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(1)からだいぶ時間が経ってしまった。前回からのこの稿の大胆な予測を先に語っておけば、もし人がコミュニティというものをその自然(nature)として必要とし、そのコミュニティが人権を必要とするのであれば、われわれは人権をまた違った角度から認めることができるのではないかということである。そして、その鍵はヴァルネラビリティであるというのもすでに語ったところだ。■人間、最も弱きものこの小見出しにおける「弱さ」はヴァルネラビリティのことではない。物理的弱さのことである。人間(あるいは単に、ヒト)は、あらゆる動物の中で最も弱いものとして誕生するというのはよく指摘されることだ。放って置かれたらただ死を待つのみのこの弱き存在は、自身の生存可能性を、圧倒的なまでに他者の「絶対的善意」に任せている。つまり、人間(ヒト)は、その生存の始めから、<他者>に絶対的に依存しているといえる。もし、このオッパイに毒が塗ってあったらと疑ったら、生きてはいけまい。われわれの「言葉」は、そうした<依存>の関係性の中で鍛えられたのではないだろうか。保護者を求める、あるいは栄養を求めるための、初めての発話行為(始めは不快な音を発しただけだったかもしれない)は、相手にその意を汲み取ってもらうことを通じて、言葉としての形を整えていったのではないだろうか。口をつぐむ事で発音が可能な最も簡単な音、ママが母親を表し、マンマが栄養を表すのは、まさに、その意図するところを相手に汲み取ってもらったからであろう。われわれは、このように自ら意図するところを他者の「絶対的善意」でもって汲み取ってもらうことを必要としていたはずだ。そしてそこには「絶対的に肯定される」という意味での安心の場所、幸福の場所があったはずだ。少なくとも、われわれには、根源的なところにおいて「他者依存性」を保持しているということはひとつの仮説として述べてよいのではないかと思える。■他者依存性と傷つきだが、もちろん、われわれが根源的に「他者依存」的だからといって、われわれが本当は友愛的な繋がりを保持できるのだと無邪気に主張したいわけではない。俺が伝えたいのは、それとは逆で、われわれはこの安心の場所、幸福の場所を離れるときが来る(あるいは、来た)という事実なのである。「絶対安住の地」に住み続けることができないことは容易に理解できることだ。「他者」という「変数」の集まりの世界において、自身の世界が調和を持つというのは、確率論的に大変なことである。「絶対安住の地」に住み続けることは、原理的に不可能でなのある。人間(ヒト)は、さきの根源的他者依存性を有しているがゆえに、安住の地を離れてもなお、他者の絶対的善意への憧憬を持っているはずだが、実はそのことが、第二の問題を生じさせる。<他者>へ依存しようとしているのに、受け入れられなければ(neglectされれば)われわれは大変に傷つく。そして、傷つくことを恐れることは、同時に、<他者>を傷つける可能性をも保持しているのである。■防衛機制とディレンマ「絶対安住の地」を離れるにあたって、人間(ヒト)は、<他者>に受け入れられないという多くの失望(disappointment)を経験する。そこで受けた「痛みの記憶」がやがて防衛機制として働き、<他者>に求めないことを覚えていく。だが、もしわれわれの幸福の源が、上に予想したように、<他者>にあるのであれば、これは解決不能のディレンマに陥っていることがわかるだろう。つまり、幸福は<他者>にあるのに、まさにその<他者>を恐れて、近づけないのである。■弱さと攻撃傷つき傷つけることへの恐れ(vulnerability)は、以上の観点からすれば、いわば宿命である。傷つくことへの恐れは、<他者>からの働きかけに対して防衛機制として「無視」することを教える。そして、言うまでも無く、この「無視(neglect)」は他者にとっての「失望」である。あるいは、本当に「失望」続けてきた者は、ときに、この<他者>からの働きかけや訴えに対して、「憎悪」でもって返す。それは、自らのやり場の無い「失望」から来る「鬱憤」を、自らよりも弱い<他者>に攻撃として吐き出し、相対的に精神経済を安定させようとする策なのである。こうした破れかぶれ戦略が、ネットの世界で転がっているのは不思議なことではない。リアルで認められない者たち(「失望」し「鬱憤」を溜めた者たち)が、ネットに精神経済の安定を求めるのである。「自殺志願者」のサイトや、社会的にすでに非難されている者のサイトへの書き込みが、こうした憎悪表現に満ちているのは不思議ではない。さらに、つぶさに見れば、そこには必ず「お前は弱いんだ」というメッセージが見られる。弱い<他者>を「作り出す」ことによって、相対的に自分の弱さを覆い隠したい表れなのである。また、社会の「情念的連帯」に反抗するかのようなブログに対し、憎悪の表現をぶつけるのも同様だ。疎外されてきた彼らこそが、その「分裂」状況を許せないのである。<他者>を攻撃する彼らこそ、実は<他者>との連帯に憧憬をもちつつ、その方法がわからない最も弱きものなのである。■<他者>への恐れところで、他者依存的であるということは、他者に受け入れられるか否かが精神に大変な負担をかける出来事であるということだ。われわれを何よりもヴァルネラブルにするのは、<他者>が端的に「わからない」からに他ならない。わからないから「恐れ」や「不安」を持つというのは、ステレオタイプで理解してもしょうがない。単純に、自分が受け入れてもらえるかわからない対象、それが「他者」なのである。上にみたネット上の匿名の彼らが、守られた場所から憎悪表現をぶつけるのは、自らの理解できないものを極度に恐れているからに他ならない。自らが理解できない者が「意見」を「論旨明快」述べたとき、そして、その論が主流を形成しそうになるとき、今度は逆に自らが否定されることになる。自分が受け入れられなくなる。その恐怖心が攻撃的な行動の引き金となる。■「vulnerable」である者の二つの選択肢われわれは<他者>を恐れるのであるが、そうしたとき、<他者>との関係性に対してわれわれの採りうる選択肢は少なくとも二つあるように思える。一つは、それを避け「引き篭もる」こと。もう一つは、その「弱さ(vulnerability)」を乗り越えることである。まず断っておけば、俺はどちらが正しいとか、どちらかを選ばなければならないなどと言うつもりはない。恐らく、われわれは場合に応じて、この選択肢を複合的に使い分けているはずだ。しかし、われわれが<他者>との関係に幸福を見出す存在だという先の仮説が正しいのであれば、どこかで<他者>への恐れを「乗り越える」契機を保持していなくてはなるまい。■根源的な問いこれは、<他者>と「わかり合えるか」という問いに等しいものだと思われる。もしわれわれが根源的に<他者>とわかり合えないのであれば、そもそも<他者>への恐れを「乗り越える」必要はあるまい。だが、もしわれわれが<他者>と「わかり合える」ことを信じ、それらとも「共に生きる」ことを求めるのであれば、そうした「勇気」を持つことに意味が見出せるのではなかろうか。少なくとも、たった一人でも「わかり合いたい」相手がいるのであれば、この仮説は力を持つのではなかろうか。■「引き篭もる」という選択俺が引き篭もるという選択をバカにしているなんて思わないで欲しい。実は、これが本当に可能な選択肢であるならば、それはそれで素晴らしいことだとさえ、俺は考えている。しかし、上に今見たのとは逆に、実際のところ、引き篭もり続けられるやつはいない。つい、ネットを開いてしまう。自分が受け入れられないまでも、他者に匿名でかかわり、働きかけるという擬制を経験しようとしてしまう。引き篭もっている人間こそ、本当のところ、あの「絶対安住の地」への憧憬を持っているわけだ。認めて欲しいわけだ。しかし、彼らが実際に採っているのは、破れかぶれ戦略でしかない。そうした二つの意味で、われわれは<他者>への恐れを「乗り越える」戦略を採らなければならないのではなかろうか。■成員資格の相互承認。これくらいの紙幅でもって、一気に結論まで至ろうとすれば、いささかユートピア的に感じられてもしかたがないかもしれないが、われわれが本当のところ「受け入れられたい」という根源的欲求を持っているのであれば、ヴァルネラビリティに自覚的でありながら、他者との関わりに「勇気」を持つことしか方法はあるまい。結論を急げば、われわれは、「傷つく=求める」の間を動いているわけで、その間において、少しでも「勇気」を持つことを可能にする条件を模索するのが最も合理的ではなかろうか。自らが受け入れられ、それが恒常的原理となるためには、共同体が「法の支配」的でなければならないだろう。R・ドゥウォーキンが憲法実践に見出したものが「平等な尊敬と配慮を求める権利」であったことは示唆的である。「平等な尊敬と配慮」とはその意味において「受け入れられる」ということであると同時に、その原理においては、それを「場当たり的なもの」にしないための共同体的宣言なのである。もし、人間(ヒト)が受け入れられることを求める運動を、その生において繰り返し、さらには、そうした人間(ヒト)の集まりである社会が、そうした運動を続けてきているのであれば、ドゥウォーキンの解釈は、確率論的合理性にしっかりと支えられているということが言えよう。■コミュニケーションの作法=権利われわれは自身の利益を出し抜くために権利主張をするのではない。権利とは、上に見たように、まさに他者との友愛的連帯を求め続けるがゆえに主張されるのである。そうしたことは、実際の立憲主義の流れを見れば読み取れるはずである。こうした観点から、憲法12条を読めば、この条文に味があることがわかるはずだ。この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。これは「権利はときに全体の利益のために制限される」なんてドアホウな読み方をする条文ではなく、友愛的連帯を求めた規定だと解せないだろうか。かの「権利のための闘争」において、イェーリングは、「闘争」の理由を共同体的正義に資するものとしても求めているのである。つまりは、われわれの権利とは、ヴァルネラビリティを保持した弱い人間(ヒト)が、その憧憬に対して勇気を持って迫るための「作法の宣言」なのである。われわれはヴァルネラビリティを保持し、弱さを保持するからこそ、そこに作法を見出し、お互いを「尊厳ある者」同士として扱うことを求めてきたのだろう。その作法を形成し続ける原理こそ、この権利に見出せるものなのではないかと思う。(1)のはじめに書いたようにrenqing氏が、「人権は単なるお題目ではなく、人間の ‘vulnerability(傷つきやすさ) ’について、深く静かに考えることに尽きる、ということを如実に示してい」ると述べるとき、ここまで迂回してきたような事柄が含まれていたのではないかと、俺は勝手に解釈するわけだ。
2006.04.23
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先日紹介した「“STOP!再処理”ネットワーキング」が参加ネットワーカーを増やしている。このネットワークは、それ自体が主体的権力を持たないように注意を払いながら、参加者それぞれが主体として活動することを求めたものだ。賛同する内容は「再処理反対」。それだけです。と書かれている。これは優れた試みだと思う。そして、なかなか重いことでもある。つまりは、これにコミットした俺は、それなりに関心を持つという主張をしたわけで、これについての責任は持たなければならない。そこがまた素晴らしい。俺なりに、関心を持ち続け、多少なりとも理解を深めていきたい。やはり、原発でわれわれが思い起こさなければならないのは、チェルノブイリだろう。チェルノブイリと六ヶ所村は違うという風にどうして思えるのか、俺は不思議でならない。確かに、チェルノブイリの事故に多くの複合的要因があり、偶然が重なったということもあるだろうと思うが、重要なのは、それが起こったという事実ではなかろうか。確率論の問題ではない。起こったあとの被害の問題なのである。しかも、この官僚と財界と政界が癒着している日本という国が旧ソ連のような組織体制(政治体制ではなく)にならないとどうして無邪気に信じられるのだろう。つい70年程前、おかしなことになっていたじゃないか。しかもそうしたやつらの系統が政治を牛耳っているじゃないか。チェルノブイリが多分に人災だとしても、いや、そうであるからこそ、俺は心配だ。さて、チェルノブイリと比べて、驚くことはまだある。六ヶ所村のその規模である。はるかにチェルノブイリを凌ぐ。「「史上最悪」の核施設、青森で試験運転を開始~史上最悪の原発事故から20年目に」ヨーロッパを中心とした自然エネルギー開発へと進まず、あくまでも原子力開発にこだわり続けたこの国は、なにかの意図を持っている可能性がある。青森県は、六ヶ所村の安全対策は国の責任だからこちらに言うなとばかりの言い様をする。知事は本当にダメな政治家なのだろう。政治にあなたが無関心でも、政治はあなたに関わってくる。こうした危険に対しては、NOと言い続けないといけない。■■■“STOP!再処理”ネットワーキング 参加ネットワーカーズBLOG版「ヘンリー・オーツの独り言」http://henrryd6.blog24.fc2.com/blog-entry-48.html to be healthierhttp://genkininarou.way-nifty.com/healthier_life/2006/04/post_0ffd.html 伊方原発のプルサーマル問題http://blog.goo.ne.jp/ikatanoplu/e/e44ea56c6c089eb2b2093ef44e3835c4 今日… 見た, 聞いた, 感じたこと… http://kach.blog28.fc2.com/blog-entry-25.htmlGREEN-HUMANhttp://ameblo.jp/tomary/entry-10011447181.htmlいきるものhttp://wasurenu.exblog.jp/1810777Coffee Breakhttp://always-e-story.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_21ea.htmlペガサス・ブログ版http://blog.so-net.ne.jp/pegasus/2006-04-17 田舎暮らし在宅ワーカーの日々 http://blog.goo.ne.jp/akimtl1984/e/37ce8a1c5ef46f2fc4b5f45941dca042?http://hurakoko.jugem.jp/?eid=140アソシエーショニストの広場/オルタナティヴ運動情報http://ameblo.jp/associationists/ femmeletsの日記http://d.hatena.ne.jp/femmelets/かぼちゃ日和。http://kabobiyo.exblog.jp/1784522片桐くんのおもいつ記http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/katagiritaku/eid/292849All Tomohirow's Partieshttp://livefortoday.jugem.jp/?eid=183一人一流 by のりちゃんhttp://omura.jugem.jp/?eid=58地球の台所*AMAhttp://blogs.yahoo.co.jp/sawako_peace_gallery/2510624.htmlサイケデリックマキhttp://www.psychedelicmaki.com/diary.htmlGREENFIELDShttp://greenfields.269g.net/article/1998903.htmlらくちんランプhttp://blogs.dion.ne.jp/spiraldragon/archives/3211425.html関東風下プロジェクトBloghttp://blog.livedoor.jp/kazasimo/archives/50084856.html辺境漁師のLOGBOOKhttp://blog.goo.ne.jp/here-imt/e/c97ec8f9db5760f9ba25e4ed38014f61スーパーカブと自転車の日々http://blogs.yahoo.co.jp/lasa973/32955587.htmlタカマサのきまぐれ時評http://blog.drecom.jp/tactac/archive/614地球大好き!http://blogs.yahoo.co.jp/ayammt/32536633.htmlpigeon5の日記http://d.hatena.ne.jp/pigeon5/20060412日記はこれから書かれるところです。http://plaza.rakuten.co.jp/sokutou/diary/200604110000/それなりにスローライフ http://plaza.rakuten.co.jp/mizpon/diary/200604110000/そぞろ日記http://miyau.cocolog-nifty.com/sozoro/2006/04/post_a536.htmlブログで囲もう! 浜岡原発http://blog.livedoor.jp/iseley/archives/50031096.html billabonghttp://www.mypress.jp/v2_writers/wallaby97/story/?story_id=1381911越佐の海峡bloghttp://blog.goo.ne.jp/turugasone/e/c305e4c753559acda4fdea44026e0f4d*ぱいなっぷりん*http://blog.goo.ne.jp/sos-pine/e/cf92858dc9ee9b9de8249054683ec9a8ISL・六本木だよりhttp://blog.livedoor.jp/isl/archives/50530555.htmlきくちゆみのブログとポッドキャストhttp://kikuchiyumi.blogspot.com/2006/04/blog-post_114465965947537268.html絶対毎日書かない日記http://lulu2004blog.seesaa.net/article/16390926.html六ヶ所再処理工場を止めろ!!http://ameblo.jp/sos-from-earth/entry-10011165033.htmlWatermarkhttp://d.hatena.ne.jp/umkaji/20060409IZAYOI吐露遺跡http://saitoro.seesaa.net/article/16361461.htmlアングラな魚日記http://macoco.at.webry.info/200604/article_7.html★電気猫のフォトBLOG(ネパール・神戸・地球)★http://blogs.yahoo.co.jp/electric_cat2003/31359871.html SENZA FINE http://senzafine.livedoor.biz/archives/50395679.html
2006.04.20
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さすがに、更新が滞り始めてる。ふむぅ。俺もカントくらい日課ってものに馴染んでればなぁ。昔から、三日坊主が羨ましかった。三日も続かない。しかし、俺は意志薄弱だったわけじゃなくて、いつも他におもしろいことが現れてきて、今度はそっちやろってなるわけでね。言い訳はこれくらいで許してやろう。さて、おもしろいことは好きなんだけど、よくわからないってのは、別の意味で俺の心を捕らえる。よくわからないってものに惹かれる。惹かれて、それをわかるまで勉強するとか、そんなことをするはずもないんだけれども、それは取っとくことにしてる。本を「積ん読」のと同じ。わからないのにわかった振りするのだけは避けたい。限界があるのも知ってる。でも避けたい。知的体力と知的誠実さ。知的体力は、時間が経てば届くかもしれない。だから、そこまではせめて知的誠実さは持ちたい。知的体力が無いか知的誠実さが無いか。つまりは、端的に馬鹿か人間的に馬鹿か。昔、少しの殺意は愛よりも嬉しい、って吟じた。そんなことを思い出した。すこし、俺は感傷的になっているのかもしれない。ところで、そんなデイドリームしている日々にも、「そぞろ日記」さんはおもしろい記事を書いていた。「そぞろ日記」さんが「キッズgoo」に「表示できない」ってされてると。笑った。んで、ここも調べた。表示できないって。笑った。積極的自由。パターナリズム。俺にはキッズが「キッズgoo」を見るなんて思えない。「キッズgoo」なんか見せる親は端的に馬鹿だ。■■■生きることの意味なんてわからん。でも、この世の中から、ちょっとでも不幸を減じる活動には参加できるかもしれないと思ってる。そこには、自分が幸せになることも含まれてるかもしれない。なんだか功利主義的だけど、こうして考えると、功利主義ってもしかしたら、奥が深いかもって思う。ベンサム読もうかな。小さなことにも幸せを感じるのが人間。小さなことにも不幸を感じるのが人間。では、小さなことたちをなくした方がいいんだろうか。わからないね~。やっぱよくわからないんだ。■■■君は問う。立憲主義が進んでいる国ほど、幸せな人は多い? って。あるいは幸せ度は高い?たとえば自殺者の多さって何? って。個人を際立たせることで孤独から目をそらせない状況をずっと生きていかなきゃいけなくなってることに耐えられない人も多いのでは? って。でもそれでも自殺を選べる余地があることが幸せなの? って。よくわかんない。それこそ学問によって整理して考えなきゃいけないんだろうね。それとも学問以前の話なのかな。■■■俺は答える。そういうことじゃないんだよ。自由は、幸せと混同しちゃいけないんだ。幸せのことは幸せに任せればいい。でも、それをそれぞれが等価に、つまりは平等な顧慮と尊敬のもとに、求めるっていう根源の原理は必要なんじゃないかってことなんだ。君が幸せを「わかった」としても、それを人に押し付けたらどうなるかってことね。そういう押し付けが、一番不幸を生んできたはずでしょ。立憲主義は、幸せは何かってことに答えるものじゃないよ。歴史的な経験のなかで、涵養されてきた原理なんだよ。って。■■■俺はわからないから、そこまではいえる。バーリンがそう言ってたから。ドゥウォーキンがそう言ってたから。それがわからなくて取っといたから。■■■院では何を学ぶかって考えていたときに、教授が言ったのはベンサムだった。なんでかわからなかった。もちろん、事情は知っていた。ベンサムとは相容れないようなコミュニタリアニズムが、実はベンサムと親近性があるんではないかと指摘されていたからだった。そういう知識はあった。でもわからなかった。生きるってわからん。生きるって、わからんことをわからんままに、居切ることかもしれん。
2006.04.19
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このブログの結構初期に、「アイフル」の取立てニュースを取り上げた(ほとんど記事じゃないけど、こちら)。各地での訴訟や、近畿財務局の処分を受けたことも手伝って、社会問題化しそう。読売で取り上げられていた。しかし、記事でも触れられているが、「アイフルの違法取り立ては長らく指摘されてきたが、CMで優良企業とのイメージが先行していた」という指摘は、留意に値する。われわれは、どうしてこうもイメージに騙されるのだろう。
2006.04.15
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ええと、「雛形」通りに行いますが(笑)、前回紹介しましたが、青森県六ヶ所村の核再処理実験の中止と計画の凍結を求めるネットワーキングに参加します。そして、皆さんの参加も呼びかけます。「『STOP!再処理』ネットワーキング」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~昨日は、賛同にあたってちょっと勉強するかもと書きましたが、「そぞろ日記」さんや「Watermark」さんを見に行ったら、いろいろとサイトが紹介されてて、大変勉強になりました(笑)。皆さんも見に行かれることをお勧めします。まあ、一応、こんなのも貼っておく方がフェアかもしれんので、【日本原燃HP】→ http://www.jnfl.co.jp/【日本原燃の説明会結果】→ http://www.jnfl.co.jp/wrestle/index.html【日本原燃発表のトラブル情報】→ http://www.jnfl.co.jp/daily-stat/200603-month/recycle-trouble.html【文科省の関連ページ】→ http://www.nucmext.jp/【文科省の関連のリンク集】→ http://www.nucmext.jp/links/index.htmlまあ、いろいろと推進側の意見を汲み取ってもみたわけです。で、感想としては、安全だと言うには偉い複雑な対策を採っており、これだけ事例を予測しているから安全なんですと言わんばかりだが、おいおい、逆だろ。むしろ、誤操作対策で貼られているステッカーとか見ると、かえって不安だぞ。事例多すぎるんだよ。それを現場の人間が対応するのに覚えておくことは不可能だろ。しかも、オープンなイメージにしようとして、トラブル情報の公開をしているらしいが、その程度の失敗が頻発してるとなると、まじで不安だぞ。「従業員の資質向上」を「安全対策」に入れられると、本気で不安なんですけど。。。えらく人のスキルに頼った運用になっていて、ダブルチェックをするだとか何だとか言ってるけど、企業でそういう部門にいた方はわかるんじゃないかね。そういう現場に寄りかかった運用では絶対に失敗は起こるって。また、文科省のとこから辿れるリンク先では、他国とトラブル比較してくれてるんだが、この国のトラブルが相対的に少ないって言いたいようだが、「原子力は危険なんです」って言っているようにしか聞こえんぞ。かたや安全と言って、かたや対策万全と言う。うーむ。危険なんだろ。安全に扱うしかねーんだろ。でも、それが結構複雑にしなきゃならねーんだろ。しかしまあ、昨日も書いたが、これらに反対したい理由は、原子力行政全般への不信にもある。プルトニウムの廃棄場所もいまだ決めずにいる状態で、他の代替エネルギーよりも、これを推し進めたい理由は、他のところにあるんじゃないかと疑っているからだ。結論ありきの決定には文句を言いたくもなる。他の原子力「先進」国は、皆核保有国だもんな。(まあ、どっちでもいいけど、日本の今後の経済発展予測から考えても、パワーポリティクスに参加するって戦略は、リアリズムとしてだってお粗末だよな。)まあ、それよりも、アメリカへの提供って可能性って確かにあるよなぁ。いろいろ書いたけど、やっぱり「そぞろ日記」さんさんや「Watermark」さんの方が役に立つな(苦笑)。というわけで、皆さんにも再度参加を呼びかけます。「『STOP!再処理』ネットワーキング」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~■参加ネットワーカーズブログで囲もう! 浜岡原発http://blog.livedoor.jp/iseley/archives/50031096.html billabonghttp://www.mypress.jp/v2_writers/wallaby97/story/?story_id=1381911越佐の海峡bloghttp://blog.goo.ne.jp/turugasone/e/c305e4c753559acda4fdea44026e0f4d*ぱいなっぷりん*http://blog.goo.ne.jp/sos-pine/e/cf92858dc9ee9b9de8249054683ec9a8ISL・六本木だよりhttp://blog.livedoor.jp/isl/archives/50530555.htmlきくちゆみのブログとポッドキャストhttp://kikuchiyumi.blogspot.com/2006/04/blog-post_114465965947537268.html絶対毎日書かない日記http://lulu2004blog.seesaa.net/article/16390926.html六ヶ所再処理工場を止めろ!!http://ameblo.jp/sos-from-earth/entry-10011165033.htmlWatermarkhttp://d.hatena.ne.jp/umkaji/20060409IZAYOI吐露遺跡http://saitoro.seesaa.net/article/16361461.htmlアングラな魚日記http://macoco.at.webry.info/200604/article_7.html★電気猫のフォトBLOG(ネパール・神戸・地球)★http://blogs.yahoo.co.jp/electric_cat2003/31359871.html SENZA FINE http://senzafine.livedoor.biz/archives/50395679.html
2006.04.11
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以前、地域住民投票が行われたときに、その結果を考慮するのが嫌だった自民党の阿呆議員が、住民投票にばかり従っていては「代議制の本旨に反する」みたいなことをのたまった。俺が驚いたことは言うまでも無い。代議制の正統性についてどのような持論をお持ちなのか知らないが、われわれは「民主主義」を求めており、それを達成する手段として(少なくとも)二つの選択肢を持っているに過ぎないはずだ。直接民主制と間接民主制(代議制)である。そういえば、俺もおバカな人間に「日本は代議制の国だ」なんて嘘を教えて頂いた記憶があるが、おいおい、じゃ、憲法95条はどうなるんですか? あるいは、憲法改正の国民投票規定はどうなるんですか?頭の悪いやつほど、自分の理解できた範囲をまるで全てかのようにのたまふ。ともかく、われわれが求めるのは、民主主義であって、決して制度としての代議制ではない。こんなこと当然じゃないか。そもそも、最もその問題の当事者たる地域住民の意見を反映しない意思決定が、どういう論理で「民主主義」を名乗ることができるんだろうか?われわれが国会を置いて代議制を採るのは、日々の仕事や生活に忙しく、皆がすべての意思決定に物理的に参加できないからだ。だから、暇なやつらに任せてるんじゃないか。お前等「先生」とか呼ばれてるが、「公僕」であることを忘れんなよな。 ■■ところで、世論なるものがある。これは、いったい何なんだ?“みんなの”意見、だろうか?しかし、こういうのが国政の意思決定に影響するっていうのは、場合によっては考えものだよな。それこそ、他人事主義の典型になり勝ちじゃないか。前にも書いたが、テメーに火の粉が降りかからないとわかると、「みんなのことを考えろ」と言い出す阿呆の意見になり勝ちだ。基地とか、原発とか、隣に住めるやつが賛成するべきだ。エネルギー政策に関しては代替案の可能性が十分あるのに、原発に賛成できるやつは、ただのバカか放射能汚染が大丈夫な特異な身体を持っているかどちらかじゃないのか。国立がんセンターが、平成9年以降、癌罹患率の地域別データを発表していないのはなぜ?なんかのデータだと、青森県の乳がん罹患率は大分上がってたぞ。ともかく、俺は放射能を浴びるのは嫌だし、原子力政策において注ぎ込んできた研究費支出を他のエネルギー創出の研究にあてることをしないで、原子力しかありませんとか言うのは、本当の意図が他にあるからに違いあるまい(この前TBもらった晴耕雨読さんの記事参照。こちらも。)。核保有なのか、それともアメリカへのプルトニウム提供なのか。俺には愚かに思えるが、外交上核保有したいという考えであれば、つまり、そこまで(自分の利益を捨てるくらいまで)この国のことを考えるのであれば、まず六ヶ所村に移住して欲しい。「みんなのこと」を考えられる人間から、率先垂範でお願いします。俺は、現代民主主義の本旨は、代議制なんかじゃなく個人主義だと考えているので、放射能を浴びるのが嫌だという意見を尊重するべきだと考えているが如何。ところで、「STOP!再処理ネットワーキング」という六ヶ所村核再処理工場のアクティヴ実験中止と再処理計画の凍結を求める運動がスタートしている。俺は、政治的にもこの決定はおかしいと思っているし、説明責任という手続き的にもおかしいと思っているし、さらには、放射能を浴びる可能性を作り出しておいて、青森のことだからいいや、という他人事主義もおかしいと思っているから、もちろん賛同する。正式の賛同宣言はまた書く(ちょっと勉強するかも)。てなわけで、皆さんも関心を持ってください。お願いします。
2006.04.10
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畑正憲『人という動物と分かりあう』(ソフトバンク新書)■「バカに本を売れ」出版業界の矜持が失われて久しいが、ひどい出版社がまた現れたものである。だめな政治が続いて小泉が現れたように、だめな出版が続いてソフトバンク新書なるものが現れた。これらに共通するのは、先人の「矜持」によって積み重ねられてきた「制度」が壊れ始めたときに、「そんな制度しらんよ」と言って居直り強盗のように現れていることだ。彼らにかかれば、「矜持って何ですか?」くらいの言葉は平気で出てくる。この書も、そのような酷い出版社の三流編集者をあてがわれたものの一つだ。この会社がだめなことは、シリーズの他の作品を眺めてみてもわかる。書き手は有名どころを揃えているが、少しでも中を覗いてみれば、この本を作るのに大した時間も労力も掛けず、編集者が編集者としての仕事を放棄したものだということがわかるだろう。書き手は、好きに書いているが、本としての体裁など整えられてもいない。恐らく、著者達の名前で売れれば良いと考えているのだろう。この会社は、出版の社会的意義よりもお金が儲かることを第一としているはずだ。社内会議での命令は簡単だ。「バカに本を売れ」。 ■垂れ流し原稿が本にそんなバカのひとりとして俺も本を買ったわけであるが、これを読み通したひとつの理由は、こうした出版社を告発し少しでもまともな出版状況を願っているからであり、いまひとつは、それでもムツゴロウ氏に聞きたいこともあったからだ。しかし、結果として得られた情報は満足の行くものではなかった。この本におけるムツゴロウ氏は、動物との触れ合い経験のデータから仮説を導くというアプローチを採っておらず、もっぱら世の中の研究成果を自身の動物との経験の内にも見出し、二番煎じの言説を生むというものであった。これでは学術的には周知のことを、動物の例を使って繰り返す本ということにしかなっていない。残念なことだが、タイトル「人という動物と分かりあう」にも、三流編集者のつけたであろう帯の説明ムツゴロウ流「人間論」にも、内容が及んでいない。だが、さらに酷いのは、本の構成である。伝えたいことがはっきりしていなければ、コンセプトもよくわからない。ムツゴロウ氏から送られてくる原稿に文字校正を加えただけで本にしてしまったような代物だ。担当編集者は編集者の仕事というものをわかっていないのだろう。彼に「矜持」を語っても、たぶん通じまい。■本をバカにする編集者もちろん、ムツゴロウ氏にも責任はあろう。だが、それはこの出版社を選らんだという一点につきる。この本の失敗の大部分は間違いなく編集者に帰される。というのは、このような新書レベルにおいては、著者の役目は知識の一部を提供することにつきるからだ。それを一般の視点にたって企画し、わかりやすく構成立て纏めるよう方向付けるのが編集者の役目である。著者が書けることと、世の人間が知るべきことの間に接点を見出し、著者に働きかけ、励まし、良い仕事を後世に残そうとするのが、編集者の矜持であったはずである。この本は、その編集者の役目が全くと言っていいほど果たされていない。そのためほとんど本にもなっていない。なにやら目新しい装丁の新書に「畑正憲」という文字と、帯には馬と一緒のムツゴロウ氏の写真を載せる。この三流編集者がやったのは、「バカ」を騙し売るための仕掛けだけである。この編集者は本を読まない人間よりも、本を馬鹿にしている。■目的の無い書きもの内容にも触れたいのだが、先述したように、コンセプトも何もなく、ただ文章を垂れ流しただけになっており、これがどのような本なのか伝えるのは容易ではない。なにしろ、「まえがき」も「あとがき」も無いのだ。つまり、この本には著者=編集者の「狙い」が無いのである。そのことをご理解いただいたうえであれば、俺にも少しくらいは紹介ができる。ムツゴロウ氏がこの書で強調するのは心=脳である。それがホルモンやアドレナリンの分泌によって行動に変調を与えると。ここまではわれわれの知っていることである。そして、心は簡単ではない、と言っているように感じられる。「感じられる」というのは、紹介者としてはいささか情けない書き方なのではあるが、これはどうしようもない。そういう本なのだ。子育ては簡単ではないよと。あとは、自身の経験を垂れ流しているだけだ。俺の読書力では、その垂れ流しの経験が「何のために」書かれているのかも理解できなかった。■この本はいったい何だったのだろう俺の読書力のことを棚に上げて言えば、この本は良いところ質の悪いエッセイであり、最悪の場合、目的の無い「報告書」である。本屋に行ってみればよいだろう。立ち読みでも十分理解できる本だ。なにせ、最後がこう締めくくられる。相談室への出席が百回を超えたら、私は具体例を並べ、私なりの分析を加えてみたいと思う。そのような、脳の外側からの観察は、脳の内側からの研究に役立つと信じているからだ。では、この本はいったいなんだったのだろう。この本はともかく、最後まで付き合わされた俺がマーケティングの対象とされた「バカ」であったことは間違いない。
2006.04.09
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ある老人の話を聞いた。その人は毎月3万円ほどの年金と、息子さんからの若干の仕送り、そして2万3千円の公的扶助とで生活していた。それが、この4月から公的扶助額が五千円引き下げられた。何の事前説明もなかった。月に100万円を貰う人間の五千円とは違う。これが「改革」の一環であることは言うまでも無かろう。方や、世の中は「景気回復」が言われている。だが、社会的弱者を切り捨てて行われる「景気回復」というのは、いったい何であろうか。社会的弱者への富の再分配が為されないのだとしたら、政治というのは何のためにあるのだろうか。そのような政治なら必要あるまい。この観点に立てば、国会議員の給料こそ税金の無駄遣いに違いなくなるのではなかろうか。そもそも景気対策は、社会的弱者へも富を分配できるように「パイを大きくしよう」という考えでなされて来たはずだった。それが、パイを大きくもせず、強者への取り分だけが増えているとしたら、それはもはや政治ではあるまい。社会的弱者を切り捨てての景気回復は、その物価上昇によって、弱者をさらに痛めつける。小泉の阿呆は、格差社会でも逆転があるというが、そもそもその「ゲーム」に参加できない層がいることを意図的に無視している。このような男が首相なのである。哀しい国ではないか。だが、哀しい哉、このような弱者の声はネットにも流れない。彼らは発言のメディアももたないし、その力もない。
2006.04.09
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更新しないのもなんなので。タンパク質消費せずに更新できるってことで、今回は成分分析。ヤピューでも取り上げられてたな。俺は、見回っているサイトで紹介されてるのをちょっと前にやってみてた。結構おもしろい。ここね。★足踏堂の成分★足踏堂の成分解析結果 : 足踏堂の82%は宇宙の意思で出来ています。足踏堂の12%は玉露で出来ています。足踏堂の2%は苦労で出来ています。足踏堂の2%はカルシウムで出来ています。足踏堂の1%は純金で出来ています。足踏堂の1%は食塩で出来ています。ほとんど宇宙の意思です。はい。ちょっとお茶の風味です。★俺の通称(ひらがな)の成分★~の成分解析結果 : ~の93%は祝福で出来ています。~の5%はハッタリで出来ています。~の2%はスライムで出来ています。結構、当たってる感じ。スライムってなに・・・?ところで、ちょっといろいろ勝手に人の名前を試したんだけど、一番笑えたのがやっぱりrenqing氏だった。★renqingの成分★renqingの成分解析結果 : renqingの93%はむなしさで出来ています。renqingの5%は勢いで出来ています。renqingの2%は魔法で出来ています。ほとんど、むなしさって。。。renqingさん、勝手にネタにしてすいません。しかし、笑えます。
2006.04.03
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