日記はこれから書かれるところです。

日記はこれから書かれるところです。

2005.10.02
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いくつかの事象が情報として並立し、俺は人間らしく並列分散型処理を行う。

並列分散型処理の欠点は、そのサンプル次第で中央値が変わることであり、それを認識すればこそ、次の二つが肝要になる。

・多くの意見を自らのフィルターに通すこと
・直列処理として論理を大切にすること

これは「ふたつで一つ」であり、どちらが欠けてもいけない。


いくつかの重なり合う事象を、整合性を持って定位させるために、俺は最大の情報処理機関である「脳」のために、サウンド・スリープを自分に課す。

ふたつを一つにする儀式だ。

こうして俺は再び筆をとる気になる。


あとは表現の苦しみを経験するだけだ。
この百戦百敗の行為こそ、<われ>と<われわれ>をつなぐ。

負け続けることこそ正しき道。

我、未完の革命をゆく。


■ちっぽけな議論

憲法を「押し付け」だからおかしいというちっぽけな議論がある。
ウンコみたいな議論で取り上げることも無いと思っていたし、ちょっと考えれば、それを大声で言うのが、誰でも恥ずかしく感じるような代物だとわかると思っていた。

表層においては、それは正しく、最近、大声で言う者はいなくなったように思う。
しかし、どうも根本問題として、あるいは心情の問題として、やはりよく理解できていない層がいることは事実なように最近思うようになった。

そこで、そうした整理を行い、さらに新たな解決への道として「未完の憲法革命」論を紹介することにする。


■「押し付け」って何だ

日本国憲法よりも後に誕生した俺には「押し付け」の意味がまずわからない。
というよりも、どんなものであれ、俺にとっては、それが俺に先行する限りにおいて、「押し付け」である。

GHQからの「押し付け」はダメで、前世代からの「押し付け」であれば受け入れられるといったような、何とも知的誠実さを欠いた議論には辟易する。

まあ、でも結局、そこに行き着くんだろう(だから、これは後で取り上げる)。

ひとまず、俺の結論としては、「押し付け」だからダメというのは、知的誠実さを欠いているか、知的体力(思考力)が無いことを公言しているに過ぎない、ということだ。


▲間奏曲

今回こんな議論を行わなければならないのは、つまり、こういうことだ。

ある程度ソフィスティケートされた改憲論は、多くの著作等で知ることができた。そして、それがどちらかというと現実の思考枠組みによって支えられた、ある種妥当なリアリズムであることもわかっている。

そうした(根拠がリーズナブルな)議論枠組みにおける議論にはついていけるし、それに対するオルターナティブも挙げることができる。

しかし、その種の議論とは別種の、人権後進国的イデオロギーに支えられた(ある種の破滅志向な)議論があることに最近気付いたのである。


■アイデンティティ?

人権後進国的イデオロギーと呼ぶのは、「日本人なら靖国に参拝すべきだ」といった言説として表象される。

「靖国」と改憲論がその地平において融合するわけである。
そういう(知的誠実さを欠いた)素朴な改憲論と、素朴な「靖国」擁護論が、同種の人たちから語られるのは偶然ではない。

さらにいえば、その種の議論は(大沢真幸に言わせれば「先祖」を第三者の審級としており)、「日本人」という枠組みを絶対的なるものとして必要とする(そして困ったことに、それは単に国籍を持つという意味とは違う)。

これが「日本人のアイデンティティを探る」といった、絶対的に不毛な議論を必要とする理由なわけだ(誰も答えを提示していない)。


■文化論?

明治期に作られたものが日本を表すという時点で、普通ならおかしいと思うはずだが、「素朴な日本論」者は明治期からのものが日本を表していると本気で信じているようだ。

少し耳を傾ければわかるが、平安や江戸の庶民文化に関しては、急激に言及が減る(これは『新しい歴史教科書』を読んでもわかる)。
どうも、自分たちの「素朴な日本像」を表すのに適当でないらしい。

そして、もっと困ったことに、そうした「素朴な日本論」者たちの理論的支柱であった佐伯啓思が、文化の非連続性(つまり、「素朴な日本論」は明治期につくられたフィクションであること)を認めてしまっている。

つまり、文化論として「日本人なら~だ」というのは、不可能だということを、佐伯が認めてしまっているわけだ。

すると、「素朴な日本論」者に残された道はいくつかに絞られる。


■「伝統派」素朴「日本論」者の残された道

文化論としての「日本人なら~だ」が不可能であるなら、一つの方法としては、政治論としての「日本人なら~だ」を形成するしかない。
現代の「素朴な日本論」者たちは、理論的裏づけを欠いたままに、そうした活動を行っているともみることができる。

しかし、政治論であるなら、それは超越的に誰もが守るべき理論にはなり得ず、「靖国」が政教分離原則に違反するのと同じ理由で、個々人への強制力はないはずだ。
どんなに頑張っても、近代政治の絶対的徳(価値)である個人主義の原則と相容れない。

そうであれば、結局最後に残された道は、「つくる会」会長の八木秀次が述べるような、「反立憲主義」しかない(流石に学者だけあって、論理を詰めている)。


■反立憲主義

つまり、この立場は、個人の自由・権利に最高の価値を置かないということである。
八木の著作『反「人権」宣言』は、まさにそのことを語っている。
残念なことに、立憲主義の伝統にNOというのだが、具体的な反論となる社会構想を示していないため、俺の能力では、これ以上の議論はできない。

ただ、言えることは、「素朴な日本論」の行き着く先は、個人の権利・自由を否定する(最高の価値を置かない時点で、否定していると言える)ということだ。

こうした権利・自由の価値に守られる必要が無いと思っている人間だけが、与することのできる思想と言える。


■さらに素朴な議論

先に挙げた佐伯は、保守派の学者としてはそれでも立派で、アメリカ帝国主義に首尾一貫して反対している。
そして、その結果として、現状のアメリカ追従型の「改憲論」に慎重姿勢を採っている。

だから、保守でもリベラルでも、知的誠実さのある人間であれば、ある程度の議論を交わせるわけである。

しかし、現状一番の問題は、知的体力の無い「頭の悪い保守」たちが、論理的な詰めもせず、無責任に元気な勢いで、「改憲」を叫んでいることである。

これは、誰かが言うように、現状に対するカタルシスとしての改憲論なのかもしれない。


■カタルシス=うんこ

カタルシスとは「排泄」のことである。
カタルシスから語られる「素朴な改憲論」や「素朴な靖国論」は、語源的正しい意味において、「うんこ論」なのである。

頼むから、うんこはお家でしてください。

人様の前で、見せるもんじゃありません。



■忘れてた紹介

ほぼ結論に至ってしまった。

「未完の憲法革命」論の紹介はまたにする。

ちょっと、こうしたレベルの低い議論の最後に紹介するのも気が引けた。


参加を!





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Last updated  2005.10.06 23:43:45
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