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雪香楼箚記
桜のころ
1
お堀の桜はそろそろ見ごろだから、といふ母の一言で久しぶりに城のほうへ足を向けることになつた。――町では今でも、市役所の東北のあたりにぽつんと取りのこされたやうな恰好になつてゐる城のことを「お城」と言ひ、従つてそれを巡る堀のことも「お堀」と呼ぶ。旧幕以来の名残りである。
お堀の桜といふのは、維新のときに水を抜いて空堀にしてしまつた三の丸北側の土地に桜を植ゑたもので、場所も場所だし、この町には馬場跡の公園や浅野川の舟入堤のやうな花の名所がほかにいくらでもあるためにあまり目立たないが、その分人出も多くなくまた何故かどこよりも花が早いこともあつて、どんちやん騒ぎをするならともかく散歩がてらの花見には向いたところだつた。
「ちよつと遠いよ。たぶん三十分くらゐかかる」と遥香に念を押すと、
「いいよ。桜、見てみたいんです」
と、なかばは母のほうに返事をするかたちでかるくほほゑんでゐる。いいところを見せようといふのか、朝からエプロン姿でにこにこしながら洗いものを片づけてゐる油断のない手つきを見てゐると、ふと、これはお義理で言つてゐるのかとも思つたが、よく考へてみると、単純に東北生れには三月の末に咲いてゐる桜がものめづらしいのかもしれなかった。第一、さういふことについてはあまり気のまはるたちではないのだ、この人は。
母は母で「さうよ。いいぢやない、遠くたつて。朝のうちなら人もあんまり多くなくて、ゆつくりお花見できるわよ」と勝手至極なことを言つて、「ぢや、ごゆつくり。今日は七時ごろに帰るから」と出ていつてしまつた。取りのこされたのは、働くこととはどうにも無縁の大学生二人である。
わざわざそんな場所をすすめる底意は見えすいてゐて、要するに息子がたまさかに連れてきた恋人への接待のつもりであるらしい。どうせ桜くらいしか見るものがない町なのだ。なにが、朝のうちなら、なもんか。人出は一日中ないやうなところぢやないか。朝つぱらから花見に連れだされるこつちこそいい面の皮で、あんまりありがたからぬ御節介だつたが、向うが乗り気になつてゐるのでは仕方がなく、洗いものをあらかた終へた彼女に頼んでコーヒーをもう一杯飲んでからといふ約束で九時から出かけることにしてもらつた。
遥香はあはいクリーム色にちいさな花の柄をあしらつたワンピースと白いニットのカーディガンといふ恰好で、いつもの癖が抜けきらず肘をつきながら両手で抱へるやうにしてコーヒーを飲んでゐる。よく待ちあはせをする喫茶店でも、学食でも見慣れた姿だが、なぜか自分の家の食堂で、しかも真正面から見てみると新鮮な奇妙さがあつた。猫舌だから、飲むといふよりはコーヒーを吹いてゐる時間のほうが長い。両肘をついた幼い姿といひ、むきになつたやうに伏目がちな目もとといひ、一心に目の前の茶色い飲みものと格闘してゐるその顔はじつに間が抜けてゐる。ふだんが整つた可愛らしい顔立ちなだけに、それがいつそう奇妙に、ちようど下ぶくれになりすぎた大福餅みたいに、うつるのだ。
へんてこな顔でコーヒーを吹きつづける遥香をこつそり見ながら、はてこの子はいつたいいつからこんな顔をぼくに見せるやうになつたんだつけ、なんてつまらないことをぼんやりとぼくは思つてゐた。
彼女はぼくより一つ年下で、たまたま大学での専攻がおなじ分野であつたところからつきあふやうになつた。おなじ演習に出てゐたとき、とてもよくできる一年生があまり学校にはゆかない主義の二年生の発表を手ひどくとつちめたのが、きつかけといへばきつかけのやうなものである。
そのころの――といふのは、初めて逢つたころのといふことだが――遥香は、ひとことでいふとずいぶんときつい感じのする子だつた。十八歳の女の子にしてはどうもなにもかもがしつかりしすぎてゐるといふか、できすぎてゐるといふか、なんとなくとつつきにくいといころがいくらかあつて、たぶんそれはいろいろな新しいことに緊張してゐるせいもあつたのだらうけれど、むしろぼくには彼女のきまじめすぎる性格のせいのやうに見えたのである。もちろんそれなりにあかるく、人見知りもしないたちであることはわかつてゐたけれど、例へばお茶ひとつにしても最初のうちはずいぶんと澄して飲んでゐたもので(砂糖を混ぜる手つきがじつに優雅だつた)、つきあひだしてからもしばらくはこの人のこんな癖をぼくは知らなかつた。
遥香は勉強がよくできて、料理も上手だし、趣味もわるくなく、くつきりとした二重まぶたの可愛い顔立ちをしてゐる。要するに非の打ちどころがない女の子なのだが、かといつてさういふものが遥香その人かといへば決してさうではないといふのがぼくの正直な感想で、別にこれは彼女が人の前を取りつくろつてゐるといふことでもなんでもなく、単にコーヒーをあるいは紅茶を混ぜるときの優雅な手つきに相当するのがさういつたものであるといふのにすぎない。大福みたいな顔になつていつしようけんめいコーヒーをさましてゐるのを最初に見たときは、ダマされた! といふ思ひなきにしもあらずだつたが(それまではよほどいいところのお嬢さんだとほんとに思はせるやうな奥ゆかしさだつたのである)、かといつてそれでこの人のことが嫌ひにでもなるかといへばそうでもないところに色恋のふしぎさがある。惚れればあばたもゑくぼといふやつともまたすこしちがつて、もとは見も知らぬ他人であつた人が、こんなに気をゆるした間抜けな顔をして自分の目の前にゐるのかと思ふと、なんだかそのさりげないをかしさがひつそりとした閑かないとほしさのやうなものを呼びおこさなくもないのだ。それは深山のわき水のやうにかすかな、けれどもしつかりとした気持である。
「ん? どうかした?」
「いや。べつに」
「でも、今、見てなかつた?」
「なにを?」
「なにをつて、私の顔」
「見てないよ」
「ほんと? どつかへんぢやない?」
「へんぢやない」
「あやしい~」
「あらあら、今日の遥香さんは自意識過剰だな」
「おやおや、今日の淳くんは素直ぢやないのね。正直に見とれてましたつていへばいいのに」
二杯目のコーヒーはぼくが後かたづけの当番で、遥香はそのまま身支度をしに二階の部屋へいつた。
試験管みたいに無個性なマグカップを流しで洗ひながら、ぼくはふとみちたりたといふことを思つてみる。それは、おほよそふだんの生活のなかであじはふことのないやうな気持だつた。ちよつとてれくさく、かなり月並みで、幾分かは滑稽ですらある。わざわざ思つてみたり、口にしたりする類のことではないのかもしれない。言葉にできない、といふわけではなかつた。言葉にするのが似合はない気持なのだ。たぶん。
ぼくはただぼんやりと思つてみる。少なくとも一年前の遥香はぼくの前で冗談を言ふことはなかつたし、まして相手を気にせずに熱いコーヒーを吹いてさますようなことはしなかつた。そしてそのときたしかにぼくと彼女は他人どうしで、他人どうしだからこそぼくは彼女にひかれてゐたのだと思ふ。それはそれでほんとうのことだ。生活のほとんどありとあらゆることに初々しく緊張している彼女の横顔をぼくは愛しいとも感じたし、この人といつしよにゐたいとも思つた。半分くらゐは、この人をまもつてあげなくてはと考へてゐたのかもしれない。
しかしけつきよくは、さうした一方的な愛情はいつの間にかどこかへ消えてしまひ、後に残つたのは遥香の大福みたいな顔である。間抜けでへんてこな顔を見せられつづけてゐるうちに、こつちとしては初々しいもまもつてあげたいもあつたものではなく、ただ彼女といつしよにゐるといふ事実だけがぼくの心を占めるやうになつた。そして事実といふのは意外につよくこちらの胸を締めつけるものである。知らないうちに大福餅も含めて遥香の顔を可愛いとなんの気取りもなくぼくは思へるやうになつたし、たぶんだからこそ遥香はぼくの前で平気でへんな顔をしたり、冗談を言つたりするやうになつたのだらうか。ぼくが遥香の「緊張」を意識せずに好きだと思へるやうになつてから、たしかに彼女はぼくの前で「緊張」しなくなつた。まだたくさんきまじめなところは残つてゐるし、さういふところも彼女のたいせつな魅力のひとつではあるのだけれど、この、些細な彼女の変化がなんだかぼくにはいとほしくてたまらない。そしておそらくは、それがみちたりるといふことなのだらう。
髪をまとめ、ちいさなリュックサックを背負って降りてきた遥香とぼくは、よく考えてからタオルとミネラルウォーターのペットボトルを二本準備し、ガスと電気を切つて、玄関に鍵を掛けた。遥香はそれらをひとつづつ鉄道係員のやうに口にしてみてはをかしさうに笑ひ、それにつられてぼくも彼女の口まねをしてみる。
「鍵よーし」
「鍵よーし」
「戸締りよーし」
「戸締りよーし」
玄関を出ると、門までのほんの短いあひだに降るやうな春の日ざしが満ちてゐた。風のなかに混つてゐる光のつぶが、かすかにざはめく遠くのほうの梢をまぶしいほどの緑に染めてゐる。しつとりと、静かな風だつた。
新しい世界に踏みこむやうにして、ぼくたちはゆつくりと門を出る。
「遠いよ」
さういつてもういちど念を押すと、遥香はやさしくうなづいてなにもいはずに手を繋いだ。やわらかい手のひらがすこしだけ汗ばんでゐる。
ふと、思ひだした。
初めて逢つたころの遥香は、たしかにリュックサックなんか使つてゐなかつた。子供つぽすぎて似合はないから嫌だと言つてゐたはづだ。
「リュックサック、めづらしいね」
「だつて、便利なんだもん」
「そお?」
「うん。ほら、散歩のときとか。両手があくし」
散歩、ねえ……、とにやにやしながら考へてゐると、素知らぬふりで遥香が言ふ。
「だつて、遠いんでしよ、そこ?」
遠いんだよ、けつこう。
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