雪香楼箚記

音楽のこころみ_1









                                           この地上の美しいかずかずのものを出発点に、かの美を狙い
                                           つつ、不断に上昇してゆくこと、つまり、一つの美しい肉体から
                                           二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体から一切の美しい肉
                                           体へ、次ぎに美しい肉体から美しい営みへ、かずかずの営みか
                                           ら美しい学問へ、かずかずの学問から一つの学問──まさしく、
                                           かの美そのものの学問へと、その一段一段を、いわば階段を登
                                           るように処理しながら、辿りつくことにほかなりません。そして、
                                           ついに美そのものを認識することになるのです。
                                                              ――『饗宴』におけるソクラテス







(1) ピアノ・ソナタについて (雪香)

 藝術は狂気としては存在しえない。なぜならもしその作品が狂気であると感じるのであれば、作品はわたしにとって「狂気として」理解可能だったのであり、その部分においてわたしと作品の正常な語りあいが成りたっているから。そしてその作品が理解不能であったのならば、それは藝術ではないのだから。
 リストのピアノ・ソナタはそういうむつかしくてずるい理屈を思わせる作品である。難解な横顔でわたしたちを欺きながら、音符は陰でこっそりと舌を出している。これは狂気ではない。狂気を装った何かだ。しかし――、何か、とはいったい何だ?
 ぼくにはこの曲の声が聞こえない。リストは何かを語ろうとしているのだろうか。あるいは、このピアノ・ソナタは……。それは抒情でもなく、郷愁でもない。愛の語らいでもなく、夕露のうつくしさでもなく、情熱でも、夢幻でも、感傷でもない。この曲は、空虚だ。
 表現すべきものはもはや消えさった。後に残されたのはピアニストの超絶的な技巧だけだ。いや、このいいかたは間違っている。この曲において表現すべき内容の座を占めるのは、表現するための技巧そのものなのである。その人がピアニストであること。これがこの曲の主題だ。
 第三楽章冒頭(Andante sostenuto)の抜殻のようにうつくしいピアノの音に、ぼくは「肉体はかなしく、ああ、書物はすべて読んでしまった」という詩人のつぶやきを思う。産業革命は神を殺した。しばし空虚であったその座にやがて位置を占めたのは、人間の手になる「技術」である。
 浪漫主義は藝術における産業革命である。ベートーベンが鋼鉄製の弦とフレームを持ったピアノにめぐりあったことはある意味において必然であったとも言えよう。初期において彼らは神を殺したさみしさに耐えられず、それをなぐさめるために抒情にはしった。郷愁は産業革命によって都市へ流入し、故郷を失った者が発見した感情である。そして後期において、浪漫主義藝術は新たなる神に奉仕する神官としてよみがえった。「技術」は表現の分野において絶対的な個性とリアリズムによって裏づけられる。写実主義、民族主義、反伝統主義、個性と技術の評価……。それらはいずれも新たな神の求めるものであった。
 肉体はかなしく、書物はすべて読んでしまった。ここにわたしがいるという自意識は肥大化し、しかし伝統という他者は遠ざけられる。残るものは、ただ失われたものへの感傷と個性という名の技術のみだ。
 リストはもう何も語らない。失われたものを語りつづけた結果、彼はついに語るべきものをすら失った。ピアノ・ソナタのなかにあるのはただ語る主体としてのピアノであり、技巧である。ピアノは鳴っている。しかしそれは何も語らない。音は音として、もはや何ものにも奉仕しない。ただ虚ろに劇的な声がこだまするだけだ。
 リストが生涯にただ一曲だけ書いたこのピアノ・ソナタをワーグナーは「あらゆる概念を超えて美しく、崇高で気高い作品」と評した。そうだ、たしかにこの曲は美しく、崇高で、気高い。そしてそのむこうに何もない。形容する語に満たされて、主語となるべき何かは消えさっている。そういえばワーグナーが作った曲はいつもこのようではなかったか。いつも崇高ではあったが、しかしどこか空疎なメロディー。ぼくにはそれが芝居の書割りのように見えてならない。立派なことは立派だけど、かなしいほどに嘘でありすぎる。虚構の気品すらそこにはない。
 そして、それでもこのロ短調のピアノ・ソナタは響きつづける。それを狂気と呼ぶのであれば……、ぼくは反対しない。ああ、なんと美しく、なんと空疎な音。

 ■ リストはすぐれた作曲家であり、また同時に19世紀初頭を代表するピアノの名手であった。ロ短調のピアノ・ソナタは1852年から翌年にかけて、人妻であったカロリーネ・ウィトゲンシュタインという恋人と同棲しながら充実した生活を送っていた作曲家が完成させた曲である。多くの作品のなかで唯一「ピアノ・ソナタ」と銘打たれシューマンに献呈されたこの曲は、しかしソナタ形式を完全に無視した独特のもので、リスト自身の超絶技巧を前提としたピアニスチックな効果を狙った作品である。






(2)私の考えるリストのソナタは (JASMINEさん)

反逆的な人生の、抽象化された音。






(3)歯ブラシ ― ついでに狂気 (ミナミノシマさん)

「空虚」っていうのは、断然反対したいのだけれど、それでも納得させられてしまうかも。
なんかね、例えば、安っぽいドラマで言えば、同棲していた彼氏と別れて、彼氏の使っていた歯ブラシが、洗面台に置いてあるのは同じなのに、彼がいなくなった途端にその歯ブラシが「意味のないもの(≒空虚)」に変容してしまうみたいに。
そういう歯ブラシっぽさが、あるかもしれない。
それを弾いているピアニストが存在しなくなったら、途端に「意味のないもの」になってしまうかもしれない和音とメロディ?
あ、違うなあ、ちょっと上手に表現できないんだけど。
なんか、「彼が使っている歯ブラシ」と同じくらい、魂と言うか愛と言うか存在というか、なんとも言いがたいけどなにかがこもっているような、そういう気はなーんとなくするかも☆

狂気。
っていうものの自分の定義が、なんだか変わって来ている気がしています、最近。

私は自分の日記の中で、こう書いたの。
「狂気だと思いました。その曲に挑もうとする、神に近づこうとするその行為は、「狂気」という言葉がぴったりきました。月に近づきたくて屋上から飛び降りてしまう人を狂気と言うなら、どうしてこの大曲を弾こうとする人が狂気じゃないのだろう。」

ところが、精神病によって「月に近づきたくて屋上から飛び降りてしまう人」が日常にいる環境では、なんとなく、それが本当の「狂気」だとは、考えにくくなってしまったの。それは「狂気」だけれど、それ以上に「病気」に思えるの。

それに比べて、「正気」の「狂気」は、なんと狂気なんだろう、と思うの。
じゃあ狂気って何かと言われると、すぐには答えられないんだけれど。






(4)Re:私の考えるリストのソナタは (雪香)

>反逆的な人生の、抽象化された音。
  伝統や社会性に基づかない反逆は無だと思う。反逆が可能なのは古典主義者だけじゃないかな? 音楽家でいえば、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、ショスタコビッチ……。
ぼくは太宰と尾崎豊が嫌いだ! くそくらえ、青春の反逆(反逆は老人の特権である)。






(5)0点ばんざい ― 5%ぶんのラカン (雪香)

>「空虚」っていうのは、断然反対したいのだけれど、それでも納得させられてしまうかも。
  いやね、空虚であっても芸術はいいと思うんだ。なーんにもないね、あーっさっぱりした、っていうのもありだと思う。芸術の公式は「どう伝えるか≧何を伝えるか」だから。
リストのソナタは「技術=どう伝えるか≧何を伝えるか=0」だと思うんだよね。それはそれでありだし、そういう曲を作った作曲家はたくさんいると思う(たとえばモーツアルトのトルコ行進曲とか)。音楽だけじゃなくて、アポリネールの詩とか、パリ時代のモヂリアーニとかもそうだと思う。
そうした「わーい、なにもないぞ!」っていう作品は、大概「技術=何を伝えるか」っていう式になっちゃってるんだよね。技術そのものが目的で、それが楽しい。何にもない。ただ楽しいリズムが、色が、言葉があるだけ。すべては「意味」に奉仕するところから開放されて、自由に生き生きと微笑んでいる。それがこのうえもなく楽しい。うつくしい。
いちばん典型的なのはルービンシュタインの演奏。曲の解釈とか構造とかを完全に無視して、「ここの和音が世界でいちばんきれいに弾けたらあとはどうでもいいじゃん」という演奏をあのピアニストはときどきやってる。彼はテストの回答が全部間違ってるけど、でもそれがすべてとても美しい。ホロビッツやバックハウスは全問正解しているし、答え方もスマートで美しいけれど、所詮テストの枠のなかでしか答えられていない。ルービンシュタインは解答用紙に詩を書いてるけど、ホロビッツやバックハウスは論文を書いてる。0点と100点満点。どっちも立派だけど(いちばんくだらないのは80点とかいう微妙によくできる点数を取るピアニスト)、演奏が作曲から自立してゆくという意味では0点を取れるピアニストってほんとうにすごい。
曲という「意味」に奉仕する音と、音が音のために奉仕する音の違いがそこにはあるんだと思う。音が音に奉仕する、つまり「表現の方法=技巧」が「表現の内容=意味」を裏切って自立してゆく、というのは、それはそれで優れて芸術的なシーンだと思うんだよ。
でもね、リストのソナタは「どう伝えるか≧何を伝えるか」の等号が成立しちゃってるような気がする。「技術=どう伝えるか=何を伝えるか=0」。何にもないじゃん……、っていうのがぼくの感想。構造的に「それを弾いているピアニストが存在しなくなったら、途端に「意味のないもの」になってしまうかもしれない和音とメロディ」という曲なのに、一方でピアニストが曲を裏切ることをゆるしてくれない偏狭さが隠れているような気がする……。
まあ、これは聴いたCDがわるかったせいもあると思うんだ。アラウだから、もっと不真面目なタイプのピアニストのCDにしておけばよかったと今、後悔してるんだけど。

>じゃあ狂気って何かと言われると、すぐには答えられないんだけれど。
  ミナミノシマさんとたぶんおんなじラカンの本を読んで、消費税率相当くらいラカンがわかって(わかったつもりで……。たぶんあの本は著者がラカンを理解しきっていないような気が。笑)、そこで思うんだけど……。
人間は〈わたし〉自身を言語=論理では説明できない(これはもうウィトゲンシュタインが決定的に証明してしまった)。わたしにとっての〈わたし〉は永遠に空白である。
でも、空白であることは不安であり、恐怖である。だから人は空白をうずめようとする。ラカンの発想によれば、狂気でない人は〈わたし〉を対象a(他者の欲望の対象としてのわたし=〈あなたにとってのわたし〉)によってうずめる。しかしそれはつねに偶発的で外在的(要するに自分とは関係なく存在して意のままにならない)だからやはり不安であって、根本的な解決につながらない。
そこで(以下はぼくの演繹)人は芸術や愛という虚構の物語によって、偶然に存在する対象aをあたかも必然のように味付けして受けいれようとする。なぜなら偶然が必然にかわることで人は安心をうるから。
でも(以下はたぶんラカンも納得してくれるはずの推論)そのバランスがくずれるとき、人は〈わたし〉自身に自分で言及して空白をうずめようとする。ところが言語は構造的に〈わたし〉自身に論理的に言及できない。だから狂気のとき発せられる言語は論理を失う。
そしてそれは芸術や愛においても同様で、だからこうしたものの表現方法は論理的言語ではなく、非論理的・非言語的要素(詩的言語やリズム、色彩、描線……)によらねばならない。
……というのはどうだろう?






(6)芸術?? ― 狂気 (マツキさん)

>いちばん典型的なのはルービンシュタインの演奏。ホロビッツやバックハウスは全問正解しているし、答え方もスマートで美しいけれど、所詮テストの枠のなかでしか答えられていない。

 珍しく書き込み(笑)
う~~ん、ホロヴィッツに関しては賛成できないなぁ。むしろルービンシュタインのほうが論文書いてる気がする。アラウがね、「知能は猿並みなのにあんな演奏が出来る天才は彼だけだ」みたいなことを言ってたように、ホロヴィッツは演奏聴いてても、それから特にしゃべるの聞いてても、深い考えとか全然出てこないんだよね。それでも時にものすごく心に染み入るような響きを出す。僕にとってはホロヴィッツこそ、”この和音、このメロディを美しく奏でることが出来たらもう死んでもいい”っていうタイプなんだけどなぁ。多分大きな違いは、ルービンシュタインは曲に対して大きく距離を取っていて、要するにどんな時でもクールで曲にのめりこまない。ホロヴィッツも変な冷たさはあるんだけど、とり憑かれたみたいに曲の世界に入り込んでいる。でもそれはホロヴィッツの世界で。彼はいろんなもの無視して弾いてるよ。強弱記号とかそんな次元はもちろんのこと、曲は当然こう進むであろうという期待をことごとく裏切ってくれる。半分くらいは”なんだこれは”っていう方向だけど。

>「どう伝えるか≧何を伝えるか」
 相も変わらず、僕にとっては芸術は「何を伝えるか≧どう伝えるか」です。まあそう言い切れるものでもないのかもしれないけど。古典的な分野に関しては中村君の言う通りかもしれないね。だから僕はモーツァルトが苦手なんだろうなってわかった(笑)でも、少なくともリストのソナタに限ってはそうではないと思う。こういう感情を表現したい!!!っていうのが強く出てくれば、どう弾くかは自然と追従してくるものです。この辺はもう中村君と僕の表現方法の違いとしか言えないのかもねぇ。リストにおいて技巧が表現より勝ってる曲って、カンパネラとか半音階的大ギャロップとかそういうものじゃないかなぁ。ピアノのテクニックという意味の技巧でないなら、愛の夢とかもそれに入るだろうけど。

>まあ、これは聴いたCDがわるかったせいもあると思うんだ。アラウだから、もっと不真面目なタイプのピアニストのCDにしておけばよかったと今、後悔してるんだけど。
 コルトーとか面白いかもよ♪
ちなみにこの曲は驚くほどソナタ形式に沿っています。なんか解説書とか読んでも的外れなことが書いてあることが多いんだけど、分析すると見事なまでにソナタ形式と3楽章の要素が組み合わさっている。ちなみにAndante Sostenutoのところは展開部、2楽章に当たるところだと思う。あの綺麗なメロディーは冒頭のテーマの逆行型。

リストは多分ものすごく完璧な人間だったんじゃないのかな。完璧っていうのは、自分自の空白を自分自身を欺いて埋めることの出来るような。中村君がだいぶ前の日記に、自分は枠におさめてやらないと破綻を来たすような性質だみたいなことを言ってたっけ??あってるかな。リストは全くその正反対な気がする。ベートーヴェンも。もしかしたらさらに複雑なだけなのかもしれないけど、自分の中で無意識的にもうすでに枠にはめられていて、それは簡単に崩れることがないから枠からはみ出るような芸術を作ることが出来る。もしくは、そんな風に閉じ込められてしまった自分がいやで、なんとかそこから抜け出そうとする。まあ僕がどっちかっていうとそういう人間なんだけど。だからリストの狂気はホントにどうしようもなく狂ってしまった狂気ではなくて、狂気を作ろうと思って生み出された狂気で、すごく理性的。逆にシューマンがこういうことをやってしまうときっと音楽はめちゃくちゃになってしまう。彼はあんなに古典的な手法で書いていながら狂気が見え隠れしている。と、思うんだけど^(・●・)^


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