雪香楼箚記

恋(2)_面影の






                                      藤原俊成女
       面影のかすめる月ぞ宿りける春や昔の袖の涙に










 春歌のところで、

                            藤原家隆
  梅が香に昔を問へば春の月答へぬ影ぞ袖にうつれる

という歌を紹介しましたが、それと同じ、

                            在原業平
  月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして

という在原業平の歌を本歌にしています。袖の涙を効果的に使っている点も、家隆といっしょですが、歌としての出来からいうなら、この歌のほうがいいのではないでしょうか?

 さて、訳がむずかしい。取りあえず、こんなふうに訳してみましょうか。あなたの面影のようにうすらいでぼやけてしまった今夜の月が、「春は昔のままの春ではないのか」と嘆いて泣き濡れる私の袖に映っている(以前にも説明したとおり、月が映るのは、涙に濡れた袖が水かがみのようになっているから)。……というのですが、なんだかわかったようなわからないような現代語訳でしょう。論理がどうつながっているのか、曖昧なんですね。例えば「面影」というのは、恋しい人の面影なのか、それとも月のかたちのことを言っているのか、判然としない。かすんでいるのも、面影なのか、月なのか、その両方なのか、どうも決められないし、なにしろ「春や昔の袖」という表現で懐旧の慕情を言いあらわそうというのは、本歌を知らないとちんぷんかんぷんでしょうねえ。ともかくも、ややこしい。まあ、これは、そのややこしさが歌というものだと思ってもらうしかないのであって、日本語というのはどうも放っておくとそういうふうな表現を生みやすい言語であるようです。ただ、この歌は、言っている内容は曖昧でややこしいけれども、言葉の流れはすらりと通っている。そういうのを、姿のいい歌と言いますが、そこがいいんですねえ。美しい。

 面影がかすむ、ということについては、この回(「その四」)の最初の歌のところでいろいろと説明をしました。つまり、意識というか、思い出のなかにむすばれた恋しい人の像であって、これは決して写真のように、安定したものではない。人間の感情のゆれ動きでいくらでも変化してゆく。この歌では、「春や昔」と時間的経過を詠みこんでいるのですから、面影がかすんでゆくのも当然のことでしょう。

 人間の記憶やイメージといったものはほんとうにとりとめのないもので、どれほど恋しい人であろうと、しばらく逢えずにいると面影はうすらいでゆくものであるようです。それは、意識の面ではどうしようもない、本能的な面でのなりゆきなのでしょうが、しかし、ときとして思いもかけないアイロニーをもたらすことがあります。顔さえ思い浮かばなくなってきたのに、ただ恋しい。そういう経験を詠んだのがこの歌にほかなりません。恋しいという、意識の(無意識の?)層と、しかしもう面影はうすらいでしまった、という本能の層が、矛盾して、摩擦している。そこに、この歌人は目をつけたわけなのです。

 すこし先回りになってしまいますが、「春や昔の」のところを考えておきましょう。「面影のかすめる」を見るうえでは、こことの対比が重要になってきます。この業平の本歌については、かなり詳しく説明したと思いますが、要するに、むかし関係のあった女性を思いだした、懐旧と思慕の入りまじった作品です。月はむかしどうりだろうか、いや、そうではない。春はむかしどうりだろうか、いや、そうではない。私だけがむかしと変らない。むかしと変らないまま、あなたが恋しい……。そういう歌。これを一句につづめたのが「春や昔の」という表現なのですが、すぐにわかるように、ここにも、矛盾というか、摩擦があります。時間が過ぎさった、しかし私は恋しいままだ。時間に逆らって、忘却に逆らって、恋しい感情だけが残っている。これ、よく見てみると、「面影のかすめる」というのと、同じ構造ですね。時間が過ぎさって、うすれたり、なくなったりしてもいいはずのものが、それにもかかわらずしっかり残っている。時間というものに対する一般的な理解と、歌人たちに個別な「恋しさ」の間に矛盾がおこっている。

 つまり、「春や昔の」、あるいはその本歌である「月やあらぬ」が主題であるとすれば、その変奏のようなかたちとして「面影のかすめる」が出てきているわけです。すでに述べたとおり「面影のかすめる」の部分は、時間に関する、単純な一般(ふつうの人は忘れてしまうはずのことを)と個別(私はまだ忘れられない)の矛盾でだけではなく、意識(無意識を含めた)と本能の矛盾という、ふたつめの矛盾を複層的に重ねあわせて、複雑な味わいを持たせた「変奏」をかたちづくっているわけですが、その新味もさることながら、ここでもっと注目するべきなのは、やはり、時間というものに対する歌人の興味です。ちょっと文学史的な話になりますが、時間の流れや、人間の意識の変化に最初に注目した文学者は、J・ジョイス(代表作『ユリシーズ』)とM・プルースト(『失われた時を求めて』)の二人で、これによってモダニズムという文学的潮流が頂点に達しました。小説の技法の点でも、主題の点でも、作家が時間と意識に関する問題を意識的に取りあげるようになったのは、この二人以降のことです。そういう意味では、まさに二十世紀を、あるいは人類の文学史を代表するような文豪なのですが(その割にはノーベル賞を取れてないんですねえ、この二人。これは、言ってみれば、ニュートンとアインシュタインが物理学賞を取れてないようなもので、ノーベル文学賞に永遠につきまとう汚点でしょう)、しかし、ときどき、思いもかけないところで、プレ=ジョイス、プレ=プルーストのような文学者が見つかったりするんですねえ。『新古今集』というのも、そのひとつ。

 時間を扱うのが好きだったのはどちらかというとプルースト(ジョイスは意識のほう)だったので、『失われた時を求めて』で話をしましょう。この小説のはじめのほうに、主人公がマドレーヌを紅茶にひたして食べるシーンがあります。そうすると、ふっと、すっかり忘れていた子供時代の思い出がつぎからつぎへとよみがえってくる(子供のころ、よくそういうマドレーヌの食べかたをしていたから)。物語は、それをたどるようにして時間軸を逆にさかのぼってゆくのですが、それはともかくとして、こうした小説技法でもわかるとおり、『失われた時を求めて』というのは、時間の流れを外在的なものではなく、内在的なものだとして(「意識の流れ」の手法、といいますが、つまり、実際の時間ではなく、主人公の意識にのぼる「時間」を描く、ということ)、好きなように、前にいったり後ろにいったり、時間を切継ぎしながら物語を進めてゆく小説なのです。例えば、第一部では、青年となった主人公が幼年時代から少年時代までを回想しますが、第二部では、彼がまだ生まれていないはずの時代を描く、といった感じです。

 ですから、この歌の発想なんかじつにプルースト的だとは思いませんか?和歌という短い詩であるために、大長篇『失われた時を求めて』のように、自由自在に時間をさかのぼる、というわけにはゆきませんが、しかし、現在と今をみごとにないまぜにしている。うすれかける記憶が、ふわりと恋しさによって浮びあがってくるような雰囲気を取りあげている点は、特に、マドレーヌのシーンと似たような趣があるような気がします。マドレーヌという小道具が「恋しさ」に変っただけで、両方とも現在と意識のなかの過去をつなぐ重要な鍵であることに代りはない。そうやって読み進めてゆけば、この歌は『失われた時を求めて』のように、ありありと時間の流れそのものを感じさせるような芳醇さを持っているのではないでしょうか?

 さて、話がすこし大きくなりすぎましたが、「月ぞ宿りける」の解説に戻りましょう。なんだか、読みとばせそうでいて、読みとばせない趣のある言葉ですねえ。秘密は「宿る」という表現でしょう。宿る、は現代語でも使いますが、一時的にそこにとどまる、という意味です。雨宿りの宿り。古語では、この一時的に、というのがよりはっきりしていて、現代語のように長い時間経過でも使えたりはしません。「この世は仮の宿り」という表現でもわかるように、例え長い時間そこに(この世に)いたとしても、それがたった一時のように思える、というほうに重心を置いて用いられています。ここまで言えばわかるかもしれませんが、この「宿る」月が、かすかに恋人(というか一方的に片恋している相手)の面影にかさなってくるんですね。

 上でさんざん言ってきたように、この歌には過去が大きく関ってきています。しかし、新古今集のなかでの前後の歌の配列からして、これはまだ相手と関係を結べていない時期の、片恋の歌と見るのが妥当である。おそらく、歌人がその過去になんらかの関わりあいを持って、しかし、それ以上の関係には進まないままにある人に向けて詠んでいるものではないのでしょうか? そうした「過去」が、この「宿る」月にぼんやりと暗示されている。あまりにも淡い関りあいだったから、今もそれ以上にはなれずにいるというじれったさ。あるいは、同じようにこの恋の行く末を、「月ぞ宿りける」という表現に見てもいいのであって、すぐにどこかへ移ってしまう月のように、数度逢っただけではかなく終ってしまいそうな恋が、ぼんやりと透けて見えるとも言えます。いずれにしても、本歌では、ただ歌人に問をつきつけられる存在でしかなかった月を、全面に押しだして(一方で「春」のイメージを最小限に削って、すっきりとさせ)、ふたりの恋の象徴とした手際はなかなかのものです。家隆の歌よりすぐれていると言ったのは、じつにこの点があるから。

 袖の涙、といっても、最近の若い人(?)にはわからないんでしょうねえ。着物を着ればわかりますが、涙というのはもちろん、ハンカチではなくて袖で拭うものです。それでも拭いきれない涙があふれてくる。袖はもう濡れつくしている。だから、いささか大袈裟ながら、月が袖に映るわけです。この、濡れた袖というのは、平安時代の歌人たちに大変好まれた歌題で、さまざまなかたちで詠まれていますが、なかにはこの歌のような「月をうつす」であるとか、「袖が朽ちて(腐って)しまう」であるとか、「袖が乾くひまがない」であるとか、いろいろに荒唐無稽とも言えるような表現があります。まあ、こうした定型的な表現は、正岡子規などによってリアリズムから遠いものであるとして批判され、古典和歌が否定される主な原因になったわけですが、しかし、詩というのは所詮リアリズムとは相容れないものなんですね。(それを言い出すと、一切の譬喩はリアリズムに反するわけで、詩に譬喩は使えなくなる。)

 単純に、大袈裟だから詩としてよくない、ということはできない。大切なのは、そういう譬喩が詩のなかでどのような位置をしめていて、しっくり落ちついているかどうかという問題なのです。例えば琉歌(沖縄の古典定型詩の一種)に

  若夏がなれば心うかされて
  でかやうまはだをよ引きやり遊ば

(現代語に訳せば「晩春になったら心がなんとなく浮きたつ、さあ乙女の白い肌のような芭蕉の茎から繊維をひき裂いて遊ぼう」というところかな)というものがありますが、これなど、いくら沖縄の女の人が美人とは言え、芭蕉の茎の繊維ほど色の白いわけはない。大袈裟な誇張による譬喩です。しかし、それが、若夏という溌剌とした季節感によく合っていて、歌全体の興趣の大部分を成す重要な要素になっている。だから、これは、大袈裟であっても、リアリズムから遠くても、生きた表現なのです。詩としてきちんとなり立っている。

 この、俊成女の歌の場合も同様で、春の朧月夜の影で、袖に月影がうつるほど泣いている女性のイメージは、決して詩として悪いものではない。むしろ、象徴派やシュールレアリスムのような清新な印象を与えさえする表現であるとも言えます。これは、言葉がしっかりと生きているから、表現の大袈裟なところが気にならないわけで(それには、やはり上の句の丁寧な詠み口がものを言っているのでしょう)、すべての古典和歌について「袖の涙に」月がうつるのが滑稽ではない、という保証にはなりませんが、ともかくも、この歌に関しては、この表現は、決して欠点にはなっていないということが言えます。

 きっと、袖の涙のひとつぶひとつぶには、たしかに、月影といっしょに、にじんだ恋しい人の面影がうつっているのでしょう。


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