はいろいろなものに適用したら面白いと思うので、科学的に正しいかどうかは無視してとりあえず考えてみる。

・受動創造仮説

受動意識仮説は創造のプロセスと似ている。これとこれを組み合わせたらあれになるぞというのは創造というよりは既存の知識を自覚的に組み合わせた設計で、創造では無自覚なところで突然ピコーンとアイデアをひらめくものである。主体的な意識がアイデアを必死に考えたというより、脳内で小人たちがよくわからない働きをして知識と知識が予期しない組み合わせになって新しいアイデアが出てきた瞬間を受動的な意識が観察したととらえるほうが創造の実感に合っている。しかし意識が受動的なものだとすると、どうやったら小人たちをうまく働かせることができるのかよくわからないのが問題である。たいていは風呂やトイレや散歩中や就寝間際とかのリラックスして通常の思考から外れたところでアイデアをひらめくもので、何かアイデアを出したかったら脳に情報を詰め込んでブレインストーミングとかをしてガンガン刺激して能動的にアイデアを出そうと頑張るよりも、いったん知識を仕入れた後に脳を休ませたり脳を自由に遊ばせたりして受動的にアイデアが出るのを待つほうがよいのかもしれない。

・受動人生仮説

植物や昆虫は光や気温や物質に反応して遺伝子のプログラム通りに動くだけで意思はないけれど、人間は自分の意志で行動できる。しかし我々は自分の意志で生き方を選んでいるつもりで、実際は散歩のときに右に行くか左に行くかという程度の自由はあるくらいで生き方は遺伝と環境で受動的に決まるのかもしれない。古代は生まれた時のヒエラルキーで職業が決まって、親が子供を私有物として扱って勝手に結婚相手を決めて、王の命令で徴兵されて戦死するので、社会が個人の役割を決めて個人の自由がなかった。現代は信仰の自由や移動の自由や職業選択の自由があるので昔よりは選択の幅が広いけれど、たいてい親と同じ宗教になって親の文化資本次第で学力と進路が決まって、貧乏で低学歴なDQNの家庭に生まれたら慶応医学部を出て医者になるとかウィーンの音大に留学してバイオリニストになるとかの選択肢はなくなる。親ガチャという言葉も親次第で人生が決まるという考え方である。人間の死も安楽死や自殺以外はすべて受動的なものである。

・受動ひきこもり仮説

受動人生仮説を掘り下げると、様々な社会問題も環境によって起きるといえるかもしれない。誰でも子供の時は元気に幼稚園に行っていただろうに、なぜか歳をとるにつれて家に引きこもる人がでてくる。ひきこもりは主体的に社会から隔離された人生を望んでいるのでなくて、毒親とか友人がいないとか学校でいじめられたとか不景気で就職先がないとかの環境要因がそろったときに受動的にひきこもることを強いられているのかもしれないし、環境を変えればひきこもらなくなるのかもしれない。

・受動恋愛仮説

我々は自分の意志で誰かを好きになるのでなくて、特定の条件に合う場合にだけ受動的に好意を持つのかもしれない。婚活する女性なんかが典型的で、身長や年収とかの条件を並べ立てて男性が条件からちょっとでもはずれようものならありえないという扱いをされる。運命の出会いの一目惚れとかは無意識に遺伝的な相性を感じ取って恋愛対象を直感的に選別した結果で、意識的に惚れるわけではない。

・受動読書仮説

本屋に何千冊も本がある中で年齢も嗜好も違う人たちが特定の本を買ってベストセラーになるのは不自然である。読書したい人は本屋で自分で読みたい本を選んでいるというより、社会状況によって本屋の品揃えが変わって客に読ませたい本が目立つところに並んで話題になって、環境によって受動的に読むべき本が選ばれているのかもしれない。

・受動スマホ仮説

我々は主体的にスマホを使っているというより、受動的にスマホに使われているのかもしれない。SNSは頻繁に更新されて、ゲームのデイリークエストは毎日変わってログインボーナスがもらえて、新しい情報を目にしたら無視できなくて何か反応しないといけない気になって、生活からネットが切り離せなくなっていつの間にかスマホ漬けになる。

・受動芸能人仮説

勝俣やラッシャー板前みたいに持ち芸がなくてファンがいない芸能人がなぜかテレビに出ているし、フィッシャーズや東海オンエアとかの特にイケメンでもない人たちのYouTuberのグループがなぜか人気になっている。視聴者は好きな芸能人を見たいからテレビ番組を見ているわけではなくて、芸能人だろうが素人だろうが元気に楽しそうにしている姿を見て暇つぶしできれば誰でもいいのかもしれないし、たまたま手元にテレビやスマホがあるからなんとなく動画を見ているだけかもしれないし、いったんそういう人がいると知ったら全く知らない人よりは愛着が出る程度で好きというほどでもないかもしれない。こういう芸のない人たちは芸能人というより元気な人と呼ぶほうが似合っていると思う。

・受動地球仮説

物理学のホログラフィック原理だと、弦理論で空間の体積の記述はどこかの2次元平面に書き込まれたデータの投影で、全宇宙は宇宙の地平面上に描かれた2次元の情報構造とみなすことができるのだそうな。投影されたホログラムのようなものを我々が立体として認識しているということになるらしい。これが地球平面論者の根拠になっているらしい。地球平面論者には教育水準が低いキリスト教徒に多いそうだけれど、そもそも宗教自体が非科学的なので、宗教的な見方を優先すると科学と矛盾するので科学的な思考ができなくなるのだろうか。あるいは宗教を抜きにして考えると、日本みたいに四季がある国だと地軸の傾きが原因で季節が変わると理解しやすいので球体の地球や地動説での地球の公転を想像しやすいけれど、四季がはっきりしない大陸で育った人は空間的な想像力が働かないのかもしれない。

・受動ねこ仮説

我々は自分で飼いたい猫を選んでいるのではなく、NNN(ねこねこネットワーク)という組織が猫好きな人に猫を派遣しているという考え方がある。同様に他の動物も派遣されて受動的に人間の側に存在しているのかもしれないし、GGG(グローバルゴキブリ学園)が掃除が必要な人の家にゴキブリを派遣しているのかもしれないし、KKK(近所のカラス組合)が人間のゴミ処理意識を高めるためにゴミ捨て場にカラスを派遣しているのかもしれない。






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最終更新日  2023.05.31 20:10:58
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