運命

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特別活動動






次にあげる3つの課題について、教科書「生徒をめぐる権利と責任の法的検討」の様々な考えを自分の考えと対比し、それにたいする論評を述べる。3つの課題とは、「学校に部活動は必要か」、「生徒に学校を休む権利はあるのか」、「生徒の自己決定権について」である。まずは、「学校に部活動は必要か」からみてみることにしょう。
 私は中学、高校と6年間陸上競技の部活動に所属していた。そのため、「学校に部活動は必要か」という問いに関しては絶対に、必要不可欠なものだと考えている。そこで部活動の良い点をみてみよう。学校における部活動とはどのようなものかと考えたときに、部活動は人間を成長させるための大きな役割を担っているのではないだろうか。なぜなら部活動には多くの点で人間として成長させることがある。例えば、部活動に入部すればかならず先輩がいる。先輩と接することにより言葉遣いをはじめとした上下関係を学ぶ。また、先輩からは同級生にない新しい刺激をうけ、社会の視野が広がるだろう。また、先輩の友人とも知人になったりし交友関係も広がる。そして、1年たてば後輩も入ってくる。そこでは、指導力やリーダーシップなどが学べる。しかし、いいことばかりではない。教科書にもあるように、部活動内でのイジメはやはりある。特に体育会系では教育といって暴力を振るうこともよくある。部員同士のいじめに加え顧問による教育方法にも問題があることも多い。また、暴力のいじめ以外にも部活動に力を注いでいる部活では、テスト前であったとしても夜遅くまで部活をさせるといったような、学業面にも影響がでることも少なくない。部活動にはプラス・マイナスの両方の面がある。「学校に部活動はひつようか」私自身は本当に部活を通して成長さしてもらった。そのため、私自身は絶対に必要だとおもっている。しかし、悲しい事件もあとを絶たない。みんなで悲しい事件がおきないように考えみんなで直していけば本当に部活動は良いものである。学校に部活動は必要である。
 次に、「生徒に学校を休む権利はあるのか」である。社会に出れば休むのは休暇という立派な権利である。しかし、生徒は授業料を払って学習することが目的であって、働いている社会人の休暇権とは、本質的に異なる。したがって、生徒が学校を休む権利はおかしいと、多くの父母・先生は考えている。確かに間違ってはいないと思う。学生は毎日学校に行くべきだと私も考えている。学校に行くことにより学問だけでなく、社会性、人間性も大きく成長するからだ。では、話は変わるが宗教上の理由による休みはどうなのだろう。日曜日に授業参観が行われるとこは多い。キリスト教にとって日曜日は休息の日である。そのため、日曜日の授業参観を欠席した。そのため、指導要録に欠席と記載された。そこで、両親は法律〔憲法第20条1項・教育基本法第9条1項〕に違反すると、欠席の取り消しを裁判所に求めた。裁判所は欠席の記載取り消しを却下し、損害賠償は棄却した。このように、宗教については裁判で日本全国で争われている。しかし、認めてしまえば収拾がつかなくなるのは明らかである。日曜日だけならまだしも、平日にも行われるようになったら学校の運営にも関わってくる。また、日曜日だけでも認めてしまうと、宗教に入っていない生徒との間に差が出てくる。私自身、宗教に入っていないため、このような問題に直面したことがない。そのためか、宗教による欠席は認められない。また、多少学校を休んだところで特に影響があるとは考えられにくいからである。また、前にもでてきたとおり認めてしまうと収拾がつかなくなる恐れがあるからだ。いままでは学校を休むことについて見てきた。次は授業についてみてみよう。宗教上の理由で、剣道ができないので他の種目で代替してほしいと言ったが、学校が受け入れなかったので留年し退学になったという事件がある。この事件教師側に配慮があればこんなことにはならなかった。宗教というのは信じている人と信じていない人では大きく考え方が違う。一番わかりやすいのは「味の素」の事件ではないだろうか。イスラム教以外の人には、なんでそんな問題なのかといったところだろう。さっきの事件もそれと同じである。これからは、グローバルの時代である。日本にも様々な宗教が入ってくるだろう。このような問題もこれからおきるだろう。そのときは教師が理解し、代替処置というものを考える必要がおきるだろう。また、そのような生徒がいれば、宗教問題やなぜそのような生徒がいるのかを、一人一人が考える絶好の機会ではないだろうか。
 次に「生徒の自己決定権」についてみてみよう。1996年3月、群馬県立桐生工業高等学校で松本先生が生徒会誌に、定年を前に教師生活などを振り返った回想文「40年の回想」を寄稿した。ところが同年4月、校長は、回想文の内容が生徒会誌にふさわしくないとして、新入生に配布する280部について、回想文の部分を生徒会顧問に切り取らせた。松本先生は校長先生に対して再三にわたりその説明を求めたが要領を得ないので、前橋地栽に提訴した。この事件についてみてみよう。校長先生が松本先生の回想文を切り取らせた理由は不適切な部分があったからだ。その不適切な部分とは「現場は勤務評定は戦争への一里塚ととらえ勤評反対の斗争が全国に広がり、東の群馬・西の高知と云われた。私も群馬県立高等学校教職 組合に結集し勤評反対の輪の中に入った。(中略)安保条約の危険性は35年前に指摘されたものだが、現在となって沖縄の基地、日本のいたるところにある米軍基地問題はこの安保条約があるからだ。」という部分だ。たしかに生徒会誌に載せる内容ではないかもしれない。なぜならこの問題は今でも数多くの論争があるからだ。それに加え松本先生の回想文にも問題がある。「これは私の見解ですのでみなさんは参考までに読んでください」と一言但し書きをすれば問題なかっただろう。「やめるべきである」というふうに書いてしまっては載せるべきではないかもしれない。但し書きがしてあれば問題ないとおもうが。しかし、教科書にあったように、切り取ってしまうのではなく、掲載して松本先生の文章を読み皆で考えたり話し合っていくほうが大事だろう。世の中にはさまざまな考え方の人がいる。それを考える絶好の機会ではなかったのだろうか。生徒にも知る権利はある。歪んだ事実を教えるということになりかねなないが、そのことについてどうして歪んであるのかを考えさせる必要があるのではないか。今日の情報化社会、さまざまな情報が飛び交っている。その中から自分にとって必要な情報をピックアップする能力はこれから先、必要になってくる。なにもかもを鵜呑みにするのではなく、これからは自分で考え自分で決めなくてはならない。この事件もみんなに考えさせればよかったのではないか。生徒に問い掛ける教育がもっと必要になってくるだろう。




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