c - Rakuten Inc
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
660043
ホーム
|
日記
|
プロフィール
【フォローする】
【ログイン】
雪香楼箚記
第1章
『二十一世紀に生きる君たちへ』
1
人は、いづれ死ぬ。死ねば一握の灰でしかない。さうなる前に自分がどうしてこの世に生れ、生きてきたのかといふ意味を見つけたいと思ふのは自然なことである。
人生は決して悲嘆すべきものではなく、楽しく喜しいものにほかならない。我々の周囲には生のきらめきが満ちてゐて、ほんの些細な気持の持ち方でこの世はいくらでも素晴しいものになる。そしてさういつたことに気づいたとき、我々ははじめて生の貴重さや尊さを発見する。あるいはそこに人生の喜びを見出す。言つてみれば生きてゐる意味といふのはたいがいの場合にはかうしたところにあるに違ひないだらう。
さういつた人生の楽しさを知る人は幸ひである。それに気づいただけで彼らはずつと上質な生き方をすることができるのだから。そしてさういふひとびとは喜しい人生に感謝する術を知つてゐて、優れた藝術を創造したり、他人のために生涯を捧げたりして人生の楽しみを分ちあはうとするだらう。
そのやうな行為の成果として、ここでは司馬遼太郎の書いたふたつの教科書を取上げたい。大阪書籍の小学生向け国語教科書に執筆した『洪庵のたいまつ』と『二十一世紀に生きる君たちへ』といふ文章がそれなのだが、さてこのふたつを読むときの感動をどのやうに表現すればいいのだらう。ここにあるものこそ筆者の心のなかにしつかりと根づいてゐる生への喜びにほかならない。それが輝くやうなことばのあはだちによつて真摯に語られ、これから人生を歩んでゆかうとする年若いひとびとへの応援となつて息づいてゐる。
2
丸谷才一氏の『国語教科書批判』を引用するまでもなく、小学生用の国語の教科書(ことに無記名による編集委員の書き下し)には新聞広告の惹句にも劣るやうな文章しか載つてゐないといふのは周知の事実だらう。どうしてこんな下らない出来にしかならないのかと言へば、執筆者が何の目的意識もないままに文章を書いてゐるからである。甚しい場合は学年配当漢字を登場させるためだけに書かれたとおぼしきものまで見受けられたりするのだから小学生こそいい面の皮で、こんな気の抜けた麦酒のやうなものを読まされて国語嫌ひにならない方がどうかしてゐるのではないだらうか。文章は何かを伝へようとして書かれるものであることは言ふまでもない。この世に存在するありとあらゆる文章を名文と悪文に分けるとすれば、その基準となる唯一のものは、「どうしてもしかじかの内容を伝へなければならない」といふ切実な衝動があるかないか、そしてその衝動がきちんと達成されて意味のよく通る文章となつてゐるかどうかといふ点である。しかしながら小学生たちが手に取る教科書は、伝へるべき何かがないままに漫然と書かれた文章によつて半ば以上が埋めつくされてゐるのであつて、それらは文章と言ふよりは頁を汚すインクの紙魚とでも言つたほうがいいやうな単語の羅列に過ぎないのだ。
『洪庵のたいまつ』や『二十一世紀に生きる君たちへ』がきはだつた作品であるのは、このやうな文章を書く目的といふ一点において飛び抜けて充実してゐるからにほかならない。そこにあるのはまづ第一に「何事かを伝へたい」といふ司馬遼太郎の情熱であり、さらには伝へるに値する内容である。文章を書く上で必要不可欠な目的意識であり、伝達への意欲といつてもいいだらう。さういふものが筆者の側に厳然と存在するからこそ、このふたつの文章は読むものに感動を与へずにはおかないのだ。
しかしそれならば、これらの作品における「伝へるに値する内容」とはいつたい何であらうといふ疑問が浮ぶ。ここで冒頭の話を思ひ出して戴きたい。『洪庵のたいまつ』と『二十一世紀に生きる君たちへ』といふふたつの教科書の底に滔々と流れるのは、生きてゐることの喜び、人生の楽しさといつたものであり、そして人間はどうすれば生の喜びを感じながら生きてゆくことができるのかといふことなのではないだらうか。「人間といふのはこんなに素晴しいもので、君たちもかういふふうにすれば人生の素晴しさを味ふことができるのだよ」といふのが、これらの文章のなかで司馬遼太郎の訴へたかつたものなのではないのだらうか。
3
『洪庵のたいまつ』といふ文章は緒方洪庵の一生を描いたものである。作者の主観と呼べるやうなものはほとんどなくて、いかにも司馬遼太郎の作品らしく洪庵の一生を淡々とした語り口で実証的に描いたものだが、読んでゐるうちに不思議な感動を覚える一篇だと言ふことができるだらう。
たいまつ、とは洪庵の教育者としての一面を指してゐる。周知の通り緒方洪庵の開いた適々斎塾は幕末における蘭学の淵叢とも言ふべき学塾で、橋本左内、村田蔵六、福沢諭吉、大鳥圭介などを輩出したことで特に名高い。当時大坂の適塾と言へば先進地で、蘭学者はここの出身だといふだけで一流の扱ひを受けたといふ。実際に先に名前を挙げた人物たちからも判るやうに、明治維新後の日本を主導することになるのは適塾出身者とその系列に属するひとびとが圧倒的に多く、ただの医学塾といふよりは蘭語を通して当時最先端の思想や技術を身につける綜合大学のやうな趣があつた。慶応義塾の源流はこの適塾だと言つてもいいだらう。
当時学塾は、無数にといふのは言ひ過ぎにしても相当な数があつた。しかしそれらのなかで適塾が一頭地を抜きん出て人材を輩出したのには事情があつて、主宰者である緒方洪庵の教育方針が非常に優れてゐたことが何よりも大きい。例へばほかの塾ではかなり細かく定められた修学課程によつて知識をみつちり習得させることに終始してゐた(例へばこれは漢学塾だが、豊後日田の咸宜園における学則、修学課程、成績算出法などは現在の学校教育の比ではないほど細かく、あきれてしまふほどだ)のに対して、適塾の教育方針はほとんど放任主義、学生の自治に任せるものだつた。修学につても医学塾といふよりは語学塾に近い内容の上に、ほとんど学生どうしの講読形式であつて細かな修学課程を定めることで束縛することはなく、学生たちは一定の語学力がつけばあとは好きな分野の自習に進むことになる。むろんたいがいの場合は医学を修めるのだが、なかには福沢のやうに語学で飯を食ふ者もゐたし、本業は医者なのに翻訳や西洋知識の紹介で身を立てる卒業生も相当ゐただらう。洪庵自身が手を取つて学生たちを教へたのではなかつたが、しかし結果的に適塾は彼の採用した教育方針によつてじつに個性的で有能な人材を社会に提供することになつたのにほかならない。
優れた教育者に共通する性格が人間的な魅力であることは言ふまでもないだらう。人間が人間を育てようとするとき生徒たちは思つてゐるよりずつと鋭敏に教師の資質を見抜くものであり、もし教師が人格的に尊敬されないやうな人物であつたとすれば彼は教育者としては失格の烙印を押される。その人物は何事かを教へることは可能でも、人間を感化することは不可能だから。教育者としての資質とはすなはち、人間としての資質にほかならない。そして洪庵はまさしくこの人間的な魅力にあふれた天性の教育者であつたと言へるだらう。優れた才能を持ちつつ施療と教育に生涯を捧げた生き方、清冽な無私の精神、穏やかな人柄。それらは『洪庵のたいまつ』のなかで引用されてゐる医師としての彼の訓戒を見ても判る通りである。曰く、「この世の中で生活しているのは人のためであつて自分のためではない」。
ここに輝くやうなひとつの人生がある。教育者として、人間として何とも魅力的な生涯を送つた人間の肖像がある。
『洪庵のたいまつ』の中心部分はまさしくこの部分にあるのではないだらうか。文章の末尾において司馬遼太郎はかう記す。すなはち洪庵は自分の師から受継いだたいまつの火をいつそう大きくして弟子たちに分け与へた人物なのである、と。そこのあるのはひとりの教育者の一生であり、さらに言へば教育者としての側面を通していつそうはつきりと表れる洪庵といふ男の魅力、その人格の美しさであるとも言へる。さういふものがこの文章の中心にづしりと据ゑられてゐるのだ。
考へてみれば司馬文学といふのはいつもかうしたものであつた。ある優れた人間の一生を目の前にしたときに筆者が感じた感動を読者に伝へるために、史実を博捜し、文章を練り、小説を作り上げる。主観の混入を何よりも嫌つて客観的な評価を重じ、忠実な伝達者としての役割に徹するこの作家が、小説を書く動機として常に抱いてゐたのは「世の中にはこんなに素晴しい人間がゐる。こんなにも我々の心を打つ人間がゐる」といふ素朴な感動にほかならない。そしてそのもうひとつ奥には「人間は決して愚かな、空しい存在ではない。人が生きることはこの上もなく楽しく幸福なことであり、それは何よりも美しいのだ」といふ人間肯定主義が厳然と存在するのではないだらうか。「人生はいいものだ。その証拠に、ほらご覧なさい、歴史のなかにはこんなに素晴しい人間がゐて、私たちを感動させてくれるではありませんか」。これこそ司馬作品の基本的な性格であり、それが端的に表れてゐるのが『洪庵のたいまつ』だと言ふことができるだらう。この文章のなかで、彼は緒方洪庵といふ人間の優れた生涯を描きつつ「人間はこんなに素晴しいんだ。人生はこんなにいいものなんだ」といふ無言の応援を小学生たちに送つてゐる。
作家は、これから決して平坦なばかりではない道程を歩まねばならぬ小学生たちを前にして「それでもどうか人生に、人間に、絶望しないで下さい」と真摯に語りかけてゐるのだ。まるでさうするのが義務であるかのやうに。そしてさらには、その義務感が彼のなかで「どうしてもこのことを文章で伝へたい」といふ情熱に変化したとき『洪庵のたいまつ』といふ名文が成立したのである。
そして、この一文によつて洪庵のたいまつは司馬遼太郎に受継がれ、そして未来に生きるひとびとにしつかりと伝達されたのだ。
4
私は昭和五十五年の生れである。そして『二十一世紀に生きる君たちへ』を読んでゐる小学生たちも大半が五十年代以降の生れだらう。
私は自分が生れた世代に誇りを持つてゐる。この世代の大きな進歩として、政治的な主義主張やイデオロギーに騙されることがなくなつたからだ。私は、勇んで特攻機に乗つたひとびとも安保闘争で傷ついたひとびとも偉いとは思はない。政治的な主義主張に騙された犠牲者として、あるいは平穏な生活を楽しむことのできなかつた悲劇の主人公として彼らを悼むことはできても、一身を擲つて信条のために尽した生き方を尊敬することはできないのである。イデオロギーは何をしたのか。それは人間を騙し、大いなる惨禍を引起したに過ぎないのだと言ふことができるだらう。共産主義はスターリンによる粛正を、全体主義はヒットラーによる虐殺を、民族主義はユーゴスラビアの内戦を生んだ。イデオロギーは人間を惑はせ、いかなる非人間的な行為をも正当化したのである。それらはすべて美名を装つた悪魔でしかない。私たちの世代はかうした主義主張による政治的英雄よりも幸福な生活者を尊び、実体のないイデオロギーへの奉仕よりも具体的なものへの奉仕を価値あるものだと思ふ。もし戦争が起つたとしても、この世代は「お国のため」に戦ふことはないだらう。自らの愛する人を守るため、自らの慣れ親しんだ故郷を守るために戦ふに違ひない。人類のため、日本のため、無産市民のため、といふ言ひ方は魔力を失ひ、私たちが心を動かされるのは具体的な固有名詞のための奉仕である。
さて『二十一世紀に生きる君たちへ』といふ文章のなかで何度も繰り返されるのは思ひやりといふ徳目にほかならない。「人間は何よりもしつかりとした自己の確立こそが肝要である。しかしながら偏狭な自己中心や利己主義に陥つてはならないのであつて、人を思ひやる心、いたはり、優しさ、さういつたものを養はなくてはならない」。これがこの文章の眼目となる部分である。しかし思ひやりとは何だらうか。どうしてこの徳目が二十一世紀に生きる者にとつて重要になるのだらうか。
司馬遼太郎は漢籍に詳しい人だつたから、思ひやりといふことばを用ゐたとき念頭にあつたのは『論語』のなかの恕といふ文字であつたに違ひない。恕とはその形からも判る通り心の如くといふ意味で、他人の心情を思ひやるといふふうに解釈されるのが普通である。すなはち思ひやりとは他人の心の如くにすることであり、目の前にゐる人の心情を推し量るところから出発するのであつて、結果としてひどく手触りのあるものにならざるを得ないだらう。人類のため、日本のため、無産市民のため、といふ実体も手触りもないものではなくて、例へば何某さんの心を推察しそのために尽すといふのが思ひやりなのではないだらうか。先に述べた具体的な固有名詞への奉仕といふ表現が思ひやりといふ徳目の特徴をよく表してゐて、思ひやりは実体のない包括的な存在(人類、日本、無産市民といつた)を対象とするものではない。それは我々のすぐ隣りにゐるひとびと、触らうと思へばすぐに腕を掴めるひとびと(むろんこれは形而上的な意味であつて、実際には地球の裏側に住んでゐるひとびとであつても、心理的な親近感を抱いてゐれば充分に「我々のすぐ隣りにゐるひとびと」である)を対象とする行為であり、日本人のためではなく田中さんのため、韓国人のためではなく金さんのため、ニューヨークの浮浪者のためではなくてドナルドさんのために行はれるものにほかならない。そしてそれと対局に位置するのがイデオロギーや主義主張による正義だと言ふことができるだらう。かうした正義は固有名詞のためではなくて抽象的な存在のために、手触りも実体もないもののために遂行され、そして結果として悲劇を生む。
包括的な存在のための正義はしばしば個別のための悪でしかない。我々がただひとたびの人生の喜びをしつかりと感じようとするのを邪魔し、生命の尊さを軽んじてささやかな幸せを蹂躙するもの。それが政治的な主義主張やイデオロギーといつたものの正体であり、そこから逃れることなしに生の喜びを感じることはできないだらう。生きてゐることに喜びを感じ、そこに素晴しさを見出すのは、我々がひとりとして同じ人間ではないからである。人類、日本人、無産市民といつた名詞で包括するにはあまりに個別的な存在であり、ひとりひとりが輝くやうな生を抱いてゐるからである。それゆゑにひとりひとりを思ひやることなしにこの生のきらめきを感じることはできないのだ。
『二十一世紀に生きる君たちへ』のなかで司馬遼太郎が言ひたかつたのはかういふことにほかならない。主義主張による正義の時代、手触りのないものへの奉仕の時代はもう終つたのであり、さういふものを信じなくなつた二十一世紀には思ひやりによつて生きようではないか。これこそ筆者の伝へたいことだつたのである。
司馬遼太郎の生きた時代は、政治的な主義主張による正義の名のもとに信じ難いやうな悪が行はれた時代だつたと言へるだらう。全体主義といふ正義がこの作家を徴兵し、東亜主義といふ正義が彼を戦車に乗せた。裸眼の思索者と言はれた司馬遼太郎の視点が成立するのは、イデオロギーや主義主張の愚かさをかうした実体験によつて知つたからであり、彼は一生をかけてさういふものを否定し続けたのである。そしてイデオロギーや主義主張といふ抽象的なものへの奉仕に代る徳目として、思ひやりといふものを掲げて世の中の風潮と戦つたのにほかならない。
そしてその戦果として、私たち二十一世紀に生きる人間はもはや政治的な主義主張には騙されなくなつたし、その代替物として思ひやりといふ徳目が根づきはじめてゐるのである。ひよつとすると、作家の見ることができなかつた二十一世紀は素晴しい時代になるのかもしれない。
『二十一世紀に生きる君たちへ』といふのは、司馬遼太郎がさういふ未来へ託した希望のやうな作品である。
ジャンル別一覧
出産・子育て
ファッション
美容・コスメ
健康・ダイエット
生活・インテリア
料理・食べ物
ドリンク・お酒
ペット
趣味・ゲーム
映画・TV
音楽
読書・コミック
旅行・海外情報
園芸
スポーツ
アウトドア・釣り
車・バイク
パソコン・家電
そのほか
すべてのジャンル
人気のクチコミテーマ
気になるニュース&話題(Infoseekニ…
再販繰り返しても「即完売」のHIKAKI…
(2024-11-28 04:07:09)
ひとり言・・?
ビトアス マイパーフェクションⅠ(し…
(2024-11-26 06:33:22)
懸賞フリーク♪
味の素 休日だし
(2024-11-27 23:24:15)
© Rakuten Group, Inc.
X
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Create
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
評判のトレンドアイテム情報
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: