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この書には、今まで見てきた四つの章に加え、「むすびにかえて――「愛国」の彼方に」と「あとがき」が付されているが、そこには、姜氏自身のことが記されている。ところで、氏には『在日』という自伝があり、以前一読してえらく感心したときのことを思い出す。本書を締めくくるこの二つにも、氏のそのままが顔を出していて興味深い。学者としての書ではなく、やはり、姜尚中その人が書いた書なのだと思った。以前、氏と会って話したときに、同学のため、たまたま専門の話になった。そのとき「僕はタレントですから」と謙遜して語られた氏のことを思い出す。テレビに出、論文よりも「顔」として存在する氏へ、同門の学者から批判があることはあまり知られていないかもしれない。しかし、氏はそれを重く受け止めていることが俺にはよくわかった。「門下の鬼子」とよく氏は書いているが、それは、氏が学者としての生としてでなく、一個の生として語ることの意義の方を選らんだことの自覚なのだろうと思う。世には、氏のような「パーリア」的状況を出自としている人たちがいる。このような少数者は、マジョリティには気づかれない。「普通」という言葉が、このような人たちにどれほど重く圧し掛かるかにも気づかれない。多数派には、何よりも、気づかないで済むという特権が与えられている。人は自分が多数派であるうちは、そのことを自覚しようとしないのかもしれない。たまたま、自分がこどもを産めない身体であることを知ったり、たまたま、自分に親の片方もしくは両方がいなかったり、たまたま、自分の認識する性が身体のそれとずれていることを知ったり、たまたま、自分が恋愛対象にするのが異性でなかったり、たまたま、身体に障害を持ってうまれてきたり、たまたま、自分が日本に生まれながら日本人でないことを知ったり、たまたま、生まれてきた場所が差別される場所であったり。もし、それらのことを隠さなければならないとしたら、この国は他者の気持ちを理解できない多数派による「こどもの国」ということになるだろう。しかし、状況はそれを公にできないような空気がまだまだ支配している。そして、そのような「こども」たちが「愛国」を言うことに、本当に驚き呆れる。▽むすびにかえて――「愛国」の彼方に 「愛国」や「愛国心」という言葉が氾濫している割には、内面から突き上げてくるような理想がほとんど消え失せているのではないかということです。 先ほど紹介した竹越与三郎の『人民読本』の最後の章は、「日本国民の理想」になっています。明らかに竹越にとって、「愛国心」を語ることは、国の理想を語ることに等しかったはずです。 戦後も六〇年、現在の「愛国」のうねりの中で全く杳としてその姿が見えないのは、「日本の理想」です。(p.192)どんな国にしたいのか、そういった理想がなければ真の「愛国」足りえないと、筆者は語る。本当にそう思う。愛するというのは、相手に対する責任を持つことであって、それはただの言葉ではないはずだ。そして、国を愛するがゆえに、為政者に対する監視も厳しくなるはずだ。▽あとがき 「愛国」が本来、「パトリア(郷土)」への愛に他ならないとすれば、凄まじい勢いで荒廃の一途を辿りつつある地域の再生こそ、まず「愛国」が取り組むべき課題に違いありません。 かつて下筌ダム建設予定地に「蜂の巣城」を作り、国の治水事業に徹底抗戦した室原知幸氏の言葉がわたしの耳朶に今も残っています。「日本という国はなあ、大の虫を生かすために小の虫ば殺してきたとたい。ばってん、小の虫にも何分かの魂があるとばい。それば見せてやりたか」(pp.203-204)このことは、オリンピック誘致合戦において氏が福岡市を応援した理由につながっている。わたしが今度、二〇一六年夏季オリンピック誘致に向けて福岡市を応援したのは、東京という膨張するメトロポリスに対して、地方の中核都市が戦いを挑むことに共感を覚えたからです。国威発揚的な巨大都市の世界的なイベントには、やせ細っていく地域=郷土への共感など微塵もありません。小の虫の犠牲の上に成り立つ大の虫の饗宴、それが「第二次東京オリンピック」のイメージです。(p.204)この辺のことで、石原とかいう汚い顔をした都知事が、姜氏に対して、顔ほどではないにしても汚い言葉をはなったことはニュースでも取り上げられた。当時それへの姜氏自身の反応は聞かなかったが、この書の最後にさらっと書いている。(恐らく、本書自体において取り上げるには、レベルが低すぎたからだろう。)都知事のわたしに対する誹謗中傷をあらためてここであげつらうつもりはありません。ただ、「愛国」気取りの彼の言動こそ、実はかつて室原知幸氏が終生を賭けて抗い続けた「大の虫」の傲慢さではないかとおもうのです。「金持ちの、金持ちによる、金持ちのためのオリンピック」、それを国家プロジェクトだと言ってはばからない「愛国」とは一体何でしょうか。いささか牽強付会かもしれませんが、「怪しげな外国人」という「パーリア」的状況にあるわたしこそ、実は彼よりもはるかに「パトリオット」ではないかと内心自負しています。(p.205)本書への書評は、いずれ書くかもしれない。
2006.11.26
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少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。(伊丹万作「戦争責任者の問題」『伊丹万作全集』1)「私はこの戦争に反対する。なぜなら、わたしはパトリオットだからだ。わたしはアメリカを愛する。アメリカの憲法を愛する。だからこの戦争に反対する」(スコット・リッター)更新を忘れていたのは、他の活動においても少しばかり、この容量の少ない脳を使う場面が生じていたからで、その間、訪れていただいた方にはお詫びを申し上げます。コメント、TBを貼っていただいた方にも、何のお礼もせずに時宜を逸してしまいました。ごめんなさい。ところで、この間にも、人間活動たる政治は大きく動いていて、国内外ともに解決すべき問題が山積しているように思います。ですが、この国の政治家は、どうでもいい茶番を繰り返している。同じ党から違うことを言う二人を出して、世論の動向に影響を与えるというのは、ずっとあのアホ与党がやってきたことだったように思います。彼らは、ちっちゃな問題の方を世論化しようとしている。衆愚政治です。話は変わるが、この間のことで俺が個人的に残念なのは、密かに読ませて頂いていた優れたブログがいくつか閉鎖されてしまったことです。密かに、刺激を受けていたものが、密かに閉じるというのは、なかなか寂しいものです。▽1何が問題か「おろかな国に生まれたものだ」――これが、敗戦の時、愛国を咆吼していた一兵卒(*司馬遼太郎)を襲った感慨でした。(p.124)司馬とほぼ同じように丸山眞男も、黎明期の近代日本という国家に宿っていた「健全さ」がどのように食い荒らされ、目を覆うばかりの「体制のデカダンス」に転げ落ちていったのか、その痛ましい歴史に光を当てました。(p.125)いずれにしても、司馬と丸山が、その戦争体験や戦後の歩み、その専門とする職業を違えていたにもかかわらず、凡百の「愛国者」よりも抜きんでて「愛国的」であったことは間違いありません。その彼らにして国に対する深い絶望と猜疑を抱懐しながら、なおかつ日本という国への愛着を鍛え上げていったことに瞠目せざるをえません。(p.126)司馬と丸山が、ともに明治前期の日本という国家に見いだした「政治的リアリズム」の認識だけは、しっかりと確認しておくべきです。それは、国家をめぐる政治と倫理、権力と感性の問題について透徹したリアリズムの感覚が息づいていたことを示しています。愛国もまた、そのようなリアリズムの上に実感されていたわけです。(p.127)階級的基盤すら持ちえない、これらの大衆に訴え動かすことができるのは、もはや具体的な政治状況ではありません。それを可能にするのは、「歴史的瞬間なるもの一般にのみ対応するきわめて概括的なスローガン」に他ならないのです。「国家の品格」や「国家の大儀」あるいは「美醜の感覚」や「美しい国」など、何と茫漠とした大味のスローガンではないでしょうか。そこには、具体的な政治状況に対応する具体的な知恵や方策は何も語られていません。それは、政治的リアリズムの欠如の裏返しに他ならないのです。(pp.141-142)リアリズムがない。本当にそう思う。政治家にもなければ、何より、それを選挙で選ぶ国民にリアリズムが無い。自身の生活基盤を掘り崩すことを、改革のスローガンのもとに賛成する愚かな者。多分彼らには、後悔も無いのだろう。「ノリ」だけがすべての動物的行動。政治をしたいのではなく政治家をしたいだけの、おろかな新人候補者たち。多分彼らには、後悔すら一生訪れないだろう。▽2「愛郷」と「愛国」 実際、先ほど紹介した『美しい国へ』の著者はこう述べています。 若者たちが、自分たちの生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつようになるには、 教育の現場や地域で、まずは、郷土愛をはぐくむことが必要だ。国にたいする帰属意識は その延長上で醸成されるのではないだろうか。(安倍『美しい国へ』) この著者の頭の中では、「国家は、自分の家族といふ如き自然的愛情の直接の対象ではなく、実は人間の感覚や経験を超えた抽象的なものであって、想像力に頼らなければ、これを具体的に掴むことはできない」(清水幾太郎『愛国心』)ということがほとんど忘れ去られているようです。(p.144)俺は常々思うのだが、一部のナイーブな人たちが信じるように、愛国心と愛郷心が本当に連続しているのであれば、昭和の戦争は、もっと反対の言葉が出て良かったものであったはずだ。だが、実際は、冒頭に掲げた伊丹の言葉からもわかるように、集団洗脳的に、一気に国を愛するという抽象的なことがらへと向かわせた(具体的にどうすることが愛することかも考えずに)。守るべき人のために戦うだ? なら、その人を本当に守れる方法に頭を使え。アホウな戦争に与することが、本当にその人を守ることになるのか、考えろ。▽3「国民の〈善性〉」と「愛国」 首相の靖国参拝が、内外の重大な問題として浮上してきたとき、国民の中には次のような素朴な反発を感じた人も多かったのではないでしょうか。 なぜそんなにわたしたち日本国民のことを「悪く」言うのか。どうして国事に殉じた戦没者(主に戦死者)に国民の代表者が哀悼の意を捧げてはならないのか。なぜ戦後、日本の国民は新しくやり直そうと努力してきたのに、それを無視するような外国のいわれない非難を浴びなければならないのか。あらましこういったわだかまりの感情を含んだ反発心が頭をもたげているのではないかと思います。(p.161) (*靖国神社が、)戦場とはとうてい言えないような場所での殺戮に伴う死者や、あるいは栄ある戦場であるのか、恥ずかしい戦場であるのか、その区別もなく、しかも実際の戦闘で亡くなったのか、餓死や病死なのか、その違いもなく、すべてみな死者を同等に「戦没者」として扱っていることは注目に値します。 つまり、ここではこれらの「死者たち」の死は歴史的に「正しかった」のか、「誤っていたのか」、その問いから完全に切り離されているのです。この切断は、言うまでもなく、「死者たち」をすべて「献身的な犠牲者」として位置づけることで達成されます。つまり、「国のために死んだ」(National Death)という一点において、「戦死者」はすべて「単色の純粋性」の中に回収されていくわけです。(p.165) しかし、もしアンダーソン(*ベネディクト)の意地悪な思いつきに倣って、念入りな調査の後に、祭神名票の名前のうしろにその「祭神」が殺した個々の名前と数を付け加えることになるとしたら、どうでしょうか。もちろん、「英霊」を冒涜(*原文旧字)するふとどきな悪行として猛烈な非難を浴びるに違いありません。 にもかかわらず、そうした事実がもし明らかになれば、犠牲者は同時に殺人者になり、加害者になります。もちろん、赤紙一枚で戦場に駆り出された一兵卒は、被害者でもあります。 だが、すべては献身的な犠牲者の一点でみな平等に「英霊」として合祀されることになるのです。その限りで、アジアの戦地に倒れた戦死者たちに人々が涙を流すように促されているのは、亡くなった二百数十万の「日本人」を思ってのことであって、彼らの一人ひとりがそれなりの役割を果たした大量殺戮や戦闘で殺された膨大な数の韓国・朝鮮人、台湾人、中国人、マレー人、ヴェトナム人などではないはずです。(p.166)ナイーヴな〈善性〉というのは、面白いもので、いろんなところに見いだされる。うちの子はいじめなんかしません、みたいな言説。そこには、自分(に関するもの)は悪くないはずだ、というこども的自己愛が見いだされる。戦場に関する話は、体験者に聞けば、だいたい愚かな上官の話が出てくるが、ナイーヴな愛国を言う者たちは、自分がそちら側の「嫌な奴」になる可能性をきっと考えてもいないんだろう。そして、それに考えが及んでいない時点で、最も「嫌なやつ」になる奴らなのだろうと思える。ナイーヴな愛国を言う者たちの顔が、大人の顔をしていないのは、自分の生に対しても責任をもてない奴らだからなのだと最近思ったんだが、すべてはやっぱりつながっている。引用はしなかったが、この節、石橋湛山のようなリベラル保守を引き合いにだしながら、政治的リアリズムを持った保守の蘇生を願っている。二世三世議員の「お子様保守」はそろそろご退場願って、本当の保守に出てきてもらいたいものだと、俺も思う。▽4「愛国」の努力 「愛国」には絶えざる「努力」が必要なのです。その「努力」は、時には生身を引き裂くような激しい相克と葛藤を自我の内面の中に抱え込んでしまうこともあるはずです。 竹越(*与三郎)は、明治の人らしく、「愛国」を「忠義」と言い換えています。しかし、分別のない「忠義」、分別のない「愛国心」は「却つて国家の目的を過つを免れず」と述べています。しかも、「国家の喪失」があるならば、「起つて」(決起)それを匡せと勧めているのですから、言ってみれば、場合によっては国家に「反逆」せよと述べているのに等しいのです。(p.186) そしてそれ(*「ポストモダンの酩酊状態」)が潰え去ったとき、急激な勢いで「愛国」の大合唱が起こるようになったのです。そこに「『忠誠も存ぜざる者は終に逆意これなく候』というパラドックス」を見る思いがしているのは、わたしだけではないでしょう。「国家や自らがそのなかに住む共同体を一定の規範に従わせ、国家や共同体に道徳的な願いを抱く」ような「愛国」は、そのような画一的な同調主義の中では育つことはないのです。丸山が『忠誠と反逆』を通じて言いたかったのは、そうした「愛国」だったはずです。(p.190)本当に自分のこととして「責任」を持つのであれば、ただのコンフォーミズム(同調主義)になるということはありえないはずだ。自分が責任を持てば持つほど、文句も出すし、過去にも厳しくなるはずだ。そうして考えれば、ナイーヴな「愛国者」たちは、本当のところ「全く愛国的でない」と言っていいのではないだろうか。次回は、やっと最終回。
2006.11.25
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