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5月放送分

♪毎日モーツァルト♪  5月放送

5月1日~5日は「今からでも間に合う毎日モーツァルト」を放送
今までの放送分を短縮しております

<5月1日 >

<5月8日> 第66回大司教の束縛 ヴァイオリンソナタ<変ホ長調K380 1781年25歳
18世紀後半のウィーンはハプスブルグ家の都として栄えていた。多くの演奏会やオペラが催されていた。
1781年3月16日モーツァルトはウィーンに到着した。ザルツブルグ大司教コロレドの命令で。到着したその日から演奏を披露する。

モーツァルトは大司教の滞在する「ドイチェスハウス」に滞在する。そこでは召使同様に扱われ粗末な部屋で食事を取らされていた。
大司教はウィーンの貴族達を招きたびたび演奏会を催した。大司教の演奏会のために、このヴァイオリンソナタを書き下ろした。
貴族たちからは新たな演奏の依頼も舞い込んでいた。しかし大司教がそれを許さなかった。
自由な演奏のチャンスを奪われ、モーツァルトの不満は募る。大司教の束縛から解放される日を、待ち望んでいた。

<5月9日>第67回ウィーンへの期待  ヴァイリンソナタ変ロ長調K378
ウィーンでの自由な演奏活動が出来なかったモーツァルト。しかし、宮廷劇場での演奏会への出演の許可をようやく得た。4月3日初めてウィーン市民の前で演奏した。ウィーンの聴衆は曲と演奏に拍手喝さいを送った。

喝采を送った聴衆の中には皇帝ヨーゼフ2世の姿もあったという。
女帝マリアテレジア亡き後、息子のヨーゼフ2世が君臨していた。彼は音楽や演劇に理解があった。

ヴァイオリンソナタ変ロ長調は自分を売り込もうとウィーンで出版した作品集の中の一曲。

<5月10日>第68回決別 ヴァイオリンのためのロンド ハ長調K373

ヴァイオリンのためのロンドは大司教が開いた演奏会のために書かれた。
ある日大司教からザルツブルグへの帰郷の命令が下る。しかしモーツァルトはそれを無視し、ウィーンに留まり続けた。彼の勝手な行動に大司教は怒る。1781年5月9日二人はついに衝突する。

積年の不満が一気に噴き出し、モーツァルトはついに言い放つ。
「これが最後です。明日は辞職願いを届けます。」
モーツァルトは憤然として大司教の下から立ち去った。

< 5月11日>第69回 父への反抗 ヴァイオリンソナタト長調K379
1781年25歳

1781年5月、大司教と衝突したモーツァルトは父に手紙で報告した。
しかし父から届いた返事は期待に反するものだった。それは早まった行動への叱責だった、
父への失望と、大司教への怒り。ヴァイオリンソナタト長調は大司教と決別した1781年に作られた。曲は、激しさと緊張感をはらんで進んでいく。

大司教の側近アルコ伯爵もレオポルトに頼まれ説得に当たる。しかしモーツァルトの決心は変わらない。
業を煮やしたアルコ伯爵は、モーツァルトを戸口に追い出し、その尻を足蹴にした。いつまでも大司教との和解を解く父に苛立つモーツァルト。
大司教との決別は父レオポルトからの自立をも意味した。

<5月12日>第70回楽士達の歓迎 セレナード 変ホ長調k375
1781年25歳

大司教と決別したモーツァルトはウィーンで新しい生活を始めた。それは音楽家として自立した道を探ろうとするものだった。
ある夜、親しい貴族の家に泊まり眠りにつこうとしたとき、彼の耳に管楽器の音色が響いた。窓の下でウィーンの楽士達がモーツァルトのセレナーデを奏でていた。

元来、セレナーデは親しい人にささげて夕べに屋外で演奏された。
このセレナーデはウィーン宮廷画家の妹のために書いた。巧みに用いられた管楽器が、若々しく伸びやかな曲調を奏でる。

1781年秋の初演が大好評を博し、モーツァルトに自信を与えた。
10月31日、モーツァルトの洗礼名の記念日にウィーンの楽士達が集った。そして若き作曲家に親しみを込めて窓の下でこの曲を奏でた。
モーツァルトの門出を祝福するようにセレナードが夜の街に響いた。

<5月15日>第70回運命の出会い 「あぁ母さんあなたに申しましょう」による12曲の変奏曲 ハ長調K265(キラキラ星変奏曲)

1781年5月ぺーター広場の近くに移り住む。「神の目館」じゃ旧知のウェーバー家が経営する下宿だった。向かいのペーター教会はウィーンで最古の教会の一つ。
モーツァルトは3年前マンハイムでウェーバー家と親しくなった。一家はその後ウィーンに移住。
アロイジアの父が亡くなった後、母が「神の目館」で下宿を経営し、娘達を育て上げた。

宮廷劇場のプリマドンナとなったアロイジアは宮廷俳優と結婚。モーツァルトが「神の目館」の住人になったとき、アロイジアは実家にいなかった。
この直後「モーツァルトが結婚する」という噂が流れる。噂の相手はアロイジアの妹のコンスタンツェ。モーツァルト25歳、彼女は19歳。
真偽を問いただす父親に噂を否定する。

「キラキラ星変奏曲」はこの頃かかれたと考えられる。広く親しまれるこのメロディは1770年代のパリの流行歌。好きな人のことを母に打ち明ける内容の恋の歌である。

1778年のパリ旅行でこの歌を耳にしたと見られる。父の意向でわずか3ヶ月で「神の目館」から引っ越す。しかし父に隠したまま、コンスタンツェとの交際はつつく。

<5月16日>第72回 人気教師  2台のピアノのためのソナタ 二長調k448

アウガルテン陶磁器工房の建物は18C、ダンスホールとビリヤードを備えたレストランだった。毎週日曜日の朝には音楽会も開かれていた。
モーツァルトはここで弟子のアウエルンハンマー嬢とピアノを連弾した。

1781年から83年までピアノの弟子を5人もった。当時モーツァルトは自分の価値を高めるため、高い授業料で少数の弟子鹿取らないと父への手紙に書いている。

ヨゼーファ・アウエルンハンマーはウィーン時代初期の弟子の一人。彼より2歳若い裕福な実業家の娘で、プロの音楽家を目指していた。
モーツァルトは手紙の中で彼女の容姿を酷評しているが、「うっとりさせるような演奏をします」と絶賛をしている。

この「2台のピアノのためのソナタ」はアウエルンハンマー邸の音楽界で初演。モーツァルトとアウエルンハンマー嬢が連弾した。
ウィーンでの第一歩はこうしてピアノ教師として始まった。

<5月17日>第73回 コンスタンツェ  ピアノ協奏曲第12番イ長調K414

父に対しコンスタンツェとの付き合いを否定してモーツァルトだったが、プラーターへは一緒に訪れている。
当時、モーツァルトの収入源は、「ピアノの家庭教師」と「予約演奏会」だった。予約演奏会とは、音楽化が自ら企画し富裕層から予約を募って開く演奏会。華麗な協奏曲がプログラムの目玉だった。

この頃予約演奏会用に新たなピアノ協奏曲を3曲作る。最初に完成したのがこの「ピアノ協奏曲第12番」
モーツァルトは次第に自立した演奏家として生きる自信を強める。

1781年12月、モーツァルトはコンスタンツェと結婚する決意を打ち明ける。父の承諾を信じ待った。だが、父はなかなか結婚の承諾を与えなかった。

<5月18日>第74回ピアノの競演 「私はランドール」による12の変奏曲 変ホ長調 K354
1781年12月24日モーツァルトは皇帝に呼び出される。ヨーゼフ2世はモーツァルトの才能を少年時代から高く買っていた。

クレメンティ・・・モーツァルトより4歳年上の29歳。新進気鋭の演奏家だった。当時、イタリア人の音楽家がもてはやされていた。皇帝はモーツァルトにクレメンティとピアノの腕を競わせる。
まず、クレメンティが前奏曲とソナタを弾いた。次にモーツァルトが前奏曲と変奏曲を弾く。
変奏曲とはある旋律に様々な装飾などを加え、変化させていく曲。オペラや流行歌の旋律を元にしたものが多い。

モーツァルトは変奏曲を得意とし、即興演奏もしばしば披露した。
「私はランドール」による12の変奏曲の主題は、パリで流行していたボーマルシェの喜劇「セビリアの理髪師」の劇中歌だった。

王宮での競演後、クレメンティを「機械的に弾くだけ」と酷評したが、クレメンティは「才能豊かで典雅」と絶賛した。
モーツァルトは「皇帝は自分の演奏にご満悦だった」と父への手紙に書いている。翌春には、皇帝がモーツァルトを雇うと言う噂が流れる。だが現実のものとはならなかった。

<5月19日 >第75回スヴィーテン男爵 プレリュードとフーガ ハ長調K394

1782年春、モーツァルトは毎週日曜日、図書館で開かれる音楽会に通っていた。主催していたのは宮廷図書館長スヴィーデン男爵。外国赴任中にバッハなど、バロック音楽の楽譜を収集する。
バロック音楽とは17~18世紀前半のヨーロッパ音楽の総称。当時ウィーンではバッハの音楽も今ほど知られてはいなかった。

図書館での音楽会でスヴィーデン男爵と親しくなったモーツァルトは、バッハやヘンデルの貴重な楽譜を借りて自宅で演奏した。
コンスタンツェはフーガが気に入り、書く様にせがむ。モーツァルトは「このフーガが生まれたのはコンスタンツェのおかげ」と述べている。

スヴェーデン男爵はウィーン時代を通じてのよき理解者だった。男爵を通してバロック音楽の魅力を再認識したモーツァルトは1782年から83年にかけて集中的にフーガを作曲する。バロックの様式を様々な形で取り込むことで、これ以降の作品に深みが増していく。

<5月22日>第76回破られた契約書 ピアノのためのアレグロ 変ロ長調K400

ピアノのためのアレグロはコンスタンツェとの愛をはぐくんだ時期に作られた。自作の楽譜には「コンスタンツェ」とその妹「ゾフィー」の名前の書き込みがある。モーツァルトは姉妹の会話を曲に練りこんだと言う。
ヴェーバー家の娘達の中で、コンスタンツェだけが家事を担い冷遇されていると思うようになる。
コンスタンツェに同情し、家から連れ出し、一ヶ月間ある男爵夫人の家にかくまう。ヴェーバー夫人は怒り、結婚契約書に署名するよう迫る。
モーツァルトが署名した直後、コンスタンツェはこの文書を破ってしまう。
・・・モーツァルトさんあなたから契約書を書いてもらうつもりはないわ。
    あたし あなたの言葉を信じていますもの・・・
モーツァルト25歳。マスマスコンスタンツェの存在が大きなものとなっていった。

<5月23日>第77回待望のオペラ オペラ「後宮からの誘拐」K384第一幕

「後宮からの誘拐」は皇帝ヨーゼフ2世からの依頼で作曲された。初めてのドイツ語オペラ。
オペラの舞台はトルコの後宮。モーツァルトの時代には「トルコ風」の異国趣味がもてはやされていた。トルコの活気あるれる序曲について「フォルテの時はいつもトルコ音楽が入ってくる」といっている。

このオペラのヒロインの名はモーツァルトが愛する人と同じ名前「コンスタンツェ」コンスタンツェは航海の途中さらわれトルコの太守に囚われている。第一幕は恋人ベルモンテが
コンスタンツェを奪還しようとトルコの太守の宮殿にやってくる場面から始まる。
ベルモンテは恋人との再会を前に不安と胸の高まりを歌う。

このアリアについて、「これはみんなのお気に入りのアリアでぼくも気に入ってます」と述べている。
新天地ウィーンでの待望のオペラの依頼、モーツァルトは意気込んで作曲を進めた。

<5月24日>第78回 ヒロインコンスタンツェ オペラ「後宮からの誘拐」k384 第2幕

このオペラはブルク劇場の前身ドイツ国民劇場での初演を目指し作曲を進める。
コンスタンツェと言う名前は「貞節」を意味する。トルコの太守ぜーリムから執拗に求婚され返事を一日だけ待つと告げられる。
コンスタンツェは生き別れの恋人ベルモンテに一層思いを募らせる。

アリア「どんな責め苦があろうとも」ではコンスタンツェがベルモンテへの貞節を死をかけて守るという決意を歌う。
初演の時のコンスタンツェ役は人気歌手のカヴァリエリ嬢。

<5月25日>第79回 歓喜のオペラ オペラ「後宮からの誘拐」k384 第2幕アリア「なんという喜び、なんという歓喜が 私の胸に」

マリオネット劇場は古くからヨーロッパに伝わる人形劇専門の劇場。ここではモーツァルトの数々のオペラ作品も上演してきた。オペラ「後宮からの誘拐」はこの劇場の人気の演目の一つ。

第2幕コンスタンツェとともに幽閉されていた侍女ブロンデが、助けが来たことを知り、コンスタンツェに伝えようと歌う。

一方ブロンデの恋人ベドリロは、恋人とその主人コンスタンツェを救うため、敵と勇ましく戦う決意を歌う。
ベドリロは後宮の番人オスミンを眠り薬入りの酒で眠らせ、ブロンデとコンスタンツェを救出する計画を実行に移す。

・・・二重奏「ブラヴォーバッカス!バッカス万歳!」・・・
この二重奏は酒を飲まされるオスミンとのめせるベドリロが、ともに酒神バッカスを讃えて歌う。ベドリロの計画通りオスミンは首尾よく眠り込む。
コンスタンツェは恋人ベルモンテを再会し、いよいよ後宮からの闘争計画が実行に移されることとなる。

<5月26日>第80回初演の大成功 オペラ後宮からの誘拐k384
第三幕 

・・・五重奏「ご恩は決して忘れません」トルコ衛兵の合唱・・・
このオペラは1782年7月16日、ドイツ国民劇場で初演された。第三幕では真夜中に4人の恋人達が後宮から脱出する計画を実行に移す。しかし作戦はうまくいかず、4人は太守の前に連れてこられる。誰もが死を覚悟するが意外にも、太守は帰国を許すと言い渡す。
4人は太守の英断に感謝して歌う。

侍女のブロンデは番人オスミンから逃れる喜びを歌う。ブロンデの言葉を聴いたオスミンは怒りが収まらない。オスミンの怒りをよそに4人は太守の徳をたたえる。
4人はトルコの後宮から歓びのうちに帰国の途につく。「後宮からの誘拐」は興行的に大きな成功を収める。
ウィーンで15回以上上演されただけでなく、マンハイム、プラハなどヨーロッパ25都市で次々と上演される。オペラの大成功で音楽家としての自身を強めていく。

<5月29日>第81回 父への懇願 交響曲第35番二長調k385
「ハフナー」第一楽章

オペラの成功で人気作曲家としての名声を博していたモーツァルトの下に父から5作曲の依頼が届く。多忙を極める彼だったが、作曲を通じてコンスタンチェとの結婚を認めさせようと承諾する。

依頼したのは市長の息子の爵位授与の祝典で披露する曲だった。ザルツブルグの富豪でモーツァルト一家とも親交が深かったハフナー一家。こうして作られた交響曲第35番は「ハフナー交響曲」とも呼ばれる。
1783年3月、この交響曲をブルク劇場の前身ドイツ国民劇場で初演する。皇帝も臨席した演奏会は大成功を収め、聴衆からも喝采を浴びた。

ウィーンで自立した彼の最初の交響曲。多忙の中、父からの依頼にこたえ、結婚を認めてもらおうとする。父へ楽譜を送るとともに、結婚への同意を懇願した。しかし父からの返事は一向に届かなかった。

<5月30日>第82回結婚 セレナードハ長調K338 「ナハトムジーク」
事態は相変わらずかわらず、コンスタンチェは黙々と家族のために働いていた。同情ぢたもーつかるとは再度彼女をある男爵夫人に邸にかくまった。コンスタンツェの母が連れ出そうとする。ついにモーツァルトは父からの承諾を得ないまま結婚を決意する。
結婚式の前日二人が同意書に署名。このセレナーデハ長調は結婚を目前に控えた時期に作曲されたといわれる。

厳かな短調、明るい長調と変化に富み独自の曲調を持つ。1782年8月4日、モーツァルトはコンスタンツェと結婚式を挙げた。
式はコンスタンツェの母と妹、3人の後見人は出席して行われた。ようやく結ばれた二人。すかし父の姿はなかった。

<5月31日> 新婚 ピアノソナタ第10番ハ長調k339 第一楽章

モーツァルトとコンスタンツェ二人の新たな生活が始まる。
ピアノソナタ第10番ハ長調は、結婚し希望あふれる生活の中で生まれた。幸せの絶頂の中にいたモーツァルト。--おはよう!可愛い女房さんーーという妻へ当てたメモが残っている。

親しい友人の手紙の中で、結婚生活の喜びをつづった。
・・・ぼくは幸せです!
    ぼくの幸福は最高です!・・・
プラーター遊園地二人はしばしば散策を楽しんだ。はれて夫婦となった二人。希望に燃えて新たな生活を踏み出す。









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