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雪香楼箚記
音楽のこころみ_2
(7)ルービンシュタイン ― 語りうるもの、語りえぬもの (雪香)
わー、めずらしい人が書きこみしてる。(ノ^0^)ノ
っていうか、自分のホームページにもっと書きこみしてあげなよ(犬だけじゃなくて……☆)。
しかし、このコメントの欄、本気になって書くと容量制限が微妙な不便さだなあ……。
>知能は猿並みなのにあんな演奏が出来る天才は彼だけだ
あっはっは☆ 言いそう言いそう。そして言われそう。もっともホロビッツは馬に似てる(顔が)ような気もするけど……、馬並みっていうのはやっぱりいろいろ語弊があったのかしらん。
そのピアニスト自身がなかに何を持っているのかっていうのはぼくはあんまり気にならなくて(サルで結構、という境地についに達した。むかしはぜったいに受けつけなかったけど)、それにまあ、深い浅いったところでけっきょく思想とか思索ってかんたんなところにゆきつかなければほんものじゃないって思ってるから、アラウの言には半分だけ賛意を表したいと思うなあ。
ただね、ホロビッツとルービンシュタインのいちばんの違いは、ホロビッツは全体性のなかで弾いてるけど、ルービンシュタインは部分性のなかで弾いてると思うんだよ(もちろん、そうじゃないルービンシュタインもいて、ショパンとか、晩年のブラームスの1番とか、室内楽とかがそうだと思うんだけど)。ほら、甘栗とか、最初は食べるために剥いてるんだけど、そのうち剥くこと自体が楽しくなって食べるのを忘れちゃうときがない? ああいう感じ。「甘栗を食べる」という全体の主題に対する意識が働いてれば、いくら剥くのがおもしろくても程のいいところでセーブして、全体の主題を達成するために部分的な作業を奉仕させるんだけど、「いいじゃん、楽しければ」って袋いっぱいの甘栗を剥いちゃう人もなかにはいる。
剥く―食べるっていう簡単な作業のなかだと見えないけれど、たとえばケーキ作ってるのにクリームを泡立てるのだけが楽しくて、三時間掛けてボール十杯生クリーム泡立てたのにまだスポンジすら焼けてない、とか……(すごく迷惑な人だ)。部分の楽しさがどんどんどんどん拡大して、ついには全体の均衡を破ろうとしてる、どことなく不健全で退廃的な楽しさ。ルービンシュタインってなんというか、ときどきクリーム泡立てるのに夢中になってるときがあるような気がする。特に彼のモーツアルト。あんまりうまくないんだよね。全体的にずくずくな感じで。でも、どこか一箇所か二箇所、不健全にうつくしい部分がある。
いちおうホロビッツの偉大さを認める点においては人後に落ちないつもりだし、彼が好きなんだけど、なんというか、生クリームの部分においてぼくはルービンシュタインのほうが……、う~ん、好き、というのでもなくて、魅力的に感じられるのかな。
たしかにホロビッツもルービンシュタインも「この和音、このメロディを美しく奏でることが出来たらもう死んでもいい」というところはあると思う。そりゃピアニストだもん。でも、ホロビッツはたぶん最後までケーキを仕上げてくれる。彼にとってはこの和音「も」あの和音「も」大切であって、けっきょくは曲の全体性というものをほんとうに深く把握するから一音がうつくしくなっているような気がする(その過程がはなはだ非知性的、あるいは長嶋茂雄的であるにしても)。全体性のなかでこの部分がいかにうつくしく響きうるか、ということを計算、というとどうも殺伐とするけど、判断しうるからホロビッツの「この和音」はうつくしい。また、それゆえに「あの和音」もうつくしくなりうる。
裏切りうるホロビッツというのもたぶんそうした根があるゆえではないかと思うんだけどどうだろう。彼は文脈を見ているからべつの文脈を提案しうる。それはつながりであり、ひいては全体性だと思うんだ。そしてそういうふうな曲全体を自分のなかにうけいれる能力を音楽性って呼べるなら、たぶんホロビッツはだれよりも深い音楽性を持ってるんだよ。ほんとうの敬意を、だれもがささげざるを得ないほど。彼の若いころの録音を聴いて、ぼくは生まれてはじめて西欧にも弾いてない瞬間(空白)を完全に支配しうる音楽家がいるとびっくりしたんだけど、それこそはいかにこの人が深く音楽を理解していたかを物語っているような気がする。ただ彼にはそれをきちんと筋道立てて物語る能力がないだけなんだないかしらん。
ルービンシュタインは、それに比べて、ときどき危険でありすぎる。スポンジがなくて生クリームだけあったり、ひどいときは「誕生日おめでとう」のチョコの板だけだったり……。むろんそれがすべてではないし、たぶん世間の人が評価してるルービンシュタインっていうのはホロビッツ的な、バックハウス的な彼の側面(前に言ったショパンとか、ブラームスとか)なんだと思う。第一ルービンシュタインがどこまで意図して生クリーム十杯泡立ててたのかも判然としないし。
でもね、それでも、いや、それだからルービンシュタインって魅力的なんだよ。ぼくにとっては。ケーキを作るのはたしかに健康的だし、立派だし、すばらしい。それはそれで否定できない。でも、生クリーム十杯の……、なんというかしたたるような愛嬌がいとおしくていとおしくてたまらない瞬間があるんだよ。ルービンシュタインはこの和音「しか」うつくしくない。あの和音も、その和音も無視して、ただこの和音「だけ」がうつくしい。部分が全体に対して叛乱する。全体の均衡を破るほどただ部分が美しいことが、ときどき彼にはある。
ルービンシュタインが距離感のあるピアニストっていうのはとても納得できるんだよ。作曲家に対しても、作品に対しても、かなり礼儀正しい距離感をまもっている。ただ、それが、ときとして彼の音楽性に手触りをなくしているんじゃないだろうか。ルービンシュタイン自身にもしかしたらそういう不安があったのかもしれないけれど。しかし、彼は作品にも作曲家にも歩み寄らない。ただピアノのそばにいるだけ……。その結果として、喪われた箇所を補うために、部分への均衡を失った愛情が生まれてくるのでは、と素人は推論するんだけど。それはいわば不健康なルービンシュタインで、不健康だから彼の過剰なくらいの技巧が部分への愛に走るのではないか、と。で、どっちかというとぼくは不健康なルービンシュタインが好きなんだなあ。健康なときより。
作曲っていう行為もそうだし、演奏という行為もそうだと思うんだけど、そういうものは最終的に全体への奉仕を部分に強要するわけでしょう。それがひしきまった作品のうつくしさを生むのだということはぼくもわかるし、賛成したいと思う。でも、ときとしてそこから無意識にこぼれてしまう人がいたりするんじゃないかという気がずっとしていて、たいがいそれをぼくたちは「ゾロッペエ」と否定するわけなんだけど、しかしそれはほんとうはちがうんじゃないかと思うんだ。「ゾロッペエ」がもし部分への異常な愛情に裏づけられたものであるとするならば……、そういう放恣なうつくしさをもやはり評価しうるんじゃないか、って。生クリーム十杯もありえるんじゃないか、って。
これはまだぼくの解決しえてない身体と意識の問題、それから情性と知性の問題にかかわりそうだからもうひとつまだうまくまとまりきれてないんだけどね。
>僕にとっては芸術は「何を伝えるか≧どう伝えるか」です。
>でも、少なくともリストのソナタに限ってはそうではないと思う。こういう感情を表現したい!!!
>っていうのが強く出てくれば、どう弾くかは自然と追従してくるものです。
うん、そうそう、そうなんだよ。「こういう感情を表現したい!!!っていうのが強く出てくれば、どう弾くかは自然と追従してくる」と思うんだよね。だからなんでピアニストは、作曲の時点ですでに中身が不足気味の曲を自分で水増ししないのかなー、って。作曲家の意図なんていいじゃん、というのは不遜な考えかたなんでしょうか。
でも、最終的には「何を伝えるか≧どう伝えるか」の議論はむなしいところがあって、クリスマス・プレゼントが、「包装はすごく立派なのに中身がカラ」なのと、「中身はすごく立派なのにとってもいい加減な包装(愛情すら感じられない)」なのと、どっちがより哀しいか、って話だから(笑)。二つあわせて満足できてるんなら、それ以上こまかいこと言うのも野暮な話しだしねえ。
ぼくね、じつは技巧がすでに目的化しちゃってる曲って好きなのよ。「何を伝えるか=どう伝えるか」の等号が「どう伝えるか」優位で成立しちゃってる曲。でも、それが一方で「何を伝えるか=0」であるがために「どう伝えるか=0」というところにまで演繹されるかなしさはちょっとダメなわけです(むろん逆も真)。技巧が目的であっていいと思う。ただそのなかに気韻生動の風情があってほしいんだよなあ。世の中に「伝えたいこと」が盛んに語っている作品はあるけれど、「どう伝えるか」自身が言葉を持っている作品はとってもすくないから。
そのためには多少論理や整合性がこわれてもいいんじゃないか、って思うんだよ。
ああ、楽章数は間違いでした。m(__)m 失敗失敗。
>リストは多分ものすごく完璧な人間だったんじゃないのかな。完璧ってい
>うのは、自分自の空白を自分自身を欺いて埋めることの出来るような。
そうそう、そういう感じがあの曲はするんだよ。だから「藝術は狂気としては存在しえない。なぜならもしその作品が狂気であると感じるのであれば、作品はわたしにとって「狂気として」理解可能だったのであり、その部分においてわたしと作品の正常な語りあいが成りたっているから。そしてその作品が理解不能であったのならば、それは藝術ではないのだから。」ってリストの試み(?)に意地悪してみたんだけど、なんかその構図を見ちゃうと、曲全体をむなしく感じてしまうのもまた事実で……、そこで「いや、これくらいすごいウソをついたリストはえらいよ」って説得してくれるピアニストに出逢えなかったのが今回の敗因なのかな?
なんかね、狂気は芸術ではうまく表現できない、っていう気がしなくもないんだよ。だって芸術自身が狂気なんだから。「わたしはわたしを語りえない」。風狂っていう言葉が漢文にあるんだけど、そういう感じかな。ときどき自分がまっとうな人間でないことを認識させられる場面がある、そのさびしくて勇気づけられる感じ。
たしかにリストのなかにはすでに枠があるような気がする。それを乗りこえようとする精神の運動が彼の作品なのかもしれない。枠をだれかが(あるいは自分自身が)嵌めてあげるべきだったのに、不幸にしてだれもそうしてくれなかったのがシューマンっていうのも納得できる。
狂気って、人間にとって意外と近しいものなんじゃないか、っていうのが今のところのぼくの結論なんです。それは嫌悪すべきものですらなくて。むしろ狂気と対比される何か――正気、なのだろうか――こそがじつは異常なんじゃないか、って。
人間は長いあいだかかって、やっと自分よりさきに世界は存在していた、ということを理解してきたわけじゃない?(哲学の世界では十九世紀末になるらしいんだけど。) で、自分とは無関係に存在する世界って、ぼくたちが持っている「言語」では読みとけないんだと思う。理解不能な、読めない書物としてそこに存在している。それが根本的に人間にとって不快で、不安でたまらないんじゃないか。
それをなんとか読みとこうとして、人間はものに名前をつけ、火を熾し、森を切りひらいて動物を捕まえ、飛行機と新幹線もとおしたし、原爆も二個ほど落としてみた。すべては世界を切りひらき、自分たちにとって理解可能な、不快でないなにかにするための「言語」における努力だったと思うんだ。
でも、それでもまだ読めない世界は残されている。ぼくたちが「言語」によって読みときえたのは世界のごく一部分でしかない。たしかにそこにとどまるかぎり人間は安心していられる。でも、一歩そこを踏みだすと、そこではもはやわれわれの「言語」は意味を失う……。
ぼくらは読みといたものを世界のすべてだと信じている。でも、そうではなくて、読みといたものと、読みとけないもののすべてが世界なのではないだろうか。世界はひろく、とおく、とても不快で不安なかなり多くの部分を含んでぼくたちのすぐそばにいる。それが狂気へのいざないではあるまいか、と。
ぼくはできるだけ多くこの世界を「言語」で読みときたい。でもその一方で、「言語」で読みときえない部分の世界に対して嫌悪したくない、と思う。「語りうるものについては語るべし、語りえざるものについては沈黙すべし」というのはそういうこと。狂気は「語り」えないものだから「沈黙」するべきだと思うんだよ。むろんそれは嫌悪の沈黙ではなくて、愛が語りえないように狂気も語りえないものであるような気がするから。
(8)いやいやいや ― ホロヴィッツとルービンシュタイン (マツキさん)
あははは、笑えてきたわ。一つには、実は結局同じような意見だったんだっていう安心感、でも何よりも僕が言いたくてうまく言葉にならなかったことをことごとく説明してくれたから。いやぁ、やっぱり言葉を使わせるとすごいねぇ。中村君ならこの世界のほとんどのことを言葉で読み解けそうな気がしてきます。しかし、確かにその気になって書き始めると、この容量は少ないよねぇ。
>ときどき自分がまっとうな人間でないことを認識させられる場面がある、そのさびしくて勇気づけられる感じ。
リストの場合は、自分の表面に現れている性質があまりにもまともな人間で、それでも自分自身にも見えないけれど自分の心の闇があるのも知っていて、なんとかそれをさらけ出したいと思って狂気を「作り出した」ってことじゃないのかなぁ?だからそれは本当の狂気じゃない。本当に狂気を持ってる人が狂気を曲に込めてしまったら、それは誰にも理解できないものになるだろうけど、そうじゃない正常(しかし何が一体「正常」なんだろう・・・???まあいいや)な人が書いた作られた狂気って言うのもあっていいんじゃないのかなぁって思う。芝居とかでも、普通にしゃべってるだけでも味が出る役者さんもいるだろうけど、そうじゃなくて大げさに全部表現して初めて演技が成り立つような人?そういうのも好きだけどなぁ。
まさに中村君の言う通りだねぇ。ホロヴィッツは全体性の中で弾いてるかもしれない。そこまで細かく説明されて言ってたことの真意がわかった。たしかにね、論理的な構成力とかはかなり欠けてるけど、直感的に音楽の流れを感じ取る能力は抜群だと思う。”おおおお、こう来たかぁ!!”って思わせるのは流れの中で弾いてるからこそだよねぇ。ルービンシュタインはそこがないのが、多分僕はいまいちピンとこないっていう理由かもしれない。なんか平板な印象を受けてしまうんだよねぇ。もちろん偉大なピアニストだっていうのは大前提としてね。ショパンのマズルカをステファンスカとルービンシュタインで聴いてみて、ステファンスカは確かにものすごくうまいんだけど、ルービンシュタインは何もしてないのにやっぱり格が違うもんだなぁと思った。その上で、なんだか緊迫感というか”この一瞬にかけないと自分は死んでしまうんだ!”っていうような切迫した感じが感じられない。もうここまできたら好みの次元かねぇ。。
(9)文化人類学的見地からの一仮説 (JASMINEさん)
>ときどき自分がまっとうな人間でないことを認識させられる場面がある、そのさびしくて勇気づけられる感じ。
学会のパッキングも終わらないのにPCに向かっているJASMINEです。ろくなリハも済んでいないのに(時間オーバー街道まっしぐら★=大変やばい)PCに向かっているJASMINEです。ひゃ~~~!
まっとうな人間、ねぇ。マツキ的「まっとうな人間」の定義は何だろう?
私はまっとうじゃない人間なんていないと思います。逆説的に言うと、狂気(的なもの)を持ち合わせていない人間もいない。それらはすべて、ある一個人の一側面であって、要はその要素の比率配分で平均的人格が測れる(としたら)のだと思う。
上記を前提とした場合、リストは多分に自己分析的で、自らに内在する特定要素を抽出するのに長けていたと言えるのではないでしょうか。で、「狂気的」要素を抽出した作品がピアノソナタロ短調なのかなぁ、
と思ったりしました。
比率配分がほぼ同等である「まっとうな」人間には出来ない技だろうな。だって皆なんとか取り繕って「まっとう」であろうとしているのが人間ですから。
そこをあえて、「ほーら、君も結局まっとうじゃないじゃないの。皆そうじゃないの。」と「音」という抽象概念を用いて指摘した、という点においてリストはある種反逆的であると私は考えます。(コメント1参照)
…って実際どうなんでしょうね?>ミナミノシマさん、雪香さん、マツキさん
(10)Re:いやいやいや (雪香さん)
>実は結局同じような意見だったんだっていう安心感
あはは、そうそう。でもほら、「どう伝えるか≧何を伝えるか」の人だから、いろんな言いかたして挑発してみたくてたまらないんです。
「本当に狂気を持ってる人が狂気を曲に込めてしまったら、それは誰にも理解できないものになる」っていうのはね、ほんとうにそうだと思う。芸術は宅配便だから届くところまでが仕事だもの。作っただけではいさようなら、ってのはやっぱりナシなんじゃないかな。うん、届いたよ、とか、届いたけど隣の家だったとか、そういうのがあって、「こう作ってみた、はてこれはこう受取ってもらえるのか」っていう部分に心をつかう余裕がなくなると、作品は崩壊してしまいそうな気がする。エゴン・シーレとかね、ユトリロもそうだし、ちょっと毛色がちがうけどベートーベンの弦楽四重奏15番とか、壊れてゆくなにか、では確実にあるんだけど、その一歩裏側でかなり冷徹な作家の計算があるのを感じる。いやむしろ、壊れてゆくなにかと冷静な計算が同居しているから、それは狂っているのかもしれないけれど。
それに比べると、リストは壊れてゆくなにかの部分で冷静なんだよなあ。しかもその冷静さが狂っているものをあまり感じさせない。観察者という感じなのかな。いや、狂気の観察者であっても、その観察的態度そのものに狂気を感じさせる人もいるというのに(観察した内容の報告が狂気による手段であれば、もうそりゃ芸術じゃない……)、彼はやっぱり正常なんだよねえ。そのあまりの健全さがときどき空虚であるようにぼくには感じられたりする。あるいはそのあまりの健全さが不健全であるとすら感じられる人がいてもいいとは思うんだけど。
たしかにリストは狂わないタイプの人だなーって感じるのは、あまり武骨さを感じさせないところがあるせいなのだろうか。ベートーベンもたしかに冷静な人だけど、それでも「これで……、ちょっとムリかもしれないけど、まあいっしょうけんめい押してゆけばなんとか通れるんじゃないかな」という強引さというか、骨のつよい感じがある。そういうのがリストに見えないんだよ、ぼくには。モーツアルトなら肉の部分をいろいろ細工してスムースに通すだろうし、バッハなら世界を骨のほうに合わせそうな感じなんだけど、リストはなんというか……、骨のない蛸か海鼠みたいな不思議な自在さがあって、それがちょっと怖いというかうつろな感じがするんだよねえ。リストがここにいます! という主張を自分で自由自在に作りかえられるくらいアタマのいい(クレバーなほうの)人が、狂うということがありうるのだろうか、って思う。
ホロビッツとルービンシュタインのこと書いててちょっと思ったんだけどね、ベートーベンってぼくのなかではホロビッツなんだよ。「知能は猿並みなのにあんな演奏が出来る天才は彼だけだ」っていうアラウの言葉をそのままささげたい感じがする。いえ、もちろんホロビッツほどはひどくないけれど(苦笑)。まあ、生涯割算の概念が理解できなかったらしいし……。
もちろん理屈も多い人なんだけど、この人最後のところで裸になって音楽と向かいあってる、ぼくたにちは感じられないなにかを直感的に感じてる、っていう印象を持つんだな。バッハはうんと理屈立てて、しかもいとおしそうに語ってくれる。モーツアルトはかなり自分と音楽のあいだに間隔を取っている(知的な把握をしていたかどうかはいささか疑問だけど)。
ベートーベンはそこのところが率直なんじゃないかなあ。率直というか、音楽とのあいだで隙間のない感じ。しかもその隙間のなさを、アタマでなくて……、もっと具体的ななにかによって語ろうとする感じ。そしてその武骨さ、不器用さのむこうに、たしかにこの人が語りたかった何かがよく見える。
ベートーベンは走りながら考えるタイプじゃなくて、そういう意味ではほんとうに古典主義者の一面がある。明確なかたちで語ることはおそらく彼自身にはできなかったろうとは思うんだけど、曲が生まれる前に、そこに表現するべきものを完璧に把握してた稀有な作曲家。古典主義の古典って、要するにギリシアとローマのことだから、プラトンのイデーなんだよね。美という形而上のものがすでに完璧なかたちであって、芸術家はそれを心において作品を作りあげるのだ、と。だから技巧が大事になってくる。表現すべきものは疑うべくもない大前提としてすでに存在しているのだから、それに頭を悩ませる必要はない。だれかが「ミロのビーナスはそれが大理石の塊であったときなら、そのなかに息づいていた」という名言を残しているけど、それが典型的な古典主義の発想だと思う。
ときどき、走りながらさあなにを表現してやろうか、というヘンなやつ(ロココがそれかな?)もいなくはないけれど、ベートーベンは決してそうじゃなかったんだと思う。厳然として表現すべきなにかが細部にいたるまで完璧なすがたで彼のなかにあったのではないか。彼の音符のひとつひとつはそれに奉仕するための必然的帰結として生まれてきたものではないか……。
それが、言ってみればベートーベンの枠である部分なんじゃないかと思うのよ。それは自明に存在するイデーであるから、決して揺るがない。ましてやベートーベン自身の信念と重なりあうとき、これを動揺せしめることはほとんど不可能だと思う。
狂気は、そういったものから逸れていくものだと思うんだな。内容ではなくて、それてゆくという運動そのもの。つまり、ベートーベンが「逸れていった内容」に興味を惹かれて、それを曲の中心にすえようとするとき、すでに逸れるという運動は消滅しているから、それは狂気そのものではない。そして、逸れるという運動に興味を示すことは、「表現すべきものが完璧に存在してそれをあとづけてゆく」という制作方法、つまり考えてから走る、というベートーベンの手法とは基本的に相容れない。だからベートーベンは狂気そのものにはならないんじゃないかと。(モーツアルトがときどき不気味な狂気を一瞬だけ見せるのは、彼が走りながら考えてるせいなのかもしれない。走りながら考えるなら、逸れてゆくという運動そのものを経験できるから。)
そしてリストは、やっぱりベートーベンのような枠はあるんだけど、それを彼自身が信用しきってない部分があるような気がする。「これもありうる、でもあれもありうる」。枠からはみでてゆくという行為はあるんだけど、なにかそれがベートーベンと本質的にちがうものを感じさせるんだよねえ。ここらあたり、リストはぼくにはよくわかんない。
ルービンシュタインの「この一瞬にかけないと自分は死んでしまうんだ!」っていうのはとってもよくわかる。この人、「俺なんかどうでもいい、ベートーベンなんかどうでもいい」って人じゃない?(笑) もし、ベートーベン ― ルービンシュタイン ― 聴衆という三角形の関係があるとしたら、たぶんルービンシュタインというピアニストは「―」の上をすらりすらりと逃げていってるような気がする。
(11)たのしい狂気 (雪香)
>リストは多分に自己分析的で、自らに内在する特定要素を抽出する
>のに長けていたと言えるのではないでしょうか。
リストって、ほんとうに「オレにはおかしいところがある」って背筋が寒くなる経験をしたことがあるのか、って気がずっとしてるんだよ。狂気の部分を人間だれしも持っているとすれば、それを彼自身が感じた(知ったのではなくて)ことがあるのか、って。
この人、もしかしたら「《オレにはおかしいところがある》ってみんなちょっとは思ってるらしいけど、どうもオレはそれをいっかいも感じたことがないなあ。オレって異常なのかな?」って考えてたんじゃないかなあ。で、それでは《オレにはおかしいところがある》っていうのはどういうことなんでしょう、っていう考察の結果がピアノ・ソナタなんではないかと思ったり……。
狂気っていろいろ定義はあると思うんだけど、ひとつには自律してるってことが言えると思うのよ。生クリーム十杯泡立てました、っていうのに典型的なんだけど、それがそれだけで(世界と関連なく)意味を持っている。それはその人の主観的範疇では世界と関連した意味を持っているはずなのに、残念ながらわれわれにはその関係が見えない(劣っているのは狂っている人ではなく狂っていない人)。読みときうる世界で意味を持つ「言語」は読みときえない世界において意味をもてない。だからわれわれの知っている正常な(?)世界での「言語」と異常な(?)世界での「非言語」は没交渉で、一方の意味(世界とのつながり)が成立していれば、他方の意味は成立しえないという関係になっているのではないかな?
だから、「言語」と「非言語」は互いに独立している。「正気」と「狂気」が互いに独立しているように、干渉しあえない。自律したシステムを持って、その法則のもとに成立している。病院に来る人は「狂気」が苦しいというかもしれない。でも「狂気」は苦しいと訴えるその言語そのものが、すでに「言語」に翻訳されたなにかであって、「非言語」ではなくなっている。「狂気」を「正気」に引きよせて語っているのにすぎない。ほんとうは、「非言語」のレベルでの「狂気」というものはたのしいのかもしれない。
十杯生クリーム泡立ててる当人はじつはたのしいんだよ。周りの連中が迷惑であるだけであって。あるいは周りからその人は異常であるように見えるだけであって。ぼくは狂気の「非言語」の亜種として、詩的言語(たとえば三好達治の「あはれ花びらながれ/をみなごに花びらながれ/をみなごしめやかに語らひあゆみ/うららかの跫音空にながれ/をりふしに瞳をあげて/翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり」という詩)や、音やリズム、描線、色彩、あるいは舞踏や演劇の肉体的感覚も含めて考えたいんだけど、そういうものは基本的に「ここでは意味がわからなくて、あそこでは意味がわかる」というものなのではないかしらん。「この壷、一千万円」とか「第九ぜんぶ演奏すると1時間越す」とか「橘屋は人気者」とかいうのは「言語」の世界。そういう世界では基本的に「非言語」は意味がわからない。時に不快ですらある。しかし、一歩向こうがわにぬけでるとそこには不思議な悦びの世界がある、ような気がする。
リストはそういう意味での狂気の自律した悦びに触れられたのか、という気がしてならないんだ。もちろん彼は作曲家として音やリズムに悦びを託すという意味では、そうした狂気の世界をのぞいている。でも、意識的に語りえないものを語ろうとした経験がほんとうにピアノ・ソナタのなかに存在するのか、という疑いはどうしても晴れないんだ。「狂っちゃうとたのしいなあ」という感覚を、たぶんリストはピアノの音色をとおしては知っていたと思う。でもそれがピアノを介在させない、ごく純粋の「非言語」による経験であったんだろうか?
あっちがわにいってそしてこっちへもどってきて「おーいたのしかったよ」というあやしい悦びがピアノ・ソナタであるのならば、それはたしかに狂気だと思う。でもこっちがわからあっちがわを覗きながら、さも「おーいたのしかったよ」というのは狂気だろうか。あるいは叛逆なのだろうか。べつにぼくは芸術が叛逆であってほしいとは思わないし、むしろ叛逆でない作品のほうが好きなのだけれど、リストのピアノ・ソナタはどこか、この同一平面上から移動していないものを感じさせる。そしてそれなら、すでにたくさんの優れた先輩がリストにはいるような気がするんだけど。
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