雪香楼箚記

桜のうた(1)



                                   後鳥羽院
     桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな


  桜の咲いている遠くの山は、山鳥のしだり尾のようなながいながい春の日に一日じゅう見ていても飽きない美しさであることよ。

  詞書きに俊成の九十歳のお祝いに後鳥羽院が詠んだ歌とあります。この歌の場合はその詞書きがたいせつでしょう。この歌におのずとあらわれているのはそこはかとないめでたさであり、師である俊成への敬意と祝意です。そのことがあるから、一首の春の歌として詠んでも豊かなひろがりを持っていると言えるのです。あかぬ色なのは、桜の景色であり、同時に俊成の歌でもあります。一代の詩宗、歌壇の雄と呼ぶには俊成はあまりに円満で穏やかな人でしたが、なんとなくそういう"おだやか様"とでも言うべき幸せそうなおじいちゃんの、しかしいまだ若さの途中にいる人間からするとかすかに退屈にも感じられるような(若いということは傲慢なのです)、そういうかるい反発までも含まれた肖像画になっているあたりもおもしろい。

  ながながし日もあかぬ、と言っても、それはおそらく単純に飽きないということではないのでしょう。一日中見ているとなんとなく満たされる。しかし満たされはするけれども決して満足はしない。もっと欲しいと人に思わせる。そういうなんだか不思議な魅力に満ちた存在。それが俊成なのではないか、桜なのではないか。「飽く」とは元来、もうこれでいいと満足するという意味なのです。飽かぬということは満足しきれない、もっと欲しいと思うことをさしています。しかしもっと欲しいと思うということは、ある程度その人のなかにそのものがあって、しかしそれでもまだ不満である、ということを指しています。決して何もないから欲しい、ということではないのです。心のうちにあふれるほどのものがあっても、それでもなお満足できないほどに美しいもの。後鳥羽院が飽かぬと言おうとしたのはそういう対象なのです。

  この歌の眼目は要するに「長い」ということに尽きます。春の日が長く、山鳥のしだり尾が長く、俊成の人生が長い。それがめでたさに結びつくのです。そのことは「ながながし日も」という句を読めばわかります。大野晋先生の説によれば、「も」は不確実なことを承ける助詞であるとされます。不確実の助詞なのですから、これを否定文で用いた場合には全否定になります。「ながながし日も」飽かぬ、ということは、「ながながし日は」飽かぬ、ということとは明白に違う。「ながながし日は」飽かぬのであれば、飽きる日がほかにあるということです。しかし「ながながし日も」飽かぬのであれば、それは、春の長い日も、そのほかの日も、あの日も、この日も(これがどれと決められない、不確実ということです)、いつでも飽きるということがない、という完全な否定となります。では、その否定の対象としてなぜ春の日が選ばれるのか。むろんのこと、それは春の日足が長いからなのです。それほど長い春の日に一日中見ていても飽きない、ましてや……、ということなのです。つまり、この歌が俊成に対する祝いの歌である所以は、もっとも直接的には「飽かぬ」の語があるからなのですが、その語は最終的には「ながながし」へと収斂する仕掛けになっている。不確実を明確に否定することによって、かえって「も」が上に承ける「ながながし」という語へと読者の視線を集める作用が、この歌の構造にはあるのです。

  めでたい席であればこそ、春のながい一日をあしらって後鳥羽院は俊成のために一首を詠んだ。そしてめでたさということは祝福であり、儀式であります。儀式であるということは、つきつめれば古代的な呪術であるということにゆきつく。例えば葬儀のような儀式であっても、それが儀式であるという意味においては本質的に呪術にほかなりません。しかし葬儀には悲哀といった実質的な感情がまとわりつくのに対して、九十のお祝いにはただめでたいという気分があるだけで、人間を生の感情に誘う強烈な衝動に欠けています。身につまされるような感情ではなくて、なんとはなしの気分が全体を支配する。そうしたとき、儀式は人間の心ではなく、儀式であるというその様式性によって支配され、その様式性となんとはなしの気分が、人を古代的な、牧歌的な呪術の世界へと導くのです。

  この場において詠みあげられなくてはならないのは、めでたさの実質ではなく気分であり、感情を生に流露させた文学ではなくて場に親和の心をもたらす呪文的な"歌"です。従ってその内容はどうしても古代的な、おっとりとしてこせかない、細かい内容はないけれどもなんとはなくめでたい気分にみちみちた、柄の大きな、悠揚迫らざる歌なのです。「桜咲く遠山」などというばかばかしいほど大ざっぱな描写はまさにその証左であって、しかし後鳥羽院の偉大さは大ざっぱであっても決してうつろではない、というその一事にあります。ちょうど歌舞伎の荒事のように、詠んでいる内容も、技巧も、じつに大ざっぱで、単純で、ある面から見ればこれほどばかばかしいものもない。けれども、一首のなかには詠手のふわりとした風情がやわらかく存在していて、それがこたえられない魅力を醸しだしている。気分と風情。それだけで一首を「読める」だけのものに仕立てあげられるちから。じつはそれこそが歌人の力量なのです。てらいも、気取りも、技巧もなく、正面切ってめでたいことをめでたいと言う。そのとき歌人が頼るべきものは、めでたいという大きな気分と、その気分をいかに魅力的に言いおおせるかという詠み口の風情の二つのみなのです。むずかしいといえばこれほどむずかしいものはない。これは技術を超えたところにある技術なのです。風情は作れるものではない。しかし優れた歌人ならかならずその歌からあふれ出ずにはいないものなのです。

  風情と気分だけで一首ができているという、その無内容さ。それが呪術的世界のおもしろさです。魔法の呪文は意味などわからなくてかまわない。ただ、今にも不思議なことが起りそうだという幻想を人に信じさせるだけの魅力がことばのなかにありさえすればいい。それが風情と気分なのです。例えば、「山鳥のしだり尾の」という序詞。これは「ながながし」を導くための魔法の呪文です。歌の内容にはちっとも関係ないし、現代語訳をするときに無視してしまっても歌の内容はきちんと伝わる。しかし、後鳥羽院がこの言葉を選び、読者に見せてくれるその手つきがじつに美しく、魅力的であるために、我々はこの序詞を捨てることはできないのです。意味などない。けれども、桜の山のどこかでしだれた尻尾のながい鳥がひょこひょこ歩きながら俊成を祝っている童話のように牧歌的な光景のなかには、言葉にはできないけれど、意味などなにひとつないのに、ただただ魅力的なものが横溢している。その言葉にはならない魅力こそが風情なのです。風情とは技巧ではありません。技巧を捨てて持ち味で見せるということです。そしてある意味にいてはそれこそが技巧の最たるものなのかもしれません。

  山鳥の呪文を思うとき、そこはかとなく記憶の水面に浮んでくるのは、グレン・グールドが晩年に弾いたモーツアルトのピアノ・ソナタ11番《トルコ行進曲つき》の第三楽章、トルコ行進曲の部分です。ホロビッツも、バックハウスも技巧を尽くした早弾きで挑もうとしたこの第三楽章をグールドはおそるべき機械的なテンポで弾きます。淡々と、壊れたレコードのような、運指の練習を見せるようなトルコ行進曲。しかしふしぎなことに、そこからなにかがものが生れてきます。なにが生れるのか、それはぼくにもわかりません。けれどもなにかが生れてくる。小さいころ、NHKにクラシック音楽を子供向けに紹介するテレビ番組があって、レパートリーが十くらいしかないミケランジェリ顔負けのその番組では、トルコ行進曲が出るたびに、画面では箱からたくさんのおもちゃが飛びだして行進を始めるアニメが流れることになっていました。あえていえばグルードがピアノのなかからひっぱり出してきたのはそういうものです。ブリキの兵隊がぎくしゃく動き、人形がトテチテと踊る。機械的なテンポであればあるほど、そういうふしぎがおこりそうな予感がふしぎと聞手の胸のなかにひろがってゆきます。奇妙な期待感、そしてかるい気味悪さ。人の手を離れテンポがテンポだけで独立してしまったような――機械的に、というのはある意味でそういうことです――魔術的な輪郭。それこそが呪文というものの持つ魅力なのです。たららららん、たららららん、たらららたらららたららららん……。意味を失って、人の手を離れてしまった音の連なりからおもちゃの行進がはじまるように、桜咲く遠山や、山鳥のしだり尾や、ながながし日のなかからなにかが生れてくる。なにかが。

  呪文は呪文であることに充足する存在です。ちちんぷいぷいには意味などない。内容もない。ただ音が音として存在しているだけなのです。しかし、そこにはふしぎな気分が満ちている。そのふしぎさが、この歌の場合、たまたまめでたさであるに過ぎません。また、めでたさであればこそ、ふしぎな気分がこれほどありありと手に取るようにわかる構造になっているのです。――しかし、その気分が手に取るように伝わってくるということは、別な面から言えば、この歌がいかに「なにもない歌」であるかということの証左です。退屈な、間延びしたような、けれども祝意に充ち満ちた歌。ちょうど結婚式のかなりの部分が退屈であるように、呪術的な儀式とその象徴である呪文は、一面から見ればその無内容さによって特徴づけられます。それは近代的な批評意識を持った人間にしてみれば、ばかばかしさであり、間延びした大時代なスローテンポであり、ぽかりと空いた空白の部分であると言えます。そして、おそるべきことに後鳥羽院はすでに十三世紀においてそのことに気づいていた天才でもありました。

  古来、天皇が歌を詠むという行為は天地自然に国土への恵みを求める呪術であり、その三十一文字こそが祭祀王としての天皇の呪文である、と考えられてきました。現在でも天皇が和歌をことに重んずるには、そうした民俗学的な起源に無意識のうちに誠実であろうとするためなのです。したがって、呪文である以上、天皇の歌はことに大ぶりでめでたい気分を持った、無内容で無技巧でもいいから(ということは下手でもいいから、ということです)、おっとりとした祝福の歌であるべきだとされ、折口信夫はこれを名づけて「帝王調」と呼びました。しかし、専門の歌人が登場し、次第に和歌が発達を遂げるに従って、帝王調とは逆の、呪術性から離れ、むしろ芸術性を志向する歌の傾向――それは同時に文学的な各種の技巧の深化をも意味しました――があらわれてきます。紀貫之に始まり、やがて俊成、定家によってひとつの頂点を見るこの傾向の歌は、例えば

                                 藤原俊成
     1) またや見ん交野のみ野の桜狩花の雪散る春のあけぼの

のような繊細巧緻で玲瓏とした輝きを持ったものであり(特に「花の雪散る春のあけぼの」という下の句の美しさを御覧ください。このような表現は「桜咲く遠山」とはまったく異ったレベルにあるものであると言えるでしょう。そのレベルの高下は別として)、その芸術性の高さからやがて時代の主流となってゆくことになります。

  後鳥羽院こそは、この、帝王調と玲瓏たる玉の輝きのあいだで、はじめて芸術的な煩悶を経験した帝王歌人でした。前述したとおり、彼は俊成の弟子であり、定家とともに新古今の新風(それはとりもなおさず帝王調へのかなり強烈な否定でもありました)を推進した歌人です。しかし同時に、彼は天皇として潜在的に帝王調の歌ぶりを学ばねばならぬ伝統のなかにも生きていました。その相克が、彼の歌をもっとも特徴づける要素であると言っても過言ではないでしょう。――後鳥羽院は批評のなかを生きています。彼は美意識においては新古今の歌びとであり、公的な立場としては帝王調の歌びとであります。その相反するふたつの意識が、例えば帝王調の歌を詠むときにさまざまなかたちであらわれてくる。歌人として、天皇として、彼は帝王調の魅力を認めてはいるのです。けれども、その一方で、新古今の歌びととしてその大ぶりな詠み口に対する不満をも感じている。歌人にして批評家でもある、いや批評家でもあらねばならなかった後鳥羽院のそういった複雑な胸中は、例えば

                                 後鳥羽院
     2) 見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となに思ひけん

     3) おのが妻恋ひつつ鳴くや五月闇神南備山の山郭公

     4) 思ひつつ経にける年のかひやなきただあらましの夕暮の空

のような作の独特の歌境に結実しています。これらはいずれも後鳥羽院調とでも言うほかはない、帝王調と新古今ぶりの融合――大ぶりな詠み口のなかに、例えば「夕べは秋となに思ひけん」「恋ひつつ鳴くや五月闇」「ただあらましの夕暮の空」といった新古今らしい繊細で小手の利いた玲瓏たる表現を織りなしている――した美しさで、後鳥羽院としての一つの到達点であると言ってもいいでしょう。もちろん彼には

                                 後鳥羽院
     5) ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山霞たなびく

のような純然たる帝王調の傑作もありますが(そしてこの「桜咲く」の歌もどちらかと言えばこれに近い)、しかしこういった歌においても、新古今歌人としての後鳥羽院が顔を隠してしまっているわけでは決してありません。帝王調の歌を詠むとき、後鳥羽院のなかにはやや屈折した批評家としての意識があります。例えば「ほのぼのと」「桜咲く遠山」という言葉。後鳥羽院にとってはおそらく、わかりきった、大時代な、間延びした言葉であったことでしょう。少なくとも新古今ぶりの言葉ではない。それをあえて使う。もちろんそこには使わざるを得ない後鳥羽院の事情もあります。彼は君主である以上、民を代表してそういう呪文を詠みあげ、自然に対して祈らなければならない。それが天皇という古代的な存在を十三世まで(あるいは二十一世紀まで)存在せしめた唯一の理由であるから。――しかし文芸批評家としての彼は、そういう大時代に間延びした言葉を使って、帝王ぶりを演じている自分に多少のてれのようなものがある。歌人としての天皇、批評家としての新古今ぶり。その乖離がかすかな精神のざわめきを生む。繊細な、微妙なざわめき。

  桜咲く遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな、という歌にあるのは、そうしたざわめきの色調なのです。彼が飽かぬと言うのは、春の日であり、俊成である。しかし同時にそれがみずからの帝王調にまで及んでいるようにぼくには思えてならない。帝王調ののびやかで大ぶりな、しかし間延びした牧歌的なあかるさは、そのまま春の日によって隠喩されているのではないでしょうか。我々はたとえばそのざわめきを「天の香具山」や「山鳥のしだり尾の」に聞くことができます。これらはいずれも

                                 持統天皇
     6) 春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すなる天の香具山

                                 柿本人麻呂
     7) あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

といった古い時代の歌に学んだ成果なのです。後鳥羽院はこうした言葉を用いながらもしかし、確乎としてこれらとは違う世界を作ってしまっている。香具山の歌も、桜咲くの歌も、持統や人麻呂の作と比べてみれば瞭然として判りますが、あきらかに作られた古代の世界です。たなびく霞のむこう側にやってくる春の気配、豪奢に咲きにおう桜の重苦しいほどの美しさ、これらはいずれも万葉の歌人たちが知らない歌境であり、同時に新古今の歌人たちによってその美しさが完成された題材なのです。例えば万葉びとは春の楽しさを

                                 山辺赤人
     8) ももしきの大宮人はいとまあれや桜かざして今日も暮しつ

としか詠むことはできませんでした。これに比べれば後鳥羽院の歌は、飽くというふしぎな感情を桜に対して抱こうとするじつに込みいった心を持っています。美しすぎて飽きることもできない。そんな複雑さは古代の歌にはありません。後鳥羽院の帝王ぶりはあくまで新古今歌人としての彼が幻想のなかで作りあげた古代であり、呪文なのであって、巧緻な彼はそのなかに自分の生きた時代にしかない美意識をこっそりとまぎれこませているのです。この歌において見落としてはならないのは、後鳥羽院のざわめく心が生みだしたそうした繊細な感じ方なのです。飽きるというのは本来不吉なことなのです。そうした不吉さを一瞬思わせ、しかるのちに否定させるほど桜は美しい、俊成の歌は美しい、と後鳥羽院は言う。そうした感じ方、捉え方こそが、彼が生きた時代の美意識でした。そのことは

                                 藤原俊成女
     9) 風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢

のような歌を見ればわかることです。この歌は、それをふしぎな呪文のなかに詠みこんでいる。ちょうどグールドが技巧の限りをつくして淡々とトルコ行進曲を弾いたように。

  細かく美しく描きこまれた友禅模様が春の霞にまぎれこんで、ぼんやりと古めかしい大ぶりな模様に見える。――その複雑さ、繊細さと、装われた稚拙さこそが、この歌のいのちなのです。




【引用歌註】

1)わくわくわか「またや見ん」の項参照。

2)見わたせば山の麓も春霞にかすむなかを水無瀬川が美しく流れている。古人は秋の夕暮れを賛美したが、なぜそのように思ったのかふしぎなほどだ。

3)妻を恋しく思って姿も見えぬ五月闇に向かって鳴いているのだろうか、神南備山のほととぎすは。ほととぎすは妻を想って鳴くという伝承がある。闇に鳴くのは恋に迷うことの隠喩。神南備山(かんなびやま)は、もともとは神のいます山という意味の普通名詞だが、ここでは奈良にある甘南備山のことか。

4)わくわくわか「思ひつつ」の項参照。

5)わくわくわか「ほのぼのと」の項参照。

6)春が過ぎ夏がやってきた香具山は、季節の移りかわったしるしに白い衣が干してある。天の香具山というのは、香具山が天から降ってきてできたという伝承があるため。百人一首に採られた歌。

7)山鳥のしだれた尾のようにながながしい夜を私はひとり寝するのか。切ない恋心を歌ったもの。百人一首に採られた歌。

8)宮仕えする人たちにどうしてあのような閑があるのだろうか、今日も桜の枝を手折って野山に遊んでいる。宮人の優雅さを詠んだ歌(官僚腐敗を指摘した歌にはあらず。笑)。「ももしきの」は宮の枕詞。山辺赤人は人麻呂と並ぶ万葉歌人。この歌は新古今集にも採られている。

9)わくわくわか「風通ふ」の項参照。


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