涙の理由



 不覚にも涙がぽろりと転がった。
 それはどうすることもできない感情だった。
 泣きたいとか悲しいとか、そういうものとは異質のものだった。
 どこか条件反射的で、わたしという固体から離れたところにある人格が、図らずも反応をしてしまったかのような、説明のつかないそんな心の作用だった。

 受け取った紙コップは、握った感触が手のなかで頼りなく、思わずビールをこぼしそうになった。あわててデッキチェア付属のコップ置きに一度収めて持ち直した。
「はい、乾杯」
 長女が紙コップを差し出した。
「なんだか頼りないコップだね。こぼれちゃいそう」
「しかも七百円。高かった」

                  ☆

 前日の美容院で長女のと二人分支払って、わたしの財布の中身は乏しかったし、彼女の財布は元より数千円しかなかったのに、陽気に誘われて街に繰り出した。
 元町をゆっくりウインドウショッピングして山下公園通りへ出ると、緑が濃くなった並木の隙間から、きらりとひかる海が見えた。
 「海を見に行く?」
 山下公園の方に視線を流した。
 「ううん。それより同じ海を見るなら大桟橋のデッキからがいいな」
 「そうね。じゃあそうするか」

 同意しながらも、新しい靴の革が硬いせいで圧迫された右足のタコの激痛に耐えられるかと心配だった。足をぎこちなく引きながら、大桟橋へと歩いた。
 途中のホテルのテラスからは香ばしいコーヒーの匂いがして、思わず鼻をぴくつかせた。
 「お金がないから無理だね。ホテルのコーヒーはチャージ込みだから、それだけで大枚が逃げて行ってしまうものね」
 「だけどお腹がすいたね。何か食べようよ」
 「財布の中身から言えば、せいぜいハンバーガーだねぇ」
 「じゃこうしない?大桟橋のデッキでまず海を眺めながらビールを飲むのよ。その後余ったお金で食べられるものを食べよう。最悪はハンバーガーもありってことで」
 「うん、うん。それでいこう」

 なだらかな丘が海へと伸びている。
 大桟橋国際客船ターミナルの送迎デッキに辿りついた。
 もう何度か訪れているので、デッキで販売している屋台の場所も心得ていた。そこへ向かう途中の、レストラン船・ロイヤルウィングでは、結婚式の最中だった。海と空がどこまでも青く、生まれたてのカップルの門出には、最高のシチュエーションがデッキから垣間見えた。ちょうどその時、目の前で白と青の風船が放たれた。まるでシャボン玉のように青空に浮かび、結婚式は宴もたけなわの大歓声が上がった。

 この場所は、なぜか鯨を連想させる。送迎デッキは巨大な背中を歩いているみたいだし、建物の中に入る時はお腹に飲まれたような、そんな妙な感覚があって、わたしは大好きなのだ。

oosanbasi

                   ☆

 「連休はどうする?お父さんに会いに行ってあげる?」
 不安定な紙コップに気遣いながら、ビールを少し口に含んだ。
 「まだ決めてないけど、お父さんからは旅費を送るから来ないかってメールをもらった」
 「そう。それで?」
 「まだ決めてない。でも父さんの本心は母さんを待ってるのよね」
 そう言いながら、携帯のメールを開けて差し出した。
 わたしは、紙コップを戻して長女の携帯電話を受け取った。指示されるままに画面をスクロールして一気に読んだ。
 「別に母さんの名前なんか出てないじゃない」
 「元家族で花見をしたいっていうのは、当然母さんも入っているよ。それじゃ次のメールを見て」
 長女は、携帯を手早く操作して、再びわたしに渡した。
 「お袋と暮らしてみて、初めて自分の母親ながら暮らしにくい人だと知った。もっと母さんの話を信じてあげればよかった。今となっては遅いけど、母さんには可哀想なことをしたよ。実の親だからついお袋の言い分を聞いてしまったんだよなー。だから母さんが来なくても仕方がないけど、皆で来て欲しい。後どれくらいの命か分からないけど、元の家族で花見がしたい」

 そのメールに、わたしの中のどこかが反応したのだ。
 MM21の観覧車がランドマークタワーと重なって、不思議な風景をかもし出している。そして、インターコンチネンタルホテルとの間の夕陽は、今まさに沈もうとしていた。
 ビールの味は失せ、先ほどまでの爽やかな海風は、わたしの心を急速に冷やし始めた。
 「でも、あたしには母さんを説得できないからって、伝えてあるけど」
 長女のトーンも、幾分かダウンした。
 最初の涙に続いて、はらはらと頬を伝った。
 「泣かないでよ」
 ぽつりと言った。
 返す言葉も、涙を説明する言葉も、わたしの中には用意がなかった。
 何が悲しいのか、苦しいのか、辛いのか、分からなかった。
 わたしの中の内面と対峙していても、いつもここら辺で行き詰ってしまうのだ。理由も原因も何もかもが不明で、ぐじゃぐじゃになってしまう。
 ものすごい勢いで抵抗する何かは、憂鬱で情けなくて、理性が止まってしまって、やっぱり少しは辛いのかもしれない。

 命の期限を切られている別れた夫。
 誰が普通に考えてみても、見舞ってあげるべきだろう。
 でも、そうしなければと思った瞬間、わたしは深い穴にすとんと落ちてしまうのだ。
 連休は、もうそこまでやって来ているのに……。




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