島根県民 政治を語る 2

島根県民 政治を語る 2

堀尾吉晴の基本情報

初代松江藩主・堀尾吉晴公堀尾吉晴

 現在の愛知県丹羽郡の土豪の家に生まれ岩倉城の戦いに16歳で初陣。岩倉落城により浪人になり、その後猟師暮らしをしていましたが美濃の山中で木下藤吉郎に出会いその家来になりました。
 このように若いころ苦労した吉晴は 長く辛い下積み時代を送ってきた芸人 がそうであるように、非常に温和で威張り散らすことがなく 「仏の茂助」 と称されるほどの人格者であったようです。

 その一方、いざ戦となると 普段のうっぷんを晴らすかのように 勇猛果敢な武将へと変身。
 越前一揆軍との戦いでは殿を務めながら一揆勢を討ち取って秀吉から「鬼の茂助」と賞賛されたり、現代の貝塚市の戦においては一騎で鉄砲の総攻撃を受けながらも敵方の兵を通さなかったりと猛将としてのエピソードが多く残っています。
 特に吉晴の戦勝の報告を受けた織田信長が「茂助は毎度のこと(だからいちいち報告しなくてよろしい)」と語った話などは ドイツに留学した若林君が大空翼に「お前が試合に勝ったという話は聞き飽きた。負けた時にだけ教えてくれ。」という手紙をよこした エピソードを思い起こさせます。
その華麗な変身ぶりを見ていると 『魔法大名 マジカル☆茂助』 とかいうタイトルでアニメ化されても不思議じゃない印象さえ覚えます。

 関ヶ原の戦いの後、堀尾吉晴は出雲二十四万石に加増移封されます。
それまでの出雲地方の中心は尼子氏の居城として有名な天下の堅城富田城でした。
 しかし、城地面積が狭く、交通の便も悪く、出雲東部に偏りすぎていたため今後訪れるであろう泰平の世には向かないということで宍道湖と中海を結ぶ大橋川の周辺を新たな城の候補地に選びました。

 吉晴は中でも特に洗合山を適地だとしました。
洗合山は宍道湖の北側にある切り立った山で、現在は南平台という住宅地になっています。攻め辛く、仮に攻められても宍道湖を使って輸送、移動が容易に行えるという利点があり、職業軍人たる吉晴らしい目のつけ方だと言えます。

 ところが、それに対し息子の忠氏が適地として挙げたのは洗合山の東方にある亀田山です。
 ここは周囲を広い平地に囲まれた低い丘陵で、宍道湖、大橋川にも近いという立地で、交通の便は非常にいいのですが軍事拠点としては富田城、洗合山に一歩も二歩も劣るものです。
 おそらく忠氏は政治拠点としての築城構想を持っていたのだろうと思われます。
 これは平穏な時代を前にして純粋な軍人ではなく半政治家としての武将が多く現れはじめていたことの証左ではないでしょうか。

 忠氏がこのまま永らえていれば初期松江藩を代表する名君となったかもしれませんが、実際は築城候補地が決定される前に病死してしまいました。


松江城松江城


 堀尾吉晴は息子の霊を慰めるためか、「政治的要地」亀田山に 松江城 の築城を決定、開始しました。
 もとより普請上手の名をはせた吉晴です。

 全国で現存する内、面積で2位、高さで3位という立派な天守閣を持った松江城を突貫工事で作り上げます。
ですが、指揮をしたのは生粋の軍人たる吉晴。出来上がった城は全国でも有数の「戦闘的な城」でした。各所に設けられた銃眼、袋狭間や石落し、籠城戦用の井戸や蔵など、忠氏が思い描いたであろう「政治的中心地」としての城とはいささか異なっていたかもしれません。

 忠氏の死後、家督は孫の堀尾忠晴が継ぐこととなりましたが、忠晴はまだ九歳という幼年だったため、吉晴はその後見役として死ぬまで執政に当たりました。




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