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雪香楼箚記
恋(5)_かきやりし
藤原定家
かきやりしその黒髪の筋ごとにうち伏すほどは面影ぞ立つ
おそらく定家の恋歌としてはもっともすぐれたもの。まさしくその才能を余すところなくそそぎこんだ傑作です。現代語に訳すなら、この手でかきやったあの人の黒髪のひと筋ひと筋が、こうしてうち伏していると目に浮かんでくるようだ……、となるでしょうか。
本歌に
和泉式部
黒髪の乱れも知らずうち伏せばまづかきやりし人ぞ恋ひしき
という歌(髪の乱れに心を配る余裕もないままにうち伏した、その私の髪をかきのけてくれた人がだれよりもいちばんに恋しい)があり、さらに、源氏物語の蛍の巻などに書かれた玉鬘(たまかづら)の描写を下敷きにしています。玉鬘は、光源氏の若いころの愛人である夕顔の子で(ほんとうは源氏の子供ではないのですが、夕顔は若いころに亡くなってしまうので、表向きは自分の子供として、源氏は彼女を引取って養育しています)、光源氏は彼女に往時の母親の面影を認め、隙あらば手折ろうと思いながらひとつ屋根のもとで暮しています。父親という立場を利用して、さまざまに彼女に近寄り、事情を知らない玉鬘を困惑させるのですが、そうした描写のひとつに、「(玉鬘は)顔ももたげたまはねば、御髪をかきやりつつうらみたまへば」というのがあります。玉鬘に言いよっても、彼女は困ってしまって顔もあげられない。そこで、光源氏は父親ぶって髪をかきやってあげながら(そのじつ、これは恋人に対する愛撫なのですが)、恨み言をいう、という場面。これが定家の歌のかくし味になっているわけです。
髪というのは、なぜか悩しい連想を誘います。おそらくそれは、女性の外見上の魅力としてまっさきに目につくもののひとつであるからでしょう。例えば、髪のほかにも、顔の美醜であるとか、衣服の趣味であるとか、あるいはその人格や教養、といったものもあります。けれども、これらはいずれも、その人にとって外在的なものに過ぎないのですね。顔つきの美醜や人格、教養まで外在のもの、と言ってははばかりがあるかもしれませんが、言いかえれば、これらはすべてやや抽象的、精神的、形而上的な範疇に入るものであって、その人の手触りをもった存在感としての魅力とは言い難い。なぜなら、これらはいずれにしても、しごく簡単に意識的な操作ができるのであって(容貌だってお化粧ひとつですしね)、存在に直接かかわるような、肉体的な要素に乏しいわけです。端的に言うと、こうしたものにエロチックな連想を誘われるという男はまずいない。肉体的、身体的なものではないからです。
髪はこうしたものの対極にあります。もちろん、決心すればのばすことも短くすることもできますが、意のままに簡単に、とはいかない。外から人が見たときにすぐそれと気づくようなものでありながらも、なかなか自分の思いどおりに操作できるものではない。―意識との距離感。そう言ってもいいでしょう。精神(意識)の及ばない、あるいは及びにくい部分に存在して、あたかも自分の意志とは別な意志を持っているかのように見えるもの。精神的、形而上的な範疇を抜けだした「私」。もし、精神と対置され、精神に従属するふりをしながら、ひそかにそれに手向うものを身体と名づけるとすれば……、そう、髪は身体そのもの、肉体そのものなのです。
趣味や人格や教養、あるいは容貌(「顔」は人間の社会のなかにおいて、肉体の一部である以前に精神の表徴です)に対する愛は、そのまま、形而上的なものに対する愛である。ギリシア哲学ではこのような愛情をアガペーと名づけ、普遍性を持った人類愛へとつながる精神的な愛情だと考えました。一方で髪に向けられる愛は、その根源を考えれば、肉体に対する愛である。やはり古代の賢人たちは、このような愛情をエロスと称しました。極度に個人的で、肉体や身体といった個別的、具体的なものに向けられる愛情のことです。そう、これがエロチックの語源。身体への嗜好は、その本質においてエロチシズムによって捉えられなければならないのです。
王朝の貴族たちにとっての魅力的な女性像の条件は、教養やら美貌やらさまざまありましたが、なかでももっとも重要だと考えられていたもののひとつに、黒く豊かで美しい髪が挙げられます。彼らは薄暗い夜のうちに恋人に逢い、夜のやっと明けるころに女のもとを去るので、相手の女性の容貌をはっきりと確かめる機会がなかなかありませんでした(それでなくとも、容易に顔を人に見せないことが貴族の女性としてのたしなみだと考えられていましたから)。ですから、外面的な部分から女性の品定めをする際には、黒髪の美しさが非常に重視されたわけなのですが、ここでひとつ不思議なことがありませんか? そう、王朝の好き者たちは、女性のプロポーションについてはあまり興味を持っていないのです。容貌と並ぶ、男性の関心事であるはずなのに、どうして彼らはそのことを気にしなかったのでしょう。―もちろん、ひとつには、当時の女性たちが非常な厚着であって、ただ見ただけでは体つきを想像することができないほどであった、という事情があります。しかし、おそらくそれだけが理由だったわけではないでしょう。ぼくは、もうひとつの理由として、彼らが黒髪に対する大いなる興味を持っていたからではないかと思います。
上で述べましたように、髪への愛惜は、そのままエロス的な愛情へとつながります。肉体への愛情。プロポーションへの興味は、まさしく肉体への愛情でしょう? だからこそ、女の人は自分のプロポーションを過剰に褒められると、そこに男の下心をかぎつけて不愉快な気分になるのです。エロスというのは、ひらたく言えば下心のことですからね。話が脱線してしまいましたが、つまり、どちらが先なのかはわかりませんけれども、平安時代の男たちには、プロポーションに対する興味の代りに黒髪に対する執着の念が非常につよかった。それゆえ、彼らはみずからのエロス的な愛情の対象を、ほかの時代、ほかの文化のなかではごく普通のものである、女性のプロポーションに求める必要がなかった……。
もし、この仮説が正しいとすれば、この定家の歌において、黒髪というものの占める位置はいっそう重要なものになると言っていいでしょう。今のぼくたちが、現代における感覚で読んでも、この歌は相当に肉感的な部分がある。それは、作者がたてた趣向、つまり、恋人の髪の毛を撫でる男、という構図が、いかにもエロス的な愛情に見えるからです。けれども、これを王朝の視点において捉えなおすならば、こうした傾向はよりいっそうつよいものとなることはいうまでもありません。現代人である我々は、恋人の黒髪を褒めるように、そのプロポーションを讃えることができる。プロポーション、というおおざっぱな言葉をさらに細かく分析してゆけば、その選択肢はいくらでも無数に増やしてゆくことができる。いわば、黒髪は多のなかの一に過ぎないわけです。ところが、定家の時代においては、黒髪は唯一のものである。このほかには、エロスの雰囲気を漂わせうるようなものはなにひとつとしてない。―そのような状況のものとで、歌人はあえて「黒髪」という言葉を選んだのです。そのことを思うとき、この歌の上の句からは濃厚な色気が流れてくる。
しかし、この歌の見事なところは、ただ単にエロスの歌ではない、という点にありましょう。たしかに、「かきやりしその黒髪の筋ごとに」という上の句はエロスそのものである。肉感的で、具体的で、生々しく、荒々しい男の恋心が読者にものすごい勢いで迫ってくるような、濃艶な趣の歌である。けれども、目を転じて下の句を見るとき、ここにある「うち伏すほどは面影ぞ立つ」という切なさはいったいなんなのでしょう? つっぷしていると、あなたの、あの、私が手で触れたはずの黒髪が、ひと筋ひと筋、目の前に浮びあがってくる。―ここにあるのは、決してエロスといえるようなものではない。失われてゆきそうな恋を眼前にして、無力に悲嘆に暮れる男の切ない心。いっそ内省といってもいいような苦みを湛えながら、それでもなお、あきらめきれない恋心にすがろうとする人間の姿ではないでしょうか?
うち伏す、というのは、もちろん、恋人に逢えず、ひとりで閨のなかにつっぷしている、ということです。ついでにいえば、この歌が収められているのは巻十一、恋歌五。恋歌は、出逢いから別れまで順番に配列されるのが勅撰集の決りですから、この位置(恋歌五の後半)にある、ということは、別れの歌だと見ていい。少なくとも撰者は、そう判断し、そう読者に解釈してもらいたくて、この位置に挿入していることは確かです。つまり、この歌の主人公がひとりでうち臥っているのは、ただ単に恋人に逢えないゆではなく、恋の終りが近づいているためであるからなのです。
恋愛は陶酔でしょうが、酔うにしても、その酔いが薄らぐとき、深まるときがあること、やはり酒とおなじことでしょう。男は、今、あきらかに、その酔いのなかから醒めかけている自分を感じている。それが、この歌のいちばん底のところにあります。彼にだって、もう、どうやらこの恋には先がなさそうなことがうすうすわかってきている。恋人にも逢えないし、なにより、ひとたび自分でそう思ってしまえば、気持そのものがそちらへと流れていってしまうものです。予測を現実化させるのは、状況である以上に、みずからの心理です。しかし、その一方で、それを否定したい、それを嘘だと思いたい、という自分もいる。これほど甘美であった陶酔が、これで醒めてしまっていいはずがない、という自分がいる。そこから、はかない希望が生れ、幻想が生れ、淡い期待に望みをつなごうとする気持が生れる。その相克のなかに彼はいるのです。
彼は考えます。なにゆえに考えなくてはならないのか? 言うまでもありません、彼は今、ひとりであるからです。いくらのぞみのない恋にのぞみをかけてみたところで、隣にいっしょにいるはずの人がいないという事実が、彼に現実をつきつける。心のどこかで思っていた、終局へと動いてゆく周囲の状況を、いやでも認めざるを得ないような場面に、彼はいます。だからこそ彼は考えるのです。―この恋は、もはや終りなのだろうか、と。
恋の終りを冷静に見つめることは、やはりひとつの理性でしょう。男はここで、現実とみずからの心のなかの感情(というよりは、恐ろしい予測をむりに押しこめてつくりあげた希望的予測)のあいだに存在する乖離を認め、それを埋めようとしているのです。現実がどうあるか、というあまりに残酷な認識をみづからに課し、これまで押しこめてきた恐しい予測をやっと認めようとしている。けれども、ひとり閨のうちでそのことを考えようとするとき、彼の心はどうしても千々に乱れてしまうのです。彼は思う。恋は終ったかもしれぬ、けれども、まだここに私の愛情は残っている、と。
それが「うち伏すほどは」なのでしょう。いつも思うわけではない。ただ、ひとりこうしてつっぷして考えていると、そんな妄執のような心がわきあがってくるのだ……。ここの「は」というひとことの選び方には、そんな主人公の気持をくみとることができるような気がします。「うち伏すほどに」ではない。つっぷすと、ではない。いざ実際につっぷしてみると、つっぷして、この別れをもう一度、冷静に考えてみようとすると、私の心は狂乱にとらわれるのだ、と彼は言うのです。
狂乱のなかで男が見るものは、かつて彼の愛した、いや、今でも彼の愛している女の黒髪です。この手で撫で、この手で愛しんだ、あの黒髪。いや、黒髪は一種の譬喩だと言っていいでしょう。黒髪という言葉を透かして見えてくるのは、かほどに狂おしい愛情の対象となった彼の恋人その人です。しかも、それは精神的な、抽象的な、きれいごとの女性ではない。男がかつてみずからの手で触れた、その実感を持った、女性その人である。それは、意識のなかの「その人」などではなく、「その人」そのものの存在なのです。だからこそ、歌人は黒髪という言葉を用いて、男のエロス的な愛の対象としての女を描こうとする。
しかし、皮肉なことに、男が狂乱し、千々に乱れた心でこのような恋人の姿をいくら描こうとしても、そこには男のエロスの対象としての「その人」は決して現れないのです。彼がいくら狂おしく恋いたとしても、その観念のなかで生れるものは、「その人」そのものではなくて、「その人」の影であり、観念のなかの「その人」であり、具体的な身体を持った「その人」ではありえない。彼が追うのは観念という名を持った影に過ぎず、そして、観念―あるいは精神的、形而上的存在、と言いかえてもいいのですが―である以上、そこにエロスは存在しえない。もはや、いくら狂おうとも、男の心からは、肉体を持った存在としての女に対する愛は消えさっているのです。いや、彼が「まだある」と信じている、エロス的な愛は、もうすでに別なものへと変容しているのです。
そこにあるのは、アガペーなのではないでしょうか。
うち伏したときに、彼が目に見た幻想の黒髪は、そのまま幻想のなかの恋人にほかなりません。そして、幻想のなかに相手を恋うようになったとき、そこにはエロスではなく、アガペーが生れているのでしょう。キリスト教の言い方を借りれば、おそらく「肉(体)を超えた霊(魂)の愛」ということになるのでしょうが、エロスをアガペーの下位に置こうとするこの考え方にぼくは賛成しません。それは、本来の、ギリシア哲学におけるエロスとアガペーの発想をねじ曲げたものです。
肉体、あるいは身体は個別的なものであり、人間のいちばん基礎的な部分、つまり日々の生活にあまりに深く結びついているために一般化することはほとんど不可能です。一方で、精神は、これもたしかに個性豊かなものではありますが、決して個別的なものではない。ひろくだれとでも結びつき、そこから豊かな実りをあげることのできる、いわば普遍性に対して開かれた存在です。また、肉体は有限ですが、精神は無限です(と、すくなくともギリシア人たちは考えていた)。それゆえ、エロスは肉体を対象とする愛であるために、深く、激越ではあるが、個別的で、ひろく行きわたることはあり得ない。逆にアガペーは、淡く、ゆるやかではあるが、普遍的で、可能性としては人類全体に施しうるような種類のものである。エロスは攻撃的に愛することだが、アガペーは受入れ、すべてを慈しむための愛情である。―古代ギリシアの哲学を敷衍すると、そういうことになります。
そう考えると、幻想のなかにある黒髪は攻撃的な愛の対象としてはあまりに淡すぎるような気がしませんか? たしかにこの歌の主人公は、未練の感情のせめぎあいのなかで、女に対してまだエロス的な愛情を向けようとする意志はあります。しかし、その実、もはや愛情の対象として持ちうるものは幻想のなかの黒髪にすぎず、そこにあるのは感傷的な、淡い、ゆるやかな、相手をみずからの心のなかに受入れ、過ぎさりゆくものとしてあきらめながら、友情のような、あるいはともにこの世のなかに生を受けたことを愛しむ者への慈しみのような、そんな感情でしかないのです。
しかし、ぼくはそれを、エロスからアガペーへの単純な推移だとは考えたくありません。おそらく、恋愛はエロスそのものではない。それはきっと、エロスとアガペー、個別と普遍、あるいは攻撃と慈愛のあわいに漂いながら、あるときは一方の性格がつよまり、あるときは一方の性格が弱まる、といった、そういうものだと思いたいのです。慈しむように恋人を見る瞬間もあれば、自分のほうを振りむかせたいという一念にこりかたまる瞬間もあるでしょう。その両方が、恋愛というもののような気がしてならないのです。―そして、この歌のように、それがまるっきりのアガペーになったとき、ひとつの恋が終るのではないでしょうか。哀しいけれど、幸福なかたちで。
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