雪香楼箚記

謡_文章





                             ▼△▼△  謡にまつわる文章  ▼△▼△








  ■ 謡 曲 記

   学生援護会で主催していた「anスカラシップ」という奨学金に応募するために書いた論文です。高校三年生のとき。
   いちおうこれでも九期生になることができました。(^-^)
   ちなみに《音楽のおはなし》の「感想」に出てくる松本和将さんは、この奨学金の友達です。




  ■ 無   題

   ↑の「anスカラシップ」で、大学卒業にあたって何か書けと言われて。













  ■ 謡 曲 記



 はじめて謡の師匠のもとを訪れたのは五年前の夏のことである。庭面の群竹が、夕暮れの風に微かな音をたててそよいでいたのを、今でも鮮明に記憶している。

 きっかけは『熊野(ゆや)』だった。希世の名手といわれた先代観世喜之の追善公演として、県下に初めてできた能舞台で舞われたこの能は、その清新な美で私を魅了した。それまで聴いたこともなかった謡の声はあたかも重厚なパイプオルガンの音に似て、私の内部に染み込み、大きな衝撃を与えた。それは一種の啓示であった。何か目に見えない大きなものの意志であった。思えばそのとき、私が謡を習うことは決定されていたのだ。

 日本の伝統芸能の伝承だとか、文化の理解といった高尚な目的はさらさらなかった。ただ単に謡は面白かった。六百年の歳月を経て、今なお色あせぬ芸術がそこにはあった。いつの世にも変わらぬ人間同士の情愛に立脚した謡の世界に遊ぶ楽しさに、私は目覚め始めていたのだ。

 最初の稽古で習ったのは、忘れもしない『橋弁慶』だった。「京の五条の橋の上」でおなじみの牛若丸と弁慶の物語である。だが初心者の悲しさ、節を追うのが精一杯で、話の筋などろくろく理解する暇がない。師匠が謡うのを復唱し、おかしい部分を直してもらえば、あっという間に稽古時間は過ぎてしまう。それでも喜び勇んでたどる家路。早速家族の前で披露する。……関心、好奇、沈黙。神妙に聴いていたのは最初の五分間だけだった。以来誰も私の謡を聴きたいとは言わない。今でも「『船弁慶』というのは中村富十郎が踊っていたあれか」と尋ねられる。

 それでもめげないあたりは私の図太さである。途中で投げ出すこともなく、隔週で土曜日ごとに稽古に伺う。生来の不器用さから腕の方はあまり上がりもしないが、曲数だけは多くなってゆく。おかげで戦前世代と充分会話をできるぐらいの古典と歴史の知識が身についた。頼光の四天王も、俊寛僧都と一緒に鬼界島に流された二人の名前も、果ては義経に従って安宅の関を越えた十二人の家来まで全部言えるようになった。そしてそれに比例するように、このころから古典の成績が異常に伸びてきて、今では「古典のネイティブ・スピーカー」を自負するほどである。

 やっと人に聴かせられるような謡になってきたのは二年目の後半あたりからのことだった。そのころかの有名な『高砂』をついに習い、これで晴れて結婚式の謡を務める資格ができたのである。また、初めての発表会にも出していただき、二年前の春にあの感動を味わったのと同じ能楽堂で、今度はその舞台の上に立つことになったのであった。その日は一日学校を休んで、黒紋付きに袴姿の出演者の中で過ごした。生まれて初めて本職の能楽師の方を間近で見た時の興奮。舞台の上のまぶしいばかりの照明と素晴らしい音響。無我夢中のうちに代役でシテを務めた『橋弁慶』が終わり、周囲から浴びた賞賛の言葉(きっと半分はお世辞であったろう)。舞台が上がって宵からの宴席が始まると、それらはまた繰り返されるのだった。驚喜、興奮、感激、陶酔……。こうして私の初舞台は終わった。月の明るい夜だった。

 さらにその春には、両親が仲人をした結婚式で謡を謡わせていただけた。気分良く「高砂や、この浦船に帆をあげて」を謡い終わった後で耳にする会場の静寂くらい嬉しいものはない。乾杯の声も、豪華な料理も、果ては新郎新婦までも目に入らず、私の中にあるのは、ただただ謡のことだけであった。



 謡は口伝の世界である。教えることと習うことの間に文字は介在しない。すべては口移しであり、宙に浮いたことばだけでやり取りされる。「感じ」と「情」で表現されるものが総てなのだ。この世界に立ち入ろうとするものは今生きている時代を捨てて、謡の時代に生きるしかない。理論ではなく、経験を通してのみ謡に没入できるのである。

 私も最初は、理論的に謡を解明(というのも不遜だが)しようとしてはいたのだが、そのうちに謡の時代性を認識するにつれて、生来の物ぐささと相俟って中途でやめてしまった。謡の本質は合理主義ではないのだという、言い訳とも慰めともつかない思いとともに。だが今でもそのことを悔やんではいないし、むしろその判断が良かったと考えている。今から思えば、そういう考えが生まれたあたりが、私が謡を習う上での岐路であったのであろう。あのとき、合理主義的なやり方を貫こうとしていたならば、こうも長く続かなかったのではないだろうか。

 こういった非合理主義が、今の世の中の趨勢に合わないことは充分に承知している。だが、私はこの非合理主義が何より好きであり、面白いのである。そこにはいかにも生き物の生理が息づいているように感じられる。自然に、肩肘をはらず、大まかに。そうやって過ごす時問が週にほんの少しあれば、私の生活はより豊かに、そして楽しいものになるのだ。



 習い事をする人間の犯す最大の罪悪は、他人に披露しようとすることである。やはり習うだけというのはいかにも味気ない。それにこれほど楽しいことを他人に演繹したくてたまらない。こうして、下手くそな人間が下手くそな芸を披露することになるのである。これはもはや悲劇と言うに近い。

 私も「下手くそな人間」の例に漏れず、学校の文化祭で二度もこんなことをしてしまった。最初は自発的に、二度目は半強制的に。まことにもって馬鹿につける薬はない。

 だが実際やってみると、これほど大変な仕事はない。舞台にかける曲には稽古が要る。番組(プログラム)を作って印刷する手間がある。お世話になった方には招待状を同封して渡さねばならない。場所の確保に客集め。これはやはり、好きな人間でなければやれないことなのだろう。袴をはいて舞台に立った時の気分は爽快だが、この雑事の面倒臭さとはとても引き合いはしない。ただあの爽快感だけを味わえる楽な方法はないものかと思うのだが、世の中それほど甘くもなく、そういう機会に出会うことはほとんどない。

 そういった訳で自分で発表の場を創出することは早々に放擲してしまったために、今度は他人の主催する発表会に出ようと、いよいよ稽古に精進することにしたのである。実際に三、四年目あたりに長足の進歩があって、師匠の方もそこらあたりを敏感にお察しになったらしく、三年目にして
「本家の先生に習うては」
という一言をやっと戴けたのである。そのときの嬉しかったこと。本家の先生に習うということは、取りも直さず観世流の広大な門下の裾野に名前を連ねるということなのである。

 だが喜んだのも束の間。どんな習い事でも、最上級の師に習うということは、切磋の仕上げをするということであって、つまらない基礎的事項をさらうということではない。課題曲に選んだ『小督(こごう)』を稽古することほぼ半年。駒之段と呼ばれる場などは今でも暗誦できるほどだ。

 しかしやはり素人と玄人は違った。初めて聴いた玄人の謡は、私のような未熟者を圧倒した。何しろ教える側の先生は、無本なのに習う側よりはるかに正確に節を扱うのである。声はまさしく大音声というのにふさわしく、その上何とも名状しがたい艶がある。こちらが百年やっても追いつきそうにないと思われる謡であった。私の謡は半年の稽古のかいもなく各所で注意され、謡の道がまことに長く、遠いということを否応なしに悟らされて、稽古会は幕を閉じたのだ。



 私は、大学で国文学の研究をしたいと思っている。ゆくゆくはそれを職業にしたいという願望もある。

 こんな考えを抱くようになったのも、すべては謡のせいである。小さいころから平家物語や和歌に囲まれて育ったせいもあってか、元来古典文学が非常に身近な存在ではあったが、謡を習い始めるに至って一層親しみを感じるようになった。過去の時代の言語を口に出して味わうという行為を通じて、その時代の人々の感情や、言葉のひとつひとつに宿った言魂を理解できるようになったからである。この国のあり方の根底にある一つの流れを、謡によって理解することができるのは、やはり古典文学を学ぶ上での利点だと言えよう。

 謡の研究をするかどうかはまだ分からないが、いずれにしろ謡によって得られたものを充分に生かすことのできる生き方をしたい。そして、大学に進学しても謡を続けていきたい。いや一生ずっと謡とともにありたい。

 一つの道を深めながらゆるやかに成長し、そして老いてゆけるとしたら、それはどんなに素敵なことだろう。きっとそういった人々は幾つになっても瑞々しい感性を失わずに、「老いるにしたがって若くなる」ことができるにちがいない。

 十代には『敦盛』を、九十になっては『卒都婆小町』を謡って生きてゆくこと。それが私の謡の最終目標である。斯道を究めながら、その年齢でしか分からないことを謡によって表現してゆくことができたならば、私の人生はどれだけ豊かで、上質なものになることだろうか。

 私にとって謡は、何ものにも替えがたい人生の友であり、財産である。人生に大きな影響を与え、自信の源となった謡とともに生きてゆくことのできる上質な人生を、これから送ってゆきたい。





  ■ 無   題



 古典芸能(能、歌舞伎)、新劇をとおして、ぼくがこれまで見たうちで、もっとも優れた役者のひとりであると思った人に、狂言の茂山千作さん(四世)がいます。ご存知の方も多いかと思いますが、京都に本拠を構える茂山家の先代当主、狂言大蔵流の人間国宝、当年八十四歳のご高齢ながらその至芸をもってなお旺盛に舞台活動をつづけておられ、まさに名実ともに名手と言うべき人です。

 この人の『寝音曲』という曲を見たことがあります。狂言のなかでも比較的上演頻度の高いこの曲は、いわゆる太郎冠者狂言(主人と使用人のやりとりを描く狂言)と呼ばれる部類に含まれまれる作品。評判の美声をぜひとも聞きたい、と頼む主人に対して、太郎冠者が「酒を飲まねば歌えない」「膝枕をしてくれないと歌えない」と勝手放題のわがままを言ってもったいをつけ、日頃人使いの荒い主人に意趣返しをするのですが、お酒に酔って主人の膝枕で歌っているうちに、ついついいい気分になって舞いはじめてしまい、「膝枕をしてくれないと歌えない」というのが嘘であるのがバレてしまう、という筋です。

 千作さんの得意は、このちょっと小ずるいくせに愛嬌たっぷりの太郎冠者。それを、いかにも上方の役者らしくこってりと演じます(歌舞伎も、狂言も、新喜劇もそうですが、いったいに上方の役者は演技過剰の気味があって、東京の役者がさらりと流すところをこってりと演じて特異な味いを出す傾向があります。料理の味つけとは逆)。例えば、最後の小歌舞(狂言では、歌に乗って舞う部分を、小歌舞、または小舞と言います)の部分。大蔵流では「おもしろの花の都や」という小歌を歌うのですが、そのなかの「茶臼は挽木に揉まるる」という文句のところで、この人は逆手に握った扇を膝前でぐるぐると回し、臼を挽いているような所作をします。それだけではない。所作にあわせて、主人の顔色をうかがいながら「どうだ、ん?」というような表情を作って、観客におどけて見せます。

 じつは、茶臼の型はもともとの『寝音曲』にはないものです。大蔵流はもちろん、もうひとつの狂言の流派である和泉流にも、そんな型はありません。千作さんの創案なのです。そして、それにあわせて表情を作るなどというのは、狂言の演出としては言語道断の異風。狂言だけではなく、日本の伝統的な演劇は「顔で演技をしても、表情で演技をしない」というのが鉄則ですから、彼はこの決りを勝手に踏みにじっていることになります。

 では、茂山千作の『寝音曲』は狂言の規矩を外れた際物、失敗作なのかと言えば、決してそうではない。それどころか名演なのです。これほどの狂言を、ぼくはほかには見たことがない。たまたま、狂言のもう一人の人間国宝である野村萬(和泉流)の『寝音曲』を見る機会があったのですが、流儀の、あるいは狂言の型には忠実であるものの、その舞台は千作さんのそれよりははるかに精彩を欠いていました。しかし、そうかといって、ほかの狂言師が、型と規矩を無視して千作さんと同じように演じたとしても、おそらくそれが際物に留るであろうことは目に見えています。

 これは、いったいどういうことなのか? 断っておきますが、ぼくは、日本の古典演劇において型というものは非常に重要である、というふうに考えていますので、本来なら、この『寝音曲』のような舞台のやり方は、あまり評価はしないのです。しかし、そういう人間でさえ、千作さんの『寝音曲』は手放しで褒めざるを得ない。変な言いまわしですが、古典狂言としてこれほどの出来のものは、そう簡単にはないはずです。型を踏みにじっているのに、古典としての型がきちんと生きている。



 歌舞伎でも、能でもいいのですが、型というものはとても重要な意味を持っています。こういった伝統的な演劇には、脚本があるだけで演出家というものはいませんので、その代りをするものが必要になるのです。それが、あらかじめ決っている型というもの。ですから、型は演出とほぼ同じ意味だと考えていただいて結構です。舞台でどこに立ち、どのように動き、どのような間で演じるか、という取決めのひとつひとつを、型というのです。こうした型は、何百年かのあいだに洗練を経て、大概の場合、二、三種類にまで絞られているので、役者はそれを検討して、自分にふさわしいものを選び、そのなかで、例えば茂山千作なら茂山千作という個性をめいっぱい表現するのです。けれども、そこからはみだしてはらない。はみだしてまで演じることは、たとえ客に受けたとしても、「行儀がわるい」ということになります。つまり、型は、その不可侵性(役者が勝手にいじってはいけない)において、第二の脚本であると言っていい。新劇の役者が、脚本の台詞を間違ってはならないように、能や歌舞伎の役者は型を無視してはならないのです。

 しかし、じつは、この窮屈な取決めのなかに、能や歌舞伎における無限の可能性があると言ってもいい。そして、それは新劇の役者(ここでは、とりあえず、能、歌舞伎、新派以外のすべての演劇を、新劇と言うことにしています)にも通ずるものを秘めているのです。

 そもそも、演劇という芸術は、例えば文学、美術、あるいは音楽(の、特に作曲。つまり、マウリッツィオ・ポリーニのエチュード《革命》ではなくて、ショパンのエチュード《革命》のこと)とは同列に論じられない部分があります。なぜなら、小説や、彫刻や、絵画や、作曲は、基本的に自分勝手に好きなものを作っていい。時代とか、地域性とか、そういう部分で不可避の制限はあるものの、みずからの個性を表現するという意味では百パーセントの自由を保証されています。もちろんこれは、保証されているというだけで、それでは百パーセント好き勝手に作ったものがいいものか、といえば必ずしもそうではないのですが、まあ、そうした問題は置いておきます。

 さて、こうした芸術を演劇と比較すると、すぐにわかる顕著な相違がありますね。そう、演劇は、役者という芸術家が好き勝手にやっていいものではない。必ず、脚本というもの(文学作品の一種ですが)を基本に置いたうえでしか表現の自由を得ない、という制限があります。なぜなら、例えば、役者が好きなように筋を作り、台詞をしゃべり、演技する、という演劇があるとしましょうか? このとき、役者はすでに純粋な意味での役者、つまり演技を行う芸術家ではなくなっている。なぜなら彼は、役者でありつつ戯曲家を兼ね、文学という芸術をも行っているのだからです。そして、そのとき、すくなくとも演劇という芸術分野のアイデンティティーは、その役者のなかで、あるいはその舞台の上で融解をはじめています。ですから、演劇が演劇であろうとするかぎり、ローレンス・オリビエはシェイクスピアに従い、六代目菊五郎は河竹黙阿弥に従わざるを得ない。

 これは、言わば、演奏家と作曲家の関係に似ています。ポリーニはショパンに、アシュケナージはベートーベンに、クライバーはヨハン・シュトラウス二世に、それぞれ従わざるを得ない。従っているから、彼らはピアニストであり、指揮者であるのです。一般に、このような芸術の形態、つまり、自分の個性の赴くまま、好きなように作りあげるわけにはゆかない芸術のことを、再現芸術であるとか、二次芸術と言います。役者や、演奏家、指揮者、あるいは文芸評論家などもこれに含まれるかもしれない。もとの小説そっちのけで好き勝手なことを書くわけにはゆきませんからね、評論は。

 このように説明すると、必ず「だから、再現芸術には個性を表現するための余地はない」という人がいますが、それは誤解もはなはだしい。個性を表現するための余地がないのなら、ピアニストはこんなにたくさんいりません。いちばん上手な人を残して、あとはみんな転業してしまえばいい。個性を表現しなくていいなら、だれもかれも同じなのですから。―しかし、現実として、ぼくたちは、おなじベートーベンの《悲愴》であっても、ホロビッツとアシュケナージ両方のCDを買いたいと思うし、アルゲリッチとポリーニと、両方の《幻想即興曲》を聴いてみたいとも考える。

 たしかに、《悲愴》なら《悲愴》、《幻想即興曲》なら《幻想即興曲》という、完成したひとつの芸術作品は、ピアニストを拘束します。彼がフォルテを弾きたいと思っても、楽譜にピアノとあれば、ピアノで弾かざるを得ない。―しかしそれは、骨がらみにすくいとって、なにひとつ自由をゆるさない、というものでは決してないのです。それよりはむしろ、こう考えるべきなのでしょう。ピアニストにかぎらず、再現芸術家は、与えられたひとつの芸術作品のあらたな魅力、あらたな美しさを見出し、それを観客や聴衆に伝えるための存在なのである、と。見出すこと、そして、伝えること。それこそが、ピアニストの、あるいは、役者の、再現芸術家の個性であり、表現であり、芸術なのです。例えば、文芸評論家を考えてみてください。優れた評論家であればあるほど、世の人が多く知っていてよく読まれている作品を取りあげて批評します。正宗白鳥は『坊つちやん』を、小林秀雄は『罪と罰』を、山本謙吉は芭蕉を、中村真一郎は『源氏物語』を批評したではありませんか? 近代日本における最大の文芸評論家とでも言うべき吉田健一にいたっては、ついに本そのものを批評してしまいました(『文学の楽しみ』)。しかし、それにもかかわらず、彼らの批評は新鮮である。もう読みあきてしまったような小説や詩の、まったく新たな解釈、新たな可能性を、じつに美しく力づよい文章で我々に教えてくれる。おかげで、漱石は、ドストエフスキーは、芭蕉は、『源氏』は、文学的な新しく魅力を増して、ぼくたちのもとに戻ってくる。それはあたかも、恋人の知らなかった一面を見出していっそう愛情が深まるのに似ています。ぼくはたしかに今までも彼女を愛していた。けれども、その愛がいっそう深まるような、新しい魅力を発見してしまった……。

 いわば、役者や演奏家は、新たな愛情のための仲介者、芸術のためのキューピッドなのではないでしょうか。ピアニストの例で言えば、同じベートーベンのソナタを弾いても、バックハウスのベートーベンはより古典主義的な美しさと戯れ、水晶のような完成に近く、アシュケナージのベートーベンは浪漫主義的な真摯さ、情熱、疾風怒濤の勢いと若さに満ちている。そして、どちらのベートーベンも間違いなどでは決してなく、いずれも作曲者のなかに秘められていた方向性を知的に抜きだし、美しく、芳醇に拡大してみせたものなのです(人はつねに、意識の内側にいくつかの分裂した方向性を持っているものですから)。必要なのは、正誤ではなく、美しいか、美しくないか、の問題であるはず。

 そして、これは演劇においても同じこと。ぼくは新劇のことには詳しくないので、例えば歌舞伎の話をしましょう。『仮名手本忠臣蔵』六段目という演目があります。有名な忠臣蔵の一段。赤穂浪士(歌舞伎では塩冶浪士と言いますが)の一人で、主君が刃傷に及んだ折、恋人と逢引きしていたため、不忠者として仇討ちの一党からも外され、恋人の家の入婿となって今は猟師に落ちぶれた早野勘平という男が、あやまって義父を殺したと思いこみ、申しわけなさに腹を切る(が、事切れる寸前にそれが勘違いであることがわかり、ちょうど来合わせた昔の同僚によって、死者ながら討入りの連判状に名前を加えてもらう)、という芝居です。これを、戦前の名優、六代目尾上菊五郎は、父親である五代目の型を参考に、疑惑を巡る一人の人間の深刻な心理劇という解釈で、写実に徹した犀利かつ緻密な演技で見せたそうです。その腹切りたるや、いかにも哀愁が漂い、満場の涙を誘ったとか。今でも六段目の勘平といえば、この菊五郎の型で演じるのが普通、というほど完成されたものです。

 ところが、菊五郎の同時代に、まったくこれとは逆のゆき方をした役者がいました。十五代目市村羽左衛門、俗に「いい男の羽左衛門」と言われるほどの美男子だった人です。彼の勘平は、型としては菊五郎のそれとは大きく違わなかったものの、雰囲気がまったく逆だったと言います。「いい男」の人気役者にふさわしく、とにかく明るく、華やかで、台詞のひとつひとつが、その重い内容とは逆に、「サイダーでも飲んだような爽快さ」であったと伝えられています。おそらく、深刻でありながら、不思議な陽性の色気に満ちた舞台だったのではないのでしょうか。一見、この羽左衛門の演技はめちゃくちゃに見えます。けれども、戯曲の解釈としてはこれも正しいのです。と、いうのは、『忠臣蔵』のなかで、早野勘平という登場人物は、美男で、かなり粗忽、色事で失敗するような脇のあまさがあるのに、愛嬌たっぷりで憎めない、という造形で描かれているのです。そうすると、腹に刀を突きたててなお、はんなりとした照りがあったという羽左衛門の、解釈と演技は正しいことになります。しかし、そうかといって、菊五郎のそれも誤りではない。なぜなら、『忠臣蔵』の次の段(幕)は「一力茶屋の場」といって、大星由良助(大石内蔵助)が色街で遊蕩する明るい幕なのです。それとの対照からいって、六段目が深刻な雰囲気を求められる幕であることは間違いない。つまり、菊五郎も、羽左衛門も、どちらも正しい。それでいて彼らのあいだに相違が生じるのは、役の性格および戯曲の解釈の、相反する二つの方向性のどちらにアクセントを置くかに違いがあるからなのです。そして、どちらも『忠臣蔵』という戯曲の世界を深める見事な演技であった以上、いずれが正しいとも言えない。二つとも優れた勘平なのです。

 古典演劇において、型に無限の可能性がある、というのは、つまりこういうことなのです。歌舞伎役者や能楽師にかぎらず、役者一般において、戯曲を解釈し、そこから新たな魅力を見出して、演技というかたちでそれを観客に示すことが、芸術家としての彼らの表現である。それが古典演劇の場合、型の解釈という部分にまで拡大される。戯曲のみならず、型に拘束されている、というのは、役者自身の表現の面においては、一見、新劇以上に不自由に見えるかもしれませんが(実際にそういう面もあります)、考えようによっては、それだけ新しい発見をする余地もあるわけで、そこに演劇という形式の豊かな可能性が秘められているわけです。だからこそ、歌舞伎や能において、同じ演目が数百年のあいだ演ぜられてきたのにほかなりません。

 型を破らず、そのなかに生きることで、無上の芳醇さが約束された世界。束縛の多さを、自由への可能性へとひらいてゆく逆説。それが、能であり、歌舞伎であるのです。―しかし、それほどの恵まれた状況にあって、なお、型を破ろうとする名人たちがいるのです。



 茂山千作の『寝音曲』の話に戻りましょう。「茶臼は挽木に揉まるる」のところに、型がないというのも一種の型です。つまり、なにもするなという型。千作さんは、それを破った。破って、そこに、型を守った場合以上に豊かな芸境を見せた。しかし、それは、だれもが真似てできるものではない、ということは言いましたね。現に、それを知っていたから、野村萬は型にそった『寝音曲』を演じたのでしょう。それはそれで間違いではない。正しい。しかし、千作さんのそれほど美しく、楽しく、魅力にあふれているわけではない。型の演劇でありながら、その型を否定したところにさらなる魅力が生じるというアイロニー。

 再現芸術というものの勘所は、もしかするとここにあるのではないでしょうか?

 名人は危うきに遊ぶ、と言います。白洲正子が喜多流(能)の名手、友枝喜久夫の舞台を評してしばしば用いた言葉です。晩年、ほとんど視力を失ったこの悲劇の名人は、わずかに感じられる舞台照明の光を頼りに能を舞いつつ、しばしば型にない演技を見せたと言います。ことに『蝉丸』という能のシテ(盲目の青年)を舞ったとき、無心のうちに狂乱の体で鬘をかきむしるような仕草を見せたというエピソードは、白洲が『老木の花』という評論にくわしく語っていますが、まさに、能の定められた型を逸脱しようとする老優の心は、危うきに遊ぶという言葉そのものだと言っていいでしょう。千作さんの「茶臼は……」の型とて、同じことです。友枝喜久夫が、『蝉丸』のシテとみずからの境遇を重ねて狂乱のうちに作りあげた鬘の型が、叙情的な哀調に満たされているのに対して、千作さんのそれが陽気なサービス精神と古雅なめでたさに溢れているという、ただそれだけの相違に過ぎません。そこにあるのは、いずれも、型を外れ、壊し、破ろうとする行為のむこう側に美を見る、危機の美意識なのです。だからこそ、名人たちは危うきに遊ぶ。

 しかしそれでは、なぜ、彼らは危うさに遊ぼうとするのでしょうか?危うさは、彼らの芸そのものの崩壊と紙一重のところにあります。友枝喜久夫、あるいは茂山千作は名人であり、しかもたまたま、その、型の破り方が美しいものであるために舞台上の成功を収めたわけであって、一歩間違えば完全な失敗に終ってもおかしくはなかったはずです。いや、むしろ、そちらのほうの可能性が高いともいえる。そうであればこそ、『蝉丸』といい、『寝音曲』といい、危うさの美であると言わねばならないのです。問題は、名人たちがなにゆえにそのような危険を冒すのか、冒したがるのか、という点にある。

 この問題を解くヒントは、「七十にして己の欲する所に従ひて、しかも規(のり)を踰(こ)えず」という論語の一節にあります。孔子がみずからの半生をふりかえった言葉で、「七十歳になると、もう、自分のやりたいようにやっても、世の中の道徳やら決りごとに反するということがなくなったね」という意味なのですが、この「規」を、「型」あるいは「戯曲」と読みかえてみてはどうでしょうか?

 役者という仕事の基本は、ある役になる、ということです。しかし、役はあらかじめ戯曲という完成した文学作品によって規定されているので、役者の好きなようにやるわけにはゆかない。戯曲の設定や世界観の範囲のなかで、役者の持っているもの、言いかえれば芸術家としての演技者の表現を発揮しなくてはならないわけです。当然、そこには欲求不満が生じることでしょう。「戯曲にはこう書いてあるが、私はこうしたい」という欲求です。みずからの欲求と戯曲という与えられたもののあいだでの相克。それが、大半の演技者にとっての実際であり、あるときは戯曲を、あるときはみずからの欲求を優先させて、作品を作りあげてゆきます。狂気のように「役になりきる」ことに精魂を傾ける戯曲派の役者もいれば、自分のやりたいように好き勝手に役をいじってしまう役者もい、両者の中間で逡巡する人もいます。

 ところが、名手と言われる人は、どうやらそれらとはまったく違うらしい。彼らは、右に述べたような相克を抜けだしたところにみずからを置いているようなのです。つまり、茂山千作にとって、戯曲と役者の個性の乖離というものは問題にならない。なぜか? 彼自身が狂言『寝音曲』そのものであるからです。役者が戯曲と完全に一致してしまっている。念のため言っておけば、これは、役者が戯曲に完全服従するということではありません。完全服従するのならば、得手勝手に型を崩すような不行儀(古典芸能における型が戯曲に等しい存在であることはすでに述べました)が許されるはずがない。そうではなく、役者と戯曲が、対等の立場で一つになってしまっているのです。だから、舞台に出てきたとき、茂山千作という存在そのものが『寝音曲』という戯曲になっている。そうであればこそ、千作さんが新しい型を作り、旧来の型をすてて、しかもなお、芸術作品としての舞台の成功をさえ可能にするのです。なぜなら、ここで、茂山千作という人は『寝音曲』そのものであるから、戯曲『寝音曲』の作者以上に『寝音曲』の世界に一体化している。そうすると、戯曲の作者が書きもらしているものが見えてくるのです。太郎冠者ならこうもし、ああもするだろう、というのが、役者の目に見えてくる。もとの『寝音曲』以上に『寝音曲』らしい世界を生みだすための鍵を、いつの間にか役者が手にしていると言ってもいいでしょう。だから、千作さんは作者が書けなかった、けれども『寝音曲』の『寝音曲』らしさを完璧にするためには不可欠な要素を、新しい型というかたちで補う。それは、古い型への挑戦であるが、しかし同時に、古い『寝音曲』を、より豊かに、完璧にするためのものでもあるのです。ここにおいて、茂山千作は『寝音曲』そのものと一致してしまう。つまり、千作さんがどれほど自分の欲望に正直に、やりたいように、好き勝手にやったとしても、彼の完成された芸境においては、それがぜったいに『寝音曲』という戯曲の世界からはみだすことはなく(というより、むしろはみだすことが不可能になってしまい)、むしろその世界を豊かにする方向に働く、ということなのです。―孔子が「規を踰えず」と言ったのもそういうことでしょう。彼は聖人であるから、欲望を節制していたのではない。ましてや、老いて欲望そのものが失せたのでもない。ただ、七十年の歳月を生きるうちに、みずからの心がそのまま世の中の「規」と一致するような境地に至ったのではないか、とぼくは思うのです。(ここで、註として言っておきたいことが二つ。一つは、名人が役に一致するのではないということです。なぜなら、千作さんが太郎冠者になりきってしまうと、それは、彼が『寝音曲』という戯曲の世界に飲みこまれてしまったことになり、戯曲と役者の対等な立場での一致ではなくなります。そうすると、戯曲の不備を見つけ出し、補うことで、さらに戯曲そのものの魅力を豊かにする、といった、客観的な立場からすべてを見渡せる冷静さが失われ、新しい型を作ったとしても、それはただの破壊に終ってしまいます。それから、ふたつ目は、だからといって千作さんの『寝音曲』が唯一絶対のものではない、ということ。要するに、五十年先か、百年先かはわかりませんが、狂言の世界にふたたび千作さんのような名人が登場したとき、ここで述べたのと同じようなことが、ふたたび起るでしょうが、しかし未来の名人某の『寝音曲』は、千作さんの『寝音曲』とはまた別な方向で危うきに遊ぶであろう、ということです。ひとつの戯曲のなかにはさまざまな方向性が隠されていて、例えば『寝音曲』なら、千作さんは太郎冠者の陽性な明るさに焦点を当てていますが、これを、こき使われている使用人のささやかな反乱と解釈して、ペーソスをにじませながら演ずることも可能です。そのような可能性のどれを採るか、という問題は役者に委ねられているのですから、その役者がもし名人なら、千作さんとは逆な方向において『寝音曲』という戯曲の世界観を完璧に表現するための新たな型を生みだすこともありうるのです。)

 つまり、名人はこのような芸境にある以上、ぜったいに失敗はしないのです。なんたって、やりたいようにやるのが、必ず戯曲の魅力を増す方向に働くのですからね。失敗するはずはない。だから、「名人は危うきに遊ぶ」わけなのです。つまり、名人が危うきに遊んでいるように見えるのはただ単に外形的な問題に過ぎなくて、どんなに危なげに見えても、演者が名人である以上、ほんとうに危うきに陥って失敗する道理がないわけですから、要するに、名人たちは絶対的な安全のなかで危険地帯に遊んでいるということにほかならないのです。言ってみれば、「名人は危うきに遊ぶ」というのは「戯曲」と「型」という名の崖の上で舞っているようなものです。ぼくたちは、崖の縁ぎりぎりのところで足元も見ずに舞っている名人たちを見て、「落っこちやしないかな……」と呆然としながら感心している(ふつうの役者は、縁から相当に離れてところで安全に舞っているわけですから)。けれども実は、名人だけに見えるロープが崖の縁には張りめぐらされていて、彼らはそれを無意識のうちに(これがミソですね。意識してやってたら嫌らしいだけです)関知しながら安心して舞っているわけなのです。そして、鵜の真似をする烏がさんざんな目に遭うのも当然で、名人以外にはロープが見えないから、適当に崖の縁で舞っているうちに、谷へと転げおちてしまう……。



 もう、お解りかもしれませんが、ここまでくどく型というものの話をしてきたのは、それが戯曲よりもわかりやすいかたちを持っているからでして、ここまで書いてきた内容において「型」を「戯曲」という言葉に置きかえても、その意味するところは変らないのです。つまり、われわれの時代においては「演劇は戯曲に縛られている」という言い方よりも、「伝統芸能は型に縛られている」という言い方のほうが意識しやすいから、それを採用しただけであって、演劇と戯曲の関係はそのまま伝統芸能と型の関係に通じています。千作さんの『寝音曲』が茶臼を挽く型を作りだすことでより完璧な演劇作品になったように、戯曲に対する読解力と感性を武器に、台詞のちょっとしたアクセント、目の使い方、仕草、表情といったもので、八十四歳の狂言師と同じような仕事をしている役者は、新劇や、そのほかの演劇分野にもいるはずです。

 いや、それはただ演劇という芸術の一分野のみではなく、再現芸術全般に演繹できる問題でもあるのです。つまり、バックハウスとアシュケナージが、それぞれの方法で、それぞれにベートーベンという作曲家を完璧にしようと試みている。より完成され、新たな魅力をまとった《悲愴》なら《悲愴》を生みだそうとしている。例えば、カラヤンとフルトヴェングラーが、あるいは、豊竹山城小掾と竹本越路大夫が……。

 そして、そこには文学の研究もまた含まれると思うのです。正直なことをいうと、文学の研究というものは、ほんとうは存在しません。吉田健一が、先に挙げた『文学の楽しみ』という評論のなかで言っていることなのですが、古代ローマや古代ギリシアの文学のように、その背景となる文明がすでになくなっていて、言語から風俗、思想、社会のあり方など、なにもかもわからなくなってしまたようなものならともかく、英文学や国文学や仏文学のようなものを「研究」しようったって、研究する材料そのものがないのです。せいぜい、むつかしい言葉に註をつけるくらいのもの。

 では、大学の文学部というところにいる人間はなにをすればいいのか? 答えはひとつしかありません。多くの人々によってなんども読みこまれた文学作品のなかに、新たな魅力を見出し、それをできるだけ美しい方法、すなわち文章でみなさんにお伝えする(あまり美しすぎると学会誌には載らずに、文芸誌に回されてしまいますので……)こと。つまり、多少アカデミックなかたちでの文芸評論なのです。吉田健一は『文学の楽しみ』のなかで、ほんとうの文学研究者の例として折口信夫を挙げています。文学的感受性があって、しかも研究心が旺盛で、文学を愛し、いい文章を書ける人。折口は、まだ国文学界の常識では、文学研究者というよりも、文学者という印象がつよい人物ですが、しかし、この吉田の評言は決して間違っていないと思います。―なによりもまず、文学の研究、批評は惚気であらねばならない。恋人の魅力をほかの人に(迷惑もかまわず……)語るようにして、作品の魅力を伝えてこその研究、批評であるはずです。作品に惚れ、作品を溺愛し、しゃぶりつくすようにして、作品とのあいだに「危うきに遊ぶ」がごとき、読者をはらはらさせるような関係を築いて(それも芸のうち。なにしろ文芸評論は、自分で謎を作って、自分でそれを解くのですから、鮮やかに、美しく、しかも読者の興味を惹きながら紹介する努力が必要なのです)、その魅力を余すところなく伝えることが必要なのです。

 茂山千作の『寝音曲』の例を引いたのは、「名人は危うきに遊ぶ」という言葉を通して、ぼくたちが対象となるもの(例えば、役者にとっての戯曲、演奏家にとっての楽曲、批評家にとっての文芸作品)にどう立ちむかってゆかねばならないか、を示したいと思ったからです。作品に飲まれてもいけない。それでは世間凡百の、無味乾燥な論文しか書けない研究者に過ぎない。かといって、作品を飲んでしまってもいけない。それでは、得手勝手なことしか書けない、自己顕示欲の固まりのような文芸批評家になってしまう。作品と対等の立場でそのなかに合一し、そこから対象の魅力をひとつでもふたつでも多く引きだしてやる。危うきに遊んで規を踰えないこと。そこに、文学研究、いや、文芸批評の核心があるのではないでしょうか。すくなくともぼくは、すぐれた役者や、すぐれた演奏家のような研究者になりたい。

 ―もっとも、文学研究者は、十五代目羽左衛門やカラヤンみたいに、いい男であることは求められないので、気が楽です。役者や指揮者じゃなくてよかった(笑)。


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