エデンの南

エデンの南

グラナダに別れを告げ、バルセロナへ。



 飛行場に行くまで乗ったタクシーの運転手は、ステキなおじさんだった。無口だったがチップを渡すと「グラシアス ! 」と、とても感じの良い笑顔を返してくれた。荷物をおろし、また「ブエン ビアヘ ! 」
 エミリオさんや、グラナダの人達の親切を思い出すと、涙が出そうになって困った。
 バルセロナに着くと、マフラーに手袋をしていた私は、汗だくになった。バルセロナは暖かい。空港バスに乗り、カタルーニャ広場で降り、ガイドブックを見てチェックしていたオスタル、『レシデンシア ヴィクトリア』を目指した。そこはすぐに見つかり、ブザーを押して中に入ると、まずエレベーターがあるのを見て安心した。グラナダでは苦労したからだ。フロントのオジサンが、親切にいろいろ案内してくれた。小柄で、大きな目をキョロキョロさせている、かわいいオジサンである。
 ここはキッチンが自由に使え、冷蔵庫もある。バス・トイレは共同だが、バスルームとは別にトイレがあるので、誰かがシャワーを浴びていても、トイレに入れる。テレビのある広めの部屋にテーブルが何台かあり、ここで食事ができる。私の部屋は、男の人だったらベッドが少し小さいかもしれないが、私には問題ない。水道も暖房もついており、タオルとバスタオルも、きれいなのが置いてある。とにかく便利である。これで宿泊代は、一泊二千ペセタである。部屋数もかなりある。
 ここで、一人のメキシコ人男性に会った。彼はバルセロナで、カタルーニャを習っているそうだ。ここには現在、日本人も泊まっているらしい。
 私は部屋に荷物を置くと、すぐに散歩に出掛けた。まずカタルーニャ広場をちょっと見て、ランブラス通りを歩いた。とにかくランブラス通りはおもしろい。大道芸人がたくさんいるのだが、皆かなりレベルが高いと思う。ギリシャ神話の神やら、天使やら、いろいろいる。鳥をそこら中売っている所を通り過ぎて、しばらく歩くと、花をそこら中売っている所に出る。有名な、サン・ジュゼップ市場もある。ここは野菜、果物、肉、魚など、何でも売っている。鳥やウサギなどが、そのままつるされて売られている。
 バルセロナは活気にあふれ、開放的で明るい。やはり私はここが好きだ。なにしろ最初にスペインを好きになったきっかけは、ここバルセロナである。
 ランブラス通りを海の方まで歩き、そのあとはサンツ駅へ行き、フィゲラス行きの時間を調べ、宿に戻った。私は、日本からカップラーメンを持ってきていたのだが、やっとここで食べる事ができた。と言うのは、今までお湯が自由にならなかったのだ。テレビの部屋に持っていき、そこで食べようとすると、来た時に会ったメキシコ人が隣に座った。とても感じのいい人である。私がカップラーメンを食べようとすると、彼が、「いただきまぁ~す。」と、日本語で言ったのがおかしかった。日本人がそう言って食べるのを聞いて覚えたのだろう。スペイン語にも、「いただきます」にあたる言葉がある。それは「ケ アプロベチェ」と言って、どちらかと言えば、自分が食べる時より人が食べる時に言う事が多い気がする。私が「ケ アプロベチェ」と言うと、彼は「グラシアス。」と言った。
 二人で食べていると、今度は宿のオジサンに連れられて、日本人男性が来た。お互い顔を見るなり、「あっ、日本人 ! 」 彼は英語はできるらしいが、スペイン語は全くわからないらしい。
「オジサンが、ハポネサ、ハポネサ (日本人女性の事。男性だと、ハポネス。) と言うから、なにかと思ったよ。」
と、笑っていた。
 テレビでは闘牛をやっていた。本物は勿論、テレビでも闘牛をちゃんと見るのは初めてだったので、興味深く見た。メキシコ人の彼は、「闘牛はあまり好きではない。」と言いながらも最後まで見ていた。実は私は、彼の事を、しゃべり方やしぐさなどがオカマっぽいと思っていた。オカマはスペイン語で「マリコン」と言う。でも優しそうないい人だ。ああいう人達って、デリケートな感じがする。彼は、牛が剣を刺される度に、「ああ」と声をあげ、首を横に振っていた。


1997年11月30日(日)

 今日は、以前見られなかった『ミロ美術館』には必ず行こうと思っていたが、その前に北駅バスターミナルへ行って、フィゲラス、カダケス行きのバスを調べる事にした。
 その後、シウタデリャ公園の方を歩いていると、『動物博物館』というのを見つけ、おもしろそうなので入ってみる事にした。入ってみると、ここは実におもしろかった。ものすごく小さい昆虫の標本から、動物の剥製まで、数多くある。カモノハシなどもあった。
 公園の外では、大勢のオジサン達が小さいボールで遊んでいた。そしてミロ美術館へ急いだ。日曜日は二時半で閉まってしまうので、早く行かないと見られなくなってしまう。地図を見て、海沿いの道を右に歩けば辿り着くと思ったのだが、それは大きな間違いだった。山をそうとう登らなければならないのだった。かなり登っても辿り着けず、途中でゴンドラがあったので、それに乗った。おかげで素晴らしい景色を見る事ができた。ようやく辿り着いた時には、閉館の一時間ちょっと前だった。日曜日のせいか、人が結構ならんでいた。外観もかわいく、館内には、ジュエリーなどもあり、勉強になった。庭にも出られ、ミロのオブジェが飾られていて、なかなかいい。私がここで特に気に入ったのは、ミロの映像である。彼は本当に可愛いおじいさんだったのだ。無心で、自分の創ったおもちゃで遊んでいる、という感じで、見る人を楽しませる。
 多くの純粋な人というのは、世の中の嘘に出会う度に、傷ついて屈折していくものではないだろうか? この人のように、ずっと純粋でいられるのはスゴイ事だし、なんて幸福な人だったんだろう、と思う。この映像を見ていると心がなごむ。ミロってきっと、まわりの人の心をなごませる人だったんではないかなぁ、と想像した。
 ミロ美術館を見た後は、ついでにオリンピック・スタジアムも見ようと思っていたのだが、あまりに疲れていたので、それはやめた。バスに乗って、エスパーニャ広場へ行き、適当なバルに入ってお昼を済ませた。バルセロナはどこでも、アンダルシアにくらべるとかなり高い。このバルでは、タパス二皿とビールの小ビン一つで、七百何ペセタかした。味の方もたいした事なかった。カマレロも、アンダルシアにくらべると、少し事務的な感じがする。
 この後、地下鉄でサグラダ・ファミリアへ行った。何度見てもスゴイ物はスゴイ ! 今回は中には入らなかったが、まわりをぐるっと一周した。本当にスゴイ。以前来た時は四月だったが、この時期でもバルセロナの空は同じように青く、この偉大な建築物に実にマッチしている。
 この後、ディアゴナル通りに出ようと思ったのだが道に迷ってしまい、疲れたので地下鉄に乗って、カタルーニャ広場まで戻った。そして再びランブラス通りを歩いた。サン・ジュゼップ市場でいろいろ買うつもりだったのだが、日曜日なので閉まっていた。シャワーの後のビールがどうしても欲しいと思い、探すと小さい店で売っているのを見つけた。
 ビール一缶百五十ペセタ。水は小さいのに七十五ペセタもした。マラガの倍以上する。
 この日のランブラス通りは、あまりにも人が多くて、どうして日本から離れているのに、こんな人混みにあうんだ? と思ってしまった。
 結局この日は、動物博物館、ミロ美術館、そしてサグラダ・ファミリアの外観を見ただけとなり、バルセロナの広さを思い知らされた。

ランブラス通り

ランブラス通り


 宿のフロントには、昨日と違う、ちょっとカッコイイ系の、やはり感じのいいオジサンが座っていた。彼は、
「サグラダ・ファミリアは見た? グエル公園は?」
と聞いてきたので、私は、
「サグラダ・ファミリアは見たけど、グエル公園はまだ。でも以前に見ている。」
と言った。彼が
「きれいだった?」
と聞くので、私はもちろん、
「きれいだった。」と答えると、彼からは予測したとおりの答が返ってきた。スペイン人男性なら当然こう言ってくるはずである。
「でも君の方が、もっとキレイだよ。」

 夜寝る前にトイレに行くと、フロントのオジサンに「こっち、こっち。」と呼ばれた。最初に会った方のカワイイオジサンである。私はパジャマの上に上着を着ているという状態だったのだが、「まあいいや。」と思いついていくと、テレビの部屋で、友達になったメキシコ人男性と、日本人男性がくつろいでいた。日本人の方は、明日の朝には日本に帰ってしまうそうだ。夜遅かったので、小さい声で話をしたり、テレビを見たりして過ごした。オジサンも一緒にテレビを見ていた。


1997年12月1日(月)

 朝はまず、ガウディーの建築『カサ・カルベット』を見てからイベリアの支店に行き、航空券のリコンファームをした。そして、ぜひ行きたいと思っていた『のみの市』へ行った。朝なので危険な感じもせず、とても広くておもしろかった。「安いよ、安いよー」みたいな事を、皆、さかんに言っている。
 まず、ピアスが目に入った。値段は二百~六百ペセタぐらい、とものすごく安い。私が
「四つ買うから、負けてくれ。」
と言うと、二百ペセタのを一つ持って、「この分を負ける。」と言った。私は喜んで「グラシアス。」と言うと、おばさんは、おまけにもう一つ、ポンと袋に入れてくれた。
 マラガのフェルナンドと一緒に遊んだのと同じトランプを見つけ、自分の分と、みやげ用に、二つ買った。さらに進むと、なんと実演販売をやっているではないか。ガラスや木を自由な線で切る事ができる、という物だ。はさみやナイフを研ぐ所もついている。私のように物造りをやる人には、これは良さそうだと思い、一つ買った。千ペセタだった。
 たまごっちが九百ペセタで売られていたのはおもしろかった。
 帰りはグラシア通りを歩き、ガウディーの建築、『カサ・ミラ』『カサ・バトリョ』を見た。そしてまた、サン・ジュゼップ市場へ行き、いろいろ買った。卵も売っているので目玉焼きがつくれるではないか ! この市場内でも、店によって値段が違うので、注意した方がいい。ある店では水が高かったのでそこでは買わず、他を見たら半額ぐらいで売られていた。

 いったん宿に戻って荷物を置き、レストラン、『クアトロ・ガッツ』に昼食を食べに行った。ここは昔、芸術家たちが集まった所で、若い頃のピカソも通ったので有名だ。必ずここで一度食事したいと思っていたのだ。
 レストランに入ると二階に通されたので、店全体が見渡せた。メヌー・デル・ディアが二種類あったので、お薦めの方を聞くと、「魚がいい。」と言うので、魚の方を頼んだ。
 この魚は本当に美味しかったが、ワインの味はイマイチだった。カマレロが私の側を通るたびに、「オイシイ? オイシイ?」と聞いてきたのがおかしかった。最後にカフェ・コン・レチェを飲んで、レストランを出た。まずいワインで結構酔ったようだった。
 次はグエル公園を目指した。地下鉄を降りた所で、二人の若い日本人姉妹に出会い、一緒に行く事になった。二人は大阪から来ているそうだ。私と同じ宿に泊まっていた日本人男性も、大阪出身である。
 地下鉄『バルカルカ駅』を出て、ものすごく長いエスカレーターを昇った。このエスカレーターは普段は止まっているが、人が近くに来ると動き出すしくみになっている。実に良く出来ていると思う。スペインではこのようなエスカレーターを度々見かけた。日本でも特に今、地球の温暖化が騒がれているのだから、こういう物はおおいに真似して欲しいものだ。
 このエスカレーターを昇り切って左に進んで行くと、十字架のある高い丘があり、そこから素晴らしい景色を見る事ができた。サグラダ・ファミリアも小さく見える。パックツアーで来てしまうとこういう所には来られないだろう。実際私は、以前にもグエル公園には来ているのだが、この場所は初めてだった。公園に着くと日本人団体がうろうろしていた。モザイクでできたワニくんなどと一緒に写真を撮り、私達はグエル公園を出た。
 私達はすぐに出てしまったが、時間のある人だったら、ここで半日ぐらいゆっくりするのもいいだろう。
 その後、二人の姉妹と一緒にガウディーの建築『カサ・ビセンス』を見に行った。このうちの一人は地図を見慣れている人だったので、あまり迷わずに行く事が出来、おおいに助かった。
 ガウディーの建築は、見るとすぐにそれと分かる。似たような建築は結構あるのだが、圧倒的に何かが違うのだ。
 二人とはここで別れる事になった。彼女等はサグラダ・ファミリアへ行き、私はディアゴナル通りを歩く事にした。
 七時すぎに宿に戻り、買っておいた卵で早速目玉焼きをつくって食べた。久しぶりだったのでとてもおいしかった。スペインの卵はとても大きい。倍ぐらいあるのではないか?
 明日はフィゲラス、カダケスに行く予定なので、昼食用にサンドイッチを作って持って行こうと思い、ゆで卵を作っておいた。
 明日は八時半のバスに乗るので、少し早く寝たかった。以前は電車を使ったので、今回はバスで行ってみたいと思ったのだ。ところがうるさい人達が泊まりに来たらしく、十二時を過ぎても静かにならなかった。ここではドイツ語とフランス語がよく聞こえてくるが、うるさいのはフランス人のようだ。


1997年12月2日(火)

 朝、八時半のバスでフィゲラスへ向かった。バスなので景色がいいのではないかと期待したが、それ程でもなかった。十時五十五分にフィゲラスに着き、すぐにダリ美術館へ向かった。立ち話をしているおじいさんに道を聞いたのだが、わけのわからない言葉でしゃべっている。「ダリ、ダリ」とはっきり言っているのに、全く通じていないようである。これがカタルーニャ語なのか? それでも「ダリ」と言えばダリ美術館の道を聞いている事ぐらいわかりそうなものだ。この人はカタルーニャ人としてのプライドがあり、スペイン語で話しかけたのが気に入らなかったのかもしれない。カタルーニャ地方ではそういう事もあると聞いた事がある。ここではフランス語のようなものも、たくさん聞こえた。ここからフランスまではとても近いので、フランス人も結構いるのかもしれない。スペイン語が通じないとなると困ったものだ。それでも次に聞いた人にはスペイン語が通じ、すぐにダリ美術館を見つける事ができ、ホッとした。
 ここに来たのは二度目である。ダリ美術館とは、素晴らしくて感動する、という種類のものではなく、おもしろくて、ふざけていて、笑ってしまう種類のものだ。このようなものは、二度も見れば十分だと思ってしまった。
 しかし、見ていない人には、一度見に行く事をお薦めする。特にダリを好きな人でなくても楽しめると思う。なにしろ建物からして普通ではない。卵のたくさん乗っているピンクの派手な建物なので、すぐにそれと分かる。コインを入れると雨が降ってくるという、雨降りタクシーなどが有名だ。

 次は、一時のバスでカダケスに向かった。ここには、ダリが最期まで住んでいたという『卵の家』がある。フィゲラスからは一時間ぐらいだ。バスの中で、同じ年代ぐらいの日本人女性に会い、お互い喜んだ。一人ではちょっと心細い場所だったからだ。
 彼女はロンドンに留学中で、今は休暇でスペインに旅行中だという。フィゲラスのホテルに泊まっているそうだ。
 バスからの景色は素晴らしかった。一面に海が広がり、アンダルシア風の白い家々の中に、城のようなものも見えた。
 カダケスに着くと、風が強くてすごく寒かった。バスステーションがあまりに小さくて驚いた。ここに本当にバスが来てちゃんと帰れるのだろうか? と心配になってしまう。すぐ近くに観光案内所があり、この建物の上に、両手を挙げた自由の女神が建っていた。
 ここから二十分ぐらい歩いた所にポル・リガットという村があり、そこにダリの住んでいた『卵の家』がある。ポル・リガットの矢印にしたがって歩いているのだがどうも辿り着けず、また人に聞き歩いていると、白い人の顔が見えて来た。「絶対にこれだ」と思いさらに歩くと卵も見えた。これはすごい。家の上に卵と二つの白い顔が建っている。この二つの白い顔のうちの一つには、真ん中に黒い線が入っている。とにかく普通ではない。
 この家は現在美術館になっているのだが、この時期は閉まっているらしく、中に入る事は出来なかった。それでも卵の家の外観を見られただけでも感激だった。
 カダケスは本当にきれいだった。白い家、地面、海、全てが美しい。マラガのようにゴミが落ちているという事もない。カダケスの海は今まで見た事のないくらい美しい色をしていた。雲はダリの絵そのものだった。なんだかダリの事をとても理解できた気がした。
 帰りのバスの中から、素晴らしくきれいな夕焼けが見えた。必ず再び来て、今度は何日か泊まろう、と心に決めた。

カダケス

カダケスの景色です。右の方、黒猫がこちらに向かって歩いて来ます。


カサバトリョ

おそらくカダケスの帰りに撮ったと記憶してるのですが…ガウディーのカサ・バトリョです~。暗かったので、よくぞ撮れていてくれた ! と大変嬉しかったです。暗闇に浮かぶガイコツとゆー感じで素敵です。



1997年12月3日(水)

 朝はまず、危険地帯といわれるチナ地区にあるガウディーの建築『グエル邸』を見に行った。狭い通りにあるので、この大きい建物は、二八ミリ広角で撮っても、とても画面におさまらない。私の他にもう一人、外国人が写真を撮っていた。カメラをぶらさげて歩いているのは日本人だけかと思ったら、そうではない。私は今までに、カメラを持った外国人をたくさん見かけた。
 この後、『マサーナ美術学校』の矢印を見つけたので、見に行ってみた。ここは、総合美術学校で、彫金もやっているので、一度資料を取り寄せた事があったのだ。
 ここでは生徒を一人も見かけなかった。どうやら今は冬休みらしい。
 次は例によって道に迷いながら、ピカソ美術館へ。ここのチケット代が千ペセタもしたのにはビックリした。前に来た時は、確か五百ペセタぐらいだったはずだ。ミロ美術館など、他の美術館も結構高かった。以前は、美術館はどこでも、四百~六百ペセタで見られたのに。バルセロナの物価の上昇は激しすぎる。
 中に入るとやたらに日本人を見かけた。客の七割ぐらいは日本人だったんではないか。ベラスケスの絵のパロディーが楽しい。特に『ラス・メニーナス』が気に入った。おびただしい量のピカソの作品を見ながら、この人は人間の事をとても良く知っている人ではないか、と思った。人間のいろいろな面を絵に表しているのではないか、と勝手に思ったりした。見ごたえは十分あった。全部見るのに一時間半かかった。
 またまた道に迷いながら今度はカタルーニャ音楽堂へ行った。これがまたスゴかった。実に華やかな建物である。ガウディーと同世代の建築家、ドメネク・イ・モンタネールの設計だそうだ。中に入れなかったのは残念だったが、ガラス越しに見えた内部もまた、素晴らしかった。ここで聴くクラシックのコンサートは、格別だろう。
 私はいったん宿に戻り、ピカソ美術館近くで買ったTシャツやポスターを置いて来た。
 お昼は、ガイドブックに出ていた『エジプテ』で食べたいと思っていた。写真入りで出ていた『ハモンシス・デ・ポジョ・トロピカル』という、生ハムで巻いた若鶏を焼いたものに、ニンニク風味のマヨネーズソースが添えられている、という料理が、実に美味しそうに見えたからである。ここはジュゼップ市場の裏の方にあるのだが、行くと、閉まっていた。これには本当にガッカリして、途方に暮れた。スペイン最後の日だから、いい所で食べたい。ところがガイドブックは宿に置いてきてしまった。今更宿に戻るのは面倒だし、時間もムダになってしまう。残念だが、なるべく人の多い、はやっていそうな所を選んで入る事にした。グラシア通りでバルを見つけ、そこには日本語のメニューもあったので、それならある程度は有名かもしれないと思い、そこに入る事にした。例によってメヌー・デル・ディアを頼み、一皿目をマカロニの料理、二皿目はポジョにした。マカロニは美味しかったが、ポジョはちょっとパサパサしていた。が、付け合わせのポテトにニンニクの味つけがしてあり、これは美味しかった。量はかなり多かった。
 デザートに『マセドニア』というのを頼んでみると、なんだかただの缶詰のフルーツのようでイマイチだった。ワインはグラス二杯飲んだ。この最後の昼食だけは悔やまれる。少しぐらい高くても、美味しい所に行きたかった。
 食後のコーヒーも飲まずに出て、グラシア通りを歩いた。ブーツを買うつもりだったのだが、気に入るものがなかった。グラナダには結構カッコイイのがあったのだが、「バルセロナの方がデザインがいいに違いない。」と思い、買わなかったのだ。これも実に悔やまれる。靴だけではなく、服なども、グラナダの方がファッショナブルなものが売られていた気がする。
 グラシア通りをウインドウショッピングしながら、ディアゴナル通りまで歩き、そこから地下鉄に乗って『マリア クリスチーナ』で降り、ガウディーの建築である『グエル別邸』を探した。人に聞いたらすぐに分かった。正門のドラゴンが実に見事である。牙を剥いてこちらを見ている。

グエル別邸

グエル別邸


 私の観光はこれで終わった。ガウディーの建築は全部見られたわけではないが、これだけ見れば上等だろう。何か目標を達成したような、清々しい気分だった。
 バルセロナでは、とにかくよく歩いた。歩いたと言えば、マラガにいた時から、実によく歩いた。
 宿の近くの靴屋にも何件か入ってみた。かわいいブーツを見つけ、試着してみたが、どうしても私の足に合わない。ブーツを買うのはあきらめた。
 しかし私は、バルセロナで、来年の手帳を買った。スペインの地図なども付いている。来年一年はこの手帳を利用し、スペインの気分に浸れるではないか。

 宿に戻ると、オジサンが二人ともそろっていた。会計は、次の日の朝がすごく早いので、昼に戻った時に、済ませておいた。明日は四時半ぐらいに立たなければならない。
 二度目に会った方の、カッコイイ系のオジサンとは、ここでお別れのようだった。
「明日帰ってしまうなんて、悲しいよ。」
などと言ってくれた。私は本当にこの宿が気に入ったので、
「ここは本当に便利で快適でした。次に来る時も、またここに泊まりたい。」
と言うと、オジサンは、宿のカードを二枚くれ、
「一つは君の分。もう一つは友達の分。」
と言った。本当にここは、客の立場になって考え、客の住みやすいように工夫されていると思う。ここには若い人からお年寄りまで泊まっていた。
 明日は、出発時間である四時半に、もう一人のカワイイオジサンが、ドアをノックしてくれるそうだ。ここまで親切にしてもらえるとは思わなかった。
 シャワーの後、一人、部屋でビールを飲みながら、
「日本になんか帰らずに、スペインでこのまま暮らせたらどんなにいいだろう。」
などと考えていた。と同時に、明日の飛行機を失敗しないように。と、現実的な不安も感じていた。


1997年12月4日(木)

 背が小さく、ちょっと小太りのオジサンというのは、陽気でよくしゃべる人が多いように思う。朝乗ったタクシーの運転手もそういう人だった。
「どうして日本に帰るの? 私は独身で一人暮らしだから、私の家に一緒に住もう。」
なんて言っている。このオジサンは、なんと、空港の中までついてきて、荷物を出す時もまだいた。出発の時間は六時四十五分だった。この人は、
「六時半まで一緒にコーヒーを飲もう。」
などと呑気な事を言い出した。それでは何の為に早く出てきたのかわからないではないか。
「このあと税関を通ったり、いろいろやる事があるから時間がない。」
と言って断った。彼はちょっと残念そうに、それでも感じ良く帰って行った。
 バルセロナの空港はそれほど大きくなく、これなら六時頃に来ても、間に合いそうな感じだ。空港バスで来ても良かったかもしれない。
 帰りもマドリッド経由だった。マドリッドまで乗った飛行機は、やたらと小さかった。まさかこれで日本まで行けるはずはないので、当然マドリッドで飛行機を乗り換えるはずである。隣に座った日本人のオバサンが、
「これで日本に行くのかしら? 心配ねぇ。」
と、しきりに言っていた。まわりを見ると、日本人ばかりだった。
 マドリッド・バラハス空港に着き、私はさっさと荷物検査をぬけると、後ろに誰もついて来ないので、不安になった。行きの飛行機の事が頭をよぎる。それでも今は朝なので、行きの時とは違って、従業員が大勢いる。そのうちの一人にチケットを見せ、
「この飛行機に乗るのだが。」
と聞くと、「一番。」と指をさすだけである。その方向に歩いていっても、さっきの日本人団体がいない。受付の女の人にもう一度聞くと、また「一番。」と言うのだが、一番というのはどこなのかさっぱりわからない。焦って「わからない。」と言うと、「アリバ ! (上) 」と怒鳴られた。初めから上だと言えばいいのに。なぜ怒鳴られなければならないんだか、頭に来る。上に行くと日本人団体がいたのでホッとしたが、この空港の印象は完全に悪くなった。次に来る時は、なるべくここを使わなくてすむルートを考えたい。
 帰りの飛行機は、行きのようにすいてはいなかったが、私の席は通路側だし、隣も落ち着いた年配のご夫婦だったので、まあラッキーだったろう。今年はイベリア航空百周年だそうで、皆にオリーブオイルが配られた。イベリア航空は、なかなかサービスがいいし機内食もおいしい。
 帰りの飛行機の中で、私はもう次のスペイン行きの事を考えていた。今回の留学&旅行は十分、次の計画をたてる為の参考になった。スペインは本当に住みやすい、という事も良く分かった。まずはお金を貯めて、一年ぐらいの計画で行きたい。ゆくゆくはスペインに住む、というのが私の夢だ。
 スペインを離れるのは悲しいが、しばらくは、日本食や、日本式風呂などを楽しもうと思う。飛行機の中から富士山が見えた。




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