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教える側として常に意識しておかなくてはならないことがあります。それは、集団指導は「成績の低い生徒に合わせない」というものです。成績の低い生徒は見ていてはっきり分かります。なぜなら問題が解けないのですから。問題が解けないということは分かっていないということとイコールです。指導する側はどうしてもできない生徒に合わせてしまいがちです。元々教えるのが好きで塾の講師をやっているのです。ですから分からない生徒がいたら教えたくなるのも分かります。実際、生徒の「分かるようになった」という声は私たち講師の原動力にもなっています。それでもなお、集団指導ではできない生徒に合わせてはいけないのです。なぜなら今度は「できる生徒」が置き去りになってしまうからです。できる生徒は置き去りになっていたとしてもあまり顕在化しません。例えば、定期テストで400点くらいを取る生徒がいたとしましょう。本人は400点を超えて満足しています。講師の側も400点を取っているのだから十分だろうと考えます。保護者の方も400点をキープできていればまあいいだろうと思っています。3者ともが満足して、どこにも不満を持つ人はいません。しかし、その生徒は本来ならもっと鍛えて450点を超えさせることができたのです。450点を超える力があるにも関わらず、400点ほどで満足するというのは、完全に塾側の怠慢です。450点を超えるかどうかは誰にも分かりません。だからこそ「できる生徒が置き去りになる」という問題は顕在化しないのです。誰も不満を持っていない、悲しむ人はどこにもいない、それでも塾の使命が「成績を上げること」であるならば、できる生徒の可能性を見出すことこそをやらなければならないのです。ちなみにできない生徒はどうするのかというと、授業のないときに塾に呼んで、1対1で横について徹底的に教え込みます。ほったらかしにするなんてとんでもない。横について分かるまで教えます。ただし、「集団指導の場」でそれをやってはいけません。できる生徒の時間を奪ってしまうことになるからです。できない生徒は呼び出して、横について教えます。しかし、そのことを「できる生徒」に対してもやる講師がいるでしょうか?つまり、できる生徒に対してさらにプラスのことを教えようとして塾に呼び出して補習をする講師なんてほとんどいないのではないでしょうか。できない生徒は見えやすい。できる生徒の可能性は見えにくい。だからこそ、集団指導はできる生徒を置き去りにしないように、できる生徒に合わせるべきなのです。
2014.07.09
「日本の英語教育は全然話せるようにならない」という話をよく聞きます。中学3年間、高校3年間と英語を6年間も勉強してきて、全然話せるようにならないじゃないか、と。実際、日本の6年間の英語教育で話せるようになる人は皆無に近いというのが実情でしょう。高校を卒業してからペラペラにしゃべれるという人は聞いたことがありません。それでは日本の英語教育は「ダメ」なのでしょうか?日本の大学入試問題は、「いかに正確に読み解けるか」を重視しています。例えば京都大学の入試問題などはほとんど「翻訳」の域に達しています。難解な文章をいかにきれいに訳し取る力を持っているのか、という点を試す試験になっています。それに連なる大学群も京都大学に習い、読解力を試す入試問題になっています。一部、青山学院大学などリスニングを課す私立大学もあるにはありますが、ほぼ全ての大学入試問題は英語読解力を試す問題になっています。それは当然でしょう。大学の研究といえば、英語の文献が読めなくては話になりません。世界の論文のほとんど全ては英語で書かれているからです。大学で研究するにあたり、英語を正確に読み取る力があるかどうかを大学側が入学の際に問うというのは理にかなったことなのです。大学の入試問題が英語読解力を試す問題であるならば、高校の指導内容も当然のことながら、読解に重きが置かれます。特に進学に力を入れている高校であればあるほど、大学入試に備え、読解の力をつけるようにということでカリキュラムが編成されます。そうなると当然、「話す」というスピーキングの力は二の次になります。今現在、大学の入試問題の性質を変えようという動きがあります。高校で「英語を話す力」がつかないのは大学入試問題のせいだということでしょう。今の中学2年生が高校3年生になる頃にはセンター試験が廃止されている可能性もあります。面接を導入して人物重視の試験にしようという話もあります。そうなると大幅な改編ということになるはずです。どんなふうになるのか想像もつきません。私自身、大学では英語系の学部に進学しました。入学当初は英語系の学部でありながら、周りは帰国子女を除いて、話せる人はいませんでした。なぜなら、高校までは「文法重視」で「読解の勉強」をしていたのですから。しかし、彼ら彼女らは留学に行き、短期間で話せるようになって帰ってきました。彼ら彼女らが言うには、「日本人は文法がきちんと積み上げられているから話せるようになるのが早い」とのことでした。最初は積極的なベトナム人やトルコ人に圧倒されるけど、最終的にきちんとした英語を話せるようになるのは日本人だと大学の教授も言っていたそうです。中学3年間、高校3年間の文法重視の勉強は決して間違ったことではないのだと思います。話そうと努力をすれば話せるようになるのですから。中高6年間でスピーキングの素地はしっかりと築かれているのです。ただ単に、日本にいては「話す機会がない」というのが一番の問題なのだと思います。話す必要性がないのに、話せるようにはなりません。そこが一番の問題なのです。大学入試を改革するのもいいでしょう。しかし、「文法」か、あるいは「スピーキング」かという二者択一的な考えで改革すると失敗する可能性が高いと思います。古き良き、日本の英語教育を残した上で、つまり、スピーキングの素地はしっかりと築きながら、さらに、プラスする形で会話の力を積み上げるような形であるならば、それは大歓迎です。ここから先はお偉いさんが考えることなので、私の意見は挟みませんが、今現在の日本の英語教育が「ダメ」かというと私は決してそうは思わないということです。
2014.06.13
先ほど「褒めるということ」という題で書きましたので、今度は「叱るということ」について書いてみたいと思います。塾という空間では当然のことながら、「褒める」だけではうまくいきません。「叱る」ことが必要な場面もでてきます。宿題を忘れた、遅刻をした、授業中の姿勢が悪い、そんなときには「叱る」ことも必要です。しかし、「叱る」にはルールを設けることも必要です。まず、一番大切なのは「結果を叱らない」ということです。テスト結果が返ってきて、その点数について「叱る」ということはしません。なぜなら、結果を叱っても何も変わらないからです。叱ることで点数が上がるならば、いくらでも叱りますが、点数について叱ったところで何一つ変わりません。そうではなく、過程で怠けていたら叱ります。目標点を400点に設定しているのに、目標点に到達するような勉強ができていない場合、そういった場合にのみ叱ります。テストを受けるまではいくらでも叱り、姿勢を正させてテストに臨ませます。その結果、返ってきた点数については、褒めることこそすれ、叱ることなどはまずありません。結果を見て反省すべきはこちら側です。これだけの点数しか取らせてやれなかったという悔恨の念にとらわれるだけです。他にもルールはあります。それは「同じ事柄で同じように叱る」です。例えば生徒が宿題を忘れたとしましょう。宿題忘れを叱ると決めたら、必ず叱るのです。今日は気分がいいから許してやる、今日は虫の居所が悪いので大声で怒鳴る、そんなことをやっていては生徒は混乱してしまいます。実は生徒は悪いことをしたとき、心のどこかで叱られることを望んでいます。思いっきり大声で怒鳴られることを予期しています。そして、大声で叱られてようやく心に整理がつくのです。それが、「あれ?叱られなかった」となると心の中の整理がつかないまま、不安定な状態を抱えてしまいます。ですから、宿題忘れは叱ると決めたら必ず同じ場面で叱るのです。つまり大切なのはこのラインを超えたら叱られるというラインを明確にすることです。そして、そのラインを生徒ときちんと共有することです。そうすることで、「叱る」という行動が大きな意味を持つようになるのです。他にもルールはあります。それは「感情を爆発させること」です。「叱る」ときには思いっきり感情を爆発させて叱るのです。これは「怒る」と言ってもいいかもしれません。もっと言うならば「怒鳴り散らす」という表現が適切かもしれません。それくらい感情を爆発させるのです。教育についての本を読むとよく「諭すように叱る」とか「笑いながら叱る」とかいろんなことが書いてあります。でもそんなことはできっこありません。怒りではらわたが煮えくり返りそうなとき、クールさを装って「叱る」なんてことはできません。有名俳優レベルになればできるかもしれませんが・・・。例えば私個人の話でいうならばカンニングを発見したときはその場でぶちぎれます。「てめー、ふざけんな、塾の小テストごときでそんなコソコソ卑怯なことするんじゃねぇよ、バカヤロー」くらいのことは言います。実はここで告白しますが、もうずいぶん昔の話で、私がまだ塾講師として働き始めたばかりのことです。中1の英語の授業を担当していたとき、ある女の子が単語テストでカンニングしていました。私はその行動を見て見ぬふりをしました。その後、その女の子は中学3年間と高校3年間、ずっと英語が弱いままでした。私があの時叱らなかったために、彼女はずっと英語が苦手になってしまったのです。もちろん彼女はそんなことは露ほども思っていないでしょう。しかし、私は今でも彼女のことを思い出すたびに、あの時叱ってやってればどうなったのだろう?と考えます。そうであるからこそ、私はカンニングを発見したときは全力で叱ります。まだまだ書きたいことはありますが、次を最後にしたいと思います。「行動を叱る」というルールがあります。例えば宿題を忘れたときには「バカヤロー、次やってこなかったら許さねぇからな」と怒ったあと、リセットしてカラッとした気分で授業をやればいいのです。それを「君はまた宿題を忘れたのか、勉強に対して甘く考えてるんじゃないか?そういう考え方だと将来社会に出てやっていけないぞ」なんて叱り方をしてはダメです。何がダメかというと行動ではなく人間性を叱っているからです。「宿題を忘れた」という行動を叱っていると同時に「そういう考え方」という人間性の部分にもダメだしをしています。そういう叱られ方をすると、生徒は自分のことを卑屈に考えてしまいます。叱るときは「行動」のみをメリハリをつけて叱るというのが大切なのです。さて、いろいろ書いてきました。「叱る」というのは本当に難しいものです。最後に一言だけ付け加えるならば、叱った後は必ずフォローを入れます。なぜ叱ったのか、どうすべきだったのか、後から必ず時間をとって話をします。そのフォローまでがセットになって「叱る」という行為が意味を持ってくるのです。
2014.05.31
創心館では「褒めて伸ばす」という部分に絶対的な信頼を寄せています。指導者の中には安易に褒めるのはダメだと言っている人もいます。しかし、創心館ではどんどん褒めることを推奨しています。褒められることが嫌いな人はいません。褒めて付け上がって努力をしなくなる人もいません。どんどん褒めればいいのだと思います。遠慮なく、少し大げさなくらいに褒めればいいと思います。生徒は実は褒められることに飢えています。特に勉強が苦手な生徒は今まであまり褒められるという経験をしていません。テストで高得点を取らないと褒められないのであれば、点数の悪い生徒はいつまでたっても褒められることはありません。そうではなく、小さなステップをひとつずつ褒めてやるのです。それこそ、「塾に来て偉いね」といった小さなことから褒めます。大人からすると、そんなのバカにしてるんじゃないの?と思うかもしれませんが、それでいいのです。「塾に来て偉いね」と褒められた生徒はまた褒められようとして繰り返し塾にやってきます。次は「集中して勉強して偉いね」と褒めます。たとえ集中しているようには見えなくても、そう言って褒めるのです。すると生徒はまた褒められようとして集中して勉強しようとします。同じように、「提出物を早めに終わらせて偉いね」「学校が終わってすぐに自習に来て偉いね」などとだんだんと褒めるステップを上げていきます。すると生徒はそれに沿うような形で成長していきます。褒められることが嫌いな人間はいません。褒められれば、また褒められるようにしようということで行動に変化が表われます。行動に変化が表われ始めると、今度は成績に変化が表われます。成績に変化が表われると、もうしめたものです。今度は自分で勉強をし始めます。褒められる、褒められない、そんなことは関係なく、自分の意志で、自分のために勉強を始めます。そうなると生徒の自己実現ももうまもなくでしょう。こんなふうに、最初は小さなことから褒めてやればいいのです。生徒を褒めすぎると、褒められるためにしか行動しないなんていう指導者もいますが、そんなことは断じてありません。確かに最初は褒められるためかもしれませんが、褒め続けていると、いずれは自分のために努力をし始めるのです。今日は少し時間があるので、もう少し詳しく書いていきましょうか。先ほどから「褒める」という言葉を再三使っていますが、創心館で考えている「褒める」とは正確に言うと「承認(アクノレッジメント)」というものです。「承認」とは「認める」ということです。「塾によく来たね」「集中して勉強してるね」「提出物に早めに取り掛かってるね」「学校帰りに自習しに来てるね」これらはすべて「行動承認」です。生徒の行動に気付き、そのことに気付いているよということを生徒に伝えるのです。そうすることで生徒は認められてると感じ、承認欲求を満たすことができるのです。もっと初期の段階では「存在承認」というものもあります。存在そのものを承認するのです。存在そのものというといわゆる「見た目」のことです。「お、今日はメガネかけてるね」「あ、髪の毛切ったね」「少し日焼けした?」「あれ?少し背が高くなったんじゃない?」日ごろから生徒のことをよく観察している指導者でなければこの「存在承認」はなかなか難しいのではないでしょうか?しかし、生徒にとってはこの「存在承認」は嬉しいものです。存在そのものに気付いてくれているのですから。さらには「未来承認」というものもあります。これは心理学の面でもあまり使われない言葉ですが、教育の世界では非常に重要なものです。子供たちの未来を認めてやるのです。「君は字がきれいだね。絶対に国語が得意になるよ」「計算が速いね。計算が速い生徒は数学が得意になるよ」こんなふうに、未来において、「大丈夫だよ」というメッセージを送るのです。この言葉だけで、生徒は自分は国語が得意だ、数学が得意だと思い、その科目で高得点を取ろうと努力します。「未来承認」は教育の世界ではなくてはならないものなのです。こんなふうに、創心館では様々な心理学的な側面もきちんと勉強した上で、「褒めて伸ばす」というところを指導の主軸に据えているのです。
2014.05.31
このブログ、中学校や高校の先生や、他の塾に勤めている方も見てくださっているとの話を聞きました。ありがたいことです。熱心に更新してきた甲斐があります。今後も日に3件を目標に更新していきたいと思います。宜しくお願い致します。ということで、今回は少し視点を変えて書いてみたいと思います。内容は教える側に立つ人に向けてです。創心館の指導力の中身を少しずつ公開していけたらと思います。さて、教育機関の絶対の命題は「成績を上げる」ということですが、その「成績を上げる」ために必要なことは何でしょうか。最も重要なもののひとつとして、「生徒のことをよく観察する」というものが挙げられます。授業中はもちろん、塾に出入りする瞬間や、自習の姿などもよく観察する必要があります。どのレベルまで「観察」すればいいのかの例を挙げますと、例えば中学生であれば、「この生徒はシャーペンの芯をよく折るなぁ。筆圧が強いのでシャーペンより鉛筆を使ったほうがいいのではないか」「今計算の途中で3回小さくうなずいた。何の計算をしているのか覗き込んだら18+3のところだった。もしかして19、20、21と頭の中で指を折りながら計算しているのではないか。」「ノートを綺麗に使おうとするあまり、筆算を隅っこに小さく薄い字で書いている、これでは計算ミスは一向に減らないぞ」「掛け算の筆算をしているとき、7×8で一瞬止まったかな。しちはごじゅうろくが一瞬で出てこないなら、九九が完全ではないのか」「授業中に消しゴムを落とすのがこれで3回目だ。授業内容を理解するのでいっぱいいっぱいで、他のところに意識を向けられてない。もしかしたらこの単元は補習が必要かもしれないな」一回の授業でこのレベルまで観察することが必要です。教える側は生徒に対して「集中しろ」とよく言いますが、同じように教える側も授業に集中する必要があるのです。講義をしているとき、演習をさせているとき、同じように集中して「生徒を観察する」ことが必要なのです。さて、今回の記事はここまでとさせていただきますが、イメージとしては創心館が新たに雇う講師の「講師研修」で話す内容といった感じで書いていきたいと思います。ブログのカテゴリは「教える側に立つ人へ」とさせていただきます。宜しくお願い致します。
2014.05.21
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