そうした文学観からすれば、この後鳥羽院の歌の、ことに下の句は写生なというものではありません。子規なら「嵐が白く、あけぼのが白いなどというのはウソだ」というところでしょうか。それは仕方ない。後鳥羽院はトルストイやモーパッサンなんか知らなかったし、また別に知らなくてもどうってことなかった。仕方がなくないのは、写生ということだけでこの歌がとらえきれるのかということです。嵐とあけぼのがひとつになってゆくそのむこう側で、言葉のうえに残るのは写生の緻密さではなく、なにかがひとときもとどまらぬ勢いで生起し、過ぎてゆくという実感です。リアルではない実感。目に見えず、手に触れることはできない。けれどもたしかにそう思わせる、そう確信させるちからづよさを、この歌の言葉のひとつひとつが持っている。それは子規ではなく、後鳥羽院であったから可能になったことなのです。決して逆ではない。緻密さを求めるさきにはこの歌はありません。それは自然主義あるいは写実主義の最終的な目標が、現実の再構成という点にあることを見てみればあきらかです。芸術とは端的に言うならばimitation of act(行為の模倣)でありますが、imitationとは単なる現実の再現ではなく、まがいもののことです。ジッドに『偽金造り』という小説がありますが、まさしく文学といういかがわしいこの行為は、まがいものをほんものであると信じさせるちからにほかなりません。嵐やあけぼのが実際にあるのではない。またそれをあると信じさせたいのでもない。むしろ後鳥羽院が狙っているのは、そのもうひとつむこう側にある、過ぎてゆくものの実感を人々に信じさせることなのです。子規は銅と鉄がここにあることを言おうとしている。後鳥羽院はそれを金貨だと信じさせようとしている。だからこそ単なる写生を離れた言葉の魔法が必要になるのです。