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ポプリローズフィールド From 真名 耀子
日焼けの跡
前の男と南の島でつけた日焼けの跡が消えた頃、私は新しい男と住み始め
た。
前の男は誰とも付き合わないのがひとつのステイタスだった。女はいるの
に、自分はフリーを貫き通す。私はほとんど中毒のように関係を持った。
南の島に行った時も一緒に行く女に私を選んでくれたことも、一週間もの長
い間を独占できたのが、深い満足感だった。
そもそも彼は、そのまた随分前には正真正銘私の恋人だった。そのさらに前
は、私の通う高校の国語の教師だった。
在学中から彼は私に気があった。私も彼に気があった。やっかいな関係がそ
こにあった。スキャンダルな関係と紙一重。
私が在学中に彼はある出版社の新人賞を受賞した。それは当時の私にさざな
みを起こした。私は彼が小説を書いていることすら知らなかった。
彼は国語の教師であって世間一般に名前の知られるような人物とはかけ離れ
ていたはずだった。それから彼の存在は目立つようになり、私は彼が急に遠く
に行ってしまったかのように感じてしまった。
新人賞をとったものの、まだ彼は教師に変わりはない。ただ、いつかは学校
の教師という枠から出て行く人だということは漠然と感じていた。
今思うと、あの頃の彼は世間でいう若者だった。まだ20代半ばで、可能性に
満ちていた。当時の私の目には彼は国語教師であって、1学期の次には2学期
になる、3学期になって次の年度になりまた繰り返す、そのサイクルからはず
れて別の職業につくなどと想像もしていなかった。
彼はこのニュースの前も後も変わることなく、真面目に国語を教えている。
教科書から上げた目が私の視線とぶつかることがなくなったこと意外に変化は
ない。ただ、そんなことは、他の誰にも気づかれていなかったことだ。
そのうちに学校で噂が経った。彼の小説の中の主人公は彼自身で、登場する
人物のモデルは校内にいる誰かなんじゃないか、というものだ。
彼はばかばかしい、と言い残し学校を突然やめてしまった。
お願い辞めないで、と十代の小娘に言われたところでどうにかなるはずもな
く、彼は去っていった。
これが、十代の私と二十代の彼の全てだ。どこにも大したものや、もったい
ぶるようなものはない。
そして私が二十代になって、彼が三十代の時、私はある出版社で働いてい
て、彼に再会した。
なんてことはない。私は事務の仕事をしていて、そのフロアにある自販機で
コーヒーを買おうとしたところに、作家として打ち合わせに来ていた彼もコー
ヒーを買おうと私の横に立ったのだ。
私は隣にいる彼に気づかず、下に落ちた缶コーヒーをとり、デスクに戻ろう
とした。その時に懐かしい空気が鼻腔を掠めた気がした。彼だった。
彼の記憶の中で、教師時代がどんな位置を占めているのかは分からない。も
しかすると、憶測から勝手な噂を立てられ、居心地の悪い思いもして、そのと
きの生徒などには会いたくもなかったかもしれない。だが、再会したときの彼
は笑顔だった。
ばかばかしい、と学校を去ったとは思えないような明るさで、「よっ、元
気?」とつい先週も会っていたかのような乗りだった。
「あ・・せん・・」
先生と言おうとして、それは私の中で教師の意味の先生だから、言いかけて止
めた。そんなこと気にも留めていないかのように、彼はぺらっとしゃべり続
け、それがどんな内容だったのかは思い出せない。ただ、約束をさせられた。
自分はこれからどこそこに行って、何の用事を済ませ、その後は時間が空く、
その頃は君も仕事が終わっているのだろうから、ちょうど良いだろう。自分は
今夜は予定が入っていないのが珍しいぐらいで、君と再会したのも何かの縁だ
から、どこどこのなになにで、落ち合おう。
私は彼が目の前にいるだけで、信じられない思いがしている。
彼の指定した時間に彼の指定した小料理屋へ行くと、彼は既にほろ酔いだっ
た。
着物を着た女将が彼に勺をしていた。顔はつるんとした色白で面長のところ
がゆで卵のようだった。そのつるんとした顔が笑うと目じりに無数の皺が走
る。40代か50代かもっとなのか、歳の見分けが難しい女将だった。
「あら、だぁれ?」
やわらかいイントネーションで女将が聞いた。
「元教え子」と彼が言い、ここに座れ、と隣の席を勧める。
何も聞かずに女将が私のまえに冷やした小ぶりのグラスを置くと、彼が、そこ
にビールを注いだ。
「へぇ、教え子さん? そや、きよちゃん、先生しはったんやもんねぇ?
ま、今もせんせやけど」
「泣かず飛ばずですよ。教師に戻ろうかなぁ」
「何いうてはんの」
私はビールに手も口もつけず、自分のかばんをひざに置き、カウンターの椅
子に浅く腰をかけたままだった。
「あ、こっちがさきやったわ。はい、おしぼり」
熱いおしぼりで手を拭くと、少し固くなった気持ちがほぐれた。
「先生とどんな風に話していたか忘れちゃった」
「同じように振舞わなくてもいいでしょ、別に。今は立場違うしね。ところ
で、あそこで何してるの?」
「事務」
「事務、ね~。そういう仕事やる感じだったっけ? で、おもしろい?」
「まぁ、先生のやっていることとは比べ物にならないだろうけど」
「先生、じゃなくていいよ」
彼は『やませきよひこ』と言った。女将のようにきよちゃん、と呼べるはず
もなく、やませさんと呼ぶのも居心地が悪い、あなたは、なんて具合にも行か
ないが、呼び名をつけずに聞きたいことを聞いた。
「私を見て、びっくりしなかったの?」
「したよ。した、した。大いにしたね。だから、今日を逃したらもうこのチャ
ンスはないと思って、誘ったんだよ」
「今日を逃したらといっても、あの出版社に私ずっといるし」
「そりゃ良かった。俺はそこの仕事切られたばっかの無職」
すぐに転がり込める場所を探していた彼はその日から彼は私のアパートに転
がり込み、同居人兼、恋人になった。
後になって私がもしあの小料理屋に姿を現さなかったら、ゆでたまご顔の女
将のところに転がり込むつもりだったと聞いて興ざめしたが、彼を追い出す気
にもなれず3年間も一緒にいた。
私たちは狭いアパートで語り合い、笑いあい、けんかしあい、愛し合い、空
気のようになっていた。刺激のなかに安らぎがあった。私は彼のことをきよち
ゃん、と呼べるようになっていた。
きよちゃんは書くことをあきらめず、そんな時間のそんな局で誰がそんなド
ラマを聞くのですか? というようなラジオドラマのシナリオを書いたり、カ
ルチャーセンターのシナリオ教室で教えたりもするようになった。
その時の肩書きに新人賞を過去に受賞していることは役に立ったし、誰も聞い
てないにしても、レギュラーを持っていることも助けになった。
そんなことをしているうちに、これまた、そんな時間のそんな局で誰がそんな
朗読を聞くのですか? というような自分の短い小説を朗読するようなコーナ
ーをもらい、それが数名のファンを生み、その数名のファンの中にあるシンガ
ーソングライターがいて、自分の書く詩のイメージが欲しいから、なんでもよ
いから誰も読んだことのないストーリーを自分だけのために書いてくれ、とい
い、きよちゃんはそれを断り、それなら始めから俺が詩を書く、と言い、以前
は社会派だったくせに、せつない詩をあるシンガーソングライターのために書
き上げ、きよちゃんの書いた曲はそのシンガーソングライターの初めてのヒッ
トになった。
急激にそれは起こったのかと思ったが、そういうわけはなく、やけにゆるや
かなカーブを描きながら、きよちゃんは才能を咲かしはじめた。
もともと咲いていたわけだが、その花がしおれて、落ちて、またつぼみをつ
けるまでは長い。きよちゃんは大きな花を咲かせた。花を咲かせると、きよち
ゃんは広い意味でライターとなり、ちょっとした有名人になって、シンガーソ
ングライターの元に移っていった。
そこまでが私と彼の恋人時代だった。
実際、きよちゃんとそのシンガーソングライターとは2ヶ月ともたなかった。
私の元に帰ってくるとたかをくくったが、戻ることより新しいものを追い求め
続けることをきよちゃんは選んだ。知りたくなくても、彼の派手な私生活の噂
は耳に入ってくる。私はあの狭いアパートで3年間も彼を独り占めしていたこ
とが幻のように思えてきた。
そのきよちゃんと二十代最後の日に再会した。
都心の美術館で、あいまいな色の絵を眺めている時だった。見間違うはずもな
い横顔だった。隣の絵を見ていた彼が私の視線に気が付き、こちらを向く。私
だと気づいて、少しびっくりしたようだけど、数年前にしたように、先週会っ
ていたかのような気軽さで、私に話しかけた。
美術館ではゆっくり話せないから、俺は俺のペースでこの美術展を見ていく、
だから君もそうするといい。この美術館を出て、左にいくと信号があって、そ
こを右に曲がって坂を上ると立ち飲みやがあるからそこにしよう。
私はそれが最適な提案に思え、それに従った。立ち飲み屋で彼はコロナを飲ん
でいた。私も同じものを頼んだ。
「今もあの出版社?」
挨拶もなく、彼がそう言った。私は「そう」とだけ言った。
彼は動き続けている。私は同じ出版社の同じ部署で、同じ仕事を、同じ同僚
たちとし続け、彼も住んでいたことのあるあの同じアパートに同じようなもの
を食べながら、同じようなテレビを見ながら、暮らしている。
「男いるの?」
「うん」
私は嘘をついた。嘘でもいいから自分に変化が欲しかった。
「紹介しなよ」
「何のために?」
「理由なんて必要ないだろ? 俺が愛した女の彼氏を見ておきたいってだけ」
「会わせたくないわ」
「いないからだろ?」
カっと熱くなり、私はきよちゃんの手からコロナの瓶を奪い、飲み干した。
彼がカウンターに行き、コロナを2本手に戻ってきた。
その日から私ときよちゃんは度々会うようになった。
恋人に戻ったわけではない。彼は私にとって、ゆるやかに近くを飛んでいるの
に捕まえられない蝶のように、共感し合っても、体を重ね合わせも遠い存在だ
った。
彼が私の頬を包み込むのが好きだった。おでこに優しくキスしてくれるのが
好きだった。それをするときに、教師だったときのことを思い出す、ときよち
ゃんは言っていた。私と彼だけに分かるあの切ない気持ちだった。
度々会う関係というのも何人いるうちの一人なんだろうということすら聞け
ずにいた時だったから、きよちゃんに仕事という名目がついても旅行に行こ
う、と誘われた時は驚いた。きよちゃんはそこに行かないと筆が進まないと言
う、それも一人では嫌だと言う。取材旅行と称して、出版社に旅費を出させ、
どこに発表するか分からない、小説を書き進めると言う。
「どうして? 私を誘うの?」
思わずそう聞いた。
「お前と行きたいから、行くんだよ。俺は何度も行ったことのある所だけど、
お前は初めてだろう?」
『お前と』という部分を強調した。
きよちゃんは特定の相手を作らない主義だった。それなりに有名になってい
て、メディアに顔を出していたのもあって、私は一緒に歩く時、目立たないよ
うにしてくれ、とよく言われた。彼と会っていても、リラックスしきれないと
ころも、彼と二人っきりになっても、彼の心は私だけに向いていないことに侘
しさを感じるところも私を鬱にさせた。そこでいきなり、南の島に行こう、
だ。
私の気持ちは弾んだ。何にも気兼ねすることなく、開放的になれる。
南の島で私はきよちゃんにいっぱい甘えた。同棲していたときよりも、ずっ
とずっと恋人らしく、街でも、ホテルでも、ビーチでも、タクシーの中でも、
手をつなぎ、キスを浴びせ合った。彼が私の焼けた肌を褒めた。日本にいる白
くなることしか考えない女たちよりもずっとずっと健康的で魅力的でそそられ
ると褒めた。
私は愛された肌のまま帰国した。
スーツケースを全部空にして、荷物を元の場所に散らばしてしまうと、だんだ
ん余韻は薄れていってしまうが、服の下には愛した男と癒されつくした1週間
の跡がある。
きよちゃんとの関係が好転するかは期待できない。
好転どころか、きよちゃんは私と行った南の島に別の女と旅立った。私は急に
日焼けの跡が疎ましく感じてきた。
今度の取材は編集者付きでないとさすがにまずい、というのが別の女を連れ
て行った理由。その女は実際編集者だし、他に同行者がいたのかいないのかは
踏み込めない質問。
私は怒りなのか悲しみなのか分からない消沈に悩まされた。
何日間行く予定にしていたのかも分からない。連絡がこない。それはこっぴ
どく振られることより身に沁みた。
私もきよちゃんも三十代だった。
彼に今流れている時間は、私に流れている時間の何千分の一程度のものだろ
う。
私がひどく長く感じて、待ちぼうけでいることも、彼にとっては、連絡して
いないことすら気が付いていないほど短い時間かもしれない。
私はきよちゃん以外の何かを見つけないと息さえもできなくなるような強迫観
念に駆られた。
きよちゃんのことが忘れられないまま、日焼けの後はだんだん薄れていっ
た。消えないものなどないのだと知った。
私はきよちゃんに指定されていった小料理屋に行った。女将は相変わらず、
ゆで卵のような顔をしていた。
私はカウンターの席に浅く腰掛けてビールを頼んだ。ビールをついでから、
女将は思い出したように、おしぼりをくれた。そして私に初めてか聞いて、私
は黙って頷いた。
ビールグラスに口をつけただけで、私は彼と二度目に再会した美術館に行っ
た。
あいまいな色の絵はもうなかった。あいまいな色の絵がない代わりに、遠い
昔の遠いどこかでポーズをとる少女の絵があった。書いている画家とその少女
は愛し合っていたという。およそ100年前の恋が壁にかかっている。それを
たくさんの人が見て通る。私は私のペースで美術鑑賞をし、再会した後に彼が
指定した立ち飲み屋へ行って、コロナを1本飲んだ。
店を出て、一瞬帰り道が分からなくなった。
自分を見失ってしまったかのように次から次へと大粒の涙がポタポタと頬をつ
たった。彼が何度となく包んでくれた頬を洗い流すかのように涙は流れていっ
た。
私が三十代、彼が四十代の今、私たちの関係は固まったきりになった。
新しい男と私はまた南の島へ行く。そしてまた肌を焼いて、愛された証拠の
日焼けの跡をつけるだろう。いつか、消えるのだろうけど、またいくらでも南
の島へ行けばいい。
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