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今日は非常勤の日。授業はそれなりにうまくいった感じでほっとする。比較的うまくいったときというのは特記事項がない。というわけで、今日行動していて「ん?」と思ったことを書いておこう。まずは通勤時のバス。今日の運転手はとにかく運転が下手で困った。交差点でしょっちゅうエンスト。アイドリング・ストップということで長い赤信号でそうするケースはよくあるが、青信号に変わった瞬間にエンストしてしまうので、これは違うだろう。しばらく走っていると、今度は狭い道で反対側から来るバスに当たりそうになった。スピードの出し過ぎである。ちなみに同じバス会社のバスだったが、相手の運転手は手を挙げた後で表情が変わっていた。それはそれはきっと怖かったことだろう。「ハンドルで何とかするんじゃなくてまずブレーキを踏め」って、自動車学校で習わなかったのか!?さらにだめ押しで、終点に着いた後、降りようとするみんながバランスを崩していた。最後に止めるところでなんと急ブレーキ!後ろの方で女性のヒールがガツガツ鳴っていた。そして、降りようとすると、何とサイドブレーキを引いていなかったためにゆっくりバスが動き始めたではないか!怖すぎる。帰りにもバスがらみで思うことあり。こちらはいつも思っているのだが、とにかく学生のマナーが悪すぎる。バス停に誘導するような柵(テーマパークなどで並ぶためにあるもの)がないために、横入りし放題、バスがくれば押し合い。柵を作って並ばせればトラブルは防げるはずなのに、見た目とか経費とかいう理由で付けていないのだろう。いつも気分が悪くなる。毎週乗っているバスだが、この加減で通勤時の疲れが少なかったり倍増したりするので、どうでもいいことだが気になってしまった。
Oct 31, 2005
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今日はとてもいい天気。抜けるような青空で、これは外出しないわけにはいかない感じ。妻がチラシを持ってきて、近くの商業施設でフリーマーケットやお祭りがあるから行こうとのこと。子供たちも外に出て遊びたいだろうからすぐにOKした。車で目的地へと急ぐ。屋台もたくさん出るということで、昼食時間にかけて行った。いつもだと土日は駐車場にはいるのも一苦労なのに、今日はなぜかすんなり入った。理由は後でわかったのだが、ビールやワインがいろいろと出ていたからだった。少々車で来たことを後悔しつつも、まずは食事を楽しもう、と思ったら妻はフリーマーケットに夢中。子供服のいいものを探したいのだそうだ。確かに、子供服というのもいいものになればバカにならない値段がするので、状態のいいものを購入するというのは賢い方法かもしれない。というわけで少々待つが、何しろ天気が良く、またハロウィン・パレードがあるとかで仮装した人があちこちでうろうろしているのも見ていて楽しい。妻の気が済んで、ようやくお昼に。しかし、どこの屋台も人だらけ。頑張って並ぶしかない。まずはベトナム料理店の屋台へ。ここでベトナム風お好み焼、エビせんべい、ベトナム風焼き鳥、そしてフォー(別に叫んでいるわけではなくて、うどんみたいなもの)を購入。その中ではフォーがダントツのうまさ。1人前ずつちゃんと作っていたのだ。だから列ができてしまうのは納得。さらには、インド料理店の屋台へ行き、タンドリーチキンとカレーライスを購入。このタンドリーチキンがまたおいしかった。さらには、牧場の屋台では牛肉串焼(これが特大!)も購入。子供たちもよろこんで食べた。満足、満足。そこからしばらくすると、今度はだんじりがやってきていた。娘はなぜかとにかくだんじりが大好きで、お囃子を聴いただけで「行くぞー!」と走っていった。だんじりは1台だけだったが、その分お囃子の解説(お囃子がすべてだんじりの動きをコントロールしているというのは驚きだった)や、だんじりを曳く体験などサービスはよかった。娘も当然のようにだんじり曳きに挑戦、お囃子を聴きながら少しの力で引っ張っているだけなのだが、とにかく満足顔で、楽しそうだった。と、だんじりのお囃子を聴いていて、なるほどと思ったことがあった。最初だんじりを道に出すときに叩き手の子供が叩かせてもらっていたのだが、それはなんとかリズムをそれらしく叩くのが精一杯な感じ。合ってはいるのだが、曳き手を鼓舞する音ではない。ところが、叩き手が本来の大人に変わった瞬間に雰囲気が変わった。曳き手がしっかり反応しているのだ。道を曲がるときも太鼓の音でリズムをとりながら息を合わせている。簡単そうだがお囃子も奥は深そうだ。考えているかどうかは別として、本当に必然性のある場所でうまく音が強くなったり弱くなったりしている。違う音楽であってもやっていることは同じなのだと感じた。などと書いてはみたが、私も娘と一緒でだんじりと歩くのが大好きで、お囃子も理屈抜きで大好きだ。あれこれ書いているのは後付けでしかない。とにかく楽しんだ。あっという間に時間は過ぎていった。
Oct 30, 2005
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今日は夕方からオケの練習。先週に引き続き本番指揮者の練習。本番を振る指揮者は自分の看板を背負うのでとにかく必死でわれわれの演奏を良くしようとする。ありがたい話だ。ところが、今日も演奏はほめられたものではなかった。何となく楽譜をなぞって音は出ているのだが、ちゃんとした音楽にはなっていない。作品と言うにはあまりにも未完成だし、荒削りだと思う。辛口に言えば、モザイクがかかった映像のような演奏になってしまっている。指揮者が聴いているコメントを聞く限りそんな感じだろう。しかし、そんな演奏になってしまうのは、決して「下手だから」ではない(何だか少し前の日記の繰り返しになるが)。楽器をずっと弾き続けている人がほとんどであるようなオケなのに、なぜそうなってしまうのか。それは、指揮者曰く「譜面が全然読めていない」ことに尽きる。「譜面を読む」というのはドレミファと音の長さだけを追いかけることではなくて、その背後に隠された作曲者の要求にまで踏み込んで読み取ろうとすることだと思う。指揮者は「譜面なんて暗号なんですよ。その通り弾いたとしてもそれは作品の2,3割を表現したに過ぎないんです」と言っていた。まさにそうだ。スコアを片手にプロの演奏をCDで聴くとよくわかる。微妙にテンポが揺らされているし、学校では「半分の長さ」と習うスタッカートも作品によって、あるいは指揮者によって全く違う。同じピアニッシモでも出ている音は同じ曲でも場所が違えば全く違うのだ。しかも、音の長さや強さ、音色などについては譜面にほとんど書かれていない。かなりアバウトなものだ。何も指定がなくても音の強弱は微妙に変わっている。大事なことは「書いていないことをいかに読み取ってやるか」ということなのだと思う。「何となく音が出ている」演奏と「人の心を動かす演奏」との違いがそこにあるとしたら、アマチュアにとってはけっこう難しいことなのかもしれない。というのは、「行間を読む」ためにはいろいろな知識が必要であり、少し勉強しないとできないからだ。しかし、「弾くこと」というか「音を出すこと」がとにかく楽しい、あるいは「カラオケ状態」になるのが楽しいからやっているという人も少なからずいるからだ。「難しいことはともかく、楽しもうや」とか、「まあ堅いこと言うなよ。そんなこと言われたら関係がギスギスするじゃないか」などと言っている人がそれで、オケをやるのにはかなり迷惑な人でもある。確かにきつい指摘ばかりする人も困る。要は、言い方、持って行き方だと思う。少なくとも「いいものをみんなで作ろう」という意識がないと、オケはうまくならない。そのためには練習も必要だろう。アマチュアにとっての難しいところは、練習時間や場所がとれないことだ。しかし、それは仕方がないとしても、できることはある。それは「譜面を開いて自分がやるべきことを前もってチェックしておくこと」だ。これだけなら電車でもできる。しかし、「勉強するのはどうも難しい」とか「何から手を付けていいのかわからない」ということもある。その場合におすすめなのは、自分の好きな場所(フレーズ)の譜面を見て「なぜ好きなのか」その秘密を探ってみることだ。鍵盤楽器があるなら、音をとって弾いてみるとなお理解が進む。好きな場所ならモチベーションも上がるし、一度その作業の方式を覚えれば、あとは応用がきくし、他の部分も知りたくなってくるだろう。勉強などという堅苦しく考えなくてもよくなる。それでもいやだと言われたら、どうしようもないのだが...。趣味と本気の線引きはいつでもどこでも難しい問題だ。しかし、どうせやるのならば、向上心を持ってやりたいと思うし、そういう人の集まりにならないといいものはできない。趣味であっても、向上心は持ちたいものだ。手を抜く人がいるとそれにだんだん引っ張られてしまって、ダメになるのがオケだから、なおさらそのように思ってしまう。100人集まってやる趣味なんてなかなかないわけで、せっかくだから一人で弾けることに浸るのではなく、オケならではの楽しみ方をもっと深めていければいいなと思う。
Oct 29, 2005
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今日は大学では3年のゼミ。彼らにはグループ研究をやってもらっているが、その中間報告。まだまだ荒削りではあるが、それなりのことをやってきていることに安堵する。何よりも、発表に対して適当にやると言う困った人が出てきていないことは喜ばしい。このようなことをやってもらっていることの意味をしっかり感じ取ってもらえればと思う。次の時間は自分の中ではどう位置づけていいのか迷う時間。学生サービスの一環として進路相談にのるという名目で1時間その場所に詰めなければならないという仕事の時間だ。しかし、こちらが詰めていても、その場所に来る学生はなんと皆無!本当に相談に乗るという実質的な仕事が伴うならばともかく、果たしてそれは意味があるのか???最近、どこでも大学は学生サービスを高めるための改革というのをしていると思う。しかし、まず「改革ありき」という状態はどうなのだろうか?いろいろとやってみるのは悪くないが、学生サービスだというのならば、ちゃんと満足度を測定するなりフォローが必要だろう。フォローもせずに「とりあえず私たち的に改革はしたつもりです」などと言っていて、学生も教員もお互い満足しないような状況になってはまずい。実際には、変えない方がよかったこともあったりするのだ。慌てて軸がぶれてしまうことの方が危ないのではないかと思うのだが...。いずれにせよ、私は細かい議論に参加する権利がないので、自分のできる範囲でやるしかないのだが。と、ちょっとローな気分だったが、気を取り直して、今日は久々にオケのメンバーと練習日以外で飲み会を決行。場所は某市の有名ビヤホール。私の大好物の唐揚げとビールが心ゆくまで楽しめる。しかも気の置けない仲間と話すのは楽しい。結局、いろいろと話をしながら、あっという間に時間は過ぎていった。いつも唐揚げを頼むとき、必要量+1を頼まれる。理由は、私が1つを全部食べてしまうからだ。要するにどうせ食べるんだからどうぞということなのだろう。大学時代の同期は唐揚げのことを「よんきゅへのお供え物」と呼んでいた。何年たっても、どんな集団に属していても、結局私=唐揚げになってしまうのだ。何というわかりやすさ。これもいいんだか悪いんだかという感じなのだが...。とにかく大好物と楽しい話で機嫌良く帰宅した。これでまたやる気が出るぞ。
Oct 28, 2005
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今日は、午前中に学生からのインタビューを受ける。研究発表のための調査ということだが、内容に不十分な点があることを発見した。私が最初の対象だったこともあり、本格的な調査に入る前の改善点などを指摘し、指導教員に相談して内容を練り直すようにアドバイス。これで午前中は終了。午後からはあれこれ仕事。会議への出席、書類作成、そして本読みと続いた。終了後はいつもの同僚と食事へ。最初に目標としていた店が満席で、仕方なく他の店へ。とはいえ、味などはまあまあで話も盛り上がった。その後で約2名の発案により久しぶりのカラオケへ。日頃の憂さ晴らしに替え歌を披露するメンバーも。替え歌はいつもよくできていると感心させられている。ただし、職場でやったらほとんどピー音だらけで何の歌かわからなくなりそうだが。と、カラオケ店に入ったところで日本シリーズのラジオ中継。携帯電話で途中経過はチェックしていたものの、展開の悪さにその気もだんだんなくなっていった。そして最後のだめ押し、カラオケ点に入ったところでThe end。ロッテの日本一が決まった。結局またもやパ・リーグで1位にならなかったチームが日本一になった。確かに、ロッテの地力を見せつけられたという思いもあるが、やはりプレーオフの制度は疑問に思う。3週間試合をしていないチームとずっと試合をしていないチームとでは勢いに差が出るのは当たり前だと思う。例えば40キロまでずっと走り続けているマラソンランナーと、30キロまで走った後10分休憩して走り始めたマラソンランナーのどっちが勝てるのかを考えればわかるように思う。一度休んでしまったら、やはりダメなのではないだろうか。それならば、せめてセ・リーグ開幕をパ・リーグより2週間遅らせるとかいう措置を考えなければならないだろう。さらに、プレーオフの問題点は、シーズン中のがんばりが反映されないシステムになっていることだ。例えば、第2ステージでは5試合を戦うが、それを4試合制にして、2位チームは3勝、1位チームは2勝でシリーズ進出にするなどしなければならないと思う。もっと言えば、昔実際にあった、前期と後期の2期制に分けてその1位同士がプレーオフを戦うことにする方がまだすっきりするだろう。例えて言えば、よくテレビのバラエティー番組のクイズコーナーで、みんな30点ぐらいしかないのに、「最後の問題を正解したら100点あげます」といっているのと同じであるように思う。まだ急に言われたのなら(まあそれでも良くないが)まだマシで、パ・リーグの場合だと結局それが最初からわかっていることになってしまうのだ。確かに、2位以下は試合数を多く戦うのでそういう意味でリスクは大きいが、そこで勝ち上がっていけば勢いが付く。それに、ずっと戦っている方が調子は持続しやすい。疲れると言ってもここまで140試合以上戦ってきていればそれほど感じないだろう。2年やってみた結果をふまえてこれからのことを考えていかないと、プロ野球の魅力はまた下がってしまうように思う。とはいえ、ロッテは本当に強かった。本当にいいチームであることがプレーオフの段階から感じられた。心から敬意を表したい。
Oct 26, 2005
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今日は講義のない日。午前中は自宅で仕事、昼食に行きがてらこまごまと買い物をする。そして、夜は3年ゼミの飲み会。と、その前に予約が取れた散髪へと行き、マスターとあれこれ話をしながら1時間、その後自宅に帰っても仕事ははかどらないと見て、行く予定のなかった大学へと行く。研究室のある建物の前で、今度の学園祭で屋台を出すゼミ生に会う。研究室の一部を屋台の保管場所として提供すると約束していたので、搬入が終わったとの報告を受け、「看板が素晴らしい出来です。ぜひ見てくださいね」というので、早速研究室へ。実際に見てみるとなかなかいい感じだ。これまでの屋台の看板よりもいい仕事がされている。これが売り上げ増に結びつくと良いのだが、成功を祈ろう。こればかりは人出と人気、そして出店場所に左右されるのであれこれ言っても仕方のないことだ。時間となり、飲み会の会場へと急ぐ。この学年の幹事は飲み会好きでいろいろな店を試してくる。今回の店はなかなかおしゃれな雰囲気だが、いかにも若者向けというわけでもなく、比較的誰でも入りやすい作りになっている。飲み会の目的は何と言ってもコミュニケーションを図ること。お酒はそのお供にしているだけだ。ちなみに私のゼミでは一気飲みをすると一発クビという約束になっている。勢いに頼らない飲み方も大事だと思うからだ。ゼミ生もそこは心得ていて、この約束だけは(「だけは」かいっ!)守っている。今回の話題は就職活動一色だった。3つテーブルがあったがいずれもその話だった。近々SPIの模擬試験があるとかで、みんな対策問題集を持ち合わせていた。そこで、あるテーブルでは問題の出し合いっこが始まった。SPIの一般常識問題はなかなか手強い。「経済情勢」や「政治」は何となくわかるが、「映画・音楽」(興味がなければさっぱりだろう)、「滑車」(物理嫌いだと完全に忘れていそうだ)、果てには「鶴亀算」まである。どこまで企業はこれを参考にしているかは正直なところわからないが、振り落とすために使うのには格好の材料になりそうだ。ただ、これだけ対策がなされてくると、企業としても難しいだろう。こういうテストができる人が必ずしも仕事ができるとは限らないからだ。先日会った会社員にきくと、最近困っているのは「東大や京大が採用されてきたんですが、頭がいいという印象はあっても、実は使えなかったり、すぐにやめたりするということ」なのだそうだ。もちろん、この話もステレオタイプとして捉えられると困るのだが、結局採用する側にとって見れば、大事なことは、「柔軟性とそれを支える人柄」ということになるのではないだろうか。知識も他人の考えも受け入れることのできる柔軟性があれば、かなりのことは解決できそうに思う。もちろん、判断力に優れるという意味での頭の良さがあればなおいいだろう。しかし、記憶力は確かだという意味での頭の良さは、それだけでは武器にならないように思う。最近、就職活動関係では、サイトも充実し、情報も多くなった(と言うより氾濫していると言っても良さそうだが)。ハウツーものもかなり出回り、対策が進んでいることも確かだ。しかし、それを生かすも殺すも本人がよい情報をいかにうまく取り入れられるかにかかっていると思う。ガセネタばかりつかんでも成果は出ないのだ。選ぶ側もかなり迷うところだあるだろう。特色のある方法で入社試験をやると必ず次の年に対策ができあがってしまうので、また目先を変えなければいけなくなってしまう。もちろん、たくさんの希望者を捌くためにいろいろな方法を使って選ぶことになるのだろうが、結局最後は面接が決め手になるだろう。学生にきかれてアドバイスしたのは、「しっかりと自分の就職活動に対するアンテナの感度を高める努力をすること」「自分の行ってみたい業種なり職種を1つしっかり決めておいて深掘りしてみること」「しかしそれだけにこだわってしまうことなく、可能性はできるだけ広く考えてみること」「テクニックにおぼれずに、自分を隠したり飾ったりしようとせず、素直に表現できるようになること」といったところだ。就職活動が佳境に入ってくると、その世界にはまってしまって自分を見失っている学生をよく見る。どこかで自分の行動をチェックしてみて、相対化する視点が必要であるように思うから、このような話になるのだろう。いよいよゼミ生も活動開始、道のりは苦しいだろうが、自分の未来がちゃんと開けるように頑張ってくれることを祈る。決して就職先が向こうから歩いてくることはない。自分で歩いていくしかないとわかっていてくれるといいのだが...。
Oct 25, 2005
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今日は非常勤の日。気分的には少しゆったり(これは気分が変わるからそう思えるのだろう)、朝から天気も良くすがすがしい。娘が「今日はパパと幼稚園に行きたい」といっていたので、約束通り幼稚園まで送っていくことに。あれこれ話すということまではないのだが、少し話しつつ、手をつないで一緒に走るのが楽しいらしい。妻とは話をしながら行くらしいのだが、これは求められている役割が違うということだと思っている。娘は今日芋掘りの遠足、先日私の両親の畑で予行演習をしてあるので、芋掘り慣れはしているだろう。非常勤先の授業を終えて、急いで帰る。娘がバスで帰ってくる場所が最寄り駅のすぐそばで、時間的にも間に合うことを知っていたからだ。何とか電車もスムーズに行って間に合った。掘った芋を持って上機嫌でバスから降りてきた。後は芋を調理するための材料を買いにスーパーを経由して帰宅。芋が大きかったようで、大量の天ぷらが夕食で出た。娘が掘ってきたからというわけでもないのだろうが、やはり掘りたての芋は美味しかった。息子も美味しそうに食べていた。ところが掘った本人は芋よりどっちかというとちくわの天ぷらに魅力を感じていたようで...結局私がけっこう食べて何とか家族で完食。「おいしい?」と盛んにきく娘を見ていると、こういうみやげはうれしいものだ。
Oct 24, 2005
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秋の夜長に聴くのにピッタリくるのがこの曲だと思っていて、この季節になるとかける回数の多くなる曲だ。クラリネットの柔らかい響きが存分に引き出され、それを包んでみたり、時にはつつくようにしてみたりという弦楽器との組み合わせも見事だと思う。クラリネット五重奏曲と言えば、他にモーツァルトが代表と言えるのだが、曲の雰囲気などは対照的だ。この曲のすべての楽章に必ず出てきて、全体を支配しているともいえる調はロ短調。ロ短調が支配している曲をいくつか挙げてみると、バッハ/管弦楽組曲第2番(フルートのソロで有名)、シューベルト/「未完成」、チャイコフスキー/交響曲第6番「悲愴」、ドヴォルザーク/チェロ協奏曲、サン=サーンス/ヴァイオリン協奏曲第3番、エルガー/ヴァイオリン協奏曲などがある。それぞれに表情は違うのだが、程度の差はあっても荘厳さを失わない雰囲気、少し自分から距離を置いているかのようなニュアンスを感じることが多い。「悲愴」があるというと何となく悲しい雰囲気というものが感じられるが、単に悲しいとか悲しげというのとは少し違うような気がするのだ。ブラームスのこの曲でも同じことが言えるような気がする。第1楽章は悲しいとか寂しいとか、単純に言葉にしようとすればそうなるのかもしれないが、そのような中にも少し光が見えるような感じがする(音楽を言葉で語る際の難しさを痛感...)。第1楽章、最初のメロディからすでに引き込まれる。弦合奏で始まってほどなくクラリネットが入ってくるが、そこには一瞬だけ長調の要素が含まれていて、短調の中に一筋の光を見せるような形になっている。ブラームスはこの表現がとてもうまい。交響曲第4番の第4楽章中間部などはまさにそうだ。この曲に初めて出会ったのは大学生の時。オケのクラリネットのメンバーが「一度やってみたいから一緒にやらないか?」との誘いを受けて、CDを借りて聴いてみて一度で気に入ったのですぐに乗り気で練習をして合奏に臨んだ。このときにはヴィオラでOKした人がいなかったようで、結局ヴィオラでやることになった。ところが...とにかくリズムの難しさに参ってしまった。この楽章は8分の6拍子なのだが、リズムを決定している拍に普通あるはずのアクセントが別の場所にあるという場合がやたらと多かった。聴き流していると「ここが小節の変わり目かな」と思っていた場所が実はすべてずれていたという、恐ろしい状態であることがわかったのだ。案の定、合奏してみると通らない。すぐに「落っこちて」(見失って)わけがわからなくなるのだ。しかし、そのような難しい曲に挑戦するのは楽しいことだった。第2楽章はゆっくりとした曲。中間部ではクラリネットが忙しく吹くことになる。この楽章はロ長調で書かれている。ブラームスはこの調を好んでいたのか、他に交響曲第2番の第2楽章や、ピアノ三重奏曲などでもこの調を用いている。楽器の組み合わせによって響きが違うが、これらに共通しているのは「セピア色の明るさ」があることだと思う。抜けるような明るさとは少し違う、これも遠いところで鈍く輝いているような、そして過去の記憶を慈しんでいるかのようなイメージがある。この曲の中では、フレーズの中でのクライマックスで意外な和音が使われていて、これがまたいい味を出している。第3楽章は、最初ニ長調で始まり、軽く漂うような雰囲気を見せるが、ここでもすぐに短調の要素が頻繁に顔を出す。中間部ではスピードが速くなり、弦楽器が跳ねるような音を続け、その間をクラリネットが縫うように吹いていく。その後、冒頭のメロディが戻ってきて、最後は長調で終わる。この終わりはほっとする。第4楽章は、雰囲気としては第1楽章とよく似たところがあり、それによって曲全体の統一性を図っていると思われる。全体的に漂う雰囲気は決して明るいものではなく、むしろ暗いと言ってもいいのだろうが、現代で言う「ネクラ」な雰囲気とはまた違うものだ。むしろ緊張感があるとかいうニュアンスの方が強いように思う。これを「堅苦しい」と捉えることはできるだろうが、時にはこういう緊張感のある音世界も悪くないと思う。雑音のないところで、心を落ち着かせて耳だけから刺激を受けるように聴いてみたい曲だと思う。
Oct 23, 2005
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今日は学部時代のゼミの同窓会だった。これまでなかなか行けなかったのだが、今年の春で恩師は退任されたので、さすがになかなかお会いすることも難しいだろうなと思えた。とにかく会っておきたいと思ったので、今回は思い切って行ってみた。実は私と近い年の先輩と後輩が同業者(もちろん学問分野は同じだが研究領域は多少違う)なのだが、その人たちも来ていた。3人で「先生に何を言われるかこわいよなあ」などと言っていた。昼食に合わせて会がスタート。恩師の挨拶がまずあった。印象的だったのは、「50歳を過ぎたら少々わがままになってもかまわないと思う。それだけの努力をしてきたのだから。楽しんで生きてください」と言った後で、我々の方を見て「あんたらはアカン!まずは血の汗と血の涙を流すところまで頑張れ。そこまでしないと見えないこともいっぱいあるのだから。」との言葉だった。日頃の講義、研究、そして学内行政などでいろいろとご苦労されたことを知っている我々にとっては、非常に重たい言葉だ。そこまでやってきたかと言われれば、まだ自信がないかな...。「俺的」にはそう思っている場面はあっても、恩師から見れば取るに足らないことだと一笑されてしまいそうだ。しばらくして、3人で挨拶に行った。みんな言われたのは、「とにかく早く本を書け」ということだった。恩師の言葉はいつも短いのだが、実にこれがよく効く。目を見てこの言葉を言われるその奥にいっぱい言いたいことを含めていることがよくわかる。「あとはちゃんと考えてやるんだぞ」と背中を押されているような気分だった。大学院の恩師と学部の恩師とではかなり印象が違う。大学院の恩師は一緒に仕事をする機会が多いが、学部の恩師とするということはまずない。どちらかと言えば遠い存在だと言えるのかもしれない。しかし、遠くから自分の将来のことをちゃんと見守ってくれている、そして言葉は少なくても、厳しくも優しく「ちゃんとやるんだぞ」と節目に言ってくれる恩師がいるということは本当に幸せなことだと思う。お元気なうちに約束を果たさなければならないと思った。今日の会は、最大の年齢差が30歳、親子ほど年が離れている人が語り合うという素晴らしい機会だった。これだけの年齢層から愛されている恩師を見て、果たして自分がそんな年になって、こういうことをしてもらえるのだろうかと思うと、う~ん、どうなのだろうか。恩師がご自身でおっしゃっていたが、本当にこれ以上ない幸せな人生なんだろうな。
Oct 22, 2005
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先日、エキストラで出演する某オケに練習に行ったときの話。いつもは優しく、しかもてきぱきと指導していくプロの指揮者(いつもそのやり方を見て見習いたいと思う素晴らしい人)が、珍しく厳しい口調でメンバーに接した。その理由は、いわゆる「下手だから」ではなかった。指揮者は一言で「音は出ているけれど、音楽になっていないから」だと表現した。メンバーはきょとんとしていた感じ。初心者が比較的多いこともあって、指揮者の言うことは熱心にメモしているのだが、果たして理解できているのかどうだか、よけいなこととはいえ心配になった。確かに、演奏を聴いているとおかしな感じがする。弾き始めるタイミングはなんとか合っているのだが、出てきた音は曲にまったくそぐわない音だった(やわらかく出るべき場所をきつい音で出てしまっていた)。例えば弦楽器の音の魅力はピアノなどと違って音を後からふくよかにしていくことができることだ。しかし、弓の使い方が悪いために最初だけ音が出てあとはかすれてしまう(下手な習字みたいな感じ)、いわゆる「音が抜けてしまっている」状態だと、弦楽器の持ち味は全く出てこない。そういう練習をずいぶんとやった。あと、「楽譜通りに弾く」という言葉の意味を取り違えているという趣旨の指摘もあった。指揮者は「楽譜はあくまで記号だ」という。つまり、作曲家にとっては出してほしい音が頭の中にあるのだが、それを伝える唯一の手段が楽譜であって、それは表現としては不十分だから演奏者が補完してやらなければならないということだろう。例えば、一つのフレーズの最初にpと書いてあれば音量を小さくして弾くことになるのだが、その後に何も書いていないからといって、すべての音を同じウェイトをかけて弾くと違和感がかなりある。何も書いていなくても旋律の動きや、和音の動きから判断して音量やウェイト付けを変えて弾かなければならない。そうしないと本当に味気ない音楽、というよりは音の羅列になってしまいかねない。音楽には音の方向性が必要で、それが単なる音の羅列と音楽とを分けているのだろう。指揮者としておそらく許せなかったのは、やるべきことをしてうまくいかないことではなく、やるべきことをまったくやっていないことだったのだろう。「みなさん難しいことをしていると思っているかもしれないけれども、どんなにうまいプロだって同じ楽譜を使っているんですよ。それをどれだけ深く読み込んできっちりとすりあわせていくかが大事なのです。プロの世界はそれをすごい精度で、しかも必死でやっているだけのことなんですよ!」と指揮者は言った。まったくその通り!確かに練習はしているが、効率が悪かったり、向くべき方向をちゃんと向いていないことが問題なのだろうと思う。ただし、私は部外者なのでメンバーに対してそんなことは直接言えないのだが...。いずれにしても、声を出して歌ってみるとそういう音がいかにおかしいかがわかるのだが、楽器を持つとわからなくなってしまうから不思議だ。楽器を持ってしまうと、それを操る難しさの方に頭脳が取られてしまって、あとの部分に気が回らなくなってしまうのだろうと思う。「必死なんだからしょうがない」とはよく聞く話だが、それを最初から開き直って認めていたのでは前進できないと思ってしまう。あるべき姿を考えて努力していく姿勢は何事にも必要だと思う。それがあるから自分の位置もわかるし、目指すべき方向がわかる。それは音楽であっても同じだろう。一度、自分の出している音を客観的に聴いてみて、自分の音を相対化できればいいのだが、これがなかなか難しい。しかし、この能力を身につける努力は必要だ。それは音楽に限らず、仕事でもそうだろう。「自分がやっていることがすべてだ」とか「俺的にはこれでいいと思う」というのは、あくまで自分の基準でそうなのであって、他の人(オケなら聴衆)が認めてくれるかどうかは別の問題だ。こういう話、自分の仕事をしていても、学生の様子を見ていても、共通してあることのように思う。こうして考えてみると、オケという趣味って、勉強になるなあとつくづく思う。
Oct 21, 2005
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今日は「戦い」と言っていた授業の日。先週は、本当に気疲れしたので、今日もテンションがどうしても上がらない。とは言え、何の工夫もしなければ、また敗北してしまうだけだ。 ライブ感なくして授業は成立しないと思っている私にとっては、相手にそれなりの反応がないと気がすまないので、私語が多かったり、シラケた雰囲気があるとどうしても頭に来てしまうのだ。 先週はそんな良くない雰囲気だったのだが、それは教室の大きさが最大の原因だと思っていた。しかし、そう考えてしまうと解決の見込みはないことになる。 そこで考えてみた。内容、話し方、時間配分、機材の使い方など。その結果として思い当たったのは、パワーポイントの使い方だった。 パワーポイントは字がきれいで整っているという利点があるのだが、話しやすいためにどうしても言葉数が多くなりやすい。 加えて、授業を受ける側にとっては聴くという作業が多くなりすぎて、刺激が単純になりやすいし、やや上を向く姿勢が続いて疲れるかもしれない。特に午後の授業だと眠気も誘いそうだ。 そこで、急遽パワーポイントの数を減らして、減らした分の内容を黒板に書いてみた。すると、教室はかなり静かになった。話し始めてもある程度静かだった。それでも完全に静かにならない理由は教室の大きさによるのだろうと思う。一番後ろまでは距離がありすぎて、注意しようとすると走って逃げる者もいたりするので、なかなか難しい。 それはともかくとして、黒板を使って目先を変える作戦は成功したようだ。考えてみれば、黒板をみながらノートに書き写す作業はずっとやってきたことだから受け入れやすいのは当たり前なのだが、その意義を過小に見積もっていたようだ。 少人数ならば、何を使ってもそれなりの成果は出るのだが、大人数だとそうは行かない。そのことに改めて気づいた。 それに、黒板の字は読めればいいわけで、先生の字の癖もそれなりに味があったと思えた。それに、書くことは理解を高めるという研究結果もあるそうだ。 そうするうちに、教育実習で作った指導案を思い出した。あそこまで細かいものを毎回作っている時間はないが、同じようなプロセスで考えて行くのはヒントになる。 やはり、授業は相手のあること、こびる必要はないが、同じ内容の授業であっても、場合によって柔軟に対応しなければならないことを思い知らされた。 こういうことを考え、実現するためには時間もかかるし努力もいる。面倒なことだが、こういう作業は絶対に必要だと思うし、その過程を楽しめるようになれればと思う。
Oct 19, 2005
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今日は授業終了後、高校の同級生と久しぶりに会った。彼は現在僧侶をしている。彼とは学生時代に一緒に母校で教育実習をした仲間だ。2人とも高校の教師を目指していたのだが、結局違う世界に入ってしまった。お坊さんは忙しい時期とそうでない時期の差がかなりはっきりしており、会うことのできる月はほとんど決まっている。毎年同じ時期に会うというのが恒例なのだ。いつでも、高校時代の話から、大学の問題、お寺の問題などなど話、さらには時事問題まで幅広く話している。お坊さんは話し上手であることが多い。日頃いろいろな世代の檀家さんと話をしていることもあり、いろいろなことを知っている。特に、私があまり明るくない話題であっても、上手にかみ砕いて話してくれる。こういう話術は見習いたいものである。とはいえ、1対少数と1対数百人とではやり方が違ってくるだろうが...。今日の話の中で興味を持ったのは、それぞれの地方でしかほとんど消費されない、極端に手に入れにくい食べ物の話だった。地酒、地味噌など、いわゆる「地物」である。彼が檀家さんと食事したときに「朴葉味噌」を食べて感動し、地味噌で朴葉味噌をやってみたいのだという。ちなみに、私も朴葉味噌は大好きだ。学生時代のゼミ旅行で高山に行ったときに、旅館の朝食で初めて食べたのだが、あまりにおいしかったので、ご飯を6杯もおかわりしてしまった。いくらでも食べられてしまうご飯の友になった。高山の味噌は百貨店などで手に入るのだが、彼はそれだと不満らしい。その土地に根付いた味の方がいいのだという。確かにそうだなと思った。土地に根付くという話で思い出したのは、一昨日だったか深夜にやっていた「里山」という番組だ。そこに出てくるのは滋賀県の琵琶湖畔の人々の生活。主に、1年間、ある漁師家族の生活を追っていた。漁で捕った鮒で鮒寿司をつくったり、湖畔に生えているヨシを使ってよしずを編んだり、生活のスピードがすごくゆっくりしているのが印象的だった。また、自然としっかり共存している姿も印象的だった。例えば、仕掛けに魚が多くかかりすぎてしまったら、必要な分以外の魚を船着き場に置いて鳥たちの餌としてあげてしまったりする。たくさんとれたことを「儲けのチャンスが増えた」と考えずに自然に帰すということは、われわれの生活ではなかなかできないようになっている。だからこそ、見ていて新鮮に映ったのだと思う。他に、この地域では湧き水を生活で使うのだが、そのやり方が面白かった。家の中に水路を引き込んでそれを水道代わりにつかっているのだ。洗い物をそこですると鯉が外からやってきて食べる。水路にゴミがたまることもなくスッキリする。もちろん鯉は餌をもらえるわけでこれこそ一石二鳥だ。また、湧き水は冷たいので、果物や野菜を冷やすためにも使われている。水路を引いて使うというのは湧き水が豊富な湖畔ならではだと思う。例えば、米原の近くに醒ヶ井という地区があるが、そこの水路はテレビで時々見かける。そこでは梅花藻(ばいかも)という水がきれいな場所にしか生えない水草が生えていて、非常に美しい。映像ではカメラを水路の中に沈めて梅花藻の高さで撮影していて、水の美しさが際だっていた。このように自然と人間がうまく共存していくためには、ある程度スローライフ的な発想が必要だと感じた。「食べられる(生活がそこそこ維持できる)分だけ採る」あるいは「食べられるだけ作る」という姿勢は現代では難しいが、そういうものは美味しかったりする。逆に全国規模で商品展開したがために味が落ちてしまったものも数多くある。そう考えていくと、地物が美味しいというのは、納得できるように思う。そんな話をしていると、久しぶりに朴葉味噌でも食べてみたいなという気分になった。
Oct 19, 2005
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今日は講義のない日。仕事をした後で、妻が買い物に行くというので、息子と外出することに。大好きな電車に乗りたいというので、とにかく乗りに行く。このルートを考えるのが私の楽しみでもある。時間的制約と見所の多さ、一緒に乗った回数などを考えながら、できるだけ重複のないように決めていくのだ。ちなみに最寄り駅に帰り着いたのは娘の幼稚園がちょうど終わる時間で迎えに行くこともできた(着く時間はだいたい考えてあるが、その通りにならないことも想定されるので若干の余裕は見てある)。これだけピッタリくると気持ちがいいものだ。今日のルートの中には、4月に起こった脱線事故の区間が含まれていた。事故後初めてこの区間に乗車する。先頭車両に乗っていたのだが、事故現場が近づくとさすがに胸が締め付けられる思いがあり、心の中でだが「合掌」。カーブの制限速度は以前よりもかなり遅いと感じた。また、現場の横にある献花台には今日もJRの職員と見られる人が何人か立っていた。大変な仕事である。現場を過ぎると新しく付けられたと見られるATSがレールの間にたくさんあった。これでもか、というくらい。そこまでできるのだったら、なぜそういうことが起きる前にしておかなかったのだろうかと改めて思ってしまう。「効率性」とか「利益」という一つの尺度で考えてしまうようになってしまうと、このようになってしまうのだろうか。そういう思考に縛られないためにもいろいろとよく考えないといけないように思った。よくよく考えないとという話で言えば、多くのニュース番組が取り上げた某銀行で無線カメラが仕掛けられて暗証番号が丸見え状態になったという事件もそうだ。暗証番号を盗み見ようとする犯罪の存在がクローズアップされて、少し時間がたったように思うのだが、その割にこの銀行のやっていたことはあまりにも無防備すぎるように思う。暗証番号を見ることのできる場所にカメラを仕掛けられるようなものを付けてどうするというのだろう。もちろん、銀行側にしてみれば、「そんなところに仕掛けるなんて考えても見なかった」ことなのかもしれないが、防犯という意味で言うと犯罪の現場を隠すようなものを設置するというのは自分で犯罪を呼び込んでいるようなものだ。これも「守るべき相手は誰なのか」、「そのためにしてはいけないことは何なのか」をいろいろと考えれば何とかなっただろうと思う。儲けるためのコンサルタントだけでなく、この場合は犯罪に関する知識が乏しいというのならば、セキュリティに詳しいコンサルタントを雇うなどした方がよかったのではないかと思う。もちろん、これはお金がいることなので踏み切りにくいだろうが...。さらにそういうことを考えさせられたのは、高校生が暴走車にはねられて死傷したというニュースを見て妻が言ったことだ。事故を起こしたドライバーは、現段階では「業務上過失致死傷罪」に問われているようだが、「危険運転致死傷罪」で立件される可能性もあるということだが、妻によると(新聞を読んで知ったそうだが)、最近「危険運転致死傷罪」ができてからひき逃げが増加しているそうだ。その理由は刑期の違いによるらしい。「危険運転致死傷罪」に比べると「ひき逃げ」は量刑が軽い。だから、やばいと思うような運転をしたらとりあえずひき逃げで立件された方がましだと言うことらしい。しかし、それはとんでもない話。もしこういうことが本当に意図的に行われているのであれば、量刑や立件の基準についても考えなければいけないだろう。そうでなければ、「逃げた方が特」になってしまうのだ。そんなことを考える人がいるなどと言うことは法律が作られるときも、それが運用されているときも考えつかなかったことなのかもしれない。しかし、こうした穴を見つける人間は必ずいると考えておいた方がいいと思う。よくよく考えて対処しなければならないと思う。思考停止ほど危険なものはないと思った一日だった。
Oct 18, 2005
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今日は非常勤の日。最初は1年生対象の一般教養の授業。他の分野の学生にとっては一般教養に入れてもいい分野だということらしいが、本務校では持っていない科目だけにちょっと変な感じ。非常勤先では、一般教養といいながら、実は本務校で1年生対象に行っている授業と変わらないレベルの内容で話をしている。こうしているというと、難しい話をしているかのように、あるいは自分の都合で手を抜いているかのようにとられるかもしれないが、そうではなく、自分のやっている分野の魅力や面白さを伝えたいという考えに基づけば、1年生の段階では同じことを教えてもそう変わらないように思うのだ。自分の学部ではまず習うことのない話だが、学生にはけっこう身近な話題も多いので、それなりに集中力を持って聞いてくれるようだ。しかもそれは彼らにとって身近な話題であることが望ましいようだ。少しでも例が彼らと遠くなるとテンションが微妙に下がるのがわかる。しかし、その後少しでも彼らに近づいていけばテンションが上がるのも明らかにわかるのだ。聴く側にこびる必要はまったくないと私は思うが、彼らの世界に入っていける話を持って行く努力は不可欠であることを感じた。次の授業は2年生の外書購読。英語の文献を読ませるのだが、これはさらに集中力を維持することは難しい。しかし、こちらは専門の授業を少しかじっていることもあって、理解は早いようだ。今回は昨年よりも少し難しい教材にチャレンジしている。英語を訳すということだけではなく、それぞれの文の背後にある言葉や考え方を理解してもらうようにつとめている。この授業で思ったことは、一つのトピックを話す時間の長さを考えなければならないということだ。昨日、大学院時代の恩師と仕事でお会いして話したのだが、そのときに「一つのトピックは5分ぐらいがいいようだね。長くても10分かな。うまく切り分けて話さないと飽きてしまうみたいだし。」ということだった。確かにその通り。集中力は持たないものなのだ。最近の学生はある意味私の時代よりも真面目過ぎる人が増えているように思う。もちろん、論外な学生も増えているのだが、聴こうとしている人はとにかく理解できるように説明してくれることを望んでいて、その思いがとても強いと感じる。だから、すべてを吸収しようとして情報を入れすぎて疲れてしまうのだろう。「考えながら聴く」ことをしていればこの状態を回避できるのだが、とにかく「その場で理解したい」という考えがあるようだ。その姿勢や考え方をとやかく言うということよりも、大事なのはお互いがうまく教室という場でライブ感を楽しめるようにすることだと思う。もちろん、それは教える側にとってかなり難しい課題になるだろうとは思うのだが、とにかくお互いがきっちりと歩み寄っていける形に持って行きたいものだ。教える側も相手の立場をよく考えることを忘れないようにしたいし、逆に学生諸君にもそれを理解してもらいたいところだ。
Oct 17, 2005
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今日は雨、子供たちも外で遊べずに発散できず機嫌が悪い。オケの練習に行く前に1時間ほど遊ぶ。あとは自分の好きなことをできる時間があるので、多少はしんどくても気持ちよく付き合える。とはいえ、最近大きくなり、そして重くなっているせいもあって体を張った遊びはハードさを増すばかりだ。そして、夕方からはオケの練習。今日は弦セクションの練習。オケ全体で練習していると埋もれてしまったり、弾けている気になったりという場所がそうではないことが見事に暴かれてしまう。決め所の和音がことごとくひどい音であることがいきなりバレた。フレーズの終わりをみんないかに粗雑に扱ってきたのかがよくわかる。言葉で言うと、「。」に当たるところがとにかく荒っぽい。「ですね。」と言って終わるべき場所が「だぞっ!わかってんのかコラ~」みたいな言い方になっていたりするのだ。習字で言えば止めの部分がすべて払ってしかもかすれているみたいな感じだ。音質そのものにも問題があるのだが、さらにはパート同士でのアンサンブルが合っていないところが多い。実際の楽曲では、微妙にテンポを揺らしてみたりある音だけを微妙に長くしてみたりと、メトロノームに合わせて弾くのを超えた微妙な世界がある。こういった伸び縮みを阿吽の呼吸でパート同士が合わせていかなければならない。そのために必要なのはアンテナを張っておくことと、あとは相手を思いやる愛情ではないのかなと思う。愛情なんて大げさなと思われるかもしれないが、特に技術だけで勝負できないアマチュアのアンサンブルだと特に必要になってくることだと思う。まだまだ愛情を注ぐ余地がうちのオケにはありそうだ。さらに、今日勉強になったなと思ったのは、曲の流れへの気配りの大切さに改めて気づいたことだ。音楽は抑揚のない音の羅列とは違って、それ自体が流れを持っていてそれに従った抑揚が付いている。普通に聴いていると気がつかないことだが、この要素はとても大事だ。ちょうど文字が並んでいるに過ぎないはずの小説が言葉の力で感動を呼ぶことと同じようなものだろう。こちらは音楽を聴くのではなく作る立場だから、流れは自分で作らなければならない。しかし、単に弾くだけでそれができるかのように錯覚してしまうことはよくある。音の強さを示す記号一つとっても、フォルテと書いてあるから小さくすればいいというわけではなくて、そのフォルテがなぜ出てきたのかをわかった上で音を出さなければならないのだ。これをちゃんとやるためにはそれこそいろいろと勉強しなければならないが、そういったところに気を配り始めると、音楽を作る作業は何倍も楽しくなることは間違いないと思う。今日はそのようなことを再確認できたという意味で、いい練習だった。しかし、それらの作業は始まりに過ぎない。そこからさらに体に覚えさせるという作業がある。本番まで、しっかりものにしていきたい。
Oct 15, 2005
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今日は午後から授業。たいていの大学にはも大講義室(400人以上収容できる部屋)というのがあって、私の授業はどういうわけか今年は履修者が多いために、そこへと移動させられた。しかし、このような大きい教室では学生たちのコントロールがほとんど効かない。どの先生も収容人数の半分も来ればあちこちで同時多発的に私語が始まって収拾がつかず、ストレスがたまっていくという。事前に同僚からこの教室での苦労話を聞いていたのだが、ここまでひどいとは...。それ以外の教室ならば何とか静かにさせることはできたのだが、なにぶん学生との距離が遠すぎる。しかも、最近の学生は出席を取らなくても授業には出てきて私語をして、毎週のように誰かが出て行けと怒られている感じだ。こういう状況は誰のためにもよくない。ゼミ生に話を聞くと、「それは親にちゃんと大学に行っているかどうかをきかれるし、授業に出たかどうかを聞かれて嘘をつくのも嫌だし」ということがあるようだ。それも一つの理由なのかもしれない。しかし、何かを得てはじめて意味がある行動になるのだということをわかっていない人が多いように思う。もちろん、それ以前に仕事をして迷惑をかけるのはもってのほかだ。私の学生時代には「しゃべりたいけど授業に行ってしゃべるのも迷惑だし、じゃあさぼるか」といった勝手な理由付けをしていたように思うが、今逆の立場になって思うのは、その方がはるかにましだということだ。というわけでこの時間帯はいつも「戦っている」感じがする。時と共にこの状況が改善されていくように努力をする必要はあろう。しかし、ストレスは多い。そんな「戦い」が終わって、わずかな休憩をはさんで4年ゼミ。今日は卒業アルバムの写真撮影もあるので、みんなスーツで来ていた。今年の初めはみんななんて似合わないのだと思ったものだが、就職活動を経てみると、けっこう板に付いているように思う。撮影後は教室で卒論の発表とディスカッションを行ったが、就職活動でのディスカッションを思い出したのか、発言も自発的に出ていた。きっとこういう姿で活動をしてきたのだろうと思うと、何だか面白いなと思えてきた。しかし、このように成長した姿を見るのはうれしいものだ。あとは卒論でしっかりと自分の考えをまとめて形にするという大きな仕事が彼らには待っている。文章で人に理解させることの難しさを存分に経験してもらおうと思う。ゼミの後は久しぶりに大学の近所の居酒屋で飲み会。居合わせたグループの大騒ぎには少々参ったが、こちらはこちらで盛り上がる。いろいろなお題で話をしてみると、こういう濃密なコミュニケーションが彼らをまた成長させていくのだと思う。いつも同じ店で同じように話していても去年の今頃とは内容も話しぶりも全然違う。そんな様子を楽しめるというのは幸せなことだ。さらなる成長を期待したい。
Oct 13, 2005
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今日は夕方まで授業の後、同僚と食事へ。目新しい話ばかりではないが、楽しいしとにかく落ち着く。こういう仲間は必要だ。「必要だ」などと肩に力を入れているわけでもないのに、帰るときにはそう思うし、そういう今がとてもいいと思える。今日もいい気分で帰宅。いつも最寄り駅から歩いて自宅まで戻るまでの間は音楽を流しながら歩いている。今日は月がきれいな夜、こんな時にすっと入ってきて心を揺らしたのが、チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番の第2楽章だ。この曲、第1楽章冒頭部分はとにかく有名で、CMで流れたこともあるし、私がオケを始めた高校生の頃、某放送交響楽団の演奏会を取り上げる番組ではテーマ曲となっていた。その部分(開始から1分ちょっと)が誰の何という曲なのか、最初はわからず、とにかくいい曲だと思っていた。しばらくしてクラシック音楽にはまり始めて片っ端からレコードを借りたりFM放送を録音しているうちに「チャイコのピアコン」とわかったのだ。しかし、聴いてみるとその部分が終わるとなんと退屈なことか!と思ったものだ。今となってはその魅力がわかるような気もするのだが、最初のメロディのインパクトがあまりにも強すぎたためにガッカリ度も高かった。その後は食わず嫌いの典型。後の楽章は聴かずに放置という状態になった。しかし、その後偶然は訪れた。グリーグのピアノ協奏曲を演奏することになって買ったCDのカップリングがこの曲。テープとは違ってトラックがあるのはありがたい。はて、第2楽章と第3楽章はどんな曲なのか?と聴いてみると、この2つの楽章は自分好みだった。なんというもったいないことをしていたのだろうかと思った。第2楽章はとにかく何も言うことはなかった。冒頭のフルートの歌とピアノの受け継ぎで参ってしまった。さらにチェロ2本だけでそのメロディをやられた日にはもう...という感じ。途中急速な部分を経てまた冒頭のメロディが帰ってくるまでのじらし方がたまらない。戻るふりをしながら全く違う調の要素を見せて、あれ?と思ったところで帰ってくるのだ。この楽章で使われている調は変ニ長調という難しいことはさておき、わかりやすい例で言えば、ドビュッシーの「月の光」と同じ和音(調と言ってしまうとドビュッシーの場合違うので)が最初に出てくる。「月の光」を夜にかけるとやっぱりいいなあと思えるならば、この楽章もそういう要素が多分にある。しかも一度になっている楽器の数が少ない場所がほとんどなので、うるさい要素もあまりない(グリーグのピアノ協奏曲の第2楽章も同じ調が使われているが、チャイコフスキーの方がもっと夜向きだと思う)。ちなみに、同じチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」の夜のバルコニーのシーンもこの調が使われていて、和音の進行も似ているところがある。作曲の年代も近いので、おそらくこの時期にチャイコフスキーが好んで使った色なのかもしれない。このように曲を聴いていて、「なぜ自分はこの曲に感動するのだろうか?」とふと思うときがある。どういう音の時にそうなのか、いつもついつい探索してしまう。この曲に関して言えば、カギとなるのはシのダブルフラットからラのフラットの音に行く進行だということがわかった。難しいことはともかく、ちょっと遠い場所に寄り道をして帰ってくる感覚(これはCDを聴いてみないとわからない)がいいらしい。確かに、小学校の時にはそんなことをしていたような気がする。そういう原体験は音楽の好みに影響を与えるのか、また検証できなさそうな難しい問いができてしまった。
Oct 12, 2005
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昨日そして今日と学会に参加してきた。自分の専門分野に関連はしているが、大学院時代のゼミ出身者で参加している人が少ない学会。とはいえ、私はゼミの中でもこの学会で報告される内容により近いことをしているので、参加することは勉強になる。勤務する大学にも学会員が何人かいて、いつも話をする同僚や、大先輩の先生にも会った。今日は主に統一論題で、いくつかの分野から有名な先生がひとつのキーワードに近い内容を報告した。それを無理矢理なんとか形にするディスカッションも行われた。この分野には本当に頭の良さと膨大な知識に尊敬してしまう先生が何人もいる。日頃は学生相手にいろいろと言っている(ハッタリっぽいことも言ったりしてるかも)私だが、聴く側に回るのもいい勉強だ。もちろん、自分の知的好奇心を刺激してくれる内容ならばなおよい。今回はそういう感じがあった。そういう先生方には才能があると思うので、自分はそこまでの高みに登るのは無理だろうとは思うのだが、真摯な気持ちで努力することを忘れてはいけないことを再認識した。といいながら、自宅に帰ってすぐ勉強とは行かず、ゼミの同期に誘われ、後輩も巻き込んで飲みに行ってしまった。とはいえ、学会のネタを使って議論するわけだから、これも勉強かな。連休ではなくなったが、有意義な時間ではあったと思う。
Oct 10, 2005
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最近、大学ではキャリア教育の名の下にいろいろな施策が求められてきている。「専門的な知識」を持たせて「即戦力」であるような新卒が企業からは求められ、そのような学生を社会に送り出すのが使命であるというような強い論調がある。大学生になる年代の人口が減少していくのが明らかな今、そのように危機感が表されても不思議ではない。このような考え方は、業界では半ば「常識」化しているのだが、果たしてそれはそうなのかという話を今日聞く機会があった。つまり、常識を疑ってみるべきだという話である。上記のような新卒人材を果たして「大部分の」日本企業が求めているということが常識かどうかは疑ってかかる必要があるという考え方に私は賛成である。もし、本当に即戦力が必要であるならば、転職者を中心に企業は人材を確保しようとするはずだし、そうなるのならば専門的知識のない新卒ということにならないように教育制度自体も変えられていく必要があるだろう。しかし、そういう動きはあまり多く見受けられないように思う。さらには、即戦力を受け入れることができるような評価制度や賃金の制度がなければ、そういった人を社員としてつなぎ止めることもできないだろう。「専門的知識」についても問題があるように思う。例えば、「英語の強化」がひとつのキーワードになっている。特に、英会話が必須のものとして考えられるようになってきている。しかし、英会話を大学の4年間で習ってその後しばらく使わずにおいてしまったら、とても使えるものではない状態になってしまう。また、軽い会話はできても深いレベルでの会話はやはり本や新聞を読むことができなければ成り立たない。その読み方もちゃんと習得できないままでは物足りないし、車の片輪がない状態だとも言えそうだ。「英語を読むことばかりやってしまったから会話の教育がおろそかになった」という表現がよくあるが、それはそうかもしれないと思うこともあるにしても、少し違うと思う。なぜ「会話を重視する」ことが「会話ばかりやる」ことになるのかということなのだ。常識を批判して覆しても、今度は別のことが常識となって以前の常識を排除するという構造は健全ではないだろう。ちょうど、多様化や個性の時代といいながらも個性を主張することが「常識」になってしまい、挙げ句の果てにはその常識がひとつの方向に収斂してしまって個性が無くなることと同じだろう。「好きなことをしてもいい」、「何をしたいか早く考えよ」とか言われて、それが見つけられなかったりするとこれは逆にプレッシャーになってしまう。「好きなことを見つける」というのは美しい表現ではあるが、それがそう感じ取れるのは「好きなことができないような気がする」と思う人が多かったからだと言えるのではないだろうか。「好きなことを見つけなさい」あるいは「見つけられなければ話にならない」と言われるような時代背景では、美しい表現どころか、ある個人にとっては迷惑きわまりないものになってしまってもおかしくはないのだ。最初のところに書いた「キャリアの常識」の根底にある主張は、アメリカに多くある論文や著作から来ていることが多いように思われる。アメリカの状況と日本の状況では違う。それぞれの歴史とそれによって形成された価値観を前提とした上で考えていく必要がある。「変わらなければ」という考えが「常識」となっていることもまた問題なのかもしれない。
Oct 9, 2005
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今日は朝から娘の幼稚園の運動会。起きた時間からけっこう雨が降っていて、こんな天気でできるのかと思っていたら、園長先生(女性です)が「絶対やります!大丈夫です!」と言ったという連絡網が回ってきた。幼稚園の行事の時に雨が降っていても、この園長先生が気合いを入れて「大丈夫!」と言ったら必ずこれまでも天気がもったから不思議。今日も本当にもった。雨雲も迫力に負けたようだ。さすがに晴れてはいないが、時折ポツポツと雨粒が落ちてくる程度だった。娘はこの日を楽しみにしていた。他の学年が演技をしているときには応援もするし、たまには他の子とじゃれあったりしていた。日常はきっとこんな感じなのだろう。私はビデオカメラとデジカメを両手に持って走り回っていた。ダンスやかけっこなど楽しそうである。親子競技は妻が出た。娘に「パパと出る?」と昨日聞いてみたら「ママと出る」と言ったのでそうなった。昨日ずいぶん叱られていたから甘えたいのか、私とは公園で遊んだりしているのでたまにはママと体を動かしたいのか、まあ理由はそんなところだろうか。結局撮影をけっこうしていたのだが、入場の時や位置について説明を聞いているときに私の姿を探していたので、「見てるからね」と手を振ったりすると、ついついカメラの画像から目線が切れてしまい、うまく追いかけられないことがたびたびあった。ビデオの画像を記念に残したいという気持ちはあるのだが、見ていてほしいと思っているであろう姿を見ると、直接自分の目でちゃんとわかるように見てあげる方が大事なのではないかと思ってしまう。撮影する方にばかり気を取られて見てあげていないというのでは、大事なことを見落としてしまうような気がしてしまうのだ。年長組になると、跳び箱や竹馬が待っている。私は跳び箱がずっと苦手だった(竹馬はすぐに乗れるようになったが)ので、娘はどうかと今からちょっと不安だが、まあ何とかなるだろう。最近の幼稚園は体育の専門の先生を呼んだりしているようだし(私がいたころはなかった)、お任せしよう。3時間立ちっぱなしでかなり疲れたが、一緒に見に来ていた私の両親が昼食でもと誘ってくれたので、近所の中華料理屋へ。私が小さい頃からあった店で今も地域ではその健在ぶりをしっかり示している店だ(もちろん味はよい)。後から同じ幼稚園の家族が続々とやってきて、かなりにぎやかな昼食となった。自宅に戻ると疲れからか、座ったまま眠ってしまっていた。しばらくして電話の音と「早く出て~!」という妻の声であわてて起きた。ぼちぼち子供の相手をしつつちょっと仕事。しばらくして、大学院時代の先輩が結婚するというので2次会へ。同期や後輩と会い、同じテーブルで歓談。奥さんがきれいな人でほぉ~という感じ。プチ同窓会で気分よくワインを空けた。それが終わってから時計を見ると、オケの練習に1時間ほど出席できそうな感じ。もしものことも考えて楽器を持って行っていたのだが、それが当たった。練習場へと急ぐ。しかし、少々飲み過ぎたか、弾いていても調子が出ない。いつものキレがない感じ。しかもいつもは間違わない場所でも変な間違いをした。さらに、微妙なことなのだが思うように弓を動かすことができていない。オマケに隣の人から「ちょっと飲んでますね?」と言われる。しっかりばれているのだった。いやーな汗も出始めて体が重いぞ...。飲みに誘われるも、もう体力もおなかも限界、明日は学会だしということで年に何度もない自宅への直帰となった。本当に疲れた一日だった。***********と、昨日の指揮者コンクールの話、今のところ間違いだと思える場所をメモ程度に書いておこうと思う。他にも間違っているかもしれないと疑った場所があったが、正しいものと聴き比べると同じバランスになっているということは、合っているんだろうなと思う。違うと思ったのは以下の場所。あとは間違いがあっても私の耳ではおそらく聴き分けられないかな...。あと、手元にあるスコアががスプラフォンのものではないので、まだわからない場所もあるかもしれないと思う。・31小節目、3拍目にピッコロが1オクターブ上がるはずなのに上がっていない。・77-84小節目、フルートとクラリネットがメロディなのにオーボエが一緒に吹いている。・104,106,108小節目、2拍目にアクセントのある音はトランペットが吹くはずなのにホルンが吹いている(あるいはトランペットとホルンが吹くべき音をチェンジしている可能性)。・109,110小節目、ティンパニはないはずなのに叩いている。
Oct 8, 2005
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先日、同僚が1枚のCDを持って研究室にやってきた。「これ聴かれました?」というその手には、コミック「のだめカンタービレ」の登場人物である千秋真一が指揮する演奏とされているCDがあった。クラシック音楽関連のブログでは、この話題がけっこう盛り上がっているようだ。メインはブラームスの交響曲第1番だが、これ自体に興味を引かれたわけではない。むしろ興味を引いたのは、ボーナストラックにある指揮者コンクールの場面に出てきた間違い探し用の演奏の方だった。「この間違い探し、やってみます?」と言われ、面白そうだと思い、CDを借りて帰ることにした。帰宅後、就寝前に一度何も見ないで聴いてみた。しかし、設定が指揮者コンクールでの間違い探しなので、誰にでもわかりそうな間違いは見当たらない。ここまで芸が細かいかと感心するが、この曲を何度も演奏し、練習指揮もした経験から「何かおかしい」と思う場所はいくつかあった。しかし、確信は持てず、すっきりしないまま就寝。今度は、今朝、通勤電車の中でスコアを見ながら聴いてみることにした。電車の中なので環境は悪いが、スコアを広げるためには座る必要があるため、やむなくそうすることにした。すると、「何かおかしい」と感じた場所はやはり間違いであることがいくつかわかってきた。本来その部分では演奏しないはずの楽器が演奏しているケースやその逆、そしてリズムが違っているケースなどがあった。そういう部分は少しわかりやすくするようなバランスで録音されているような気がしたが、それは気のせいだろうか。ただし、CDを聴き取るには限界がある。電車で聴いたことによる限界もあるし、また違う楽器でオクターブで重なっている場所が片方抜けているかどうか微妙にわからないという場合だと、ひょっとして録音バランスのせいでそう聴こえるのかと思えるが、そこまで聴き取ることは難しいだろう。急速なリズムの中で3連符と2連符や4連符を聴き分けるのもかなり難しい。プロの演奏でも区別できないことが実際にあるのだ。だから間違いだと確信を持って言えないところがある。実際に自分で指揮をしてオケから出てくる音を聴けば、おそらくもう少しわかるように思う。CDのように一定範囲以上に高い音や低い音がカットされることがないので、響きの違いがもっとダイレクトにわかるからだ。また、佐渡裕氏の著書にあるような、複雑な曲の中で2番フルートと2番オーボエがお互いの音符をチェンジして演奏していたというケースだと素人には判別不可能だと思う。もちろん、これも実際に演奏している姿が見えていれば、入る前の一瞬の動作を見ることで見破ることは可能かもしれないが。原作では、間違いが8箇所にあるということのようだが、さてさて何箇所見つけられることやら。私がひっかかりを感じた場所もだいたいそのくらいの数なのだが、まだ裏が取れた(はっきり間違っていると言える)のは半分程度だ。いったい間違いはいくつあるのだろうか。実際にプロの指揮者がやったら、どこまで見破ることができるのか興味深いところだが、CDだとけっこう難しいかもしれないかなという気もする。現役の運転士が「電車でGO!」を「難しい」と言っているという話を聞いたことがあるが、それと同じような感じになるのではないかと思うのだ。この間違い探しは本当に難しいが、マニア心をくすぐられたことは確かだ。正解数が公表されていないので確信が持てないままずるずるとしばらくはやっていそうな気がする。問題はこの挑戦をいつやめるかだな...。
Oct 7, 2005
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先日、ゼミ生から「ゼミを辞めさせてほしい」という連絡があった。複数が友達同士で別々にメールを送ってきたのだ。これまでの状況を考えるとこの人たちならばあり得るなと思ってはいた。が、問題はメールでいきなりそれを通告してきたことと、友達同士で示し合わせていたことだ。まずメールだけで済ませようということ。これにはさすがに頭にきた。数行のメールで言いたいことだけを言ってあとはクビにでもしておいてくださいという書きっぷりだった。仕事とはいえ、ゼミ生には関わりを持って行こうとするスタンスでやってきていろいろと相談に乗るために時間も割いた。それだけいろいろとある意味手間を取らせたり、時には迷惑をかけるようなことをしたにもかかわらずそういう対応なのか...。とにかくがっかりだ。思うところがあって辞めることはかまわないと思う。そういうことがあるのは人間同士の関わりの場である限り生じる可能性は排除できない。しかし、辞め方はあると思う。自分の考えをちゃんと理解できるように伝えて礼儀をふまえた上でそうするべきだと思う。それがないために後味の悪い結末になってしまうことは目に見えている。私は礼儀やマナーというものが存在する理由は、無用なケンカや恨みを引き起こさないためであると思っている。「守るべきと誰かが言うから守る」のではなく、そういう問題を引き起こさないための古くからの知恵なのだと思う。こういうことが起きてみてますますそうだと思うようになった。もう一つの問題は、友達と示し合わせたということだ。この人たちが辞めようと考えたきっかけは、ある人のことがきらいだということだった。それもよくよく聞いてみると、その人から直接被害を被ったわけではなく、言葉や行動が嫌だということだった。言うなれば「精神的苦痛」を根拠にしようというのだ。「自分はこのために1年以上も我慢したのだ」と主張するのだが、それはお互い様であるような気がする。ちなみに相手の人はそこまでその人たちのことを悪く思っているわけではない。要は、「何となく腹が立つから辞める」ということなのだろう。しかし、そういう人がいるから辞めるというのは筋が通らない話である。「自分たち的には」通る話なのだろうが、どう考えてもおかしい。私は「そういう考え方の人がいてもおかしくない」という意味では理解できるが、決してそのことに共感することはできない。それぞれ細かい理由を説明してもらうとどうやら考え方は違うようだ。理由づけも少しずつ違っている。しかし、それを一人で判断できずに「きらいだ」ということを根拠に何となく阿吽の呼吸で意思決定を下すというのは、いったいどういうつもりなのだろうか。それこそ「○○ちゃんが死ぬんならあんたも死ぬんか?」という古典的なつっこみをせずにはいられない。このままだと話にならないので、とりあえず一人ずつ呼んで話を聞いた。とにかく「きらい」ということが「その人と時間を共有することだけでも苦痛」という段階に到達して、ゼミにいることの意味をすべて吹き飛ばしてしまうらしい。でも卒業論文はちゃんと書きたいという。これにはあきれて言葉も出ない。私がやってきた1年以上のことって、卒論って、そんなことで飛んでしまうわけ!?というのが本音だ。さらには捨てゼリフ気味に「先生の否定的なコメントもやる気をなくす原因だ」と言われた。これは明確に反論した。私は「このテーマで書かれた卒論で成功した例は今のところない。が、あなたの計画はしっかりしているから行けるかもしれない。頑張って取り組んでほしい」と言ったのだが、「。」の手前部分が否定的だったからその後のコメントを聞く気がしなくなった」というのだ。人の話は最後まで聞きなさい!だいたい、否定的なコメントでやる気をなくすって、いったいどういう自信なのかという感じだ。確かに否定的なコメントならば当人をへこませることにはなるかもしれないが、逆ギレされる正当な理由はない。それから「あなたが残ったとして、友達が辞めようよと言ってきたらどうする?」と聞いてみたら、「たぶんやめるでしょうね」という。しかし、その人は「きらい」な人はいないというし、そこまで毛嫌いしているわけではないという。でも何となく辞められるのかと思うと、これは悲しいものがある。「父ちゃん情けなくて涙出てくらぁ!」という心境だ(ちょっと懐かしのドラマから。ドラマのようにこの後どついていいのならそうしたいくらい)。「そんなに言うのなら相談して決めたら?」と言って話は終わった。ゼミって何なのだろうかと考えさせられる。ゼミでは普通の授業で学べないことが学べるから価値があると私は思う。仲間と協力し合うこと、考えの違う人とうまく折り合いを付けること、その上でちゃんと話し合う関係を作ること(これができない人は「バカの壁」を地で行く人だ)、卒業論文で自分の考えをまとめて形にすること(これは社会でも必要なスキルだと思う)、否定的なフィードバックにも大人の対処ができるようになることなど、いろいろあると思う。いずれも一方通行の講義ではできないことだ。最近よく言われるのは、「就職活動のときに面接でゼミのことや卒業論文のテーマを聞かれるから」何となく入っておくべきなんだろうなという考えが一部の学生の中にあるということだ。つまり、ゼミは就職活動の手段にすぎないと言うことなのだろう。確かに、3年生の時点で卒業単位を揃えてしまえば、4年生でゼミの単位も必要ないと卒業論文を書かずにそのまま消えてしまうこともできるというのが実態だ。単位が足りてしまうような、優秀だと言われる学生がそういうことを平気でやってしまうのである。そうなると、教員はたまったものではない。かけた労力があっけなく全部パーになってしまうのだ。「それも時代の流れ」などと言われそうだが、そんな流れはあってはいけないと思う。そうやって、手抜きが蔓延していき、最後はどうしようもない人ばかりを世に送り出すという結果になってしまうのだ。人間同士が関わり合う場だからこそ、譲るべきではない線があるはずだ。「ゼミは3年生だけにして、4年生は就職活動に専念させるべきだ」とか「卒業論文を希望者だけにしてそれだけで単位を認めたらどうか」という意見が出てくるのも、今の状況を考えると確かに自然だ。しかしそれもどうかと思う。3年生のゼミは本当に入り口しか教えられない。きっちりと相手を理解してぶつかれるのはその後だ。もちろん、これを大学あるいは学部全体でどういうスタンスのもとで考えるのか、議論は必要だろう。これまでのオーソドックスな形がいいのか、新しい形がいいのか。しかし、どちらにしても人間関係そして信頼関係がどんどん無くなっていくことだけは危険だと思っていた方がいいと思う。おそらくその先にあるものは、ギスギスとした人間関係の中で窮屈な暮らしをすることになる姿だろう。そのような事態を防止することなくして、「自己実現」なんて嘘くさすぎる。考えてみれば、そういった価値観をぶつけ合うような話をすることさえ、いろいろな場面で最近では減っているような気がする。対話を避けることがいい結果につながらないのは、ニートの問題と同じだろう。少々大げさだが、社会が抱える問題の根っこを垣間見たような気がした。
Oct 5, 2005
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この曲は先日OBオケで演奏した曲で、楽器を始めて初期の頃から親しみを持って聴いていた曲だ。この曲の調性はト短調(フラット2つ)、この調で書かれた弦楽器の協奏曲は少ないように思う。思いつくところを挙げれば、ヴィヴァルディ「四季」の「夏」、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番などぐらいだろうか(もちろん他にもあると思うが)。これを見る限り、現代に近い作曲家が用いているようだが、後者の2人に関しては調性といってもいわゆる聴きやすい調性音楽にはなっていないので、何とも言えない。圧倒的にシャープ(#)の付く曲が多い。多くはニ長調(#2つ)で、どうやらこれは楽器がなりやすい調だからのようだ。フラット(b)系は確かにきらびやかな効果を出すことは難しいようなので、好まない作曲家が多かったのかもしれないが、私は作曲を専門的に勉強したわけではないので自信を持っては言えない。第1楽章はディンパニのロールと木管楽器に導かれるようにソロがいきなり登場する。ここで使われる上行音型はこの楽章の中で何度も形を変えて登場する。うちに激しいものを秘めているかのような部分とは対照的にすぐ穏やかな音楽が展開される。ソロの動きに絡んでくる木管楽器の動きが素晴らしい。その後の展開部分ではどんどん緊張感の高まる音楽に発展、この楽章で最も激しい部分はソロではなくオケによって演奏される(オケのヴァイオリンにとっては難関、ここはかなり練習しても最後までうまく行かなかった)。続いてソロが短いカデンツァ(伴奏がないソロのみの演奏部分)を弾き終わった頂点にいきなり第2楽章の調性である変ホ長調(b3つ)を示唆するフォルテによる合奏が登場、これが静まりきったところに第2楽章がアタッカ(切れ目なく)で続く。第2楽章は本当に温かく優しい音楽。もちろん、この曲にはいろいろな要素があるが、この楽章があるからこの曲が後世に残ったのではないかと私は思っている。特に最初の和音が出るところはいつも演奏しながらゾクゾクしていた。その後もソロ優しい歌が続くが、時折出てくる転調がいい味を出している。中間に変ロ長調(b2つ)があるのはよくある展開(調が比較的近い関係にある)だが、その後に変ト長調(b6つ!)という調が出てくる。この部分だけは夢の中あるいは別世界に連れて行かれるような雰囲気がある。その後の和音進行も心をくすぐる感じで、オケのパートを弾いていてもうれしくなってくる。その後うまく最初の変ホ長調に回帰して穏やかに曲を閉じる。第3楽章は、打って変わって元気さが表に出てくる音楽。調性は#1つのト長調。聴いているのとは違って、弾いてみるとリズムが意外と難しい。最初は軽い感じで進んでいくが、嬰ヘ長調(#6つ)の音階を経て(この部分がCMで使われたことがある。確か電話会社のCMだった)、ニ長調(#2つ)の世界へ。最初はかなり派手に出てくるのだが、そのすぐ後に出てくるちょっとしっとりした感じの音楽(#2つのニ長調で出てくる)がいいコントラストをなしている。この音楽は最後に再度ト長調で登場し(この2つを聴き比べると調性によっていかに曲の印象が変わるかがよくわかる)、ソロがどんどん最後の音に向かってスピードを上げていく。最後は気持ちのよい終わり方だ。ブルッフは、他にもヴァイオリン・ソロを使った作品をけっこう書いている。協奏曲は全部で3曲あるし、他にも「スコットランド幻想曲」が有名だ。こちらも大好きで、協奏曲と共にソロ・ヴァイオリンを弾けるようになりたいと大学時代にかなり練習した。しかし、やはり協奏曲は手に負えない感じ、何とか音符をさらうことはできても、音楽をものにできていないことは、録音してみるとよくわかった。「何かおかしい...」と思うことしきりで、とにかくちゃんとした音楽になっていないのだ。録音してうまく演奏できるのはやはりプロだけだという感じ。今回のOBオケで演奏会に向けてソリストがいろいろと模索しているのが、一番近くで弾いていてよくわかった。完成型を求めて、いろいろと微妙に変えてきているのだ。しかし、もちろんどうやってもちゃんとしたものになっているのはさすがプロ、素人が偉そうなことを言っていてもこれはなかなかできるものではない。でも、協奏曲、いつかは格好が付くように弾けるようになりたいと思っている。ちなみに、この日記での話はCDを聴きながら、あるいは楽譜を見ながら読むとおそらくわかりやすいかなと...。
Oct 3, 2005
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今日は朝から管理組合による規約改正の説明会に出席。事前に資料を読んでいったのだが、行ってびっくり!新しい規約のすべての条文を朗読し始めた。管理規約だけで30ページ以上の資料があるのだが、本当に読んでしまった。70分間、つらかった。自分の講義はさすがに棒読みではないのでここまで退屈なことはないだろうと思うが、座って黙って話を聴くことのつらさを実感した(とはいえ、しゃべるなどというマナー違反が認められるわけではない)。さらに使用細則も20ページ分すべて朗読。結局100分以上棒読みを聴かされ、最後の25分だけ質疑応答。これだったら、最後だけ行けばよかった...。まあ、言いたいことが言えたのでそれだけはよしとしよう。帰った後は、両親と子供たちと、両親が借りている畑に行って芋掘りをした。車で1時間弱、すっかり田舎の景色となった。昼食をとり、いざ芋掘りへ。と、そこに雨が降ってきた。車を降りようとするたびに雨が強くなる。嫌がらせのようだ。しかし、止み間をぬって、とにかく掘りまくる。娘は土の掘り起こしにチャレンジし、一個見事に掘りきった。息子はダンゴムシがいっぱいいるのに興奮して、ダンゴムシを追いかけることに夢中、芋を掘るという気はほとんどなかったが、まあ楽しいのでこれもよし。堆肥のにおいや虫の多さに子供たちは少々びびっていたが、最後の方は慣れてきたようだ。また別の作物の収穫の際には連れて行ってもらえるようだ。両親に感謝。帰宅してからは入浴と寝かしつけ。興奮する子供たちはなかなか寝ずに苦労した。その末、自分がうとうとと...。おっといけない、明日の授業の準備が少し残っていた。何となく疲れた一日だったが、子供のみならず、数時間子供から解放された妻の機嫌がよかったことが何よりだ。
Oct 2, 2005
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今日はオケの練習、次回のプログラムを本番の指揮者である大河内雅彦氏にみていただいた。指揮していただくのは今回が3度目、慣れてきた。とはいえ、馴れ合いと妥協を許さない姿勢は変わらず、緊張感が高まっていく。今回の目標はきれいな音を出すことと、周りをもっとよく聴くことだと練習開始前に「所信表明演説」(ご本人曰く)があった。その後合奏開始。今日はとにかく全部の曲を通してみるということだった。最初はドヴォルザークのチェロ協奏曲。これまでにも団内指揮者で練習はしてきたが、今回は全体の緊張感が高まっていることもあって明らかに音が違った。いつもと集中力の違いが明らかだ。でも、これは仕方ないか...。さすがプロだと思ったのは、演奏を止めずにどんどん的確な指示がいいタイミングで飛んでくることだった。言われたことを自分が弾いていない場所で素早く楽譜に書き込んでいく(メモ程度にして清書は後で)。この作業の積み重ねが今後の練習をさらに有意義なものにするのだが、みんな書いているのだろうか...。休憩を挟んでから、ドビュッシーの小組曲。軽い、洒落た感じがないといけないのだが、これについてはボロボロ。とにかく音質が悪い(これは自分も含めて)のと、どの曲も同じイメージで全部軟弱な感じになってしまっていることだった。ドビュッシーといえば、印象派の絵が頭に浮かんできたりしそうなものだが、それはあくまでメロディ、しかも曲による話であって、実はそんなに一面的ではないということだった。意外と弾き込んでもいい場面があるのだ。これは勉強になる。それから、楽譜に書かれていない濃淡や起伏を演奏者の力で付けなければならないこと(実は当たり前のことなのだが楽譜どおりという目前の問題にどうしても縛られやすい)も改めて実感する。これは先日のOBオケでもよく言われていたことで、自分としてはどうしても身につけたい技術になっている。もっとこの曲のことをよく知りたいと思った。最後はファリャの「三角帽子」。この曲をこれまでに私はあまり聴いてこなかったのだが(ちょっと食わず嫌いだったかも)、演奏するとなってスコアなどを見てみると、いろいろと楽しい要素がある。特に「ファンダンゴ」や「終曲」に出てくるいかにもスペインらしいリズムがあったりすると、血が騒ぐような感じになってくる。2ndVnにはこのリズムが満載、しかも低い音の弦でガンガン弾かなければならないのだが、そういうのは大好きだ。隣で弾いている人がぼそっと「よんきゅさんがいかにも好きそうだなぁって感じですね。CD聴いていたら顔が浮かんできましたよ」と言う。私ってどうやらそういうイメージらしい。激しいリズムを興奮してガンガン弾くというイメージのようだ。ちなみにそのリズムを弾き終わった後で他のパートの人とも目が合ったのだが、やっぱり笑ってるよ~...。目が「よんきゅさん、やっぱりそこはそんな感じなんですかぁ?」と言っているようだ。確かにそういうの大好きなのですが、繊細なのも大好きだ。それから無謀にとばしているように見えるかもしれないけれど、どんなに激しく弾いても周りの音はちゃんと聞いていて、ちょっとずれたと感じればいつでも修正できる状態でいるのだ。誤解されていたりして...。この曲ではオケの「性能のよいエンジン」になることを目指したいと思う。3時間ちょっとの練習だったが、とても勉強になった。次のステップへ行くための地図をもらった気分だ。次回、本番指揮者の練習があるまでにもっと曲を自分のものにして演奏できるようになっていたいものだ。
Oct 1, 2005
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