雪香楼箚記

桜のうた(5)


                                後鳥羽院
     み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけぼの



  吉野山の峰のあたりの桜はもう散ったのか、嵐までも白々と吹きすさぶ春の曙であることだ。

  一首としてこの歌は、いきいきとした動的な美しさ、いのちが生動するさまを剛直に描きだしたその深々とした味いに大きな魅力があります。ことに下の句には気品と気迫が満ち、もの怖じせずに「嵐も白き春のあけぼの」と詠みくだすことばの勢いにはなまなかではない歌の位があります。水は高きより低きへとながれる。言葉もまた同じこと。言葉のなかに高々とした品格があれば、人のこころのなかにひと息に流れこみ、満ちあふれる歌の水位が生れる。この歌の下の句は、そういうたけのたかさを持っています。読むものに息を継がせない。ひと息も継がせず、問答無用に歌のこころが心のうちにしみいり、溢れてくる。その胸苦しいほどの喜び、哀しさ。言葉のひとつひとつが触れれば切れるほどに張りつめている繊細さこそがその直接的な証拠です。後鳥羽院のうちにそれを可能にするだけのひりひりするような心のふるえがあるからこそ、読者の心がそれに感応するのです。

  それではこの歌の位とはいったい何であるのか。それには明確な答があります。動きです。動きそのものを詠もうとする心です。それこそがこの歌のすべてであると言ってもいい。下の句の十四音のなかにあるのは、もはや叙述ですらない。目の前にある光景を言葉によって写そうという意志はすでに放擲されています。写生でも、観察でもなくて、ここにあるのはただ動きであるにすぎない。嵐も白き春のあけぼの。ただそれだけ。嵐があって、あけぼのがある。あるということを言おうという気持すらこの歌にはなく、ただ嵐とあけぼのという言葉を歌の彼方と投げつけている。造形ではなく描線が、フォルムではなく色彩が、ただ描線として、色彩として画面のなかに生きている。もしそういう言い方が許されるのであれば、この歌は一種の印象主義です。言葉が綿密な描写から離れて、ひと筆書きの勢いのなかで生動している。描写は極限まで省筆され、ただ一陣の風のようなものがその内側からただよってくる、その清冽なたたずまい。

  下の句においてもっとも見るべきなのは、嵐も、という助詞です。モという助詞は王朝の和歌にはよく登場しますが、なかなか用いかたがむずかしい。イメージ過多で印象が曖昧になってしまいがちなのです。モ。もとは疑問詞を承ける助詞であり、不確実な話題(上接語)について説明を行う(下接語)ことがその本義です。そしてその不確実性を言う性格から発展して、あれもこれも、と並立や類例を暗示する用法が生れました。この歌のモはまさしくこの類例を暗示するモです。白いのは嵐だけではない。そのほかの描写の余白にある「白」を類推させるはたらきを、歌人はこの助詞に込めているのです。このことがまことにすばらしい効果を上げている。

  すでに述べましたように、王朝びとは桜の花の色を白だと考えていました。これは彼らの視覚にどううつっていたか、あるいは彼らが日常生活でどう考えていたかということとはやや無縁のことでありまして、あくまでも歌のなかではそう考え、そうとらえるのが作法であったということで、おそらくは漢詩に影響されたことなのでしょう。漢詩文に登場する花はたいがいが梅か梨、李のたぐいで、いずれも白い花なのです。この歌では、そうした王朝の和歌の常識を踏まえて、まず桜に染めあげられた嵐を白いと言っています。これは宮内卿の「花さそふ」の歌を見てもわかるように、まず常識的な趣向です。常識的であり、いささか理屈でもある。桜の花が白い、だから嵐も白い。しかしそこには生き生きとした気韻が生れます。嵐のなかに万朶の桜の花が散る。ことに上の句の終りが「散りにけり」であるところに深いこころがあります。ケリは歌のなかで使えば感動を示す助動詞ですが、本来は起りつつあったことがすでに終了し、今それが終了したことに気づくことを言うための働きを持った言葉です。今、桜が散ったことに気づいたよ、嵐までもがまっしろになってしまっているから。気づきの感動が「嵐も白き」という理由であり、理屈である部分の前にあって、しばしの空白を作っているために、理屈が理屈くささを逃れている。散花のへの感動と、眼前にある嵐の光景の描写が、理屈でつながりながら、ひとつひとつ別々にあるかのような、つかずはなれずの距離感を持っている。だからこそその余白のなかで「嵐も白き」という動きが充分に生きるだけのものが生れてくるのです。理屈が理屈として繋がるのであれば、それは描写ではなく、単なる理由であって、人はそこにイメージを読むことができない。ケリという一句が歌の上下を切断することによって生れる余白が、下の句に描写としてのいのちを与えているのです。だからこそそこには生動する花のイメージが生れる。

  そしてもうひとつ、この歌はふしぎなものを「白い」と言う。すなわち春のあけぼのがこれです。なぜなら、「嵐も白き」の白きは形容詞の連体形ですので、この場合結びの「春のあけぼの」という句に掛ります。つまり春のあけぼのの修飾あるいは描写として、この歌は「嵐も白き」と言っている。このことには二つの意味があるのですが、ともかくも今触れておかなくてはならないのは、作者が春のあけぼのについて「嵐モ白き」と言っている点です。先にも述べたように、この歌は三句でケリという助動詞を用いていますので、歌はいちどそこで切れている。折口信夫ふうに書けば、

     み吉野の 高嶺の桜、散りにけり。嵐も白き 春のあけぼの。

ということです。したがって、下の句は下の句で一つの文を作っていることになり、春のあけぼのと嵐モ白きはこの点においても密接に結びついています。白きは決して高嶺の桜についてだけのこととは言えない。むしろそれはあけぼのの色を言うための言葉でもある。新古今の歌のむずかしさは、一つの言葉を一つの意味、一つの修飾―被修飾関係に限定できないことにあります。掛詞のようなあきらかにそれと知れるような場合においても、あるいは読手の意識の裏側で誘い水のようにイメージがイメージを呼びさますような場合にも。言葉とイメージは無限にひろがってゆき、そこにまた新古今ぶりの美しさやあやしさ、かぐわしく艶麗なこころが生れてくるわけなのですが……。ともかくもこの歌は、月が隠れ、日がのぼりはじめるまでのわずかなひとときの光の色。それを白いと言う。これは和歌のなかではあまり例のないことで、いささか異風であると言ってもいいかもしれない。しかし後鳥羽院の感覚の繊細さが痛いほど伝わってくる言葉の選び方であることは間違いありません。アカツキが夜が明け方に向かってゆくころを指していわば夜の終りを言うのに対して、アケボノは朝のはじめ、日はまだのぼらないけれど、もののかたちがうすく目に見えはじめるころを言う言葉です。暁暗のいろ。水の底に沈んだような、ふしぎな景色。そのはかなくもろいひとときのいろを言うために、おそらく後鳥羽院はどうしても白いという言葉を用いなくてはいられなかったのでしょう。触れれば壊れてしまいそうな日のいろを美しくとらえた言葉です。にび色でも、薄墨いろでも、鴇色でも、桜色でもない、白。そこに感覚というものがあり、歌びとのこころというものがあるような気がします。それだけでもこの歌は美しい。

  しかし、後鳥羽院の尋常でなさは、その暁暗のいろを用いてさらに歌を一回転させているところにありましょう。これが二つめの意味です。あかつきが白という色彩によってあらわされるとき、花の嵐の光景はそのまま暁暗のいろのなかに溶けてゆく。ふたつはひとつのものとなって、後に残るのはただ白々と目の前を過ぎさってゆくなにものかです。この歌の下の句がどこか幻想的で、現実感のない抽象的な描写であるのは決して理由のないことではありません。もともとこれは、嵐を、あるいはあけぼのを緻密に描写するために用意された言葉ではないのです。――写生は子規によって和歌のなかに取りいれられた概念であり、その淵源は十九世紀ヨーロッパに流行した自然主義、写実主義のながれにありました。そこをさらに遡ればルネサンス絵画の近代的な写実性に行きつくこともできるでしょう。レオナルド・ダ・ビンチがそうであったように、ルネサンスの絵画は単なる芸術表現ではなく、対象を分析し、観察をとおして、そこにあるがままのすがたを画布のうえに再構成するという、科学的な側面を持ったものでありました。自然主義や写実主義は、そうしたルネサンスの一側面を拡大し、そこに人類の科学的進歩という命題を重ねあわせて成立したものであり(西欧史においては近代はルネサンスから出発するのです)、基本的には明治以降の日本もこうした西欧的な概念を取りいれることで近代社会としての第一歩を踏みだしています。子規が写生をやかましく言ったのは、そうした近代化=西欧化する社会のながれのなかで、歌や俳句といった古い詩形が取りのこされてしまうという危機感を持っていたからであり、むしろ写生の具としてこれらの詩をとらえなおすことによって、例えばモーパッサンやトルストイのような文学とも比肩しうる文学へと――それはとりもなおさず、社会のなかで文学が一定の価値と意味を持った存在になる、ということでもありました。ついでに言えば、最後までその確信を持てずに懊悩したのが子規の親友であった漱石という人です――その内容をあらためてゆくことができる、と考えたからです。

  ですから子規における、あるいは近代短歌における描写は、それ以前の叙景や叙情とは本質的に異なっています。医者が癌細胞を観察するように、植物学者が新種の花の細密画を描くように、無機質で緻密な眼ざしによって対象を細かく分析し、観察し、そこから全体像を再構成すること。あたかも歌のなかにそのものがあるかのように。それは『最後の晩餐』のキリストが神々しさよりも、人間としての卑小さ、生々しさ、そしてなにより中世絵画のキリストとは異なって「画面のなかに人がいる」というリアルさや迫真性を持っている点において際立っていることに繋がっています。ただ、ルネサンスにおいて再現性(現実にあるように作品のなかにあらしめる)は芸術の一部分にしか過ぎませんでしたが、十九世紀のヨーロッパ、そしてそれを受けついだ日本にあっては、すでに時代のなかから再現性優位の潮流が生れてきていたのです。近代短歌もまた、その例外ではありません。彼らが目指したのは

                                正岡子規
     1) 瓶にさす藤の花房みじかければ畳の上にとどかざりけり

                                斎藤茂吉
     2) 最上川逆白波の立つまでにふぶく夕べとなりにけるかも

という歌境であり、こうした流れのなかにあっては

                                北原白秋
     3) 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとく降れ

のような歌は永遠に傍流でしかありませんでした。白秋の歌の「林檎の香」は、雪であり、さらには君でもあります。この歌の君は人妻で白秋は彼女との恋のために逮捕されてしまうのですが(姦通罪という罪がまだ日本にもあったころのお話です)、それはともかくとして、林檎の香に例えられる人が、歌びとの恋ごころの対象として描かれていることはこの歌を読めばすぐにわかる。林檎の香はさらに恋の寓喩でもあるのです。ひとつの言葉が曖昧にイメージのなかでたゆたっている。その曖昧さ、ひろがりのなかに歌のいのちがある。しかし、そうした歌は決して高く評価されることはなかった。それだけならまだしも、人は子規や斎藤茂吉のような短歌観によって古今や新古今を裁断するようになったのです。貫之は下手な歌人にて古今集は下らぬ集に御座候――。

  そうした文学観からすれば、この後鳥羽院の歌の、ことに下の句は写生なというものではありません。子規なら「嵐が白く、あけぼのが白いなどというのはウソだ」というところでしょうか。それは仕方ない。後鳥羽院はトルストイやモーパッサンなんか知らなかったし、また別に知らなくてもどうってことなかった。仕方がなくないのは、写生ということだけでこの歌がとらえきれるのかということです。嵐とあけぼのがひとつになってゆくそのむこう側で、言葉のうえに残るのは写生の緻密さではなく、なにかがひとときもとどまらぬ勢いで生起し、過ぎてゆくという実感です。リアルではない実感。目に見えず、手に触れることはできない。けれどもたしかにそう思わせる、そう確信させるちからづよさを、この歌の言葉のひとつひとつが持っている。それは子規ではなく、後鳥羽院であったから可能になったことなのです。決して逆ではない。緻密さを求めるさきにはこの歌はありません。それは自然主義あるいは写実主義の最終的な目標が、現実の再構成という点にあることを見てみればあきらかです。芸術とは端的に言うならばimitation of act(行為の模倣)でありますが、imitationとは単なる現実の再現ではなく、まがいもののことです。ジッドに『偽金造り』という小説がありますが、まさしく文学といういかがわしいこの行為は、まがいものをほんものであると信じさせるちからにほかなりません。嵐やあけぼのが実際にあるのではない。またそれをあると信じさせたいのでもない。むしろ後鳥羽院が狙っているのは、そのもうひとつむこう側にある、過ぎてゆくものの実感を人々に信じさせることなのです。子規は銅と鉄がここにあることを言おうとしている。後鳥羽院はそれを金貨だと信じさせようとしている。だからこそ単なる写生を離れた言葉の魔法が必要になるのです。

  嵐も白き春のあけぼの、という下の句に至って、言葉はもはや意味を離れ(意味を離れられなければ嵐とあけぼのが「白い」という言葉において重ねあわせられることが可能でしょうか)、嵐が過ぎさるのでも、あけぼのがうごくのでもなく、ただ無名の、具体的なあるいは個別的な名を持ちえぬ、名によって限定され縛られることを厭う、ただ抽象的な「動き」のかたまりが歌の奥で息をひそめている。これはもはや嵐でも、あけぼのでも、ましてや「白き」でもない。ひとつひとつのモノではなく、あるコトを言うためのことばなのです。すべてのものが、ひとつの奔流のなかで生れ、育ち、過ぎさってゆく。その生動するちからと動き、勢いを言わんとするがためにこの下の句がある。あえて言うならば、嵐も白き春のあけぼのという言葉のむこう側に歌人が込めようとしているのはそうした思いなのです。――そこにあるのは分析し、観察し、再構成することではなく、むろんのこと写生でもありません。むしろ、あるものを他のものから弁別するための輪郭線を「白い」という強烈な照明によって飛ばし、あえて嵐とあけぼのの境界を溶かすことで、個別性を越え、抽象的な生きものの動きを描こうとするこころです。そしてそれは同時に、一切の解釈を拒んで立ちつくすなにものかでもあります。もはやここには散花への哀しみさえ残されてはいない。むろんその豪奢さに酔っているわけでもないのでしょう。ただ、花が、嵐が、あけぼのが、あるいは春そのものが、このわたしの目の前で生れ、過ぎてゆこうとしているという、そういう歌人の感慨のようなものがけが、ただしろじろと歌のなかに残る、そのふしぎな趣。かつて小林秀雄はモーツアルトを評して、「モーツアルトは疾走する。涙も追いつけないほどに」と言いましたが、むしろその言葉はこの歌の後鳥羽院に相応しい風情であると言うべきではないでしょうか。生きているものが、生れ、過ぎてゆくというその疾走のなかで、花を惜しむ涙さえ追いつけない。それほどはやく、すべてのものは過ぎてゆく。だからこそ、この歌は読手に息もつがせぬ勢いで流れこんでくるほどのちからを持っているのです。アレグロで心のなかにすべりこんでくるひびき。

  この歌のおそろしさは、白きのひと言が歌のすべてを覆っている点ではないでしょうか。たけのたかい、位のある、と言えば、この言葉ほどそうであるものはない。歌がこのひと言のなかに収斂してゆくような、そんな錯覚さえ抱かされます。そしてその「白い」という言葉のなかで、嵐も、あけぼのも、春も、桜も意味を失ってゆく。それがなにであろうと、ただ白く、ただ過ぎさってゆくものとしてとらえられてしまう。そこにこの歌の玄妙な風情と、ついでに言うならば後鳥羽院の歌人としての罠があると言っていいでしょう。画面はただ白さに覆われ、白いものが無言で、意味もなく過ぎさる光景へと溶けてゆく。なぜそれがうつされているのか。それはなんなのか。そんな質問が意味を失ってしまうとき、人は実感せずにはいられないのでしょう。――すべてのものは過ぎてゆく、と。

  1221年、後鳥羽院は倒幕の兵を挙げ、謀敗れて隠岐に配流されました。世に言う承久の乱がこれです。時に院、五十二歳。以後崩ずるまで八年間、絶海の孤島にあって歌だけを心のなぐさめとして暮しました。陵は今でも隠岐に残っています。つれづれの日々に多くの歌稿を残し、ことに、

                                後鳥羽院
     4) 我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け

は一代の絶唱とも言うべき佳品ですが、それ以上に我々にとって大きな遺産となったのは、新古今集からさらに千六百首あまりを精選した隠岐本新古今集(新古今抄)を院が手ずから撰したことです。折口信夫は新古今集の実質的な撰にあたったのが後鳥羽院自身であったことを重視して、隠岐本はさらにそれを抄したものであるから新古今の精髄であると考えていましたが、そこまででなくとも、後鳥羽院の鋭い審美眼を見るには絶好の資料と言うべきです。その隠岐本においては、この「み吉野の」の歌は除かれています。今となっては理由を詮索することは不可能ですが、思うに、この歌のあまりにもたけのたかい下の句に対して、上の句――特に初句、二句――の影のうすさというか、ひびきのよわさが気になったのではないでしょうか。もしこの歌に難があるとすればおそらくそこらあたりであると思うのですが、しかしぼくなどの目には、それでいて採らざるを得ない魅力を持った作のようにうつります。





【引用歌註】

1) 瓶にさす藤の花房が短いので畳の上にとどかない。子規の病床句のひとつ。

2) 最上川に逆白波が立つほど、ふぶく夕暮れとなったことだ。逆白波は"さかしらなみ"。川下から吹きつける風で川面にはげしい波ができること。作者の造語であるとも言う。斎藤茂吉は子規の弟子であった土屋文明に兄事し、子規系統の「アララギ」派を代表する歌人でもある。

3) 君を帰らせる朝の敷石に、雪よ、林檎の香りのようにさくさくと降れ。白秋は歌にも優れ、「アララギ」派と対立する「明星」派(与謝野鉄幹、晶子が主催した雑誌)の有力な歌人であった。この歌は白秋一代の傑作として知られる。

4) わたしこそはこの島の新たな島守だ、だから荒々しい隠岐の海の沖の風も心して吹くのだぞ。流人が心細く風にむかって哀願する歌、という解釈もあるが、むしろ王として森羅万象に命令するちからづよさを表現した歌ととるべきであろう。


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