c - Rakuten Inc
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
730156
ホーム
|
日記
|
プロフィール
【フォローする】
【ログイン】
雪香楼箚記
恋(3)_聞くやいかに
宮 内 卿
聞くやいかにうはの空なる風だにも松の音するならひありとは
歌意は、お聞きになっていらっしゃいますか、落ちつかずに空を吹く風さえも松の梢を訪れて音をたてるということがあります、私だって同じこと、あなたをお待ちしているのです。新古今集を代表する恋歌のひとつで、『水無瀬殿恋歌十五首歌合』と『若宮撰歌合』というふたつの歌合に採られています。
歌合というのは、一種の文学的スポーツというか、ゲームというか、そういう要素のつよいものですが、ふつうのスポーツやゲームとは違うのは、判者(審判)の責任が非常に重いこと。判者は、勝ち負けの判定のほかに、その理由を説明した文章を作り(これを「判」といいます)、判定にあたっては引用された古歌や物語を挙げて歌を批評し、教養と批評眼で一座の納得を勝ちえ、さらには座を盛りあげたり、貴顕の参加者の機嫌をそこねないように手心を加えたり、ときには判定に納得しない参加者の文句を聞いたり(負けた連中が悔しがって再戦を挑んだ「妬歌合」などというものもあります)、とにかく、文学的、政治的な力量を必要とする大役なのです。ですから、歌合の判者というのは、一座のなかではいちばんの格上であることが多い。平安時代末期、この判者として大活躍したのが俊成です。彼には歌壇の猛者を納得させられるだけの教養と批評眼、さらには歌人としての力量があったということ(さらには長生きして大御所になった、という要素もありますが……)。この宮内卿の歌が収められた『水無瀬殿恋歌十五首歌合』も、俊成が判を行っています(水無瀬殿というのは、後鳥羽院の別荘で、この歌合も主催者は後鳥羽院)。
その判によれば……、「左(宮内卿の歌は左方。方はチームのこと)、こころ、ことば、始終なほよろしく侍るにや、まさるべきよしに侍るべし」。つまり、「(右の歌もなかなか艶であるが)、左は歌の内容といい、調べといい、上から下までよりいっそう素晴らしい。右よりまさるものだ」と、手放しで激賞しています。さらに、後鳥羽院が判を書いた『若宮撰歌合』では、定家の歌とたがえられ(組みあわされて勝負する、ということ)、「持」つまり引き分け、それも、「どちらも素晴らしく、勝敗を付けがたい」と評されています。これからも、この歌がいかに同時代から評価されたかおわかりでしょう。
さて、俊成が褒めたこの歌の「こころ」つまり、内容ですが、たしかに非常によくできている。趣向としては、待ち人をする恋心を、松風とひとつにして詠んだものですが(言い忘れましたが、もともと「風に寄する恋」という題で詠んだ題詠なのです)、風で恋を詠め、などという曲芸のような注文をよくこなして、しかも充実した内容があります。題詠全盛の当時でも、なかなかここまでの力量を持った歌人はいなかったのではないでしょうか?
私はお待ちしていますのに、と恨み言をいう歌ですから、関係が冷めてきたころのものか、と思われるかもしれませんが、前にも書いたとおり、この巻に収められた歌は、まだ新まくらからいくらも経っていない時期のものです。つまり、恋愛の末期ではなくて、やっとふたりの間で関係が数度あったという時期のもの。気持は決して冷めていないはずです。ただ、いくら妻問婚の当時といっても、毎晩女のもとに泊るわけにはゆかなかった(ある研究によれば、女のもとに通うのは月夜の晩だけだったという仮説があります。これならまあ、月に半分くらいでしょう)はずで、そうたびたびも女のところにはゆけない。多少間遠になることもある。それを、「私は待っているのに……」と女のほうから恨み言を言うというのがこの歌なのです。だから、この歌を贈られた男(題詠ですからそういう人はいないのですが、まあ、いると仮定して)というのは、別に当時の常識から言って、薄情でも、冷たいわけでも、浮気性なわけでもなくて、ごく普通の頻度で女のところにやってきていたはずなのですが、それでも待つ女の身としては訪れが少ないような気がする。当時の女性はあまり積極的に外に出かけるということもないし、気晴しといっても物語の類を読んだり、碁や双六に興じる程度のこと。まして、男のおとないのないままにひとりで放っておかれれば、どんなに愛する人であっても、いや、愛する人であるからこそ、不安になってくる。しかし、その不安を鎮めてくれるはずの男はやってこない。こっそり言えば(とてもこんなこと高校生相手には言えない……)、欲求不満だってある。
それが恨み言になるわけですね。でも、その恨み言を生なかたちで言ってはどうにもならない。「どうしてもっと私のところに来てくれないのっ」なんて額に青筋立てて怒ったりしたら男は逃げてしまいます。手紙でも同じことで、綿々と怒りと欲求不満とノイローゼを書いたりすれば、読むほうはいやになってしまいます(私小説の好きな文芸批評家は褒めてくれるかもしれないけど……)。恋愛で大切なのは、焼き餅の上手な焼きかた。特に、男女の関係が成立しているのならば、男にしてみれば、なんといってもいちどは肌を親しくした女性です。もともと好意はあるはずだし、少なくともほかの女性とは親しさが違うという、最初から有利な条件がある。そこで、上手に焼き餅を焼いて、かわいく拗ねてみたり、ちょっとした才気を見せてみたりすれば、男のこころはかならず戻ってくるはず。上手に焼いた焼き餅は、効果的な恋愛の香辛料になるのです。その上、当時の女性にはとても心強い武器がありました。それが、和歌という文学形式なのです。
形式というものの利点は、美しい様式を持っているという点でしょう。スタイルと言ってもいいのですが、要するに生な現実を一定のかたちに整える力を持っている。生な現実、あるがままの感情というのは、本人にとってそれがいかに切実なものであるにしろ、表現としては絶対的に劣っています。かつて、浪漫主義の一分流として、自然主義、写実主義というスタイルが流行し、生な現実を生なまま画面に叩きつけるような作品が大いにもてはやされた時代がありましたが、それらは今、あっけなく評価を落としてしまっています。志賀直哉の『暗夜行路』とか、あるいはソビエト時代のロシアの油絵(というか銭湯のペンキ絵みたいな……、あれは、「労働画」っていうのかな?)とか、まことに凋落はげしき次第で、だれからも見向きされなくなるのも時間の問題でしょう。どうしてそうなってしまったのか? 答えは簡単で、こうした、様式を失った表現の仕方が、鑑賞者を不愉快にするからです。様式さえあれば、どんな不愉快なことを書いても読者を楽しい気分にさせますし(例えば谷崎の『春琴抄』)、様式がなければ、どんなに素晴らしいことを書いていても読者は非常に不愉快な印象を受けます(例えば志賀の『和解』や武者小路の『友情』)。なぜなら、様式、あるいはスタイルとは、読者と作者の距離の取りかたであるからです。これは、絵画でもそうですが、例えばおなじ人物画でも、フェルメールとルノアールのスタイルは違う。なぜその違いが生れるかと言えば、絵に切りとられた光景(現実の一部)をどう見るかという「視線」が、画家によって違うからです。そして、そうやって、画家の作りだすスタイル、つまり視線のあり方は、画面の構成のなかで必然的に鑑賞者を取りこんで、絵に描かれた光景と鑑賞者の距離感を決定づけるわけです。文学においても、この状況は変らない。志賀や武者小路や、『人間失格』のころの太宰が、我々にとって不愉快なのは、「ねえ、ぼくってこんなに悩んでるんだよ、悩んでるんだよ、悩んでるんだよ! すごいでしょ、偉いでしょ、かっこいいでしょ」と、やけになれなれしい口調で、客観的に言って決して愉快とは言えないようなことを(親友から女を盗るときの良心の呵責とか、親父と喧嘩した愚痴とか、酒とモルヒネ漬けの貧乏生活の詳細とか)、様式もなにもなしにひたすら書きつづるっているからでしょう。言ってみれば、彼らの作品は、「うざったい」のです。こっちは、全然その気がないのに、相手がやたらに狎れ狎れしいという不愉快さ。だからこそ、似たようなことを書いても、しっかりとした文章や小説としての様式を備えた、例えば漱石の『こころ』や尾崎一雄の『暢気眼鏡』は佳作なのです。つまり、すでにして成熟した様式(なにをどのように表現するかというスタイルの型)をそなえた文学形式があるからこそ、平安時代の女性たちは、あるいは男性も含めて、恨み言や愚痴のような、不愉快なことを愉快に表現することができたのです。
宮内卿の歌に戻りましょう。この歌、恨み言でありながら、自分のことはちっとも言っていない。あえて言えば「待つ」でしょうが、これだって掛詞でずいぶんイメージが薄められています(この歌の表はやはり松風のほうで、待つ女のほうは裏の意味になっています。全面に出てくる、という感じがない)。自分のことは言わずにどうしているかというと、相手の男に語りかけているのですね。「聞くやいかに」とやさしく、しかし芯につよさを持った言葉で、男に尋ねている。しかも、自分の気持をなにも言おうとしないのがいじらしい。ただ、待っていると、それだけしか言わずに、「うはの空」に掛けて、「私の言うことなど、うわの空なのでしょう」という、ほんのごくかすかな、恨み言ともいえない、軽い嘆きというか、拗ねたような心をそっと添えている。身も世もないほどに相手を思って、切ないほどに恨みつづける気持をしっかりと背景に感じさせながら、しかも充分にこの歌を受けとった男の心を惹くような細かい計算ができている。じつに見事な歌です。
初句の「聞くやいかに」というのはやや漢文ふうな匂いのする言い方です。ついでに言えば字余り(六音)ですので、歌の調子を狂わせて、ここに視線を集中させる効果もある。初句にやや漢文ふうな言い方、あるいはあまり歌では見かけないようなつよい表現で字余りを置いて、調子を破ろうとする詠み口は、特に平安時代初期の、小野篁、大江千里といった漢学者歌人や、あるいは西行や業平のような男性的な歌風の歌人によく見られますが、それをよく勉強して消化しているのが見て取れます。よく読んでゆけば、この歌の初句は、やはりどうしても「聞くやいかに」でなければならない、この句を、例えばいちばん最後に持ってきたのでは台無しだ、というのが解るはずです。一度か二度、音読してみればはっきりするかもしれませんが、「聞くやいかに」と読者兼聞き手の注目を集めたところで(歌合では、被講といって、作品がいちいち朗読されます)、あとは、なめらかなことばですらりと読みくだす。調子の面でも、内容の面でも、これだけの初句を置く力量があればこそ、一首全体が名歌になったことがうなずけると思います。(ちなみに補足として言っておきますと、万葉集を含む古典和歌では、字余りに法則がありまして、句中に「あ」「い」「う」「お」のいずれかがなければ字余りが許されません。この歌の場合は「聞くやいかに」の「い」がそれに当ります。この法則は本居宣長が発見したもので、彼は歌のなかでは特に新古今集を愛読していました。『美濃の家づと』という註釈書も書いています。ちなみのちなみに、ぼくが受けた前年か前々年に、京大の古文の入試問題で宣長がこの宮内卿の歌を註釈した文章が出題されたことがあります。過去問をやってるときは知らなかったけれど、大学に入ってから、国文研究室の主任教授が宣長の専門家であることを知って、出題の経緯が理解できました。)
次の「うはの空」はもちろん掛詞で、上空、という意味と、気もそぞろ、という意味が掛けてあります。もちろん、気もそぞろというのは、相手の男のことで、作者がやんわりとやってこない男に向けて皮肉をいっているということでしょう。「もう、私よりいい方がいらして、だから気もそぞろなんでしょう?」ということ。「お仕事で気もそぞろなんでしょう?」なんて、まさかそんなことはありえない。この場合、その「私よりいい人」というのは、別にいてもいなくてもいいんです。男にとっては迷惑至極な話かもしれませんが、言ってみればこれは、作者の恨み言に安定感を与えるための重しのようなものですから、実在するかどうかは問題ではないのです。ただ、彼女がそう思っている、あるいはそう思うふりをしているということが大切なのです。女の人の恨み言というのは必ずそういうものでして、確証がなくても、あるいはそんなことちっとも思ってなくても、「あなた、冷たくなったわ。浮気してるんでしょう」と言ってみるものなのです(……と思うのですが、女性のみなさま、違うでしょうか?)。そうやって、自分の気持を不安なところに追いこんでみて相手の愛情を待つ。あるいは、「そんなことないよ、好きなのは君だけさ」(と、模範的な答えを書いたものの、極めて嘘臭いな、この台詞。こういうことを言う男は信用ならん)という相手の言葉を引きだすための、恋愛のテクニックとして言ってみる。そういう機会を十全に利用して、男のこころを惹こうとしているわけです。そして、このとき重要になってくるのは、ふたりの関係ですね。たいがいの場合、いくら恋愛のテクニックに長けている女の人でも、なにもない相手にむかって、「浮気してるんでしょう」とは言わない。これでは暗に浮気をすすめているようにとられるおそれがあります。そういうことを言えるのは、相手が関係のある男で、自分とこの人とはすくなくとも他人どうしではないのだ、という、ある程度安定した、安全な立場にある女の人なのです。この歌も同じことで、和歌の技術という以前に、恋愛の技術のひとつとして、歌人はしっかりと、男ごころをどこまで攻めてよいかをわきまえています。
「だに」は、さえ、ということです。風でさえ松を訪ねるのに、あなたは……(待っている私を訪ねてきてはくれないのですか?)、と、要するに歌のふたつ目の意味を暗示する役目を担っている。これが大事なんですね。表立って言わずに、こういう細かいところに技巧をこらして、意識せずに、ふたつ目の意味を読者に読みとらせる。松風を聞いていますか? という歌が、ここの「だに」に出逢って、待っている私を訪ねてきてくれないあなたは、ほんとに松風を聞いているのですか? という二重の意味を、まるで透し絵を見るようにして、読者の目の前に繰りひろげはじめる。
松が、待つ、の掛詞というのは、たしか「その二」の慈円の歌のところで解説したはずですのでいいでしょう。「ならひありとは」の「ならい」は、まあ訳するとすれば習慣とか、慣習とか、ちょっと大袈裟になってしまいますが、風も松をおとずれるというものですのに、くらいのことで、あまりつよく主張していると解すべき言葉ではないと思います。下の句、特に五句目は、今まで築いてきたイメージをいかにきれいに納めるか、ということに主眼を置いているので、とにかく句に変な自己主張をさせないことが至上命題になっています。松に音する、という四句も、松、という言葉さえ出てくればいいのであって、割と類型的な表現ですし(言葉のみずみずしさはさすがですが)、「ならひありとは」は、ごく目立たない、地味な句です。この歌は、上の句ができたときほぼ八割方は完成してしまったと言ってもよく、あとはいかに綺麗に残りの部分をつめてゆくか(もちろんそこでひとつでも間違えると、なにもかも駄目になってしまうわけで、歌人の力量が必要になるのですが)というような歌なのです。ですから、どうしても下の句は、穏健な、目立たないものになりやすい。ことによると、力が抜けた、腰の砕けたような調子になってしまう恐れさえある。しかし、この歌は、そこを上手に切りぬけて言葉の充実を見せています。特に、「ならひありとは」は、何気なく、しかしこれ以上のものはなかろう、というような表現で、名人の舞の、最後の扇を閉じる手つきの美しさを思わせますね。
むずかしい歌題を詠んで姿はすっきりと、心は艶麗、恨み言をいっても魅力あふれる趣のこの歌人、ずいぶん頭のいい女の人だったに違いありません。
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
今日のこと★☆
安田記念GⅠをAI にきいてみた 参加…
(2026-06-07 16:25:44)
みんなのレビュー
【レポ】オススメ!半額、濃い抹茶餡…
(2026-06-07 15:00:04)
本日の楽天ブログラッキーくじ
シルクロードガーデン
(2026-05-19 17:13:19)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Create
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
評判のトレンドアイテム情報
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: