JAPANESE GIRLS&BOYS

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蛙声 2


 それが、だ。
「こんなことになるなんて思わなかったんです。」
そう言わなければならない日が近づいているような気がする。
水たまりに浸かっていた子供は、死んでしまったのだ。ニュースではもう珍しくもない、虐待によって子供が殺された話。丁度この近くでの事件だった。死体を発見したのは、犬の散歩をしていた主婦。被害者は幼稚園に通う女の子。名前は忘れた。だが柔らかい腕の感触は忘れられない。短い指が生える手を、深山に救いを求めて伸ばした腕を、僕は汚れた靴で蹴り飛ばしたのだ。深山を守りたいなど、そういった感情で動いたのではない。ただ僕が怖くなっただけだ。勿論、僕が殺したなどという確証は何一つない。蹴っただけで死ぬとは思えない。そもそも発見されたのは、その子の住むマンションの玄関だったらしい。僕はそんな所には行っていない。場所も知らない。
だけれども僕が殺してしまったような気がする。夢に見てしまったのだ。あの子供を、残りの左目を無茶苦茶に蹴る夢を。ぎょろりとした眼球は流れて、痣の色は血の色になり、僕はひたすらに蹴り続ける。押し潰すように、地面に擦り付けるように。手は使わなかった。感触を覚えている右足だけを凶器にした。
「夢と現実の区別が付く人なんて、居るはずがないんだよ。この現実が夢ではないことを証明することは出来ないの。私たちはそんな曖昧な世界を生きているの。」
深山の言葉を思い出す。いつだったか、それはいつものように僕に囁かれた。
僕は確かな存在ではないことを、思い知らされたような気がした。

 罪の意識に似た感情を引き摺りながら登校した道は、濡れていた。空はすっかり晴れて、水たまりは空と電線を写していた。覗き込むと、あの子の顔が見えるような気がした。
 下駄箱で靴を履き替えると、ずるずるとだらしない音が聞こえて、振り返れば深山が歩いていた。彼女は挨拶もせずにこう言った。
「子供は現実を映す鏡のようだと思う。だからあの子はあんなに傷ついて、笑ったんだわ。子供に求められているものが何か分かる?才能と扱いやすさと、微笑か無表情。都合が悪ければ罰を与えられる。現実的なものは理性的だとヘーゲルは言ったけれど、大人の求める現実は理性的ではないよね。」
あの子が死んだことは深山も知っているようだ。僕は何も答えることが出来ないし、そもそも僕の返事を望んでいるようには思えない。
「殺したのは他でもない、あの子の親。」
「だけど僕は手を蹴った。」
「私はその手を引いて、取り敢えず交番に届けようと思った。そうしたら若い女が走ってきて、自分の子供だからと言って連れて行ってしまった。それだけ。私が関わったのはそこまで。浪川はもっと前にあの子との関係を絶ってる。それは誰よりも浪川が覚えていることで、だから浪川は関係無い。」
若しかしたら深山は慰めてくれているのかも知れない。僕のせいではない、と。彼女はそれだけ喋ってから階段を上っていった。階段の時には鞄は引き摺らないらしく、紐を手繰り寄せて地面から浮かせていた。その不自然な姿を、僕は見えなくなるまで眺めた。
 鞄の中には何が入っているのだろうか。いや、彼女は何を引き摺っているのだろう。

 今日はペン回しが上手くいかなくて、シャーペンを落としてしまった。芯が折れて、次に書く文字の線は不安定だった。授業中には何回も、教師が入ってきて僕を連れ出す光景を想像した。その後を想像することは困難だった。何度も同じ光景を思い描いているうちに、自分というものが曖昧になる。耳からは絶えず教師の声が入り、それに混ざっていくらかの雑音。その中に蛙声を聞く。それは、深山の笑い声を思い出させる。
「シュレーディンガーの猫って知ってる?ラジウム原子が一個あって、崩壊してα粒子が出ると、カウンターが感知して信号電流が送られるの。それで毒ガスの瓶が壊れて、檻の中の猫が死ぬ仕掛け。その確率は50%。猫は死んでいる状態と生きている状態の重ね合わせ。開けてみるまで猫は生きているけれど死んでいる。パラドクスみたい。答えは一つの波動関数で記述できるものではないっていうのが正解らしいけれど、私は正解に興味が湧かない。というか理解できない。それよりも魅力的なのは、檻を開けて猫の生死を確認するその瞬間。私たちはまるでシュレーディンガーの猫のよう。生きているのか死んでいるのか解らないような世界で、試される。ねぇ、檻を開けるときって神様みたいな気分じゃないのかな。生きているのか死んでいるのかを確認するためには、必ず他人が必要なのかも。」
そのとき僕は、深山の思う世界は随分と狭量だと思った。小さな世界の中に、更に小さな玩具を作って、神様ごっこをする。猫の生死にはまるで意味が無い。そういってやると深山は笑ったのだ。
「他人がいないと生きていけない理由は、認識されていることを確認できなくなるからだと思う。視線がこちらへ向くだけで、それは生きている実感になるの。だからシカトは殺人と一緒だよね、擬似的ではあるけれども。」
深山は殺されかけているのかな、と考えたが聞かなかった。中学のときに、彼女が虐められているのを見たことがある。深山は引き摺っていた鞄を振り回して逃げていた。彼女は背が高いし力が強いので、殴り合っても負けないだろうと思っていた。原因は知らないし、今となってはどうでもいい。
 気が付けば授業は終っていて、前の席の吉田があくびをしながら話しかけてきた。
「流司、お前よく寝ないでいられるな、あの授業で。」
「全然聞いてなかったけどな」といって、僕もつられてあくびをした。吉田は一通り教師の悪口を言ってから、思い出したように聞いてきた。
「三組の深山さんと仲良いよな。あの、鞄をずるずる引き摺ってる子。イジメられてるみたいだぜ?知ってた?」
知らなかったけれども予想はついた。僕は興味なさそうな返事をしようとしたが、何故か声がひっくり返ってしまった。階段を上る深山の後姿が思い出され、次いで骨が一本折れた傘がちらついた。吉田は深山のことを色色と聞いてきたが、僕に答えられることは何一つなかった。そうだ、僕は深山のことはよく知らない。鞄を引き摺っている意味すら聞けないでいる。
「深山さんが会話してるのって、流司くらいなんだってさ。」
僕にはその言葉が、「深山さんを認識してる人って、流司くらいなんだってさ。」に聞こえた。認識する人、イコール神ならば、僕は深山の神様にでもなるのだろうか。それは落胆すればいいのか、喜べばいいのか、はたまた煩わしく思えばいいのか、分からない。戸惑っているうちに、次の授業が始まっていた。吉田はすでに寝る準備をしていた。


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