雪香楼箚記

恋(1)_玉の緒よ






                                      式子内親王
       玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする










 百人一首にも採られた式子内親王の絶唱。「玉の緒」とは命の暗喩です。わが命よ、絶えてしまうというのなら絶えてしまえ、このまま長らえて生きつづければ、片恋を隠しつづける心のつよささえ失ってしまいそうだ、という歌。
 式子内親王は後白河上皇の次女。五歳ごろという異例の幼さで、賀茂の斎院(皇族の未婚女性を潔斎させて、巫女として賀茂神社に奉仕させるもの。現在でも葵祭のたびに、京都市内の未婚の女性が一年限りで斎院となっています)となり、十一年後にその勤めを終えてのちは生涯歌作に励みました。定家の父、俊成の愛弟子であり、特に恋歌にかけては新古今集を代表する才能であると言えるでしょう。後半生の伝記はほとんど不明です。和歌の詞書が極端に少なく、多数の恋歌が残る割にはその対象すらあきらかになっていません(題詠の歌も多く含まれますが)。古来から、定家との恋がつたえられている人で(定家側の資料に確証が残されていないので今では否定されていますが)、それを題材に『定家』という能が作られています。

 最初の五七で一度切れる歌です(新古今集は五七五で切れる歌が多い)。ほとんど激情といってもいいようなつよい感情を、さっとたたきつけるような詠み口が、歌の気品を作りあげています。これだけの第一句、第二句を置ける力量は相当なものと言えるでしょう。さすが俊成の弟子。俊成は、定家、後鳥羽院をはじめ才能ある弟子を多く育てた人でしたが、式子内親王の恋歌にときとしてあらわれるこうしたつよい感情は、俊成のある種の恋歌とかなり共通した調べを持っています。師の作風をよく受けつぎ、自分のものにする力にめぐまれていたのでしょう。そして、同じような激情を歌っても、式子内親王は俊成以上に奔放で、しかし女らしいやさしさや弱さ、たおやかさをも含んだ、複雑な味いを持っています。
 絶えなば絶えね、というのは、自分の心に対する一種の挑戦の言葉ですね。だからこそ、これほどつよい感情を表現できているわけなのですが、しかし、それがやぶれかぶれの凶暴な感情になっているのではない点が、この歌の妙味です。先ほども言ったとおり、つよいけれども、やさしく、弱く、たおやかな味わいがある。ここにあるのは、もうどうなってもいいと開きなおった感情ではなくて、どうしようもないほどに恋しくて、自分の気持を持てあましてしまった弱さです。これまで、必死に耐えてきたのに、もはやそれもつづきそうもないという、ぎりぎりの極限状態で、折れそうになる片恋の心。自分ではもうこれ以上どうしようもない、というやわらかな絶望のなかで、それでも恋心だけが残っている残酷さこそが、この歌の中心です。これは、自分の置かれている状況の苦しさを声高に訴え、だれかに聞かせるための歌ではなく(例えばシェイクスピアならそういう書き方をするでしょう)、自分の存在そのものを持てあましてしまった人間のつぶやきなのです。つぶやきであればこそ、言葉は運命に挑戦するのではなく、ささやくようにして、自分自身へ切なく挑戦している。つぶやきかける対象は、外在するなにものか、ではなく、自分のうちに内在するものなのです。
 実存、という言葉を、例えばサルトルは、「この世界に意味なく生れてきた不条理さ」というような意味で使いましたが、もしそれを「この世にいるということの矛盾」というふうに言いかえることができるのであれば、この歌にある感情は、まさしく実存ではないのでしょうか? 人間は恋愛をするためだけに生れてきたのではあるまいに、作者は届かない想いの切なさに死さえ思う。心のどこかで、死という「答え」を求めつつ、しかしそれでも恋という「問い」を手離しきれない。指先で、「答え」と「問い」のふたつを探りながら、そのどちらとも決められない、割りきれないものとしての人間の感情。そこにあるのは、「この世にいることの矛盾」そのものではないのでしょうか?

 古典和歌の世界では、恋はともかくも、隠し、「忍ぶ」ものでした。軽々しく表面にあらわすことは、どういうわけかあまり好まれなかったようです。これは、おそらくは、ふたりの仲を言葉にしたり、ほかの人に知らせると、妨げとなるようなことが呼びよせられる、という古代信仰や、女のもとに通ってくる男は、すがたをやつした神である、という考え方が影響していたのではないかと思うのですが、それはともかくとして、この特殊な(いや、現代でもこれはありうるのではないかな?)嗜好が、文学としての和歌には、陰翳の濃い詩情をつけ加えることになりました。相手のことを思いながら、それを露骨には表すことができないという二律背反の状況で、いやがうえにも募る恋心、形式と真情の矛盾は、歌人たちの好題材であったわけです。
 この歌も、後半の中心は「このままでは隠しつづけることもできなくなってしまう」という、「忍ぶ」心の弱まりですね。「忍ぶ」ことに耐えられなくなって、その気持を伝えられれば、かえって幸せであろう(逆説ではなくて)という、現代人のような思いは、おそらく内親王の心にもあったことでしょう。しかし、それは、社会の決めた恋の形式からははみ出てしまう。それが恥ずかしいから、言おうにも言えないのです。形式と、みずからの心と、どちらに従っていいか解らなくなってしまっている。その雰囲気が、「弱りもぞする」の「も」、つまり、弱り「も」してしまいますよ、という部分によくあらわれています。ついでに言えば、この「弱りもぞする」という句の結びは、「する」というニュートラルな述語なのですね。意志を表現するような助動詞が使われていない。つまり、ほとんど作者の主観を排除して、ただ、客観的な観察を平凡に述べているにすぎない(ように見える)。だからこそ、どうしていいか解らなくなっている内親王の心の余情が、たっぷりとほのめかされているわけです。
 逆に言うと、近代日本という社会は、このような恋歌を生みだせませんでした。恋愛というものについて、確定した形式が作られるのに充分な文明の成熟がなかったからです。江戸時代いっぱい熟成した、恋愛という文明の形式を、維新がすべて破壊しつくし、それに代るものを作りあげられなかったのです。したがって、例えば、ふたりはどんなところでデートするのか、どんなふうに恋文を書けばいいのか、相手の浮気にはどんなふうに嫉妬すればいいのか、という「型」が、社会の合意として成りたっていなかった。だから、「型」としてはこうあるべきなのに、自分の気持はそこから離れてしまう、という状況がほとんどありえなかったわけです。これは、文学的に非常に不幸なことでした。なぜなら、文学というのは、社会(集団)と自己の相克を描くのが大きなテーマだからです。社会や集団の、こうあるべきだ、という「型」が存在しなければ、相克などというテーマは無意味になってしまいます(ですから、ぼくとしては「ドラマのような恋がしたい」という発想は非常に歓迎してます。社会の「型」を作ることになるから、必然的にそこからそれてゆく人間の感情の相克が出現することになるでしょう)。

 この歌は、いってみれば、女の人が泣きながらいやいやをしているのを目の前に見せつけられるような歌です。ほんとうに、歌のなかに同一化してしまって、耐えきれないほどに切なくなってしまう歌。だれしも、頬に流れる涙をぬぐってやりながら、乱れた彼女の黒髪を撫でてあげたくなるところでしょう。……それが、なんと、この歌、題詠なんですね。詞書に「百首の歌の中に、忍恋を」とある。題詠でこんな名歌を詠むとは、すごい才能ですが、まあ、当時の歌人としては当り前の作業なんです。
 でも、こんな歌を詠む女の人と恋愛をして、今度は、心の底からそう思わせてやる、なんて思った男が、いたんだろうねえ、この時代にも。ぼくだって……。


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