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雪香楼箚記
花の雨
1
あなたはどこへゆこうとしているのですか。
もう忘れてしまったかもしれません、いつか、ふたりで春の宵闇のなかを歩いたことがありました。あなたはすこし酔っていて、目が合うたびにちょっとはにかみながら、ふわりと花が開くみたいな微笑を浮べたのを今でも覚えています。笑うと、ふつうの人とは逆に、目頭から鼻筋の上のほうにかけてぎゅっと皺が寄ることに、ぼくがはじめて気づいたのもそのときのことだったのではないでしょうか。口もとの白くて素直な歯並びとともに、そうやって見るあなたの表情はむしろ稚く、勝気そうな女の子の面影をまだたくさん残していて、颯爽とした乱暴さを思わせました。以来、あなたの印象は、この鼻筋の可愛らしいしわの記憶と手を携えてぼくのもとを訪れるのが常となっています。おそらく、あなたは気づいてはいないでしょうが……。
うまく言葉にできないままに、颯爽とした乱暴さと言いましたが、ぼくにとっては、あの夜の、いや、あの夜以来のあなたは、いつもそうとしか言いようのない人でした。育ちのいい、やんちゃでおてんばな女の子のようなところがあなたにはある。思いきりがよくてものごとを恐れない、のびやかな勇ましさ。
そして、ぼくはといえば、乱暴さとは無縁の人間です。あなたのように自分の心に素直に従うだけの勇気を持たない、むしろ、物事をためつすがめつ、いじけながら考へこんでばかりの引込み思案な人間なのです。思えば思うほど、ふたりのあいだにあるものはあまりにも遠い――。だからこそ、春の闇のなかであなたが微笑み、整った鼻筋に似合はないいたずら小僧のような皺が現れるたびに、ぼくは心のなかでこう問いかけてるのをおさえることができなかったのかもしれません。
あなたはどこへゆこうとしているのですか。
2
昼を過ぎたころから風のなかにまじりはじめた雨は、夕方になってもやまないまま、夜のなかに降りこめている。硝子窓を隔てると、雨粒はむしろ軽やかな雪に似て、淡く空を流れてゆくように見えた。暗がりのなかにたゆたっている水のいろが不思議になまめかしい。
久しぶりの休日だった。懐かしい友達と一日を遊びくらして、最後に同窓会の真似事のような食事をしたあと、たまたま同じほうへ帰るふたりが取残される。どこまでもありきたりな話。ありきたりな話ほどぼくらに似つかわしい。
曇りがちだったせいなのか、それとも思ったより長く店にいたせいなのか、外へ出ると夜はずいぶん更けていた。ひとときよりは小降りになっていたものの雨はやはりやんでいなくて、街路樹の梢を風が渡ってゆく音がかすかに耳に響く。花の雨というようなころのこと、盛りにはまだひと間あるものの、どこそこの枝垂桜はもう八分といった類の噂が毎日の挨拶代りで、現にその日、ぼくらもその早咲きのいかにも京都らしい枝垂桜を御所で見てきたところだった。そして、そう思ってみると、闇も花のころめいて、いかにもやわらかく肌をひたしてくるように感じられる。
「桜、きれいやった」
同じようなことを思っていたのか、彼女がぽつりとそう言った。
「うん。枝垂桜、京都らしくて」
「ふつうの桜……、なんて言うんやっけ?」
「染井吉野?」
「あ、そうそう。ああいう淡いのもきれいやけど、枝垂桜みたいに濃い色に咲くのも好き」
「そうやね、ひとつひとつの花にはっきり輪郭がある感じで」
「写真に撮るなら枝垂桜のほうが向いてると思う。染井吉野は、あのぼやーっとした感じがうまく出んと思う」
写真の話が出たのは、その晩、彼女にぼくが書いたものの表紙に使う写真を撮ってほしいと頼んだからだ。写真はこの人の趣味でもあるし、仕事でもあるし(アルバイトで写真スタジオを手伝っている)、それ以上に、心をかたちにするための大切な方法でもある。そういうところは、すこしぼくの文章にも似ているかもしれない。
「私の写真でほんとにええのかな?」
「もちろん」
「でも、技術的なこととかまだまだやし。なんていうか、情熱だけでシャッター切ってるみたいな感じで……」
「だいじょうぶやって。ぼくの文章も似たようなもんやから」
「うまく言えんけど」と彼女が小さな声で言った。「たぶん好きなんやと思う、写真」
「うん、いい写真やと思うよ」
「ほんま? ありがとう」
「……」
「私、写真撮ってるとなんか体が熱うなってくるの。かーってなって」
「夢中になってるからかな?」
「うん、ファインダー越しに眺めてると、眺めてる人も、ものも、すごく素敵に見えてきて、どきどきしながら夢中で何枚も撮りまくってることがよくある」
「ふーん」
「やから、写真を撮るときって恋をしてるんやと思うわ」
「ファインダー越しに?」
「そう。目の前にあるものがどうしようもないくらいいとおしく思えてきて……」
「で、そのいとおしさを自分の手で表現したくなるから、どんどん写真を撮るんじゃない?」
「中村くんも?」
「うん。大好きで大好きでたまらないものを、自分の文章で表現できるのがうれしくて仕方がないんだよね」
「そうそう! 好きなひとの肌に触れてるみたいな感じで」
「いとおしいって思う気持ごと、そういう、自分の大好きなものを文章のなかに封じこめちゃう」
「それで、いつか、だれかがその写真を見たときに、カメラが写したものといっしょに、私の感じたいとおしい気持までよみがえってきて、それを感じてもらえたら、もう最高」
「そうやね……。なんていうか、宛先もなくて、いつ届くかもわからへん手紙を書いてるみたいなもんなんかも」
「ほんまやわ。恋した思い出を、ひとつひとつ、だれかに伝えたくて手紙を書いてる……」
そう言ってニッと笑う表情が、だいぶ酔ってる。
「私ね、中村くんのことがうらやましい」
「……?」
「文章書ける人、うらやましいんやわ。……笑わんとってね。それに秘密やで。私、むかし物書きになりたかったんよ。小説とか書く人」
そういうと、元文学少女(?)は立ちどまって、青いフリースのフードを引っぱり出した。「髪、濡れたらめんどくさいし……」と言いわけしながら、いたずらっぽい目つきはむしろそうした子供みたいな恰好ができるのを喜んでいるように見える。
「あれ、傘は?」
「持ってへんの。ほら、傘って視界がさえぎられるやない? あれがなんとなくこわくて。それに雨に濡れるの好きやし。ほら、青ずきんちゃん!」
ほんとに子供っぽい……(小学生か、あんたは)。
「で、さ……」
「ん?」
「小説家になりたかった話」
「ん? あ、そっか」
「小説とか書いてみた?」
「書いた書いた! 高校生のときとか、大学来てからとか」
「どんなの?」
「えーっとね、例えば……。アンスカの最初の懇親会でね、はじめて美奈ちゃんに逢ったとき―これはもちろん、大学入ってからやけど―、なんかね、すごく印象がつよくて、京都に帰ってきてからしばらく美奈ちゃんを主人公にした小説書いてた」
「ふーん、いっかい読んでみたいなあ」
「でもね、たくさん書いたんやけど、結局いっこも最後まで仕上がらんかったの。書きたいことはたくさんあったのに、それは小説にはなれへんかった。だから、物書きになるのはあきらめたんやけどね。……それで憧れてるんやわ、中村くんみたいなの」
すこし感傷的な目つきをしたのがじつに色っぽい(さっき子供っぽいと思ったばかりなのに)なんて、つまらないことを考えながら、ぼくはなんだかはずかしくて仕方なかった。我ながら、いろんな人にいろんなことを買いかぶってもらっているとは思うけれど、こういう誤解がいちばん照れくさい。ちょっと文章を書けるからといって、そもそもぼくは、年上のこんな美人の尊敬と憧れの対象になるような人間ではないのだ。第一、小説(みたいなもの)を書けるということが、偏執狂的で陰険な性格を保証することはあっても、尊敬や憧れにふさわしい人間性に対応するかどうかはなはだしく疑問であると言わねばならないだろう。
が、言いわけはやめておいた。女の人の感傷には逆らわない。ぼくは、(ことに女の人には)礼譲な人間なのである。それになにより、隣を雨に濡れながら歩いているのは、感傷的な瞳のいろがとても魅力的なひとなのだ。
夜の街は静かだった。自動車もめったに通らない。感傷はまだ続いているのか、彼女の歩調はゆっくりとしていて、急ぐだけの理由を見つけられないぼくはそれに従った。雨の彼方を時が流れてゆく。それが人に、酔ったような感覚を味わせていた。
濡れた舗石の上にふたりのスニーカーがやわらかな音を立ててゆく。歩きながら、ぼくの心は彼女が書きのこしたという小説のかけらのなかへとさまよっていた。ひとひらの翳りもなく澄んだ故郷の日ざしのもので、あるいは、そこから遠く離れた古い都市の静かな空のもとで、この人はどんな物語をつむぎつづけていたのだろう。
ぼくの目に浮ぶのははかない夢のような情景だ。まだ大人とは言えない年つきのやせっぽちな女の子が、未来のどの時点かの自分に向けて宛先のない手紙をつづっている。若々しい字で書きちらかされた草稿のなかで、主人公たちは恋を語り、冒険に憧れ、遠い旅へといざなわれてゆくが、まるではるかな昔に失われてしまった絵巻物の断簡を見るように、途中でとぎれてしまった物語たちは決してその円環を閉じることがない。永遠の未完。終らないからこそ、いっそうそれが優美にぼくの心をしめつける。
書ききれなかった小説の続きはいったいどこへいってしまうのだろう。いとおしい物語たちはかけらだけを残して流れさってしまったけれど、しかし消えてなくなってしまったわけではない。彼らはどこかでまだ彼女を待っている。彼女に語られることを待ちつづけている。もし、宿命としての情熱というものがあるとするなら、それは語ろうとして語りきれなかった物語が姿を変えたものではないだろうか。人はいつか、それに出逢わなくてはならないのだ。―ふと、立ちどまるようにしてぼくは思う。逢うよ、きっと逢う。君はきっと逢う……。
新しくできたらしいマンションの小さな前庭で土佐水木が咲いていた。緑いろの葉かげに、夜に溶けてしまいそうな風情の花がほのぼのと見える。花びらに置いたしずくが蛍光灯の光を宿していた。草木の名前に疎いぼくには、それがほんとうにぼくと彼女の故郷の名前を冠した花であるかどうか判断がつきかねたが(土佐水木という木の花が桜の咲きはじめる時分に開くものかどうかという知識さえなかった)、ただ、秘かに、闇のなかにもあざやかなその白い花を、心のうちにとどめておかなくてはならない、と、説明のできない確信を持ってそう思った。
その花は、ひとつの象徴だった。ぼくと彼女がこの夜のなかで共有した時間の。酔ったように快く流れてゆく、今の、この時の。そして、人の心とは無関係にうつろってゆく時のなかに、ぼくはこの白い花を投入れる。未来が現在となり、現在が過去へと繰込まれてゆくその永遠の内側へ、このひとときをいつか偲ぶためのよすがとして。それは時間というはるかな書物のなかにはさみこむ栞となるだろう。頁を繰れば、そこにはいつも彼女のやわらかな感傷が息づいている。幾たび読みといても飽かぬ、美しくもあえやかな数行の詩のように。
そしていつの日か、その頁で彼女は自分を待ちうけているものに逢うのだ。宿命のようにして。
3
気づかないうちにしちゃってる癖。その一。酔うとすぐあぐらをかいて坐る。このあいだも「日本のお父さん」ってからかわれた。今度からは気をつけよう。その二。もっと酔っぱらうと松浦亜弥の曲を踊りながら歌うこと。今日は幸い(?)そこまで飲まなかったみたい。その三。酔うとリップクリームを塗るのがめんどくさくなって、つい唇を舐めちゃうこと。うーん、それとも唇が乾くのを気にしすぎなのかな? その四。酔うと……。
もう、こんな酔うたときの癖ばっかりええわ。めんどくさいし(筆者註。四番目の癖は、酔うとめんどくさがりになることです)。あ、雨が気持いい。春はなんか好きやないけど、春の雨は好きなんかな、私。高知におったときはどんなんやったやろ? 高校は自転車で通ってたけど、雨に濡れてもなんとも思わんかった。気にしてなかったんかも。それならやっぱし、京都へ来てからなんかなあ?
高校生やったときから、私はどれくらい変ったんやろう? たしかに、京都へ来てから春の雨は好きになった。でも、自分ではそれを変ったみたいには感じられへん。むかしは春の雨なんか気にしてなかった。好きでも嫌いでもなかった。それやのに、私はずっと前から春の雨が好きやったような気がする。ううん、そうやなくて……。私は前から、春の雨が好きな私に気づいていたような気がする。そう、桜並木の向う側にある高校に通ってたときから、私は自分がいつかこうなることに気づいていた。気づいてたのに、そのことをはっきりと知らないまま春の雨に濡れていた。知らないまま……。
ひょっとしたら、変るなんていうのはありえへんことなのかもしれない。だれもはっきりと知ってはいないけど、でも、自分がどう変ってゆくかじつは気づいている。夢に未来を見るみたいに、無意識のなかの幻みたいに、ぼんやりと。それがある日、目には見えへんかったところから急に浮びあがってくる。それだけのこと。私やない私なんてどこにもいなくて、春の雨が好きなのも、春が嫌いなのも、みんな私。ずっとずっと前から、私のなかにいた私。
でも、それなのに私は私をつかまえられない。流れる水を追うようにたくさんの場所をさすらったけど、いつも掌からこぼれ落ちてゆくばかりだった。気づいているのに知ることができない。つかまえることができない。
私は、私のなかから逃げてゆく。明け方の夢のように。ここを去って、遠くへ、遠くへ……。――私はどこへいくんやろう?
あー、こんなん、酔うてるのかな……。しばらく高知帰ってない。帰りたいなあ。夏の海が見たい。中村くんの『海坂』みたいな。
4
「あのね」
「ん?」
「今、『海坂』のこと思うてた」
「ふーん」
「高知の海、見たいなあ、って」
「好きやねえ、南の海」
「南方系、ってよく言われるわ。今年はぜったい沖縄行くつもりやし」
また彼女の鼻筋にぎゅっと皺が寄った。
「ねえ」
「ん?」
「ここではないどこかへ、って、やっぱり逃げてるんかなあ」
「なに、急に? どうしたの?」
「んー、なんか、最近そんなことを考えてるから。ほら、私、今、文化人類学やってるやん。これもたぶんそうなんやと思う。ここではないどこかへ病。京都におると高知に帰りたくなるし、高知におると京都へ帰りたくなる――」
「――で、沖縄にアフリカにインド、かあ」
「そう。みーんな、ここではないどこかへ。なんか前は、若いからなんかなあ、って思ってたんやけど、やっぱそうじゃない気がしてきて」
「うーん、ぼくにはそういうふうには見えへんけどなあ。なんていうか、もっと単純に、好奇心みたいなもんやって思うてたもん」
「うん、そうなの。好奇心っていうのもあると思う。私ね、高校生とかのときから、ずっと、世界中のすべてを知りたい、って思うてたから」
「ぼくといっしょだ」
「ほんま?」
「うん。ただし、ぼくのはちょっと動詞がちがってて、読みたい、やったけどね」
なるほどね、中村くんらしい、と彼女がつぶやく。
「だから、好奇心みたいなのはぜったいあるんやと思う。知らない世界を見てみたい。でも……」
「それだけじゃない、って?」
「そう。なんかね、私、人を愛せない人間のような気がするんやわ」
「話が飛躍するなあ」
「あ、ごめん」
「いいよ。それが得意技じゃない」
「褒めてんの、それ?」
「びみょう、かな」
「びみょうやわ」
可愛らしい下がちらりと下唇を舐めた。
「世界のぜんぶを知りたい。だから旅に出る。ここではないどこかを求めて放浪する……。でもね、ここではないどかかにたどりつくと、私、いつももっと違う場所に行きたくなる。今いるその場所を愛することができへんの。どこまで旅しても、どこまで放浪しても」
「もっともっと、って?」
「大人になったら、世界中のすべてを知りつくすなんて無理なん、わかってくるやない? 知りたかったら、自分で選ばんといかん……。でも、私にはその勇気がない。今いるその場所を愛せないから。いつも、もっともっと、って」
「のら猫、やね」
「へ?」
「いつか言うてたやん。動物に例えるなら、私はのら猫って」
冗談に言ったのかも知れないその言葉は、しかし、彼女によく似合っている。「のら猫だよ、桜木さんは」。ぼくはそう言いかさねた。
そっと彼女のほうへ目をやると、雨粒が前髪にかかっているのが見えた。街灯の明りでそれがちいさく輝いて、ふだん化粧気の乏しいひとだけに白い頬によく映えている。――と、横顔をこっそり覗いていたのに気がついたのか、彼女が急に立ちどまってこっちを振りむいた。勢いにおどろいて、一瞬、怒っているのかと思ったが、よく見てみると目もとにある微笑がやわらかい。前髪のしずくが紅潮している頬に落ちた。
「のら猫、なんかなあ、私……」
「だって、人に飼われるの苦手でしょ?」
「うん。人に飼われるの、人に愛されるの、苦手かも……」
のら猫は自由が好き。いつか彼女から聞いた言葉だ。自由が好き、束縛されるのが嫌い。もちろん、愛されたり愛したりする気持と束縛されることとは別なものだろう。それに、ぼくには彼女が特別に不幸な恋ばかりをしてきた人にも見えない。しかし、のら猫は人に愛されることが苦手なのだという。
例えば、彼女を愛する人が現れる。のら猫は拾われて飼猫になる。あたたかい寝床とおいしいごはんが用意されて、もう雨にも寒空にもおびえる必要はなくなる。彼女は愛されているし、もちろん愛している。すべてが平穏な幸せに満たされて、放浪と冒険は終りを告げ、「ここではないどこかへ」のための日々ではなく、「ここ」のための毎日が始る。そして、彼女はやっと知るべきなにものかを選びとることになる。
でも、そうした幸せはいつも長くは続かなかった。のら猫には選びとる勇気がない。だから、ここではないどこかは、永遠にここではないどこかであらねばならず、彼女は選ぶことよりもさすらうことを採るしかなかったのである。必然的に、猫はしばしばその飼主のもとから逃げさった。愛情は猫の心から求めているものであったが、それはことごとく自由とのあいだでの択一をこの美しくも無力な獣に迫ったのである。ぼくは今、そのときの彼女の心の内側をつまびらかにするすべを持たないが、その懊悩は察するにあまりある。そして、不幸なことにぼくの女友達は自分の心を守るだけのちからを持たなかった。彼女はやさしい心の持主であった。だからこそ、自らに接するに愛情を以てした人に対して、愛情によって報い得なかったことを、のら猫は悔いているのである。「私は人を愛せない人間かもしれない」というのはその告解の言葉である。ぼくは何と言って答えればいいのかわからない。
「今はね」
「うん」
「だから、人を好きになるのはひと休み」
「うん……」
いつか、人を好きになるのはつらいこと、と言っていた人のほんとうの姿を見たような気がした。
「じゃ、しばらくはのら猫放浪の期間だ」
「そう。で、とりあえず沖縄行こうっと!」
「いいなあ」
「おみやげ、なにがいい? なんでも買うてくるよ」
「うーん、じゃ、沖縄の写真」
「私が撮ってくるの?」
「もちろん。で、写真集を作ろう」
「わーい、賛成!」
「……」
「……ごめんね、こんな話」
「平気、気にせんでいいって」
「そう?」
「うん、こういう話、好きやし」
「それはわかってた。だって、小説のなかでは、中村くん、いっつも年上の美人に聞いてもらってばっかりやもんね。たまには逆でもいいか」
人の書いたものをよく読んでいる上に、痛いところをつく人だ……。
「ほんとはね……」
「うん」
「中村くんやから、話してみた」
「……どうして?」
「なんか、中村くんものら猫な人やから」
「放浪癖、ないつもりやけどなあ」
「でも、束縛されるの嫌いやん」
「束縛っていうか、べたべたされるのはね」
「ほらね」
自信満々という顔でこっちを見た。ひくり、と鼻筋をうごめかして、なんとも小癪な微笑み方をしやがる。急に年上ぶって人を子供扱いにする癖、酔うといっそうひどくなるようだ。三つしか違わないくせに。
いつの間にか雨脚がつよくなりはじめていた。遠くでかすかに葉末をたたくような音がする。風は、やんだらしい。
気づくとそこが別れ道だった。
「じゃ」
「ん」
不思議に愛嬌のある返事をしながら、彼女がこっそりささやいた。「ばいばい、のら猫さん」。あかるくて、でもどこかかすかにうるおいを帯びたような声が雨のなかに消えてゆく。深い森のなかにいるみたいな静けさだった。ひんやりとした空気が闇のなかでそっと動く。
――ばいばい、のら猫さん。
心のなかでそう繰りかえしたときには、ちいさなリュックサックの後姿はもうずっとむこうのほうへと去っていた。別れを告げるといちども振りむかない颯爽とした乱暴さが、放浪癖の(だけどちょっと方向音痴気味)のら猫にふさわしい。
ふと、ほんとうにぼくらはのら猫なのかもしれないな、と冗談のように思った。
猫くらい孤独な生きものはいない。飼主やほかの動物はもちろんだが、同族に対してさえ徹底して無関心である。ただ、ひとつだけ例外があって、街のなかののら猫だけがお互いのにおいをふんふん嗅ぎあって挨拶する習慣を持つ。それも、犬のようにしつこくはなく、義務に似た淡々とした態度で。あくまで自由に生きているのら猫どうしの、さみしさを埋めるためのよすがなのだろうか。
ぼくも、彼女も、相手にもたれかかるほどの感傷は苦手な人間だ。どんなに親しい人であっても、自分とのあいだに一本だけ線を引いておかないと不安になってしまう。自由を保障してくれるprivateな部分をかかえていたい。
でも、だからこそ、ときどきちょっとだけを分けもってくれる相手が必要になる。そういうとき、ひとりで生きているのら猫たちがかわいた感傷で受けいれあって、散文的になぐさめあう。べたべたするのはお互いに好きじゃないし、それ以上に照れくさいから、泣きたくなったら何も言わずに肩だけ貸してあげるような関係。今日はちょっと、放浪好きの猫の可愛らしい愚痴につきあっただけのことで、明日になればぼくが肩を借りる番かもしれない。のら猫の挨拶というのは、そういうものだ。
ふと、もういちど彼女の「ばいばい」を思いだしながら、ぼくは雨のなかを歩いてゆく。傘はささずに。
5
あなたから聞いたたくさんの話のなかでぼくがいちばん好きなのは、はじめての放浪の話です。十六歳になったらひとりで旅に出なければならないと思っていた女の子がニューヨークへゆく話。言葉が通じなくてこわくてホテルで泣きべそをかいたり、メトロポリタン美術館で長い長い題のゴーギャンの絵を見たりして、知らない世界を旅する……。運命のようにして幼い自分を世界に向ってひらいてゆこうとする十六歳のあなたが、ぼくには今の姿にかさなって見えたのでした。例えば夏の朝の澄んだ硬質な光のなかへと押しあけられた窓のように、静謐であかるい力づよさを持って世界に対峙する女の子の姿は、いつまでも失われないのびやかな希望に満ちていたのです。
ここではないどこかへ、世界中のすべてを知るために……。あの夜、あなたはそうした自分をすこしだけ悔いているようでした。愛されることよりも自由であることを選んだ過去を振りかえりながら。私は人を愛せない人間かもしれない、とつぶやきながら。
けれどもぼくには、十六歳だった健気な少女のことを考えるたびに、こう思われてならないのです。―世界はあなたによって愛されることを待ちつづけている、と。
あなたはたしかに「大人になったら、知りたいこと、愛したいものを選ばなけねばならない」と言いました。でも、その言葉を自分でどれだけ信じているのでしょうか。すくなくともぼくには、花の雨に濡れながらあきらめるように語られた言葉よりも、たったひとりでまだ見ぬ世界へと旅立とうとした少女の姿のほうが、あなたらしく感じられるのです。
例えば、ぼくはしばしばこんな夢想にとらわれます。まぶしい光のなかで、まだ世界について何ひとつ知らない女の子が、突然、ある予感のようなものを感じる。「私は、この世界のことを何も知らないけれど、でも、この世界は私に愛されることを待っている」と。そして、それはやがて確信として、あるいはいとおしい運命として、心のどこかに根をおろし、少女は世界のすべてをみずからのなかにひきうけようと決心する。ここではないどこかへと逃げることではなく、はてしなくひろがる世界を自分の内側において見つめようとする勇気を持って……。そうであるとするならば、あなたは愛することをだれよりも深く知っている人です。愛することができるという幸運を手にした人です。
もしかしたら、あなたはそのことに気づいていないのかもしれません。いや、心のどこかでかすかに気づきながら、しかし、まだはっきりと知ることができずにいる、と言ったほうがいいのでしょうか。選びとることができない、だから、私は人を愛せない、とつぶやいた声のさみしさは、まだぼくの心のどこかに残っています。けれども、それはそう思いこんでいるだけなのではないのではありませんか。ほんとうは――、あなたは選びとる前にすべてを愛しているのです。宿命のような情熱によって。
かつてあなたに未完の物語を書かせた情熱が、今ここにかたちを変えてのら猫の放浪となり、待ちつづけている世界へとむかってあなたをいざなっている……。ぼくにはそう思えてならないのです。世界のすべてを愛するために与えられた情熱。まだ知ることはできなくとも、ぼくも、あなたも、気づいている情熱。
だから、やはりぼくはこう問わねばならないのですね。答えを待つのではなく、ここから去ってゆく旅人をはげますために。
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