羊の墓場

羊の墓場

森の端

   森の端


 学童保育のすぐ向かいにあったスーパーマーケットに、小学一年生だった私は友人に連れられて入った。彼女の後にくっついて、リカちゃん人形の小物が並んでいる棚に囲まれていた。人形の靴があったのは、120cmを少し超えるくらいの背だった私たちの目線のすぐ下になる段だ。子ども向けの玩具を売っている店は私たちには恰好の遊び場だったが、彼女は遊ぶために此処に来たのではなかった。
「欲しいのないん」
 彼女は訊ねた。
「ない」
 私はそう答えた。彼女は何を言うでもなかった。その手の中に小さな人形の靴がある。ゴムで出来た柔らかいピンク色の――
「あたしはこれ」
 言葉を探しあぐねながら、私は怖いものが来ると感じていた。手足は震えておらず、声も震えてはいなかった。けれど、この時確かに怖い何かがあった。
「いいの?」
「いいの」
 彼女は強く言いきって店を出る。いつもより強調された笑顔だった。私もその後を追い、棚の間を抜けて振り返った。誰も私たちを見ていなかった。
 一緒に帰る一分ほどの道で、彼女は秘密だと言ったかもしれないし言わなかったかもしれない。彼女の父親が私たちの町では顔の知れた人で、娘が万引きしたなんて世間に知れたら困るだろう。六歳の私はそんなことまで考えなかったけれど、彼女はわざと口止めしなかったのかもしれない。そして私は彼女の期待を裏切って、誰にもこのことを言わなかった。
 たぶん万引きという言葉は知っていたはずだし、それが犯罪だということも知っていたはずだ。けれど、その事を伝えられるほど信頼していた大人はいなかった。まだ漠然とした小さな不安だったけれど、針は私の心臓を刺したまま抜けることはなかった。この頃の不審感は十歳の私が話したものと同じなのだろう。大人は嘘を吐かずに私たちを騙せる。私たちを何かにしようとしているのに、今の私たちを理解はしてくれない。大人を見限って彼らを笑えるようになるまでもう後数年必要だった六歳の頃、私はまだ大人の偉大さを信じていた。彼らは正しくて、私たちをいつも見ている。悪い事をしたら叱ってくれる。だけど同時に私は私の親の持ち物で、彼女は彼女の親の持ち物だと分かっていたし、大人同士の仲が必ずしも良くはないことも知っていた。彼らに話して事態が良くなることは無いのだ。少なくとも良くなったことは無かった。結局私はあの事を誰にも話さなかったのだし、それが彼らに対して無意識に下した評価だったのだろう。
 誰も私に万引きの事など訊かなかった。私も、待っていたのかもしれない。

 それから一年と経たずに彼女は学童保育を辞めて、私とも少し疎遠になった。小学三年生になった頃、私はあの店の同じ棚の前に立ってみた。ぐるりと一回りしてみると、コの字になった棚の奥の上方に監視カメラがあった。あの時もあったのか、あの後付けられたのか。私はそれをじっと見て、手をかざして数回振ると店を出た。リカちゃん人形の靴はもう無かった。

 あの時、確かに恐ろしいものが在った。それは彼女の間に見えた暗い溝でもなく、店のどこに在るか知らない人の目でもなかった。棚に手が届く。誰も私を止めはしない。私も彼女を止めはしない。本当に怖かったのは罪悪感ではなかった。私の中に押し込めなければならないものが、また一つ増える。漠然と恐ろしさが纏わりついて消えなかったのは当然だ。それは生きていくに連れて増えていくものだった。私は孤立した一つの個体になる。家族とも友人とも根本から違う人間になっていく。誰の正しさも優しさも私を救わない。

 生まれてから十数年間、私の全てを支配して理解していると思っていた人々と会うことも今では少なくなった。心臓に刺さったものは針だった。それは年々増え、成長して、枝になり、杭になり、手足になった。誰かの持ち物ではなく、自ら動き歩くものになった。私は時々、森を思い出す。全ての人が産まれ、そして全ての人が出て行かねばならない、あの森だ。


初出:2007.06.09


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