雪香楼箚記

恋(2)_身に添へる






                                      藤原良経
       身に添へるその面影も消えななん夢なりけりと忘るばかりに










 我が身につきまとってはなれないあなたの面影など消えてしまえばいいのに、あれは夢だったのだと忘れてしまえるように、の意。作者は、藤原氏の名門に生れ、摂政太政大臣をつとめた貴公子。慈円の甥にあたり、俊成の弟子。師の亡きあとは、定家ら新古今歌人のよきパトロンとなり、後鳥羽院の和歌サロンにおける実質的な中心となりました。帝王調の歌風に特徴があり、新古今集の仮名序(和文による序)を記すなど、歌人としても重きをなした人物です。

 国語学の泰斗、大野晋先生に、おもしろい指摘があります。曰く、「日本人は、恋をうれしいもの、楽しいものとしてとらえるのではなく、むしろ、苦しいもの、忘れたいもの、として考える傾向があった」というものなのですが、これ、なかなか古典和歌の本質をついたものだとは思いませんか? 追々、恋歌の巻を読みすすめてゆけばわかると思うのですが、勅撰集の恋歌には、基本的に恋愛が成立してうれしい、天にものぼる気持だ、という歌はありません。片想いで苦しい、初めてともに過ごした夜でさえあなたはなんだか冷たかった、あなたはもう私のことを忘れてしまったのでしょう、終りかけた恋にそれでも断ちきれない未練があります、といった歌ばかりです。いや、勅撰集だけではなく、古典和歌においては、恋はつねにその苦しさとともにあるのです。まあ、そういう傾向は、西欧の詩についてもないことはないのですが(特に浪漫主義の登場以降は悲しい恋の詩が極端に増えるようです)、しかしここまで徹底しているのはちょっと異常かもしれませんねえ。

 どういうわけなのか、和歌という文学形式は(特に平安時代以降の)、高らかに気持を歌いあげるのには向いていないようなのです。むろん、平安時代の、特に中期以降は、和歌は時代を代表する文学形式(例えば、現代の日本においてもっとも代表的な文学形式が長篇小説であるよに)であり、歌合というかたちで朗々と公衆の面前において読みあげられるものでした(歌合―うたあわせ―というのは、歌人が左右両陣に別れて同じ題で歌を詠みあい、その優劣を決める、という文学的ゲームです)。しかしながら不思議なのは、朗々とみんなの前で読みあげられるものでありながら、その歌の内容というのは、特に恋歌の内容というのは、じつにそういう「晴れの場」に不向きなものが多かったということでして、なんだか、極度に個人的な、しかも女々しい感情を全面に押しだした、「恋は苦しい」という涙を歌ったものが大半を占めているのです。もちろん、歌の姿や調子というのは、そういう内容とは別なものでして、さすがに、苦しい恋を詠んでしかも陽性、というものが多いのですが、歌意だけ見ると非常にしめっぽいものが多い。こんな歌ばっかり詠んで、よく歌合の席がお通夜みたいにならなかったものだと、読んでて驚いてしまいます。

 それはともかくとして……。この歌の見どころは、あまり目立ちませんが、初句の「身に添へる」という表現でしょう。面影が「身に添」う。さりげないようでいて、なんとも余情のある言葉だと思いませんか? なるほど、だれかに夢中になっているときは、その面影が、目を開いても閉じても、寝ても覚めても、意識のなかから去りがたいものです。恋、というのは、私という主体が相手を想うことであるはずなのに、まとわりついて離れない面影は、すでにもう、私の手ではどうすることもできなくなっている。思慕の念が、意識という「主体」を超えてしまっているのです。その、言うに言われない、もどかしくて、人間の心のやわらかな不思議さに触れてしまったような感触が、「身に添へる」という句のなかにあるように思えてなりません。これは、もはや「意識のなかからあなたの面影が離れない」という、余裕のある心を詠ったものではなく、自分という存在と相手という存在が、不条理とも、不合理とも言えるようなつよい力で結びつけられてしまった状況、いわば、自分と対象の間になにひとつ中間的存在がないような、せっぱつまった生々しい状況を歌ったものなのです。添う、ということばは、近くにある、という以上の、もっと生理的な「ぬめり」を持った言葉であると考えなければならないでしょう。この言葉の原義は「近い距離を保って離れずにいる」「側にぴったりと寄っている。ぴったりついている」(『岩波古語辞典』)ということです。そう、ここにあるのは、意識による認識ではなくて、感覚による認識であり、だからこそ、それはいっそう生々しい感触を読者に伝えるのではないでしょうか。身に添って離れようとしない面影を前にして、歌人は感じているのです。恋人の体温を、呼吸を、あるいは幻影を。

 面影、というのも、なかなかにむつかしい言葉ですね。これまでにも何度か登場しているはずですが、よくよく考えてみると、その意味するところは曖昧であるようです。もちろん、言葉のもとの意味としては、顔かたち、ということなのでしょうが、しかしこれは、顔かたちそのものではなくて、意識のなか、思い出のなかの顔かたちのことですね。面影などというのは、たいてい、追憶とか、思慕とか、そういう状況で用いる言葉ですから。つまり、面影とは、それを思いうかべる人の想像によって訂正の加えられた顔かたち、あるいは姿態であることが非常に多い。したがってこの言葉は客観語ではなくて主観語であって、だからこそ「身に添へる」わけなのです。想いがつよまってゆくにつれて相手の外見的な印象はしだいに薄れ、しかしそれでも慕しい気持はありありと手触りを持って残っている、という不思議な状況が、片想いの最中にはままあるようですが、面影とはそういうものなんですね。顔かたちに思慕の念が加わったときにできあがるものが面影であって、それは、視覚的なものというよりは、恋心の投影なのです。ついでに言えば、「その面影」の「その」。これもなかなか詠める言葉ではないでしょうね。このひとことがあるかないかで、歌の持つ力強さというか、印象の鮮明さがずいぶんと変ってくる。作者の力量を感じさせます。

 さて、夢のことについては、「その三」で解説したからもういいでしょう。夢が覚めるように、この苦しい片想いも跡形もなく消えてしまえばいいのに、と嘆く心が哀切ですねえ。しかし、むろん、歌人は本心からそう思っているのではありません。そういいつつも、やはり恋しさを断ちきれずにいるのです(それが解るか解らないかが、この歌を解るか解らないかの境目で、ちと初な高校生諸君には無理な話だ)。

 恋とは、いつの時代でも、切なくも甘美な矛盾であるのですから。


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