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法はどこで生まれるのか。これは現代民主主義=立憲主義を考えるうえで、つまりは、自由(われわれの自由とこの国の自由)を考えるうえで、大切な問題であろうと思う。「日本は法治国家」だという、よくある誤解を語り出しの鍵としようか。■日本は法治国家ではないネタとしてとって置こうと思っていたのに、前回先走って書いてしまったが、分かっていながらわざと確信犯的に言っていたのか、本当に知らずに言っていたのか、中曽根康弘という人は「日本は法治国家だ」ということをかつて述べた。本気だとすると、とんでもない誤解なのだが、もしかすると「(国民)放置国家」(あるいは「放恥」?)と言っていたのかもしれない(であれば、言行一致の見事な政治家だが)。いずれにせよ、巷にもこの誤解は溢れているように思う■法治国家形式的法治国家とは、法律で決めさえすれば何でもできるという考えだと言ってしまって差し支えないだろうと思う。後で少し書くが、俺はこの形態よりは権力者の「恣意の政治」の方がマシなんじゃないかとすら考えている。「法治」とはつまり「法律を用いた統治」なのであり、権力側が「統治」するという考えが濃く、民主主義の大前提「主権者は国民」を壊す可能性があるわけだ。たまに「でも、国民の代表者が法律を作るんでしょ」なんていう純粋無垢でナイーブな意見も聞くんだが、形式的法治主義を見事に体現してくれたのが、絶大なる支持を得たヒトラー君だったわけだね。■じゃ、なんなのよ「○○は△△じゃない」と言ったとき、「じゃ、なんなのよ」っていう受け答えがあるけど、これはおかしい(個人的に好きなやりとりではあるんだけど)。まあ、これは長くなるからいいか。暇なときに書こう。実は、ドイツの「法治国家」も、戦後反省から「違憲審査制」を採り入れ、実質的には変わらなくなってきたのだが、われわれの立憲主義はふつう「法の支配」として位置づけられる。「法の支配」は、字のごとく「法が支配する」わけで、権力者は支配される側に入るわけだ。憲法の名宛人は国家だと以前も書いたが、形式的法治主義と法の支配では、理念において大きく異なる。■メンタリティ?法が支配している、というよりも、なんか「お上」が法律作っていろいろやってるって思ってる人が多いんじゃなかろうか。そうすると、自然、「お上、しっかりやってくださいよ」って考え方になる。これは、法律作るなら、ちゃんとしたの作ってね、っていう気持ちに近いかな。確かに、この要素も必要だろうと思う。なんか、衆院で与党が2/3とったから何でもできるっていう意見があるけれど、人間の世界はそんなに単純じゃない。現に、参考人や野党の追及で「共謀罪」はひとまず法案提出が見送られたわけで、少数だって力を持ちうるのが本来の議会のあり方なわけだ(だから、何度も書いてるけど、俺は多党制の方がいいと思っている)。だけど、そうしたお上に倫理を求めるやり方は、小泉みたいなポピュリストが出てくるとうまくいかなくなる。現に「郵政」で、もっと審議が必要だからと、NOを言っていた自民党議員たちは、離党させられているわけだ。これは言論による説得ではなく、れっきとした物理力=暴力であるわけで、民主主義の危険状態といえる。そこで行政府の歯止めが聞かなくなったときのことを想定していないという点で、「法治国家」という考え方は危うい。■法の支配の運動では、「法の支配」はなぜ良いのかといえば、行政とは独立した司法が「憲法(立憲主義)に照らして」判断するという機会を踏むからだ。つまり、立法府(国会)でできた文言が、われわれの実際の生活を脅かしたとき、その実際の生活においてその法が正しいのかどうかを判断するということを大前提に考えられている理念であるわけだ。もう少し言えば、人は間違うということを前提にしている理念であるといえる。どんなに注意したって、理論と実際は違うと言われるように、それが誰かの生活を脅かす可能性はあるわけだ。良かれと思ってやったことが、逆に酷い事態を起こすことがあるわけだ。国民の生活を酷い目にあわせる法律をつくる国会を、民主主義政府というのは難しいでしょ(この点、自民党改憲案の95条削除は驚くべき歴史的アホさだ)。■無垢な良心が人を傷つけるときが怖いさっき、少し触れたことだが、俺は統治形態をマシな順に並べれば、法の支配>明白なる独裁>法治主義だと思っている。前に「続・回り道雑談(1)」にも書かれていたが、表現の自由が制限されているということが明らかな国の方が、この国のように国民を騙す政府よりもずっとマシだと考える。■法とはさて、やっと「法はどこで生まれるのか」に迫ってきたが、最後の準備として、法とは何かを考えておこうと思う。英語では、法は「law」で権利は「right」だが、ドイツ語では「Recht」、フランス語では「Droit」が、「法」と「権利」の両方の意味を持つ。つまり、法=権利という概念ができているわけだ。歴史的に、法というものがどのように出来てきたのか、示唆しているように思えないだろうか。主観的法である「権利」と、客観的法である「法」の鬩ぎ合いの中でできてきたと考えられないだろうか。つまり、法を作っているのは、国会ではなく、まさに人類の営為なんだと俺は考えたい。これは、「文言」として国会が作った法律を「どのように理解するか」という行為もまた、法を生む行為であるわけだ。■法はどこで生まれるのかそれゆえ、俺は民主主義には、絶対に「独立した司法」が必要だと考えている。法はこの場所にあって、主観的なものから客観的なものに変わる。そういう理解で読むと、憲法12条は「われわれの法をつくる歴史への参加」という風に読めて、俺は大好きなのだが、クソ中曽根は、これにも手を加えやがった。あの禿げ。ともかく、最後にまた引用しときましょうかね。法の生命は経験であって、論理ではないという事実はコモン・ローに限ったことではありません。すべての法の陰には人間の、もしあなたが注意深く読めば、その血が行間に流れていることがわかる人間の物語が隠されています。条文が条文を生むのではありません。人間の生活が条文を生むのです。問題の核心は-政治と歴史の問題、つまり法の問題の核心は-誰の経験がどの法のもととなっているかにあります。――キャサリン・マッキノン
2005.10.30
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今日も軽く。思考の整理期にはひどく読みづらく、纏まってくるとダイナミズムに欠ける。これが、ブログにおけるゆゆしき問題であるように思う。やはり、纏まったものを書こうとすれば、既存のロゴスに頼らざるを得ず、俺としてはおもしろくない。読みやすい文を書くことが美徳だというのは、少しばかり、効率万歳のネオリベラルなんだろうと思う。テクニカルな解決策として、俺はひとつの方法を思いつく。短く書く。日記のように。■「靖国神社~占領下の知られざる攻防」昨日深夜(今朝未明)に、HNKでやっていた。こういう番組を作られちゃうと、非効率OKって思わざるを得ない。多少の無駄を覚悟しないと、いいものを作るのは難しい。効率主義では、中立的な報道よりも数字の取れるセンセーションが求められ、結果的に脆い基盤になっていく。三木谷は「何で買っちゃ悪いのかわからない」というが、経済がそもそも経世済民だったということを知らないからだろう。メディアの社会的意義をわかろうともしない。自由経済だけで社会がうまく行くと考えている非常に野蛮な人間だよな。まあいい。とにかく、HNKが靖国神社の占領下における動きをよく取材して作ってあった。■教義変えてもいいんでしょ以前「続々・回り道雑談」における解説としても軽く触れてたことに絡むが、靖国神社が教義を変えるのは不可能じゃないってことの更なる証拠が得られた。というのも、占領下において、靖国神社自信が教義を変える準備があったわけだから。国家的カルトたる「国家神道」は認めない。これは当然。こうした流れにおいて、靖国神社自体をどうするかというところで調査が進められていたのを見事に取材してあった。靖国神社側は、多くの国際世論等から自身を守るため、戦利品のレリーフをコンクリで固め込む等のことまでして、とにかく廃絶を逃れた。当時の権宮司に取材した人の取材テープも流されたが、とにかく何でもするという感じがよく出ていた。■なぜだろう俺は、なぜそこまでしたかったのだろう、と考える。篤い信仰心に理由を求めたくなる人間もいるだろう。しかし、ならば、信念を曲げてでもという態度とどう結びつくのか考えなければなるまい。もちろん、その可能性を否定してはいない。だが、それよりはちょっと穿って見てあげる方が人間の真実に近いかもしれないとも思う。誰もが、国家の人工物であることを知っていたし、神社における現人神だった天皇が離れたいま、何がそれを留めおいたか。これである。俺は、ちょっと穿って見てしまう。人間は、結局、自分のことだけを考えているんじゃないかってな。靖国神社の構造がそれを裏付けている気もする。■結局自分のため社会が貧しいなかで、職を手放せない権宮司ってのもいたのかもしれない。自分の次期職業のために、「郵政」で、日本が築いてきたシステムを切り分けしてアメリカに売り渡す大臣。こいつは、次にアメリカの大学のポストを得るんじゃないだろうか。自分のために、国民の生活を利用し、自分のために、国民の義なる心を利用し、自分のために、行政権を利用する。人間の行動の本質か。ならば、偽善的なことを言うのはやめよう。その方がずっと誠実だ。■切り分けいつも言うように、切り分けないといけない。昨日の靖国の番組におけるインタビューで、参拝者が「特に信仰があるわけじゃないけど、魂もここに来てるのかわからないけど、まあ祀る対象があるわけだからね」みたいなことを言っていた。俺は、その気持ちを否定まではしない(もうちょっと政治的に考えてほしいけど)。問題は、そうやって何でもして廃絶を免れた靖国神社が、手のひらを返すように、自分たちの考えを傾けて行ったことなんだろうと思う。恐らく、あの神社には教義なんてない。いつでも変えられるはずだ。自分の都合に応じて。多くの無垢な心の上に乗っかって、自分たちの考えをプロパガンダするのはやめて欲しい。恐らく、そこにもお金が動いているんだろうが。
2005.10.30
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本当なら、「自由への予備的問題(2)」を書く予定だったのだが、限られた時間で今書くのは、自民党の改憲案の方だろうと考えた。今日は時間が無いため軽くだが、日を改めてしっかり書く。冗談か極論としか受けとれない取るに足らない案だが、今のこの国の有権者の状況を考えると、少し不安にもなるわけで、おかしなところはおかしいと、敢えて訴えておく。■狙いがあからさま過ぎる9条に関しては、以前「改憲論をやさしく」で書いた通りだから、今一度ご参照のうえ、改憲案に目を通していただきたい。狙いをここまで粗暴に出してくるのにも驚き呆れるが、実は、それ以上に嫌な構造があるのが問題だ。■戦前回帰構造何が嫌な構造かといえば、それは戦前への回帰思想が見て取れるところだ。国民へは、自己責任を強く訴えながら、国のやることには歯止めが効かないようになっている。支配―被支配の構造の固定が図られている。平気で義務なんてものを課そうとする。・12条、13条等で、人権制約増大を狙った明らかな歴史逆行が見られる・「法律の留保」と取れる部分が多く見られる(行政権の後付命令が可能)・地域特別法への住民投票規定が削除され、実際に問題と向き合うはずの人たちの意見を排除しようとしている。そして、何よりも、憲法らしくない。つまり、憲法を法律と勘違いした改憲案で、戦前ドイツの「形式的法治主義」を目指しているようだ。原案を起草した中曽根康弘が「日本は法治国家だ」というひどく頭の悪い間違いをした過去があることも有名だが、誰も指摘してやってないんだろうな(この国は「法の支配」の系譜に連なる国だ)。「多数決で決まれば何でもやっていい」という姿勢と、そうした姿勢を定着させるような法構造があって、これこそナチズムの再来を先導するものになっている。■まあ、憲法を知らない人間の起草ってのは憲法は自由の基礎法だ。いろいろ行政側がやりたいことは、それこそ「多数の力」で立法化して行ってきたし、これからもできるじゃないか。それに対して、個人が個人の尊厳を保つための最後の砦として、自由の基礎法たる憲法があるわけだ。その大枠を外そうというのは、臣民には義務があり、許される範囲での自由があるという戦前の論理と同じではないか。この憲法案を提出するならば、イラクや北朝鮮を支持しなきゃおかしいだろう。非民主的独裁制が良いと思ってるわけなんだから。自己責任を言うなら、国はなるべく多くをやるべきじゃないはずだ。だが、この案は、自己責任を言いながら、国家への奉仕だけは多く求めているようにしか読めない。これは、戦前の上へは絶対服従、下へは限りない無責任という形への回帰だ。まあ、頭の悪い起草者とは別に、法の世界は、学説や他国の事例が解釈においてものを言うから、すぐに馬鹿さは露呈し、権利条項に関してのアホさは直されるだろうが、9条に関しては、予断を許さない気がする。賛成でも反対でもいい。ただ、これだけは納得して賛成してもらえると思う。徴兵制になった折には、国会議員の3親等内にあるものは、兵役状況を情報公開しなければならないという風にするべきだということ。これは最低、求めることにしよう。戦前のように、財閥や議員の子弟だけは免れるなんていうのは御免でしょ。■ところで「日本国民が作る」なんて息巻いてた割には、結局変えたいところをチョロチョロいじっただけになったな。
2005.10.29
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セキュリティという概念が、生活の細かな部分にまで入り込み、リビングデッドたちを侵している。ある種のパラノイアだ。パラノイアにおいては、「証拠があって結論に至る」というプロセスを踏むわけじゃない。むしろ逆で、「脅迫感情がまずあって、その証拠探しをしてしまう」ところに、パラノイアらしさがある。あいつが俺を殴るかもしれない。そういえば、あいつはあいつを殴っていた。あいつは最近体を鍛えている。あいつは昔の俺を憎んでいる。自分の都合にあった部分しか目に入らなくなる。そして、もっとも重要なことだが、この思考に陥った人間自身が、決して幸せそうではない。というのは、パラノイアの原因を探ればわかる。多くの場合、パラノイアは、自らの存在意義不全を感じている。自分というものを強く認めてもらいたいのに拒絶された経験を持つ者に多い。ある政治学者が言うところの「田舎者ほどナショナリズムになりがち」というのと全く同じ理由で、認められていないものほど、過剰に被害者意識をもちやすい。たしかに、このような人たちに理性的反証をいくら提示しても無駄だろうと思う。彼らに足りないのは、「愛」だろう。もしかすると、このような人たちが「愛国」を言うのは、自分を国家精神に合一した上で、愛を受けたいからなのかもしれない。かわいそうだ。本当にそう思う。こうした人たちがいる状況への具体的な処方が無くては、1930年代に起こったような状況の再現を食い止めるのは難しいのかもしれない。「政治は理論だ」という人は、小泉が「政治は感情だ」と言って選挙に勝った現実をしっかりと見据えないといけない。いつの世になっても、理性的討論だけですべてが解決する世の中はこない。それはまさにユートピア(どこにも無い場所)だ。人が、どんなに世代を経ようと、常に赤ん坊から始まることをしらなければならない。■俺は憐れむ石原慎太郎の発言は、弟でありながらすべてにおいて自分を凌ぐ裕次郎の影におびえているから出るものであり、そうした心理的原因が今なお彼を追っている。今、何とか自分がえばれる相手に対して強弁することで、自分というものを保っているわけだ。彼は悲しい人間なのだ。俺は本当に憐れむ。『太陽の季節』において自らを投射した小さなものは、自分は大きくはないが、見られるべきなんだ、と障子を破る。気持ちがよく表れている。俺は、そういう純文学と私小説が無邪気にくっついていた時代に芥川賞に選ばれた小説としてなら、その作品を評価する。よくパラノイア気質が表れているのだから。■軽いパラノイアは蔓延している。だが、真の問題は、そうしたパラノイア気質の人間に惹かれてしまう人間がいることだろう。それはまさに自分たちがパラノイアだからだ。そう、彼は本当に自分たちを代表しているように見える。自らの尊厳を保てない人間の心がわかっているわけだから。しかし、彼の方は、自らに視線を投げかける弱者の方を見向きはしない。選挙のときには電信柱にも頭を下げるが、自らの尊厳を保持できる場所に立てば、そうした政治家としての責任は簡単に投げ捨てられる。彼が国会議員を辞職したときもそうだった。彼は自民党内に仲間がいなかった。自分のことを、自分が相応しいと思っているほどにまで、認めてくれる人間が周りにいなかった。だから、見せ方だけが勝負で、しかもトップに立てる都政に打って出たわけだ。彼を支持してしまうのは、心の問題だ。俺は憐れむ。■救いがないパラノイアは、自らのパラノイア状況を加速させることをする。あいつが殴るかもしれない、という危機感が、その証拠集めをはじめる。強迫神経症的に。そして、最後には、その重みに耐えられなくなって自分からことを起こしてしまう。救いがない。終わりがない。本人は至極真剣なのだが。■ケアを考えなければいけない。恐らく、ケアが必要だ。われわれは真剣にこのことを考えないといけない。AがBを認めないから、BがCを認めず、CがDを認めない。弱者が住みにくい社会は強者にもまた住みにくい。■最後に、少しずれるが戦争というものを軽く考えている層がいるのだろう。自らの存在意義のために簡単に大きな物語を叫び、その悲劇がやってきたときに気付く。そのときにはもう遅い。「ペガサス・ブログ版」さんの記事「転載:息子をイラク戦争で失った父の手紙」を紹介する。また、それを読んだ後に、「Dense Fog Ahead」さんの「歴史から学ぶことはきりがない。」も読んでみるといい。他の記事も面白い。
2005.10.27
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二つの自由概念ともう一つ(俺のための理論的整理)ある種の人々は、二つの自由概念と書いた時点で、これから何が語られるかわかることと思う。だが、そうしたある場所における「常識」は、現代民主主義における重要な鍵である情報流通にのっているとは言い難いのが実情ではなかろうか。てなわけで、俺は、多少の誤謬可能性を恐れずに、果敢にこれを書き記そうと考える。言うまでもないことだが、ァイザイア・バーリンの「二つの自由概念」に関してである。そして、その二つのあとにもうひとつを付け加える予定だ。これが前者二つとどのような関係にあるのかも考えられれば考えようか。■自由への二つのアプローチバーリンによると、「自由」は常に「権威」との対比において概念されてきた。そして、そこには二つのアプローチがあった。ここは俺流に纏めさせてもらうが、二つのアプローチは、両方とも問いの形をとっている。ひとつは、「個人が権威に干渉されない範囲はどれくらいのものか」という問いであり、いまひとつは、「どのような場合、権威は正当に個人を干渉できるのか」という問いである。前者を問うた代表はJ・S・ミルであり、後者を問うた代表はJ・J・ルソーである(ちなみに、俺はこの両者は本当に天才だと考えている)。■二つの自由概念前者の問いへ対するミルの答えは「危害原理」と呼ばれるもので、多かれ少なかれリベラルズの大前提なのではないかと思う。これは、「他者への具体的な危害を及ぼさない限りにおいて、自由は最大限認められるべきだ」というものだ。つまり、自由概念への一つの回答は「他者に危害を及ぼさない限りにおいて、権威は個人の自由を奪えない」ということになろう。それに対し、後者へのルソーの答えは「自己統治」と呼ばれるもので、国民主権原理の大前提となっている。これは、「自らが自らの主人である限りにおいて、強制は正当化される」というものだ。つまり、自由概念へのもう一つの回答は「権威が自分自身による(正しい)命令である限りにおいて、<自由意志>において従うことができる」ということになろう。■バーリンの評価バーリンは、この二つの自由を、それぞれ「消極的自由」と「積極的自由」と呼ぶ。「消極的自由」は「(国家)からの自由」として表現され、「積極的自由」は「(国家)への自由」として表現される。バーリンは(両方が大切だと後になって述べるのではあるが)、明らかに消極的自由が大切だと言い切っているように読める。その理由は、「積極的自由が新たな権威に取って代わることを求める」のに対して、「消極的自由は権威を掘り崩そうとする」からである。(これは明らかに東西冷戦期において、西側の肩を持っていたからだという風に読む研究者もいる。)■自由の構成ここからは、この二つの自由相互の関係のことを考えたいのだが、これに関しては、俺は二つの考え方を紹介したい。ひとつは、バーリンの概念分類は「(われわれの考える)自由は簡単には折り合えない二つの原理で構成されている」ということを示しているという読み方。もうひとつは、「消極的自由と積極的自由はコインの表裏であって、分かちがたく結合している」という読み方である。全く違うことを述べているような二つの読み方だが、俺は、実は両方真理だと考えている(一応、現代民主主義においては、という留保をつけておこうか)。現代民主主義においては、「消極的自由は積極的自由に支えられており、積極的自由は消極的自由の保障のもとに成り立つ」ように思える。そして、だからこそ、それらの保障の源泉は、それぞれ外部に求められなければならない(自由は弱い)。すなわち、(ミルが求めるような)個人の自由の保障は、絶対的な徳(価値・正しさ)として、それが認められていなければならず、(ルソーが提出する)自己統治は、自由の保障がなければ、ただの「多数の専制」あるいは「全体主義」に陥ってしまう(後者の読み方)のだが、これらは別々のアプローチにおいて保障するべきだと思える(前者の読み方)わけだ。両方大切なのだが、それをただ唱えても始まらず、両方をそれぞれにおいて保障する必要がある。そして、私見では、これを可能にしているのは、結局「憲法」なんじゃないかと思える。「憲法」を「自由の構成=constitution」という風に、語義通りに捉えるべきだと思うわけだ。前回「続々・回り道雑談」で法曹界の問題矮小化に関して述べたが、あれはあきらかに、片方のアプローチしかしていないように俺には思えたわけだ。 ■もうひとつの自由?――全体主義へのカウンターとしてさてある種俺のための基本的自由概念のおさらいが終わったのだが、いまひとつ無視できない自由概念が無いわけじゃない。10年前くらいから、ヨーロッパで大流行したハンナ・アーレントのものがそれだ。当時フランスに留学していた友人にアーレントの流行について訊ねたのだが、曰く、ヨーロッパでは全体主義の問題への知識層の意識が高く、再びこの問題が起こらないようにと本気で考えているようだ、という旨回答を得たことがある。つまりは、全体主義をしっかりと見据えながら鍛えられたアーレントの論に全体主義理解と解決の鍵があると考えられているわけだ。ともかく、彼女の自由概念は独特だ。アーレントの新しさというか独自性は、自由を公的概念として捉えたことである。アーレントにおいては、自由は「公的現れ(appearance)の空間」においてのみ保障される。そして、その「公的現れの空間」はアーレントの意味における「政治」の空間でもある。アーレントによれば、近代に入り、私的領域が重要視されるようになったことが、自由を奪った原因である。全体主義も、自由の後退に由来するものといえる。■公的自由の条件、あるいは誤解される「公」さて、公的自由なんてことを言うと、頭の悪いという意味での「保守」が喜びそうだが、残念ながらそういうわけにはいかない。アーレントの公的空間の重要な要件は、「plurality(複数性)」である。これは、さまざまな言説が競合することを必要とし、誰に対しても開かれているということを根源的条件とする。つまり、偏狭な排他的ナショナリズムとは、絶対に結びつかないものなのである。そこには「他者の現れ」が絶対要件であり、それによって計算できない「自由」が現れるのである。アーレントにとっての自由は「予測不可能性」を保持している。「公」が無い状況の危険は、自分勝手が増えるといったこととは違う。むしろ逆に、「他者の現れ」の無い状況では、切り分けられた個人は簡単にステレオタイプに絡みとられてしまうという危険なのである。つまり、「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)として見られる「権威への逃避」は、アーレントによれば、開かれた他者がいなくなったからこそ、全体主義化したと解釈されるわけだ。(フロムの「自由」をアーレントは絶対に自由とは呼ぶまい。)■この国への処方箋になるか?俺はこの国は、間違いなく全体主義化していると思っているが、それは上に見た三つの自由のどれとも関係しているように思える。俺はここまで、それぞれの<身体>言語を、公的言説とすることと何度も述べてきたが、無論、それは「消極的自由」と「積極的自由」のことだ。そして、アーレントの自由概念に助けを借りれば、まさに、他者との関わりにおいてそれが可能だともいえるのかもしれない。アーレントにおいて、自由は、ただの自己利益的言説を超えて、全体主義化する政治へのカウンター言説として機能しうるように思う。そして、もしかすると、現代における、「積極的/消極的自由」の結合の鍵かもしれない。だから、愛国心があればこそ、堂々と自由を主張するべきなのだろう。もしかすると、こうしたブログの活動というのは、ひとつの開かれた活動足りうるかもしれないな。参考:『談』(Web版)
2005.10.26
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B (6:55:34): エジプトでは、NGOに関する法律ができててB (6:55:57): それは、外国から資金援助をもらう場合には社会問題省にB (6:56:13): 届け出て、了承されないといけなくなった。数年前から。B (6:56:28): そのきっかけは、ある学者の団体にアメリカが資金援助してて、B (6:56:46): その人がエジプト政府を厳しく批判してたかららしく、その学者はB (6:57:12): 投獄されたらしい。「外国の資金により自国政府を辱めた罪」みたいB (6:57:38): その法律の存在にびっくりしたけどねA (6:57:53): まあ、それくらいの法律はねB (6:58:12): そかA (6:58:48): 日本だって共謀罪ってのが法案提出されそうだったくらいだしね(笑)B (6:58:56): ?A (6:59:13): 法構造が治安維持法そっくりの法案があったんだよA (6:59:35): もうすでに2回提出を断念してて、A (6:59:43): 今回もまた懲りずに審議してたんだけどA (6:59:51): やっぱり断念したB (6:59:53): 誰が出そうとしているのA (7:00:00): 政府与党B (7:00:23): 何のために、なぜ今?A (7:00:58): まあ、何のためにというのはちょっと難しい議論だねA (7:01:15): 今の理由は、多数派とったからでしょA (7:01:43): 大正時代も、原敬以降はあるしゅのポピュリズムだったんじゃないかって思うんだA (7:02:07): 現在も、ある種の民主的飽和状況でねA (7:02:21): なんか、俺たちの生活のことも考えてくださいとかA (7:02:34): 生活の「安全」を保障してください、みたいなA (7:02:41): そういう言説があるんじゃないかと思うA (7:02:47): 社会不安というかねA (7:03:13): それで、なんというか、国がパターナリスティックにA (7:03:24): そういう予防をしようと思ったんでしょA (7:03:49): 意図において、悪いものをもってるわけじゃないでしょA (7:04:06): 小泉だって、意図において悪いものをもって靖国参拝してるわけじゃないかもしれないA (7:04:16): でもね、その後のことは歴史が証明してるんだよねA (7:04:33): 国家が価値判断しだすと、そりゃ怖いことが起こるB (7:04:39): 「地獄への道は善意で敷き詰められている」A (7:04:46): その通りB (7:08:30): でも今は、国民が国にどんどん価値判断を代表してしていってほしい、って父性みたいなものをB (7:08:35): 国に期待してないかA (7:08:42): してるんだよB (7:08:47): だよねA (7:08:48): 自由からの逃走B (7:08:59): うんA (7:09:31): 柄谷行人は、それを民主制における「王」の穴と呼んでるB (7:09:35): それを食い止めた例はないのB (7:09:42): 王の穴?A (7:09:51): 王様がいなくなっちゃったからねB (7:09:57): ああB (7:10:02): 規範がB (7:10:05): わからなくなったA (7:10:09): そうだねA (7:10:13): 規範だろうねA (7:10:16): あるいは、理想B (7:10:35): すごく、皇室を連想するねA (7:10:57): そうねA (7:11:23): ただ、民主化しちゃってからは、皇室を良いと思ってないんじゃないかなA (7:11:43): 靖国神社も、明治天皇ってことばっかり言うしねB (7:11:55): ふうんB (7:12:06): で、上に戻るけど食い止めた例はないのA (7:12:25): まあ、自由からの逃走はどこでも起こってると思うB (7:12:33): うむB (7:12:39): 程度の問題?A (7:14:54): 食い止めたというかA (7:15:00): アメリカやイギリスではねB (7:15:03): うんA (7:15:25): やっぱり悪法みたいのがたくさん立法化されてるんだB (7:15:31): へええええA (7:15:49): だって、どこかの州なんか、70年代にA (7:16:10): 避妊具の禁止の法律を作ったんだよB (7:16:34): んーむA (7:16:46): もっともプライベートといえる場所の事柄をA (7:16:52): 議会の多数派が論じるというA (7:16:59): けっこうすごいことしてるでしょA (7:17:57): でねA (7:18:00): 大切なのは、A (7:18:07): アメリカのリベラルズはA (7:18:18): ちゃんと、法廷で闘ってきたわけだA (7:18:37): イギリスも、伝統的に司法が尊重される国だからねA (7:18:51): このアングロサクソンな国は、A (7:19:00): 国家の決め事とか何とかよりもA (7:19:04): 個人がまずあってA (7:19:32): それが互いに「義」を主張しあうっていう法文化をつくってきてるA (7:20:00): そこに鍵があるんじゃないかとねB (7:20:16): うんB (7:20:32): ただリベラルはそうかもしれないけどB (7:21:00): そうでない人も(国に父性を求める人も)たくさんいるとも思うA (7:21:08): そうだよA (7:21:15): だから、立法化されるわけでねB (7:21:22): うんA (7:21:26): 強調しているのは、A (7:21:48): 食い止めたように見える英米も、そこまではあまり変わらないってことなんだよB (7:21:56): ああ、そうか B (7:22:00): なるほどねA (7:22:31): やはり、司法府次第かなとA (7:22:52): あるいは、司法に対する国民というか、個人たちの意識の持ち方次第かなって思うA (7:23:14): つまり、多数が間違うことがよくあるんだってことを知ってる人たちとA (7:23:38): 日本人のように、多数に言われたら「はい」それまでよ、な人たちとの違いB (7:23:59): 日本にいると、ほんとに、多数派にいないことのいたたまれさってすごいからねB (7:24:29): 多数派無謬信仰恐るべしだねさて、ここで俺がまた顔を出してしまうのだが、この雑談は、ある種のこの国における、国民の資質の問題を問うているところが重要なように思う。「多数派無謬信仰」というのは、結局のところ、「みんなで渡れば怖くない」という風刺を言い換えたものであり、「多数は誤らない」と理解するよりも、「多数に従っていれば、俺の責任は問われない」という風潮だと理解するべきなのかもしれない。俺は、この問題に関しても、考え続けていかなければなるまい。いずれにしても、民が国家に何かを求めだしたとき(積極的自由の過剰)が、国家が危うくなるときなのではないかと、俺は考える。実はこの雑談は続き、このあとに「靖国」問題をどのように解決するかという議論になるのだが、これはまた纏める機会を待とうと思う。ここでは、簡単に俺の感想を述べる。「靖国」という問題は、完全なる政治問題だというのが、俺の主張で、そうであればこそ、靖国神社は政府による特殊法人化案を拒否する(つまり、民主的意思に神社の意思決定を還元させたくない)わけであり、無垢なる慰霊の気持ちを持った国民の善意に乗っかって、自らの主張(戦争肯定)をプロパガンダしていると考えている。そうであれば、やはり政治的解決は不可能ではないというのが、俺の見解なわけだ。この辺を敢えて今書くのは、昨今、「靖国」の問題を矮小化してしまっている論調が目立つからだ。残念ながら法曹界の人間に多い気がしている。確かに、一宗教法人である靖国神社に対する「公人参拝」の政教分離原則抵触という形でしか、現状の訴訟では、論理構築が難しいだろう。だが、それは、訴訟問題としての論理であり、政治問題としての論理というに遠い気がしている。これは問題意識の違いとも言えるが、そうであるならば、自らの位置をはっきりと訴訟問題に限るという点を明確にしておくべきだろうと考える。俺はこうした意識から、国家機能と絡んだシステムの問題として「靖国」という括弧付き表記を用いている。つまり、この問題は、何よりも世論の問題であるからだ。俺が、「小泉の板ばさみ的リアリズム」と述べるのはこのことによる。これは政治問題であり、政治的手法によって解決は可能だと考えている。もちろん、そこには統治機関の一つとしての司法府は無視できず、もちろん、訴訟の結果も重要になる。しかしながら、とにかくも、戦後日本という国に内在して語る以上(訴訟問題もその枠組みに従っている)、「靖国」がそうした根本と抵触することには意識しておかねばなるまい。この(続きの)雑談では、靖国神社が教義を変えることが難しくない理由を述べてあった(もちろん、靖国神社自体は受け入れないだろうが)。世論が、その方が望ましいと考える道筋が示されていて大変参考になるものであった。その雑談をそのまま開示するのは、適当ではないと俺は考えており、後日違う形で纏めることにする。
2005.10.26
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筒井康隆の『七瀬ふたたび』にかけてみたんだが、まあ気づかったならいい。俺が義務的にやっていたロールプレイングゲームというのは、ファイナルファンタジーXのことだ。シナリオの論理一貫性という点において、しっかりしているかどうかは議論の分かれるところではないかと思うが、そういう物語の破れ目がありながら、なお世界的に人気を博したというのは、それなりの理由があったからだというのは間違いないだろう。あるいは、破れ目にこそある種の真実があるのかもしれない。今回はひとつの試論として、やり終わりの感想を残しておく。発売して時間が経っており、廉価版も販売されたあとであるから、こういうことをしても許されるだろう。というか、そもそもFFXなんて、このブログ来る人はやらんよな。詳しく知りたい方はここを参照(若干俺の解釈との違いもあり)。■いくつかを思いつくままに死者に規定される土地。記憶の断片と集積。思想統制的教え(ある種の国家宗教の存在)。内在する不幸が統治を安定させる構造。スケープゴートとされる種族の存在。歴史の歪曲。統治のための物語を再生産する物語。そのどうしようもない物語に内在しながら本気で国を思っている寺院。上層部の利権的構造。民の純粋なる善意。信仰から発する差別。熱狂的若者。政治権力と母国語。オイディプスのパロディ。解決できない問題があるから統治は成立するという逆説的真理を含んでいる物語で、ある種のこうした統治に関する構造を、個人的意思によって打ち破る物語とも読める。解決できない問題から民を(一時的に)救うのは、「国民的スポーツ」と「偉大なる殉教者」の二つがもたらす希望で、そのどちらもが究極的解決になっていないのがこの物語の特徴である。つまり、究極的解決のない螺旋階段的問題構造を持ったなかで、一時の希望だけを民に与え続ける土地(国)の物語なのである。それを打ち破るというシナリオにおいて、重要なポイントは「わかった振りをして何もいえない大人になりたくない」という「青さ=若さ」かもしれないし、偶然の(シナリオ上は必然だが)出来事の重なりによる啓蒙が主人公たちに起こったからかもしれないし、その土地の問題構造を見抜いていた「祈り子」たちの夢見た「救世主」として主人公が存在していたかもしれないし、あるいは、恋愛の力なのかもしれない。そのどれもが考えられうるし、一つだけをすべてのように言う必要はない気もするが、俺として「救世主」説だけは採りたくないと思う。そこには物語的救いが無いし、何よりもこの物語の「破れ目」を覆ってしまうからだ。繰り返すが、破れ目にこそ、俺はこの作品のアクチュアリティが表れているんじゃないかと思っている。■破れ目このゲームは主人公の名前を変えることができる。俺のような面倒臭がりは、そもそも用意されている名前をそのまま用いるが、これを変更しようとする者は、自らのアイデンティティを付した名前を用いたのではないかと思う。つまり、あらゆるRPGがそうであるように、主人公への感情移入が要求されているし、それを想定して細部に注意して作られている。さて、問題は、そうしたプレイヤーと感情の重なる主人公の出自なのである。あらゆるRPGが、感情移入する対象としての主人公について、プレイヤーにしらせていない。それはある種当然の話であり、主人公の「記憶」は一般的なRPGにおいてはどうでもいいものに近いからだ。物語的アイデンティティがあり、それを対象化する視点として主人公の目をプレイヤーは持つのである。主人公はあくまでも視点であって、物語に自らの存在の根源を包摂されたりはしないはずだ。しかし、このRPGは違う。主人公(あるいはプレーするあなた)自体が、物語中に出てくる者たちの夢なのである。夢が実態を持った結果なのだ。そのことに物語を通して気付かされる。感情移入の度合いに応じて大小の差はあれ、ショックを受けるように作られている。だから、すべての解決の後には、自らは消える存在であることを覚悟しないといけない。最後にヒロインが、「多くの失った人たちがいます。その人たちのことをたまには思い出してください」と(いうようなことを)言う。これは一つの感情移入先であるコンピュータからのプレイヤーへの語りかけなのかもしれない。これはこれでこれからのバーチャルな世界を考える重要な考察点だとも思えるが、今回は、そこには触れず、話を戻す。■「各人にとって自己自身は最も遠い者なのである」主人公が視点として物語を対象化するだけではなく、主人公が自身の存在を物語によって保障されている。これがFFXのポイントなのだろうと思う。ある種の論理的一貫性を犠牲にしても、この破れ目こそがアクチュアリティの源泉として残っていなければならないものだと思える。つまり、「自らが存在しているとはどういうことなのか」という問いをこのゲームは差し出してくるわけだ。物語の土地において、主人公は自らの存在をわかっていない。夢の世界から引っ張り出されたせいで、その土地との関わり方がわからないわけである。まさに、ニーチェが「自己自身が最も遠い者」だと言ったそのままの意味において、主人公は自分から「最も遠い者」なのである。■アイデンティティ自らの存在は規定者を必要とする。それは、他者の視線として表れる。自己自身が最も遠いとは、自らの存在を自ら規定することはできないからである。われわれは他者の視線によって、はじめて自らの存在位置を確認できる(この点、初期のポール・オースター作品が興味深い)。恐らく、アクチュアリティは、ここにあるのだろうと思う。自己を規定する存在の不在。これが「民主主義の不安」である。柄谷行人はこれを「王の穴」と読んだ。つまりは、王が存在しなくなった「民主制」において、民衆が代表されない状況が起こるということである。だから、それはある種の「英雄待望論」になり、ある種のポピュリズムになる。そして、そのような状況下で、何よりもアイデンティティを確実に保障してくれるのは、実は「死者の視線」なのである。この物語も、死者に規定されているのだが、「死者」というのは不動の視線を自らに投げかけてくれる。死者は、生きている他者と違い、ずっと自分を見守ってくれる(という擬制が成り立つ)。俺は実は、ここに現代の「靖国」問題の構造があるんじゃないかと思っているが、これはまたにしよう(「反戦老年委員会」さんから示唆を得たうえでコメントを付してある参照)。しかし、この物語は、それを超えようと示唆しているように思える。■オイディプスこの作品は、またオイディプスのシミュラークルとしても読める。父親を超えることが一つの目的として定位されており、オイディプスと同様に父を殺すことになる。オイディプスが父と知らずに殺したのに対し、このRPGでは、主人公は父と知りつつ父のために殺さないといけない。また、主人公の幼少期の記憶において、父を憎いと思う理由は、母を取られるからであった。つまりは、フロイトが解釈した意味での「父殺し」という自立の儀式と、父との和解の儀式が、このゲームのクリア条件とも読めるのである。(主人公とライバル的位置にある登場人物もまた父親を殺しているが、物語を超える契機を同時になくしている。)父親の視線に規定されてきた主人公が、そうした視点を超えて、自立する物語なのである。つまりは、そこに同一化していたプレーヤーが、最後に主人公が消えることによって、物語から離れ、自立するのだ、というふうに俺は読みたいわけだ。(そこには恋人との別れもあって、自立の材料が遍在している。)論理的にきっちり詰めたときに、この物語に解決があるのかはわからない。しかしながら、やはり、われわれは大きな物語に包摂されることを拒否できるんだというメッセージは力があるように思える。そうした個としての輝きが、この作品に力を与えているのだと思いたい。
2005.10.24
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最近、わかりにくい文が多かったので、また論調を戻そうと思う。保坂和志は、書き手も読み手も成長できるのが小説だという。簡単な伝達知識としてではなく、その文章に内在し格闘するなかで、世界への違った眼差しを獲得できるものが小説だという。まあしかし、小説家はそれでも読み手を意識しているはずで、最近の俺の文とはそこが違うところだった。俺の場合は、単に読みにくいだけなわけだ。しかし、わかりやすさというものには、いくつかの要件があるように思うのだが、恐らく、最も重要なものは<世界>の共有なのではないかと思う。つまり、俺が「象」というとき、「象」がイメージできるのは、同じく「象」がいる<世界>にいる人間だからである。「象」を知らない人間には、どんなに言葉を用いようとも、言葉だけではわかることはあり得まい。保坂の言う「内在」というのは、そういうイメージなんじゃないだろうか。一つの結論を宣言しよう。具体的イメージ無いところに、理解は無い。■ポピュリズムそんなわけで、(比較的にでも)わかりやすい文章のためには、題材選びが大切なわけだ。今回もそういうわけで、重要性・興味関心・<世界>の共有という部分において、現状の政治舞台を眺めることにする。ポピュリズムというのは、大衆迎合だとか、正しさよりも人気を取る政治姿勢だとか訳される。基本的に間違った定義ではないだろうと思う。しかし、だからといって、ポピュリズム政治家を軽んじて、その「凄さ」をわかろうとしないならば問題である。定義からイメージできるアホさとは別に、やはりポピュリズム政治家には、ポピュリズム政治家としての凄さがある。■まずは正論で行ってみよう例えば、石原慎太郎は「これだけをやる」くらいに横田基地のことを公約して出てきたはずだったが、最近はおくびにも出さない。「軽信症と健忘症」の都民は、日頃は忘れていて、選挙のときだけ思い出したようにテレビに食い入るわけで、争点を変えられて、容易にまた信じることとなるわけだ。また、「郵政」を言うときには、「政治家が一部の票の代表になってはならない」といっていた小泉という奴のほうは、ある種の集票団体で、しかも自身の総裁選では支援をもらった「遺族会」になると、もちろん何も言わなくなる。この点に関しては俺はどちらがどうとか言いたいんじゃない。結論への賛成反対の前に、その態度が政治家としてどうかと聞きたいわけだ。しかし、この記事において確認したいのは、そういうことではなく、ポピュリズム政治家には、論理を言っても始まらないということなのである。■ポピュリストの凄みポピュリズム政治家の凄みは、以前「政治家になりたいなら磨くべきスキル(2)」で語ったようなスキルを体で覚えているということだ。そこでは「騙す技術」だと述べたが、それは実は二つのことを含意する。・ひとつは、少数派の選別眼を持つこと。これは以前も述べてあるので難しくないと思うが、今回の小泉を例に採ってもう少し詳しく言えば、大衆の多数派の意見をとっているということがポイントだ。つまり、「遺族会」と「特定郵便局員」の差ではなく、より大きな層を形成している大衆が、どちらに心情的に近いかがポイントになっている。・もうひとつは、大衆の暗黙の不安を読み取れること。さてさらに重要なのはこちらだ。ここにこそポピュリストの凄みが表れている。小泉にしても石原にしても自分というものが無い。これには、「えっ?」と思うかもしれないが、彼らには実は「我」が無い。その都度、周りの反応に合わせて、自らの心情さえ変えることができるわけだ。自分さえも騙す域にまで達した詐欺師政治家のことをポピュリストと呼ぶわけだ。だから、悲しくも無いのに涙が流せるし、よくわかってもいないのに、真面目に考えている風を装えるのである。ポピュリストについて知りたければ、石原について書かれたノンフィクションである佐野眞一の『てっぺん野郎』がお薦めだ。下手に論理を振りかざす前原に、今の土俵では勝ち目が無い。支持層等に関して違う戦略を立てないことには、民主党はきついだろう。■小泉が危険なのか?以上のような理由からはっきりわかるし、歴史的にも証明できることがある。それは、ポピュリズムは「保守」からしか生まれないということだ。どんなに「つくる会」が詭弁を弄そうと、歴史的に全体主義は「保守」のものなのである。理由は簡単で、ポピュリズム政治家は、民衆多数派の「感覚」を読み取るがゆえに、多数派の保守的感情を必ず飲むからだ。ひどい財政的緊迫状況にありながら「消費税増税」を任期中にはしないと言い、「改憲」も任期中には行わない、と述べるのは、大衆の世論というものを察知する「直感」が優れているからに他ならない。日本という国にとって良いか悪いかは全く別として、小泉にしても石原にしても、こうした勘働きは、凄いものだと認めざるを得ない。ここを認めて、初めて対策が考えられるもののはずだ。だからこそ、俺は、小泉が危険というよりも、そうしたポピュリズム政治家を選出しているこの国の状況こそが危険だと思えるわけだ。「改革」は必要だ、でも、自分の生活は変わりたくない。というある種の矛盾した大衆の心情を、小泉は見事に体現しているわけである。■有難いと思うのは、ときに危険なことこの国では、昔から、自分のことをわかってくれる「お上」が人気だったように思う。「お上」という時点で、見えない権力関係があるのだが、そこを深く掘り下げずに、よくしてくれるように見える「お上」にコロッといってしまう。いや、これはこの国のみならず、ビスマルクからがそうであるように、近代国家という危うい形態では当然なのかもしれない。まさに「アメとムチ」だ。つまり、今そこに見える善意に有難がってしまい、毎度有難がらなくちゃいけないという問題構造に対して全く目が開かれていない状況におかれているわけだ。■愛しているからこそ、切り分けて疑う俺は「靖国」を語るときも、遺族のケアの問題と、「靖国」自体の構造の問題を切り分けて語ってきたつもりだ。だが、権力に絡み取られている人間にはそれができない。靖国神社が自らの考えから勝手にA級戦犯を合祀し、「靖国」自体が明らかに政治上の問題であると公言するのと同様のことをはじめたにも関わらず、そうした難しい問題よりも、とにかく目先の感情で結論を急いでしまう。そして、さらに問題なのは、ポピュリズム政治家は、そうした「感情」を汲み取って、涙が流せるし、逆説的だが心が無いからこそ嘘ではない表情ができる。それはある種の本物の「善意」なのである。「国を思って」特攻志願した人も「善意」だっただろう。これを「愛国心」と呼びたがる気持ちはわからなくない。だが、問題は、明らかに情報の非対称性がある状況での「善意」だったことなのである。「信じる」というのは、崇高なものであることは認める。だが、それで他者を不幸にする場合もあることを考えないといけない。カルトと呼ばれる宗教に入信した若者の信仰と選ぶところがあるだろうか?地獄への道は善意で敷き詰められている。俺は愛しているからこそ、切り分けて疑う。
2005.10.24
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先般、自分の書いたものが多くなってきたことに気付き、分類を試みた。この試み自体は、「分類」よりも自らの「同一性=複数性発見の物語」として機能し、結果的に失敗に終わったのではあるが、しかしながら、予想しなかった効果として、俺自らの「外」に気付かせるという契機になった。現在義務的にこなしているロールプレイングゲームの登場キャラクターの言葉に、「答えは○○の外にある。○○の内がわかれば○○の外がわかる」というようなものがあったが、つまりそういうことだ。■ブログは所詮日記であるブログというのは所詮日記であって、その人と形以上のものは出ないということは以前から考えているところだ。情報の伝達には、必ず、「編集」という「解釈行為」が内在し、伝達者=編集者の<身体>を必要とするものだからに他ならない。恐らく、同じような認識地平からであろうか、richstyles!さんのは以前からこの問題意識を繰り返していたように思う。「進歩のない人間がいくらブログを書いても何も出てこない」(参照)という言には俺も耳が痛いが、恐らく絶えざる自己鍛錬として、自分にも語りかけているのであろうrichstyles!さんの問題意識に、勝手に与ってみようというのが、今回の企てである。■<身体>という「世界」あるいは「物語」ジャン=フィリップ・トゥーサンの作品は、80年代の、フランス国内におけるポストモダンの華麗なる隆盛や、アメリカ圏におけるコミュニタリアニズムによるリベラルズへの異議申し立て等の思想界の流れに、文学の側からも応答した結果と捉えることもできると思う。それは、フランツ=カフカやロラン=バルトとは違い、前衛としてではなく、思想界の殿として表れたという意味である。なんとなれば、トゥーサンは、何よりもまず、フランス国内の学生にウケたのであり、輸入先のこの国にあっても、「若者」が<身体>的に理解する作品だったからだ。そのなかでも最もオヤジにも読みやすい『カメラ』は、「偶然」あるいは「全く繋がりようのないパラレルな事象」同士を、主人公の<身体>において軽やかに繋いだものとして俺には読める。作中最後においてカメラに写ったものこそが、まさにこの「作品」なのだといえるのではなかろうか(未読者のためにこれくらいで)。■<身体>の希薄?日記を公開するという大胆な試みは、コミュニティへのある種の憧憬に根ざしている可能性が高いんじゃないかと疑っている。<身体>という、コミュニティに内在して意味をなすものから「言語」が切り離されて、ある種の私的言語となりつつあった状況への危機感というのは、ヴィトゲンシュタインを持ち出すまでもなく、感じられていたのだと思われる。そうであれば、ブログを批判的に検証しつつも、肯定的に捉えることのできる観点も出てくるかもしれない。■<失恋>という機制今からみれば一昔前の恋愛形態がわかるという意味で文献的価値も高い『大失恋。』という本があった(過去形なのは、どうももう在庫僅少らしいから)。当時の女性の失恋話を集めたものである。<失恋>という<身体>言語は、その特殊性において最も個人的なもののはずである。しかし、<失恋>は「物語」という行為が似合う。それはつまり、最も「他者に理解され難い事柄」という<経験>だからこそ、その「他者には理解できない」という共通点において、逆に、共感可能性を保持しているものなのだということなんだ。もちろん、その共感には「擬制」があり、「権力」の契機がある。ゆえに、これを利用した「新興宗教」も可能であろうし、また卑近な例で言えば、失恋者というのはモノにしやすい(らしい)。■共同体―権力言語共同体に属する以上は、言語に根源的な問題として、「擬制」があり、「権力」が生じる。つまり、「俺の言葉」と「お前の言葉」の差延の問題だ。「経験宇宙」はそれぞれ違うのだから絶対に一致し得ないはずの事柄が、多くの言葉の消費によって「跳躍」する。その「跳躍」の間だけ人は自由を感じ、その運動全体は一つの「擬制」(理解という擬制)となって、人々を繋ぐ。これが「権力」の根源である。俺が「傘」といったとき、その名指しする<もの>は、聞いた奴の受け取る<もの>とは違う。「愛」や<感情>になればなおさらだろう。それを同一性を保持するものとして繋ぐのが、ある種の「権力」なわけだ。言語共同体に属する以上「権力」は遍在する。あるいは、「権力」は必要なものである。しかし、その「権力」は人を食らう。ルソーが著作横断的に提起したように、「権力」を避けられない状況にあっては、それを<可視化>することこそが最高唯一の方策なのである。立憲主義が動態としてしか存在しえない理由なわけだ。コミュニティはコミュニケーションに先行する。ここではこれがわかればいい。■小泉純一郎=杉村太蔵の人気の秘密軽やかとはとてもいえない重量感で、俺の論は飛躍するのだが、小泉=杉村の人気は、実はこのコミュニティと絡む。言葉の差延は高度な螺旋階段を上るわけで、あらゆる「機関」に、議論の作法というものが生じる。国会などはその一つの例で、素人お断りの雰囲気がある。ルールを明示もせずに、新しく入ってきたものに緊張を強いる。「女子供」を嗤って遠ざける雰囲気は、「国民の代表」という名目に相応しくなく、気持ちの良いものではない。そうしたことを、多かれ少なかれ、国民は感じている。そこには、確かにそれなりの理由もあるのだろうが、一般人にはわかるわけもない暗黙の了解があって、そうしたものが<可視化>されずに、何やらよくわからない「権威」を帯びている。選挙時は土下座までする国会議員が「先生」と呼ばれる機制がここにはある。小泉=杉村はそうした硬直した場所に素人の言葉を臆することなく持ち込む(小林よりのりなどもそうだ)わけだ。この国の人たちは、堂々としたバカを好む。それは、以上のような状況への鬱憤から来ているとも言える。自分も難しい話のわからないバカだから、「バカでなんで悪いか」と主張したくなるわけだ。人気の秘密はここにある。■「バカとして」の戦術を回避せよ!言うまでもなく、ルールが暗黙化し、外と内を分かつような硬直化が好ましいわけはない。しかし、それを「バカとして」しか解決できないところに、この国の不幸がある。それは小さな問題を解決しながら、ずっと大きな悲劇を呼び寄せていることに他ならない。せっかく積み上げたものを、壊すことによってしか解決できないのだから、まともな<保守>や<リベラル>が、両翼から批判したくなるのもわかる。しっかりとそうした硬直化の「権力」を<可視化>し、知的体力を蓄える方向を目指すことを、俺は諦めたくない。■Deliberationの契機としてのブログの可能性「共感」や「感動」と簡単に呼ばれるところには、確実に「権力」が内在している。俺がこれらの語に距離感をおくのは、自己中心的で自分勝手な奴等の「傷の舐め合い」が感じられるからだ。そうしたオナニズム的ブログ状況に対して、richstyles!さんのように、ブログの質を問うのは大変根源的批判だと思う。そうした問いに答えるために、これだけの回り道を経たが、俺はブログの機能に、それでも可能性を感じる。つまり、所詮日記だが、それは開かれた日記だということだ。記事は、確かに書き手のインプットによるのだが、それは固定されたものではなく、その書き手個人が新たな地平に到達する手段として、あるいは、そのコミュニティ「化」作用における、討論の契機として、つまりは、「熟慮」と「討論」という意味を併せ持つ「Deliberation」の契機として、捉えることができるのではないか。何よりも、自らの成長のために書くもの。そして、それが自ずと他者と関わってしまうもの。それが、「所詮日記、されど日記」としてのブログなんじゃないかと、また、俺は螺旋階段を上り続けるわけだ。
2005.10.24
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世の中の元気な流れと、牛歩のような読書、そしてあるロールプレイングゲーム(少し義務的にこなしている)によって、俺のブログは変調をきたしている。というわけで、書きたいことの処理が一向に進まず、たまる一方で、ここいらで自分のために整理だけしておく。「法はどこで生まれるのか」「国家が人権を保障することはできるのか」やはり、問題関心は「靖国」に代表される政府の動向にあって、「民主主義」についてもう少し知っておきたいわけ。
2005.10.21
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以前「靖国問題」「カタルシス改憲論批判」で書いたことを敷衍し、「靖国」的視座から民主主義というものに迫ろうと思う。何度も述べているが、「靖国」は全体主義の遺産であり、原理的に「民主主義」と相容れない。この問題を横目に見ながら日本は民主主義国であるといえるとすれば、それは知的体力が無いか、知的に不誠実かのどちらかである。また、「靖国」を積極的に擁護しながら「言論の自由」を唱える蒙昧がいるが、それは完全なる矛盾といえる。すべての権利を肯定できない地平においてしか「靖国」は擁護できないはずである。このことを開示していきながら、われわれは民主主義をどのような理由で求めるのかに迫ろうと思う。■宗教とは何か本論にいきなり入る前に、「宗教とは何か」について考えておこうと思う。これは現代民主主義を考えるうえで、そうしたセマンティックな(意味論上の)議論は避けて通れないのかもしれないと考えるからである。この問題意識は、鶴見俊輔が「日本人の多くは名前を与えればわかった気になる」と、まさに全体化社会への危機意識を持ちつつ、語ったことに共感したことから発している。「宗教とは」というとき、そこに仏教やキリスト教やイスラム教や神道をあてたところで意味が無いことは言うまでも無い。われわれはそれらだけを「宗教」と呼んでいるわけではないからである。まさか国が認めたものだけを宗教と呼ぶなどとは誰も言うまい。では、どこまでを宗教と呼ぶのか?同じ宗教内であっても、個々人の教義解釈は異なりうるし、新たな信仰対象を生み出すことだって可能であろう。こうして考えれば、宗教とは個々人の数だけ多様であるはずだ。つまり、宗教とはその個人の選好や趣味の総体なのである。この地点において、20条「信教の自由」は19条「思想及び良心の自由」を補完するものと捉えるのが正しい。つまり、歴史的に最も「思想及び良心の自由」を侵害しやすかった宗教と国家の繋がりをわざわざ20条でダメ押ししているのである。19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。20条(1)信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。(2)何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。(3)国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。宗教と聞いて、既存の名前付のものしか思い浮かばないというのは、想像力の欠如以外なにものでもないということがわかればここはそれでいい。■憲法の名宛人この国の首相が国会での答弁においておかしなことを言ったらしいが、憲法の名宛人は国家である。すなわち、19条も20条も国家への命令である。もしそこを国家の首長たる人間が「個人の自由」として語ったのであれば、人として頭が悪すぎるのか、あるいは政治家として無知=無恥すぎる。この場合、19条=20条は国家的機能と絡み合った「靖国」が、われわれの良心の自由を侵害することを禁止する条項と捉えるべきであるのに、そうした権力の働きを無視しているわけだ。何度も繰り返すが、個人的自由を歴史的に侵害しやすかった国家権力への縛りが憲法テクストなのである。こうして考えれば、政治権力による道徳教育や、国旗・国歌の強制も、十分に違憲なわけだ。■「靖国」は「日本人」に強制できない「靖国」の問題は、靖国神社が1869年に東京招魂社として創建された明治国家による明らかな人工物であるのに、まるでこの国の伝統であるかのように物言いされるところに表れている。「カタルシス改憲論批判」で書いたことでもあるが、「日本人ならば靖国を参拝するべきだ」という物言いは成立しない。伝統や文化という輩は、上の事実を意図的に無視しているのか、あるいは、端的に頭が悪いのかどちらかだ。百歩譲って(譲る必要があるとは思えないが)、神社が「日本」の伝統であるとしたところで、靖国神社が「その」神社と同一系譜にあると言うのはおかしい。これは、先に挙げた「名前が一緒だから同じはずだ」という「意味論の毒牙」に蝕まれているからに過ぎない。まあ、伝統でさえ個人的「良心の自由」を強制することができないというのが、現代民主主義=立憲主義の精神なのであるが。■「靖国」の問題「靖国」の一番の問題は、国家によって作られた靖国神社自身が「良心の自由」に基づいた「合祀取り下げ」を教義的理由から受け入れていないことだ。明治時代的論理に則り、見事に現代民主主義体制と抵触しているわけである。高々歴史136年の新興宗教が、ここまで依怙地になっているのは単純な話で、現代民主主義体制を受け入れていないからである。現代民主主義の否定をして、はじめて靖国神社足りうるわけで、そこに国家が関わるのであれば、歴史的にも特筆すべき違憲行為ということになろう。つまり、冒頭で述べたように、「靖国」の論理は、現代民主主義=立憲主義の価値である「人権」を放棄してはじめて可能になるものなのである。頼むから「言論の自由」などを持ち出す不誠実な態度はやめてほしい。そして、似たものとして、フセイン体制や金正日体制を支持してほしい。■改憲?自民党はこうした「政教分離原則」を憲法から外すことを考えてきたし、今なおそうしようとしている。言うまでも無く、それは現代民主主義=立憲主義を捨てることに他ならない。察しの良い方ならお分かりだと思うが、「政教分離原則」は憲法の根幹部分にあるわけだ。自民党のやろうとしていることは、戦前の状態に戻そうということであり、個人的権利に価値を置かないということなのである。■なぜわれわれの歴史は<民主主義>を求めてきたのか現代民主主義の最も重要な要件は、個人主義である。これは日本国憲法においても受け継がれており、その権利カタログの最初に位置する13条において高らかに宣言されている。「個人として尊重される」権利が保障されていることの価値をわれわれは忘れがちである。特に多数派に所属するとき、少数派に属する者が傷ついているのに気付かないことがある。また、時には自分が酷い少数派になる場合だってあることが想像できていないだけである。すべての権利を放棄できるものだけが、「靖国」を認めることができる。最後にアメリカの法理学者ドゥウォーキンの言葉を引こう。これは「アヴィニョンの子供達」さんからそのまま借りる。どこからの引用かわからない(恥)。我々は尊厳を尊重するが故に自由を主張し、かつ良心の権利をその中心におくのであり、したがってその権利を否定する政府は、他方でたとえより重要でない選択の自由をいかに我々にゆだねたとしても、彼らは全体主義者なのである。我々は尊厳を尊重するが故に民主主義を要求するのであり、したがって我々の定義によれば、良心の自由を拒否することを多数派に許す憲法は民主主義の敵であり、民主主義の創造者ではないのである。―ロナルド・ドゥウォーキン
2005.10.20
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この題で書くと予告し、五編も遅れて書く理由は、この題が射程とする興味関心の幅に広がりがあって、しかもそれが日に日に動き続けたからであった。そして今日に至っているのであるが、もちろん、その標的はいまだ定まっていない。こういう場合に考えうることは、恐らく、そうした標的となる事象が地下においては繋がっており、全体像の把握をしてはじめて個的な事象にまで戻ってくることができるといった類の性質を持っているということであろう。そのようなわけで、まったく予想だにできない言及行為を踏み出すわけである。こうした行為が快いはずはない。しかし、こうした行為こそものを書くということの意味する正確なところであることを思えば、またも俺はタンパク質を費やし、百戦百敗の行為を繰り返すわけだ。■「個」の手触りこの国における最も確信犯的小説家である保坂和志は、哲学・科学・芸術が社会的価値観や日常的思考様式を包括すると述べる。一時期流行った「周縁」論ではないが、日常的世界(ステレオタイプと一般論の海)から遠心化する力を持つこれら三者こそが日常的世界を更新していく力を持ち、日常的な美意識や論理のあり方を作り出していくと述べるのである。言うまでもなく「小説=novel」とは「新奇」であり、保坂はこの点おいて最も確信犯であるということができる。さて、こうした観点から保坂は、小説において「個」というものに重きを置く。いや、「個」こそ小説たらしめる要素だとまで述べている。「個」は「社会化」と対比される。つまり、保坂にとって小説とは、「社会化」と反対の機制を持つものなのである。■「議会」とは何か社会化においては共通の言語が必要になる。その言語がデリバレーション(討議/熟慮)によって磨かれ、われわれはそれによって真理に至ることができるという「擬制」を多かれ少なかれ信じている(そうでなければ、言葉は必要なくなってしまう)。言語共同体としてこの地域を捉えた場合、もっともその「擬制」を受け入れている場所が「議会」であり、それは「代議制」というシステムによって表象されている。つまるところ、「議会」とは「社会的擬制」の消費の地であり、生産工場である。■阿部和重の跳躍現在小説家阿部和重は『ABC戦争』において「跳躍」をしてみせる。それは読み手にさまざまなタンパク質の消費を起こさせ、ここにいる読み手には現代民主主義の代表の不在を吐き気を催させるように思い起こさせた。<Y>という文字が「跳躍」し、文字としての<Y>を超えて、女性の下腹部的記号や「猥談」という音から連想されるアイデンティティを受け入れて<Y>に回帰してくる。その運動=跳躍において、自己同一性を失い、複数の自己を受け入れ、もはや以前とは違った<Y>となる。阿部の小説の冒頭はこうした「跳躍」の運動を説明することから始まる。阿部はこれを「<Y>の悲劇」と呼ぶが、『ABC戦争』それ自体は更なる悲劇であり、<Y>といった踏み台的記号の無いところから語り始められ、どこへも行き着くことが無い。読み手は大いなる悲劇を感じずにはいられまい。■日常という悲劇「政治的言語」が跳躍し、その空中浮遊時間と例えることもできる「理性的討論」が行われる。静的な「議会」。静的な「社会的価値観」。静的な「日常的思考様式」。多くは、自らの自己同一性を忘れ、複数の自己を受け入れながら、グロテスクな形態で「議会=代表制」という「記号」を再生産する。こうして考えるとき、阿部の小説よりももっと悲劇的出来事がわれわれを取り巻く場で行われていることに目がいく。■「意味されない言語体系」と「代表されない代議制」阿部のいやらしさは、『ABC戦争』の最後において、足場のない跳躍を「小説」という「擬制」の再生産に用いていることだ。これはまったくもって、大衆化社会の代議制をパロっている。あるいは、インターネットをパロっている。あるいは、「靖国」をパロっている。あるいは、マスメディアをパロっている。あるいは、学校をパロっている。あるいは、病院をパロっている。あるいは、監獄をパロっている。あるいは、国家をパロっている。あるいは・・・このようにして、パロディという「擬制」を消費し再生産する。■<身体的>言語を取り戻せ俺ももう少しで、着地点の無いままこの文章を終わらせるという欲求に負けてしまうところであった。このように現代の病は深い。自分だけの「経験宇宙」から生じる<身体的>言語だけが、こうした消費・再生産を飼いならすことができる(さらなる複雑な「擬制」への踏み込みかもしれないが)。自らの地点から「個」を求め、<身体的>言語を公的言説空間へと送る。それをして、はじめて理性的討論が着地点を持つものとなる。結局のところ、フィクションへと息吹を吹き込むとは、これ以外に考えられない。残念ながら。
2005.10.19
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このところちょっと仕事が込んでいて、眠い。思ったことがすぐに形になるだけの文章表現力があればいいんだが、俺はいつも絞り出す感じで書いているわけで、眠いときにはすこしきつい。書くことを絞り出しているわけではない。いまは書きたいことがありすぎて、時間を必要としている。そう、俺はことばを生み出すのにタンパク質を消費する。しかし、予告くらいはしておかねばなるまい。というより、これを見て代わりに語ってくれる人がいればそれでいいなとも期待している。■参拝――二面パフォーマンス今日はこの国の首相が「公約に近い形で/を破る形で」靖国神社を参拝した(参照)。報道陣へのリーク付きという手の込んだパフォーマンス。本人としては、板ばさみのなかで、ギリギリの選択をしたつもりでいるのだろう。・報道陣を呼んでテレビに映し、靖国の物語を再生産していることをアピールするパフォーマンス・拝礼を簡素化し、公人と見える素振りをしないというパフォーマンス両方への言い訳を考えながらやるなんて一番似合わなそうな今の首相が。リアル政治という苦手分野では、自民党の旧弊に染まらざるを得ないところが見ていて哀れだ。■参拝反対理由がしょぼいのが一番怖い靖国がなぜ問題なのかをやはり考える必要がある。アジア外交で問題だという理由は、やはり俺には「なんとなく」の理由に感じられる。「なんとなく」の理由は、簡単に反対物に転化してしまうから怖い。アジア関係という理由はある種のリアリズム言説であって、小泉のような板ばさみのリアリズムに対しては、何の反論にもなっていない。ただの水掛け論になるのがオチだ。それよりも俺は、これが「人権擁護法」や「共謀罪」「障害者自立支援法」などと絡んでいる政治構造的問題に感じられる。ここに関して、今後眠くないときに書く。■まあ簡単に以前「靖国問題」で書いたとおり、参拝は違憲だ。「公人だから」違憲なんじゃない。「靖国」が違憲だから、公人参拝も違憲なわけだ。違憲というのは、現代民主主義を脅かすものだということを意味する。そういうわけで、先の悪法律群と関わってくる問題なわけだ。■国家という「自作自演」装置自分で殺しといてその供養施設をつくるという喜劇のような悲劇が「靖国」には表れている。いまの政治を簡単に言い表せば、「権力の過剰」だ。それが「小さな政府」の呼び声のもと行われているんだから笑える。庶民への増税の断行には、国家の言うことを聞いてもらわなきゃ困る。アメリカの求めに応じて「軍隊」を持つためには、国家の言うことを聞いてもらわなきゃ困る。国家の言うことを聞いてもらうためには、国家はいいことをしているように見せなきゃいけない。かつては、「飴と鞭」だった。いまは違う。「雨と無知」だ。雨のような天災のように見える不幸と、大衆の「無知」。雨を降らせ、大変でしょうと傘を差し出す。その傘は高い高い。年金の問題が空から振ってきました。増税しましょう。って。■愛国心?国家を父に例えてみる。お父さんが立派なら、俺は貴方を尊敬します。でも、犯罪者だったら、愛をもって更生を願います。ただ父だからという理由で尊敬しろというのは、愛国心とは違う。それは剥き出しの権力です。ドメスティックバイオレンスです。でも、ドメスティックバイオレンスは、自律していない人間には効果的な支配方法。殴る。怖い。従う。褒められる。そうする。みたいな。精神的に自律できていない人間が、ファッション的に「愛国」を叫ぶ理由がここにある。これもいずれ書く。■言い訳予告だけにしようと思ったが、「参拝」があったせいで結構量がいった。小泉許さじ。疲れているせいで(か?)、論がバラバラだが、まあ、おいおい書きますんで。そうそう、忘れてましたが、バナー貼りましょうね。消費税が増税されたって天から降ってきた不幸みたいに思わないでくださいね。自分でNOと言いましょうね。参加を!
2005.10.17
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題が題だけにリリックに入りたいのだが、そこは勘弁願いたい。でも、俺が日本国憲法テクストのなかで、二番目に好きなところを引用することでそれに代えたい。ここはちょっと詩的なんじゃないかって思ってる。不器用でぎこちないが、多くの人の手を経て、それぞれの手脂によって深みのある艶を出した茶器のような味のある豪胆さが感じられる。第97条この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。俺は、日本国憲法テクストのこの部分に「立憲主義」の精神が顕れていると考えている。なぜに、日本という国の学校教育は、この部分を教えないのか気になってならない。カタログ化された権利の前に、この精神を教えなければ現代民主主義=立憲主義国家の成員として、それを有効に活用することはできまい。もし、成員の歴史的営為としての活用が無ければ、民主主義という体制自体が死んでしまうのに。■予備的問題としての精神的自由少し憲法学というものを齧った人間は、「二重の基準論」という用語を知っているはず。これは最高裁の法令審査において、経済的自由を規制する立法に対しては「緩やかな審査(つまり、立法裁量を認めやすい)」を行い、精神的自由を規制する立法には「厳格審査(つまり、厳しく違憲判断)」を行うべきだという、憲法学史的に涵養された理論のこと。通説といえる。つまり、精神的自由は「最大限に最大限に最大限に尊重されるべき」ということである。もし国会の多数派が規制しようとした場合、その判断に対して、最高裁判所は人権の砦として、積極的に介入するということである。理由がよく司法試験で聞かれたりするようであり、またこれには多くのアプローチがあるが、・「表現の自由」等の精神的自由は、民主制に不可欠な要素であり、それが損なわれることは「民主制の自殺」に等しいという理由。・精神的自由は(経済的自由よりも)、人間の人格に密接に関連しており、個人主義の大原則として、自ずから価値が高いという理由。などが挙げられよう。■国会多数派(あるいは「民意」)の怖さこうした理由は大切だろうと思う。しかし、俺はやはり(97条に絡めて)、歴史的に精神的自由が脅かされやすかったことと、その悲劇から学びつつ鍛えられてきた<強度>こそが、理由として相応しいと思う。そこからは、現代民主主義を生きるわれわれが守らなければならない価値がわかるし、さらに、時の権力者が「誤りやすい」事柄が理解される(これをジェニ子さんへの一応の回答とします)。翻って今の日本という国の議会を見れば、議会的多数を背景に、まさに経済的自由規制の緩和と、精神的自由規制の強化が図られている。これは、うえにみた通説の考え方とは、全く逆をやっていることになる。多数とはそういう怖さを持つものなのだ。歴史から学ばない態度とはこれを言うのだろう。あるいは、この国の首相には、そうした知識などないのかもしれないが。■表現の自由というカナリア歴史的に繰り返されてきた「試練」が、今またなされようとしている。人間はそれだけ間違いやすい。歴史は、人類の愚かな行為を学ぶのに相応しく、神話として有難がるのには相応しくないと俺は思っているのだが、それは兎も角、今回も「愚行」という「歴史的試練」が権利の歴史に書き込まれようとしている。そう、よく考えればわかる。大切なものは壊れやすい。表現の自由は炭鉱のカナリアである。民主主義がおかしくなるとき、表現の自由からやられていく。表現の自由は最も弱いものなのだ。■フィクションに力をフィクションというものは弱い。時の権力者によって、簡単に捻じ伏せられる。現代民主主義もフィクションなら、立憲主義だってフィクション、表現の自由だってフィクションだ。フィクションは弱い。しかし、人間は歴史的営為において、それに力を与えることを覚えてきた。そのフィクションにおいて、より良い社会を求めてきた。弱さゆえに弱さゆえに、われわれが日々そこに生命を吹き込み続けなければならない。
2005.10.14
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(1)のつづきA (1:16:28): でもブログの可能性にも期待したくもあるA (1:16:46): 今はみんな幅広く語ってるんだけど、B (1:16:53): うんA (1:17:05): テーマを決めて、スペシャリストたちが現れてくるとA (1:17:23): ある意味、ちょっとした新聞になるでしょB (1:17:37): 論説委員だけの新聞種B (1:17:40): だねA (1:17:44): そうねA (1:17:51): でも、新聞の役目ってそこだよB (1:18:01): うん、そうだと思ってるA (1:18:13): じゃなければ、インターネットで、情報だけ垂れ流しとけばいいB (1:18:31): うんA (1:19:00): ひとつのテーマに絞って、判断基準の知識を蓄えながら、A (1:19:11): それに関することを報告するA (1:19:17): まあ、ノンフィクション作家だねB (1:19:33): そうだね、公開取材日記だねA (1:19:46): インターネット発の小説は出てきたけどB (1:19:51): うんA (1:19:54): どちらかというとA (1:20:10): インターネット、いやブログ発のノンフィクションはありだねB (1:20:31): 小説よりもありな気がするねA (1:20:46): まあ、やってみないとわかんないけどねB (1:20:52): あは まあねA (1:21:05): ちょっとテーマを決めてやってみようかねB (1:21:21): うん、それもいいねA (1:21:23): 中東の政治なんか競合少なそうB (1:21:39): あはは 旅日記延長のならたまにあるけどねA (1:21:53): そういうのは多いけどA (1:22:02): 視座が定まってないよねB (1:22:18): 田中宇が一番読まれてるねA (1:22:24): ああ、そうだねA (1:22:30): 名前はよく見るA (1:22:36): 記事は読んだことないB (1:23:05): あれ?昔A読んで怒って長い抗議文メール書いて、途中で消しちゃったって言ってなかったっけA (1:23:12): そうかA (1:23:17): 送ってもらったやつだA (1:23:29): なんか、胡散臭いイメージはあったんだけど、あの人かB (1:23:45): そうそう、胡散臭い感じの人(笑)B (1:24:05): 今は割と、アメリカの政治についても書いてるよA (1:24:19): ふーんB (1:24:50): 「アメリカには、多極化にアメリカを向かわせるためにことごとく自国の政策を失敗させている勢力がいる」んだって。B (1:25:33): あまりにもアメリカの政治がお粗末なのは実は裏でそういう勢力がいるからだと。A (1:25:55): アメリカの政治がお粗末って言えるのもすごいなB (1:26:13): お粗末な失敗が続いている、だったかなA (1:26:27): ふーんA (1:27:11): アメリカを多極化に向かわせるってどういうこと?B (1:27:21): あのねB (1:28:17): アメリカがなんだかんだいって経済的にも軍事的にもNo,1だというB (1:28:49): 位置から降りて、違う勢力、EUとか中国とかB (1:29:35): にも世界の警察みたいな役割を割り振っていこうとかそんな感じだったよA (1:29:48): まあ、それはあるかもねA (1:29:57): それを多極化に向かわせるというのかA (1:29:59): それともA (1:30:07): もっと楽にしたいというのかB (1:30:15): 楽にしたいんだろうねA (1:30:23): 単純に財政上の問題だと思うけどねA (1:30:41): 今ちょっと覗いてみて、胡散臭さの原因が何となく分かったB (1:30:48): 早いわねA (1:30:54): まあ、なんとなくねB (1:31:02): なあにA (1:31:10): アカデミックな記事に慣れてると、そうでない記事に何が足りないかわかるB (1:31:16): うんA (1:31:26): なんだかんだ言ってA (1:31:38): 田中宇は、アメリカに寄生してるA (1:31:54): アメリカが論理の中心にいる記事しかないよA (1:32:12): 情報ソースは何かなって見てたんだけどB (1:32:18): うんA (1:32:20): ほとんど、アメリカの記事A (1:32:45): それを、表層的な部分だけ頂戴して、自分のチンケな理論で接合しているA (1:33:15): 部品一つ一つの精度の問題と、それを接合するハンダの問題が両方あるんじゃないかねB (1:33:46): そうかもねB (1:33:59): メルマガが今度来たらB (1:34:06): そこに注意してみるよA (1:34:19): ノンフィクションライターとかジャーナリストのように、しっかり足を運んでA (1:34:31): 当の人物を誑して、A (1:34:36): 信頼してもらってA (1:34:39): 情報を得るA (1:34:46): ってことをしているように感じられないB (1:35:05): ああ それはしてない 見たことがない 「○して」 なんて読むのA (1:35:12): たらしてB (1:35:21): たらして??A (1:35:22): 人誑しA (1:35:34): 秀吉は最高の人誑しだった。B (1:35:38): 女誑しっていう?A (1:35:41): それB (1:35:47): あああ そうA (1:35:51): 相手に惚れてもらうのがうまいB (1:35:59): 秀吉ってそうなのA (1:36:11): 司馬遼太郎の評価だったかなB (1:36:18): じゃ 信じないA (1:36:23): まあ、俺は司馬遼太郎を全然信じてないんだけどA (1:36:28): あはははA (1:36:45): 一緒だね(田中宇ファン、司馬ファンの皆さん、悪気はありませんので怒らないでね。)
2005.10.12
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A (0:19:59): 靖国の問題がこの前の話ではっきりしたんだB (0:20:11): そうかA (0:20:38): 賛成派も反対派も、お互い分かり合えない地平にいたんだということがわかったB (0:20:48): なるほどねA (0:20:54): それがわかったということは、新たな解決策が考えられるB (0:20:59): うんうんA (0:21:21): 結局、物語に内在している人たちは、反対派を非国民だと思うしB (0:21:31): そうだねA (0:21:35): 外にいる人たちは、内在している人たちの気持ちがわからないB (0:21:47): わかりたくもない、ところもあるだろうしねA (0:21:51): うーんA (0:21:58): 純粋に分からないんだと思うA (0:22:12): この間話してて、俺がそこを反省したんだB (0:22:19): そうなの?A (0:22:21): うんB (0:22:25): ふうんA (0:22:32): 遺族へのケアをやはりちゃんと考えないといけないA (0:22:57): 高橋哲哉みたいに、「悲しい」ことを「悲しい」と思えA (0:23:01): って命令しても、A (0:23:08): 遺族には無理だわなB (0:23:52): 悲しいは悲しい、すごくそれはそれで十分持ってる感情で、でもそれだけでは足りないんだろうねA (0:24:01): うーんB (0:24:51): 身代わりになった、自分が死んでもおかしくなかった、生き残ってしまった、A (0:25:03): どうだろうA (0:25:17): やっぱり物語が必要なほどショックだったんじゃないかねA (0:25:23): つまりA (0:25:39): あまりにも不条理すぎる死でしょB (0:25:46): うんA (0:26:06): 本来なら、何か悪いことしたのか!A (0:26:10): って怒りたくもなるA (0:26:15): 理由も無ければA (0:26:21): 結果も無いB (0:26:21): うんA (0:26:38): たぶん、そういう宙ぶらりんに耐えられないんだよA (0:26:57): 「国のために死んだ」って大儀名文が欲しいんだなB (0:27:07): うんA (0:27:31): 「国のため」って言葉をそれ以上深く考えるのは、靖国の物語では禁止されてるB (0:28:13): でもね、そのときの国は、自分の家族、コミュニティ、その延長としての国、っていうとらえかただと思うんだよね、祖父の場合はA (0:28:25): それはどうかねB (0:28:41): そう感じるよA (0:28:42): そうであれば救いはあるA (0:28:55): お祖父さんの場合はともかく、A (0:29:08): 靖国の問題は、中間の論理を排してしまっているところにあると思うB (0:29:18): 中間?A (0:29:21): 直に、靖国=国のために結びついてるA (0:29:38): どういう論理で国のためなのかってのが無いB (0:29:52): うんA (0:30:10): 全体主義の特徴のひとつA (0:30:26): 一気に「国のため」になっちゃうB (0:30:43): うんA (0:31:06): それが絶対的公理であってA (0:31:14): 他のものは、そこから派生するB (0:31:32): ふむA (0:31:50): 順序の問題なんだB (0:31:59): うんA (0:32:35): 家族が大切で、それを守る上で共同体が大切で、それを守る上で国が大切B (0:32:39): うんA (0:32:42): って論理が本当に成り立つならB (0:32:46): うんA (0:32:53): 全体化はしないA (0:33:00): でも、この論理はまず破綻するB (0:33:11): なぜA (0:33:20): 家族が大切だったら、国の施策に文句を言うはずだA (0:33:33): あるいは、言えるはずだA (0:33:50): 今回の、アメリカの反戦デモみたいにねB (0:33:59): うんA (0:34:05): 当時の日本は違ったでしょB (0:34:10): 違ったA (0:34:11): まず、国のためがあるB (0:34:15): うんA (0:34:24): それに整合するように、自分の感情を合わせるからA (0:34:40): 歪な形の「家族のため」になっちゃうB (0:34:53): そうね、整合するように自分の感情を合わせる、はしてるねA (0:35:04): 大きな物語に飲み込まれてるA (0:35:18): あるいは、A (0:35:22): 自分に嘘をついているB (0:35:23): うんA (0:35:37): 高橋哲哉は、そこを言ってるのねB (0:35:43): 自分にだまされているのねA (0:35:47): そうA (0:36:02): だから、高橋とか、俺みたいに、外にいる人間にはA (0:36:07): 全然理解できないA (0:36:14): バカじゃないの?って思うA (0:36:29): 明らかに、政教分離原則に反してるでしょってねB (0:36:35): うんA (0:36:47): でも、そういう論理で割り切れる問題じゃないんだA (0:36:48): もはやB (0:36:58): そうねA (0:37:08): それを昨日反省した(中略)A (0:44:08): I先生は、A (0:44:20): 民主主義に哲学は勝るA (0:44:27): という結論を持っているB (0:44:36): ふうむA (0:44:47): つまり、民主主義の基礎理論としてA (0:44:55): 哲学的叡智が必要だということねB (0:45:06): うんA (0:45:22): 民主主義なんだから選挙の結果が大切だ、なんてのはA (0:45:29): なんも勉強していないから言えるB (0:46:15): じゃ そういうひとには何をまず勉強せよって言う?A (0:46:26): 難しいねA (0:46:38): 民主主義は本当に良い制度なの?A (0:46:42): って聞くことからかねB (0:47:20): ああ、そこからね、確かにA (0:47:32): 民主主義は不完全な制度だからこそB (0:47:37): うんA (0:47:39): 取り扱いに気をつけないといけないB (0:48:00): うん、ほんとにそうだね だからジャーナリズムが重要だA (0:48:05): そうねA (0:48:11): まあ、ジャーナリズムというかA (0:48:28): 多くの言説が、しっかりと公に出てくることが大切だねB (0:48:50): うんA (0:48:57): 表現の自由が、民主主義の自己調整機能を担ってるB (0:50:20): それを日本では認識しにくくなっているのはなぜ?A (0:50:35): 表現の自由が無いからB (0:50:54): あらら そんなご無体なA (0:50:57): あははB (0:51:09): シリアよりはありそうよ(笑)A (0:51:18): うんとA (0:51:24): 機能面でのことなんだA (0:51:34): 日本では確かに憲法上保障されてるしA (0:51:51): 今回の国民投票法案がそのまま通ったらA (0:51:58): どこかで最高裁まで行くでしょうA (0:52:04): 行かせなきゃいけないしねB (0:52:16): うんA (0:52:17): でもね、A (0:52:26): 例えば、シリアではA (0:52:31): そういう保障は無くてもA (0:52:46): 権力が押さえ込んでることはある程度わかってるB (0:52:54): 自明A (0:53:02): そういう感覚を国民が持ててるんだと思うA (0:53:08): 日本ではB (0:53:15): そっかA (0:53:35): すべて情報は出てきてると勘違いしている御目出度い人たちがたくさんいるB (0:53:51): うん、うまくごまかされているA (0:53:56): そうB (0:54:11): なんでそんな国とか政府を信じられちゃうのか不思議だA (0:54:27): そうなんだけどA (0:54:32): それが、現代の病A (0:54:52): なんでかねB (0:55:13): うんA (0:55:15): まあ、報道機関がいけないA (0:55:25): 自分の足で情報を取らなくなったA (0:55:38): 官邸発表をそのまま記事に流すA (0:55:53): そこにくだらない揚げ足取りをしたりするから、もうどうしようもないB (0:56:48): 追わなくていい事象とかもあらゆることを取材しなきゃいけなくて、浅く広くかつ目を引く記事を盛りだくさんB (0:56:56): 書かなくちゃいけないのかなA (0:57:06): 商業主義とサラリーマン主義B (0:57:31): うん。そこに矜持はないA (0:57:43): ないないA (0:57:49): あるわけないA (0:58:09): 全国紙にまで大きくなったから良くないA (0:58:20): アメリカみたいに、地方紙がメインになるべきB (0:58:58): なんでそこが関係するのA (0:59:32): 日本全体の記事を得ようとするから、官邸とか、警察とかの発表に頼らざるを得ないB (0:59:49): ああA (0:59:55): もっと、記者と記事と読者が小さな環で繋がっていればねA (1:00:18): メディアこそ、国民国家を再生産するわけでA (1:00:51): はっきり言って、今のテレビや新聞は見なくても、全然生活に困らないA (1:01:09): ギャッベイジな記事ばかりでねA (1:01:39): それよりも、ノンフィクション作家のもの読んでる方が、ずっとよくわかるB (1:01:52): そうかもねA (1:02:06): 商業主義だから、なんかセンセーショナルな記事が必要になるB (1:02:15): うん、ほんとにA (1:02:16): 本当のところ、読み手にとってほとんど役に立たないのにA (1:02:32): メディアは死んでるよB (1:03:11): 今回の新聞の選挙報道、ほんとにくだらなかったね マドンナがどうとか、君らは文春かっつーのA (1:03:25): もう、オールタブロイド化B (1:03:32): そうタブロイドA (1:03:34): 読売だけだと思ってたけどA (1:03:45): 朝日も毎日も日経もそうなってるB (1:04:52): 「これは報道しなくてもいい。その代わりこれをもっと深めよう」って判断すればいいのにねB (1:05:00): インターネットでタブロイドは十分よA (1:05:06): 本当だよねA (1:05:17): インターネットで変わることを祈りたいけどA (1:05:27): 全国紙ってところが、A (1:05:39): どうしても、すべての網羅を必要としちゃうんだよねB (1:05:49): そういうことねA (1:06:15): ネットでは東京新聞を褒めてる人が多いんだB (1:06:20): へえええB (1:06:33): なっちゃんのCMがいいとか(笑)A (1:06:36): http://www.tokyo-np.co.jp/A (1:06:37): いやいやA (1:06:45): やっぱり、地方紙だからねB (1:06:52): ふんふnA (1:06:59): HPもA (1:07:03): 特集が面白いよB (1:07:07): そうかA (1:07:13): 「靖国」を語るとかねB (1:07:22): なるほどA (1:07:38): 見栄えは大手に敵ってないけど、内容は勝ってるB (1:07:55): 生き残るかもねA (1:08:02): そう思うB (1:08:10): 夕刊やめたりいろいろ策を考えてるよねA (1:08:24): 毎日は、その点対処を間違えたからねB (1:08:31): そうなのA (1:08:46): やっぱり、論を尖らせなければならなかったのにB (1:08:56): うんA (1:08:56): なぜか、中庸をいってしまったB (1:09:11): そうなんだ。。。意味ないねA (1:09:14): ないよA (1:09:25): 昔みたいにバリバリやってればいいのにA (1:09:36): 部数が減ってくると、守りに入っちゃってA (1:09:43): ジワジワやられるB (1:10:30): 一度大手って気持ちを味わっちゃっからかねA (1:10:39): そうねA (1:10:53): そして、読売と違ってB (1:10:59): うんA (1:10:59): 大衆迎合も出来なかったB (1:11:07): あははA (1:11:12): 変なプライドはあったB (1:11:25): 半端なねA (1:11:27): でも、プライドを尖らせられなかったA (1:13:33): 立派な人もいるんだよB (1:13:47): ふうんA (1:13:59): 毎日は、昔は一匹狼たちの集まりだったようだからねA (1:14:09): 今は、ちわわレベルだB (1:14:21): ちわわ組A (1:14:25): 笑B (1:15:27): 今日はマスコミの悪口ばっかだA (1:15:35): あははA (1:15:48): 大切だと思ってるから厳しいんだけどねB (1:15:58): そうねB (1:16:13): 大切だし、危ないしってねA (1:16:17): そうつづく
2005.10.12
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残念ながら自由がわかっている人は少ない。わかっていない多くの人たちは「日本は民主主義だから」とか「日本は自由が保障されている」とかののたまうが、自由のことがわかっていないので、時代によっては率先して自由を呪うようになっていく。「今日は民主主義らしく映画を見にいく。しっかり楽しむように」と戦後に言葉だけ変わって、態度は戦前のままだった学校教員と同じだ。こういうやつらを指して「戦後民主主義は良くない」というなら、俺も賛成だ。■自由は認めてもらうもんじゃない自由というのは誰かに認められて成り立つと信じている御目出度い阿呆がいる。そしてその数は殊の外多い。例えば、「権利は義務を為してから言え」というのがある。なんで?誰のための義務を為して、誰に認めてもらえと言うのか。まるで、封建社会。ご恩と奉公か。このレベルで権利=自由を語るやつらが多くいる。義務を果たすから権利がもらえる? 冗談じゃないぜ。そんな自由なら、ナチズム下にだって、スターリニズム下にだってあっただろうよ。言っとくが、立憲主義の現代の局面においては、憲法上「個人」の権利=自由が保障され(つまり個人主義だ)、それを阻害しないように「権力」に義務が課されているんだ。おのれの勘違い解釈を振りかざすのだけはやめておくれ。■その改憲論はおかしいまったく同じ構造で、「憲法に新しい権利を書き加えよう」という、ひどくお頭の足りないステレオタイプを唱和するやつらもいる。もちろん、読売や政府の案などは、9条のために、こういういろんなことを加えて、「なんとなく主義者」たちに訴えかけるわけだが、そういう憲法の捉え方は、脳に栄養が行っていないからこそできる。ちょっと考えればわかるはずだが、「憲法に新しい権利を書き加えよう」という言は権利が憲法に記されて初めて成り立つという考えに立っているが、それは権利=自由ではない。そういう権力者に認めてもらう構造とは違う。環境権? お前らは、これを「個人」が真剣に訴えたとき反対した側じゃねーか。環境権は、個人的自由の精神をしっかりと憲法から読み取ったから出てきた権利だ。今の憲法で十分だ。■自由は「ある」自由は「ある」。我々はいろんなことを「自由」に行っている。寝るときにどっち向きで寝るのか、昼ご飯に何を食べるのか、どれくらい食べるのか、そうした当たり前のことを当たり前にやっている。しかし、もしそれが阻害されたらどうか。当たり前の生活を当たり前に過ごせなくなったらどうか。このときに「権利」の主張が生まれる。■自由は脆い民主主義という制度と同じく、権利=自由もまた脆い。自由は「ある」ものにもかかわらず、憲法でわざわざ権利を列挙しているのは、それが歴史的に「権力」によって蹂躙されやすかったからだ。「権力」というのは、民主主義における「多数」だってそうだ。憲法には人類の叡智がつまっている。人間はこんなミスを犯しやすいんだと教えてくれている。それが「権力」と関わることが多かったから、「権力」が「義務」で縛られている。■パラダイムシフト考え方を変えなくてはならない。われわれに自由が「ある」ことを知らないといけない。奴隷の倫理を捨てなくてはいけない。自由人の国家と奴隷人の国家、どちらを選ぶのか。■大きな物語を拒否する俺は大きな物語に包摂されることを拒否する。これに関しては「回り道雑談」でも述べたが、今回は、これにぴったりな歴史的証拠物を「Fixing A Hole」さんが書かれているので紹介する。本当は、これの紹介だけで良いと思ったほどのものだ。ぜひ見て欲しい(こちら)。
2005.10.11
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最近遅筆なのは阿部和重を読んでいるからで、遅筆もそうだがさらに遅読な俺は少ないマインドシェアをそちらに費やしてしまっているわけだ。そのうちたくさん書き出すだろうと思う。次回は「理性的討論と<身体的>言語」というちょっと前にアカデミックに論じられた事柄を俺の関係性において書く予定。乞う無期待。というわけで、考えるというのは時間がかかるし、同時に時間をかければ考えることが生じるということを言いたいわけだ。車はブレーキがあるからスピードも出せる。そういうことだ。■小泉が危険な理由最近、小泉が危険だと思うようになった。小泉は何もわかっていない凡人だからだ。あいつは奇人ではない。凡人だ。田中真紀子には言うまでもなく人を見抜く目がない、確かに小渕は政治家として凡人だったかもしれない。しかし、小泉は人間として凡人なのだ。政治家小泉として考えれば、性質の悪い凡人だといえる。■私怨小泉の「郵政」は「経済改革」ではなく「政治改革」だ。しかも私怨に基づく。これは有名な話。やつには「経済」なんてどうでもいい。10年以上ずっと言い続けている「郵政」が、「今の経済改革」だと言うには無理がある。小泉は角福戦争における私怨を晴らすために、田中角栄が集票組織とした特定郵便局を今「ぶっつぶ」そうとしているのである。前国会において自民党が党内調整のため詰めに詰めた修正案を、「原案と変わっていない」と言い切ったり、今国会での「アメリカの利益誘導になっているのではないか?」との質問に、「そういう悲観論だから、(民主党は)議席を減らしたんじゃないですか」といった、中学生でもわかるおかしな答弁をする。理由は単純で、「郵政」を言ってきた小泉が法案の中身なんかわかっていないからだ。「経済」なんてどうでもいい。田中角栄への恨みを今晴らしたいだけだ。しかし、それに付き合わされる国民はたまらない。■改憲?小泉にとってはまた「改憲」もよくわからない。だから積極的にやるやつらに任せておけばいいと思っている。安部や中曽根が勝手にやっていて、小泉は興味が無いからどうでもいい。「靖国」も同様で、大阪高裁の違憲判断に対して「理解できない」と言ったのは、(ブレーンからのパフォーマンス指示はあったにしても、)本人は本当に憲法の原則など理解できていないからだ。■小泉の得意なこと小泉の得意なことは、「政策」ではない。同じ慶應出身の「一億円闇献金男」とそこが違うところだ。小泉の得意なのは、選挙に勝つこと。これである。小泉は都市型選挙での勝ち方を知っている。発言を振り返ってみればいい。内容より、身振りや印象付けを重要視している。■構造が危険小泉がマスコットになりつつ、裏では好き勝手なことがなされている。責任を持つはずの小泉自身がわかっていないことだから非常に性質が悪い。本来なら政治の場に立ってはならない人間が(やり方もわからず)舵取りをしているわけで、船に乗せられている方はたまったもんじゃない。全体として、ブレーキの無い車のようになってしまっている。小泉が政策を少しでもわかっていれば、国会答弁ももう少しまともになり、多少のブレーキも働くだろうし、国民に政策内容がオープンにもなろう。しかし、実際のところ、説明する人間が内容をわからないまま、かたちを取り繕っているだけなので、本当の怖さが表立ってこない。自ずとブレーキも働かない。■我々がブレーキになろう!日本の重要な時期は、この「本当は改革などどうでもいい」と考えている凡人にゆだねられてしまっている。その勢いで、次の首相がコーナーを曲がりきれるのだろうか。恐ろしい国。大きな車だ。ブレーキが必要だ!
2005.10.11
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(1) (2)のつづきA (1:51:55): そのふたつの差はなんだったのかA (1:52:00): これがA (1:52:10): その問題を解く鍵なんだと思ってるB (1:52:34): ふたつって、枢軸国と連合国?A (1:52:47): まあ、結果的にはそう分かれたけどA (1:52:51): そういうことじゃなくてA (1:53:02): 全体化した国と、しなかった国B (1:53:27): ああ、傾向がそのまま結実してった国とそうでなかった国ねA (1:53:36): うんA (1:53:40): 違いは何だと思う?B (1:53:51): 多様性?A (1:54:13): それも一事象だと思う。A (1:54:22): けど、なんでそれが可能だったのかだねB (1:54:57): 国の理念、みたいのもあるのかなA (1:55:17): どんな?B (1:55:58): 自由、博愛、平等、、、、 うーんわからないA (1:56:03): あははA (1:56:08): それっぽいねA (1:56:17): 端的に歴史的事実としてA (1:56:30): さっきの連合国側陣営はA (1:56:36): 市民革命を経験しているB (1:57:06): そうだねB (1:58:07): でも、それもあると思うけど、全体主義化した国は「二番手」であったことも関係してるかもねB (1:58:41): すねお的位置。権威にあこがれる位置。B (1:59:27): とは言っても市民革命のほうが鍵としては重要そうだねA (1:59:37): うーんA (1:59:41): まあそうかもねA (1:59:44): でもA (1:59:50): そうだとしても、どの要素かってことがねA (2:00:17): ここからはA (2:00:32): 予測B (2:00:39): うんA (2:00:56): K先生の研究をみていると(つまり、K先生はそう考えているんだと思うんだけど)A (2:01:19): 表現の自由の価値が、国として少しは尊重されていた。A (2:01:26): っていうと語弊があるなA (2:01:58): 少なくとも、言論の自由に関する「法の運動」の積み重ねがあったB (2:02:19): ふむふむA (2:02:21): ひとつの大きな物語に全体が包摂されないようなA (2:02:27): 対抗言論の余地があったB (2:02:36): なるほどA (2:03:10): 全体主義国家はすべて、表現の自由をことごとく奪ったB (2:03:25): うん。A (2:03:39): そこが関係しているんじゃないかと思うB (2:05:30): なるほど、、、A (2:06:01): だから具体的に今何をできるかって考えたらA (2:06:14): 表現の自由を守ることをしないといけないし、A (2:06:23): 言説の多様性を保障しないといけないA (2:06:56): でも、政府は国民投票法案において、メディア規制の条項を入れていたりするA (2:07:11): ちっとも歴史から学んでいないB (2:10:36): うんA (2:12:16): たとえば、今回のブロガー同盟なんかはねB (2:12:24): うんA (2:12:26): 意見の一致を求めちゃだめなわけB (2:12:37): ふむA (2:12:49): 小泉政治に反対するそれぞれが、それぞれに意見を書くというA (2:12:55): 大同団結が大切だと思ってるA (2:13:10): いろんな立場の反小泉がいて、A (2:13:33): そういう言説が可視的になるところまでもっていけるかどうかがポイントB (2:14:16): そうだねA (2:14:41): うん、戦術というか戦略というか、わかんないけどA (2:15:09): とにかく、多くの(現在の政策に反対する)言説が存在できている状況をA (2:15:17): 皆で確認できるのも大きいA (2:15:44): そういう運動が、結局表現の自由を支えるんじゃないかと思ってるB (2:15:48): そうだね 「じゃ、私はどう考えるかな」ってB (2:16:03): 参加できる余地がないとねA (2:16:07): そうA (2:16:19): だから、その方法論に対して、やっぱり文句が出たB (2:16:31): そうなんだA (2:16:40): 呼び掛け人の考え方でいいのかってねA (2:16:48): みんな騙されてるだけだろってB (2:17:39): うんA (2:17:56): 「連帯」っていう政治学の概念がわかってなかったんだねA (2:18:13): ひとつの意思みたいのを、人は求めたがるB (2:18:29): それこそが強い、ってねA (2:18:35): うんA (2:18:58): 今回は、みんな個人でブログを書いている人たちだけあってB (2:19:08): うんうんA (2:19:09): 個人主義者ばかりだったよ(笑)B (2:19:14): あはははA (2:19:22): それが集まるのが「連帯」A (2:19:30): 旗だけあれば足りるんだA (2:19:42): 今回は「バナー」だけどB (2:19:49): うふふA (2:20:03): まあ、成功するかはわからないA (2:20:05): でもね、A (2:20:19): 今、日本でもこういう実験をやるべきなんだよねB (2:20:34): そうだよね A (2:20:43): 政府は大衆を騙す術をもってるA (2:20:55): それに対抗する方法は、失敗を繰り返しつつA (2:20:59): 鍛えていかないといけないB (2:22:26): うん 失敗っていうかそれはひとつのステップだよねB (2:22:35): 鍛えていくためのA (2:22:41): そう、プラグマティックに考えないとねA (2:23:05): まあ、おかげで、自分のやってることの整理ができたよA (2:23:09): (笑)B (2:23:29): それこそ少しでもお役に立てて光栄です(笑)A (2:23:40): うふふA (2:24:08): U先生が『帝国を撃て』っていう仕事をしたって書いたよねB (2:24:34): 入手したのA (2:24:37): 在庫切れだったB (2:24:45): あらら 売れてるのねA (2:24:48): うーんA (2:24:53): 入荷が少ないんだろうねB (2:24:59): そうか、、、A (2:25:05): でもねA (2:25:10): そこがU先生なりのA (2:25:20): 現代に対する方法論なんだと思っててA (2:25:27): ちょっと学びたいんだB (2:25:32): ?A (2:25:54): 「国民よ」という呼び掛けが大きくなる中での対抗言論としてA (2:26:21): 「平民よ」と呼びかけた平民社の活動研究らしいB (2:26:33): ふむふむA (2:26:52): それをちょっと聞きかじってたから、ブロガー同盟参加した(笑)B (2:27:36): 早稲田遊びに行ってみたらA (2:28:09): そうねA (2:28:13): 暇があれば行きたいA (2:28:19): 結婚しましたってねB (2:28:27): (笑)A (2:28:49): でも、勉強してないと怒られるって感覚があるんだよなB (2:29:09): してるじゃないA (2:29:18): してるうちには入らないねA (2:29:24): 残念ながらA (2:29:34): やっぱり趣味と研究は違うよA (2:29:56): ひとつの方法論を打ち立てて、それにそってしっかりと読むべきものを読まないとB (2:30:19): そうしたい、のはわかるけどねA (2:30:29): 深みが違ってくるしA (2:30:46): 発見に至らないA (2:31:26): よくて立花隆くらいにしかなれないB (2:32:13): Aみたいな、学者と大衆をつなげる人っていうのはとても希少価値だよA (2:32:28): そうかもねA (2:32:42): ジャーナリズムがやるべき仕事だね、本来(笑)B (2:33:25): それは今期待できないわけで。A (2:33:34): そうねB (2:33:52): だからこそ、学者の世界に今いないAと話すことは先生たちにとってもB (2:33:58): 意味の深いことだよA (2:34:02): あははA (2:34:04): それはないよA (2:34:15): 素人なら学生だけで十分って思ってるよB (2:34:30): ならB (2:34:43): だからこそジャーナリズムも育てそこなったんだA (2:34:57): 早稲田批判ですか(笑)B (2:35:09): 日本の学者全般の批判です(笑)A (2:35:30): まあ、ブログは面白いかもよA (2:35:39): そろそろ飽きてきたんだけどねA (2:35:43): (笑)
2005.10.08
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(1)のつづきA (0:46:12): やっと最初の地点に辿り着きつつあるんだけどA (0:46:27): 他者のことがわからなければ、A (0:46:40): 現代の俺らとしてA (0:46:58): 事なかれ主義に接するしかないA (0:47:09): つまりA (0:47:36): インドやアフリカの飢餓の惨状を(意図的に)知らずに過ごしているB (0:47:44): うんA (0:48:00): わからないわけだA (0:48:04): それを認めているB (0:48:18): うん。A (0:48:25): でも、甘えの原理では、A (0:48:41): 他者の考えが「わかっている」B (0:49:10): うんA (0:49:27): あるいは、そう「わかる」ような言葉しか与えられないA (0:49:31): 例えば、A (0:49:43): 「靖国」に参拝した人がA (0:49:59): 心の中で言う言葉は何にしても、A (0:50:14): 表立っていう言葉は、与えられた形でA (0:50:17): 決まってしまっているA (0:50:44): 物語的抑圧がある。B (0:51:07): うん。A (0:51:21): そういう想定にたってる人はA (0:51:48): 他者の心の中を真剣に考えることもなくA (0:52:14): 「○○」と思っている(はずだ)と決め付けて語るA (0:52:24): 物語的ステレオタイプでもってねB (0:52:43): そうかもA (0:53:03): 俺はそれを「他人事主義」と呼んでるんだねA (0:53:32): 「甘え」があるから、他者の心の「決め付け」があり、A (0:53:43): 変な形での「関わり」があるB (0:54:20): じゃあB (0:54:35): 「他人事主義」と「事なかれ主義」はB (0:55:41): スタートポイントの「他人のこともわかる」「他人のことはわからない」がもともと違う。だから、B (0:57:19): 他人が本当に何を考えたかを(ある程度)知って驚くのは「他人事主義」のほうになっちゃうのではA (0:57:33): それは違うよA (0:58:04): 知って、想像力を刺激されて、驚くのは「事なかれ主義」A (0:58:22): うんと、日記にも書いたんだけどなぁ(参照)B (0:58:35): あははごめんB (0:58:55): 私も驚くのが「事なかれ主義」だ、って思ってるんだけどA (0:59:21): 「事なかれ主義」は、それ自体ではまだ危険ではない。むかつきはするが。 「事なかれ主義」はある種の自己保存欲求に支えられており、他者にとって計算可能な態度である。 A (0:59:37): つまり、物語的でない態度なんだB (1:00:09): うん、中立的A (1:00:22): うん、中立的というのがあるかわからないけどA (1:00:26): 言ってみれば、A (1:00:29): 自分主義B (1:00:43): まあ そうかA (1:01:10): これが酷くなった80年代以降、A (1:01:39): 都市層を中心にした新保守主義が出てきたという分析があるA (1:01:52): ミーイズムばかりじゃ、日本が悪くなるってねB (1:02:07): うんA (1:02:18): でも、俺にとっては、新保守主義の方が、よほどグロテスクだB (1:02:31): どうしてA (1:02:35): だからA (1:02:48): 日本っていう枠組みのなかで物語をつくるけどA (1:02:52): そんなもんはないわけで、A (1:03:11): そうすると、少数派のことなんか忘れた言説が出てくるB (1:03:26): そうだねA (1:03:55): ミーイズム(あるいは、事なかれ主義)は、端的にコミットしない態度B (1:04:06): うん。A (1:04:07): でも、A (1:04:26): 他人事主義は、他人事として他人の考えを蹂躙するA (1:04:55): そしてその基底には「甘え」があるB (1:05:08): 他人事主義と新保守主義、似てるA (1:05:17): というか、A (1:05:24): 新保守主義の言説は、A (1:05:32): 物語に支えられててA (1:05:50): それゆえに、内部はみな「他人事主義」者なわけねA (1:05:53): だから、A (1:06:15): 「日本人なら靖国参拝するべきだ」といった意見を吐けるわけB (1:06:44): はぁあ そんなこと言ってんだB (1:08:28): でもなんでAがグロテスクって思うか少しはわかったよA (1:08:42): それは光栄ですB (1:08:49): へんなのA (1:09:05): そういう議論をしてたのよA (1:09:09): 日記でもB (1:10:34): 靖国に戻っちゃうと、祖父なんか見てると、無駄死にだったと思いたくない、って感じるなあA (1:10:55): さっき留保していた議論にいきなり飛び込んだねB (1:11:43): 頭いまおかしいからね ごめんごめん昨日ワインとビール1杯と焼酎で寝てしまったA (1:12:02): いやいやOKA (1:12:10): そっちに行こうと思ってたのでねB (1:12:24): あははB (1:13:22): 今 スクロールして前の議論を確認中の二人。A (1:13:25): B: そうだね、そう思うことが「美徳」(「美毒」って間違えて書いてしまった) A: 美徳かどうかはちょっと留保しよう A: なんでそう「すべき」なのかは、もうちょっと後でね A (1:13:31): ここのところだねA (1:13:49): つまりね、A (1:14:01): 物語は、抑圧作用を持つ前段階においてA (1:14:17): 積極的な支持者たちが作り出しているわけだA (1:14:34): それが内部で再生産し続けるA (1:14:57): 無駄死にだったと思いたくないA (1:15:23): その感情を鍵にして、違う感情を錬金術的に作り出しているB (1:16:06): 誰が作り出しているのA (1:16:20): そこを考えないといけないA (1:16:30): 今日のふたつ目のテーマだねB (1:17:00): 権威に関係してるねA (1:17:06): たぶんそうA (1:17:32): 権威に関しては、『権威と権力』を読んだところなんだけどB (1:17:39): なだいなだA (1:17:43): そうA (1:18:03): 権威が失われる契機に関して、A (1:18:09): 本の中でA (1:18:19): 権威を持つ方の問題というよりも、A (1:18:27): 権威を認める方の問題でもあるA (1:18:31): みたいなこと言ってるB (1:18:44): ふむむふB (1:18:56): ふむふむのまちがいA (1:19:00): うんA (1:19:02): ということはA (1:19:18): 逆に言えば、A (1:19:40): 権威が生じるときもまた、認める側の問題として捉えるべきかもしれないB (1:20:08): うん、その権威を必要とする側。A (1:20:13): そうA (1:20:25): また高橋哲哉に戻れば、A (1:20:40): 遺族の感情は「悲しい」のはずだA (1:20:43): 本来はA (1:21:00): でも、それを受け入れたくないB (1:21:25): それだけだとつらすぎるからA (1:21:31): そこで何かの物語を欲するB (1:21:40): 強烈にねA (1:21:42): 精神療法だB (1:21:49): うんA (1:22:07): それを国家が「靖国」として提供したB (1:22:20): なるほどA (1:22:34): だから、その物語で癒されている人たちはA (1:22:53): 靖国を拒否する遺族の感情は絶対に(というか原理的に)わからないしA (1:23:24): その物語を奪われることは、まさに「身を切られる思いがする」と述べる程になるB (1:23:43): そうか。。A (1:23:50): 「他人事主義」の完成A (1:24:47): そうした物語に内在している人たちが、国立供養施設(?)みたいな代替施設でA (1:24:53): OKというはずがないよねB (1:25:12): そりゃそうだねB (1:25:27): 物語がないA (1:25:49): 遺族会が、政治家の参拝を求めるのも、物語が自己再生産されなければならないからなんだA (1:26:01): 国として、でなければならないB (1:26:11): お国のために死んだ、からねA (1:26:16): そのとおりA (1:26:37): 非常に複雑な問題なんだよねB (1:26:50): そうなんだねA (1:27:02): でも、前にも書いたとおり、A (1:27:36): その(包摂の)原理は、少数派を抑圧するし、近代の価値と相容れないA (1:27:52): これはどうしようもないA (1:28:18): 「靖国」を語るとき、遺族のケアを考えるのが正攻法A (1:28:44): そして、遺族が全員いなくなるのを待つのが、今の政府の採っている対応A (1:28:59): 遺族はそれを恐れていて、A (1:29:10): だから自衛隊を軍隊化して、戦場に出して、A (1:29:22): 戦死者は靖国に入れることでA (1:29:31): 靖国を永らえさせたいB (1:29:32): ええっA (1:29:59): どこに、ええっ?B (1:30:16): そういう流れにあるの、今?A (1:30:25): ん?A (1:30:42): 一番スタンダードな改憲論のような気がするが・・・B (1:30:50): ああごめん、そうなんだ。。。。無知でしたA (1:31:03): ただ、政府の改憲論はアメリカ追従A (1:31:17): そこで、最近保守側も、政府の改憲論には慎重意見になりつつあるA (1:31:30): まあ、ちょっと大雑把に纏めすぎてるかなA (1:31:35): 保守にもいろいろあるB (1:31:54): ってAも言って種B (1:31:57): たねA (1:32:35): 小林よしのりは、昔から佐伯啓思の真似だからねB (1:32:46): ふうんA (1:32:53): ちょっと注意しないといけないのは、A (1:33:02): 佐伯は真の保守A (1:33:19): でも、無視できない世論をつくってるのは、A (1:33:22): 都市型保守B (1:33:34): グロテスクのほうねA (1:33:44): 2チャンネルのウヨクや、「つくる会」賛同者たちB (1:34:12): 知的怠慢者たちA (1:34:15): 宮台真司呼ぶところの「ヘタレ右翼」A (1:34:25): その通りA (1:34:50): でね、B (1:34:57): うんA (1:35:07): そうした靖国てき「他人事主義」とA (1:35:23): 現代の「他人事主義」の関連が今の研究テーマなわけだB (1:35:55): うん。A (1:36:16): 「靖国」の方はさっき言った通りで、それほど大きく外してないと思うA (1:36:37): 問題は、80年代以降、どうして現代「他人事主義」が生じたのかA (1:36:43): これなのねB (1:36:50): うん 非常に気になるA (1:37:09): ひとつは、今さっき言ったようにA (1:37:32): 死んでいく遺族たちの不安から出てるのだと思うB (1:37:48): 後は?A (1:38:03): 後がよくわからないんだけど、A (1:38:06): ひとつは、やっぱりA (1:38:25): 若者層の不安A (1:39:03): 物語が壊れているために、新たな「精神的」物語を求めているB (1:39:07): そうなの?A (1:40:50): うんA (1:41:11): 何らかの社会的不安かなぁ、とB (1:42:00): 物語が壊れたっていうのは、高度経済成長期がひと段落して、走り続けることで幸せにB (1:42:09): なれないってこと?A (1:42:16): うーんA (1:42:18): そうかもA (1:42:51): たぶんそうだと思うA (1:43:20): エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』って読んだ?B (1:43:31): まだ。。。。A (1:43:45): まだ、ってのは読む気あるんだね(笑)A (1:45:16): 受け売りすればB (1:45:28): うんA (1:45:40): 教会や、地域共同体の権威を引っぺがされた大衆はA (1:45:59): 「個人」という自由の重荷に耐え切れずにA (1:46:09): 大きな権威を求めて走ってしまうA (1:46:40): フロムは、それをドイツのファシズムの原因としてみたB (1:47:13): そういう本なのか。A (1:47:26): そういう本ですA (1:47:30): たぶん(笑)B (1:48:44): 若者の求める精神的物語、ひとつは、「日本人であることの誇り」かA (1:48:54): うーんA (1:49:01): まあ、まず欲求があってA (1:49:14): それに対して、答えをくれたのが、「つくる会」だったとA (1:49:28): そういう順番B (1:49:34): 欲求とはA (1:49:49): 物語を欲することA (1:49:58): 権威でもいいB (1:50:16): うんA (1:50:40): それから先については、政治学でも答えが出てないんじゃないかなB (1:50:53): ふうんA (1:51:03): ただ、ひとつのヒントとしてはA (1:51:26): 全体主義の傾向は、なにもドイツやイタリア、日本だけのもんじゃなかったA (1:51:34): アメリカでもイギリスでもフランスでもあったわけだB (1:51:37): へえさらにつづく
2005.10.08
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B (0:09:40): たまたま見つけて、村上春樹のスプートニクと、アンダーグラウンド借りたよ。スプートニクは読み終えたA (0:09:52): あれ、まあまあ良いよねB (0:10:32): うん、すみれちゃんと主人公のつながり方がいいねA (0:10:58): あんまり内容は良く覚えてないけど、後期村上春樹にしては秀逸B (0:11:24): いつから後期A (0:11:46): やっぱり『アンダーグラウンド』あたりは完全に後期B (0:11:58): それはわかるB (0:12:06): でもあれは小説ってんではないでしょ?A (0:12:22): だから、あの本を書きたくなってる辺りからってことねB (0:12:56): ねじまきあたりかね、長編で言うとA (0:13:05): うーんA (0:13:27): アレを初期、あるいは中期の最後と位置づけるか、A (0:13:29): それとも、A (0:13:38): 後期への橋渡しと位置づけるかA (0:13:40): だねB (0:14:00): ふむ。B (0:14:14): アンダーグラウンドはB (0:15:25): テロでなくなった人たちやその家族とかB (0:16:27): に対する想像力をもっと、なんというか高めるためにもB (0:16:44): わたしは読む意味があるんだけどB (0:16:59): それよりも自分があの事件をどう他人事と思っていたかB (0:17:06): を確認してしまったA (0:17:10): うんA (0:17:19): 他人事かA (0:17:28): 俺の用語ではA (0:17:35): 事なかれの方かなB (0:18:01): そうかもA (0:18:14): われわれにはA (0:18:18): 知らないことがいっぱいあるA (0:18:31): 知らないこと自体はしょうがないA (0:18:47): でも、それを知ったときに驚く心を持ってないのが一番困るA (0:18:59): と思うB (0:19:33): 何で困るの、なんとなくそうAが言う気持ちわかるんだけどもなんとなくだA (0:19:54): うんA (0:19:59): ちょっと紐解いてみようA (0:20:05): 俺のためにねB (0:20:06): はいA (0:20:29): 他人事の方から話してもたぶん大丈夫だと思うのでA (0:20:48): 俺の語法では、他人事はA (0:20:58): 適当に「関わる」A (0:21:12): 意見を述べるA (0:21:37): そこでは、語られる事柄は完全に<対象化>されているB (0:21:56): 外だねA (0:21:59): うんA (0:22:10): 対象化の怖いのはA (0:22:18): というよりも、A (0:22:40): なんで、語りたいんだろう?B (0:23:03): うんA (0:23:05): たぶん、ここに鍵があるような気がするA (0:23:13): 例えば、A (0:23:22): 尖閣諸島の問題B (0:24:09): われわれの問題、って思ってるんじゃないの?あれを日本領土と主張する人たちはA (0:24:16): うんA (0:24:18): 問題はA (0:24:25): その「われわれ」なんだよねB (0:24:43): 誰かってこと?A (0:24:50): なんというかA (0:24:57): 「靖国」もそうなんだけどB (0:25:22): ふむふむA (0:25:27): 高橋哲哉は、「靖国」に関してA (0:25:38): 遺族は本当は悲しいはずなのに、A (0:25:58): 天子様に表彰して頂いたって喜ぶA (0:26:06): そういう「感情の錬金術」があったA (0:26:10): と言ってるA (0:26:28): つまり、A (0:26:47): 認めてくれる「第三者の審級」の想定のもとでA (0:27:00): 「自分」の感情が裏返ってしまってるA (0:27:34): ここでは、A (0:27:45): 自分までもが<対象化>されているB (0:28:02): ふむむむA (0:28:21): 納得のマークか?(笑)B (0:28:50): まだ納得しきれないが話の続きを聞きながら考えるのマークA (0:28:52): じゃ、もうちょっと考えていることを言うとA (0:29:28): 権威主義的「甘え」がポイントじゃないかと睨んでるB (0:30:06): むうA (0:30:09): <対象化>というのは、「物語化」なんだB (0:30:16): ははんA (0:30:41): 精神療法においてA (0:30:52): 心的外傷を負った人にA (0:30:56): 対するA (0:31:02): 治療法はA (0:31:13): その過去の出来事をA (0:31:17): 抑圧するのではなく、A (0:31:28): 対象化し、物語化することA (0:31:43): 良い意味で(?)他人事化することなんだなB (0:31:57): 靖国の遺族もそれで癒されてるA (0:32:09): うーんA (0:32:21): ちょっと譲歩が必要だと思うけど、それに近いA (0:32:41): 問題を整理すると、A (0:32:45): ここでの目的はA (0:33:00): <対象化>が他人事化に繋がっていることを確認することなんだA (0:33:02): けどA (0:33:07): どうですか?A (0:34:06): じゃ、もうちょっと付け足すB (0:34:09): うん、続けてA (0:34:21): 自己をも包摂する物語を想定するA (0:34:36): そこには自ずと、他人も入ってるB (0:34:50): うんA (0:35:08): そうした大きなアイデンティティというのは、言わばフィクションだよねB (0:35:22): 想定だからねA (0:35:25): うんA (0:35:46): でも、それで自分が成立しているわけだからB (0:36:35): 自分にとってはよって立つ大事なことA (0:36:39): うんA (0:36:47): ちょっと具体的に話そうA (0:36:55): 「靖国」ねB (0:37:10): うんA (0:37:19): 他の遺族がいるA (0:37:26): 長男が死んだA (0:37:50): しかし、その物語に拠って立つ人はA (0:37:59): それをみて、良かったねというA (0:38:12): 「天子様のお役に立てた」とA (0:38:40): そこには、徹底的に想像力が欠如しているA (0:38:59): <個>としての想定が無視されているA (0:39:11): 日本人は喜ぶものだという物語に包摂されているA (0:39:25): ここまでどう?B (0:39:35): だいじょうぶA (0:40:07): たぶん、そこには甘えがあり、他人事主義の原型があるB (0:40:45): 甘えはわかるけど他人事主義の原型・・・?A (0:40:51): うんA (0:41:00): 甘えはどのように理解した?B (0:41:37): あなたも私と同じ考え方に違いないって思い込みA (0:41:44): うんA (0:41:50): たぶんそういうことだと思うA (0:41:59): それは物語化されててA (0:42:15): そこでの登場人物は、そう思わないと「いけない」B (0:42:57): そうだね、そう思うことが「美徳」(「美毒」って間違えて書いてしまった)A (0:43:16): 美徳かどうかはちょっと留保しようA (0:43:33): なんでそう「すべき」なのかは、もうちょっと後でねA (0:43:46): で、先に本線を通しとくとB (0:43:51): はぃA (0:44:08): 現代に生きる人間としてA (0:44:19): 僕等は他者の気持ちはわからないB (0:44:29): うんA (0:44:37): これは賛成?B (0:44:58): はいA (0:45:00): OKA (0:45:04): でもね、A (0:45:12): 「甘え」の原理はA (0:45:31): 人の気持ちがわかる、というか「こう思うはず」A (0:45:41): あるいは、「こう感じないといけない」A (0:45:46): に転じているB (0:45:55): うんつづく
2005.10.08
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およそ一ヶ月の文字列の積み木遊びを経て、俺は少し詠いたくなった。俺は文字が嫌いで、そのことを文字の助力を得て初めて訴えられるわけで、まるで「父親に逆らう青年」だ。文字のことを拒否してきたつもりだし、生まれつきに俺は文字に馴染まなかった。俺はちっとも文字と関わらずにいて、そのおかげで外で行儀良くするなんてことを覚えずに済んだ。少しくらい軋んでいる歌の方が俺の不器用さにはちょうどいい。だから俺は不器用に抵抗する
2005.10.05
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まず、はっきり言う。「郵政」選挙でわけもわからず投票した方々がまた狙われている。「郵政」で成功した「無説明戦術」が、「改憲」でも実施されるだろう。しっかり政府の「改正が必要だという理由」を聞き出し、わからないなら投票しない、という態度が大切だ(本当ならしっかり勉強して選ぶべきだけど)。■<雰囲気>の醸成以前「改憲論を易しく」で書いたことは書籍・講演等から取材したことなのだが、最近思うのは、そうした本音論はメディア等に表れないということだ。メディアには当たり障りのない建前論が露出するだけ(日本は政府のみならず、野党もメディアも死んでいる)。政府が世論を徐々に操作しようという意図が感じられる。建前論の常套句は「憲法は現実に合っていない」や「憲法が空洞化してしまう」というものである。これは当たり障りの無い意見だ。何も言っていないに等しい。しかし、これを政府が繰り返していれば、なんとなく改憲はした方がいいものと考える層も出てくるだろう。また、なんだか、どうでもいいようなアンケートをとって、「改憲容認派が増えています」のような、何の理性的判断基準にもならない情報を流すだけで、国民から思考力を奪い、改憲してもいい<雰囲気>を醸成している。しっかりした議論になれば、現状の改憲論を叩くのはたやすい。だが、こうした「なんとなく」改憲に引き摺られる層が狙われているわけだ。こうした情報操作による政策遂行は、民主主義国とは呼べないだろう。■俺が「護憲派」なわけいきなり譲歩するのも気が引けるが、俺は昔から「改憲でも護憲でもない」と答えている。そして、改憲すべきときの条件も具体的に考えてある。だから、改憲論者と言えなくもない。しかし、こうも「他人事主義の改憲論」や「素朴なカタルシス改憲論」が出てくると、俺は「護憲派」になる。改めて言うまでもないことだが、「護憲派」は当然ながらそれだけでは存在できない。何らかの「改憲の主張」があるから、それに応じた「護憲の主張」があるわけだ。その意味で、現在、俺は「護憲派」である。この状況で「改憲派」になれるほど、俺は耄碌していない。ただ単に政府に理性的討論のための材料を求めているだけだ。それを出してもらう前に「改憲賛成」なんてできるはずがない。「郵政」では、そういう「無説明戦術」が成功したかもしれないが、「改憲」に関しては国民がもう少ししっかり判断すると信じている。■憲法の空洞化なんて起こっちゃいない民主党を中心にして「政府の解釈改憲が進み、これ以上憲法が空洞化するのは危険だ」という意見がある。だが、何において「空洞化」してると言うんだ?自衛隊の派遣か?しかし、政府の裸の決定に対して、野党やメディアや市民団体が反対できたのは、その当の「9条」があったからじゃないか。だから、小泉は「非戦闘地域」なんて嘘つかなきゃ行けなかったんじゃないか。民主党が(建前論で)やろうとしていることは、そうした「軍事反対派」の拠り所を壊す作業だ。民主党は、そういう建前論ではなく、本当の理由を言うべきだ(政権をとるにはアメリカに味方される必要があるって言えばいいのに)。■テロ対策費が計上される不思議に思う。この財政難においてこうした予算を組む。だから防衛費は下がらない。これは、「テロを呼び込むための」政府の決意に感じられる。テロ対策の名の下、ふたつのことが狙われている。・軍事パレード等が、国民を軍隊に慣らすために行われる。・これからの外交政策において、敢えてテロを呼び込むことが行われる。その結果において、アメリカの言う通りに、国内世論を「改憲」まで持っていける。テロとの戦いというが、テロを呼び込まない外交をすれば済むことじゃないか?■「民」主主義国を政府から取り戻せ日本は、「民」主主義国ではない。判断基準が「民」のためになっていない。「民」は何かするための道具として使われている。戦前との違いは、天皇という「玉」が、国民という名の「玉」に変わっただけだ。どちらも主権者を軽んじた政治だ。政府も野党もメディアもダメになったとき、「民」の自分たちが考えるしかない。しっかりと、主権を取り戻すための運動が求められている。
2005.10.04
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「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」に参加表明する。政治的立場は若干違うものの、俺は「世に倦む日日」さんの呼びかけに参加することを決めた。■これでも少しは迷ったが、ふたつの危険を念頭に置いて、参加決断した。・ひとつは、これから4年間の「ネオリベ改革」において、政治暴力的犠牲者が確実に生じる危険(自殺者の増加、またある種の国家的戦闘犠牲者も出るかもしれない)。・いまひとつは(これが最大の懸念だが)、「平凡なる政治家」小泉(あるいは次期首相)の支持率が低下し始めたとき、思わぬ反動政治が待っている危険である。■昭和初期の問題は、昭和恐慌と大衆の政治不信が重なったことであった。五・一五事件に対しては、当時の一般世論は加害者に同情的だったという。これを逆に考えれば、政治家不信の世相が事件を後押ししていたとみることもできよう。この頃を振り返って吉田茂は「変調をきたしていった時代」と評した。こうした大きな反動が来ないように、多くの語られるべき言説を、しっかりと公的ディスコースにのせることが必要なように思う。多くの意見が政治に届けられる道をつくらねばなるまい。■今、政府は情報操作をしている。こうした運動(ムーブメント)が実効性を有すると思えるのは、言論活動の保障(つまり意思形成過程への参加)を政府に迫れる可能性があるからである。現状、政府は、いくらかの点で世論操作(manipulate)している。・議席を減らさずに増税を行うために、「大増税」をまずアピールしている(後で、「これくらいならいいか」と思わせるため)。・アメリカの要請に応えて軍隊を派遣できるように、「無説明」に「改憲」の風潮を作り出そうとしている。・アメリカ利権を引き込むために、「改革」という美名で、国民の生活基盤の掘り崩しを行っている。■高支持率のうちはいい平凡なる政治家が怖いのは、支持率を失い始めるときである。間違ったことを思い切ってやってしまう可能性がある。ヒトラーがユダヤ人虐殺を始めたのは戦況が悪化しだしてからだった。大本営が嘘の発表をしだしたのは戦況が悪化しだしてからだった。枠に嵌って本当のことを言えなくなったときが怖い。裸の王様化が怖い。小泉でも、それを引き継いだ奴でも同じことだ。言えることは、今からそのことを考えておかなければならないということだ。しっかりと国民全体から、それぞれの生活基盤に根ざした言論を、公的な場に出すこと。そのために、いま「大同団結」が求められている。
2005.10.04
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今日は無性にカボチャの煮付が食べたかった。ひとまず、コンビニに行ってみるも、カボチャの煮付には出逢えず、弁当屋まで足を伸ばす。しかし、時間帯のズレからか、すでにカボチャの煮付は消えている。さらに足を伸ばし違うコンビニに訪れるも、カボチャ様はいらっしゃらず、諦念を持ちつつ、吉野屋に入る。野菜を食うことで代替できるかと考えたが、そんなはずも無く、俺のカボチャ探しは、一つの教訓となって残る。つまり、反省を促してくれたわけだ。明日からは失敗するまい。これは、ひとつの自分事主義の例である。ここから抽出するのもなんだが、とりあえず、この事例からわかることを纏めれば、・自分のタンパク質を消費する行動の動機となる・自分以上でも自分以下でもない・反省の契機となるこれをコミットメントと呼んで問題ありますか?■「事なかれ主義」「事なかれ主義」は、それ自体ではまだ危険ではない。むかつきはするが。「事なかれ主義」はある種の自己保存欲求に支えられており、他者にとって計算可能な態度である。決してプラスにはならないが、直接的な害悪を撒き散らすわけではない。空気を汚染するくらいで済む。言ってみればカメムシ君のことだ。付き合って良い思いは絶対しないし、はっきり言ってくさい。密閉したビンの中では自分の悪臭で死ぬこともあるというが、まあ、大空を舞っている限りにおいては、俺は君の存在を認める。■さらに酷きもの「他人事主義(ひとごとしゅぎ)」「事なかれ主義」は、端的にコミットメントと離れている。しかし、多くの人間は、あることにおいてはコミットし、あることにおいては「事なかれ主義」の態度を採る。そうでしょ?だから、俺は「事なかれ主義」を断罪する気にはならない。しかし、絶対にゆるせない態度がある。それが、「他人事主義」だ。■コミットメントという語の対極「他人事主義」は、「事なかれ主義」とは異なり、特殊なやり方で「関わる」。その意味において、コミットメントと土俵を同じくする。そしてコミットメントと異なり、絶対に責任を感じない。反省しない。自分よりずっと大きなことを語る。俺は、この醜いものを例える言葉をしらない。うんこに例えたいが、俺はすでにうんこに多少の愛着を感じてしまっている。■「甘え」と「デタッチメント」、そして「自由」これはモリケン社長から示唆を得たことなのだが、「他人事主義」の基本は「甘え」にあるのだろうと思う。それは、自己と他者との<境界>の問題だ。自分のことがしっかり出来ていない、あるいは、自分に関することの達成感が無い。そんなときに、他者との<境界>が曖昧になり、無駄にカタルシスを求め、本来望んでいないことにタンパク質を消費してしまうのではないか。今一度、デタッチメントについて考えるときなのかもしれない。「消極的自由と積極的自由はコインの裏表のように結合している」(アマルティア・セン)の顰に倣って言えば、「コミットメントとデタッチメントもまた切っても切り離せない」ものなのだ。
2005.10.03
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武部勤殿正直、貴方のことは以前から国会議員として相応しくないと思っていました。某とかいう新人議員の発言に対して、貴方が苦言を呈するという喜劇にも似た事柄を、私は哀しみを通り越して笑ってしまいました。人前で、厚かましくも、聞き苦しい歌などを聞かせていた貴方が苦言を呈するとは。誰も貴方の歌など聞きたくないのですよ。国家議員の先生だから喜んだふりをして聞いていただけです。あれは職権乱用です。我々は、貴方が腰が低いのは、選挙期間中だけだということを知ってますから、そうでない時には我慢して聞いているのです。前置きが長くなりました。さて、お忘れかもしれないのでこちらを読んでください。あなたが、衆議院における「郵政法案」採決の直前に、「特定の」議員に向けて、普段とは時期を違える「政策活動費」を支給(しようと)した件についてです。報道が本当だとしたら、貴方は民主主義国の国会議員として相応しくないことを自ら証明したことになる。言論による真理到達を旨とする民主主義の基礎を、金員の力で壊そうとしているわけで、憲法服務規定違反も良いところだ。「政策活動費は、党に代わって党勢拡大や政策立案、調査研究を行ってもらうために、通例より党役職者の職責に応じて支給している。(買収など)ご指摘の点はまったくありません。各政党には政治活動の自由が憲法で保障されており、政治活動にかかわる政策活動費の詳細については回答を控えさせていただきます」あなたは「各政党には政治活動の自由が憲法で保障されて」いるから、「詳細については回答を控えさせていただ」くと述べておられますが(ここは憲法に頼るところが可笑しいのですが)、時期的におかしな政策活動費を、郵政反対の「特定の」議員に支給しているわけですから、有権者に対して自主的に説明するのは当然だと思われます。毎度、貴方の党の先生方はおかしな論理を使うのですが、よく考えてものを言ってください。もちろん貴方がやったことを言わない自由は憲法で保障されている。しかし、だからこそ、国会議員たるもの自主的に説明するべきじゃないでしょうか。もしかしたら、貴方は知らなかったかもしれないが、民主主義の根本は言論活動です。判断材料は公的に開かれていなければならないはずだ。しかも、あなたが郵政反対の特定議員に配った政策活動費は、政党助成金から出ているはずだ。それを秘密にするなどというのは、旧共産主義国と一緒じゃないですか。あなたの明快な説明を、次の選挙の判断材料を求める一有権者として求めます。余談ながら、本当は、貴方のような方が国会議員として活動していることは、国民として、哀しむべきことだと思っています。でも、希望も持っている。バカな国会議員を、バカだからという理由で選ばない、国民が増えていくと信じているんです。貴方も、建前上だけでも、国のためと思っているなら、議員バッジを外してください。次の世代のために。それこそ、貴方ができる一番の改革です。
2005.10.03
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二大政党制は大変だ。これは、「二大政党制だと日本にとって大変なことになる」ということを直接的に指示しているわけではない。「二大政党制だとみんなが大変なんだよ」と言ってるだけだ。なぜか?デモをしなくちゃいけない。なんでか?投票における白紙委任率が高まるからだ。これを「ゴッタ詰めになった福袋のどっちか選べ」式選挙と喝破したわが妻は流石だ(バカ夫婦です)。デモを行うのは、「その部分は委任していませんよ」と投票以外の方法で主張しなければならないからだ。今回も「郵政」だと思ったら、「国民投票法案」まで一気に進む。そういうことが平気で起こる。小泉は選挙期間中のテレビ番組で、「一内閣一仕事で良いって言ったのは誰ですか(郵政だけでいいでしょの意)」なんて叫んでたが、他の事だって自ずとやるわけじゃんか。二大政党制は、そういう意味で、みんなにとって大変なのだ。■そもそも、なぜ議会に代表を送るのか?それは行政が勝手に行うことに、いちいちデモ的な行動を起こすのが、面倒だし、不経済だからだ。だから、自分たちの利益を代表する代表者を議会に送って、政策立案の段階から文句を代わりに(あるいは代表して)言ってもらい、妥協点を探っていたのだ。議会に代表を送ることの重要性は、このようにリアルだった。決して「日本人の権利・義務だから選挙に行こう」なんて、何の考えも無い素朴なうんこ論から出たものではない。■代表されない問題二大政党制で怖いのは、こうした利益代表型ではなくなり、自分たちの利益を代表されない層が現れてくるのを助長することだ。そうした票は、かつてルイ=ナポレオンに集まり、ヒトラーに集まった。俺には、これは構造的問題にみえる。■「国民全体のことを考える」?そして、この手のポピュリスト政治家たちは、全体の代表のようなことを言う。しかし、誰だって、「公正」とか「中立」とか「倫理」とかいう言葉の胡散臭さは知っているはずだ。「人の為と書いて、偽と読むんだね」いつわり。利益代表型の方が、よっぽどビジネスライクな理性的議論になる。「日本のことを考える」なんて精神論にしかならない(そして裏では「アメリカ」のためにやってるわけじゃないか)。■今が行動のとき選挙制度のことを今さら言ってもしょうがない。「小選挙区制」の導入には、それなりの目的があった。政権交代ができる党をつくるという目的だ。ただ、この美辞麗句は非常に危険だ。結局、財界が強く求めていたことからもわかるように、二大政党制は、財界にだけ有利に働く。つまり、財界が、国会の外からキャスティング・ボートを握れるわけだ(この法案通してくれるならこちらを支持するよ、なんて言って)。いずれにしても、ちょっとしたプラグマティズムとして、反省の道具にしよう。そう、ちゃんと反省しよう。これをして俺は行動と呼びたい。(毎度誤解があるから言うが、小泉自民に票を入れたことを詰っているわけじゃない。この構造を知らなかったことを言っているだけだ。)■民主主義をもう空気のように当然にあるものとする思考からは出てきにくいのだけど、もともと議会に代表を送ろうとした人々の熱意は、自分たちの生活に根付いたところから出ていたんだ。それを忘れちゃいけない。「日本全体のため」なんて<身の丈>を超えた発言が一番怖い。わかることをやろう。
2005.10.02
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いくつかの事象が情報として並立し、俺は人間らしく並列分散型処理を行う。並列分散型処理の欠点は、そのサンプル次第で中央値が変わることであり、それを認識すればこそ、次の二つが肝要になる。・多くの意見を自らのフィルターに通すこと・直列処理として論理を大切にすることこれは「ふたつで一つ」であり、どちらが欠けてもいけない。いくつかの重なり合う事象を、整合性を持って定位させるために、俺は最大の情報処理機関である「脳」のために、サウンド・スリープを自分に課す。ふたつを一つにする儀式だ。こうして俺は再び筆をとる気になる。あとは表現の苦しみを経験するだけだ。この百戦百敗の行為こそ、<われ>と<われわれ>をつなぐ。負け続けることこそ正しき道。我、未完の革命をゆく。■ちっぽけな議論憲法を「押し付け」だからおかしいというちっぽけな議論がある。ウンコみたいな議論で取り上げることも無いと思っていたし、ちょっと考えれば、それを大声で言うのが、誰でも恥ずかしく感じるような代物だとわかると思っていた。表層においては、それは正しく、最近、大声で言う者はいなくなったように思う。しかし、どうも根本問題として、あるいは心情の問題として、やはりよく理解できていない層がいることは事実なように最近思うようになった。そこで、そうした整理を行い、さらに新たな解決への道として「未完の憲法革命」論を紹介することにする。■「押し付け」って何だ日本国憲法よりも後に誕生した俺には「押し付け」の意味がまずわからない。というよりも、どんなものであれ、俺にとっては、それが俺に先行する限りにおいて、「押し付け」である。GHQからの「押し付け」はダメで、前世代からの「押し付け」であれば受け入れられるといったような、何とも知的誠実さを欠いた議論には辟易する。まあ、でも結局、そこに行き着くんだろう(だから、これは後で取り上げる)。ひとまず、俺の結論としては、「押し付け」だからダメというのは、知的誠実さを欠いているか、知的体力(思考力)が無いことを公言しているに過ぎない、ということだ。▲間奏曲今回こんな議論を行わなければならないのは、つまり、こういうことだ。ある程度ソフィスティケートされた改憲論は、多くの著作等で知ることができた。そして、それがどちらかというと現実の思考枠組みによって支えられた、ある種妥当なリアリズムであることもわかっている。そうした(根拠がリーズナブルな)議論枠組みにおける議論にはついていけるし、それに対するオルターナティブも挙げることができる。しかし、その種の議論とは別種の、人権後進国的イデオロギーに支えられた(ある種の破滅志向な)議論があることに最近気付いたのである。■アイデンティティ?人権後進国的イデオロギーと呼ぶのは、「日本人なら靖国に参拝すべきだ」といった言説として表象される。「靖国」と改憲論がその地平において融合するわけである。そういう(知的誠実さを欠いた)素朴な改憲論と、素朴な「靖国」擁護論が、同種の人たちから語られるのは偶然ではない。さらにいえば、その種の議論は(大沢真幸に言わせれば「先祖」を第三者の審級としており)、「日本人」という枠組みを絶対的なるものとして必要とする(そして困ったことに、それは単に国籍を持つという意味とは違う)。これが「日本人のアイデンティティを探る」といった、絶対的に不毛な議論を必要とする理由なわけだ(誰も答えを提示していない)。■文化論?明治期に作られたものが日本を表すという時点で、普通ならおかしいと思うはずだが、「素朴な日本論」者は明治期からのものが日本を表していると本気で信じているようだ。少し耳を傾ければわかるが、平安や江戸の庶民文化に関しては、急激に言及が減る(これは『新しい歴史教科書』を読んでもわかる)。どうも、自分たちの「素朴な日本像」を表すのに適当でないらしい。そして、もっと困ったことに、そうした「素朴な日本論」者たちの理論的支柱であった佐伯啓思が、文化の非連続性(つまり、「素朴な日本論」は明治期につくられたフィクションであること)を認めてしまっている。つまり、文化論として「日本人なら~だ」というのは、不可能だということを、佐伯が認めてしまっているわけだ。すると、「素朴な日本論」者に残された道はいくつかに絞られる。■「伝統派」素朴「日本論」者の残された道文化論としての「日本人なら~だ」が不可能であるなら、一つの方法としては、政治論としての「日本人なら~だ」を形成するしかない。現代の「素朴な日本論」者たちは、理論的裏づけを欠いたままに、そうした活動を行っているともみることができる。しかし、政治論であるなら、それは超越的に誰もが守るべき理論にはなり得ず、「靖国」が政教分離原則に違反するのと同じ理由で、個々人への強制力はないはずだ。どんなに頑張っても、近代政治の絶対的徳(価値)である個人主義の原則と相容れない。そうであれば、結局最後に残された道は、「つくる会」会長の八木秀次が述べるような、「反立憲主義」しかない(流石に学者だけあって、論理を詰めている)。■反立憲主義つまり、この立場は、個人の自由・権利に最高の価値を置かないということである。八木の著作『反「人権」宣言』は、まさにそのことを語っている。残念なことに、立憲主義の伝統にNOというのだが、具体的な反論となる社会構想を示していないため、俺の能力では、これ以上の議論はできない。ただ、言えることは、「素朴な日本論」の行き着く先は、個人の権利・自由を否定する(最高の価値を置かない時点で、否定していると言える)ということだ。こうした権利・自由の価値に守られる必要が無いと思っている人間だけが、与することのできる思想と言える。■さらに素朴な議論先に挙げた佐伯は、保守派の学者としてはそれでも立派で、アメリカ帝国主義に首尾一貫して反対している。そして、その結果として、現状のアメリカ追従型の「改憲論」に慎重姿勢を採っている。だから、保守でもリベラルでも、知的誠実さのある人間であれば、ある程度の議論を交わせるわけである。しかし、現状一番の問題は、知的体力の無い「頭の悪い保守」たちが、論理的な詰めもせず、無責任に元気な勢いで、「改憲」を叫んでいることである。これは、誰かが言うように、現状に対するカタルシスとしての改憲論なのかもしれない。■カタルシス=うんこカタルシスとは「排泄」のことである。カタルシスから語られる「素朴な改憲論」や「素朴な靖国論」は、語源的正しい意味において、「うんこ論」なのである。頼むから、うんこはお家でしてください。人様の前で、見せるもんじゃありません。■忘れてた紹介ほぼ結論に至ってしまった。「未完の憲法革命」論の紹介はまたにする。ちょっと、こうしたレベルの低い議論の最後に紹介するのも気が引けた。
2005.10.02
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